ダニューヴの花嫁
牧野信一




 白雲はくうんは尽くる時無からん、白雲は尽くる時無からん……白雲は──。

 おゝ、あの歌はどこの人がうたつてゐるのであらう、何といふ朗々たる音声であらうよ、その声がそのまゝ雲のやうだ、あゝ、あゝ、あれを御覧、あれを御覧、雲が〳〵〳〵……。

 そんなに思つて、うつとりと口をあけてゐると、みるみるうちに青空はるかに棚引いてゐる白い雲が、ハラ〳〵と雪のやうに飛び散つて、降つて来る! 降つて来る! こんこんこんと飛び散つて来るかと思ふと、私の眼蓋の上に来て、ほとほとゝ愛らしい音を立てながら小鳥のやうに羽ばたくのであつた──それにしても、その羽ばたきの触感が、冷たくも何ともなくて更に更に甘い睡気を誘ふのであつた……。

「面白い〳〵!」

 と私は呟いだ。

 ──夢から醒めた。

 私は、河畔かはべりの葦の洲の上で、一方の腕をたくみに水の上にのばせてゐる茱萸の樹の枝から枝へ吊つたハムモツクで、うたゝ寝の夢に烏頂天となつてゐた。

「はははは……こゝまで来れば、例によつて先生の風琴の音が聞えるだらう、そいつに勢ひを得て一ト息に矢の倉までのしてしまはうと思つてゐたところが、ぐつすりとおやすみぢや仕方がないや……」

「誰にしたつて、この陽気ぢや眠くもならうと云ふものさ、なあ兄さん──未だ、じぶん時には少々早からうが、俺らも此処であつさりと弁当をつかはうぢやないか。」

「さうだ〳〵──よういとまけ〳〵……」

 ありのまゝの言葉づかひにしては、あまり間のびがしてゐて、恰度この河の流れのやうに悠長すぎるではないか──だから、それも私は、夢の中の歌ぢやないかな? といふやうな思ひにうとうととしてゐると、間もなくギイツといふ舵をまげる音がして、やがて舟は舫杙につながれた。そして雪太郎と雪二郎がのこのこと私の下に現れた。

「やはツ! やつぱり左うだつたのか……君達の話声が、あんまり朗らかなので、僕は夢の中で天狗と散歩をしてゐたんだが、そいつがそのまゝ天狗の声と響いてゐた。はつはつは……麗らかな天気ぢやな!」

 私は、吊床に腰をかけて二つ三つ大きく揺り動かせながら、それと同じやうに大きくわらつて、ばさりと兄弟の前に飛び降りた。そして、ひようきんさうに鼻高のシラノのやうな見得を切つて、胸をひろげた。

「そいつは、どうも──」

 兄弟は同時に肩をゆすつた。

「折角の素晴しい夢をお騒がせ申して、何とも、いやはや申しわけがありませんでしたな、あつはつは……」

「一処に登らうよ。斯んなところで弁当を喰ふのも張り合ひがないと云ふものだ。」

 云ひながら私は、二人の間を割つて夫々の肩に翼のやうに腕をかけて歩き出しながら、脚もとの田舟を指差した。

「矢の倉まで行かう、風琴は持ち合さなかつたが、舟歌は一手に引きうけたぞ、ヘツヴ・ハウ、ヘツヴ・ハウ My heartful......sky wearing my solitary heart upon thy sleeve ……どんなもんだい。待つてゐたんだよ、彼処までたどり着けば、もう君達は今日は用事はないんだらう。ともかく僕は愉快なんだ。斯う天気が好いと、僕は、今、この場で息を引きとつても、さらさら心残りは覚えぬといふ位ひ、事ほど左様に僕はこの天気が愉快なんだよ。」

 そんなに愉快なのなら、昼寝なんかしてゐないでも好さゝうなものなのに──と聴く者の耳を疑はしめたほど、急に私は浮々として、おしやべりを続けながら猶予なく舟のなかへ飛び込むと、段々になつて積みあげてある米俵の頂上に馬乗りとなり、額に手を翳して、四方の景色を見渡しながら、

「もう春だな……」

 などゝ唸つた。

 その河畔の丘の上に私の部屋の窓がのぞいてゐたので、私達は何時もその窓枠に並んで手風琴を弾きながら、下を通ふ田舟と呼応した。

 ──だが私の妻君が、ひとまづ先へ都へ登つてしまつてからは、手風琴の蛇腹に風穴でもがあいたかのやうに、私は力が抜けて、そゞろに白々しく瑟々たる風に襲はれてゐた。

 だから、私は稍ともすれば河畔に降りて、友達が通りかゝるのを待ち伏せてゐるのであつた。中には私のさしまねく姿を見ると、艫おしの腕を急に速めて、せつせつと行き過ぎてしまふ舟もあつた。無理もないのだ。何故なら、うつかり私の甘言にさそはれて錨を降さうものなら、大事な弁当を分捕られてしまふおそれがあつたから──。

 こゝは車も通らぬ山坂の通ばかりで、河のみが往来ゆききの大通りに使はれてゐる私達の小さな竜巻村であつた。

 雪太郎は、うむうむと合点して舫纜を解くと、舳先に立つて竿を構へ、弟は艫の座席に着いて発動機のスヰツチをいれた。ランプほどの容量のエンヂンは、重い積荷のために水中ふかく姿を没してゐる推進器の翼を、水底に音を吸はせて、徐ろに廻転しはじめた。

「おや〳〵!」

 と雪太郎が眼を丸くして、汀に竿を突きながら私の窓を見あげた。「お宅の窓は明けつ放しぢやありませんか?」

「それにしても……あツ、誰かゞ窓を閉めてゐるよ、桐渡さんぢやないかな!」

「云つて呉れるな。」

 不図私は眉をくもらせて、あらぬ方へ眼を反向けた。「百鬼夜行の有様なんだよ──文学に没頭してゐる俺を、寧ろ幸ひにして、恰も気狂ひ扱ひにしてゐる、然し僕だつて、ものゝ事情位ひは解るんだけれど、そんな事に関つて、やれ、それは俺の財産だぞ──とか、俺は斯んな借金をした覚えはないよ──などゝ云ひ出したひには、単にそれだけのことが、充分に俺の仕事になつてしまふ、それが俺の生きる道になつてしまふ、文学に没頭する暇などはなくなつてしまふ──やがて、好い加減な田舎の紳士にはなれるかも知れないが……」

「………」

 夫婦は分れる、着物も無くなる、住居の定めも怪しい、それで何が文学か──なれるものなら、好い加減であらうと、しみつたれであらうと、田舎の紳士となつて鬚でも生したら結構なものであらうのに──雪太郎は、まさしくそんな風な思ひで首を傾けながら、破れ靴にインヂアン・ジヤケツトといふいでたちの私の様子を気の毒さうに振り返つた。

「何だい、雪太郎、その眼つきは──。今夜から俺は、ほんとうの自分の仕事が出来るといふことになつてゐるところだといふのに、憐れつぽい眼つきは禁物だよ。」

「ほんとうですか?」

 と艫の方から雪二郎が声をかけた。「仁王門の裏二階は、もう一ト月も前から準備が整つて、先生の御入来を待つばかりですぜ。」

「奴等が俺の帰来を希はぬのを逆用して、さうだ、このまゝ俺は仁王門の住人となつてしまはう──」

 矢の倉の鎮守の森では、社の御神体は二三年前に桐渡鐐通達の村会議員の胆入りで、彼等の村社に合体されて、空社となつてゐたが、近郊の音に響いた有名な仁王門は、昔ながらに森蔭の正面で逞ましい見得を切つてゐた。村費をもつて、それもそのまゝ隣村へ移転させやうといふ議もあつたが、意外に嵩む移転費の捻出に事欠いて、当分沙汰止みとなつてゐたところであつた。また桐渡等は、この仁王の作者が或る名工の腕に成つたものであるといふ鑑定をつけて、埠頭場の美術商に売却して、村境ひの本橋をコンクリートに架け代へようといふ議が起つてゐたけれど、桐渡の加名を知つて不信任を叫ぶ一党が現はれ、これも当分見合せとなつてゐた。桐渡派弾劾の連判書には、私もあざやかな母印を捺してゐる在野のデモクラツトである。

 それは左うとして、雪太郎の叔母が仁王門の裏で代々の休み茶屋を営んでゐる。社は空屋となつたが、国境の山を越へて遠く商ひに行く車馬の一隊は昔のまゝにこの休み茶屋で息を容れる慣ひであつたから、経営の困難もなかつたし、その上、桐渡派とその弾劾派の争ひが世間の注目を惹いて、仁王門に関する様々な迷信的の流言蜚語が飛び、見物人が日に日に絶ゆる事もない繁昌振りを示してゐた。もう一息、この噂が人気を呼ぶやうになつたら、雪太郎達は米運びの合ひ間に案内船を支立てようかといふ話まで持ち上つてゐた。いつぞや、その相談役に招かれて、私が仁王門の茶屋を訪れた事があつた。相談は何うなつたか、議長格の私が今は忘れてしまつてゐるが、何でも私はその晩わけもなく大ざつぱな太平楽を並べて、ぐでん〳〵に酔つ払つて帰途を失つてしまつた。

「ぢやお雪や、先生はお二階へ御案内申すかね。」

 手伝ひに来てゐる兄弟の妹に、お婆さんが左う云ふと、お雪が、夜中に目を醒しにでもなつて、先生が驚きはしなからうかと逡巡した記憶が私にあつた。店と、炉のある部屋がつゞいてゐるだけの家なのに、二階とは不思議だな──と思ひながら、お雪に従いて真つ黒なカーテンをくゞると、段々を二つ三つ上つたかと思ふと、真四角な箱のやうな部屋に達した。翌朝、私が目を醒して見ると、その部屋の三方には祝入営竜巻雪太郎君と筆太に認められた幟の幕に囲まれてゐた。それにしても、朱塗の逞しい柱や格子がうかゞはれると思つて、首を上げて見ると、一方の幟の向側に大岩のやうな仁王の背中が接し、天井と幟の合ひ間から大腕を揮つて虚空をきつてゐる仁王の肩から上が奇峭となつて眺められた。つまり、私の寝室は仁王堂の中の恰度門番が住むやうな二段となつた「楽屋」見たいな二階であつた。同じ広さの階下は、お雪の寝室で、二階は客用に使はれてゐるといふことを朝になつて知らされた。

 片方の三角の柱の格子からは、門を出入する人々の姿が見降せる、仰いでも、此方は薄暗いから、その上、チラ〳〵する格子を透しては中の様子は解らぬ。私は験しに下に降りて仰いで見たけれど、若しあの中に住む者があれば、囚はれ人か盗人の昼寝の洞にふさはしい──と思はれた。片方に仁王の肩中を屏風として、金網に囲まれ、そしてこの格子の下に机を据えたならば、実に私が人に秘れてもくろんでゐる規模雄大なローマンスの筆を執るには世にも適当な仕事部屋であると、深く吾意を得た次第である。

 私が、あの河岸の丘の部屋にゐると、それとなく桐渡やその部下の者が訪れて来て、東京へ赴くのは何時か、何日か、私は直ぐにも貴君がこゝを空け渡すと聞いて、既に貴君の母堂から借用してしまつたのであるが一体、そのローマンスとやらは何時になつたら出来上がるのか──などゝいふ風に、それでも私の気嫌を正面から苛立たせてしまつては、いろいろと不首尾の事情があるもので、適度に讒諂の笑みを含めて云ひ寄るのであつたが、さうと気づけば、私も仲々さる者であつて、どつこい、その手に易々と乗る者でもなかつた。

 桐渡達は、人里を遠く離れた丘の家を根城として、仁王門掠奪の議を回らせたり、車座となつて丁半の博奕を打つたりしたいばかりで、私の出立を急いでゐるのであつたが、さうなると私は寧ろ陰気な興味が起つて来て、わざと、夜昼の別をとり違へて、ぎろつとして、彼等の酒盛りの部屋の前を往行したり、また、私が寝台にもぐつてゐるのを見届けて、そろそろと悪事の相談会を開かうとすると、突然私の大きな咳ばらひにおどかされて、散会させられたりしてしまふのであつた。

 さつきもさつき私がハムモツクの上で、うと〳〵してゐると、彼等の仲間が様子を窺ひに来て、

「御散策にでもお出かけかと思つたら、斯んなところでおやすみですか、お仕事の方は如何ですか、お部屋が大分綺麗に片づいて居りますな。御出発のお手伝ひなら、私共にお命じなさいませんか。」

 などゝ云ふのであつた。

「なあに僕は──」

 と私は故意に飄々と云ふのであつた。何故なら彼等は、夙に私を目して風来的な素質に富んだ詩人と断定して、私が吐く言葉は決して他の心根を蔵さぬものと信じてゐた。「行かうと思へば、このまゝ、ぶらりと──誰に、何の挨拶もなく行つてしまふよ。あまり天気が好いので、今、それを考へてゐたところさ。」

 全く彼等との敵対行為は私に幾分の興味を呼び起してはゐたが、そんな気分にばかり関はり合つてゐると、つい、それも面白くなつて容易に仕事に手が出さうもなかつたから、一層舟をつかまへて、このまゝ出発してしまはうかとも考へてゐたのである。

「それは〳〵!」

 と彼等は思はず乗り出して、蔵する限りの愛嬌わらひを浮べた。「何しろ私達、畑違ひの者がいろ〳〵と出入りしては、御気分に触つて大事なお仕事の方が留守にでもなるでせうからな、私達も、もう、そればかりが心配で心配で恰もハレモノにでもさわるやうな思ひで、はら〳〵してゐるんですもの。」

「僕も、いつまで愚図々々しては居れんのさ、構想も、もう充分となつたから、仕事は都のアパートにでも行つて……」

「待つてゐますよ。先生の本が出ましたら、私達にも屹度読ませて下さいね。──楽しみだな。先生がこれから何んな立派な小説をお書きになるかと思ふと、私達はもう今から胸がぞくぞくしてまゐりますよ。」

 私のそれは時代を遠く戦乱の世にかりた伝奇小説ではあるものゝ、巻中に出没する多くの悪党共は、悉く奴等の姿をありのまゝ描破して、秘かに作者たる私が積年の鬱憤を晴さうといふ仕組みであつた。就中私は、それ自らが豪勇無比な荒武者となつて、従横無尽に花々しい筆端の刃を揮つて、群がる者共を手玉にとつて薙ぎ倒し、こばから首をちよん切つて、さしもの竜巻村に平和の風を吹かせるといふ、痛快至極な冒険譚であることを知らずに、彼等は、左う云ふと、一様に恍惚の眼を細めて深々と息を吸ひ込んだ。

「出かけたくなつたぞ。」

 私は、何か深い思惑でもあり気に、凝つと雲の彼方を睨めながら重々しく唸つた。すると、彼等は私の気分に逆ふことを、暴君の下僕のやうに怖れて、

「然し、そのまゝの姿でも、まさか出発は出来ぬでせう。なんなら今直ぐにでもお召物の用意を致しますが……」

「着物は、矢の倉に預けてある──新調の背広が一ト揃ひ──」

「ほゝう──さすがにお手回しのほどは万端行きとゞいてゐるんだな。何でも先生は、業々しい出発の騒ぎなどゝいふありふれた習慣は、きついお嫌ひの由で、何でもその日の風の向き次第、御気分の帆のあがり次第、時刻も関はず出発してしまふといふのが常々からのお心掛けのさうだが、さすが詩人だ、偉い変り振りだ──と皆なもうそれを聞いて感嘆の舌を巻いてゐるんですよ。」

「あまり、傍から兎や角云ふと、朗らかなインスピレイシヨンが消えてしまつて、元の部屋へ戻つて寝てしまふより他に始末がつかなくなるかも知れないよ。」

「やツ、それは大変だ。……然し、その路金の工面は?」

「煩いな。それも矢の倉にあるんだよ。」

 と私は眉をひそめた。──そして私が、再び瞑想的な面持ちで静かに眼をつむると、彼等は、口々に、口のうちで、

「叱ツ、静かに〳〵!」

「あぶねえ瀬戸ぎわだぞ!」

「ひや〳〵させるねえ!」

 などゝ呟きながら、抜きあし、差しあしでその場を立ち去つた。

 そつと私が薄眼を開いて見ると、三人の男が薄氷を踏むやうな真面目な滑稽な脚どりで、こそこそと葦をわけながら汀を離れると、ブラボウ! と叫ぶが如く翼を拡げて、まつしぐらに丘を駈け昇つて行つた。

 ……舟が、流れのまゝに大きく迂回して、木立の蔭にかくれようとする角に差しかゝつた時、私が彼方の丘を振り返つて見ると、さつき慌てゝ閉められたあの家の窓から、幾人もの悪人が重なり合つて、切りと帽子やハンカチを打ち振りながら、恰も出陣の首途についた荒武者との別れを惜しんでゐるかの模様であつた。



「祝入営」の幟の中の私は、昼となく夜となく小さな古ぼけた経机の前で、鈍重な眼を据えてゐたが、言葉に変へるべく未だ脳裏の猛々しい情熱の渦巻きが余りに生々し過ぎるのを感じた。換言するならば、篇中に活躍すべき多くの登場人物を扱ふべき私の態度に、作者としての襟度と夢の不足を知つた。──続いて未だ少くとも二三ヶ月の「オーミング」の要を私は覚えた。

 朝、目が醒めると私の脚もとから胸先へかけて麗らかな陽が射してゐるかと思ふと、頭上のまくに大臼にも増した仁王のかしらが、くつきりと映つてゐることがある。またひかりの加減に依つては大蛇が雲を呼んだやうに見える仁王の腕の影が、帷の一方から天井に抜けて駆け登つてゐることもあるし、脚もとのスクリーンに、ぱつと開かれた仁王の掌が、小さな私をその中に一と掴みにしてしまふ勢ひで迫つてゐるのに仰天させられることもあつた。私は時計などは持つてゐなかつたが、それらの仁王の影の部分的位置の具合で、誤りなく午前の時間を云ひ当てることが出来るのであつた。

 私は目を醒ますと、先づ呼鈴の代用として使つてゐる枕もとの木魚を叩くのであつた。

「思はず寝過してしまつたよ。仁王様の掌が、恰度僕の胸先まで伸びてゐる、九時半だな。──雪ちやん、今日から俺は、平気で、炉端へ出て飯を喰ふことにするよ。もう、人の眼を避けるといふ必要を感じなくなつたから──そして、また暫く、机の前の営みは打ち絶つて、いろ〳〵な運動をしなければならなくなつたから──どれ、一つ顔でも洗ひに出掛けるとしたいが、お前の手は空いてゐるかね?」

「いつもの通り、今頃ならば──もう、朝の仕事が終へて、お昼まではあたしの時間ですもの──さあ、お伴しませう。さつき雉の声をきゝましたよ。」

「今日こそ手なみを見せてやらうかね。」

 私はお雪が持つて来たコツプの水を一息に呑んで起ちあがるのであつた。

 裏口から深い櫟林を抜けて、沢へ降りて私は朝の嗽ひをするのが習慣だつたが、沢までは凡そ三四丁の道程があるので、いつも私は鉄砲を携へて出掛けるのであつた。

 いつもならば裏口からの出入でも店先に人影の絶へたところをお雪に見とゞけさせて、私は仇打ちの浪人者のやうに人眼を忍んでゐたが、すつかり態度を改めて、花模様のついたタオルを襟巻シヨールのやうに首に巻きつけながら鉄砲をとりあげると、

「おばあさん──これこそたとへの通り朝飯前に獲物をぶらさげて来るから、ロースの用意をしておいてお呉れ。」

 などゝ云ひながら、洗面の道具や、気紛れなハーモニカや一組のトランプなど入つてゐるズツクのバケツを携へたお雪を従へて、私は陽が極くまばらに散つてゐる朝の林の中へ靴音高く駆け込んだ。私は鉄砲は持つてゐるものゝ、これまで一度も獲物を打ち落した経験はなかつた。──たゞ、梢を目がけて、虚砲の音を轟ろかせては、いん〳〵と谿をわたつて打ち響く山彦の夢に耳を傾けるのが、云はゞ私の朝の祈りであつたのだ。

「──打つては駄目ですよ。ほんとうにさつき雉を見たんだから……」

 お雪は、ゴムの長靴で朝露を含んだ歯朶を踏みながら私の後を追ふて来た。「お前がこれを持ちなさいな。そして、一度私に、それを貸して御覧……あツ!」

 とお雪は、息を殺したかと思ふと素早く私の腕から鉄砲をもぎとつた。

「居る〳〵!」

 そして彼女は、私を駆け抜けると行手の樅の大木の蔭に背をかゞめて身を忍ばせた。私は、妻が残して行つた橙色のジヤケツを着て、この朝の寒さも厭はず細く長く素足に長靴を穿いたお雪が凝つと獲物を狙つてゐる様子を、うしろから眺めてゐると、何とも得体の知れぬ、凡そ今迄感じもしなかつた胸を颯つと引き絞められる花やかな香気に打たれた。未だあたりには朝靄の煙りが水のやうに流れてゐる草の中に立つた彼女の姿が──その上着の明るい色彩が、ところ〴〵に点々として梢から洩れ落ちてゐる陽だまりの一つのやうに、そして巨大な蝶々のやうに、凝つと羽根を休めてゐた。

 と彼女は、慌てゝ振り向きながら私をさしまねくと、更に繁みをくゞつて先へ進んだ。鳥が枝を渡つたのか、それとも照尺を縮めたのか──私には鳥の姿は見へなかつたが、何だか私は、厭に生真面目にてれ臭つたやうなあまりに能なし気な思ひで、よた〳〵と伴いて行くと、待つ間もなく、間一髪、発砲の音で私は、思はず、ドキツとして蛙のやうに飛びあがつた。

 また、振り返つた彼女の顔を瞥見すると青白い興奮の気色が見られた。──私は、或ひは私が未だ彼女が引金を引く間もない前に、飛びあがつたのではなからうか? その音で、鳥が逃げてしまつたのぢやなからうか、そしてお雪が憤つたのではなからうか? そんな臆病さに打たれたかと思ふと、いつか、もう彼女の姿は私の眼界から去つてゐて、繁みの彼方からさかんに私を呼ぶ声が起つた。

「わあい──獲れたよ。」

 お雪は鳥の脚を掴んで宙に打ち振つてゐた。さつぱり興奮してゐるわけではなかつた。それなのに私は、非常に興奮して、バケツを投げ出してその傍らへ駆け寄ると、

「やあ、偉い〳〵。素晴しい──」

 さう叫ぶと一処に、思はず娘を腕に載せて、激浪のやうにゆすつた。ほんとうに私は、相当の専門家でない限りそんな鳥などは打てるものではないとばかり思つてゐたので、酷く彼女の腕なみに驚嘆したのである。

 お雪は私があまり真心から感嘆しつゞけるので、すつかりあかくなつて──いつも私の食膳にのぼす鳥料理は悉く彼女自身が打つて来ることや、だが近頃私が朝な朝な出鱈目な空砲ばかり鳴らすので、次第に鳥共が森の奥へ奥へと逃げ去つて了ひ、仲々この辺には現れなくなつた由などを述べた。

「知らなかつたな、それは──。昨夜もたしか鳥の御馳走があつたぢやないか。」

「えゝあれ山鳥よ──谷の向ふ側へ行つて打つて来たのよ。」

「ひとりで……?」

 径の在所も知れぬ熊笹の崖である、流れの岩を飛んで胸突きの崖をよぢ登ると、国境の山々を見晴らす明るい芝の野原に出るが、私は何時かの春の蕨狩りに出掛けた時、崖を這ひ登りながら胆を冷したのを思ひ出して、銃を担いだ娘がひとりであれを登るさまは想像が困難だつた。

「あたり前だわ。」

 お雪は苦笑してゐた。「今朝だつて、もう、一度行つて来たのよ、霧が深くつて生憎不漁だつたけれど。ぢや、お店に時々ならんでゐる雉や山鳥は、皆なあたしが打つて来るんだと云つたら、何んなにお前は驚くだらう?」

「売つてゐる、あれ!」

 季節〳〵の川魚の干したのを藁づとにして軒先にぶらさげてあるのに並べて、いつも小鳥の束が商はれてゐるのを私は知つてゐる。

「そのお金がもう二十円もたまつてゐる。」

「──この鉄砲は勿論雪ちやんに進呈するけれど、僕が東京へ行つたら、もつと新式の軽いのを買つて、屹度送つてあげるよ。」

「何時東京へ行くの?」

「…………」

「新しい鉄砲なんて要らないや。──行つてはいけないよ。」

 ──沢に降りると、私はシヤツも下着も脱ぎ棄てた半裸体となつて、口を嗽ぎ顔を洗つてから、流れのまん中で巨大な牛が沐浴をしてゐるかのやうな姿の岩に飛び移ると、カルデアの蛮族の牧歌を高唱しながら勇ましい体操をはじめるのであつた。

 これらの山々の谷間を流れる三条の谿流が麓の村境ひに合して、あれらの舟を泛べる河となるのだ。

 私は、流れに向つて、つたへよや、かの窓に屯ろする人々に──

涼風夜雨を吹き

蕭瑟として寒林を動かせり

 などゝ歌つて、切りに復讐の体操を続けてゐたが、汀を眺めると、恰度寝椅子に似たかたちの石に鳥のやうにその身を横へて、私の体操の終るのを待つてゐるお雪が、水鏡に凝つと視入つてゐた。寝椅子の裾には深々として孔雀歯朶が、絨毯のやうに生ひ繁つてゐた。もう聞き飽きてゐるためか彼女は、私が次第〳〵に何んなに歌の調子を高めても、身動きもしなかつた。彼女は、さつきの獲物の羽毛を花びらのやうに水に浮べながら、もの思ひに耽つてゐるかのやうに見えた。

 そして私は、私の歌の絶え間にそつと耳をそばだてると、それは娘のうたふ声に違ひない──。

With outstreched arms upon the shore she stood,

With tearful eye she gazed upon the flood,

 と聞えた。──崖の上に私達の狼犬ゼフアラスが現れて、空に向つて口腔くちを開けてゐたが、やがて飼主を発見すると、ほんとうの狼のやうに猛々しく落葉を蹴散らせながら、汀を目がけて駈け降りた。

Whose swelling tide now seemed as if't would sever

 ──歌は続いてゐた。

「あれは、ダニューヴの花嫁の歌だ!」

 私は、今が今迄あの窓に向つて不断に身構へつゞけてゐた颯々たる剣舞の夢が、恰も「白雲去つて悠々たり」といふが如き風情で、静かに拭はれて行く和やかさを覚えた。

きらめく水の戯れにベルタの影の浮ぶさま、流れよ、波よ、しばし彼女の面影を……

 私は思はずその歌の続きを口吟みながら、反対の汀に飛び移ると、歯朶の群れのなかに咲いてゐた山水仙を祈つて、

「おうい──ベルタ!」

 と称んでしまつた。「投げるからうけとつて御覧…… Those young flowerets there, shall form a braid for thy sunny hair; I yet will save one, if but one, soft smile reward me when it is done.」



 纜綱が解かれると舟はゆる〳〵と降りはじめた。私はトランクに凭り掛つて、雲を眺めてゐた。舟の後先では雪太郎と雪二郎が、黙々として竿を操つてゐた。

「おゝ、お雪が来る──名残りを惜んで。」

 誰かゞ左う云ふので私は岸の方へ眼を向けると、明るい橙色の上着を着た娘が、流れに平行した畦道を山鳥のやうに飛んでゐた。

 汀の野花をひきちぎつては、切りに舟を目がけて投げてゐたが、そこまでもとゞかず花片は吹雪となつて水の上に散つてゐた。──飛びはねる毎に明るい翼がきらきらと陽に映えては、また草の中に姿をかくす……。

「あれは山鳥だよ、やはり……」

 と私は呟いだ。然し鳥は、私達に向つて切りと何か呼びかけてゐる。

「鳥だらうか、お雪だらうか。」

 私達は二三言云ひ争ふてゐたが、何故か私は、

「それならば──」

 と自信のありさうに唸つた。だが私は、それが鳥であらうとお雪であらうと頓着はなかつたが、無性に悲しくなつて、それならば試して見ようと点頭いて、

「一身軽舟と為る──」

 と胸を拡げて歌つた。すると二人の舟人が声をそろへて、

「落日西山の際──」

 と和した。そして私達が、そゞろに陶然として、

「常に帆影に随ひて去り

 遠く長天の勢ひに接す──」

 斯う高らかに合唱すると、私達の舟を追つて駆けつゞけてゐる鳥のやうな影が、綺麗な叫び声を挙げて空高く舞ひ上るのであつた。

「御覧、やはり山鳥ぢやないか!」

 私がわけもなく得意さうに云ふと、

「いゝえ、あの通り──お雪ですよ。」

 二人は更に強情を張るのであつた。

 すると舟が柳の木蔭を回つた頃から急に勢ひを益して流れはじめた。私はよろよろとして舟ばたに凭りかゝりながら、後ろの空を見返へると柳の上を飛んでゐる山鳥が突然翼を翻して転落する有様であつた。

 私は思はず手に汗を握つて、悲鳴を挙げてしまつた。──と、私は帷の中で夢から醒めてゐた。

 うらうらとした朝なのだらう。脚もとの幕に仁王の見事に開かれた片手が鮮やかに揺曳してゐる。恰度、その影を壁飾りの位置にして、お雪は天井から吊した投網の破れ目を繕つてゐた。

 私は、ぼんやりと油絵のやうなお雪の姿を眺めた。

 間もなく街道の坂下の方角から物々しい法螺貝の音が響いたかと思ふと、がや〳〵といふ人々の喚き声が次第に仁王門を目がけて繰り込んで来るのであつた。──貝殻の音があたりの梢に陰々とこだまして、やがて行列は門をくゞりはじめた様子なので、そつと私は幕の間から見降すと、村長、助役、議員達をはじめとして矢の倉村の人々が、てんでんに赤襷白襷の見るも甲斐〳〵しいいでたちで、どつとばかりにおし寄せて来るのであつた。

「村の人達は此処に勢ぞろひをして、これから舟で竜巻村へ降りるんです。」

「一体、それは……」

 訊ねやうとした時に私は彼等がおし立てゝゐる幟の文字に「矢ノ倉仁王門撤廃反対運動」とか「古跡を保存すべし」とかその他、代議士候補桐渡一派を弾劾する様々な檄文を読みとつた。

 一隊はどや〳〵と私達の茶屋の前に集ると、爆竹の火花を挙げ、鬨の声を挙げて、天に沖する威気であつた。

「皆なが、先生を呼んでゐる──私達も出掛けるんですよ、私達の娘子軍アマゾンも……」

 お雪は、投網を畳んで登山袋に詰めはぢめた。みちみち、網を打つて、糧食を求めるのがアマゾンの役目の由であつた。

「それぢや恰で、去年の春の川遊び見たいぢやないか……」

「えゝ──毎年川遊びに事寄せて、竜巻村へ乗り込まうといふのが、私達の計画なんですつて!」

 さうしてゐる間にも、村人は次第に数を増して来て、店は時ならぬ繁昌を呈してゐるらしかつた。──雪太郎が酒樽の車を曳いて、門をくゞつて来るのが見へた。

「お雪は何うした、おういお雪──出陣の盃に酒を注いで呉れ。」村長の亢奮の声がした。「僕は──」、

 と私はベルタの手を執つて起きあがつた。

「朝の沐浴を済せて、直ぐ後を追ふから──と村長へ伝へて呉れないか。」

 私は、斯んな場合に、斯んなことを申し出る自分を、ベルタに対して恥らひを覚へたので、云ふと同時に彼女の不気嫌を期待したのだつたが、彼女は、不図私の顔を凝つと眺めたかと思ふと、投網の袋を背につけたまゝ、私の胸の中に顔を伏せて、わけもなくうむ〳〵と点頭いてゐた。その時、私の眼底には、あの竜巻村の、あの窓の下を、矢のやうに降つて行く一艘の小舟が映つてゐた。小舟では、鉄砲を抱へた私と、網を携へたベルタが肩を組んで「白雲」の歌をうたつてゐた。

 仁王の腕の影が、私達の脚もとまで伸びてゐた。その影の中に寝転んで、外の騒ぎに耳を傾けてゐると、私はやがて、遠くこの地上を離れて、今や私のローマンスの世界に到達したかのやうな鮮やかな夢心地に陶然としてゐた。

 ──私が書かうと試みてゐる物語の冒頭は、出陣の首途にあたつて恋人との別離を惜む勇士の姿であつたが、はからずも、その空想が眼の先の影の中に吾身をもつて髣髴として来た。その一節を私は「ダニューヴの花嫁」と題することに決めて、仁王の影の中から身支度をとゝのへて、やをら立ちあがつた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房

   2002(平成14)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社

   1932(昭和7)年81日発行

初出:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社

   1932(昭和7)年81日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「ダニューヴ」の「ュ」が小書きは、底本通りです。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2009年129日作成

2016年59日修正

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