ゾイラス
牧野信一
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海の遠鳴りをきゝながら私は、手風琴を弾いてゐた。そのダクテイルが、ひらひらと潮の音に逆つて低く高く青白い虚空を衝いて飛んで行くと、私の魂も夢も片々たる白い蝶々と化して、波を乗り越え、宙に翻つて、無何有の沖へ沖へと雪崩れを打つて消えて行つた。
私は、脚を卓子の上に重ねて、椅子の背に頭を載せかけたまゝ「海賊」の詩をうたつてゐた。
“…… …… ……
Ours the wild life in tumult still to range
From toil to rest, and joy in every change.”
部屋が舟となつて揺れてゐた。舟は、陸へ向つて打ち寄せる怒濤に逆つて帆を挙げてゐた。ぼろぼろの三角帆であつた。波頭に巻かれて、舟は宙に回転した。帆の、はためきの音が風を切つて雄叫びを挙げてゐた。
私は、自然に対する反逆の言葉を索めつゞけて来た。実にも慌しく日夜が過ぎてゐた、実にも空虚な私の心象の前で──。
「入つても好いの、Ossian? 真つくらぢやないか、灯りをつけたら!」
扉の外で女房の声だつた。
「扉を開けて御覧よ。月あかりの明るさに驚くだらうよ。」
私は、風琴を胸の上に載せて、眼をつむりながら答へた。
「Ossian! ──妾は嫌ひなんだよ、夜だといふのに灯りもついてゐない部屋に、二人の姿を見出すなんていふことは──。そんなぜいたくな夢は──」
彼女の言葉は、口のうちに消えた。
ランプは、油がきれてひとりで消えたのであつた。
「ぢや、妾が納屋へ行つて貰つて来るわ、容器を出してお呉れ。」
その時、私は強ひて灯りを欲しいとは思はなかつたのだが、あんな遠くまで! と気づいたので、慌てゝ、
「欲しければ自分で行つて来るが……」
と、未だしゆんじゆんしてゐた。漁屋の納屋であつた。麦畑の岡の裾を崖ふちに添つて、三つも迂回して、岬の中腹まで辿らなければならぬ道程だつた。
「Ossian!」
と叫んで、彼女は靴の先で扉を力一杯に蹴つた。私は、ぎよつとして椅子から跳びあがつた。私は、書物やら、ネクタイやら、ジヤケツやら──枚挙のいとまはありはしない、何とまあ埃を浴びた数々のがらくたが無暗と散乱してゐる暗くて狭い部屋であることよ!
「憤らないで待つてお呉れよ──今、窓を開けて、直ぐに油の鑵を見つけ出すから、そして独りで行つて来るよ。水車小屋の牡馬は、もう厩に入つたか何うか、ほんとうに済まないが見て来てお呉れよ。」
私は、サアベルを踏んで飛びあがつたり、真鍮のラツパに躓いてよろめいたりしながら、陰気な窓掛を払ひ除けた。そして、射し込んだ月の光で、寝台の下に転げ込んでゐる油壺を四つん這ひになつて辛うじて探し出した。
街道に降りて見ると、米俵や枯草を積むための二輪車をつけたドリアンの首に凭りかゝつて女房は口笛を吹いてゐる。
「どうせ、もう一度ドリアンは空車で納屋まで行くところだつたの──御者は悦んでお湯へ行つたよ。」
崖下の共同浴場の窓から──草は萌えたち、鳥は歌ひ、蝶は舞ふ、何と長閑な春となつたといふに、何うして俺は斯んなにも物憂気なのだらうか、働いても〳〵楽にならない貧乏の扇が煽りを止めぬためだらうか、などゝいふ風なくだらぬ意味の歌が、然し、それが歌手自身の真心からの溜息であるかのやうに悠やかな韻律で響き、歌の絶れ目となると、ワツハツハ……といふ笑ひ声が、恰度、合唱のやうに一勢に挙つた。浴場の煙突は、青い夜空に鉛筆のやうにくつきりと伸びて、その合唱をかたどるかのやうな嘲笑的な面もちで煙りを吐いてゐた。
「納屋へ行くよりも一層停車場迄行つて見ようか。」
女房は、月のあかりで時間の見当を定めた後に、
「未だ終列車は着いてゐない筈だわ。」
と云つた。
九郎が、私の「Ossian」と題する作品を携へて東京へ出発してから、もう五日も経つてゐるのだ。日帰りで、九郎は帰らなければならない筈だつた。七郎と八郎が(私も共々)大いに九郎を罵つた後に、村役場の電話を借りて、雑誌社に訊ねて見ると、頤の長い眼のぎよろりとした「九郎」に五日前に金は渡したといふことだつた。
七郎と八郎が、改札口の両端で太い腕を組み肩をいからせて、仁王となつて歩廊の彼方を睨んでゐた。二人は、夕暮時から終列車までの間を毎日此処に現れて腕を組んでゐるのだ。
未だ終列車までは二つも残つてゐる時間であつた。──まばらに人が降りて、九郎の姿は現はれなかつた。二人の者は、無言で私の手をきつく握ると、今にも涙でも滾れさうな眼を堪へて、駅を走り出た。そして露路裏の横町に曲ると、二人は軒を連ねて並んでゐる居酒屋とカフエーに別々に入るのであつた。私は禁酒中だつたから八郎の後を追つて、珈琲店の扉を排した。だが其処の卓子にも酒の用意があつて、然も八郎は飲酒中に、盃をおいて停車場へ赴いたのと見えて、古い盃を再びとりあげるのであつた。コツク場の窓から亭主が顔を突き出すと、八郎の背中を指差しながら私に向つて、九郎さへ帰れば支払ひは即坐だ──といふことばかりを八郎は一日に十辺も繰り返して、盃を重ねてゐるが、斯う九郎の帰りが遅いところを見ると、非常に心配で堪らない旨を告げた。
八郎は、物薄い調子で卓子を叩きながら、七郎のロマンテイシズムなるものが、如何にあやふやなものであるか、といふことに就いて、私の女房をとらへて切りに罵倒してゐる最中で、私と亭主が憂愁に富んだ顔を見合せてゐるのも気づかなかつた。八郎は、プラグマテイストをもつて自らを任じてゐる洋画家である。彼は、あらゆる夢や粉飾を退けて、一元的唯物論の立場から諸々の自然現象を洞察しようとする堅い意志を持つた理論家であつた。私達は悉く、あの崖の中腹の家に起伏して、夫々の創作の道に余念のない芸術家であつたが、七郎と八郎だけが堅く反対の意見を奉ずる異様な熱情家であつて、今では互ひに悪罵をもつて感投詞を投げ合ふ以外には断じて通常の会話は交へぬ程の敵味方となり変つてゐた。事毎に二人は夫々の意見を異にして、絶え間もなく相争ふ有様は恰も古代の火論家水論家が剣の間に舌端の火花を飛せて各自の主張を完うしようとした趣きを髣髴させる概があつた。
たゞ議論として傍聴しようではないか──と叫んで、私達は屡々、あはや格闘にも及びかねまじき彼等の争ひを仲裁するのであつたが、彼等にして見ると、決してそんな議論などといふ生優しい予猶もなく、性格上の根底から相憎み合つてゐる上からは、今や最後の腕力に訴へて捻ぢ倒してしまはなければ医えぬ憤満に満ち溢れてゐるといふのである。
「吾々は歴史的に闘ひつゞけてゐる両流のチヤムピオンであるから、敵の息の根を楯の下に圧し潰すまでは止められぬのだ。」
「多くの場合、二つの性格といふものが……」
私は、極度の困惑のあまりおそる〳〵呟いたことがあつた。「常に一個の胸の中に於いてさへも相反撥してゐるといふ矛盾に関しては──」
と云ひかけると二人は同時に、
「吾々はそんな矛盾なんて覚えたこともない。」
左う叫んで、見事に胸を裂き示した。且つ、斯る矛盾などといふが如きは、芸術の敵である! と開き直つて、そろつて、今度は私に詰め寄つた。私は、秘かに彼等を稀大なるオプテイミストとして、尊敬し又羨望した。それと同時に私は、斯うまで相反する両様の性格者と、夫々円満らしき交際の出来るかのやうな自身に、突然、恥を覚えて底知れぬ憂鬱の谷に転落した。その頃私は、岬の納屋の三階に通つて、風景と心象の接触点が醸し出す雰囲気の境地に足場を求めて、自己の亡霊を、さながら在り得べき「風景」の森蔭に再生せしむべく精根を枯らしてゐた。
納屋の屋根裏で架空の塔を昇り降りしてゐる自身の亡霊は、稍ともすれば彼等の争ひの声に呼び醒されて、胴震ひを覚えさせられた。私は、その仕事の内容を絶対に彼等に告げなかつた。
私達は、私が吹聴するプラトン流のイデア論の灯火のまはりに集つた共和生活の遊蛾であつたが、そして私も自身を、「灰色の蛾」といふ意味で──おゝ思ひ出しても冷汗が浮ぶ故、その代名詞は再録したくない──何々などと名附けてゐたものであるが、私はランプの蓋に凝ツと翅を止めて、
「では、その矛盾なる言葉は取り消させて貰はう、その代り吾々は明日をも待たず今宵のうちに、各自の光りを索めて四方に散るとしようではないか。全く色彩の異るガウンを着けた夫々の友達から、同程度の好意を寄せられるといふことは、終ひには僕が白色になつてしまふといふ結果になるであらう。」
と提言した。
憐れな夢を私は持つた昆虫の如き存在である──と私はその頃、自分を目してゐた。
「灰色の友よ──」
その頃呼び慣れてゐた仇名をもつて、Aが私に答へた。「では、君が今、とりかゝつてゐる作品の脱稿を待つて、各自発足することゝしようではないか。」
「そいつを旅費としよう、四つに分けて──」
AとBの意見が一致したのは、この時一度であつた。
「よからう。」
と、灰色の蛾は触角を微かに震はせながら賛同した。彼は、彼等に向つて、これまで物資に関しては一切共有的観念を持ち合はなければ「自然」に敗北する、吾々がこの田園の中に住家を求めてゐる間は──などといふことを主張してゐたから。
間もなく私は「灰色の蛾」といふ意味の名前に飽きた。──私は、名前を持たなかつた。私は、亡霊であつた。私は、一日も早く愉快な別離を希ひながら、ドリアンを飛ばせて納屋に通つた。
「灰色の蛾──」
と女房も称び慣れてゐた。「早く妾達は都へ行つて、ダンスホールへ通ひたいものだ。」
「あの名前は止めたのだ。許して呉れ。」
「では、これから何と称んだら好いの。未だヒーローの名前が定らないの。」
「……亡霊だ、あゝ!」
と私は溜息をついた。名前が先に決つて、それで称び慣れても私自身も周囲の者もヒヤヒヤしなくなる頃となつて、漸く私はその主人公が活躍する一篇の物語が完成するのがそれまでの習慣だつた。
「手前え見度いな碌でなしは死んでしまへ、俺が斯んなに夢中になつて意見をしてゐるのが貴様には聞えないのか。」
つい此間も私は、私の出たらめな生活を譴責に来た律気な叔父に胸を突かれて、果てはぽかりと頭を擲られたにも係はらず、一言置きに彼が「シンイチ! シンイチ!」と呼ぶのが、他人の名前を称んでゐる通りな気がして、さつぱりと痛さも覚えなかつたことがある。
──灰色の夢に、おもむろに「言葉」が降りそゝいで来た。納屋の窓から見渡す風景の輪廓が、一つ宛の枠の中に収まつて、同じものゝ下から、見飽きぬ場面が涌いた。渚で沐浴をする馬、飯場の飲酒家、舟を漕ぐ裸体の影、網に光る魚、遠望の島、鴎の群──それらの一つ一つに私は「自己」を感じた。無何有の夢に達する門を感じた。
……然し私は、はやまつてしまつた。
迷妄と矛盾を持たぬ八郎達の自信の前に私は、自身を見出す毎に、光りに打たれた悪魔となつて絶望の淵に追はれた。自然に対する冒涜を私は感じた。──私は、非常に慌てはじめてゐたその作物を Ossian と題することに決めずには居られなくなつた。「偽詩人」なる意であつた。
ランプを真中にした卓子で一同の者が、夕飯にとりかゝつてゐるところに転げ込んだ私は、
「俺は Ossian だ。」
と告げるや稍暫し昏倒した。
意味を問はれた時には私は、堪へられぬ苦しみであつたが、たゞ、それが当分の俺の名前だ、名前に意味なんてあるものか──と云ひ張つてしまつた。語源を正さうとする者が現れなかつたのは私は、幸ひとはしたものゝ、以来彼等が口滑り好くそれを私の個有名詞に用ひ出したが、称ばれる度に私は屈辱の稲妻に射られた。私は、決して私を「偽詩人」と目してゐなかつた。私は、私の亡霊を偽詩人なる汚名を冠して追放してしまふほど、憎んでゐなかつた。──それだのに私は、八郎や七郎の敵味方の唯心派と唯物派に、同程度の関心を持つかのやうな己れのとりとめもない心情を軽蔑するに至つた。安定律の測度器を破壊した舟が竜巻に呑まれて立往生をしたやうに、私の亡霊は夫々の翼に「夢」と「現実」の風をはらんで吾と吾身が二つに裂けるのではないかと怪まれた。怯堕を鞭打たれた。──それにしても私は、自らそんな仇名をつけてしまつた私は、背後から響く斯る嘲笑の声に打たれて事毎に夢を消され、言葉をさへぎられて、矛盾の真空管に窒息した。
それでも否応なくそれを脱稿して、春となつてからは、こんな思ひに堪へて見るのも次の仕事の夢の緒口を辿るよすがともなるか──といふやうな呟きの煙りが辛うじて細々と立ち昇るおもむきを感知した。眼をつむつて見ると、何よりも先きにあの崖下の鉱泉浴の煙突だけが厭にくつきりと浮び出るのが私は、憐れで、滑稽であつた。それより他に夢も続かなかつた。ひとりの部屋で、歌をうたつても、剣闘を試みても、たゞ〳〵在りのまゝの生活は止め度もなく憂鬱であるだけだつた。
「おうい── Mr. Ossian! 月が出ましたよ、時間も迫つた。現実派の陰気な顔なんて見てゐないで、私と一処に停車場へ行かう。一身軽舟トナリ、落日西山ノ側──か、到頭私は居酒屋の親爺に信用を搏してしまつたよ、歩きながらその弁舌を披露しませう。」
お出で〳〵──と外から七郎が、常ニ帆影ニ随ヒテ去リ、遠ク長天ノ勢ヒニ接ス──てえんだ! などといふ御気嫌で、大はしやぎであつた。
「面白さうだな……」
私は、七郎の恰も「長天ノ勢ヒニ接ス」るかのやうな豪快の声に酔つて、よろめき出ようとすると八郎が、鬼のやうな腕で犇と私の肩をとらへた。
「駄目ですぞ。あんな歌に浮されて、彼奴と肩を組んだら、綱の切れた軽気球に乗つたも同然で、奈辺に飛ぶか計り難い──貴兄の尊敬するフアウスタスも云つてゐるぢやありませんか──あんな飲助連中の言葉に乗つたら自業自得の火酒にその身が焼かれるのも忘れるであらう、奴等と来たらわづかばかりの頓智に満足して、恰度小猫が自分の尻尾に弄れるやうに、酒場の亭主に信用のある限り、そして自ら訴へる程の苦痛のない限り、年がら年中堂々回りのお祭り気分で有頂天──」
それは博士の言葉ではない──「愛と光りを吹き消す翼」の、それこそ「誘惑の科白」なんだよ──と私は気づいたが、訂正する子猶もなく、七郎の声の面白さに亢奮して、八郎を引きずつたまゝ戸外へ滑り出た。
「八郎なんて振り切つてしまひなさい。しかめつ面の唯物論者奴、盗み飲みの道伴れに友達を誘はうとしても駄目だぞ。」
七郎は片側から私の腕を引つぱりながら、八郎を罵つた。
「云つたな──何方が盗すつとだ。手前えは Ossian の奥方が、俺の歌に惚れて接吻を要求したなどと吹聴したらう、認識不足の放浪者奴、他人のあたり前の好意に飛んだ自惚れ気を起す乞食詩人奴──」
私の右腕を執つたまゝの八郎は、七郎に向つて脚を挙げた。
「ボロシヤツ一枚で歩いて帰れ──」
二人の口論が次第に激しくなると、二人は私の腕を左右から根限り引つ張つたまゝ、罵りの言葉の絶れ目毎に脚で闘つた。それが相手までは届かずに、交互に私の臀部にあたつた。そして、抜けさうな両腕の痛さと、蹴られる度に思はず宙に飛びあがつてしまふ私を心棒にして追ひつ追はれつ風車となつて回転した。女房は白々しく鞭を振りながら、つまらなさうに風車の後をついてゐた。創作家なんていふ徒輩は悉く酔つ払ひの神経衰弱者見たいなものだと思つてゐたから、どんな騒ぎが起つても彼女は何時も馬耳東風であつた。皆な気狂ひのやうな自惚れ家だと思ふだけだつた。
タービンの回転は益々速度を増して私には、八郎と七郎の、そして私自身の区別も判別出来なかつた。凄まじい旋風の中に私は「うぬ!」とか「畜生奴!」とかの唸りと、西瓜のやうに蒼い二個の顔と、そして痛さのために挙げる自分の悲鳴を聴いた。──円い月が幾つにも見えた。あちこちの遠い灯火が金色の雪に見えた。ガードの下で私達は列車の響きを知ると、バラ〳〵になつて一目散に駈け出した。
九郎は終列車にも姿を現はさなかつた。
三つの片々となつた風車は、馬車に積まれると、口をあいて月を仰いでゐた。女房が御者台で、口笛を吹いてゐた。ドリアンの蹄の音が野中の街道に戛々と鳴つてゐた。
私は胸を手風琴のやうに波打たせながら、やつと息切れが止まると、
「酷え奴だなあ!」
と唸つた。──「七郎と八郎の喧嘩の言葉を束にして、九郎の顔に投げつけてやつても俺は飽き足りないぞ。」
「あの壮烈な貧棒を目のあたりに眺めてゐながら──」
と八郎も唸り、七郎も亦、
「奴はデカダンだ。」
と叫んだ。──この壮烈な貧棒を眺めながら九郎を当にして酒を飲んだりする奴は、ぢや何なの? と御者が皮肉を呟くと、二人は困惑の色を露はにして、八郎は慌てゝ、自分が御者に換らうと申し出たり、七郎は憐れな声で、溜息と涙の遣場を酒にして、とかといふ風な悲歌を吟じた。九郎を罵る私の声がだん〳〵大きくなつて絶れ目もないのが、次第に二人の者にも痛さを与へたようであつたが、私は遠慮出来なかつた。
「再び出会つても俺はもう九郎とは口を利き度くないぞ──奴の一切が嫌ひになつた。」
私は、思はず八郎の頭を右手の拳で打ち、七郎の耳を左手で捻つた。そして、馬鹿野郎、馬鹿、馬鹿! と叫んだ。私の声に慣れてゐるドリアンは、急に脚並みを速めた。──常々、八郎の画や七郎の詩よりも、九郎の小説を未だしも認めてゐたのであるが、こんな動機で彼の仕事までが汚れて見えて来るのに、私は驚いた。九郎は一切主張を持たぬ性質で、他の二人から恰度私の立場に似た扱ひを享けてゐる為に、私は別様の親しみを感じてゐたのであつたが、それが反つて私の胸に醜悪な影となつた。私と九郎は手を執り合つて、道伴れを約した事さへあるのだ。それを自分は、こんな機会に、徹底的に罵るなんて、何と自分たる者に恥を覚えぬか、偽、偽、偽! と、われと吾が胸に矢を放つて見るのだが、断然この愚劣な亢奮は収まらぬのだ。
憎気な九郎の顔だけが、一切の夢を退けて私の眼底にやきついてゐるのみだつた。
私は翌日から、今度は油を借りて来て自分の部屋で「罵しる男」と題する短篇にとりかゝつた。 Zoilas ──には、既日私は転身することが出来た、称号に慣れるまでの暇も要ともせずに、忽ち、Ossian を振り棄てた。私は、書き誌すそばから、同人連に向つて朗読した。
Zoilas(B.C. 400-305)あゝ、あの厭生派の修辞学徒は稀代の長命者だ。彼は、その一生をホメロスの罵倒に傾注した、その名前が「罵しる男」なる抽象名詞として通用されるに至つた程彼は憎みとほした、ホメロスの詩を──。彼は、ホメロスに対する弾劾論を強調する目的で各国語の凡ゆる形容詞を八部の著書に取り纏め七冊の修辞々典を著はし、五冊の書に厭世哲学を述べて、遠くシヨウペンハウエルに迄影響の翼を垂れた。
私の「ゾイラス」は、三日三晩の不眠不休の揚句、一気呵勢に完成された。
「はつきりと現実を把握した。君の一面に斯る境地を見出すことは稀有の悦びだ。」
八郎は私を抱きあげて、部屋の中をぐるぐると回つた。そして早速都へ走つて、金に換へて来ることを約した。「ゾイラス」の作者は、発熱の床で、新しい使者を見送つた。その日まで着てゐたたつた一着の私の背広を八郎が着て、妻の外套で旅費を工面をした。彼女が、若し八郎の帰宅がおくれると「ゾイラス」は壁飾りのインヂアン・ガウンを着て外出するより他はなくなるであらう──と嗤ふと、彼は憤つた表情で、
「私は九郎ぢやない──気紛れといふ性質を知らぬ唯物論者だ。」
と腕を振つて出発した。そして、翌日の夕暮時の汽車を約した。──翌晩、終列車まで待つた七郎と女房が、私の枕元に空しく立つてゐた。
「散歩へ行かう。」
私は二人を促して外へ出た。私は、胸にいさゝかの憤りの影も射さぬのが、寧ろ不可解であつた。おそらく私が恵まれた凡ゆる罵りや憤懣の修辞句は悉く「ゾイラス」一篇の中に注ぎ尽してしまつたゝめの、結果であらう──と想像された。
更に間もなく七郎が亦、決行した遁走のいきさつに関しては私は、最早記述する興味も覚えぬのである。
私は、多くの「罵しる人」達=債権者達に包囲されて、籠の中の木兎と化してゐた。私はそれらの人々の罵倒の語彙の中に新奇なる修辞句はなからうか? と秘かに吟味したが、単に私が稀代の不道徳漢であることを形容して、恰度私が九郎を罵つたと同じやうに、「何とも言語同断な酷い奴」であり「盗棒よりも図々しい輩」であり「口を利くのも御免だ」と、誰も彼もが同じやうなことを喚いて絶交の宣言を繰り返した。その中には嘗ては私と共々に生涯の親交を誓つて高く盃を挙げ合つた銀行家が居た。私の人格を信じて生涯の道伴れを約した地主が居た。牧場主が居た。私に収入のあつた場合にその五分の一を納入するのみで、吾家の食堂に酒樽を備へつゞけるであらうと主張した酒造家が居た。七郎や八郎が酒場の亭主に弁解した如く私も亦彼等に対して「九郎が帰つたならば──」といふことを約して、数々の負債を重ねたのだ。「八郎が帰るまで──」「七郎が……」
夜──私は、女房の腕をとつて崖下の街道に逃れ出た。振り返つて見あげると、皎々と灯りのついた部屋〳〵の窓が、一勢に外に向つて開け拡げられて、多くのゾイラス共の影が縦横に行き交うてゐた。転宅の模様でゞもあるかのやうに、種々な荷物を担いだシルエツトが中央の窓の蔭に寄り集まつた。ひとりの男が急造への壇の上に昇つて、卓子を前にした。その周囲に人々が円陣をつくつた。それらの影がはつきりと映り出て、やがて口々に何事かを叫び、拳を振りあげたり、踊りあがるやうな恰好を示したりした。──私は、私の弾劾演説が初まるのだらう! と思つて、女房の手を執つたまゝ、ぼんやり見あげてゐると、壇上の男が不図執りあげたものに気づくと、それは私の剣闘練習用の錆びたサアベルであつた。男は、滑稽な見得を切つて稚拙にそれを頭上に振つた。哄笑の声が起つた。男は頻と口に何事かを叫びながらサアベルを振つてゐたが、間もなく疳癪の発作に駆られた身振りで、窓外にそれを投げ棄てた。サアベルは私の脚もとに滑り落ちた。
男は、次に二人がかりで重いトランクを持ちあげた。演説でもなささうだ、魔術の練習かしら、不思議な人達だ──と私と女房は首をかしげたが、懸物が現はれたり、花瓶が運ばれたりして、それが周囲の人達の手に渡されてゐるのを見てゐるうちに、漸く私が、
「オークシヨンだよ。」
と気づいた。
「あゝ、あの首飾りは、妾、欲しい──何う云つたら好いの?」
女房は私に取り縋つて、声を震はせた。──私は、いきなり窓に向つて、
「そいつも偽物だぞ!」
と大喝した。
男は、窓の下にあつたテラスに、買手のない物品を一先づ投げ出してゐたのであるが、石垣の修繕作業のために、とり脱けられてあつたので、彼が投げ出す品々は悉く私達のゐる崖下に転落してゐた。非常に亢奮して表門から圧し寄せた彼等は、暗い裏側の出来事に気づいてゐなかつた。だから私達は、さつきから種々な品物を首尾よく享けとつてゐた。私は、一つ一つ投げ出されて来たアメリカ土人の鳥かぶとを頭上に戴き、トーテム模様を織り出した草織のガウンを着て、腰にはサアベルを吊りさげ、朱塗りのカラス面をかむつてゐた。そして女房は、夜目にもあざやかな白地にトラムペツト・フラワーの縫取りを施した白孔雀のやうなアルジエリア・マンに包まれて、婀娜たる羽根扇を擬して、片脇には胡桃色の軽快なリイガルを抱へ、脚には七宝を鏤めた鞣皮のサンダルを結んだ。そしてマントの隙間から緑色の天鵞絨に馬鞭草の唐草模様を刺繍したタイツの胴には、炎ゆるやうなタイア染のバンドが隠見された。──これらの装ひは、去年の春私達が彼女の誕生日を祝福して、仮面舞踏会を開いた時に色紙やカーテンを材料にして作成した古ノルマンデイの原始族の模倣品で、バスケツトの中に丸め込まれてあつたのを彼等は何かと思つて験めたところが、やあ、これは紙屑か! と気づいたので、売声を発するまでもなくポンと窓外にはふり出したのである。だから私は今、七宝を鏤めた等々と誌してしまつたが、それにはカツコを附して述さなければ当らぬ態の、何も彼も絵具と色糸との加工品である──実際、あたりの夜気は、上着も外套も持たなかつた私達には稍薄ら寒かつたので、そんなマントも相当の必要物となつたわけであつた。
「しかし……」
と私は彼女の肩に敬々しく手をかけながらカラス面の下で唸つた。私は、頬に熱い雫が垂れてゐるのを感じた。創作創作──などと繰り返しながら、至極普通の感情を持つてゐる同伴者にまでも、斯んな苦労ばかりを与へてゐることが堪らなく気の毒になつて来たのである。私は、彼女のこの装ひが大変に見事で、もう何も彼も忘れてしまひ、斯んな長閑な朧夜の霞みの中を歩いてゐると、世にも幸福な大王様と后が花園を散歩してゐると思はれるのだ──といふやうなことを告げたかつたのであるが、断じて言葉が続かなくなつてしまつたのである。
「どうしたの、Ossian! ──おなかゞ空いたんぢやないの?」
「左うだ──。然し、わたしよりも君は何うなの? 歩くのが切なかつたら、わたしの腕の上に載つて……」
「…………」
彼女は黙つて俯向いた、愛を囁かれた娘のやうに──。
私達は、窓に向つて憎々のウヰンクスを送つた後に手を執り合つて其場を退いた。青草を踏むサンダルの感触が、雲の上を往くやうに滑らかで、他易く空腹を忘れることが出来た。
門口に回ると、誰が乗つて来たものか空車をつけたドリアンがたゞずんでゐたので私は轡をとり、彼女を座席に促した。彼女はマントの裾をつまんで、慎しみ深く車上の人となつた。
私達は予定に従つて岬の納屋を目指した。買収品の荷を担いだ連中が、車の紛失に気づいて止惑ふであらう光景に就いて話合ひながら、麦畑の岡裾を回り、崖径を辿つた。行手の岬の魚見櫓の真上に円い月が懸つてゐた。黒い岬の背が蝙蝠の翼のやうにうねり、遥かの崖下に波の響きが聞えるより他には、動くものゝ影もない涯しもなく静寂な月夜であつた。
私は、刻々に強まる酔ひに似たものを感じはじめてゐた。睡気のやうなものが、視開いても〳〵眼蓋の上に覆ひかむさつて来た。その度に私は、ドリアンの頭上の空気に鞭を鳴らした。──月が、円塔形の櫓の中腹に低く垂れ懸つて私の眼に映つた。塔が急にあの鉛筆に似た煙突のやうに細くなつて、煙りが見えたかと思ふと、スルスルと空中に浮びあがつて大空を割する巨大な時計のダイアルの位置をぐる〳〵と回り、月が悠やかな弧を描いて振子と化してゐた。──私は、わけもなく、いつか風車となつて見あげた時の月を思ひ出したりしてゐた。そして、あの時の月の方が華麗であつた! などと思つた。
漁場の広場には大きな篝火が焚かれて、樽を叩く者、踊る者、そして合唱の渦巻きで大変な騒ぎであつた。彼等は私達の馬車が到着したのを見つけると、一勢に天に冲する歓呼の声をあげて、悦び迎へた。
豊漁祭の由であつた。──青鬼がゐた。天狗がゐた。赤鬼がゐた。皆な、夫々の仮装を凝して大浮れであつた。彼等は私達も亦この豊漁祭を悦んで駆けつけた踊り手と思ひ違へて、有無なくその渦巻の中へ引き込み、八方から盃と料理の皿を突きつけた。私達は、間もなく気分をとり戻すと、法螺貝や樽や、笛、擂り鐘、銅羅等のジヤン〳〵と鳴り喚く、大合奏に伴れて踊り回つてゐるカロルの中へ紛れ込んだ。
月が、あんな風に見えたのは空腹のせいだつたのか──と私は気づいた。
「わたしは明日から、あの櫓の上で観測係をつとめるつもりだよ。あなたは、あたしの助手になつてお呉れね。」
「おゝ、嬉しい!」
と、私の踊り合手は私の頬の傍らで悦びの声をあげた。──「Ossian ──お前は勇敢な妾の夫だよ。」
私は、私の言葉つきが女のやうであるのに気づいて秘かに驚いた。九郎達がゐなくなつてからといふものは、天地の間で、女房ひとりだけが話合手であつたゝめか、いつの間にか私はその影響を被つて、そんなになつてゐたか! と思つた。あれ以来の、ひとりの自分の眼に映ずる様々な風景が、夢ともなく、現実ともなく、一つ一つの額枠に収つて、新奇に私の胸に影響してゐるのを知つた。私は、影響を怖れなかつた、それは「亡霊の心象」に行手を知らしめる仮象の門と、私は認めてゐた。私の胸には、春の夜の有頂天のどよめきが、篝火を透し、合唱を呑み、眼に映ずる凡ゆるものゝ姿を貪つて渦巻きながらものゝ見事に自然を征服する息づかひに溢れてゐた。
「Ossian! 明日からも妾は、左う呼んでゐて好いの?」
彼女は、漁場に動く人々は悉く珍奇で明瞭簡単な通称で称び合つてゐることを知つて、不図私に訊ねるのであつた。
「忘れてゐたよ、櫓の務め人には次々に伝はつてゐる特別の仇名があつたが──ドラ権さんに、後で訊ねて見ようよ、皆なが、それで、あたしを明日から称ぶようになるだらうから、あなたもそのつもりで……」
私は踊りながら、塔の上を見ると、そこの見張番だけは祭りにも加はらず、眼鏡を伸して海の上を見守つてゐる有様だつた。
「早速、行つて訊いて見ようぢやないか、楽しいよ。そして今夜からあたしも改名さ。」
そんなことを呟きながら螺線状の階段を昇つて、途中の私が借りてゐた部屋の前まで来ると、中から凄まじい鼾声が、それは全く猛獣が眠つてゐるのではないかと怪しまれる程の猛々しさで轟々と唸りを挙げてゐた。
この部屋こそは私より他には、断じて出入禁止の私の文学に関する仕事部屋なのだ。
「盗棒に違ひない。」
と合点して、やをらその扉を開けた時に私は、思はず、アツ! と声を出して、たぢろんだ。──といふのは、其処に倒れて、大鼾を挙げてゐるのが、九郎、八郎、七郎の三人であつたといふことに驚く前に、私は、その三体の寝像が恰も高塔の頂上から転落した屍のやうな姿であることに仰天した。
九郎はコムパスのやうに大股をひろげて、一本の脚を壁に立て掛け、仰向態に、いが栗頭を酒壜の傍らに転がせて、虚空をつかんでゐた。八郎は亀の子型のうつぶせに、ぺしやんことなつて、九郎の頭ちかくに悪魔のそれのやうに鍵なりに曲げた熊手で畳を引つ掻いてゐた。また七郎は、大の字なりにふんぞり反つて、大きく開けた口腔の下頤に指先を引つかけて、義眼のやうに両の半眼を視開いたまゝの熟睡であつた。枕は、あちこちの隅に飛び散り、酒壜や皿小鉢が乱脈にひつくり返つてゐる中で三人の男は、火山のやうな鼾きを挙げてゐた。皆な共々に極度の疲労の痕が痛々しく、頬がこけ、眼が窪んでゐるやうであつた。それは、私に私達の創作の仕事の後の容貌を連想させた。
私は、ひとりひとり彼等の寝像を正し、枕をあてがひ、風邪を気遣つて被着を探してゐた。──斯んな出来事は知らずに先へ行つたアルジエリアのマントが、櫓の上から、頻と私の新しい名前を呼んでゐるらしかつたが、広場の騒ぎと、三人の鼾きの雷鳴にさへぎられて、何うしても私の耳には、それが判別が出来なかつた。
三人の寝像を憂慮しながら、あれこれと手を回してゐる私の振舞ひは、怖ろしいサアベルなどを携へた原始族でありながら、さながら女のやうにものやはらかであつた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第十巻第十号」文藝春秋社
1932(昭和7)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 第十巻第十号」文藝春秋社
1932(昭和7)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2016年5月9日修正
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