サクラの花びら
牧野信一




 テオドル・ルーズベルトが、一九〇二年に大統領の覇権を獲得して、九年までの二期、その前後に於けるW・マツキンレイ及びW・H・タフト──彼等三者の数年間にわたる激しい争覇戦は、北米政戦史の花吹雪と謳はれて、今尚機会のあるごとに多くの人々に噂をのこしてゐるものであるが、──丁度その時代に恰もそれらの三代表の鼎立に伴れて、ワシントン、フイラデルヒア、ハーバードの三大学蹴球争覇戦が、中部地方の人気を弥が上にも湧き立てたといふはなしは、無論そんなお祭り騒ぎの出来事は、夢のやうに消え去つて、おそらくは世界運動史にも残つてはゐないのである。何故なら、それらの試合は全く時の三大統領の政戦に附随したもので、もとはと云へば、覇者を讚へるための「大学祭り」に過ぎなかつたのである。ペンシルバニア地方を代表したフイラデルフイア大学はタフトを、ニユーハンプシヤイア地方からのハーバード大学はマツキンレイを、そしてメリーランド地方としてはワシントン大学がルーズベルトを支持した。新しい年の冬に挙行される、この吉例の試合には、云ふまでもなく、時の大統領が臨席して手づから勝盃を贈るのが慣例だつた。

 マツキンレイ大統領の任期には、「W」大学と「P」大学が、ハーバードに迫り、ルーズベルトの任期には「H」と「P」がワシントンを敵と構へ、タフトの任期には「W」と「H」がフイラデルフイアを陥入れんといきまくといふが如き勢ひで、終ひにはそれらの勝敗がプレジデントの人気にさへも影響しようといふ理不尽なる風が吹きまくつた。

「W」大学が「P」を一蹴して、ハーバードを一八九八年、九年と続けて撃破した折などは、勝盃を贈らうとするマツキンレイ大統領の腕が悲しみに震えてゐた、あれが次の総選挙に際しての敗戦の陰影をつくつた──といふやうな噂が飛んだ位ゐであつた。

 この物語の発端は一九〇四年の秋、ポートマク河畔の合宿に屯した「W」大学の選手連の風景から一挿話を取らなければならない。彼等は前年の冬にはハーバードを破り、フイラデルヒアに迫つて惜しくも破れた。更に前々年は脆くも大敗の憂目を嘗めてゐた。──大統領ルーズベルトは、任期以来三年も続けて「H」と「P」に「憂鬱なる勝盃」を授与してゐた。

あかつきの空にひゞきて自由なる

鐘は鳴りて

ポートマク河の誉れの夢よ

われら青春の永久とはなる勝利

……

 これは新たにつくられた「W」大の応援歌の一節であるが、その大意は白堊館ホワイト・ハウスの秘書課から合宿所宛に送られた激励文に従つて、作詞されたものといふ噂であつたが、彼等にとつては寧ろ皮肉の痛手を覚えずには居られなかつた。

「吾等万一今回の試合に敗れたるあかつきは翌年度の出場権をコロンビア大学に譲渡の止むなき絶壁に瀕せるなり。夢に想像するだに悲憤の極みならずや。吾等一党はアラスカを放浪せんよりも、命の片々をポートマク河の吹雪と希ひしが本来の誓ひならざりしや。」

 合宿所のホールには、キヤプテン・ジミーが赤インキの刷毛を揮つて大書した檄文が、大統領の肖像の下に貼り付けられた。


「ジヤツキー……今夜の、お前はタキシードは間に合ふのか?」

 霙まぢりの雨の中で練習を済ませたラガー達は、濡鼠で合宿に戻ると、いつもより念入りにシヤワアを浴び、中にはもう一遍剃刀をつかふ者もあつた。

「それがね……」

 と、ジヤツキーと呼ばれた青年は、洗つたばかりの房々とした茜色の髪の毛が重く額に垂れさがるのを、やけに首だけで後ろに振りあげながら鹿爪らしく唸つた。彼は航海科の学生でJ・L・ハミルトンといふ名前であつたが、ジヤツキーといふのは仲間の誰でもが一つ宛持つてゐる通称だつた。──「あれから、もう三週間目になるといふのに、未だに祟つてやがるんでね……」

「ぢや、今夜の映画会では貴様はもう一遍技手を務めるより他に手はないぞ。」

「ベン、そんな意地悪るを云はずに、今日だけはお前、技手をやつて呉れ。実はだね、ヘンリーと俺に対するローランドの愛情を、今日こそは明白にしようと、約束してあるんだ。どちらを? と吾々は単刀直入に彼女に訊かうといふんだ。そして、その結果に依つて吾々の友情が新しい路に進まうといふ瀬戸際なんだ……」

「ハツハ……羨しい限りだな。それにしても吾輩の上着は永久に吾輩の所有であるだけで、貴様の役には立つ筈はあるまいが。」

「寒い日の鴉のやうに俺はもう一遍控室の隅で孤独の口笛を吹かなければならないのかな……あゝ、辛い哉だ。」

 長身のジヤツキイは、水車馬ミル・ホースといふ仇名のベンの丸い肩をつかんで、大形に慨嘆の見得を切つたりした。──「せめて半日宛で好いから三日間、W日報社へ働きに行く許可が得られゝば、斯んな安価な悩みに、斯んなに深刻に悩まされるなんていふ空しさから忽ち救はれるといふのに──あゝ、あゝ──だ。」

「一体、ジヤツキーは何処で、そんな大尽遊びをしたといふんだい、白状の仕方に依つたら日報社行の時間をつくつてやらないこともないぜ。」

 不図傍らからジミーが呼びかけた。不断なら学生達は小使銭に窮迫するとW日報といふ新聞社に何時でも臨時の雇員になつて日給を稼ぐといふ方法であつたが、練習期に入つて以来の選手は特にそれを禁止されてゐた。

「いゝえ……」

 ジヤツキーは相手がキヤプテンだつたと気づくと、苦笑を浮べてあかくなつた。「ほんのちよつとばかりソーダーフアウンテンで騒いだ程度のことなんですが、つい、ヘンリーの愛国心に同感してシヤムペンを三本も抜いてしまつたのが……決して弁解しようとしてゐるんではありませんぜ。」

 すると、ジミーは思はず晴れやかな笑ひ声を挙げてジヤツキーの肩を打つた。

「貴様もか。俺だつて今夜はお前と同じ状態なんだ──と云つたら、お前も心丈夫だらう、何しろ、愛国心には予算はないからね。」

 噂のヘンリー事、大津弘雄はその夕刻も日報社の外報部で、臨時電信係として全身の神経を緊張させてゐた。──既に日露両国の国交は断絶して、黒木大将の率ゆる第一軍は鎮南浦へ上陸し、奥大将の第二軍は遼東半島を襲ひ、金州城を陥れた。弘雄の末弟にあたる大津行雄は黒木軍の先頭部隊に従つた一上等兵として、沙河の激戦に火花を散らしてゐた。


 大津弘雄ヘンリーは、ワシントン大学工学部の電信科の学生で、同時に蹴球部の一選手であつたが、彼の愛国心を擁護しようといふ部員達の特別の好意から、練習時間を繰り合せて外報部への夜勤を許されてゐた。──彼は、その頃あたりの学校ぢゆうで、別段最初の日本学生といふわけではなかつたが、恰度、後にも先にも同胞の姿の絶えた折で、戦争が始まつて以来は、単に彼が一人の日本人といふだけの理由で、急に周囲の人達から特殊な眼で注目されはじめたのを、光栄と感ぜずには居られなかつた。街を歩いてゐても、見知らぬ人から握手を求められたり、女学生達から、

「ベリー・ブライト!」

 などゝいふ讚辞を浴びせられるのも、次第に度重つた。彼は新聞社で日本軍の勝利の報を受けとる毎に、多くの社員達にとりまかれて、恰も彼自身が勇士であるかのやうなもてなしを享けた。

「もう、ホールの準備は終つて間もなく見物を入場させるところだが、そつちの用意は何うだ?」

 ジヤツキーからの電話だつた。弘雄は日本から着いた「日本映画」の第二報を携へて、合宿のホールへ、その説明者としての役目を振り当てられてゐた。合宿では月々一夜を選んで選手の休養かた〴〵、彼等の父兄や友達を招いで茶話会を催すのが例だつたが、この二三回この方日報社にとゞく戦争の実写映画と幻灯とを映写した。それは街々の公会堂でも催されたが、合宿のは日本学生の説明だといふので噂が高まつた。あちこちの映画会から大津弘雄に説明を申し込まれたが、学生は一般の観覧者の前に立つことを禁じられてゐたので、益々合宿所の幻灯会が好評の的になつてゐた。

「君は今、何処に居るんだい? ジヤツキイ、待ち切れないで出かけてゐるんだらう。」

「さうだ。ローランドのフルーツ・パーラーからだよ。」

「今ね、この一週間分の給料を貰ふところだから、あのことは心配しないでも好いよ。」

「……ジミーの分も大丈夫か?」

「金の要るいとまもなかつたからね。」

 と弘雄は笑つた。──そして彼は社の裏口から自転車を飛ばして、ユダヤ人の質屋へ赴き三着のタキシードを受け出した。彼等はこの前の幻灯会の帰りに、果物屋の二階の喫茶室で、その晩の弘雄の説明振りに感激のあまり、凡そ自分達の力量では経験もなかつたシヤンパンを抜き過ぎたゝめに、上着を脱がなければならなかつたのであつた。

「ヘンリー、お前の雄弁は生れながらの筈ではなかつたのに、あの説明振りは、共和党を弾劾したわれらのプレジデントの演説よりも素晴しいものだつたぞ。」

 ジミーもジャツキイも、そんな大形な讚辞を呈して、弘雄のために、そして勇敢なる日本軍の為に──と熱狂して、一張羅の上着を飲んでしまつたわけであつた。

「お前に働かせてゐる俺達の好意が──却つて俺達の飲代になつてしまふんで、少々矛盾してゐるな。」

 ジヤツキーは漸く取り戻した上着の袖を通しながら「お蔭で技手にならずに済んだ。」

 と苦笑した。

「愛国心には予算はないからね。」

 弘雄も、その流行語を口にして笑つた。ローランドを真中にして、彼等は合宿へ向つて馬車を駆つた。


 合宿所のホールは定刻前に満員だつた。学生達は一様に黒朱子の襟を光らせた上着をそろへて、来客の斡旋に多忙を極めた。官舎の秘書長が家族伴れで秘かに見物に現れ、その同伴者の中にはテオドルの令息令嬢が加はつてゐると、控室へ伝達される位ゐの盛況だつた。弘雄は、音楽部員が奏しはじめた「軍国歌」を、夢のやうに聞きながら、切りと説明文書暗誦に余念なかつた。そんな間にも、もはや彼の出場を待ち構へた観客席の方からは、ヘンリー、ヘンリーと呼びあげる声が次第に物々しかつた。彼は、これまでの解説振りがそんな好評を博してゐるのだ──と考へるよりも、勇敢なる日本国民の一員として、時機的なる好奇の眼を寄せられてゐるのだ──とおもふと、おそろしく茫大無比な責任感に圧迫され勝ちであつた。

 出物だしものは、例に依つて日本側とロシア側の司令官の肖像幻灯にはじまり、無名戦死者の名前が無数に列挙された。そして順次に、両国の軍隊の輸送の光景を撮つた断片的の活動写真が映写された。弘雄は、桜の造花を一輪胸先に飾つて演壇に現れ、水底のやうにしんと静まつた薄闇の中で、おもむろに講演をすゝめてゐた。彼は記憶力が並外れて勝れてゐたので、説明書を見て二三回控室で暗誦したのみで、演壇に現れてからはたゞ画面に伴れてたうたうと弁じながら、日程や数字に関してもいさゝかの誤りもなく、次第にその口調には悲壮気な情熱が加はるのであつた。

「……先づ露軍の陣容を申しあげますならば、戦闘陣営の参謀部を四平街にすゝめて中央となし、その東翼一帯にはクロパトキン大将の統率する第一軍歩兵百六十大隊、砲兵四十七中隊、騎兵八十四中隊をもつて戦線に備へ、中央部より以西遼河に至るまでの平原地帯にはカウリバルス大将の統率する第二軍歩兵百七十六大隊、騎兵四十二中隊、砲兵六十八中隊を敷いて防衛し、更に遼河以西より大蒙古地帯に渡つてはミシチエンコ中将の統率せる騎兵四十八中隊、砲兵三中隊を以て背水の陣に備へ、海竜城地方から北山城子にかけてはレーネンカンプ中将の統率せる歩兵四十二大隊、騎兵二十四中隊、砲兵十四中隊を備へて側面の守備に置き、ビリデルリング大将の統率する第三軍歩兵百二十八大隊、砲兵四十八中隊、騎兵十二中隊を公主嶺方面の全線に配置し、戦略予備隊としてはリネヴイツチ総司令官の新輸送部隊をおくり、こゝに総兵力歩兵五百三十八大隊、騎兵二百十九中隊、砲兵二百七中隊と算上さるゝ一大軍勢であります。凡そ日本軍勢の三倍にあたる兵力であり、加之、日本部隊に於きましては現役士官の大多数は死傷して、予備後備の士官達が出動するの状態に至りつゝあつたのに引き換へて、露軍の輸送力は大陸の無尽──欧露の線列兵を挙げて波の如く尽きざる優勢であります。こゝに於きましては、今や日本軍の鋒先は恰も数万の飛竜に反抗ふ蜂の如き状態であり、一騎兵をもつて千百の敵を斃すべく、ひたすら炎える意気を持つてのみ血戦の覚悟に奮ひ立つたのであります。──あゝ、桜咲く東方の島に果して神は御恵みを垂れ給ふでありませうか!」

 弘雄の額からは油の汗が流れた。彼が、最後の言葉を放つて一息いれると、場内には割れるばかりの歓声が巻き起つた。白ちやけたスクリーンの上には、今や小学生の打振る日章旗に送られる出征軍を満載した列車が、濛々たる黒煙を挙げて東海道の風景の中を南下してゐた。


 ……列車の窓から、上半身を乗り出した出征兵士達は、肩と肩に折り重なつて、見送りの群集の歓呼に応へてゐた。──弘雄は、斜めに画面を見あげながら、

「斯くの如くロシアは、その本国に尚々強大極まりもなき兵力を抱擁するに反し、吾は既に有らん限りの兵力を用ひ尽したるなり、而して開戦以来にうしなひたる多くの将士を、今後容易に補充することも能はざる状態なり。座して守勢をとるも、進んで攻勢をとるも、前途悠遠にして、容易に平和の回復を得るの望みなく、雲さへも日々に暗澹として相争ふ人類の姿を見守るばかりであります。──されど見よ、日本軍人の面上に浮ぶ美しき微笑は、諸君のまなこに如何なる意味をつたへて映ずることでありませうか……」

 続けるに連れて、弁士の語調も観客の声援も、颯々として熱狂の頂点に達せんばかりであつた。いつの間にか、多くの観客は、

「バンザーイ……バンザーイ……」

 といふ言葉を覚えて、応援の声を放つた。

「バンザーイ……バンザーイ──プル・ハードしつかりやつてくれプルーハードがんばれ……」

 そんな騒ぎの中に立つてゐると、恰度それらが軍用列車を送つてゐる画面の群集からの声とまぎらはれ、弘雄は自分も今、あの列車に投じて出征してゆく者と寸分もたがはぬ凜たる夢心地に酔つてゆくばかりであつた。


 遥かに──弘雄の故郷の草葺屋根の下でも幻灯会が催されてゐた。十畳間を二つ貫き欄間から欄間には子供のつくつた小さな日章旗と聯隊旗が縦横に張り回され、床の間には、御聖像軸の下に、乃木、黒木、奥、東郷の諸大将の肖像画が掲げられ、鑎の上に組み立てられた鎧の上には連縄しめが張つてあつた。そして昼夜の差別もなく灯明が絶えなかつた。老主婦のたいは、百五十の石段を算えて、裏山の摩利支天堂に「うしとき参り」の祈願をこめてゐた。満洲の野に出てゐる末子の行雄に、にも潔き護国の鬼と化せよ──と彼の母は神を通じて伝達した。彼女は、また、アメリカといふ国で、生命を賭して闘ひ、一日本人としての名誉を樹てん──と手紙の度に知らせて来る長男弘雄の、その所以は知らなかつたが「御前試合」と同然であるといふ戦ひの、勝利のために神前に額づいた。

 座敷には近所の子供達が充満して、廊下に溢れ、庭の泉水の傍らには篝火が焚かれて、老若の見物人で立錐の余地もなく、鹿の角の定紋のついた法被を着た四五人の職人が声をからして整理に没頭してゐた。恰度築山が適度の勾配をつくつて居り、奥の壁に天井から垂れさがつたスクリーンを正面に見下ろすことが出来るので、莚を敷いて席をつくるほどの盛況であつた。

 スクリーンの裏側に丸窓を境ひとした北向の六畳間が太郎とその従兄の照雄の勉強部屋であつたが、幻灯会の夜は音楽室並びに弁士控室に当てられた。弁士は湘南新聞の社長で、虎の如き音声と吾から自慢してゐる虎髯の、不断でも木綿の紋付羽織を着て手綱のやうに長い白の羽織紐を首にかけて結んでゐる服部万十郎であつた。「万十まんじふ──まんぢう……」といふ声援がかゝると彼は、

「それは吾輩の本名を呼ぶのか、それとも嘲笑的、綽名なるか?」と開き直り「否、否!」といふ返事が聞えるまでは、講演を中止してゐるのが癖であつた。彼は得意の絶頂に達すると幻灯の合間に自吟自演の剣舞を披露した。


 音楽部は、太郎のオルガンと、ケラア先生の手風琴と、太郎の若い母親の月琴から成立つたトリオであつた。ケラアといふ老境のイギリス人は、町瑞れのメソヂスト教会の宣教師で、太郎のオルガンと英会話の教へ手であつた。

「太郎が学齢に達したならば、当地の小学校へ入学せしめ……」云々といふ手紙を、その父の弘雄は、未だ太郎が三才にも達せぬ頃から、折に触れては細々こまごまと遠大な希望を述べて両親や妻に書き送り、ともあれ、彼が言葉を喋舌りはじめたら間もなく、習慣的に英語の会話を教へ込んで欲しい──と熱心であつた。

「母さん──僕はいまにひとりでアメリカへ行くの?」

 太郎は、そのことを空想すると、何か自分が不思議な人物であるかのやうな、漠然と、止め度もなく寂しい念に誘はれ、到底まはりの者が実行など出来るものかと高を括つてひとりで安心したり、胸をときめかせたりする習慣が自然と七才の彼に憂鬱を知らしめたかのやうであつた。

「お前は行き度いと思ふかね──そのうちにケラア先生がアメリカをまはつて国へ帰られるといふことなんだが──お前がほんたうに行き度いといふんなら、いつでも父さんのお友達が乗つてゐる船が横浜へ来る時に、頼んでも好いんださうよ。」

 お葉はさう云つて、凝つと太郎の顔を視詰めるのであつた。──太郎は、いつもその視線が何故ともなく青光りを堪えてゐてこはく、何う答へたら母の機嫌を害はずに済むだらうか? と、本意なくも、そのことばかりが気に掛るばかりであつた。お葉は、今迄機嫌好く笑つてゐたのに、突然に空色が変つて、狂乱状態にはしる場合が珍らしくなかつた。ひとりで琴を弾いてゐるかとおもふと、遇然にもそこを通りかゝつた太郎の跫音が無礼だつたとおこり出して、がむしやらに楽器を掻き乱して悲鳴を挙げた。──それ故、彼は幻灯会のオルガンを弾ずる時にも、何よりも月琴の母の様子ばかりが案ぜられて、秘かに横目をつかつた。母が眼を閉ぢて余念もなく弾奏に耽つてゐると安心して、指先が自由となり呂律正しいベースをふんで弾ぜられた。戦争がはじまつてケラア先生の帰国の噂も立消えとなり、太郎は八才で学生鞄をさげたところ、第一学期の成績から、操行点一つが乙で、卒業までもそれは取り返しがつかなかつた。別にいたづら者といふわけでもないのだが、特に授業時間中に落着きが足りず、常に左右に心を配つてゐるかの如き腺病状態が乙の原因だと、町役場の収入役であつた祖父が訊いて来た。──。

 服部万十郎が、例に依つて戦闘状態の大略を述べ終ると、

「先づ諸君、では精一杯に征露軍歌を絶叫して──」

 と力一杯卓子を叩き「ランプ……」と命じ、更に音楽部へ向つて「おう……」と合図する。同時に鎖を引くと消えるアメリカ製のきらびやかなオイル・シヤンデリアが、ワアツ──といふ観客の熱狂と共に幻のやうに消えて、技手役の照吉が写し出す日章旗のへんぽんたる光景が華麗な色彩いろどりを浮べた。

「はじめ……ツ!」

 万十郎が拳骨を振りあげて真実虎の如くに吠えた。音楽が先に立つて、やがて満場は老若の差別もなく手拍子足拍子も物々しく、血煙も立つかと思はるゝばかりの世にも壮絶なる大合唱が、あはやさしもに重たげな草葺尾根も吹き飛ばさん勢ひで巻き起つた。

〈敵ハ幾万アリトテモ スベテ烏合ノ勢ナラズ 烏合ノ勢ニ非ズトモ 味方ニ正シキ道理アリ 邪ハソレ正に勝チ難ク……〉



 万十郎は剣舞できたへあげた「満身の鉄骨と憂国の血涙」と自ら誇る五尺の体躯を(彼は丈が真実五尺であつたが、十七貫もあるといふ固太かたぶとりの布袋ほていであつた。)ひつさげて、大合唱のコンダクトを執つた。彼は、いつの間にかスクリーンの真んなかに飛び出して、満身に月の光りのやうな、まんまるの投射光を浴びながら、剣舞とも見紛ふ花々しい動作で調子をとつてゐた。

「母さん、見て御覧なさいよ、服部先生が、あんなに……」

 音楽などは虫の声ほどに圧倒されて、弾奏を止めても何の差障りもなかつたので、太郎が傍らの母に囁くと、お葉もスクリーンの裏側に眼を挙げた。

「お前はラツパをお執りよ……」

 お葉は、太郎の本棚の上に載つてゐる新しいコルネツトを指差した。祖父の英則が、近頃赤十字社の総会で上京した時に、銀座通りの十字屋で購つて来たもので、太郎は軍歌ぐらゐならば難なく吹けたのであつたが、いつか太郎がそれを練習してゐるのをお葉が眺めて、頬つぺたがふくれ過ぎて、太郎の顔ではないやうに見える──とうまければ巧いほど、何故かゲラゲラと笑つたので、彼はそれ以来母の前ではその楽器を執りあげたがらなかつたのである。

「……だつて、母さんは笑ふんだもの。」

 と太郎がはにかむと、お葉はひどく気色ばんではぢき返した。「そんなことを云つてゐる時ぢやないよ。」

 その疳走つた叱声には、太郎はいつも二の句がつげずに降伏するのが常だつた。本棚の上の壁には弘雄が送つた紫地に白で抜いたワシントン大学のペナントが懸つて居り、ラツパが薄闇の中に真鍮の光りを放つてゐた。太郎は人の顔かたちなど判別も出来ない暗さに安心して新しい楽器を執りあげた。

君は小さいけれど呼吸量は大丈夫だよユウ──マイ・デア・ツウ・ハヴ・ア・フル・ブレツス……その影画に合せて力一杯吹いてお呉れゴウ・オン・ウイズ・ザ・シルエツト……。」

 ケラアさんは手風琴を続けながら太郎を促し、お葉がオルガンを代つた。どうしても、斯んな風に陣立を変更しなければ、一陣の竜巻の中に音楽部員も窒息しかゝりさうだつたからであつた。

〈我ニハ堅キ心アリ……〉

 にはかに喨々たるラツパの音が響き渡ると、合唱は更に激甚な颶風を呼び起して、此処を先途と湧き立つた。

〈堅キ心ノ一徹ハ……〉

 万十郎の胸先は腹までひろがり、荒熊のやうな胸板を彼は砕けよとばかりに打ちなぐつて、大上段の大見得であつた。

〈石ニ矢ノ立ツタメシアリ、石ニ立ツ矢ノタメシアリ……)

 ケラア先生もお葉も、そして太郎も夫々の魂をひたすら楽器に打ち込んで夢中となつた。先生は風琴を抱へてあちこちと歩き回り、太郎は殊更なる半音を力一杯に吹き鳴して、悲壮の闇をつんざいた。歌の合間と合間の息入れに、太郎のラツパの響きが震へると、あちこちから欷歔の声が流れた。

「号外──号外──」

 往来には激しい鈴の音が、疾風のやうに駆け抜けた。──と、スクリーンに、赤インクを持つて大書された淋漓りんりの文字が現はれた。

「旅順口陥落! 我軍大勝利」

 明治三十八年一月一日──。

 人々は正月もなくよはひも知らず、涙がこんこんたる大雪と化して天地を埋めた。南風の爽やかなその海辺の町にも、古老も知らぬといふ牡丹雪が夜を徹して降り止まなかつた。


 旅順口を撃破した乃木第三軍は、北上して奉天へ向つた。遼東半島から金州を襲撃して北方へ転じた奥第二軍は、クロパトキンの率ゆる旅順応援軍を得利寺の要路で潰滅せしめた。黒木第一軍は朝鮮半島を踏み越えて一路満洲の中央部を衝いて突進した。野津第四軍は第一、第二軍の中間を覆ひ、大山総司令官の率ゐる第三軍と左右の翼をそろへて遼陽城を陥没し、新輸送をもつて圧し寄せた敵の線列兵を沙河の会戦で血祭りと砕いた。──全勝の日本軍はこゝに、最後の兵力を合致して、連敗の憂目を雪がんと六十万の兵をもつて陣容を健て直したクロパトキンの奉天を目指して、大挙した。

 太郎の海辺の町も、「号外」の鈴の音と、戦死者の送葬曲とに、明けては、暮れ、そしてまた提灯行列の祝勝騒ぎと、行進曲の合唱に鼎の如く湧きたつうちに、いつしか遠方の山々の雪も解けて、紫色の山肌が艶々と光つた。太郎の家は、幻灯会につゞく、祝勝宴や、日毎に営まれる戦死者の葬礼に関する事務所に当てられて、電話が架設された。うちの者は誰もその使用をはにかみ、恐れて、服部社長や役場の人達が、東京を呼び出すさまを、見物に集る近所の人々と共に、驚嘆の息を殺して眺めるだけであつた。

「それつ──電話が鳴つた?」

 主人の英則は夜更けでも、ベルの音がすると大いに慌てゝ、隣りと云つても竹藪の向方の服部家を呼びたてずには居られなかつた。

「今度こそは行雄の番だ!」

 と彼は、息子の戦死を覚悟して、その度毎に念仏を唱へた。

「おぢい様は度胸が足りないんだよ──血筋は争はれないね。」

 英則が電話のベルに驚くと、たいとお葉はそんなことを云つて、太郎をたしなめた。英則は近在からの養子だつたのだ。

「黙れ、これが凝つとして聞いて居られるか──俺は行雄の戦死を待つてゐるんだぞ。」

 彼は出征者の父といふことから、役場の事務も当分他人ひとに委せて、町内の軍事部長といふ名前で、自家の事務所に籠り勝ちであつた。憂ひにつけ、悦びにつけ、彼の指先からは酒盃が離れなかつた。彼は、壁一面に貼りつけた満洲の地図と大きな地球儀を備へた離れの居間にうづくまつて、酒がまはると脇息にもたれて仮寝うたゝねをするだけだつた。奉天の総攻撃が終るまでは、脚を伸して眠るわけにはゆかぬと頑張つた。

 地図の上には日本軍の進路が赤線で書き込まれ、占領地点には夫々旗を立てた。彼は未だ六十歳には達せぬといふのに、一見すると七十位ゐの老人とおもはれるほどだつた。米俵を計る棒秤の鉤に椅子をぶらさげて胡坐をかきながら、三人がゝりの男手をつかつて折々重量を試すと、次第に肉が削げて十一貫代に落ち、この分では奉天が陥落するまでには案山子のやうに突つ張つてしまふだらうと吐息をつき、謡などをうたつても丸で力が入らず、風船のやうだとわらつた。

「戦争が済みさへすれば、俺だつて腰を伸すぞ、裸一貫になつて踏み応えるんだ。」

 彼は気分が滅入り出すと、太郎にラツパを吹かせたり、万十郎の詩吟を聴いたりして、漸く酒の酔をもつて元気をつけ、女房や嫁が顔を顰めるのも構はず花街へ乗り出した。──彼は、金州城の陥落を聞いた時には、泉水の緋鯉を古城の堀に放ち、旅順の大勝利の報に接した折には庭先の五葉松の古本を神社の裏庭に奉納した。それは郡内随一と云はれた有名な松の木で、四方に枝の伸びた幾つもの翼が錐状を成して階段風に折重なつてゐた。


「奉天が陥ちたら、俺は門脇の桜を学校へ寄附するんだ。」

 英則は、更にそんなことを云つてゐた。日頃は彼が万十郎達と往来ゆきゝしてさへ、何しろ服部は名うての壮士で懲役へ行くのを自慢にしてゐる人物なんだから──とたいもお葉も好い顔はしなかつたのに、戦争のお蔭で誰にしろ内々のことなどに是非を云つてゐる余裕など失つてゐたので、それ故はじめて英則の主張もとほるといふ風なのだつた。英則の胸中は、斯んな機会に積年の鬱情を晴らさうといふやうな亢奮をも蔵してゐるかのやうだつた。

「戦争のためなら……」

 とたいにしろ物惜しみをする筈もなかつた。「家のことなど考へてゐられるものですか、もと〳〵御維新ごいつしんの時に……」

「さうとも〳〵!」

 英則は胸を叩いて浮き立つのであつた。「兵隊ばかりが戦さをしてゐるんぢやない!」

 おぢい様は、ほんたうの度胸があるわけでもないのに、口先ばかりで偉さうなことを喋舌るのが傷だ、第一他人の顔さへ見れば、さもさも自分が人の好い、大腹な人物であるといふやうな調子でへうきんな見得など切るところは丸で田舎まはりの芸人見たいで下司の骨頂だ──とお葉も常々顔を顰めて、あんなのがうつつたら大変だよ、と太郎に云ひふくめた。云はれて見ると、太郎のまなこにも、たしかに祖父の嫌に浮々と酒に酔ひ、不断はこせこせとしてゐるばかりで他人の顔を見ても碌々話も交さぬ癖に、急に人間が変つたかのやうに饒舌となつて、威張りくさつたりする姿は、無性に気色きしよく悪く感ぜられた。その癖自分よりも身分の高い郡長とか代議士とかゞ現れると、見るも気の毒な程慌てゝ、夢中であるかのやうだつた。

「太郎──おい、郡長さんに御挨拶もしないで素通りする奴があるか、これ〳〵〳〵!」

 英則は激しく首を振つて、睨めつけたが、一向その声にも素振りにも威厳はなく、太郎はいつも馬耳東風であつた。英則の頤は厭に尖つて長く、細長い首の喉仏は金槌の先のやうに鋭く突き出てゐた。太郎が秘かに「河豚」といふ仇名をつけてゐる青ンぶくれのやうな郡長の前などでは、彼はしよつちうその長い頤を何となく持てあましてゐる見たいな手付きで撫で廻しながら、決して自家の者や、後輩の前では浮べたためしもない、やにさがつたやうな平べつたい口つきで──エヘ……と笑つた。すると喉仏のとんがりが、それに連れて小刻みに震へながら、急にあがつたりさがつたりした。

「どうも長男が永年の不在でして、寄んどころなく当分はこの孫を名代としなければならない始末でして……」

 など、紹介されることが珍らしくなかつたが、いつも太郎は憤つとした顔つきでお辞儀さへも嫌ひ、凝つと爺さんの喉仏を視詰めてゐた。彼は、また稍ともすると女房のたいや嫁のお葉が、おつに勿体振つてやがる、ひとを見降みくだすのも好い加減にしろ──などゝ酒の勢ひで喚いたが、誰も怖がりもせず、却つてその素振りが一同の笑ひの種になるだけだつた。だが夜更になつて千鳥脚の彼が太郎とお葉の寝室を覗き、

「太郎や、好い児だから、お爺ちやんと一処に寝ねえか、何でも欲しいものを買つてやら。」

 などゝふざけると、太郎は心底から怯えた悲鳴をあげてお葉の床へ飛び込んだ。



 門際の八重桜は、幹の半面に、太郎が隠れることが出来るほどのうろをもつた老樹で、どこに花が咲くかとおもはれる枯木なのだが、季節になるとやはり水々しい花を開いた。でも太郎は不断それを見て、今年もまたこれに花が咲く樹かとは何うしても考へられず、木蔭の芝生に毛氈など敷いて夜桜を仰ぐ晩のことが、芝居の夢のやうに無稽に憶ひ出されるだけだつた。

「戦争が済む時分までには、こんな家は止めて何処かへ越してしまふの?」

 漸く蕾がふくらみかゝつた桃の枝を剪りに庭に出た祖母の後を追つて、桜の下を通りかゝつた時太郎は訊ねた。

「お国が滅びるか何うかといふ場合なんだもの、何うなるか解るものかね。」

 たいは腰を伸して、ふと桜の樹を眺めながら、

「太郎だつて、これがまた花の咲く樹とは思へないだらう。誰にでもさう見えるんだな、お噺にでも出さうな樹ぢやないか……」

 などゝ呟いた。

 たいは好く御維新前の戦争の話から、その父や兄が箱根の関所で戦死した頃を憶ひ出して──「ほんたうに古い桜の樹だ!」と余程感慨探げであつた。……鐘楼の鐘が昼となく夜となく鳴り渡つてゐた──とたいは回想した。その鐘の音が絶えたら、いよいよ敵軍が押し寄せたのだといふ合図で、鐘楼堂に集つた少年軍は必死の腕を奮つて鐘を打ち鳴らして、味方の最後の志気を鼓舞した。

「その時はうちのおぢいさんも鐘を衝きに行つてゐたの?」

「いゝえ、おぢいさんは城下の人ぢやなかつたんだから……」

 とたいは屹度苦味を浮べた。──いよいよ鐘の音が絶えて、彼女は北方の丘を越える避難民の群に投じて、母親と共に町を棄てた。

「そんなものを持つて行つて何うするんだと母さんが嗤ふのも構はず、あたしは御内裏様の一対を袋に入れて下げ出したんだよ。何しろあたしはその時十四だつたんだからね。」

 避難先の音羽村で英則との縁談が纏り、若葉の頃二度と戻れぬ筈の町に駕籠を連ねて到着した。英則は元来音羽金助といふ名前だつたのを養子と極ると同時に改名した。近頃になつても村からの老客などから、うつかり「金さん」と呼ばれたりすると、何故か彼はあかくなつて思はずあたりを見廻した。

 節句には、たいがその時に持ち帰つたまゝのものだといふ一対の大きな古い雛が、お葉の雛段の上に飾られるのか習ひであつたが、今年は軍事部の事務所でそれどこのさわぎではなかつた。それでも宵節句の晩だけは、たいが剪つて来た桃の枝を瓶に生けて、たいとお葉と太郎は、納戸の一隅に隠れながら秘かに赤い小さな雪洞ぼんぼりともした。そして三人が何時になく染々しみ〴〵と雀のやうに寄り添つて、たいの想出話を聞きながら白酒などを酌み交してゐると、英則がぬつと首を突き出して、

「何だ、こんなところに居たのか、冗談ぢやないぜ。アメリカから手紙だよ。」

 と小包を運んだ。一つは何時もの新聞で、太郎は附録の石版画が何枚も何枚も現れる新年号の色刷を繰り拡げてゐるうちに、思はず、アツ! と驚嘆の声を挙げて、母の手を握つた。薄暗く、ほのぼのと赤い雪洞の光りの下でお葉の読まうとする手紙を聞きかけてゐたたいもお葉も、それといつしよに太郎の指の先に眼を落した。

「お父さんの写真が出てゐる!」

「……なるほど、たしかに弘雄の顔だ!」



 一九〇五年劈頭──ポートマク・スタディアムに挙行された三大学蹴球試合の当日は、朝から煙りのやうな小雨が降つてゐる中を、観客の長蛇は忽ち二哩にも達しようとする列をつくつておし寄せた。大行列は競技場を一周して街に溢れ、五百名の警官隊が出動して整理に従事した。入場券のプレミアムは、三十分毎に一弗宛の価格を上げて、群集の中で奪ひ合はれた──とワシントン・デーリー誌に報ぜられた。

 メイン・スタンドの国旗席には試合開始の三十分も前からT・ルーズベルトが鼻眼鏡を光らせて場内の情景を見渡しながら、徐ろに奏楽され出した「W」大学の校歌に「期待と不安」の耳を傾けてゐるかのやうであつた。時の大統領の大学チームが、勝敗の別なく中央側のスタントを占めるのが慣例であつたから、「W」大学はもう四年も続けて連敗の憂目を嘗めてゐたが、やはり中央席の竿頭に紫の校旗を翻してゐた。右翼のフイラデルフイア側の応援席の中には、ソフトのひさしを眼深く降したマッキンレイ候補が神経質さうな眼を据ゑてゐた。「P」大学は前年度の優勝校で、折から近づく春の大統領改選期を控へて征覇の希望に拍車をかけてゐた。左翼のハーヴアード側には、来るべき候補戦に充分なる自信を抱いてゐるかの如きタフト候補が、豊満な二重頤に一見悠々たる微笑を湛へながらシガアの煙りをくゆらしてゐた。──一九〇五年度の蹴球戦が斯くも異常な人気を呼んだのは、東方の大戦乱を裁かうといふ立場の下に決行さるべき大統領改選期を控へてゐる時機であつたからといふのは自明の事実であつた。

「ヘンリー、頑張つて呉れ、お前を今年のレギュラアに選んだといふのは、繰り返して云ふけれど、お前がたゞ一個の日本人として、諸方から好奇の眼を集めてゐるのを秘かに利用したわれわれの策戦なんだよ、日本人といふ事柄だけが、お前を勇士にもりたてゝゐるんだぞ──選手としての力量ぢやないんだよ。」

「W」の控室で、ジミー・キャプテンはまた弘雄をつかまへて斯んな激励の辞を浴びせてゐた。

「その名誉こそは命がけだよ。」

 弘雄はヘルメットを被り、肩を揉みながら唇を噛んだ。

「俺も日本人に生れたかつたぞ。」

 F・Wの位置を弘雄に譲つたジャッキーが、両院を弘雄の肩にかけてゆすぶつた。「俺達は今年限りで卒業といふ土壇場なんだからな、俺としたつて我慢し切れないところだぜ、たつた一つあきらめ安いのは、コノ日本人が俺の友達のヘンリーだつたのが、幸福と思ふだけだよ。」

 こんなことを云つてゐる間もなく、やがてメイン・スタンドの頂上から喨々たるトラムペットが試合開始の合図を鳴り響かせた。

 紫と白のユニフォムをそろへた「W」、海老茶と黄の「P」、そして緑と真紅の「H」大学の選手団は、夫々の出場口から、ブラス・バンドを先頭に、国旗席の前に整列して、大統領の握手を待つた。

 怒濤の拍手、大学の名を呼ぶ代りに各々の候補者の名を呼び、応援席からは様々な綾言葉をもつて選手の風姿に呼びかけた。その中には「日本人!」「ヘンリー!」といふ声が高かつた。──第一回の試合は「W」と「H」の対戦で開幕された。そのうちに何処からともなくF・Wの弘雄を応援する声が、

「サクラの花びら! ……ゼ・スピリット・オヴ・チェリー・ブラツサム……」

 と誰が云ひ出したともなく、吹雪のやうに飛び散つた。凡ての選手中で傷害保険を付けてゐないのは弘雄ひとりであつた。


「P」大は前年度、「H」大は前々年度の優勝派で、当日第一回の「H」「W」戦では二三年来のコンデイシヨンから見ても、誰しも当然「H」に期待せぬものはなかつた。そして「P」と「H」との対戦に観戦慾を充たす筈であつたのに、はじめは案の条「W」が次第に圧され気味であつたところ、後半戦に至つて、持久力に熱を加へた「W」が稲妻のやうな火花を散して一気に、十六─二十四といふ大差をもつて悠々と、当面の強敵を打ち破つた。

 この時「H」側のタフトは、思はずシガアを噛み切つて足もとに叩きつけた。想はぬ快勝を見た「W」側の観衆は、鬨の声を挙げて総立となり、冷雨の降り止んだばかりの寒風も知らずに、上着までを脱いで踊り狂つた。国旗席の鼻眼鏡氏さへもが、さすがに豊かな微笑を包みきれず、左右の秘書役の肩を叩き、何事かを何時までも囁いてゐるといふ風であつた。

「W」大学は、おそらく五年振りで、第二回戦の機会を獲、強敵フイラデルフイア・チームに対戦するの面目を得たわけであつた。

「ヘンリー……S・C・Bサクラのはなびら……」

 控所に引きあげた「W」の選手の間でも、さつきからの観衆の声援から聞き覚えた弘雄の仇名が、さかんに口にのぼつた。

「ヘンリー──ローランドが扉口とぐちに来てゐるぞ。俺は彼女に対する俺の全部の愛情を譲つて、貴様を祝福せずには居られないんだ。今の君の働きは充分、それに価するんだ。」

 ジャッキーは、満身の力を込めてヘンリーに抱きついた。──「ローランドの接吻を享けて来い、俺は貴様と張り合つたローランドへの愛情の秤を棄てゝ、君らの交際の傍観者に変らずには居られないぞ──ヘンリ。」

 彼は亢奮して、容易に弘雄を離さうともしなかつた。

「ジャッキー、俺達は二回戦に出場するといふところなのに、そんな亢奮に炎えてゐる暇はないよ。──待つてくれ、御免よ、ローランド……」

 弘雄は、彼等の傍らに駈け寄らうとするローランドへ向つて手を振りながら休憩室へ飛び込んだ。

「だつて、その約束だつたぢやないの──」

 百合の花のボンネットをかむつたローランドは、紫のリボンを結んだステッキでゆかを叩きながら呼びかけたが、もうヘンリーの姿は見あたらなかつた。

「僕はもう君のことはあきらめたよ。あの調子では二回戦だつて、おそらくこつちのものだぜ。愛情をあきらめるといふことに斯んな喜びを感ずるなんて奇蹟だ。」

 ジャッキーは、ローランドの手をとつてポートマク・マーチを口吟んだ。──「それにしても、今迄君はどつちの愛情を余計に享け入れてゐたの、ローランド──僕だつて、こんな際にあたつてさへ、そんな質問を発せずには居られない位ゐの……」

「ハヽヽヽ、気の毒なジャッキーー! そんなこと妾が知つてゐるくらゐなら、何も話題はなかつた筈よ。」

 ローランドは、おどけたウヰンクを残して出て行つた。群集が少しづゝ道をあけて、思はず振り返つた程、ローランドの姿には端麗さが充ちてゐて、フルーツ・パーラの娘といふ風な単なる華美の様子は見あたらなかつた。「W」大学の裏通りで「パーラー・スワン」といふ綽名は評判が高かつた。


「W」とフイラデルフイアの対戦では、更に観衆の予想をまつたく裏切つて、当初から「W」の攻撃が目覚しく五─対─十の順序で、一気呵成に「W」が圧しきつた。「W」の側のこの日の優勢は、何か目に見えぬ、凡そ予想もつかなかつた破竹の勢ひであつた。終ひに十五─対二十五の大差で、ワシントン大学に凱歌の挙つた終局の場内は熱湯のやうに沸きあがつて、恰も来るべき次の総選挙に、やがて事実となつて再び白堊館の大椅子に収り終せたテオダル・ルーズベルトの偉大な人気を髣髴させるが如く、国旗席の彼までが思はずシルクハットを脱いで両腕を高く挙げた程であつた。「P」側のマッキンレイ候補は、

「こんな思はぬ敗北をとるなんて奇蹟だ。恰度この前の立候補に当選した一八九四年の戦ひに、「P」大学が敗北したにも拘はらず反対の結果が僕の上に輝いた例証に比べて、この敗北を幸福の前徴と見ならはさう。」

 と呟きながらも、眉間に深刻グルウミイな皺を刻んですご〳〵と引き上げて行つた。

 多くの写真班は「W」大学選手の五年振りの誉の姿を八方から取り囲んだ。ニユーヨーク・タイムスとシカゴ・トリビューンのボストン・デーリーと「W」日報などの一流新聞が新年附録に、「W」チームが自党のテオドルから大統領杯を授与される感激の光景を色刷版にした。中でもタイムスと「W」日報は「W」大のFWの全身像を、その傍らに併載して、

「無保険の選手、日本人、H・大津の当日の奮戦振りは恰も満洲の戦塵に全く自己を忘れて戦ひ抜いてゐる日本兵士の大和魂ザ・スピリツト・オヴ・チエリーのあたりに見る慨があつた。」

「「W」全軍の稀有なる覇気は、彼の度外れなる敏捷振りに不思議な団結状態を醸したかに見えた。」

 といふやうな記事を載せてゐた。一枚の写真ではジャッキーとジミーの真中でヘンリーが二人の肩に両腕を拡げて満身からの微笑を湛へてゐた。もう一枚の写真は蹴球を片脇に抱へた彼が、ヘルメットをぬいで片手を頭上高く掲げてゐた。又のものには、優勝杯をさゝげたキャプテンの傍らに大きな花環を抱へた彼が慎ましやかに立つてゐた。

 祝勝の夜の合宿所で、一同がこれからローランドのパーラへ繰り込まうと勢ぞろひしながら、

「たうとう、ヘンリーに見せつけられる機会になつたな。」とか「ジャッキーは然し息苦しいには違ひなからう。」

 などと語つてゐたが、何故かヘンリーの姿が現はれなかつた。

 弘雄は二階の自分の部屋で、しきりと故郷への便りを書いてゐた。

「太郎よ、君は益々健在であらう、しばらく君の図画を手にしないが、旅順も陥落して定めし町は賑はつてゐることであらう。今度は旅順口閉塞と広瀬中佐の画などを描いて贈つて下さい。僕らのチームも、今日幾年か振りで勝利を得、僕の貰つた賞品などを送るから床の間に飾つてお呉れ。祖父母と母上の命を好く守り、勇敢な精神を養つて呉れるよう遥かに祈つて止まない。」

 弘雄は未だ誰にも故郷に妻子のあることを話してなかつた。彼は浮き立つた連中とローランドの店へなど赴いて、若しやハメでも外してはならない──と留意してゐた。ローランドの嬌笑は印画のやうに眼蓋の裏にあざやかだつたが、国元の妻子のことを思ふと、特に斯んな晩は凝つと怺へなければならぬとさとつて、手紙を書きつゞけた。


 両親と妻と太郎への手紙を書き終つて、弘雄は、もうこれなら外出しても間違ひを起す筈はあるまい──とおもふと吾ながらの胸の時めきに軽い陶酔を覚えた。久しく便りをする間もなく張り切つてゐた所為か、稍ともすれば感情的な言葉が綴られてゐるのを──とおもふにつけ胸中の万感は到底言葉には現しきれぬ渦巻であるのみだつた。

 宵は未だ八時を少しまはつてゐるといふばかりなのに、選手達は一人残らず出払つて広い寄宿舎は夢のやうに静かであつた。その静寂さは何処の隅々までも一抹の憂ひの埃を残さず、神々しいばかりに晴れ渡つてゐた。窓から広場の先へ見える教会堂の時計台が弦月の薄霞の中に森閑とたたずみ、向方の繁華通りの空が燃え立つほど明るく、耳を澄すと巷の雑音が大きな谿川のやうに響いてゐた。浮れて外出した連中の歓声もその中に交つてゐるのか、と弘雄はいちいちの友達の姿を今更のやうに想ひ描いたりするのも、やはり故国の戦勝の夜を連想してのことで、前途に横たはる日本の大難関に身を引きしめずには居られなかつた。旅順の陥落を聞いた後の、奉天の襲撃は堪え難い不安であつた。

 父への便りの中には──自分はもう間もなく学窓を巣立つ間際に至つてゐるが、既に通学の傍ら「W」日報の電信部に働いて自活の道を講ぜられる便宜を得て居り、間もなく太郎の学資ぐらゐは送金のかなふ実状だから、今後はもう自分の学資金の御送達には及ばない、それらの予算は悉く、出陣中の弟(行雄)が、万一無事に凱旋したあかつきには、その歓迎費に、また若しや、希ふところの戦死を遂げたならば葬送費の一端にと、兄の心遣ひとして保管され度い──と書いた。

 母への文中には、遥かの母の深い念願がとゞいて、先づ長男が晴れの試合に優勝した悦びを伝へ、その祈りは必ずや満洲の行雄の上にもとゞいて、生死いづれにしてもその誉れの役に立たずには居まい──といふ如きひたすら感謝の意味を誌した。そして弘雄は更に妻のお葉には、自分が帰朝する日までの期待と太郎の教育に就いて書いたのであつたが、つい感情的になつて恋々の言葉や懐郷の念があまり露はに湧き過ぎて堪え難く、卒業をしたら早速帰国し度い念願を持つてゐるといふだけの意味に書き換へたりした。

 これらの手紙を静かに書いてゐるといふことが、弘雄は今日の祝勝の気分に何よりもふさはしいとおもはれた。繁忙の時をひかへていつにも彼は故郷の山河を憶ひ出すいとまもなかつたのに、珍らしくも染々と草葺屋根の下のあかりを回想した。これも戦勝の賜物とおもはずには居られなかつた。──弘雄が知つてゐる太郎は未だ逼ひ歩きも適はなかつた幼児であつた。それがもう九つにもなつて、画を描いたり手紙を書いたりして寄越す。三四年前にはじめて電灯が点いたといふ便りを聞いた。弘雄が知つてゐるあの家には行灯と竹筒のランプと、廊下を歩くには雪洞を用ひてゐた。僕の故郷では今頃漸く電灯が点いたさうだよ──と仲間に披露すると、そんな古風は羨しいな! と好奇の眼を輝かせた。その頃のクリスマスにジャッキイが、美しいきりこ硝子の飾りのついたオイル・シャンデリアを贈つたものだ。早速弘雄は厳丈な荷作りをあつらへて「はじめての電灯の家の悦び」におくつたのである。弘雄の印象にあるその家は、そんなに暗く、夜泣癖のある太郎の泣声を行灯の光りの中に追想するのは余程辛抱しきれぬものだつた。

「ヘンリー、居るのか?」

 不図弘雄は、窓下から厭に遠慮深げに自分の名を呼ぶジャッキーの声を聞いた。


「随分、長い手紙だね。祝勝費をおくれといふ文面なら二三行で済みさうなものぢやないか……」

「おい、ヂャッキイ、お前はすつかり戦勝気分に酔つてゐるのか、俺の国が今、危機一発の戦時状態だといふことを知つたら、そんなことは云へない筈だぞ。」

 弘雄も、然し、ジャッキーに負けぬ朗らかな調子で応へた。──「この程度の悦びを静かなランプの傍らで味うのもまた一興だよ、ジャッキー、何故そんなところから話しかけてゐるんだ、早く上つて来ないか。」

「お前は、当合宿所にはレデイの訪問は御遠慮して戴き度い──といふ規則のあるのを知つてゐるだらう──直ぐ降りて来て呉れ。」

 ジャッキーは云ひ残して、裏門の方へ姿を消した。弘雄は手紙と太郎宛の小包とを抱へて、帽子もかむらずジャッキーのあとを追つた。潜戸を抜けて、裏通りの街角まで来るとジャッキーとローランドが青い瓦斯灯の下に待つてゐた。彼女は、弘雄を見るなり、決して不機嫌な調子ではなしに、

「ヘンリーは妾達を斯んなに待たして、平気で手紙を書いてゐるなんて、何うしたといふことなの、持ち切れないでジャッキーと妾を迎へにまで寄すなんて……」

 と詰め寄つた。ジャッキーもローランドも左うしてゐる間も惜しい程有頂天の気分であるだけだつた。

 弘雄は彼女に応へる代りに、ジャッキーの肩に手をかけると妙に息苦し気な調子でこんなことを云つた。

「俺達に寄せてゐるローランドの愛情が恰度平均されて居り、そして或る機会にはどちらかの婚約者として認め合はうといふ約束をした時には、無論僕は異邦人なんだから、あの時もう胸のうちでは、君をはつきりと彼女の配偶者として、尊敬してゐたんだよ。僕が、君達ふたりの一番親密な友人といふことで、三人とも幸福になれる筈なんだ。」

「何をわけのわからないことを云ひ出したんだ(コイツ、ギリシヤ語ヲ使フナ、バカバカシイ)」

 ジャッキーは赤くなつてわらつた。「早くスワンの家へ行かう、ジミーもベンも皆な待つてゐるんだ、貴様が何んなに含羞まうとも今日の花婿は、貴様より他はないんだ。」

 無論たゞそんな仮想で一夜の祝勝会の余興にするといふ場合だといふのに、弘雄は余程の引目ひけめでもあるかのやうにたぢろいで、二人の友達を驚ろかせた。

 弘雄は、そんな類ひの機会でも、そんなかたちでローランドにまみえることを内心深く恐れずには居られなかつた。

「お前が今日のFWを俺に譲つた返礼として、今夜の余興の代役は、お前に代つて貰ひたいんだ──そして、やがて、それが君達の永久の幸福になるやうに……」

 弘雄はこんな場合の自分の言葉にも亢奮を覚えて、ローランドの顔がまともに見られぬ位ゐであつた。

「悦ばないのか、ジャッキー……」

「……悦びには違ひないよ。」

「ローランドは?」

「愛情にも予算はないもの。」

 と彼女も神妙にうなづいた。

 異邦人のとりあつかひには多少の特別はあつたが、大体「W」大学の運動部では妻帯者は不文律的に存在しなかつた。また、存在する筈もなかつたのである。弘雄は、別段必要もなかつたからであるが、未だジャッキーにさへも妻子のことは告げてなかつた。そんなことで憐れまれるのは肩身の狭い感だつた。



 或る晩、太郎が奥の勉強室で、書棚にならべた父親の写真や彼が獲得したメタルや賞杯を眺めながら、一体この写真の父親は何んな声を出して喋舌つたり、笑つたりする人なんだらうなどゝ空想してゐると、前日から加減が悪くて隣室にやすんでゐる母が、突然、

「あゝ、妾は死んでしまはなければならなくなつた。」

 そんなことをはつきりと呟いた。囈言か知ら! と太郎は胸を鳴らして襖を視詰めた。さつき、そつと覗いた時には母はすや〳〵とやすんでゐたから、おそらく寝言に相違あるまいと思ひ直すうちに、またもう一遍同じやうな声が聞え、微かな啜り泣きが洩れた。

「母さん──何うしたの?」

 太郎は静かに襖をあけて呼びかけた。「何処か苦しいの、お医者を呼ばうか?」

「あゝ、お前はそこに居たの──母さんはね、母さんはね」

 お葉の頬は涙で濡れ放題になつて居り、ひき吊つた眼眦の具合で、太郎は直ぐに、いつもの母のゑたいの知れぬ病気と悟つた。

「太郎、お前は母さんが死んでしまつたら何うする?」

「…………」

 そんな質問に太郎は答へられるわけもなく、さういふことを云ふ人は死にはしないと誰かに聞かされた通り、別段驚きもしなかつた。

「何故、黙つてゐるの?」

 と、お葉は急に起きあがつて太郎の肩をとらへた。「お前は妾と一緒に死んで呉れるかえ?」

「…………」

 それでも太郎は更に動じもしなかつた。お葉にはそんなことは在り勝ちだつたからである。

「何故、母さんはそんなことを云ふの?」

「いゝえ、お前の度胸を聞いて見度いと思ふからなのよ。」

 お葉は更に開き直つて詰め寄るのであつた。

「何うでも構はないよ。」

 太郎は、ほんとうに左ういふ心持だつた。

 その時、玄関に、

「お帰り──」

 合図する俥屋の声がして、英則の余程酩酊してゐるらしい騒ぎが聞えた。彼は、もう足腰も立たぬ位ゐの泥酔状態で切りと、

「行雄は未だ戦死しないぞ。」

 そればかりを繰り返してゐた。彼は、一日の役所務めを終へるまで競々として戦死者の通報に胸を躍らせ、漸く吻つとすると、近頃では決してそのまゝ自家へは戻らなかつた。太郎は、二三度、たいの命令で町の料理屋へ、祖父の迎へにやらされたことがあつた。

「こつちも、一日々々の命があてだ、一日命が延びたと云へば、誰が凝つとしてゐられるものかね。」

「遼陽まで行けば、もう一ト息といふところなんだから、お互ひに何で明日あしたを恃みませうや──だ。」

 英則は服部万十郎と大いに意気投合して、刃をもつて刺交へる見得などを切つてゐた。

「煙リモ見エズ 雲モナク……」

 彼は全く自己流の怪し気な口調で喚きながら、玄関にのめり込んだ。

「あゝ、あたしはおぢいさんの酔つ払ひが恐い、太郎、一緒に逃げてお呉れ。」

 とお葉は矢庭に跳ね起きるが、いなや、否応なく太郎の手を引つ張つて裏木戸から路地へ走り出た。朧月の森閑とした屋敷道だつた。太郎には何故、近頃急に母がこんなに祖父さんの声におびえ出したのか、何うしても推察がつかなかつた。


 お葉は慌てゝつかんで来たお高祖頭巾を、道々みちみちにかむつて、羽織よりも長い鼠色の毛糸のシヨウルの下に太郎を埋めたまゝ、石垣の続いてゐる暗い道を小走りに駆けてゐた。夕暮時に脚立を担いだ点灯夫が、蝙蝠のやうに駆け廻つてを入れてゆくかど々の瓦斯灯オイル・ランプがもはや細々として今にも消えかゝりさうな時刻であつた。

「母さん、何処へ行くの?」

「……海へ行くのよ。」

「海へ行つて何うするの?」

「夜中ぢゆう泣いて来るの……」

「嫌だな。」

「ぢや、母さんと一緒になら、このまゝ海の底まで駆け込んでも好いかね。」

「僕には、そんなこと好いか、悪いか解らないけど……」

 太郎は、いつか東京へ連れられて壮士芝居といふものを見、死なうとする母子おやこの場面で皆なが泣き、そんな芝居よりも祖母や母までがさめ〴〵と涙を流してゐるのを傍見して、却つて悲しくなつたことがあるが、今不図それを憶ひ出して自分達がそれと好く似た場面の中に居ると感じたが、何故か一向悲しくもなかつた。──二人は堀端の柳並木のところで先まはりをして待ち構えてゐた追手の俥夫の提灯につかまつた。

 太郎には何故祖母や母が、あんなに一所懸命に歌をうたつて、戦争の為に夢中で酔つてゐる祖父が、慨歎に堪へなかつたり、恐怖に価するのか全く不思議であつた。それよりも太郎は、戦地からの電報ばかりにあんなにびく〳〵してゐる祖父のところに、明日にでも戦死の通知が来たら、祖父が何んな風に狼狽するだらうかと考へることの方が不安のやうであつた。いつかも服部と英則が茶屋酒を酌み交してゐるところへ迎へにやらされたが、英則は万十郎をつかまへて、

「わたしはもう全く生きた心地もない、たゞ行雄のことを考へて、半時でも一時間でもそれを忘れたいばかりで、酒びたりになつてゐるだけなんだ。とても陰気な家になんて凝つとしては居られないだけなんだ。女房共が騒ぐやうに何で此際女などにうつゝを抜かしてゐる筈もないのに……太郎を迎へに寄越すなんて……」

 自家では見せたこともない涙を滾して胸を掻き毮つてゐた。

「女には決して男の了見は解りませんよ。兎も角、景気好く騒いで、騒ぎ抜いで、大勝利を待つことだけが私達の最後の命なんだ。」

 万十郎は芸者に踊りを命じた。三四人の綺麗な踊子が玩具の刀を抜いて戦争の踊りを演じた。英則はそんなものを眺めながらも、ぽろ〳〵と大粒の涙を零してゐたではないか。

「大津の家が潰れるのは止むを得ないが、おぢいさんは好くそんなお金が続くかとおもふと心配でならない。」

 たいとお葉は毎晩おそく酔ひ倒れて来る英則の帰館を待ち佗びながら吐息ばかりをついてゐた。

「道を踏み間違へてゐらつしやるんです。誰だつて何も彼も棄てゝゐる折の……」

 とお葉も唇を噛んでゐた。

 俥夫につかまつた二人は、お葉が何うしても自家には戻らないと頑張つて、町端れの里方へ梶先を向けさせた。

「母さん──許してね……」

 お葉は里方の母親の姿を見出すと、いきなりその膝下に泣き崩れた。

 太郎だけが、二人曳きの俥にひとり乗せられて同じ夜更に自家へ戻された。



 小学生達が午の休み時間で、遊戯に真最中の折からだつた。時ならぬ時刻に大手御門の鐘楼の鐘がにはかに殷々と鳴りはじめ、それに連れて、あちこちの半鐘が一斉に乱打され出した。

「火事か……?」

「違ふ……」

「ポンプの音がしないもの。」

 一同が遊戯の中途で、鳴りを鎮めた途端、誰が云ひ出したともなく、

「ロシアが攻めて来たんだ!」

 といふ騒ぎが起つた。

 それと共に二千人からの児童が、焦熱的な叫喚を挙げて、ワーッ! ワーッ! と湧き立た。はだしになつて逃げ出すもの、父母を呼んで泣き出すもの、蒼ざめて立ちすくんだもの──と一瞬の間に運動場全体が、大きな網にかゝつた魚群のやうな必死の絶叫に燃え立つた。空には、半鐘の音が刻々に激しく、次第に高く、いつまでたつても鳴り止まうともしなかつた。その時、二階の教室に集まつた教員達が手に手に日の丸の小旗をかざして、声を限りに叫び出した。

「静まれ〳〵〳〵、奉天が陥落したんだ。日本大勝利だ!」

 あちこちの窓々から、これらの声が放送された。と、群童の呼吸いき使ひは恐怖の絶壁から忽ち感激の山頂に飛びあがつて、

「バンザーイ、バンザーイ……」

 にも悲痛な喚声が天地を覆つた。やがて教員達から使丁に至るまで入り乱れて運動場に飛び出し、声を限りに巨大な万歳の声に合せ、面上に涙を流さぬ者とては独りもなかつた。町の彼方からも同じ声が八方から竜巻のやうに湧きあがつた。

 いつかの大雪のあとが、遥かの県境の山肌には未だ牡丹の花弁はなびらのやうに点々と染みついてゐた。──一九〇五年、三月十日の空は明るく静かなひずらが万遍もなく輝いてゐた。

 太郎が、いま、奉天の陥落を知つて何よりも先に連想されたのは、英則の姿であつた。

「おぢいさんは、何うしたらう?」

 英則のこの場合の様子が太郎には何うしても想像出来なかつた。

「これから校長先生のお話がありますから、皆さんは静かに一度教室に這入つて──静粛に、静粛に、列を組んで、もう一遍運動場に出直して下さい。同じ組の者同士はしつかりと手をつないで、慌てずに教室に這入つて下さい。日本は勝つたのでありますよ。クロパトキンが白旗を挙げて降参したのですよ。──皆さんは呉々も落着かなければなりませんよ。」

 さう云つて慰撫に務める教員の声からして震へてゐた。一瞬の間に、激動と感激の絶壁と絶壁を駆け廻つた群童のどよめきは、容易に鎮まらうともしなかつた。その動揺の一隅から、

「二年生甲組、大津太郎さあん、大津太郎さあん……大きな声で返事して下さあい!」

 と呼ぶ者があつた。太郎が友達の手を離して出て行くと、使丁に案内されて来た迎への俥屋が、直ぐに早退けを貰つて、自宅へ駆け戻れといふことであつた。

「奉天の大勝利──而して吾軍の死傷者無慮──その数未だ判明せず。」

 太郎の祖父英則は、この報知を知ると、

「勝つたのか!」

 とわらつたと同時に、心臓痲痺で斃れた。


 太郎は、お葉の病気が何か知らなかつたが、桜の花の咲く頃になつて、何処かの田舎から蒼ざめた顔で戻つた。それまでも太郎は、

「母さんは何処へ行つてゐるの?」

 屡々祖母に尋ねたが、たいは、

「そんなことお前の心配するいはれのないことだから、聞かないでお呉れ、もう直ぐ帰つて来るからね……」

 と顔を曇らせるだけだつた。

 大津の家では毎日町役場の収入課へ、親戚の者が残務整理に通つて居り、お葉も漸く健康を取り戻すと書類包みを携へて日参した挙句、五葉松の家屋敷を手離す段どりで一切が落着し、新居を定める費用も償へるといふことになつた。バルチック艦隊の煙が沖に見えたといふやうな風説で町は依然不安の渦が陰々として居り、大津の家でも引越どころのさわぎではなかつた。

「おぢいさんの悲報をきいて、僕は早速帰り仕度にとりかゝつたが、或る事柄の為に当分帰国しないで、こちらで務めることになりました。僕の務め先は、大統領官舎ホワイト・ハウスの通信課といふところで、いろ〳〵な電報を取り扱ふのが仕事です。日露の講和談判が近々に発表されるさうで、僕らは何も彼も忘れて忙しく元気です。君もそのつもりで、余念なく勉強を励んで下さい。」

 太郎は斯んな手紙を弘雄から貰ふ毎に、祖母のたいに声を挙げて読み聞かせた。

「どこに住んでゐたつて、お国の為とだけ思つてさへ呉れゝば、わたしは本望ぢやよ。」

 たいは、ちか頃稍ともすれば涙にもろかつた。

 間もなく日本海の大勝利の報で、人々の有頂天は究極に達して止め度もなく、

「アメリカの大統領から仲裁が這入つて、いよ〳〵戦争は終りになるらしい!」

 といふ歓声が挙つた。

 太郎の家でもお葉の里方の桑畑に土地を定めて古い家の一部分を移すことに一決し、早々と引越仕度にとりかゝつた。そして新芽をふき出した八重桜の老樹を、英則の遺志を重んじて小学校の校庭に寄附した。老樹は三台つゞきの車に横たはつて、勇ましい木遣音頭におくられながら、わづか十五六町の道程みちのりを二日がゝりで新しい地へ移されて行つた。若芽をつけた古木が、挺子におされる牛車に曳かれる毎に明るい五月の光りの中に、生気をもつて震へるやうに見えた。桜が移される前後からお葉は同じ小学校の唱歌科に教鞭をとることになつた。

 お葉は紫の長い袴を穿いて、毎朝、太郎と一緒に学校へ通つた。太郎は今迄の母に窺はれた陰気な気色けはひが、いつの間にか消え去つて、母ともおもへぬ程若々しく、

「四面海モテ囲マレシ

 ワガ敷島ノ秋津島……」

 斯んな唱歌をうたひながら、元気づいた。太郎は、母と手をつないで歩調をそろへながら登校する朝の空気を、水のやうに爽々しく呼吸した。

ホカナル敵ヲ防グニハ──」

 お葉が歌ふと、

「陸ニ砲花 海ニフネ──」

 と太郎が大声で叫んだ。新しい家は竹藪と芝の小さな丘を越えて町に降りるので、合唱には好適のみちだつた。たゞ母は「アメリカ」のことを吾から先に口にしたがらぬようになり、うつかりと太郎が口に洩らすと、悲しさともつかぬ微かな憂ひを現はすので、見も知らぬ父のまぼろしが、却つて胸の中に深く切々と折り畳まれた。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房

   2003(平成15)年510日初版第1

底本の親本:「日本評論 第十一巻第七号」日本評論社

   1936(昭和11)年71日発行

初出:「日本評論 第十一巻第七号」日本評論社

   1936(昭和11)年71日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年1026日作成

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