露路の友
牧野信一
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おそく帰る時には兵野は玄関からでなしに、庭をまはつて椽側から入る習慣だつたが、その晩は余程烈しく泥酔してゐたと見へて、雨戸を閉めるのを忘れたと見へる。
朝、階下の者が慌しく兵野の寝部屋をたゝいて、
「盗棒が入りました。」
と呼び起された。
主に兵野の衣類ばかりが紛失してゐた。彼は酒呑みで、着物のことには殆んど頓着なかつたから、それらは主に彼の亡くなつた父親からのものばかりであつた。着物の他には、彼の中古のソフト帽と金時計とステツキが見あたらなかつた。金時計とステツキは、やはり父親からのもので、時計は太い金の鎖が附いてゐる古型のもので、兵野には似合しくなかつたから一度も使用したことはなかつたし、またステツキも小柄の兵野には凡そ不適当の太い籐のもので、握りにはきらびやかな獅子頭が附いてゐるといふ風な老紳士用のものだつたから、ついぞ兵野は持出したこともなく箪笥と壁の隙間に倒し放しになつてゐたものである。
「でも、一応、交番へ届けておきませうかね。」
「──止めておかう。」
と兵野は云つた。「僕は、もう何うせ和服は着ないつもりだから……要らないよ。」
兵野は、さういふことには(もつとも、はぢめてのためしではあるが──)ほんとうに恬淡であつた。惜しいとか、残念だつたとか、そんな心持はみぢんも起らなかつた。
自分は何うであらうとも、盗難に出遇つた場合は届け出をしなければ法に合はない──とか、大きなことばかりを云つてゐたつて何うせ着物なんて買へやしないのだから届けておいて、万一戻りでもすれば幸せぢやないか──などゝ、兵野の細君と、大学生の松田達が切りと、不満の煙りをあげてゐたが、
「ぢや、何うでも君達の好きなようにしといて呉れ──」
兵野は、左う云ひ棄てゝ慌てゝ二階へ駆け戻ると、こんこんと眠つてしまつた。
その後、その話は兵野のうちでは誰も口にしなかつた。無論、兵野も忘れてしまつた。
そして、一年ばかりの時が経つた。
兵野の酒は、だんだんたくましくなつて帰りの遅い晩が度重なつてゐた。
或る晩彼が──いつものやうに銀座裏の酒場で十二時となり、郊外へ戻つて来たが、何うも飲み足りないので、途中の、場末の露路らしいごみ〳〵とした横町で車を降りてから、あちこちを物色すると、未だ、中から呑介連の声が切りに響いてゐる居酒屋を見出したので、雀躍りをして飛び込んだ。
中は、仲々の盛況で、二坪ばかりの広さのところに細長いテーブルが二列に並び、学生風の男が二人と、飯を喰つてゐるカフエーの女給風の二人伴れと、奥の隅で数本の徳利を眼の前に並べた中年の会社員風の男と、その他、未だ二三人の商人風の人達が、夫々さかんに盃をあげて、談論の花を咲かせてゐる最中であつた。
「お君ちやん、ちつたあ俺のところに来てお酌をして呉れよ。淋しいからなあ!」
さう云つたのは、最も多数の徳利を並べてゐる会社員であつた。彼は、それほど多量の酒を傾けてゐるにも関はらず、別段、饒舌にもならず、ほんとうに淋しさうに、ぼんやりと天井を眺めたり、腕組をして凝つと想ひに耽つてゐる様子であつた。
お君ちやんと呼ばれた娘の方を兵野が眺めると、丈のすらりとした細おもての、髪を桃割れに結つた、一見、場末の雛妓風に装つた小娘が、おでんの鍋の傍らで燗番役をつとめてゐた。
「お酌に行かないと、泣く? 堀田さん──」
「そんなことを云つて呉れるな、お君ちやん──俺は、ほんとうに淋しいんだからな。」
「そろそろ、はぢまるの──堀田さん見たいな我儘な人つたらありはしないわ。人はね、誰だつて皆な淋しいのよ、それを誰だつて我慢してゐるだけのことなのよ。」
「さうかな……」
と、堀田と称ばれた男は娘に酌をされながら、意見でもされた子供のやうにがつくりとして、盃を宙に浮べたまゝ考へ込むのであつた。
「その理屈が、何うしても僕には解らないんだ……」
「理屈ぢやないわよ。貴方は法学士のくせに、そんなことも解らないの。」
「淋しい〳〵、無性に淋しい、理屈も何もなくしんしんと僕は淋しい。そして僕には、世間の人は皆な面白さうに見へて仕方がないんだ。」
体格は仲々堂々たるもので、肩のいかり具合などは柔道の心得でもあるらしく、眺められたが、その堀田の音声は、あのやうな感傷的の言葉を吐くのに最も適してゐるかのやうに細々として、笛の音に似てゐた。
その声を耳にしてゐると兵野も、泥酔にちかい状態であつたせいか、思はず釣りこまれて沁々としてしまひさうであつた。
「いつたい人間が、──これほど分別ざかりの一個の男の胸中が、斯んなにも間が抜けてゐて、斯んなに頼りなくて、たゞ、もう、無性に、斯んなに悲しくつていゝものかしら──そんなことで何うなる……」
娘は、横を向いて欠呻を噛みころした。──堀田の声が、厭に冴え冴えとひゞくと気づいて兵野があたりを見廻すと、いつの間にか其処にゐた客達の姿はひとりも見あたらなかつた。
「お君ちやん──お酌だ、飲んで、飲んで、僕は、この寂しさの奈落に真ツさかさまに落ち込むのが本望さ。」
「あら、とう〳〵、泣き出してしまつたわ、厭な堀田さんね。」
「泣く堀田は嫌ひか、お君ちやん──」
真実、堀田の両眼からは珠のやうな涙がさんさんと滾れ落ちた。──兵野が、堀田の有様を眺めたとこによると、決して彼は、そんなことを云つて娘の甘心を誘はうとしてゐるのではなくて、心からなる人生の寂莫を誰にともなく訴へて、ひたすら単なる断腸の思ひに切々と咽び入つてゐるのであつた。
「ねえ、君──」
不図堀田は、兵野の方へ盃をとつた腕を伸して、
「まあ、この憐れな男の盃を一杯享けて呉れ給へ、君はさつきから僕の方を如何にも同情に充ちたらしい眼差しで眺めてゐるが、憐れんでゐて呉れるのぢやなからうか──」
と取り縋つた。
「憐れむなんてこともないけれど──俺は、君に好意を感じてゐたところだ。」
兵野が斯う云つて盃を享けとると、突如、堀田は雞のやうな奇声を挙げて、
「有りがとう、君は俺の友達だ!」
と叫ぶや、いきなり兵野を抱き寄せた。
「苦しいよ、堀田君──まあ、離して呉れ。」
「おゝ、俺の名を呼んで呉れたか、天野君。」
と堀田は狂喜のあまり、思はず兵野を、出まかせの姓で叫んだが、兵野は別段訂正の必要も覚えなかつたので、そのまま、
「君は此処の常連か?」
などゝ訊ねた。
堀田は、途方もなく誇張した言葉で、さめざめと涙を滾しながら沁々と人生の哀感について、兵野に訴へた後に、
「今まで俺の斯んな心持を真顔で聞いて呉れる者は、お君ちやんより他はなかつたが、謀らずも今夜、君といふ同情者に出遇つて斯んな嬉しい事はない。今後、是非とも無二の親友としてつき合つて呉れ。俺は、何だか君が、兄哥のやうな気がして来た。」
さう云つて、しつかりと執つた兵野の手を決して離さうとしなかつた。
「……ぢや、これからもう一切寂しい〳〵なんていふ譫言を云ふのは止めにして──」
笛のやうな声で、あんなことばかりを繰り返されると、丘野も妙になりさうになつたので、
「元気好く飲もうぢやないか!」
と云つた。
「賛成だ──斯んな春らしい好い晩を、めそ〳〵してはゐられない。出よう──」
彼は勢ひ好く叫んだ。
あの、お君つて子は、とても感心な娘で、親爺とたつた二人であの店を経営してゐるんだが、近頃その親爺が病気になつて──。
外に出ると堀田は、居酒屋の内幕ばなしをはぢめたが、お君のことに移ると、吐息をのんで、
「僕は、他に野心もなにもないのだが、あの家の為には出来るだけのことを仕度いと思つてゐるのさ。貧乏といふよりも僕は、あの父子の世にも稀な純情に打たれてゐるんだ。世が世なら僕は盗棒を働いてゞも……」
堀田は兵野の肩に凭りかゝつて、夜更けの町を歩きながら、そんな話をした。
「盗棒と云へばね……」
と彼はつゞけた。──「僕は一度で好いから、何うかして監獄といふところへ入つて見たいと思ふんだがね。何処に居たつて何うせ君、この人生は寂しくてやりきれないんなら、いつそ監獄に囚はれたら、寧ろどつしりとした落莫の底に落着きを見出せて、屹度得るところがあらうと思ふんだ。僕は、そこで一篇の詩をつくりたい……」
「君は詩をつくつてゐるの?」
「詩人なんだ、僕は──」
堀田は亢奮の声をあげて、
「牢屋へ行きたい、牢屋へ行きたい──」
などゝ叫んだ。
兵野は吃驚りして、慌てゝ堀田の口腔を塞いだ。
もう町は一帯に寝沈まつて、霧が深く閉してゐた。
「もう何処まで行つたつて、起きてゐさうな店なんてなさゝうぢやないか、別れるとしようか。」
兵野は、少々白々しくなつて、ためらひだすと、
「なアに、これから僕の住家まで行つて、明方まで飲むんだ。」
堀田は、しつかりと伴れの腕をおさへたまゝ車を呼び止めた。
兵野は、車に乗るといち時に酔が発して、うとうとゝしたので、車が何処を何う走つて、何処で降りたかもうろ覚えであつたが、醒めて見ると、小机を前にして盃を執つてゐる堀田が、
「やあ、醒めましたかね。寒くはありませんでしたか。風邪でも引かせては大変だと思つて随分心配しましたよ。」
と、急にいんぎんな言葉に変つて、にこにこと笑つてゐた。
薄暗い電灯が一つ燭つてゐる屋根裏のやうな部屋だつたが、其処此処に散乱してゐる様々な道具類は凡そこの部屋にふさはしくない豪華なものばかりであつた。大型の紫檀の書棚には金文字の洋書が隙間なく並んで上段には中世紀の海賊船の模型や銀の燭台やらが並んでゐるし、一方の飾棚を見あげると数十種の洋酒の壜が四段、五段と隙間もなく並んでゐる。
兵野が起きあがらうとすると、
「そのまゝ、どうぞ、それにくるまつてゐて下さいよ。」
堀田は、立ちあがつて来て毛布で丘野をくるんだり、薬をさしあげませうか、とか、水なら、それそこに、今私が汲んできたばかりのがある──とかと、その細心の親切振りはまことに至れり尽せりといふべきであつた。
この男の寂しがりの歌にあてられて、すつかり参つてしまつたと見へる──兵野は、さう思ひながら、唐草の切子になつた古風な硝子の水差からがぶ〳〵と水を呑んだ。いくらか醒めて見ると兵野は、大分てれ臭くなつて、脇を向いて酒の壜の並んでゐる棚を眺めてゐた。
「どれでも、よろしいのを御遠慮なく召しあがつて下さいませんか、お望みなら私がシエカアを振つてお目にかけませうか、私はひと頃欧洲航路の船でバア・テンをやつてゐたこともあるんですから、腕は相当自慢の値打ちがあるつもりなんですがね。」
云ひながら堀田は、新しいウヰスキイの栓を抜いて、益々愛嬌よく兵野にすゝめるのであつた。
「それとも酔醒めの口あたりにはアブサンが好いでせうかな。」
兵野は酒の智識に欠けてゐたので、ぼんやりしてゐると堀田は、いとも小器用な手つきでまた別の壜の栓を抜いたり、水のコツプを並べたりしてもてなすのであつた。
さつき居酒屋の娘から、あなたは法学士のくせになどゝ云はれてゐたがバア・テンダアの経験があるなんて、仲々の苦労人と見へるな──と兵野は思つた。
もともと一般の酒呑みの通有性で、醒めたとなると人一倍遠慮深い兵野は、歓待されゝばされる程気まりが悪くなつてきてやりきれなくなつたので、一気に酔つてしまはう、そして酔つた紛れに辞退しようと覚悟して、次々にグラスを傾けた。
「やあ、俺は──うちに客のあることをすつかり忘れてしまつたよ。斯うしてはゐられない。折角だが、失敬するぜ。」
暫くして兵野が、そんなことを呟きながら、むくむくと立ちあがらうとすると、
「さうですか、それあ残念だなあ……」
堀田は、深い吐息といつしよに心底から名残り惜しさうに呟くのであつた。──「ぢや、また明日の晩、都合がついたらお君ちやんの家に来て呉れませんか、私は雨だらうが嵐だらうが屹度行つてゐますから……」
「えゝ、行きませう、屹度行きます。」
兵野は、堀田の涯しもない純情味に心からの魅力を感じさせられて、はつきりとさう云ふと勇ましく握手を求めた。
「あゝ、さうですか、必ず、ぢや待つてゐますよ。あゝ、私はもう、明日貴方に会ふことが出来なかつたら、死んでしまふかも知れませんよ。」
余程堀田も酔つた紛れの亢奮に駆られ過ぎてゐたとは云ふものゝ、さう云つてしつかりと兵野の手を握つた時、不図兵野がその眼に気づくと、涙が止め度もなくハラハラと流れてゐるではないか!
外まで出れば車があるだらうから、決してそんな心配をしないで呉れ──と再三兵野が辞退するにも関はらず、堀田は、しやにむに送らせて欲しい──と主張して諾かなかつた。
「それに私は、今夜は中野の阿母のところへ行つて泊りたいんですから……」
兵野の行先きも中野だつたので、
「さうですか、中野にお母さんがいらつしやるんですか、そんなら伴れになりませう。」
「そんなに、妙に遠慮深いことばかり云はれちや困つてしまふな──ねえ、君、友達になつたんだから、これから何も彼も遠慮なしにして貰ひ度いな。そのうちにね、僕は一身上のことで、是非とも君に相談になつて貰ひたい話があるんだが、諾いて呉れる?」
「遠慮なく、それこそ──僕で役に立つことが出来たら、何だつて引き享ける。」
兵野は、ほんとうにそのつもりで誓ふやうに云ひ放つた。
「嬉しいな、僕は斯んな愉快な晩に出遇つたのは始めてだよ、ねえ、僕は生れながらに孤独の性質なんだが、決してその孤独を愛することは出来ないんだ──友達を探して、探し索めてゐたんだ、ところが今日までいろ〳〵な奴につき合つて来たが、好い加減な時分になると、どいつもこいつも申し合せたように僕を裏切る……」
「それあ君、考へようにもあるだらう、さう君のやうに激しく、何も彼も、一途に考へたら……」
「でも、君は──僕は大丈夫のやうな気がするんだ。はつきり云へば、僕は、さつき、あのおでん屋で、はぢめて君と言葉を交した瞬間に、霊感的に、この人こそは、俺のほんとうの友達になれるといふ一種の直感に打たれたんだ──」
堀田の云ふところは、なるほど、聞きように依つては堪らなく低級な歯の浮くやうな言葉ばかりで、これでは熱情的になればなるほど孤独に陥るのは当然のことだ──と兵野も思つたが、左う思へば思ふほど、珍奇な可憐味を覚へるばかりでなく、その、一本気の、素直な態度に次第に感情的に惑わかされて行くものを感じた。
「さうだ──」
と兵野も、グツと洋盃を傾けながら重々しく唸つた。
「僕は、断じて君を裏切らない、大丈夫だ。」
「何んな類ひの相談を持ちかけても、決して驚ろかない?」
「驚くものか──君が若し、盗棒であつても、僕は君を悪人とは思はんよ。」
兵野が、大袈裟な形容を得意さうに、からからとわらふと、堀田も、
「やあ、そいつあ、好かつたな!」
と、はぢめて朗らかにわらつた。
「ぢや、出かけよう。俺は、斯う見へても仲々の親孝行者でね、と云つても天にも地にも阿母と俺とは、他に身寄りのない、たつた二人なんだが……」
「君は、いかにも親孝行者らしいと僕は思つてゐたところだ。」
「いづれ、阿母に紹介するから、会つて呉れるか。」
「会ふとも、悦んで──」
「俺の阿母は俺に似てやつぱし大変な心細がりやでね、万一俺に病気にでもなられたら何うしようか! なんて、そんな取り越し苦労ばかりしてゐるんだよ、厭になつてしまふ。」
「君は働いてゐるの?」
「勿論、僕の手一つで阿母を養つてゐるんだよ。そのうちにまあ、いろいろと聞いて貰ふが、斯んなところに僕が別居してゐるのは、僕が、帰りが遅かつたり何かすると阿母がとても心配して気の毒でならないので──斯んな風に離れてゐるのさ。何うかすると一ト月も二タ月も阿母に会はないことも、この頃ぢや往々だが、今ぢや、その点は漸く安心するようになつた。何しろ僕が、酒の気を含んで戻ると阿母は心配するし、さうかと云つて、この通りに僕は酒好きになつてしまつて、酒の気がなければ決して眠れないし……で、斯んな処に離れて、この頃は主に用事は手紙で済してゐるんだ。この分なら、阿母の方に変つたことさへない限り、半年や一年、このまゝに過したつて、心配もしまい。」
「ぢや、君、今夜は止めた方が好いだらう、俺達は大分酔つてゐるからな……」
「なあに、今夜は大丈夫だよ。これから、中野まで行くうちには醒めてしまふさ。それを、俺は、いつも阿母の間借りをしてゐる傍まで行つて、つい、あの、おでん屋に寄つて酔つ払つてしまふのさ。はつはつは……」
「一体、此処は何処なのさ──中野から、そんなに遠い処かね。」
兵野は、あの居酒屋の附近かとばかり思つてゐたので、斯う問ひ返すと、堀田は、何となく、あかくなつて、
「まあ、そんなことは気にしなくつても好いさ、そのうちに阿母のところといつしよに此処の番地も覚へて貰ふからね……」
云ひながら彼は、立ちあがると押入れをあけて和服を取り出し、今迄の洋服との着換へにとりかゝつた。──一間より他にないところなので堀田は兵野の直ぐ眼の先で、ワイシヤツを脱いだりしはじめたから、否応なくその様子が兵野の眼に映るのであつた。
「夜が更けたせいか、こいつは仲々寒いぜ、君、寒くはないか、よかつたら僕の羽織をもう一枚その上に羽おつて行かないか。」
堀田はワイシヤツを脱いで、胴着を着たり、しゆつ〳〵と鳴る絹の音をたてゝ長襦袢の袖を通したりしてゐた。
おや〳〵、あの襦袢の柄は何処かで見たことのある模様だな──不図、兵野は左う思つた。紺地の裾に、般若の面を染め出した長襦袢であつた。
(さうだ──)
と、酔眼を据えながら兵野は気づいた。いつか盗まれた親父の着物についてゐた襦袢の柄だつた。自分もしば〳〵あれを着て歩いたものだつた──と思ひ出した。兵野は、それと似た襦袢を見て、過ぎ去つた頃のことなどを考へ出したり、思はぬ堀田が、自分の好みからか、同じ模様のものを着用してゐるのを見て、他合もない、因果めいた、新しい親しみを彼に覚えたりしてゐた。
「仲々、凝つた柄だね、それは──」
兵野は、見惚れながら呟いた。
「いや、恐縮だね、なあに平凡なものさ。」
云ひながら堀田は、重ねの着物をとりあげてゐた。
「僕も、大分前、それと好く似た柄の襦袢を──尤も親ゆづりのものだが、着てゐたことがあつたよ。」
「ほう、──そいつは悦しいね、君と僕とは、して見ると趣味の上で、一脈の相通ずるものがあるのかも知れないね。ははは!」
次に堀田が、さつと身に着けた細い大島絣の着物を見ると、それも兵野が以前同じく父親ゆづりで着慣れてゐたものと、殆んど同一のものと見られた。
で、兵野は、もう一度、今の言葉と同じことが口に出かゝつたが、あまりそんなことばかりを続けて云ふのは、返つて空々しく堀田の気嫌をとるが如くに思はれさうな気がして、遠慮してしまつた。
細い露路を幾つも幾つも曲つたり、危なかしい溝板を堀田に手をとられながら踏み越えたりして、凡そ、ものゝ二三町も、ぐる〳〵と同じような軒合ひばかりを歩いた後に、漸く広い電車通りに出た時には、兵野は酒の酔が次第に高まつて来て何とも危い脚どりであつた。
「しつかり僕につかまつて下さいよ。」
堀田は兵野の腕をおさへてゐたが、殆ど兵野は半身を彼にもたれかけてゐた。堀田は、あんなに飲んだにも関はらず殊の他しつかりとしてゐて、車を物色した。
無論、もう電車などは通つてゐなかつた。二筋のレールが、冴え冴えと水のやうに静かな路上に光つてゐた。
兵野は、一体、これは何処かしら? と思つて、眼を凝らして停留場のあたりや、あちこちの看板などを読まうとしたが、遠すぎて何うしてもわからなかつた。
「おい、今日のクラス会は大いに面白かつたなあ──貴様に酔はれたんで、俺はすつかり白々しくなつてしまつたぞ。」
火の番が通り過ぎた時、堀田は大きな声でそんなことを云つた。変な、ふくみ声だな! と兵野が思つて、見ると、堀田は外套の襟を深くたてゝ口にはマスクをつけてゐた。そして彼は、おそろしい酩酊者らしい声を張りあげて、
「あひはせなんだかよ──たてやまおきでよ──」
と歌つた。
車の通るのも稀になつてゐたので稍暫くたつてから漸く一台のタクシーを呼び止めた。
「中野まで──スピードを出してやつて呉れ。」
と堀田が命じた。
……橋を渡つた。永代橋かな? と兵野は思つたが、当てにはならなかつた。
「して見ると、さつきも相当永く車に乗つてゐたわけだつたんだね。」
「……さうとも。君は、あの時も一と寝入りしたんだぜ。今に、僕の居所もはつきり話すから、今日は、今夜だけは、何も聞かないで置いて呉れ。それにも、少々、事情があるんだからね。──まあ、もう少し飲まう。」
堀田は、ウヰスキーのポケツト壜を懐中からとり出して、兵野にすゝめ、自分も壜の口から飲んだ。
「あれ、上野の停車場ぢやないか、違ふかね。」
「違ふよ〳〵。──ところで君、君の家はあの居酒屋の直ぐ近くかね?」
「ちよつと離れてゐるが──あの辺まで送つて呉れゝば好いさ。」
「なあに、家の前まで送るよ。歩けさうもないぢやないか。車は、入るか?」
「入るものか──」
「中野──何町だ?」
「上町だよ。」
「番地は──?」
「君が教へないから俺も云はんよ。」
兵野は、酔つ払ひらしい意地悪るで、そんなに云つた。
「まあ、好いさ──ぢや、名前を聞かせて呉れたまへな。天野……?」
……未だ、天野──と思つてゐるのか? と兵野は苦笑した。
「天野か……どうして君は左う思つたんだ?」
「だつて、君の外套に左う誌してあるぢやないか?」
「兵野だよ、兵野一郎といふんだよ。」
「それあ、失敬した。僕は、堀田冬夫といふんだが──」
「どうせ、明日また会ふんだから、お互ひの戸籍調べは後まはしに仕様よ……」
こんどは兵野の方で、面倒になつてしまつて打ち切つた。
「いや、御免〳〵──どうせ今、送つて行くところなんだから、表札を見れば解ることなんだ。」
と堀田はひとりごとのやうに呟いてゐた。「いろいろと話しにくいことは、手紙に書きたいと思つてゐるんでね。」
「僕は今、叔父が居た家にゐるんだよ。さう〳〵、表札と云へば、僕の表札は出てゐないよ、その代り家賃は無しだ……」
「ぢや、何々方──だね。」
四ツ谷から新宿にさしかゝつた頃になつて、兵野は漸く方角に気づいた。
兵野は、洋酒の度を過すことに不慣れだつたせいか、車から降りると、殆んど脚腰がまゝにならなかつた。
「よし、ぢや僕がおぶつて行くよ。」
堀田は甲斐甲斐しく、外套を脱いで、それを兵野に羽織らせると、着物の裾を端折つた。昼間は、うら〳〵として好天気続きで、すつかり春めいた陽気であつたから兵野は外套を着てゐなかつた。
そんなに大袈裟に構えられると兵野は、恐縮して気をとり直したが、とてもひとりでは歩けさうもなかつた。──脚が地にすれ〳〵になるくらい兵野は、だらしもなく堀田の肩にぶらさがつて、空地を横切つたり、露路を曲つたりした。
「何番地さ、え、君、番地は? 次第に依つては、近道を行かう。」
「君は、この辺の地理に明るいの?」
「相当──。だつて阿母は五年も此方にゐるんだもの。」
「三十七番地だ──知つてゐるか?」
「……さうか。大概、見当はつくよ。だから、君は安心して好いよ。」
兵野は、堀田の肩で半ばうと〳〵しながら運ばれて行つた。
間もなく、
「この辺りだらうと思ふが──」
といふ可細い堀田の呟き声で、兵野は醒された。
「さうだ──そのポストを左に曲つて……」
「相当の道程だね、これぢや君、酔つて帰ると車から降りて仲々骨だらう──」
堀田の音声は、何といふこともなしに浮ついてゐるようであつた。
「斯んなに酔つて、帰ることは珍らしい。でも、僕は酔ふと歌をうたふ癖があつてね、この辺まで来ると大概家の者が聞きつけて、迎へに来るよ。」
「もう遅過ぎる時刻だから、歌は勘弁して呉れ給へよ。」
堀田は臆病らしく、兵野の耳もとにさゝやくのであつた。
「気の毒だね。斯んなところまで送らせてしまつて──家の者を呼び出さう。」
「待つた〳〵!」
堀田は慌てゝ兵野の口腔をおさへた。「この先、僕は何れほど君に厄介になるかも解りはしない……」
「何云つてやがんだい──心配するない。」
兵野はわけもなく叫んだ。
すると、堀田は、いきなり兵野を抱へ直して、
「有りがたう──忘れないで呉れ!」
などゝ云つたが、兵野には好く聞きとれぬらしかつた。
「その家だ──有りが度う。」
と兵野も別れを惜むやうに云つた。
「その突きあたりの二階屋だ。」
「えツ!」
と、その時、堀田はあからさまに愕然として、思はず兵野をとり落しさうになつたが、
「危いツ──失敬〳〵!」
直ぐに、驚きをとり直して、兵野を抱いたまゝ大股で門口に進むと、軒灯にすかして凝つと、表札を見あげてゐた。
「やつぱり、左うだ!」
と彼は唸つた。──そして、眼を真赤にして、
「これは、貴方の叔父さんの表札ですか?」
と、開き直つて兵野に尋ねた。
何も気づかない酔ひ痴れてゐる兵野は、いとも洒々落々たる音声をあげて、「さうとも〳〵たしかに僕の叔父の表札さ。僕は二年前から此処に住んでゐるよ。今時分帰る時には玄関からでなしに、庭を回つて椽側から入ることになつてゐるんだから、向方をまはつて──まあ、君、折角だから上つて行つて呉れたまへ、女房にも会つて呉れ給へ、お礼を云はせたいんだ──ねえ、堀田君──」
などゝ云ひながら、からみつかうとすると、堀田は例の笛に似た泣くやうな奇声で、
「あゝ、やつぱり、さうだつたか……」
と唸ると一処に、
「さよなら──」
と、もう一度堅く兵野の手を握つたかと思ふと、パツと、それを思ひきり好く振り離して、後ろも見ずに逃げ出した。
「堀田君、堀田君!」
兵野は、吃驚りして叫んだが、見る間に堀田は生垣づたひに走り出してしまつた。曲り角で、ちよつと振り向いたかとおもふと、堀田は、ワツと泣き出したに違ひない格構で、顔を両手で覆ふやいなや、姿は、蝙蝠のやうに消え去つた。
追ひかけようと試みたが兵野の脚は、自由にならず、そのまゝ彼は地べたに転げてしまつた。──兵野には、何故そんなに慌てゝ堀田が逃げ出して行つたか、腑に落ちなかつた。
──翌晩彼は、居酒屋へ赴いて堀田の来るのを待つたが、十二時が過ぎ、一時になつても、遂々堀田は姿を見せなかつた。店の片隅に、獅子頭のついたステツキが立てかけてあるのを娘が指差して、
「あれは、堀田さんがうちのお父さんに下すつたんですよ。お父さんが病院へ通ふ時竹の杖を突いて行くのを堀田さんが御覧になつて、俺が好いステツキを持つてゐるから、そいつをやらうつて……」
などゝ話したが、兵野は、落ついて聞く予猶もなく、
「堀田に会ひたい、堀田に会ひたい。」
と繰り返しながら、泣き出しさうに顔を歪めた。そして、
「お君ちやん、僕も淋しいよ。」
と兵野は、笛に似た声で呟いた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第四号」文藝春秋社
1932(昭和7)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第四号」文藝春秋社
1932(昭和7)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2016年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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