真夏の朝のひとゝき
牧野信一



 芝区で、二本榎の谷間に部屋を借りてゐた。既に七月の夢が消えてゐた。寺院の鐘の音が霧の深い崖下に渦を巻いた。妻子は私の因循にあきれて、海辺の故郷に赴いてゐた。

 私は寺院の鐘の音では夢を破られなかつたが、直ぐの窓下で芝居の幕あきの調子で鳴る紙芝居師の拍子木の響で、毎朝目を醒されると、別に自分を役者にも観客にもなぞらへるわけでもないのであつたが、やはり何かしら遊戯的気分に誘はれるのであつた。それが聞える間だけだが──。

「お早う、先生!」

 ハルミが露路を隔てた真向きの窓から呼びかけるのであつた。

「愉快さうだね、お早う……」

「ゼラニユウムに水をやらなければ駄目ぢやありませんか、お日様はもう高いのよ。」

 私は窓ぎはの白い卓子の上で、甲虫の脚をそろへ、蝶の翅を展して防腐剤を注射するのであつた。

 抜萃──。

「サンタ・マリア・カレンダー」(七月日)

「聖フランシスコ・サレジオ──完徳とは、己れの欠点と戦ふことなり。己れの欠点を知らざれば戦ふこと能はず。」

 ハルミのことを私は「暦をはぐ娘」と、未だ描きはじめもしない画の題に選んでゐた。私の仕事を見物に来て、彼女は壁の暦の文字を朗読するのであつた。

「まあ、また──! 今日は二十八日だといふのに、暦は二十五日よ。破いであげるわ。」

「この甲虫は立派過ぎて、標本箱には角がつかへさうだぞ。」

「……二十六日、ペトロ──汝等の中にも亦偽教師ありて亡びの異端を齎し、己れを贖ひ給ひし主を否み、速かなる亡びを己れに招かんとす……意味が好く解らないわ。おととひのことだ、何うでも好いや。」

「あツ、いけねえ、注射針が折れちやつた。」

 二人は各自に呟いでゐるばかりであつた。ハルミが窓枠の西洋葵に如露の水を振りかけて呉れたのが、白レースのカーテンの裾で陽に映えてゐた。

「二十七日、コロサイ書──子たる者よ、万事に於いて親に従へ、是れ主の御意に適ふが故なり。──二十八日、ロマ書──夜は更けたり、日は近づけり、然れば我等は暗の業を棄てて光の鎧を着るべし……」

「今日は休みなの?」

「休むの──」

 ハルミは暦の破片を掌に丸めながら、私の椅子の肘に腰をかけた。

「それ何といふ蝶々なの、綺麗だわね。」

 彼女は或る百貨店のマネキンで、この頃は水着を着ることが仕事であつた。──私は、カラス・アゲハの翅が展翅板からはみ出るので、ハガキを切つて板の端に付け足してゐた。──「……盆には墓参のために帰郷なさるる由目黒の叔母より伝へ聞き、其許も近頃は殊勝なる心がけとなりたるものかと指折り数へて待ち居り候ものの、豈計らんや其後は杳として便りもなく……」──「……定めし御勉学に専念中のこととは存ずれども──」

 ハガキは私の田舎からの母親の文字だつた。新しい鋏の先が軽快に動いてゐた。

「先生、あの人に会つて下さる?」

 ハルミは私が置いた鋏を徒らにとりあげながら、片手を私の肩に載せた。兼々聞かされてゐる彼女への結婚の申込者のことであつた。その話については久しい以前から私が相手にされてゐるので、ほんたうならば今や私が可成りの重要人物としてハルミの味方をしなければならぬ筈だつたが、何故か私は事態が近づけば近づくほど、吾ながら心のうちが有耶無耶でならなかつた。

「それあ会ひますともさ……」

 私は蝶の触角をピンセツトの先で整へながら、何となく切り口上で唸つた。

「今日、来る筈なのよ。ここに──」

「この部屋に……?」

「だつて妾の部屋は滅茶苦茶なんですもの。」

 崖べりに寄つた長屋の端で二つの窓が向ひ合つてゐたから、否応なく彼女の部屋は私からも見透せるのであつた。簡素なベツドと化粧卓子だけがある四畳半で、訪客と部屋主はおそらくベツドを長椅子の代りに用ひなければならないであらうから、それは無理もないと私は秘かに点頭いた。いつも私は卓子に向つてゐてもペンの動くことは稀で、外ばかりを眺めてゐることの方が多かつたから、彼女の在否に関はらずその部屋の中は明らさまに見渡されるのであつた。私は、別に何を対照として眺めてゐるといふわけではないのだが、一方を眺めると其方ばかりを眼ばたきもしないで木兎のやうに睨めてゐるのが癖だつた。

「あなたのやうな厳めしい眼で、注意されてゐるかと思ふと安心なのです。」

 ハルミの父君である市電の車掌の武藤四郎五郎氏は、自らが、徹頭徹尾(これが彼の口癖である。)威厳といふものに欠けてゐるせゐか子女の教育が出来ないで困惑してゐると滾してゐたが、やがて私の窓に現れる顔つきを信じて、彼女の英語及びその他生活万端の教師になつて欲しいと呉々も頼むのであつた。それに武藤氏は、私が自分の仕事の説明をしないのに、勝手に中学の博物の教師と察してゐた。何故か私は普段のやうに己れが生来ソフイストとしての資格に欠如していることを述べて、辞退しようともしないで、

「よろしいです。」

 と眉間に立皺を刻んで点頭いてしまつたのであつた。武藤氏は自分でも理解してゐたのか、と私はその時寧ろ同情したのであるが、まことにその様子は「徹頭徹尾」気忙し気で、容貌態度に至るまでが悉く威厳に欠けてゐた。彼は誰と言葉を交へる時でも、決して相手の顔を直視することなく横を向いて、恰も瞑目を保つてゐるかのやうな激しく小刻みな眼ばたきをつづけてゐるのであつた。そして、小柄な猫背で(それに引き代へハルミは何うして、こんなにスレンダアな娘かしらと誰しも疑つた。)ものを云ふ毎に左右にゆらゆらと肩を揺り動かせながら、わけもなく恐縮の態で頭を掻くのが癖だつた。加けに膝頭をのべつにピストンのやうに機械的な貧乏ゆすりで震動させながら、

「私は何うも立つてばかりゐるのが商売のせゐか、凝つとしてゐるのが苦手でして……」

 と恐縮してチツチツチツ! とわらふのが癖だつた。ハルミは武藤氏の態度を悉く嫌つて、就中その笑ひ声を耳にすると身の毛も竦つと肩をすくめるのであつた。

「その代り──と云つては失礼ですが、虫採りの方はうちの子供達に引き受けさせますからハルミのことは何分よろしく……」

「虫を採つて貰ふのは有り難いな。」

 附近は森が深く草にかくれた古代の墳墓が多かつた。貞享、元禄時代の貴族や高僧の墓が立並び、文化、文政の通人や侠客、或ひは宝井其角や英一蝶の墓なども拝まれた。そして様々な甲虫類や見事な鱗翅類が深山にも劣らぬ程に産出した。私がひとり海辺の故郷に帰らうともしないのは、それらの昆虫類の魅力に惹かされてゐたのも一つの理由であつた。然し私は整理の方は稍々得意であつたが、鈍間で臆病でその上慾深であるために実地の採集が極めて稚拙だつたから、この部屋を借りて以来は近隣の児童諸子と契約を結んで獲物を買収した。

──脈翅トンボ。ギン(5セン)トラ(同じく)アカ及びシホカラ其他(2)

鱗翅テフ。ヒオドシ(2)ルリタテハ、アカタテハ、イチモンヂ。ミスヂ其他(2)アゲハ……クロ(5)キ(3)カラス(7)ジヤコウ(6)アヲスヂ(3)

鞘翅。サイカチ(10)カブト(雄10、雌5)コガネ(1)カミキリ(3)タマムシ(5)

膜翅ハチ。不同。

 これは彼等との協定値段の抜萃であるが、私の部屋の壁には木炭紙に筆太に誌した大きな価格表が掲げられてあつた。

「カラスだカラスだ!」

 気たたましい子供の声が窓下に捲きおこつた。見ると緑と黒の幻色をひらひらと陽りに翻したカラスアゲハが崖ふちの枳殻にとまつてゐた。叫んだのは武藤氏の三男である尋常五年の武藤豊綱であつた。

「豊綱、黙れツ!」

 鋭い調子で叱責する者があつたので、私がその方へ振り向いて見ると、猿股ひとつの三ちやんが捕虫網を低く構へたまま息を殺してカラスに忍び寄るところであつた。夜番のお爺さんの孫である三ちやんは、お爺さんに似ない意地悪であつたが捕虫の業は抜群で、二三日前にもタマムシを六個、その次にはジヤコウを二個、クマバチ一個などと捕獲した。どうもカラスは数が少なくて八銭では手間に合はぬ故二銭の値上げをして貰ひたいといふ問題を起してゐるのは三ちやんだつた。

「三ちやん、しつかりやれ!」

 一日に三度も五度もこの露路に交る交る現れる紙芝居師のひとりが、拍子木を打つ手を休めて三次郎に声援してゐた。武藤氏には悉く綱の字のついた子息が、五人あつたが、これはまた凡そ父親に似ないで皆が皆性格が極めて鈍重で、例へば虫の在所ありかでも単に驚きの叫びを挙げてそれを指摘するばかりで、誰も自ら捕へたためしもなかつた。

「モンシロちやん、お前も稀にはサイカチ位ゐは探して来いよ。ええ、おい!」

 紙芝居が豊綱の仇名を云つて、嘲笑つたりした。豊綱は一銭のモンシロをたつた一遍捕へただけだつた。私は、どちらかといふと稍々自分の不器用さに通ずるせゐか、三次郎よりも豊綱方に胸のうちで横贔負する傾きであつたが、三次郎の腕には尊敬を払つてゐた。

「……ね、先生、どうして外ばかり眺めてゐらつしやるのよ。折角お頼みしてゐるのに、他の何よりも身にしみて聞いて下さらない見たいね。」

「そんなことあるものか──」

 私は、図星を指されたかの如くにどきりとした。「重大なことだから、うつかり返事が出来ないんだよ。」

「ぢや、いつまで待つたら返事が出来るんでせうかしら。」

「会つたつて仕方がないぢやないか、僕の言葉に責任があるとすると容易ならんからね。」

 その男のうちの人が、その男と一緒に来てハルミのうちの人に会ひたいといふことであつたが、ハルミは何うしてもチツチツチツとわらふ武藤氏を紹介する勇気が出ないので、私に代りを勤めて呉れと云ふのであつた。

「マネキンに恋慕して、用もないのに百貨店などへ通ひ詰めて、揚句の果に三太夫を口説きに寄越すなんていふ金持の息子なんて、俺は見ないでも嫌ひに決つてゐるぞ。」

 私は何故ともなしに毒々しく呟いた。

「……ああ、煩いな、また紙芝居がはじまつたわ、何うしてこの露路にはあればかりが斯んなにものべつにやつて来るんでせう、大嫌ひさ。」

 ハルミは私の毒舌に刃向ふ代りに、窓下を見降して顔を顰めた。彼女は直ぐに気分をとり直して、

「妾ね、自分でも自分が不思議と思ふんですけど、先生と知り合ひになつてからといふものは自分の意見といふものが何もなくなつてしまつたやうな気がするのよ、若しもそれが間違つてゐると思はれることでも、先生の云ふことには何うしても反対が出来ないのよ。変だわ。」

 と首を傾げた。

「滑稽だね。」

 と私は迷惑さうに唸つた。

「だからよ、先生が嫌ひだつたら、妾は何んでもなく断ることも出来るのよ……」

 何をはなしても滅多に笑ひ顔を浮べることもないハルミが、さすがに気拙さの笑ひを浮べたのかと私は見て、何かひやりとするやうな厭な気がして慌てて横を向いてしまふと、突然彼女は、あはは、あはは! といふ馬鹿気た声を挙げて、

「妾は、たうとう泣いてしまつたわ。」

 と笑ふのであつた。

 私は、誰彼の差別もなく何時もいつも的がはづれるので、他人の心持などといふものは一切考へぬことに決めてゐるのであつたが、ハルミの泣き笑ひの顔も、ただ顔だけをぼんやりと眺めるだけだつた。そして今更のやうに理智的な魅惑に富んだ容貌だな──などと思つた。何んな男が彼女の傍らに現れるのか知ら? と想像して、成るべくならばそれが自分の嫌ひな人物であつて欲しいものだ! と胸をときめかせたりした。

「姉ちやん、速達だよ。」

 弟かハルミを呼んだ。私は、その隙に捕虫網を携へて露路へ抜け出すと、三次郎の後を追つて墓地の中へ駆け込んだ。

 三次郎も私も、この時はコガネ虫一つの収穫もなかつた。

「小父さんと一緒に来ると、俺まで捕れなくなつてしまふ。」

 三次郎は舌を鳴らした。

 空しく窓下に戻つて来ると、また別の紙芝居がさかんに拍子木を鳴らして「幕開き」を報じてゐた。──西洋洗濯店と駄菓子屋の間の石段を、凡そ三四十段の勾配ででもあらうが、段々がすつかり崩れて単に石ころが散点してゐるだけのことであるから数へようもないのだけれど、私は子供達とそこを降る時屡々声をそろへて一い二う三い! などと唱へるのが癖だつた。それだけ次第に深い孤独の崖間に降つて行く思ひがするのであつた。恰度崖の中腹が夏草に取り巻かれた二つのテニス・コート位ゐの広さの段になつてゐて、共同水道のある物干場ともつかぬ空所を中にして二列の古呆けた長屋が八軒宛並んでゐた。私の借間はその一番奥の二階屋であるが、上の往来からはそんなところにこんな一廓があらうとは気づかれもしない程低く、一帯が薄暗気であつた。石段のあたりに若しも柱の傾いた瓦斯灯でもが突き出てゐれば、見知らぬ西洋の裏町のやうであらう。崖側には、空瓶、瀬戸物、売出の幟、屋台、桶、物干竿等が恰も舞台裏のやうに積重ねられてゐた。水道栓の傍らには素人製のベンチがあつて、涼みがてらの老人やら水汲みの人達で終日賑はつてゐた。

 非番だと見えて武藤氏もベンチに腰を降して、向方の紙芝居を眺めてゐた。

「どうですね、獲れましたかね。」

 武藤氏が訊ねたが、私は答へず、

「ハルミさんは?」

 と訊ねた。ここの人達は私が網を担いで戻つて来ると、誰でもが、同じ質問をするのが常例なのだが、獲れたと云つても、空しかつたと答へても、別段驚きもせず、気の毒がりもしないので、いつも私は生返事をするばかりであつた。

 私が訊ねると武藤氏は、意味あり気に片眼を歪めて、私の二階を指差し、喉の奥で癖の笑ひ声を立てた。そして、鼻の先へ突き出した拇指を亀のやうに動かして独りで来てゐる「男」を意味した。彼は、威厳を欠くばかりでなく、寧ろ廃頽的なリベラリストである! と私は思つた。

「ぢや、僕は行くのは止さう。」

 私は武藤氏の傍らに腰を降して、虫採り網の柄を金棒のやうに地に突いてゐた。

 ……「ええ、迷うたぞ迷うたぞ!」──「おお、迷うて出たか、執念の鬼めが……」

 紙芝居は今や興奮の絶頂で、実にも物凄い男女の声色を振りしぼつてゐた。観客共は、血生臭い亡霊の呪ひにおびやかされて息を殺し、谷間は恰も墓場のやうに沈黙してゐた。芝居師の声色だけが調子に乗つて、脈々と陰気をこもらせてゐた。

 私は、さう云ふ類ひの声色や絵画に触れると、それらが稚拙であるなしに関はらず、愚かな無稽事と知れば知るほど、馬鹿馬鹿しい恐怖に駆られるのは誠に損だと思ふので、怪談の類ひには凡て眼を反けるのを慣ひとしてゐた。恐怖に駆られるといふよりは、無下に嫌ひに過ぎぬのである。

 私は、いつか或る新聞の社会面で──近頃、紙芝居の飴売りが激増して、今や既に単なるチヤンバラでは観客の歓心が買ひ難くなつてか、当今では見るも怖ろしい化物を頻繁に出没させ、さてはあられもない卑猥な言辞を弄して、甚だしく風教を害するに至つたのでその筋に於いてはこの際断乎として彼等の上に厳重なる取締りを行ふことになつた──と誌された記事を読み、賛同のあまりそれを切り抜いておいたのであつたが、この崖下に現れる芝居師連は孰れも極めて馬耳東風であつた。試みに私は他の街角で彼等の声色に耳を傾けたが、孰れも軍事美譚や明快な探偵劇で観客の甘心を涌かせてゐるのに、この崖下ばかりは益々グロテスクが幅を利かせてゐた。或者は到底児童には理解も出来ぬかと見える花柳界の人情噺などを読みつづけて、果ては聞くに忍びない卑猥な科白で落花狼藉のさまなど展開して、然も児童達の絶大な人気を博してゐた。──「妾はね、お前さんのやうな助平野郎はもともとから大嫌ひだつたのさ、もうもうお金なんて一文も欲しくはない。妾には堀田さんといふ立派な色男が伴いてゐるんだから指一本でも触れさせはしないよ。」

 斯んな科白を耳にすると観客達は鬨の声をあげてどよめいた。私は毎日のやうに窓下から聞える芝居で、否応もなく、そんな科白までも覚えてしまつたのであるが、それらの物語は凡て連続物で翌日へ翌日へと際限もなくつづけられるのであつた。あれは「浮き沈み、廻り灯籠」といふ下題であつた。

「先生は余程あれがお嫌ひらしいですね。」

 私が、耳をおさへて下向いたのを見て武藤氏は気の毒がつた。そして、云ひ憎くさうに「ハルミが、先生に、その人に会つて貰ふんだと云つて居りましたが、何うでせう、御気分は如何がでせうかね。」

 とおそるおそる云ひ寄るのであつた。

「承知してゐるんです。」

 私はさう云ひ残して、ベンチを離れたが、到底そんな成人おとなの役まはりなどは演ぜられさうもなかつた。おもつただけでも胸の中が冷々として、まつたく穴にでも潜つてしまひたいやうな厭味を覚えた。然も、それが単なるテレ臭さとか、ぎこちなさではなくて餠のやうなものが喉に支へて、呑み込めぬ息苦しさだつた。で私は、武藤氏には如何にも自分の部屋へ引きあげて行くかのやうにしてその場を立ち去つたが、向方側にまはつて裏口からハルミの部屋へ姿を隠すべく、家守りのやうに跫音をひそめて梯子段に忍んだ。好いあんばいに階下の居間に遊んでゐた豊綱と秀綱と輝綱の三人兄弟は、紙芝居の見物にも出かけなかつたが、いつの間にかぐつすりと昼寝の夢におちて、素畳に頭を転がせたまま大鼾であつた。

 私はハルミの部屋の窓にカーテンが降りてゐるのをたしかめて、吻つと胸を撫でおろした。然し私は、それといつしよに静かにカーテンの蔭に身を寄せて、隙間から自分の部屋の様子を窺ふのであつた。それが何時もの淡白な注意とは異つて、胸は泥棒のやうに兢々と炎え立ち、膝頭は思はず武藤氏のピストン程にも激しく震へてゐた。そして私は、忽ち危ふく「アツ!」といふ声を立てさうになつて、慌てて飛びのくと夢中でハルミの寝台にもぐり込んでしまつた。

 ──是非とも会つて欲しいも何もあつたものではないのだ。彼等の間は既に、咲き乱れた花のやうに爛漫たる恋仲なのではないか。

 加けに相手の男の容子は、見るからに凜々しく頼もし気な好青年で、彼は恰も同じ甲虫類でありながらも、颯爽たるカブト虫とならんだコメツキ虫に等しい暗鬱な卑下を覚ゆるばかりであつた。さつき私が、自信あり気な先輩の口調で大きく見得を切つたりしたさまを見てハルミは何んなおもひであつたかと気づくと、私は堪らなくなつて、真実小さなコメツキ虫が擬死を装ふたり、あをむけのままでピンとはねあがつたりする姿を自分に移して、寝台の上ではねあがつたり、死んだりした。それでも私は凡ゆる角度から見直して何か悪態の種を探さうとさへいきまくのであつたが、可憐で、気高く、温容に充ちて、飽くまでも頼もしさうな若者であるのみだつた。おそらくハルミは自慢でもしたかつたのに相違ない。

 それにしても、厳格な先生の身でありながら、何うして急に斯んなにも浅猿しく絶望したりするものか──と私は今更のやうに白々しく心底を探つて見ると、にはかに歴然たるハルミへの恋々の情が泉のやうに湧きあがつて来るのであつた。私は極悪人の決心をして唇を噛んだりした。

 榎にタマムシが飛ぶ真昼時だつた。

 階下では、庭先の盆栽にカミキリを発見したといふので豊綱達が騒ぎ出した。私は、更に自分を彼等に発見されることを怖れて、息を殺したまま、擬死の態を装ふのであつたが、まんまるく視開いたままの両眼は何うしても閉ぢることは出来なかつた。──すると間もなく先程のとは別人の紙芝居師が露路先に現れて、

「ええ、きのふのつづきは黄金バツトの生き返り、バツトの魂胆は如何に如何に、いよいよはじまりはじまり……」

 などと呼ばはりながら、開幕の拍子木をさかんに打ち鳴らすのであつた。

「俺はジヤコウをとつたぞ。」

「タマムシを三つ持つて来た。」

 そんなに喚きながら私の名を高らかに呼びたてる子供達の声に交つて、

「あたいだつてカミキリをとつたぞ。」

 と有頂天の豊綱の声が冴えてゐた。


          *


 稍々ともすると拍子木の音などばかりがして、ただでさへ芝居の舞台面沁みたこの一篇が一層いがらつぽくうつるかも知れないが、私は特に技巧を凝したわけではない。真夏の露路裏のひとときを徐々と記述して、わけもなくこのあたりで中断するまでである。

 一言、附け足して置く次第だが、紙芝居の拍子木はどれもこれも「幕開き」の合図が物々しいのに引き代へて、「幕引き」の木の音を聞いた験しがない。朝のうちに二度、午さがりに一度、黄昏へかけて更に二度と、次々に現れるのであるが、いづれも幕あきの景気だけが花々しい。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

底本の親本:「新潮 第三十巻第九号」新潮社

   1933(昭和8)年819日発行

初出:「新潮 第三十巻第九号」新潮社

   1933(昭和8)年819日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年1015日作成

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