沼辺より
牧野信一



 こんな沼には名前などは無いのかと思つてゐたところが、このごろになつてこれが鬼涙きなだ沼といふのだといふことを知つた。明るい櫟林にとり囲まれた擂鉢形の底に円く蒼い水を湛へてゐる。やはり噴火口の痕跡なのであらう。

 土筆、ぜんまひ、ツバナ、蕨などの芽がわずかに伸びかかつた沼のほとりの草の上は羽根蒲団のやうで、僕はいつも採集道具を携へて来るのだが、ついぐつすりと寝込んでしまふのだ。例の浮遊生物プランクトンの実験を続けようとしてゐるのだが、念願とするアミーバが容易に発見し難いので索然としてしまつたのだ。それにやつと此処まで逃げ伸びて来たかと思ふと一途に気力がくぢけてしまつて、本を読む気も起らず鞄を枕にすると貪るやうに眠つてしまふのだ。怖ろしい伯五郎の姿が今にも此処に現はれはしないかと、そのことばかりびくびくして幾度夢の中で悲鳴を挙げて飛び起きるか計り知れやしない。そんな夢で更に疲れてうなされながら眠りつづけるのだ。採集も読書もあつたものぢやない。しばらくの沼のほとりの安息を貪るばかりである。伯五郎と挌闘を演じて沼の中へ投げ込まれる場合や、沼のまはりを競馬のやうに追跡される光景に汗を流しながら、しかし僕はぐつすりと眠りつづけるのだ。

 なにしろ僕等は毎朝三時から四時までの間に飛び起きて息を衝く予猶もなく米搗きの労働に従事するのだから。

 水車小屋の三階の窓から伯五郎の到来を視守つてゐる雪太郎が芋畑の彼方に提灯の灯を認めるがいなや、ラツパを吹いてミヅグルマのスヰツチを切るのだ。すると小屋は轟然たる音響と共に壮烈に震ひ出すのだ。その凄じい音響と云つたら真に耳を聾せんばかりと云はうか地獄の銅鑼と云はうか形容の言葉も見つからぬが、音響と共に小屋全体が物狂ほしく踊り出して、その他の一切の物音を掻き消してしまふのである。トンネルの中を狂奔する列車のやうな雄叫びを挙げて、今にも小屋は木つ葉みぢんに砕けてしまひさうなのだ。この小屋は普通の水車小屋と違つてミヅグルマの大きさに比べて、蝸牛のやうに小さく側面から眺めると車の蔭にそんな家が附着してゐることは気づかれぬ程のものであつた。云はばオランダの風車のやうに、クルマだけがいとも逞しく虚空に向つて翼を伸べてゐた。だから小屋の建築は、クルマの動揺のみに順応して仕組まれてゐた。棚といふものが一切見あたらなかつた。柱だけが一抱へもある程の自然木で組まれて、開け閉ての出来る戸といふものを持たなかつた。眠る時や風雨の場合には窓には板戸をぶらさげる仕組みであつた。波にもてあそばれる箱舟のやうに、専らクルマの力に抵抗せぬ具合に造られてゐた。動揺に任せて震へる限り震へても壊れぬやうに、風に柳の具合であつたから、クルマが廻り出した時の小屋全体は恰も難破船のやうにゆらめき、身震ひをする猛獣のやうな胴震ひを挙げた。

「もう伯五郎がやつて来たのか、それ仕事だ、仕事だ!」

 僕は叫びながら寝台から転げ落ちるのであつた。何を叫ばうが何を呶鳴らうが、人間の声なんて聞きわけられる筈がなかつた。僕は、梯子段が出鱈目にジクザクとしてゐるクルマの裏側を夢中で滑り落ちるのである。その階段は、メフイストフエレスの叔父さんビゼイルバツブに襲はれたリムリヒ村のフアウスタスの館のそれのやうに巨大な木琴と化して狂騒曲を奏でてゐた。

 僕の部屋は位置としては二階で、ピラミツド型の天井を持つた屋根裏なのだが、梯子段が嶮しい山へ登る径のやうにミヅグルマの背後を縫つて稲妻型に折れ曲つてゐるのだ。そして階段が折れ曲つた個所には凡そ一坪位ゐの広さを持つた脚場のやうな床が張つてあつて、そこには破目に一つ宛の小さな窓があいてゐた。僕の二階に達するまでには、さういふ窓をもつた脚場が三つ重なつてゐるので、僕は自分の部屋を三階と称んで好いのか、それとも四階なのか、しかし直接の床下は柱の杵が林立してゐる作業物に当るし、だから二階といふべきか、迷はざるを得ないのである。つまりそれらの窓を持つた脚場は階段でつながれながら上下の部屋とミヅグルマの間に挟まれてゐるのだ。ひとつにはやはりクルマの動揺に備へるための組立なのでもあらうが、またこれらの窓は夫々重要な役割りを持つてゐた。第一の窓下にはクルマの翼に触れる水量を調節するための鎖がつないであり、第二の窓はクルマの軸に油を差す口であり、第三の窓は空に翻る翼の水の切り具合を研究するために技師が半身を乗り出して空を見あげる場所であつた。

 左様に僕の屋根裏は得体の知れぬ二階で、登り降りするためには四階分の梯子段を踏まなければならぬのだ。

 四時では未だ真暗だ。僕等は囲炉裡の焚火をあかりにして仕事をはじめるのだ。雪太郎も僕も「リムリヒ村」では随一の貧困者で多くの債権者を持つ身であつたが、彼等は夜になると僕等が灯りもつけずにぐつすりと眠り、如何に嵐の勢ひで扉を叩いても決して醒めなかつたから、夜明けを待つておし寄せるのであつた。中でも金貸業者の伯五郎は、その小作米を僕等が搗いた時に俵数が少なく間違つてゐたといふ事件から、それを借金として計上し、利息金を加へて証書をとつたのであるが、更に再び期日が迫つたといふので、その証書の書換を強ひるのであつた。そして水車小屋を抵当物件として書き入れなければならぬと詰め寄るのであつた。

 しかし何時彼が繰り込んで来ても、僕等は仕事の最中で小屋は轟然たる唸りを挙げてゐるので彼の追求の言葉は決して僕達の耳には這入らなかつた。彼はクルマの休止する時を見はからつて、責任を問はうといきまいてゐるのであつたが僕達は非常に忙しくて、彼が待ち構へてゐる間は決してクルマを停止するわけにゆかなかつた。

 僕等は、彼が借用証書を叩いて義太夫語りのやうな苦悶の表情でのたうちまはる有様を見た。

「済みません、済みません、この仕事が片づき次第に元利をそろへてお届けしますから、もう暫くの猶予をたのみます。」

 僕は自分にも大半の責任があるので、轆轤を廻しながら弁解するのであつたが、彼の声が聞えぬと同様にこつちの言葉だつて通じる筈もなかつたので、この頃では僕は口のかたちだけを如何にも済なさうに詫言を述べてゐる見たいに動かすだけで、言葉は発しないことにした。時に依ると罵りの言葉を呶鳴りもした。

 今朝など彼は、恰度彼が入口の扉をくぐらうとした時に雪太郎がクルマの閂を曳くと、何事かを喚きながら地団太を踏んで口惜しがり、小屋中をヤマアラシのやうに駈けまはつた。そしてわずかな抵当品でもないものかと眼を皿にして梯子段を登つたり降つたりしたが、もとより目星しいものと云つては何一つ在りよう筈もなく、僕の部屋から捕虫網を持ち出すと、何に使ふものかと考へる風で宙に振つてゐたが(その様子は僕が時々あかりとりに飛び込んで来る蛾を追ふ態と同じやうであつた。)やがて折り畳んで懐ろに入れてしまつた。また彼は、何事かを叫びながら米俵にかぶりついたが持ちあがらなかつた。その彼の言葉が若しも聞えたならば、凡そ僕等の心胆を寒からしめる類ひに相違ないのだらうが、聞えぬぶんには至極長閑で、無声映画を見物するやうでもあり、またこちらの仕事の助手を見つけたかの体裁でもあつた。

 僕等は借す耳の必要もなく、黙々として働きつづけた。これは大変に便利な方法だと思つたので、僕等は債権者が現れる間ぢうはクルマを廻しつづけて聾唖となり、彼等の姿が立ち消える時だけ休息して四方山の話や先々の思惑に就いて計画を立てたが、このごろではクルマが廻りつづけて追々と暮しが順調に傾いて来たらしいといふ噂が広まつたらしく次から次へ逞しい債権者がおし寄せて、お茶を喫むためにクルマを停める隙さへも見出せなかつた。僕等は午飯を食ふ時でさへも自働的に活躍する杵の態を見守りながら、鳴動の中で身ぶるひをつづけてゐた。まつたくさうした間にも様々な債権者が出入して、或者は耳を掩ふて引き返し、或者は何事かを喚きながら小屋ぢうを土足にかけた。昔、稀大な大地震が起つた時に村ぢうで倒潰しなかつたのはこの水車小屋一軒だけであり、うちで働いてゐた者はその地震にも気づかなかつたとのことであるが、おそらくこの家屋は耐震的であらうし、また不断に大地震の中に生活してゐるに違ひなかつたから、何んな逞しい債権者が現れて何んなに暴れようが、喚かうが人間の力や声ぐらゐには、ミヅグルマはいささかの痛痒も覚えなかつた。はやくあの水車小屋を分捕つて、僕等を追放してしまひたいものだといふ噂が専らであるとのことだ。ところがこちらは、本来ならば朝の九時からの八時間労働で充分な筈のところに、彼等のお蔭で僕等は斯うして明方の四時前から日暮れに至るまで否応なく営々として働きつづけるので、真実暮しも徐ろに楽となつて既にもう伯楽の馬小屋からは僕等の永年の働き仲間である労働馬ゼーロンも取り戻したし、この分で行けば上半期のうちに不当な利息も大方支払ひ済みとなつてこれほどまでの大地震を持続さす要もなくなるであらうと語り合つてゐるのだ。

 それはさうとして僕は午頃まで小屋の中で働いてゐると、いつかな猛烈な眠さが襲つて来て、危ふく杵にでも頭をうたれさうな危険に瀕して来るのだ。いまにも手もとが狂つて臼の中へのめり込んでしまひさうにふらふらとして来るのであつた。ぐわんとやられて悶絶したところで、うめき声なんて誰の耳にも這入らう筈はなし、疲れて休んでゐるのかと脇からは見えるだけで、そのうちにはすやすやと息を引きとつてしまふであらう。休むと云へば雪太郎などは実に巧みに臼の傍らで、周囲の者には決して悟られぬポーズをとつたまま居眠りをする妙技に長けてゐる。僕などは眠さは眠いが、とてもそんな離れ業は出来ないし、二階に逃げ込んで眠らうとしても大地震に寝台もろとも体が弾んでゐる有様では到底凝つとしては居られなかつたから、いよいよ堪らなくなると裏梯子づたひにミヅグルマの蔭をつたつて馬小屋に忍び込むのである。そしてゼーロンを曳き出すと、森を選んで一目散に裏山へ駈け登り、谷を降つて鬼涙沼の傍らにたどりつくのであつた。

「おお、もう春だな、土筆の芽がのびて、水は紫色に温んだらしい、遥かの連山の雪も斑らとなつた。」

 僕は、斯んなに呟く自分の声が始めて自分の耳にはつきりと響くのを沁々と感ずるのであつた。人間の言葉といふものを小屋にゐるうちは耳にすることが出来ないのだが、仮令それが自分の独り言であつても、やはり人間の声といふものはなつかしいものだと僕は吾から吾が声に聴耳をたてた。僕は、ただそれを満喫したい思ひだけで一杯に胸を膨らませて、人に物言ふ如くゼーロンに話しかけて、対話の享け渡しを喋舌つたり、まつたく出たら目な叫び声を挙げて吾を忘れた。声が、水の上を滑つて四囲の山々に響くと三重にもなつた山彦があちこちから鳴り渡るのであつた。たしかに眼の前に現れてゐる人物が呶鳴つたり喚いたりしてゐるのに一向に言葉が通じない小屋うちに引きかへて、ここでは咳払ひをひとつあげても、姿は見えぬがあちこちの木蔭にいくたりもの人が隠れてゐる通りに呼応して来る鮮やかさに僕は土人のやうに胸を躍らせるのであつた。ここの地形は余程珍奇なサウンド・ボツクス風になつてゐると見えて、反響の具合が極めて敏感で、然も連続的に合唱して来るのであつた。はじめの反響が更に反響を呼んで縦横から折り重なつて来るのだ。それ故一つの音響を発すると可成りの間それが水の上をあちこちに飛び散り、理窟はわかつてゐるものの、思はず奇怪な幻に誘はれるのだ。僕は、鼾声や寝言がやはり左様な山彦となつて飛び交ふ有様を想像しながら眠つた。僕はこの頃睡眠中に屡々カケスの鳴声に似た叫びを挙げるといふ新しい習慣を持つ身になつてゐる。この悲しい癖が治らぬうちは、都へなどは戻りたくない。それにしても若しも此処に伯五郎達のやうな口達者が現れたら、定めし壮烈な反響こだまが火花を散らすことだらうと不図思つたら、

「沼のふちに伴れてつて思ふ存分聞かせてやらうよ!」

「返せ返せ! この泥棒野郎奴!」

「判を捺せ、サラマンデル!」

「絞め殺すぞ、シルフエー!」

「水を喰べ、コボルト!」

 などと、口々に悪鬼の呪文を唱へる債権者達に検束されて、あはやそれらの山彦に圧し潰される夢を見た。

 ──以下の文中に会話が現れたら、それが夫々五倍の数に増加して発声者の頭上に飛び交ふてゐる光景を想像して呉れ給へ。

 早速だが──僕は、優しい声で歌はれてゐる小唄で眼を醒した。どこに港があるのやら、行衛も知らぬ帆かけ舟よ──そんな風な抒情歌であつた。はるか彼方の一つ星、あの星ひとつがたのみの夢よ──たしかさうつづくのだつたと思ふが、歌詞は殆んど気にしたことがないので何遍聞いても忘れて了ふ。

 雪太郎の妹のお雪が歌ひながら汀にしやがんで藻草を掬つてゐるのだ。

「雪ちやん──大分待つたかね?」

「ミヅカマキリ有吻類だつたかしら?」

 僕達は返事は点頭きだけで済ませながら、質問ばかりを互ひに発声した。

「昨夜も伯五郎達の寄り合ひが、あつたかね? ──何人位ゐ集つた?」

 お雪は掌を頬の傍らで拡げて、拇指を折り曲げた。四名の意であるが、挙手礼のかたちに似てゐた。その話題を彼女は好まぬので、同時に御免を蒙りたい意を示すために、しつけいしたのでもある。彼女は、もう十九にもなつたのだが、桃割れに結つたり、赤い帯を締めたりしてゐると伯五郎達が袖をとらへて酒の酌を強ひ、毒牙を研ぐので、止むなく髪をボーイツシユ・バヴに切り、徽章もバンドもついてゐない雪太郎の中学生時代の古帽子を眼深く被つてゐた。そして肘の抜けた僕の海老茶のジヤケツをつくろつて着用し、また霜解けの道なので長靴ばかりを素足に穿いてゐた。水車小屋で使ふ男のゴム靴で膝の上までも深かつた。──彼女は挙手して、稍悲し気に片眼を閉ぢたが、僕は構はず、

「誰と誰だつたの?」と追求した。

 お雪は遠縁にあたる仁王門の居酒屋に奉公中なのだ。しかし彼女は僕に教授されてゐる英語のテストが五の巻まで進歩したら、東京へ出てタイピストの修業を始めたい念願に燃えてゐた。

「…………」

 それらの名前を口にすることを厭つてゐるお雪は、いつも僕等が水車小屋の大地震の中でとり交す送話法を選んだ。彼女は二本の指で額に角を生やし、更に唇の両端に鉤なりの指をかけて左右に引き伸して、眼玉をむき出した。角は鬼の形容であるが伯五郎の容貌は、まことにそんな口つきであり、眼玉は何んな場合でも眼ばたきを忘れたかのやうにどぎつく飛び出して、義眼のやうな光りを帯びてゐた。ヷセトー氏病の気味があるのではなからうか。

 僕は、

「伯五郎だな、座長はゆふべも……」

 と唸つて、拳固を喰はせた。汀に立つてゐるお雪とスロープの草原に起きあがつた僕との距離は五六ヤードであつた。

 次に彼女は、狐の面をつくるために唇を突き出し、両耳を吊りあげて、最も嫌ひな唐辛子を舐めさせられた時の顰め面をして、極度に細めた眼に非常に勢急な眼ばたきを加へた。これは伯楽の堪七の顔である。堪七はさういふ顰め面が自然の顔であつた。そして彼は、物を言ふ場合には陰気な金壺眼に、それはもう実に激しく小刻みな眼ばたきを、自分の言葉が止絶れるまでは間断なしに扇風機のやうなスピードで動かせ続けるのであつた。あまりな勢急さであるために一見すると完全に瞑目してゐる通りに見えた。この癖は誰にだつて真似ることは出来なかつたから、僕等は眼ばたきをした後に耳を吊りあげて、目はほんたうに瞑つて、口を動かせた。お雪も今、さう示したのである。

「ゼーロンの仇きだ!」

 と僕は吐き出して、彼の頬つぺたを力一杯つねりあげる真似をした。伯五郎の眼つきと凡そ対照的な堪七の眼蓋の運動と、さう云ふ顰め面であるためか、未だ若かつた癖に皺の夥しく多い黄疸色の顔色に接して、その眼蓋の運動のやうに痙攣的な金切声を耳にしてゐると誰でもが、遺恨のあるなしに係はらずその頬つぺたをつねるか、或ひは擽り殺してやりたいやうな衝動に駆られるといふことだつた。僕は別段そんな衝動に駆られたこともなかつたし、思はずそんな手つきをしたのは真にゼーロンの怨みからなのであつた。僕はゼーロンが彼の厩に囚はれてゐる時は、毎晩のやうに深夜に隠れて彼女を訪れたものだ。僕は、堪七の鶏舎から持てる限りの玉子を盗み出して彼女にすすめたり、彼女が特に好んで食ふハコベの葉を摘んで養つたり、胴や脚を涙ながらに按摩してやるのであつた。もともと働き馬であるゼーロンに堪七は様々なカムフラアジを施し競走馬に仕立てようといふ魂胆だつた。然も自分がゼーロンを競走に出さうといふ意味ではなく、競走用として大いに宣伝した上で売り飛ばさうといふ腹だつたのだ。そのためにゼーロンが何んなに窮屈な扱ひを享け、無益な練習のために不得意なランニングを強ひられたか! その時のことを回想すると僕は今でも悲憤のために体中が震へ出すのだ。

「おやおや、関森剛太が出現するのか!」

 僕はお雪の次のジエスチユアを見てさう唸ると見る見るうちに全身の血潮が凍つてしまふやうな寒さに襲はれた。お雪は重い腕を組んで上半身を前後左右にゆらゆらと動かせながら、鼻腔と喉だけで、百舌を連想させる鋭い高調子で、

「ヒツヒツヒツ……キヤツ!」

 と、この文字の通りにハツキリと叫んだ。これは関森の笑ひ声だつたが、関森がさういふ癖である通りに、お雪は、全く笑ひのためにはいささかも表情を動かすことなしに、寧ろ不機嫌を思はせるやうな自然の仏頂面のままで、そんな風に叫ぶのであつたから、説明をしなければそれが人間の笑ひ声であるとは解らぬであらう。関森はさういふ持前の顔つきをいささかも崩すことなしに、会話の断れ日毎にそんなやうなワラヒ声を挙げるといふ奇癖の所有者であつた。ヒツヒツヒツといふところはそれでも笑ひ声とも享けとれるけれど、最後の「キヤツー!」といふやうな声は殆んど鼻腔の喉の奥で鳴るシヤツクリとクシヤミの中間にあたる促音で、何うしてもそれが笑ひの音であるとは感ぜられなかつた。尤も僕は験しに、決して顔面の筋肉をゆすることなしに笑ひ声をたてて見ようと試みたこともあつたが、やはりその類ひの促音が最も適当であることを知つた、声だけで笑ふためには──。僕はお雪の声に応ずると同時に、了解出来るといふ見得で、どんと胸を叩き、ヤマビコとなつて頭の上を飛んでゐる奇体なワラヒ声を睨みあげた。

 関森と僕とは苗字は違ふものの、剛太は僕の叔父さんだつた。僕は同じ村に住みながら彼と直接に会話を交へた験しは皆無であつたが彼は自身が銀行や伯五郎につくつた負債を悉く僕の名前に移して、寧ろそんな行為が僕に対する好意であるといふ風に自ら吹聴してゐる男であつた。彼は近頃草競馬場の総裁に推挙されて、相当の羽振りを利かせてゐた。どうせ堪七等と寄り合つたからには馬券買ひの費用を捻出するために伯五郎を口説いてゐるに違ひないのだ。馬に就いては何等の知識も持たない伯五郎に、ゼーロンを競走馬と仕立てて抵当にするために、再びゼーロンを僕等の手から奪ひ返さうといふ計画を立ててゐる由を僕は知つてゐるのだが、いよいよ春の競馬季節も目睫に迫つた今日この頃に至つた折から焦眉の会議を開いてゐるのに相違なかつた。

「今度は誰か知ら?」

 と僕が思ふ間もなく関森のジエスチユアを終へたお雪は、幽霊のやうな手つきで徐ろに盃をつまむ様子をあらはした。そのつまみ具合に依つて、その飲酒者は深甚な思慮を回らせつつあることが髣髴されるのだ。やがて飲酒者は宙にささへた盃を、やをら一と息にぐつと飲み干すことに依つて、何事か胸のうちに閃いたらしい果敢な意志を示すのであつた。それから飲酒者は、大きく胸を豪傑風に開くと、長い舌の先を唇の端できつく噛み悲壮気に視線を天井に向けたかとおもふと、突然上体を激しく煽るや逆手に握つた短刀を力一杯吾と吾が腹に突き刺し、断末魔の思ひ入れと共に一文字に割腹した。

 これは、俺が引き受けたからには、よしツ、死力を尽すであらう、俺の言葉に万一虚偽があつたら即刻命を進呈するであらう──といふやうなことを唸りながら、さう云ふ見得を切るのが得意の小原田参四郎と称ふ三百代言人であつた。しかし彼は詐欺と恐喝の罪名で屡々収監されたことのある前科者である。

 酒を飲まぬと彼は決して相手の顔を見ることなしに口のうちで何かぶつぶつと小言を呟いてゐる風な人物(それで代言人なのだ、事件に成功したことはないさうだが。)で、収監などされたと聞くとそぞろに憐憫の情がわいたが、一端盃を手にしたとなると恰で風格が変つてしまつたかの如く泰然として、咆哮叱咤するかのやうな大声を張り挙げて、左様な見得を切るのが得意であつた。彼は五尺にも足りない著しい小男である。僕は彼があんな風な浅間しい罪に問れても、別段に悪人とも感じたことはなかつた。酒の勢ひで、あまりに世離れた太腹に化し過ぎ、思はぬ悲惨な結果に襲はれるに違ひなかつた。誰人にしろ、その声だけを耳にしたら圧迫されるかも知れなからうが、そんな小男の大見得を見ては恐喝される気遣ひはないのだ。僕だつて屡々大盃を傾けながら詰め寄る彼に襲はれてゐるが、鳥膚になつただけで一度でも恐喝されたことはなかつた。水車小屋ではかんじんな咆哮叱咤も無駄で、人形芝居のやうだつたが、未だそこに移らない頃にも頻繁に参四郎の訪問をうけ、酔はれたものだつたが決して怕れは覚えなかつた。彼は酔つて来ると、相手が債務者であることすら間違へて、稍ともすれば、俺が引きうけたからには、──の見得を切つて割腹した。

 お雪は、参四郎のジエスチユアを終へると、あかくなつて僕の胸に飛びついた。──斯んな風に記述するとお雪の説明が終るまでには相当の時間を要したらしくうつるかも知れないが、実際では伯五郎から参四郎までに三分間もかかつてはゐないだらう。あらゆる意志表示を僕等は、表情と挙動で発表すべく止むなく習慣づけられてゐる水車小屋の聾唖者であつたから、これ位ひの説明はまたたく間であつたが、お雪は参四郎の芝居には自分ながら酷くテレてしまつて、決して僕の胸から顔を離さうとしなかつた。

「その会議の内容を雪ちやんは聞いたの?」

 お雪は半ばうなづいた。──毎日々々僕等は彼等の黙劇を眺めるばかりで、一体事態は何んな風に進捗し、何んな類ひの要求が持出されてゐるのかも知らぬ僕等の耳は不断に馬の耳であつたのだが、今、沼のほとりに来てお雪の様子から断片的に想像を廻らせて見ると、僕の頭には彼等のいろいろな言葉が百雷の反響こだまとなつて轟き渡るのであつた。

「止さう止さう、そんなことは何うでも好いや、何うならうとまさか彼等には僕等を死刑にするといふ権力はないんだから……」

 お雪は、うなづいて、

「ヒツヒツヒツ……キヤツ!」とワラつた。僕も鳥のやうに、そして叔父さんのやうに無表情のままわらつた。

「本をお出し、先をやらうぢやないか──」

 僕は思ひ直してお雪を促した。お雪は、ナシヨナル・リーダーの三の巻をひろげて、師の前にきちんと坐つた。傍には、そろへて脱いだ長靴に掬ひ網が挿してあつた。

「この前のところを、リーデイング。」

 僕はポケツトに手をいれたまま立ちあがつて、生徒のうしろをさまよひながら、空を仰いで聴耳をたてた。

「ワンス、アポン、ア、タイム……」

 お雪は教科書を両手で目の高さにささへて読んだ。

「タイトルを省略してはいかんよ。」

「ア、ゴールデン・タツチ。」

「まるでアクセントがつかんね。ア、ごうるでん……先生の口つきを見て、いつしよに……」

「あ、ごうるでん・たつち……」

 円く重い二つの音声が沼の上を滑つて、あざやかに反響こだました。向ふの丘からも、櫟林の梢からも、朗読者の本来のものでないつくり声が鳴り返つた。それは空のレコードに吹き込まれた自分の声を改めて聞くやうな感じであつた。

「わんす・あぽん・あ・たいむ、ぜあ、りぶど、あ、きんぐ、ねいむど、マイダス……」

 復習を終へ、半章を先へすすんで、デイクテーションの試験を済ませた時は、沼の上には微かな霧が棚引き、まはりの丘の頂は夕映への陽に色彩られてゐた。──もう一ヶ月で三の巻を終る予定なのに、未だ半ばにも達してゐなかつたので、僕達は仁王門へ引きあげてから、先へすすまうと決めた。いつも僕は、沼のふちで睡眠がとれるとお雪の奉公先へ赴いて、自分の勉強にたづさはるのであつた。

 水車小屋の二階では灯すわけには行かなかつたので、僕は古くからの愛用の台ランプを仁王門の離室へ預けて置いた。石油ランプなどを水車小屋に置いたら、忽ち転倒するにきまつてゐたし、小学校の訓導から借り享けてゐる顕微鏡で、僕は鬼涙沼から持ち帰る青ミドロの中にアミーバを発見しようといきまいてゐるのだ。仁王門の離室の机の上には、夕暮になるとお雪に灯されたランプの傍らに、フラスコや顕微鏡がいつもの到来を待つてゐるのだ。シエードのまはりにはきらきらとしたビードロの氷柱つらゝがさがり、白地の陶製の油壺には十八世紀の古井戸の傍らで夢を語り合つてゐる Paul と Virginie の姿が色彩られてゐる派手なランプであつた。灯をいれると、光りが氷柱にちらちらと反射して、模様の恋人同志が浮びあがるやうであつた。僕はお雪がタイピストの試験に及第して、恋人を得たあかつきにこのランプを贈る約束だつた。

「伯五郎がゆふべあの部屋に入つて来て、お前はあの貧乏詩人に斯んなものを貰つたのか──要心しろ……だつて! 皆なはあの部屋が、おらの勉強場だとばかり思つてゐるのだよ。」

「それはさうと油は大丈夫かね。」

「今朝すつかり入れ換へて置いたよ。春が近づいたせゐか、ランプが急に明るくなつたやうだ。」

 水車小屋に住み慣れてからは、小屋の外で使ふ自分の音声が、あたり前の会話の場合でも恰も参四郎の声のやうに太く調子高いのに僕はあきれてゐるのだが、斯んな長閑な会話をとり交して歩いてゐても、それらが次々にあざやかな山彦となつて響き渡るせゐか、沼のまはりでは寧ろ会話のやりとりは困難であつた。

「ランプが明るくなつたつて! ……ヒツヒツヒツ──」

「剛さんの真似が好くもそんなに巧く出来るものだ。おらがやると何うしても顔つきも笑ひさうになるんで、とても六ヶ敷しい。」

「いや、わしはな、この頃何うしたものか何んな時にも決して笑ひたいといふ心が起らなくなつてゐるんだ。人が何を見て何んなに笑はうと、何んな失敗を見物しようと、何故だかわしはさつぱり可笑しくも面白くもないんだ。わしは一体、何んな時に何んな顔をして笑ふ人間であつたか、そんなことまで忘れてしまつた。」

「悲観してゐるのかね?」

「悲観してゐる位ゐならば、時には笑へることもあらうといふものさ。」

「さつぱり解らない。ヒツヒツヒツ……」

 お雪も表情をつくらずにそんな声を挙げた。僕等がそんなことを語り合ひながら、林を抜けて坂道を登りはじめた時、沼のふちに置き去りにされたゼーロンが仰天して一散に追ひかけて来た。僕等もゼーロンを忘れたことに気づいて、振り返ると、烈しい蹄の音が巨大な雹のやうに空一杯に反響して、到底それは一頭の馬が駈けてゐるとは考へられなかつた。

 小山の上に達すると僕はゼーロンの手綱を鞍の端に結びつけて、遥かの夕靄の彼方に見えるミヅグルマを指さして、

「先へお帰りよ。」と命じた。

 こんどはたしかに一頭の馬の脚音とわかる蹄の音をぽかぽかと残しながら、ゼーロンはクルマに戯れる水の飛沫だけが吹雪のやうに白々と暮れようとする虚空に翻つてゐるねぐらをさして別れて行つた。

「わしはね──」と僕は、山彦の空の下を抜け出たことを、はつきりと感じながらお雪に呼びかけた。──「一日のうちに三つの世界を渡り歩く気がしてゐるのだよ。朝は、あの水車小屋の轟きの中に目醒めて、人間の言葉なんて他合もなく吹き飛ばされてゐる大地震の世界だ。あそこに居る間は一体自分は人間なのか人形なのか、一向得体も知れぬ思ひだ。ほんたうに僕は沼のふちに逃げ出して、自分はやはり声を出して言葉も知つてゐる人間であつたかといふ気がするのだ。ところがまた此処と来たら、鼾きの音までが鳴り渡るといふ飛んでもないサウンド・ボツクス──ひとりで眠つてゐるのに、あちらにもこちらにも眠つてゐる人間が隠れてゐるかのやうな、打てば音が何倍にもなつて響き渡るといふやうな、怖ろしく奇妙に静かな世界、眠るのにだつて、朗読するのにだつて決して適当な場所ではないぞ!」

「もうゼーロンは見えなくなつた。」

 僕達はそれから反対の径に折れて、村端れの鎮守の仁王門へ向ふのであつたが、村里を避けて裏山の裾を迂回して、大門の近くに達した時にはもう真つ暗だつた。ずつと、喋舌りつづけてゐたのに、そんなとりとめもなく愚かな僕の感想は終らうともしてゐなかつた。提灯を借りる家もなく、月あかりもなかつたので僕等は手をつないで、互ひに足許を気遣つた。

「……つまり僕にとつての自然の生活、あたりまへの営み、何もかも在るべきものが在るがままに見え、聞えて、本来からの人間らしい落つきを味へるところ、即ちこれがほんたうの世界だと思へるところは──」

 僕は珍らしく興奮の気味で、

「そこだ、仁王門だ、先づあの部屋のランプの傍らから……」などと演説して、此方を指さした時、

「アツ!」

 と云つてお雪はたぢろんだ。腕はあげたものの僕は自分の演説にばかり気をとられてゐたが、その時門裏の居酒屋の障子はあかあかと輝いて、切りに酒盛り中の人影がうごめいてゐた。僕は思はず朱塗の柱の蔭に忍んで、凝つと様子を窺つた。

 未だ酒盛りにとりかかつたばかりのところであるらしく、ここまではとどかない会話が切りと持ち回られてゐたが、やがてでつぷりとした男が立ちあがつて、米を搗く真似をすると、隣りの、影でさへ判るほど頤と耳が非常に尖つた男が、馬の駈ける真似と同時に、背中を丸くした馬上の人のジエスチユアを示した。すると正面に我ン張つてゐた角頤の親爺が、傍らから何をとりあげたかと思ふと僕の捕虫網であつた。そして彼は、米を搗く男と、馬上の男に次々に変な腰つきで網をかぶせて、何事かを宣言したらしかつた。と、彼の傍らで盃をつまみあげたまま、傾聴してゐる小男が、グツと酒を飲み干し、大きくのけぞつて切腹した。ワーツといふ歓声が絶えると、網を棄てた男が、

「ヒツヒツヒツ……キヤツ!」と叫んだ。馬になつた男がはしやぎ出して、馬上の人となつたり、また駈る馬となつたりして坐つたままで身振りを繰り返してゐるのを見ると、丸い背中の騎手は僕であり、首を地に垂れて前脚を非常に高く挙げて駈るのはゼーロンの模写であることが連想された。

「裏から這入つてランプを持つて来るわ。ミヅグルマの家へ行かう、ミヅグルマが廻り出さない前にまた持ち返つておけば壊れる気遣ひはなし……」

 お雪は、勉強の時間が少なくなることを憂ひて僕の返事も待たずに裏口の方へ忍び込んで行つた。一体彼等は何んな宣言をしたのか、影絵の様子だけでは想像もつかなかつたし、いつも水車小屋で見物する黙劇同様だつたから別段僕は驚きもしなかつたが、在りのままの言葉が在りのままに通ずる「ほんたうの世界」での面会は差し控へた方が好からうと思つた。

 それはさうとしても水車小屋の二階にランプが点つた様子を帰り路の彼等が見あげたならば、強談判の好機とばかりに躍り込んで来るであらう、すると雪太郎はにわかに夜業を思ひついて、クルマのスヰツチを切るであらう、その時自分はランプを何う所置したら好からうか──などと思ひ出すと、僕は途方に暮れたが、兎も角この暗闇では何処へ何う落ち伸びるにしても先づ提灯が必要だ、それにはランプを提灯の代りにして、途々得と考へよう──さう決めて僕は、お雪の教科書の包みを抱へたまま、柱の蔭で彼女の現れるのをひたすら待ち構へてゐた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

底本の親本:「新潮 第三十巻第三号」新潮社

   1933(昭和8)年31日発行

初出:「新潮 第三十巻第三号」新潮社

   1933(昭和8)年31日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年1015日作成

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