天狗洞食客記
牧野信一
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今更申すまでもないことだが、まつたく人には夫々様々な癖があるではないか、貧棒ゆすりだとか爪を噛むとか、手の平をこするとか、決して相手の顔を見ないで内ふところに向つてはなしをするとか、無闇に莨を喫すとか──とそれこそ枚挙に遑はない。しかし私には他人目につくかの如き凡そ何んな類ひの癖も生来から皆無であつたのに、突然ちか頃になつて、これはまた凡そ他人目につき易い実にも仰山に珍奇な癖が生じてゐた。私は普段はかね〴〵唖のやうに無口であつた。それがちか頃非常に嵩じて、私は何時の間にか凡ゆる感情を喪失してゐる達磨であつた。私は、一体どんな顔をして何んな場合に嘆いたものか、笑つたものか、気分も表情も想像することは不可能であつた。いつも、いつまででも凝然としてゐるばかりの私は木兎であつた。強ひて形容するならば憤つたやうな武悪面といへるであらうが、私にして見ると寧ろ一個の単純なる蝋燭であつた。そして、いつまでゞも沈黙のまゝ背筋を延して大名のやうに端坐してゐたが、やがて私はさうした姿勢を保つたまゝ折々「エヘン!」といふ空々しく大きな咳払ひを発すると、徐ろに右の手の先で頤を撫で、それから左の腕を何か隣りの人でも抱へるやうに横に伸して、薄ぼんやりとギヨロリとしてゐるといふ、そんなに勿体振つた癖が生じてゐた。相手の者が吃驚りして私の顔を薄気味悪さうに眺めるので、私はハツとして吾に返り居住ひを正しながら深呼吸を試みるのであつたが、貧棒ゆすりの習慣の人が吾知らず膝頭を震はしはじめてしまふと同じやうに、いつの間にか私は蛙のやうに胸を張つて、頤を撫で、そして左腕を挙げてゐるといふ、そんなに鈍重な奇天烈な癖が生じてゐた。
私がM市(──と略号を用ふるのはM市の市長の憂慮があつたからである。)の市長のR氏の紹介で天狗洞の食客となつた時は、そんな私の奇体な癖が益々激しくなつて何うも都には居憎くなつたので、汽車の窓から遠くの山々の頂に残つてゐる雪を眺めて、咳払ひを挙げ、鉄橋を渡りながら独りで物々しく頤を撫で、また沼の水の光るのを誰か仲の善い友達と肩を並べて見渡してゐるかのやうに虚空に腕を懸けながらふら〳〵と旅に出たのであつたが、立つても据つてもつい〳〵ひんぱんにそんな癖が起つて、会ふ人毎の首を傾けさせて止まなかつた。ついこの間の春の頃であつた。未だ咲き残りの梅の花びらが、つむじ風に紛々と舞ひあがつてゐた。
R市長は、当時同市の支局に派遣されてゐた新聞記者である私の義弟の従兄であつた。そして市長の亡父が天狗洞の高弟であつた由である。私が同市に到着した時に弟は、常々私の大酒に悩まされてゐたので、珍客をもてなすべく友達の間から大盃の豪の者を撰りすぐつて歓迎の宴を張つた。私は正面の座に据ゑられたが、稍きまりでも悪かつたのかしら? ぎよつとしていつものやうに端坐してゐると、一層その憐れな癖の大見得が繰り返されてゐたのである。まさかそれが、私の云はゞ、宇宙に対するテレ臭さと憧れから発生した無意識裡の奇癖とは知る由もない義弟は、いつも私が稍ともすれば浮々と安つぽい態度をして失敗したことばかりを見慣れてゐたので、これはいつの間にか心を容れ代へて、努めて威厳を保つべく肚を据ゑてゐるのであらうとその時は察したさうだつた。
「義兄は、酔が廻らないと何も喋舌ることが出来ないのです。」
弟はそんな説明の労をとつてゐた。
「成るほど──さつきから切りと腕を伸してゐるのは、あれは盃のさいそくなんだね。」
などと囁く者があつた。
すると私が、思はず腕を伸す毎に何時の間にか私の手の先にはなみ〳〵と注がれた聯隊旗の模様の描かれた盃が載せられるのであつた。──ところが私自身にさへも、そんな自分の弱さは嘗て経験のためしもなかつたのであるが、いくつかの盃を傾けてゐたかとおもふと、未だ一言も発しないうちに私は細い樫の木のやうにぽくりと参つてしまつて、あとは大鼾きだつたさうである。
「君の兄貴といふやつは、怖ろしく尊大振つた人物だね。」
と評されて温厚な義弟は大きな恥を掻いたさうである。そればかりでなく、そんな得体の知れぬ威張つた人物が朝となく夜となく眼をぎよろりとさせて滞在してゐるとなると、彼の交際上に禍ひするといふ不安が生じたのであつた。
「従弟の義兄でございます。唖に等しい程の吃音家なので、何事も私が代弁で申し上げます。耳も少々遠いのであります。」
R氏は斯う私を紹介して、天狗洞の主の前にひれ伏したのであつた。然う云つて置いた方が都合が好いだらうと家を出る時市長が私に計つたので、それも好からうと私は頤を撫でながらうなづいたのである。主は稀代の気むづかし屋である代りに、一端これはと見込んだ場合には飽くまでも後へは退かぬ性格である──とかといふ概念的な説明をされて、私はもと〳〵何の目的もないし、何処で暮しても関はず、たゞ、どうぞ嘆くべき時には涙をこぼし、笑ふべき時にはわらひの声も挙げられる程度の健やかな感情を取り戻して、斯んな他人前には顔も曝せぬ如きグロテスクな癖から救はれたい、嘆きがいつもあはれであり、笑ひがいつも幸ひであるともおもはぬのであるが……といふやうな心持は微かに持つてゐたから、寧ろ弟達の気易い家庭の客となつてゐたかつたので、これはと見込んだら、とか、後へは退かぬ性分だとかには、就中バツが合ひさうもなかつたのである。寧ろ主の機嫌を損じて、弟の家へ引き返したかつたのである。斯んな兄貴が現れたゝめに、可愛い弟夫婦の出世のさまたげになつては大変だと思つたから、何も詳しいはなしはきかずにたゞ天狗洞といふこれ〳〵の先輩の家があるから客となることがかなふやうにと──弟達からもをがまれたので、厭々ながらR氏のあとをついて来たまでゞあつた。
だから私は、R氏が主に向つてくれぐれも慇懃に私のことを頼んでゐたが、私はほんたうの聾者になつて何も聞かず、たゞR氏の背後にむつくりと端坐したまゝ碌なお辞儀ひとつしないで、長槍や薙刀などが掛つてゐる鴨居のあたりへ凝つと視線を反らせながら、折々突調子もない咳払ひをあげたり、頤を撫でたり、そしておそらく吾知らずに悠々と腕を挙げ降ししてゐたに相違ない。
「御免蒙るわ。」
稍ともすれば、斯う唸つて、常に膝の脇から離さないといふ木剣を杖にして奥へと消えて仕舞ふのが気六ヶしやの天狗洞の癖と私は聞いてゐたから、やがてその唸り声が発せられるに違ひないと期待しながら、私はR氏の態度とは全く両極端の傲慢振りで背骨を棒にしたまゝ眼ばたきひとつ浮べなかつた。第一私は、気六ヶしやだなどゝいふ人物は嫌ひであるのだ。此方こそ、御免蒙りたいのであつた。──それにしても、そんな稀代な気六ヶしやの爺とは一体どんな顔をした奴だらうか? とおもつたので、もう三十分あまりも同じ部屋に居たわけだつたが私は然うおもつた時はじめてR氏の肩の上から主人の姿を眺めたのである。
彼は鷲鼻の痩せた老体でギロリと底光りのする眼玉と、枯薄のやうに貧弱な頤鬚を貯へてゐたが、それを恰も豊かな関羽の髥であるかのやうな手つきで撫で降してゐた。そしてR氏の説明を聞きながら坐つてゐるのであつたが、恰度左手を私のやうに伸して木剣を突いてゐるのであつた。若しも私に髥と木剣があつたならば、どちらが主人であるか見境ひもつかぬであらうと見えた程、彼と私の挙動は酷似したものであつた。
私は彼が私の眼を凝つと視詰めてゐるのを発見した。彼の眼光には、稍驚きの色が漂うてゐるのが窺はれた。──こいつ奴、俺の真似をしてゐるな、無礼者奴が! 彼は屹度左う思つてゐるのであらう、早く不機嫌になつてしまへ! と私は希つて、此方も負けずに彼の眼を睨んでゐた。そして大きな咳払ひを発した。すると彼も亦私のより癇高い咳払ひを挙げた。私は別に根くらべをするつもりではないから、また長押の方へ視線を反らせた。
やがて私は、
「木刀をつかはせ、木刀をつかはせ。」
といふ細い金切声を聞いたので、見ると、それが主の声で、小間使を呼んでゐるのであつた。私はその時はじめて彼の音声を耳にしたのであるが、あのやうに武張つた物腰の彼の声としては凡そ適はしくない黄色気な恰も苦笑を含んでゐるかのやうな細い震へ声だつた。後になつて解つたのであるが、彼はその音声を自ら恥と心得て滅多に言葉を発したがらぬとのことであつた。
「お願ひをお諾き入れ下さいましたか、有りがたうございます。」
R氏は丁寧なお辞儀をして、溜息を衝いたらしく背中をふくらませた。間もなく小間使が恭々しく一振りの木刀を携へて来て、私の前へさゝげるのであつたが、私は一向にわけが解らなかつたので憤つとしてゐると、主が手真似をして小間使に何か告げるのであつた。すると小間使は、伸びてゐた私の腕の先に木刀を握らせて引きさがつた。
天狗洞の食客として許可された者は、常にその木刀を携へてゐなければならぬといふ意味だつたのである。
「引きうけました、御安心下さい。」
主は左う云つて奥へ這入つてしまつた。
「天狗洞の弟子になるんですか?」
私は木刀を構へさせられたまゝ、迷惑さうに頤を撫でゝR氏に訊ねたのであるが、何故かR氏は私の質問には答へようともせず、
「あつぱれ〳〵!」
などゝ笑ひながら慌てゝ帰つてしまつた。私は心細くなつてR氏の後を追ひかけて、門口まで行くと、さつきの綺麗な小間使が扉の傍らに立つてゐて、R氏が出るやいなや扉を閉めると閂をいれて、重い錠を降し、
「お師匠さんのお許しが出るまでは、お弟子は決して外へ出ることは出来ませんのよ。」
と遮つた。
──「その小間使の名前はテルヨさんといふんですがね、主人はとてもこのテルヨさんの上に神経過敏なんだよ。うつかり客がテルヨさんにながしめでも送らうものなら、忽ち木剣を振りあげてお面を喰はさうと、応待中主人は隈なく監視の眼を光らせてゐるわけなんだから──。ちよいとテルヨさんの方へ挨拶の眼を向けたといふだけでも、忽ち御免蒙るわと来るんだからまあ大概の人は落第するのが常例ですよ、何しろそのテルヨさんといふのが全く夢のやうな、物語にでも出て来さうな美人なんだから誰だつてうつかり見惚れてしまふのさ。──この点、然し、君だけは凡そ不安はなからうと皆なではなし合つて来たのですよ。」
天狗洞の冠木門が梅林の奥に仄見えるのを目ざして、訪ねて来る途中でR氏は私に云つたのであつた。──「この私でさへ、あの師匠のところへ訪れて何が一番辛いと云へば、勿論テルヨさんを気にしまいと堪へるのが念力中の念力でね……はつはつは!」
屋敷のまはりには白壁の塀が囲つてゐた。塀は幾星霜を経たものか、青苔をふいて崩れたり傾いたりしてゐた。門柱や扉には無数の弾痕が残つてゐた。鬼瓦のついた冠木門の屋根には、青草がすい〳〵と天にのびて陽炎を呼んでゐた。門柱に掲げられた表札の文字は年月の雨風に洗はれて既にもう道往く人の眼には認められなかつたが、近視眼者のやうに好く〳〵顔を近づけて験べると文字だけが円味を湛えて浮びあがつてゐる墨痕に「藤龍軒天狗流兵術指南所」と読まれるのであつた。尤もこの表札は今や行人の注意を強ふる要はなかつたのである。表札は単に当地の旧跡保存会の名の許に保護されてゐるのみであつたし、また当主の十一世藤龍軒は七十歳の隠居の身で、公の兵術指南は四十年の昔から廃業してゐた。然し彼は縁故の者の中から常々入門者を物色はしてゐるのであつたが、大概の者が主との初対面の時に──それは入門者のメンタルテストのために主は事更に頻繁と手を叩いて小間使ひを呼び出しては彼女の上に注ぐ彼等の眼つきを詳さに観察されるので多くは落第の憂目に遇ふのださうである。稀には合格者も現れたが、そのうちで夜陰に乗じて土塀を乗り越すことなしに、十日以上の食客生活を続け得られた者は絶無であつたさうである。多くの者はテルヨさんに向つてほんの一つの笑顔を示したところを発見されて破門を宣告されるか、でなければ彼等は日増に種々様々なる珍奇な試問や訓練なるものが重ねられるのに辟易して、脱走せずには居られないのであるさうだつた。それ故土塀のあちらこちらが崩れたり傾いたりしてゐるのであらう。
私は、何の自ら努めることもなしに第一の関門を突破してしまつたのが、全く不本意であつた。けれど、一層それならば甘く眼眦でもさげてテルヨさんの袖でも引いたならば忽ち私としては望ましい破門の身を得られるわけであるのだが、それは私にとつては他の人達が彼女を打ち眺めて眼眦をさげまいと努力することよりも更に〳〵至難な表情であつた。
「出られませんのよ。さあ、お部屋へ御案内いたしますわ。」
木刀を突いて門扉に凭り掛つてゐる私を、彼女は促すのであつた。この時私ははじめて彼女の様子を眺めたのであつた。紫地に白矢絣の飛んだ振袖を着て繻珍の帯を立矢の字に結び、鈴のついた墨塗の木履をはいてゐた。誰もが思はず見惚れてしまふといふのだから顔かたちのことなどを、殊に美女の観察や形容の言葉には拙劣な私がなまじな吹聴を試みぬ方が無事ではあるのだが、その時私は不意と、一体誰も彼もが見惚れるほどの美女とは何んな顔か? とおもつて多少の眼を凝したのは事実であつた。
稍、嶮を含んだ切れの長い眼であつた。端麗な鼻であつた。そして何か遥かなものばかりを眺めてゐるかのやうにいつも眼をうつとりとさせてゐるためか、白く切り立つた鼻筋の嶺の左右に据つてゐる眼は春霞に煙つてゐる湖のやうなひろさを感じさせた。細々と百合のやうに伸びた体躯であつた。それは間断なく舞ひを夢見てゐるかのやうに、しなやかな風情であつた。魅力と云へば夢幻的に花やかな寂光の香りが漂うてゐるかのやうな淡さが専らで、何処にも人の胸を掻き毮る底の息苦し気な艶めかしさはなかつた。何うしてこれに誰も彼もがそんなに見惚れるのかとも思はれたが、やはり誰も彼もが見惚れるといふものには、返つてその美しさがたつた俺ひとりにより他は解らぬであらうといふ風な極めて通俗的ではないものが深く淡く冷々と感ぜられるものなのだな──と思つた。その口唇は海棠の花びらを想像させる如き、冷たき貝殻の感であつた。
「ピピアスに似てゐるではないか!」
と私は胸の底で呟いだ。だが、私の表情は微風ほども動かなかつたのだ。若し動いたとすれば、いつの間にかその時もう向方の百日紅の老木の蔭に現れて凝つと私の挙動をうかゞつてゐた師匠が、矢庭に大刀を振りあげて詰め寄つて来たに違ひないもの。──彼は鷲に似た眼を輝かせ、髥を撫で大刀を突いて腰を伸してゐた。私だつて、大刀を突き、円い眼を視張つて顎を撫でながらテルヨさんのあとをのし〳〵と歩き出したところだつた。
「鈴の音が聞えるかね?」
私が師匠の前を通り過ぎようとした時、彼は咳払ひといつしよに訊ねた。私はほんたうにそんなものは聞えなかつたので、振子のやうにはつきりとかぶりを横に振つた。
「まあ好かつた。あの鈴の音は私ひとりで聞かなければならぬのだ。お前は二つ目の弟子の資格に及第したぞ。」
師匠は左う云つて、先に立つて行く娘の木履の鈴の音にうつとりと耳を澄しながら、竜の鬚が逼ひ繁つてゐる小径の勾配を昇りはじめるのであつた。何だ、木履の鈴の音なら私にだつてはつきりと聞えてゐるのだ。私は稽古の合図のベルが何処かで鳴りでもしてゐるのか、それならば聞こえぬとおもつて正直に首を振つたのだつたのに──。竜の鬚の小径は百日紅の林の下を長々とうねつて、次第に築山へ昇つて行くのであつた。長閑な空には一羽の鳶が諧調的な叫びを挙げながら大輪を描いてゐた。私は鳶を見あげてゐたが、耳には鈴の音がさら〳〵と響いてゐた。先頭が娘で次が師匠で殿りが私である行列は、たしかに技巧的に運ばれる鈴の音に音頭をとられてゆら〳〵と踊るやうなおもひで「大蛇の如くに」うねつてゐる螺状の坂径をのぼつて行くのであつた。私は未だ藤龍軒を師と仰ぐ念も涌かなかつたのであるが、弟子と決められてしまつた上は師と称ばねばなるまいぞと覚悟して空を仰いだ。聞こえぬと云つてしまつた以上は努めて鈴の音から注意を反さうと念じてゞある。門の扉を潜ると百日紅の繁茂した林の下を脱けて明るい築山へ登り、そして降ると、空一杯を覆うた小暗い藤棚の下の池をどん〳〵橋を渡つて漸く「本堂」へ達するのであつた。池には水葵と睡蓮が一面に生ひ蔓つて草畑と見られた。橋こそ懸つてゐるが、云はゞそれは造園上の風流気か何かで、下はたゞの草畑なのかと私は思ひもしたのである。草々が水葵であり睡蓮でありヒツヂ草やラツパ草が咲いてゐるのを見れば池に違ひなかつたのに私は余程迂闊だつたのだ。築山を降つた行列が橋の上に差しかゝつた時、いつそ私はこのやうに空ばかりを仰いでゐて凡そ鈴の音などには注意してゐないといふ大きな態度を師匠に示してやらうと気づいて、草畑を飛んで先へ出ようとしたのであつた。
あツ、水があつたのかと気づいたが、何故か私は一向に驚きもしないのが吾ながら不思議であつた。深い泥沼で、私は落ちたのであるが水煙りひとつあがることもなくどろ〳〵と、恰度セリ出しの穴から奈落へ消えて行かうとする芝居の仁木弾正か何かのやうに、そしてまたところてんのやうに悠々と沈んで行き、あはや泥水が口につかへさうになつた時に私は思はずぶる〳〵と唇を鳴らしたゞけだつた。その音で二人の者は辛くも事件を発見して、左右から私の腕を執つた。
あはれよ、私は時代の夢を、古呆けた一冊の皮表紙の書物の中にそらんじてゐた。ケルトやゲルマンの原始族は海賊を生業となし、転生宗教を奉じて霊魂の不滅を唱へた。「海賊族の信仰」と題するいとも怪しげなる歴史書であつた。
“Young Narcissuso'er the fountain stood, And viewed his image in the crystal flood, ──”
「俺は今、偶々此処に人として生れて在るが、前の命は一羽の鸚鵡でモンゴリアの貴族に飼はれてゐた。禿鷹と生れてヒンダスの墓場の空を飛翔したこともあり、鰐と生れてナイルの上流に百年の生を享けたこともある。また数十年の間は或る僧院の天井に灯される龕灯の火であつた。或時は一巻の書籍として生れ、また或る時は一巻の書籍の中の単に一個の文字として生れた。また或る街では橋と生れて八十年の間多くの人の足に踏まれ、或ひは夜盗が所有する鍵束の中の一個の鍵であつたこともある。一本の寄生木として生れ、樅の梢にさゝやかな杖を伸したこともあり、樵夫の鋸と生れて数多くの大木を切り倒したこともある。貧しい漁夫の煙草の煙りとなつて瞬時の生を享けたこともあれば、一尾の鰯と生れて漁夫の子供に釣りあげられたこともある。」
彼等は天地の間に存する在りとあらゆる物として、嘗て生れ、やがてまた生るゝものと信仰した。一枚の挿画にアルジエリア・マントを肩にした Pandus と称ふひとりの海賊が、ひとりの美女を抱き寄せ、長い頤鬚を撫でながら蠍座の星に祈つてゐた。
Pan「愛しき Pipias よ、故郷を思ひ起すな、囚はれの女王様よ。」
Pipi「ノルマンデイの貧しい漁夫の娘だよ、あゝ、妾は帰りたい。」
Pan「嘗ての世でお前の母は或る奥深い王城の王姫であつた。わしはその時一個の鵞鳥の卵として生れ、そのまゝ王姫の夜食の膳に載せられた。その夜王姫はみごもつた。そしてお前を生んだ。お前は父なし子ぢや。お前はノルマンデイの田舎に棄てられたのぢや。わしとお前とは深い因縁があるのだ。お前はわしの子を生むべきだ。蝎座の星のお告げだ。」
Pipi「鵞鳥の前に、お前は何に生れてこの世に来たのであつたかしら?」
Pan「わたしのピピアスよ。わたしは戦場で勲をたてた馬であつた。またの日は武将の腕に執られて多くの誉れに充ちた一振りの剣であつた。そしてまた或る時は、或る沼の水中の泡であつたこともある。」
Pipi「惨めなパンダスよ、お前は再び水中の泡となるが好からう、お前が泡となつたら妾はお前のために美しい微笑を浮べて、水鏡をのぞくであらうよ。異教徒に身を任すくらゐならばすゝんで死を選べと妾達は説かれて来た天国の夢見るピユウリタンなのだ。」
そしてひたすら空の滄瀛へ眼を挙げてゐるピピアスの娥々たる画像に私は見惚れた。その画はベツクリン流の前派かと見らるゝ如き幽邃な怪奇に満ちて、裸女の姿が最も堅実な筆致で写実的に描かれてゐた。私は変態心理者なのか、絵でも、実物でも溢るゝばかりの愛嬌を湛へたとか、甘々しくしなだれかゝつたとか、左ういふ類ひの如何なる美女の媚にも魂を蕩かすことはなかつたが、剣もほろゝに強ばつた女武士とか、男を嫌つて唇を噛んだものや、云ひ寄られても袖を惹かれても、何処吹く風と空々し気な女の様子に、というてこれまで夢中となつた験しもないのだが、大した魅力を感ずる質であつた。十歳の昔のころ祖母のお伴で屡々歌舞伎芝居を見に行くのであつたが、女に振られる悪侍やお殿様が「えゝツ、これほど云うても聞きわけもない、斯うなるからは可愛さあまつて憎さが百倍──」などゝ唸つて眼玉をむき出すのだが、いつの時でもその心持や顔つきが腑に落ちなかつた。私はその画を見、その文章を読みながら、せめてこの身も男と生れた甲斐性には、たとへ海賊の末輩であらうが夜盗の弟子とならうが悔いもない、あのやうな美女の肩へなりと腕でも載せて見たきものよ──と希つた。私は、稍美しく気どつた女さへ見れば、おゝピピアスに似てゐるぞ! と呟くのが口癖になつてゐた。
ところが私は、いとも痩躯の、棒きれのやうに可細い腕しか持たぬ貧力者として、今やこの世に生を享けてゐる夢想家であつた。例へば、一個の文字を運ぶにしても恰も巨大な石でも盗むが如くにあぶら汗を流し、曳哉々々といふ声をあげ、稍ともすれば気絶するばかりの極めて無力な屋根裏の文士として命を保ちつゝある身の上であつた。私は、ピピアスよ、ピピアスよと呟きながら花街やら酒場通りやら、陰惨な廓やらと翼をのばすのであつたが、所持する金に比べてその空威張りの姿が余りに荒唐無稽に過ぎるよ、何だあの咳払ひの物々しさは、おつに気どつた見たいなあの頤の撫で振りは何たる気障な態だ、正しく彼奴は三ピンであらう──と弾かれ、嘲笑されるばかりで、折角大らかに拡げた私の腕に、しばし不気嫌のまゝの顔つきで翼を休めようとするひとりの女中さへも近寄らなかつた。パンダスよりも私はあはれであつた。未だ私にそんな癖さへも起らなかつた大分前に、先づ妻さへもが愛想を尽かせて里方へ静養としやれてゐた。
「シヤボン玉のやうな人だ!」
と彼女は蔑んだ。妻でもよろしいのだ、何うぞこの腕の中で罵つて呉れ! 多分彼女はM市の妹の処へでも来て夫の不平をあげてゐるのであらう? と私は見当をつけて、はじめに記した如く何時の間にか私の希ひは遥かに伸びて、宇宙に対する吾身のテレ臭さと憧れをかこつが如き唐変木と化したまゝふら〳〵出発して来たのであつた。もう、すつかり私の魂は生れ変つて水中の泡となつたかのやうなおもひであるのみだつた。
私の腕が、空気を問題の他とすれば、そんな癖が生じて以来はじめて掴むことを得られたのは天狗洞の木刀だつたわけである。
私の身柄だけは師匠とテルヨさんの力で難なく抜き出されたが、橋の上にたつてからしつかりと握つてゐるつもりの腕を見ると、もとのやうな空手であるだけだつた。私達は、私が落ちたゝめに穴を生じてゐる水草の間の水面を稍暫く眺めてゐたが余程しつかりと沼底に突きさゝつたと見えて私の木刀は決して浮びあがつて来なかつた。代りを与へるといふわけにはゆかないから、その穴の個所に目印しをつけておいて、やがては浮んで来るであらうものを待つがよろしい ──師匠はそんな意味のことを呟き、そして咳払ひを発しながらひとりで立ち去つた。テルヨは水草が再びその空隙を埋めぬやうに、そこを丸く切りとつて天井を指さした、なるほど其処だけには藤棚にも小さな天窓ほどの隙間があつて、恰度水草の間の穴に光りの棒が落ちてゐた。のぞくと、水の面に顔が映つた。私は、私の肩の脇からテルヨの眼が凜と光つて水鏡に映つてゐるのを見たが、間もなく本堂の彼方から手を打つ音が響くと、木履の鈴を鳴らしながら駈けて行つた。水鏡には水底からの沼気の泡がふつ〳〵と浮びては消えてゐた。
庵は貝殻を伏せたやうな扁平な草葺屋根で池のふちに蹲つてゐた。低い藤棚のために池のまはりはいつも曇り日のやうに薄暗いのであるが軒をくゞると庵の中は益々黄昏色の暗さが深くなつて、中廊下などを通り抜けるには昼間でも雪洞を燭したい位ゐであつた。昼間の映画館に飛び込んだ時のやうに暗さに眼が慣れるまでは止惑はされるのであつたが、落着いて来ると矢張り相当な明るさの漂うてゐるのがわかつて来て、廊下の下に呼び込まれた池の水に泳いでゐる鯉の姿などが指摘された。築山の方から眺めるとこの建物は潰れかゝつた塚のやうに小さく見えるのだが、内に這入つて見ると思ひの他広くて私は既に滞在が一ト月ちかくもなつたが、自分の部屋へ赴く廊下以外には何処に何う続いてゐるものか、そして何んな部屋が在るのか覚えもしなかつた。
呼び込まれてゐる水の上に懸つた隧道型の廊下を抜けて行くといつの間にかそれは池のふちを弓なり廻つて稍勾配を保つたまゝ爪のやうに伸びて、丸窓を持つた中二階に達した。この四畳半の一室が私の居室であり、そして寝室は階下にあたる天井の低い六畳間で鯉が静かに水を吐く音が聞えた。私は丸窓の下の経机に凭つて終日坐禅を組んでゐるだけだつた。私は、はじめ剣術の稽古をさせられるのではやり切れないとおもつたのであるが、何故かはじめの日以来主人とは顔を合せる機会もなく、呼び出される心配もなく、これでは何処に居る時も同様私は無表情のまゝ頤を撫でゝゐるばかりであつた。
やがて藤の房はめき〳〵と伸びて、窓の先を覆はんばかりであつた。その間からどん〳〵橋をゆきゝするテルヨさんの姿が窺へるのであるが、藤紫色の着物と代つたので、もう窓の下まで伸びて花をつけた藤の花の一房が揺れてゐるかのやうに私の眼に映るのであつた。それが、怪しく妍麗な幻のやうに淙々として、私は次第に私のうらぶれた夢の中に鏘然と鳴り渡るものを感ずるらしかつた。異様な酒の酔で私の眼も頭も終日朦朧としてゐるせゐか彼女がゆきゝする藤の花の盛りの庭の光景から、古風な舞踊劇の舞台面でゝもを眺めるかのやうな作りものとしての悦ばし気な絢爛さに目を奪はれるのであつた。
三度の食事を彼女がこゝに運んで来るのであつたが、眼近かでは私はその姿を眺めぬことにしてゐるので、空を覆ふた藤棚の下に眺める彼女が幻灯の中のものゝやうに見えるのであつた。
食膳の上には三度ながら必ず一本の笠間焼の徳利がついてゐて、客は好き嫌ひに関はらず大きな木盃で一気に呑み尽してしまはなければならなかつた。私は平常都にあつては一合の酒をのぞむためにも、稍しばし徳利のやうに頭を傾けてふところ都合を考へなければならない日の方が多いといふ賤しい酒呑みであつたから、定めし悦に入りさうなものなのに、いつも白けたまゝであつた。そして藤の花が伸びるに反比例して、これが次第に息苦しい拷問に化すかのやうであつた。(然し、その程度の感情をとり戻したことは事実であらう。)朝顔型に口の開いた焦茶色のでつぷりとした徳利を傾けてテルヨさんが両方の手の先で支へながら恭々しく酌をするのだが、口を利くことは勿論、顔を挙げることもかなはず黙々とした坊主の様に端坐してゐなければならないのである。食事の間、池の向ふ岸のあたりで主人は客の様子を藤の花に見え隠れとなつてうかゞつてゐるのであつた。雨の日には丸窓の真向きにあたる茶室の細目にあけた障子の間から張番の眼を輝やかせてゐて、いざといへば忽ち木刀のお面を喰はすべく身構へてゐるのだ。つまり客が、酌女に対して愛嬌の笑ひをおくつたり、酩酊者らしい音声を発したり、乃至は掟の酒を呑み残したりした場合のために──。
私は、斯の如き厳しい酒に対して斯んなにも脆弱である吾身が日増に重荷となつて来るのであつた。酔つたからというて無闇と手脚を伸すこともかなはず、呑みたいからというて矢鱈に水をあふることも許されず名状し難い陰気な泥酔状態を噛み殺して烏天狗のやうな顔つきを保つてゐることの苦渋を今や知る身となつてゐた。朝の酒がいくらか醒めかかつたかとおもふと、木鐸が鳴つて間もなくお午が運ばれるのだ。同じ分量でも朝よりは午は増の酔がこもり、夜食の酔は更に倍増の利目で、それが来る日も翌る朝も時計のやうに正確に繰り返されるのであつたから、私は明けても暮れても体内は蒟蒻のやうなのに、おもてだけは飽くまでも巌丈な具足をよろうてゐなければならぬのだ。──そんなら一層はじめのうちに希つたやうに、堅苦しい具足などはさらりと脱ぎ棄てゝ矢庭に主人の木刀をお面に喰つたならば、斯んな拷問からは即座に解放されるわけなのだが、そんな意久地の無い姿をテルヨさんに見物されるのかと考へると、それよりは未だしもこの拷問に堪へる方が甲斐があるといふ風な怪しからぬ我慢強さが、きざしはじめてゐたのであつた。
私は、天狗洞藤龍軒の来歴に関する大部の文献を験べ出さうとして数十巻の書物を文庫から持ち運んだのであるが、あのやうに終日重苦しく酔ひのこもつた頭では、折角開いても碌々文字も読めなかつたのである。私は丸窓の下の机の前に端坐してゐるのだが、舟にでも乗つてゐる通りで頭は始終ゆら〳〵と風鈴のやうにゆらめいてゐるらしかつた。そして、それとなく藤の花の間から池の上をうかゞひ、小間使の姿にうつゝを覚えてゐるばかりであつた。そんなに他合もない私の了見に気づきもしないで或日などは、主人は小間使を通じて次のやうな賞め言葉を贈つて寄越した。
「天晴れな修業者と見た。あの坐禅で、あの頭の揺れ具合は、正しく真理を索むるものゝ姿に相違ない。月がかはつたら朝夕の銚子を二本と増してやらなければならない。その上あの坐禅が二十一日の間保てたならば、いよ〳〵彼のために道場の扉を開いてやらなければならない。」
「有りがたうございます、しかし私は……」
私は思はず座蒲団から退いて、辞退の言葉を吐くために両腕を畳に張つて首を垂れた。
すると、その言葉をつたへて膳の向ふ側で銚子をとつてゐたテルヨが、
「……格構だけを、あゝいふ風にさへしてゐれば、何を話したつて、あの爺には聞えやしないから平気ですよ。」
と口のうちで囁いた。
「今も、池のふちから此方を眺めていらつしやるんですか?」
私は平伏したまゝ、かすれ声で訊ねた。
「見てゐるわよ、顔つきと口つきさへ変へなければ、何んなに爺の悪口を云つたつて大丈夫よ、とても耳が遠いんですもの、眼の前だつて聞えやしないのよ。だけどね、顔つきと口の動き具合で何を喋舌つてゐるかといふことを察しるのに充分慣れてゐるんだから、それさへうまく行けば、あんな爺なんて木像と同じなのさ。それよりも妾は、Rさんが云つたやうに別段あなたが吃りでも聾者でもないらしいのが解つて嬉しいのよ。こんな家にゐると他人とはなしをすることが一番楽しみなんですもの。」
私がお辞儀をしてゐるうちに、テルヨは呟きながら膳をさげて行つた。
それから私たちは食事の度毎にそれとなく四方山のことなどをはなすやうになつたが、顔つきや口つきを全く動かすことなしに言葉を吐くといふことは妙なもので、「言葉」といふものが全々発声者とは関はりなく、夫々游離して、明らかに空間に於ける別個の存在物と感ぜられた。私は、私と小間使がとり交す言葉の凡てが、眼にこそ見えないが、眼に映る凡ゆる物象と同様に、あれらの転生宗教家連が信ずる如く夫々命を持つてたゆたうてゐると思はれた。──と考へれば何もそんな顔つきで会話を交へる私達の場合に限らず、宇宙間の凡ゆる音響が夫々別個の命あるものと信ぜられるのだが。
「わたしは、その時お前の口から吐かれる一個の言葉として生きてゐたのだ。」
私は斯んなうまいことを云つて女を口説く夢を見た。──それは左うとして、いつも嶮を含んだ顔つきでゐる彼女の姿と、その言葉とを結びつけることは不可能であつた程、それ程彼女は左様な会話法が巧みであつた。
加けに間断もなく鉛のやうな酔に閉されてゐる私の眼に、華麗な花の合間からちら〳〵と映るうつゝであるが故に、無何有の風情が突つぴやう子もなく、嫋娜かに感ぜられるのであらうが、藤の花のやうにすらりと丈の伸びたテルヨが、いつもうつむき加減でひら〳〵とする両つの振袖を軽やかに胸の上に合せて土橋の上をゆきゝする姿が真に幽かな蕭寥たる一幅の絵巻ものと見えた。──もうこの頃はどちらもすつかり言葉に慣れてしまつて、睨み合ひ端坐したまゝ、
「テルヨさんが居なかつたら僕は一日だつて斯んなところに居られるものか、馬鹿々々しい!」
「もつと胸を張つてゐなければ駄目ですよ、しつかりと腕をあげて、そして、もうせんのやうに落ついて頤を撫でゝ、──それが下手になつたら片なしぢやないの……」
などゝ囁き合ふのであつたが、何うしてもそれらの言葉が、あの向方の藤棚の下をゆきゝする冷々と美しい娘の口から吐かれるものとは感ぜられぬのであつた。その姿は私などの言葉は断乎として届かぬ遥かなるものゝまぼろしとうかがへるのみだつた。私の慣れ〳〵しい言葉は、たゞ彼女の口先から洩れる数々の言葉とのみ慣れ親しんで何処かの空をさまようてゐるだけで、あの姿に向つておくりつたへたものとは、私には考へられなかつた。
「君と斯んなはなしをするやうになつたら僕は急に自分のあんな癖が滑稽になつてしまつて、今では厭々ながら斯んなに気どらなければならないのかと思ふと、背中には冷汗が流れて、因果な役者になつた見たいだ。せめて木刀でも欲しいものだ。」
私はおひ〳〵と手もちぶさたに苦しむやうになつて、折々池のふちにしやがんでいつかの水草の中の穴を覗いた。沈んだまゝ木刀は浮いて来ないらしかつた。水の上には藤の花がはつきりと倒さまに映つてその中に覗き出る自分の顔を見ると、それは青ンぶくれの糸瓜のやうな色艶であつた。酒の気さへあればどちらかといふと活気づいて、あかい血色となるのが持前だつたのに努めて酔を殺すことに徹底したゝめか奇妙な顔色になつたものだと呟いた。それにしても何うして斯んなに長たらしい酒の試験などを行ふのかと私でさへも疑ふのであつたが、それはそれだけの酒が悠々と飲めて、あらゆる場合にあの小間使に対していさゝかもの心を動かさぬか何うかを験べるためだつたのだ、眼のふちなどを酒の香りで少々でもあかく染めるやうでも最早資格は奪はれるべきだつた。ところが私のは胆力が、寧ろあまりに欠けてゐた為といふべきで却つて反対の効果を現したばかりなのだ。兎も角、青ンぶくれの糸瓜色は主人の心を安堵さすに充分だつた──まつたく女に対していさゝかの心も動かさぬ者といふことが、充分に主に納得出来た場合に彼は弟子のために道場の扉を開くことになつてゐた。
主は毎日、テルヨとたつた二人ぎりで朝夕二度宛道場の扉をおし、彼女に天狗流の兵術を伝授するとの由であつた。未だ私は、その稽古の光景を見学したわけではなかつたのであるが、あの高島田に結つたテルヨが緋縮緬の襷をかけて薙刀を執るのださうである。そして、上座の席に端坐した師匠の前で、様々なる「シヤドウ・フエンシング」を演ずるのださうだつたが、既に何年となく師匠につかへてゐるテルヨの技術は天狗流の奥儀にまでも達しようとするほどまでにすゝんでゐて、就中跳躍の術に長けてゐるとのことであつた。
「六尺もの高さに張つてある綱を飛び越えたり、楣の上から師匠の前に飛び降りたり、左うかと思ふと梯子の上から敵の首の上に恰度肩車になるやうに飛び降りて絞め殺してしまふやうなこともあるし……」
いつものやうに口つきを動かさないでテルヨがそんな話を説明しかけた時私は、斯んな奥床しい小間使ひが、そんなあられもない立廻りを演ずるのかと想像して、思はずふら〳〵と前へのめつてしまつた。然し習練が積んでゐるので、それも腕を張つて平伏した格構で、辛くも花やかな痴想を支へたけれど、胸は狒々の如く激しく攪乱された。
「とても私には道場へ這入るほどの資格はありませんよ。」
「えゝ、だから師匠の試験は斯んなに厄介なのよ。大概の人が落第してしまつて、仕方がなく妾ひとりが型ばかり習つてゐるわけなんですが、やはり弟子は二人でなければならないのです、ひとりは男で、そして決して相手を女とおもふものであつてはならないんです……」
なるほど相手がテルヨのやうな美しいものでなかつたら女とおもはぬのも楽であらうが、このやうに不思議な艶めかしさに富んだアマゾンを相手にそんな戦ひを演ずるのでは、どんな男だつて震へあがつてしまふのは当然だ──自分などは、もうその話をきいたゞけで全身が氷柱のやうにゾーツとしてしまつて、昏倒しさうであつた。
「あなたは屹度及第しますよ。あの男の胆力の据り方は稀大だ。あの男とならば、若しもお前が枕を並べてやすんでも、お前を女とおもふ気遣ひもない──師匠が左う云ひましたのよ。世界中で一番のやきもちやきはあの爺だらうと妾は思つてゐるんですが……」
私はテルヨから左う聴いた時、驚きのあまり思はず胸一杯に空気を吸ひ込み、長い髥があるかのやうに顎を掴み百貫の鉄棒のやうに徐ろに左腕を宙にあげてゐた。そして凡ての骨骼が鉄と化し、仁王の表情に変るおもひであつた。あまりに私には胆力が無さ過ぎるのだ。枕を並べて──そんな言葉を聞いたゞけで、そんな力が溢れるほどぞく〴〵として、私はテルヨの妍麗さに止惑ふばかりなのだ。
「師匠が頼もしさうに此方を眺めてゐますわ、妾だつていつも〳〵たつたひとりで師匠の前でそんな稽古をしてゐるよりは、あなたのやうにさつぱりとした、ほんたうに厭味のない人と稽古が出来るかと思ふと張合ひですわ、女とか男とかの区別もなしに、あなたとはこれから先ほんたうのお友達になれるかと思ふと、夜も碌々眠れないほど嬉しいのよ。」
その頃から朝夕の銚子が二本となつたが、私は酔ひもしなかつた。道場は何の辺にあるのか知らなかつたが、森閑とした藤棚の下をくゞつて、えいツ! やツ! といふたしかに女の声と、そしてそれに伴れて床の上に鳴る脚の音が伝うて来るのを、私は発見したのである。──おゝ、あれはたしかに綱を飛び越える脚音だ! アツ、あれは、楣の上から飛び降りた音だ! ……私は、一投足の物音も開き逃すまいと耳をそばだてるばかりで、二本であらうが三本であらうが酒如きは水であつた。
私は寝に就いてからも、
「さうおもふと妾は眠れませんわ。」
と云つたテルヨの言葉をそのまゝ口真似して恍惚としたり、拳固をかためて吾と吾が頭を擲つたりした。──眠らないでゐるかしら! と私は呟いで、亀の子のやうに手脚を縮めた。
「男と女の区別もなく……あゝ、これが絶望だ!」
とまた私は唸つた。涙さへこぼれた。
どうやら私は、嘆きの感情だけは健やかにとり戻してゐた。笑ひのみが、永遠の雪の奈落に沈んだかの如く私の胸に蘇らぬのみであつた。
テルヨが朝餉の膳を運んで来ると、私はそんな浅間しい痴想を彼女の上に駆け廻らせた夜を衷心から恥入つて、顔も挙げられなかつた。飲む間も食ふ間も、力を込めて彼女の姿から眼を反らせてゐる私の態度は、はじめの頃と同じやうに厳しいものであつたが、心のうちの邪しまな薄暗さは比ぶべくもなく、ひたすら私はそれらの苛責に追はれて息苦しく無理矢理に気どつた上眼を使ひ、そしてまた宇宙に対するテレ臭さであるかのやうに頤を撫で、永遠に憧るゝかのやうに腕を挙げ、悟りをひらいた武者修業者のやうに武張つた咳払ひを発するのであつたが、それはもう何も彼も心のうちの怯懦と助平根情とをごまかさうとする渾身の大見得に他ならなかつたわけである。
「落着き具合が日増に本格となつて来た、もう何時、彼の為に道場の扉を開いても本望だ──と師匠が申されました。」
「道場は何処にあるのですか?」
「築山の向方から大蛇の脱殻の径を越えて、百日紅の林の中へ……」
「然し私には、道場からのあなたの脚音が何時もはつきりと聞えてゐましたが、そんなに遠いとは思はなかつた。」
「いゝえ、心が徹すれば聞えるのです、耳では聞えぬ遠さが──。師匠もさうです、池のふちに居て道場からの妾の脚音をはつきり聞きわけます。あなたはいつの間にか藤龍軒の兵術を体得したのです。」
「…………」
そんなに云はれて見ると、実際は何も聞えてゐなかつたのではないか? と私は気づいた。沼のやうに酔がこもつて耳がぐわん〳〵と空鳴りするのを、痴想と結びつけたのだつたかしら? と思つて耳を澄して見ると、何の事だ、頭の中ではテルヨの跳躍の足音にも似た酔ひどれ頭の馬鹿鳴りがお囃子のやうに今もテンテンと鳴つてゐるのだ。
百日紅の林から築山へかゝる、あの竜の髥の生ひ繁つた径は古来から「大蛇の脱殻の道」と称ばれてゐた。昔、七世の藤龍軒がこの径で大蛇の脱殻を拾つて以来の名称と私は記録で読んだ。そも〳〵天狗流の奥儀を保つためには、全く兵術の心得などは弁へぬ田夫野人に剣を持たせて最も自由勝手な戦ひを演ぜしめ、それらの太刀先や振舞ひの間から真に新奇な型を発見して之を奥義の巻物のうちに加へるといふのが代々の当主の役目として掟となつてゐる。処が一介の野人共に剣を持たせて神妙な立ち合ひを演ぜしむるといふ事実は誠に至難の業で、代々の当主は凡ゆる困窮を犯して諸国を遍歴したのであつたが、容易に新奇な型を樹立するに足るだけのヒントが得られなかつた。やがては天狗流の兵術も影を潜めて、あはや没落に瀕した時に偶然にも七世の手で脱殻が拾はれると間もなく、土用干の池の底から古判の壺が続々と掘り出された。彼はそれらの古判をふんだんに振り撒いて田野の人を呼んだ。それまでは文句ばかりに悸されて厭々ながら立ちあがつたまゝの蒟蒻役者であつた模擬武士達は、黄金の光りに活気づいて猛烈な大合戦を演じた。七世はそれらの無手勝流から幾多の極意を発見して自家の流儀に加へることに成功した。
この十一世にもこれに類する何らかの期待が在るのだらうが、それは私の知る由もない彼の胸中の秘であつたが、いよ〳〵許されてテルヨの薙刀と鉾を交へると決つた時の私は、昔日、黄金の音を聞いて馳せ参じた模擬武士と同様血相を変へた。
さて、刀は池に沈んだまゝだが、どうせお前には刀は使へぬであらうから、当分は素手でテルヨをつかまへるのだ。鬼ごつことおもへば大差はない。私の見てゐる前で追ひかけるのであるが、蝶々をつかまへるよりは六ヶしいだらうよ──。
「さあ、此処から始めて道場へ追ひ込んでゆくのだ!」
と師匠が細い笛のやうな声で号令した。
私は白鉢巻に縫込みを着け、白地袴の股立ちをとらされて、無論木刀が授かるものと待ち構へてゐたところに、意外にもそんな宣告を受けたので隆々と鳴る腕のもつてゆき場がなくなつて何時もの癖のやうに咳払ひを挙げ、憤つとして頤を撫でゝゐた。一方テルヨは私のそれほどまでに凜々しい稽古姿に引きかへて何らの仕度もなく、普段のまゝの藤紫の振袖姿で、鈴のついた木履を素足に穿いてゐた。そして師匠の合図と共に、藤の花のやうに袂をなびかせて、ちやら〳〵といふ鈴の音をふり撒きながら、花盛りの藤の花で濛つと煙りが立ちこめてゐるかのやうな香りの中を、池の上を、駈けて行つた。私が、たぢろうてゐるといつかの行列と同じやうに、やがて師匠は左腕の木刀を杖に突いて、のそ〳〵と鈴の音を追ひはじめた。
私は、茫然として汀の石灯籠の傍らに、もう一つ別の石灯籠のやうに突つ立つてゐたが、二人の後ろ姿が池を渉り終つて築山の裾にかゝつた時、漸く不意と吾に返つて、
「さあ、いよ〳〵合戦なのぢやないか。追ひかけなければならない!」
と呟き、身構へたのであつたが、その刹那に、何とまあ驚くべきことには、それ程気性はたしかな筈なのに、突然五体が水母のやうにぐにや〴〵と震へて来て、慌てゝ石灯籠の肩に抱きつかうとした甲斐もなく、ふつゝりと腰が抜けて庭石の上にのめつてしまふのであつた。ウヰスキイを飲み過ぎた時には稀ともするとそんな始末を演ずることがあるが、この幾日も幾日もの辛棒酒の酔が突然堰を切つて、いち時に噴火したものと見えるのだ。
「いよ〳〵となつて、この態とは残念だ。」
私は唇を噛んで、起きあがらうとするのであるが、上半身ばかりが傷ついた蟷螂のやうに伸びあがつてはのめりするばかりで、身動きすらも出来ないのだ。それでも頭や耳はたしかだと見えて、築山の彼方からチリ〳〵と鳴る木履の鈴は手にとるやうに聞えた。
それでも私は渾身の勇気をふるつて、橋の上まで逼ひ出すと、水草の穴に顔を映し、喉を潤ほした。
「今木刀が浮いて来たら神の救けであるのだが──」
私は水に映つてゐる自分の顔色が、青瓢箪からすつかり色を染め変へて、赤鬼と化してゐるのを発見した。その時、アメンボウが飛んだやうに水の上に雫が落ちるのだ。涙なのだ。──涙も涙、雹のやうな涙で水鏡は乱れて顔も映らなかつた。
「おや〳〵、俺はいつの間にか嘆きの感情を取り戻したと見えるが……一体、今、何がそんなに悲しいのだらうか?」
私は不図頭をひねつた。その間も水の上には間断なくハラハラと雹が降つてゐて、顔を見るわけにはゆかなかつた。
「病気が治りかゝつたとでもいふのであらうか?」
微かに鈴の音が響いてゐた。鈴の音は築山のスロウプを滑つて藤棚の下をくゞり、池の水に反響するためか、遠ざかれば遠ざかるほど繊細な余韻が鮮明となるかのやうだつた。その上それは池の上で消えることなしに、堂内に呼び込まれた水に誘はれて貝殻のやうな庵の奥へ駆け込むと、庵全体を共鳴箱と擬して、ほんたうの貝殻を耳に当てた時のやうな空鳴を漂はすのであつた。橋にのめり、水の上に首を伸して私は新奇な鈴の音に聴き惚れた。それと同時に私は、胸の底にも鈴の音に似た微かなわらひらしい感情が芽生えてゐるらしいのを発見した。私は、まことに意外であつた。それよりも私は、永遠に忘れた筈の自分のわらひの表情は、何んなものであつたか? と好奇心に誘はれたので、壊れぬやうにそのまゝのマスクをそつと保つて急いで水鏡を見直した。──然し、私の笑ひの面は嘆きとも笑ひともつかぬトーテム・ポールのカラス面の一種であつた。私は、何といふこともなしに落胆して、藤棚の下を逼ひ出ると竜の鬚に獅噛みつきながら築山の勾配を攀ぢて、鈴の音を追つた。辛うじて頂きに達したが、明るみに逼ひ出た土竜のやうに私の酔は一途に重態と化して、もはや息も止絶れさうであつた。
鈴の音は師匠の杖に追はれて、今や「大蛇の脱殻の道」を降り終へて、明るい百日紅の林へ差しかゝらうとするところであつた。
頂から眺め降すと、まぶしい朝の陽りを浴びた脱殻の道は白く光つて、うねり、真実の大蛇のそれと見紛ふのであつた。舞を夢見てゐるかのやうな振袖姿と、黄八丈の袖無を着て杖を振つてゆく師匠の後姿の、その上を踏んでゆく光景が此世のものとも思はれぬ明るい、止めどもなくさんらんと明るい、実にも怪奇な滑稽美を放つて私の眼に溢れた。
「ひゆう……るるるる……」といふやうな不思議な叫びをあげて私は立ちあがり、腕を構へ、頤(鬚)を撫でゝ、ぎよろりと彼等の姿を視守つたが、忽ち柱のやうに前へのめつて、悶絶しかゝつた。が私は、直ぐに、斯んな態を見られてはこれまでの辛棒も水の泡だ! と呟くと、蜿蜓たる竜の鬚の坂道を、死者狂ひの尺取虫と化けて降りはじめた。
隈なく紺青に晴れ渡つた空では、一羽の鳶が諧調的な叫びを挙げて、悠々たる大輪を描いてゐた。今、私は自分の感嘆の叫びとおもつたのは、どうやら空を舞ふ鳶の声を聴き間違へたものであつたらしい。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「酒盗人」芝書店
1936(昭和11)年3月18日
初出:「経済往来 第八巻第八号」日本評論社
1933(昭和8)年7月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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