早春のひところ
牧野信一




 そのころ私は、文科の学生でありましたが、小説といふものにいさゝかの興味もなく──といふよりも小説の類ひを読んだことがなかつたので──主に西洋の哲学や科学の書に親しみ、興味と云へば星の観測ぐらゐのものでした。ほとんど友達といふものもなく、大概自分の部屋に引込んで、何かこつこつと机の上で辞書を引いたり、書抜をこゝろみたりしながら漫然と孤独の時間を過して居るといふ風でした。──夜になると芝居のはやしの音が、かなりはつきりと響いて来るやうな街なかの医院の二階でした。はやしの音は明治座の芝居からです。その小屋が久松町の川ふちにあつたころで、私は叔母の縁家先だつたその家に寄宿して毎日規則正しく学校(早稲田)へ通つてゐました。しかし私は波多野博士の哲学史の時間の他は図書館に居ることの方が多かつたのです。

 そこの医学士の妹であつた千枝子といふ娘は、あたりでも評判の美人でした。齢は私とはたしかおなひどしでしたが、学校を終へてから間もなく神戸の支店(彼女の実家は日本橋の富沢町で毛織物の輸入商を営んでゐたのです。)へ赴いて、多くの外国人と交際して来たといふせゐか、いろいろと世間のことにも慣れてゐるといふ風で、私には彼女が自分と同年とは思へませんでした。彼女が私に告げるさまざまな話題は凡てが私にとつては新鮮な未知の彼方のしかし退屈な夢のやうなおもひでした。──彼女は東京に帰つてからは神田のアテネへ通つてゐることになつてゐましたが、多くは私のゐる医院の方に来て、店では勉強が出来ぬからといふのに、語学の本などは手にとつたこともなく、いつも寝転んだり、脚を投げ出したりしたまゝ小説ばかりを読んでゐるのです。小説の載る月々の雑誌やら新刊本を手あたり次第に持込んで来ては、私の部屋でばかり耽読してゐるのです。私は、さつきも申した通り孤独癖の傾向が益々助長してゐた折からで、彼女の帰京には内心かなり辟易したのです。おまけに彼女の動作は極めて不しだらであつて、本を読みながらものべつにチヨコレートを貪り、煙草を喫し、脱棄てたものはその辺にほうり放しにして置くし、大きなヴアニテイ・ケースなどを持込んで来ても使ひ放しで出て行つてしまふといふ風で、私は非常に閉口したのです。私は彼女が帰ると、直ぐに自分も外へ出て、部屋が片づいたころになつて戻りましたが、隅々にまでも噎せつぽいやうな甘気な香りがこびりついてゐるやうな感じにも堪へられず、夜更までもまはりの窓を開け放しにしておくのでした。それにしても今迄、最も簡粗な机と本棚と一枚の坐蒲団があるだけだつた自分の部屋が、まるで見違へる程乱雑に──然も何も彼も派手つぽい女もちのものに散らかされてゐるのを見て、無性な潔癖性を亢ぶらせたのです。ストア派をもつて任じてゐた私には、寧ろ堪へられぬ責苦であつたでせう。床の間には小説本が次第にうづ高くなり、西洋莨や香水の瓶が並んだり、押入をあけて見ると桃色の羽根枕や脱ぎ忘れて行つた足袋などが、菓子の箱などとごつちやになつてゐたり、華美なレター・セツトが幾通りともなく始末もなく散乱してゐます。

 私は若い女の生活を間近に見た試しがないので、一体何処の娘も内では斯んな風なのか知ら、千枝子にしろ他人とはなしをしてゐるところや往来で出遇つたりすれば、まことに爽々しい良家の娘であり、斯んな態は想像も及ばぬのであるが──そんなに思つて私は竦毛をふるひました。



「小説を読むぐらゐのことならば、何もわざ〳〵こんなところまで出張つて来なくても好さゝうなものなのに──」

 たうとう私は我慢しきれなくなつて或時云ひました。「莨の臭ひだけでもやりきれやしない。」

 千枝子は腹這ひになつて本を読んでゐるのですが、時々ひとりで笑ひ出して、笑ひが止るまで突つ伏したり、深い吐息を衝いて何時までも眼を瞑つてゐたりするのです。そんな呼吸いきづかひが、後ろを向いて石像のやうに机に向つてゐる私の背後に覆ひ被さつて来るのです。──それにしても私は、ひとりの読者をそれほどまでに情熱的に操縦する小説なるものは、一体何んなことが書き綴られてゐるのだらうといふ好奇心を惹かれました。

「だつて、うちで読むとおこられるんだもの──オヤヂと来たら、このごろ厭にあたしを注意深い眼つきで見るんだが、いろんな引け目があつてね、自分からは何も云へないのよ。それで母さんにいろんなことを云はせるのよ。それがとてもやかましい文句で、身装からお化粧のことまで──」

「あたりまへだな。」

「学生の分ざいで、普段にお召の着物を着たり縮緬の長襦袢を選好みするなんか、もつての他だ──といふんだが、それが今度あたしが此方へ帰つて来てから急にさうなのさ。せんにはおしやれをすゝめてゐたくせに──」

「何かわけがあるの?」

「あるかも知れないんだね。──兎も角あたしは、それで、この頃は買ふものは皆なこつちにかくして置くし──それは皆なオヤヂの金をごまかしてやるのよ。知れたつて怒るわけにはゆかないんだから──オヤヂだつて、此処のアニキだつて、変な遊びをすつかりあたしに見つかつてゐるんだから蔭ぢや頭はあがらないのさ。母さんにしろ此処の姉さんだつて、いざとなれば気狂沙汰のやきもちやきなんだから可笑しくつて仕様がないや。」

 彼女はひとりで何か皮肉さうに舌を出したりしながら、押入から新しい支那鞄を引き出して、

「ほら、もう斯んなに……」

 と蓋をとつて一杯詰つてゐる帯や着物を示しました。その鞄には鍵が下りてゐて、名刺ばさみの個所には私の名前が誌されてゐます。

「みんなオヤヂとアニキをゆすつた金で買つたのさ。これにも容れきれなくなつて、あんたの鞄の底にも秘してあるのよ。気がつかなかつた?」

「俺の鞄にも! 厭だな──」

 私が白黒するのも関はず千枝子は、私のトランクの蓋をとると、シヤツや紺絣の着物の下から、目も醒めるやうな縮緬やら絹のやうな長襦袢を二三枚も引き出した。牡丹の花が染出されたり、西洋人好みとでもいふべき趣きの孔雀の縫を配したものやらが、恰で瓦の下から咲き出た不思議な花のやうに私の眼に映り、私は何か自分の胸の上に生々しい血煙を浴びた感でした。

「着換へるんだから、ちよいと彼方を向いてゐておくれな。」

 私は慌てゝ机にかへり、頭を抱へて空を見上げてゐたが胸の高鳴が容易に止みさうもなく、若し斯んなところに誰か這入つてゞも来たら何んな疑ひをかけられるかも知れぬなどゝ怕れて凝つと目を閉ぢました。

「君は何も知らないかも知れないがね、あの千枝子つて娘は──」

 野田といふ中年の店員がいつか私にそんなことを云ひました。野田は大学出で、もと株屋の店員でしたが、遊蕩のことで失敗した後父親同志が友達の仲だつたので千枝子の店に働くことになつたのです。生粋の江戸ツ子で、見るも精悍な美男子です。「兄貴の友達で橋田といふ医学生だつた男とは、もう二三年も前になるかな、ともかく大変な仲で、死ぬの生るのつて騒ぎまで起したんだぜ。余つ程マセた娘さ。ところが、あの娘は移り気といふのか自惚が強過ぎるといふのか知らないが、誰にもそのわけがわからないんだが、突然に、全く突然に、その男を嫌ひ出して、頑としてそれつきりさ。」

 その理由が何う考へても誰にも解らぬ、不思議な思ひきりを持つた娘だ! と野田は云ふのです。野田達だつて橋田といふ男は好く見知つてゐる柄といひ容子といひ申し分もない人物で、あれではさすがの千杖子も乗気になるのも道理だと誰彼となく云ひ合つてもゐたさうです。親達も無論賛成で恋人同志は大つぴらに泊りがけの温泉行などをこゝろみてゐたほどの間柄だつたさうなのです。

 野田は恰で千枝子に敵意でもあるやうに、何を聞いても驚きもしない私をつかまへて、悪口まぢりでした。

「はらんだといふ噂もあつたんですぜ。しかしそれは噂だけらしかつたが、神戸へ行つたのは源はと云へば、そのほとぼりを冷すのが目的だつたのに、今度帰つて来たところを見ると厭に西洋かぶれなんかしてオヤヂも大分手を焼いてゐるらしいのさ。でも毎日学校には行つてゐるらしいし、あれぎり男の騒ぎは起さないところを見ると、橋田のことを忘れずに居るのかも知れないが。──男は何でもすつかり無情を感じて九州の田舎とかへ帰つて、いつまでゞも千枝子の本心の立返るのを待つとかと云つてゐるさうな。まるつきり芝居もどきさ。」

 その時分は何を聞いても白々しかつたが、今では私は野田の云つたことなどを思ひ浮べると何か漠然たる嫉妬を覚えるのでした。

 彼女も男のことを遠まはしにはなしたこともあるのですが、まさか野田の云ふやうなことを信ぜられもしませんが、そんな連想を強ひられると私は次第に悩ましさが涌立つて来るのでした。

「何うして嫌ひになつたの?」

 私は千枝子に訊いたことがあります。

「声が駄目なの──自分でもあたしはくだらないことを気にすると思つて誰にも云はないんだけれど、どうしても我慢出来ないつてことが解つたのよ。それがね、その人の時にさ、はじめはその人の声が落着のあるやうな錆をもつた声でね、物静な具合なんかゞ気に入つてゐたんだけど、だんだん気をつけてみると、その人は何んな時にも、さういふ声より他は、高くも低くも、それつきりのひといろの声しか出ない──そんなことに気づくと、あたしはとてもやりきれなく滑稽になつて来て堪らないの。年がら年ぢう何んな時にも、憤つても、泣いても、たつたそれだけの半オクターヴほどの間の半音見たいな声しか持たない人なんか、あたし可笑しくつてとても傍に居られないのさ。」

 そして彼女は、その人の声の、甘いさゝやきの言葉や驚きや悦びの調子を真似て見せたが、成程奇妙なものでした。然し私は、何う思つたにしろそんな愚かな理由で凡てをあきらめるなんていふはなしは馬鹿々々し過ぎるので、

「くだらん!」

 と不機嫌な顔を浮べました。「ヒステリーの一種だらう。とり直すべきだね。」

 しかし彼女はいつになく神妙に眼ばたきながら、

「それからといふもの、あたしは特に人の声といふものに普段気をつけはぢめたんだけれど、だけど憤つては厭よ、さういふやうな声の人は割合に多いんぢやないかしら──といふのはね──Sちやんも……」

 不図私を冷く見直し、二本の指先で短い寸法を計るまねを示すのです。

「これぐらゐの間の、半音だけしか出ない音の人ぢやないかしらと疑ひ出したのさ。」

 そして、急に声をあげて笑ひ出すのです。

「若しさうだつたらお気の毒だな──」

 他人のそんな声のことを気にするだけあつて、千枝子の声はその時私も特に気がついたのですが、わずかな笑ひ声にも、繊細な抑揚と不思議な魅惑に富んだ自からなる艶めかしさに充ちてゐました。なるほど、そんなことをそれほどまでも念頭に置いたら配偶者の音声に関しては潔癖に走るのも道理かも知れぬ──そんなことを私は発見させられました。さうは思つても私にとつては極めて些末な空事であるのにも関はらず爪弾きでもするかの笑ひなどを浴せられた私は肚を立てずには居られませんでした。

「馬鹿なツ、あまり失敬なことを云つて貰ひたくないぞ。」

 私は思はず肩を張つて叫ぶのですが、横腹に風穴でもあいてゐるやうで少しも身に沁みた力の入らぬのを感じました。

「ほら、やつぱりさうだ──憤つても別段声の調子が変りもしない──変なの!」

 と彼女の眼つきはむしろ研究的に光つてゐるではありませんか。私はわけもなく照れて、ひとりになると、まさか大声を立てゝ見るわけにもゆきませんでしたから、より低音の声を試みて見ようと極めて低声のつぶやきを放つて見るのですが、それは恰でかすれて声にもなりません。止せ〳〵! と私は苦笑して、改めて自分の机に向はうとするのですが、急に激しい運動でも試みた後のやうな疲労に襲はれて、ついぐつたりと寝転んでしまふやうなことが多くなりました。そして、今ではそれまでのやうに空気の入換へなどを為すこともなく千枝子が棄放しにして行つたまゝの枕を引き寄せて、小説を読みはじめるのでした。それまで何も知らなかつた小説といふものが何れもこれも無性におもしろくて、私は夜の更けるのも忘れるのです。そして私も思はず腹を抱へて笑ひ転げてたり、荒々しく呼吸をはずませて手に汗を握つたりするのです。小説家なんて人々は、何うして斯んなにも人を面白がらせる術に長けて、不思議な小手先の才能に恵まれた魔術師だらう! と心底から感嘆させられました。人生の種々様々なる断面が覗眼鏡を透して見物する多彩なパノラマとなつて次々に展開し、あらゆる事象が小説なるもののふるひにかけられると澎湃たる夢に覆はれてゐて、うつとりと私の胸に迫つて来るのです。「おや〳〵、未だ寝てゐるの、もう十時にもなるといふのに。」

 千枝子の声に驚いて目を醒すと、点け放しのあかりの下で、私はおそらく口をあけて眠り込んでゐるらしいのです。私はそれまでは七時になると家を出るのが習慣でしたので、何も知らなかつたのですが、千枝子は昼は山手の家政学校へ、夕刻はアテネへ通ふことになつて自家を出て来るのですが、大概途中で此処に立寄つて着物を換へてから何処ともなく遊びまはつてゐるらしいのです。

「小説、面白い?」

 千枝子に云はれると私は斯んな娯楽にばかり耽つてゐて何うなるものか……といふ自責に迫られるのですが、もう細い活字のレクラム本やら理窟ツぽい本で語学を学ばうといふ努力も失せてゐるのが怕しくなつて、わざと「僕には小説を読む余裕なんてありはしないさ。」などと呟いてゐるのでした。「うつかり寝過した。飯を喰はないで出掛よう。」

 ごまかしのやうなことを云ふ自分がなさけなくなつて私は慌てゝ飛び起きようとすると、

「裸になつてゐるんだから、好いといふまでそのまゝかひまきを被つてゐて……」

 と千枝子は私の上に脱ぎ棄てるものを投げ出して、おさへるのです。

「またか! 椽側へ出ろの、もぐつてゐろの──と煩いな──起きるよ。」

 私は不平の声をあげるのですが、止むなく凝つと堪へて、星の望遠鏡のことなどに思ひを反らせるのですが(あゝ、あれもこの頃すつかり忘れてしまつた! などと考へながら──)眼鏡の先へは、女の裸像などが現れるばかりで身を持ち扱ふのです。

「ゆふべ、あれから何うしたの?」

 千枝子は化粧にとりかゝるとすつかり落つき込んで、そのまゝ私にはなしかけるのです。

「直ぐ寝てしまつた。」

「その癖、こんな寝坊なの? ──さては余つ程悪い夢でも見たな──」

 ひやかすやうな口調で、千枝子はわらふのです。そつと覗いて見ると彼女は私の机の上に鏡をたてゝ顔ごしらへに余念もありません。紅い長襦袢の肌を脱いだまゝ立膝か何かの姿で夢中で鏡に視入つてゐます。

「今日は何処へ行くんだい。」

「諾かないで──レデイに向つて何を云ふの?」

 などと故意に気取つた風を示したりするのですが、私が見てゐるとも知らずに、やがて顔を終へると机に腰を掛けて和服の下に用ひる白い靴下のやうなものを着けたり足袋を穿いたりしながら上の空ではなしかけてゐるのです。ゆふべも私のうしろで手紙らしいものを書いてゐたが、間もなく、おなかゞ空いたから何か喰べに行かないかと誘ふのでした。

「僕はもうこれからは夜は一切何も喰はないことに決めたから止める。夜、ものを喰ふと何うも悪い夢を見ていかん。」

 実際なので私はかぶりを振ると、彼女は何故か非常にわらふのです。

「……悪い夢か! あんな六ヶしさうな顔をして、唸つてら。半音のセリフは願ひさげだわ……」

「勝手にしろ──馬鹿ツ!」

 私は、彼女の嘲笑が殊更に痛く、憤つとしたのです。すると彼女も、

「馬鹿野郎!」

 と棄科白して帰つたのです。喧嘩なら恰度好い! と私は吻つとしましたが、また朝になつて現れると何事もなかつた普段の調子で、稍ともすれば真面目さうな私を冷笑しがちなのです。そして、私がわずかでも興奮すると言葉に田舎なまりが現れるとか、愚図で野暮臭いなどと軽蔑するのです。喰物屋に入つても、彼女は事毎に私の、ものの食ひ振りやら言葉つき、果は勘定の仕振などに就いてまで批難しがちで私は煩瑣だつたのですが、何よりも厭なのは外へ出さへすれば芝居の立見へ誘ふのです。私は芝居は嫌ひでもなかつたのですが、彼女の講釈が苦手でした。何の彼のと役者の噂ばなしをしたりするのですが一向に私が受け応へもないと急に不機嫌になつて、木偶坊と芝居を観てゐるやうだなどと罵つたりするのです。

「龍之介の小説を読んだらね、学生の時に久米正雄と市村座だつたかの立見に入つたところがあつたよ。そしてね、正雄がおとわやツ! と怒鳴つたんだつて──あたし正雄つて人は大好き、一度でも好いから会つて見たいわ。此間手紙書いたけれど、出すの止めちやつた。とても声が、好いんですつてね──それはさうと、あんたゞつて、あの掛声なら出来るでせう。」

 私がはにかみやのことを知つてゐる癖に彼女は難題を持かけるのです。──「若し、あれが出来れば何時かの疑ひを晴すわ。」

 そんなに云はれると、私もつひその気になり、あんなことぐらゐならと眼を据ゑるのだが、いざとなると、千仞の谷底へ飛び降るかのやうに胸が冷え、脚が竦むのです。

「伝ちやん、素晴しいな──あたし、あの人と芝居見てゐると、胸がスーツとするわ。」

 千枝子は屡々野田を立見へ誘ふのです。全く野田の澄透つた掛声は、私にしろ聞くも花々しかつた──観客席が水を打つたやうに静まり返つて恍惚と芝居に見惚れてゐる一刹那に、彼は底力に満ちた鋭い声を放ちます。演技の呼吸に寸分の余地もなく、それは出合つてゐるために、丁度一種のツチの如くに緊張して片唾を呑まされます。いつも彼の掛声が先を切ると八方からそれに伴れて、それは俳優の屋号を叫ぶのですが、聞分けもつかぬ底のワーツといふ歓声があがります。野田は、時に依ると、私などには意味も解らぬ役者の本名とか、町の名で──×ちやん……とか、何とか町など、と洒落ました。そして思はず多くの見物人に朗らかな笑ひを漂はせることもあるのです。──しかし、ひとなかへ出ると急に恥かしがりになる千枝子のことだから、如何程野田の発声が間髪も入れぬ伊達な趣きであらうとも、伴れの者が人を笑はせるやうな声を発したら、イヤがつてゐるかも知れぬと思つて、そつと私は彼女の横顔を見ましたが、千枝子は舞台へ向つて眼ばたきもせず野田と視線を並べてゐます。あまりに見事なハヤクチであるために、見てゐても野田のくちつきは殆んど動かぬ間に、花々しい声が放たれ、まはりの見物人すら誰の発声かなどと振向く隙もない悠然たるものです。帰りがけに河岸ふちを歩いてゐると千枝子は、

「あたしも男だつたら、伝ちやん見たいな声を掛けて見たいわ。気持が好いだらうな。でも、あれは相当度胸が要る?」

 などと感嘆するのでした。

「なあに、ちよつとしたイキだけのことですよ。」

「尤も伝ちやんの声は修業が積んでゐるからな──あたし、あんたの唄を聞いてゐると、気が遠くなるもの。」

 野田は清元の名手ださうです。どういふものか千枝子は、稍ともすると人の声にばかり留意するのが癖でした。──「ともかく立見だけは、いつでも伝ちやんを誘ひたいよ。」

「立見だけ──はないでせう。」

 野田の伝ちやんは、にやり笑ひを浮べたりしましたが、千枝子はうつとりとして、何でもおごるから、これから待合か料理屋へあがつて、野田の唄を聞きたいなどと興奮しました。──また或晩、私は千枝子と外へ出た時、つひ二人だけで立見場へ入つたことがあるのです。その時私は、実に飛んでもない失敗を演じました。といふのは、あんまりそんなことばかりで悩まされてゐたせゐか、千枝子とふたり肩を並べて見物してゐるうちに、柄にもない負ン気が起つたらしく、殆んど夢中で、その突嗟には眼をつむり、あらん限りの太い声を振り絞つて、「何々やあ!」といふやうな唸り声を発したのです。おとはやと云ふのを野田のやうに、半分肚の底へのんで、たやア──とひゞくやうに、頤を引いて叫んだのですが、出さうとした音声が思はず鵜呑にされて、いかにも間の抜けたカスレ声がぴいつと響くやうに震えたまゝ飛んで行つたのです。それと同時に、あちこちから、叱ツ〳〵! といふ舌打やら、噴飯の爆笑が起り、「とうふや!」などといふ冷かしの声が聞え、見物席は一瞬間、呼吸を乱されてざはめきました。加けにその時に、おとはや一門はひとりも看板にさへあがつてゐない芝居だつたのです。そればかりでなく私は凡ての役者を讚める代表の言葉が、それなのかと思つてゐたのです。でも、判別がつくほどはつきり叫んだわけではなかつたのですが、腹ではそんな間違ひをして居りました。──それよりも私は、その時千枝子が力一杯私の脛を草履の先で蹴り、酷くよそ〳〵してその場を立去つてゆくのを見て、はじめて失策を悟つたほどの迂闊でした。

「穴にでも這りたかつたわ。普段ひとのいふことをちつともきかない罰さ。」

 千枝子はこの時ばかりは真赤になつて憤り、四五日は姿も見せませんでした。でも彼女は、ほとぼりが冷めて、相変らず外へ出ると、つひ芝居に誘ひ勝ちでした。何とまあ執拗なことには、未だに私の胸の隅にはあの時の失敗を取り返してやらうといふやうな鬱陶しさが蟠り、却つて同行がちゆうちよされる始末なのでした。それ故私は、ひとりこつそりと芝居の覗き見に赴くやうになり、発声法について工夫を凝しましたが、勿論決断のついた試しとてもなく、あまりと云へば阿呆沁みた自分に気づいて、寂しくなりがちでした。



 あんなところに居たならばやがて自分も自堕落な輩に成果てるに違ひない、これは何うしても学校の近所にでも下宿を求めて、心気を一転させなければならない──私は斯う気づいてからは、また元の通りに早朝に家を出て、日暮ぢかくに戻ると、千枝子の現れぬ間に外出してしまひました。私の足は自然と芝居小屋へ向くのです。

 私は学校に来ても、図書館へ入る興味も失はれて、ぼんやりと運動場へ来ては、毎日野球選手の練習振りを眺めました。夜更しては読み耽る小説のおもしろさや芝居の雰囲気が、逆はうとすればするほど頭から離れず、千枝子のきれぎれの言葉やら姿が、小説や舞台の人物のやうに間断もなく私の脳裡に甘々しく揺曳するのでした。──私は激しく首を振つては、肩をいからせ、健全な競技に視入つて、痴想を忘れようと努めましたが、稍ともすればおろ〳〵として空を見あげたり、がつくり首垂れて吐息を衝くと、得体も知れぬ慚愧の情に込上げられました。

 春のリーグ戦が近づいて、選手達の練習は日増にたけなはになりました。投手には谷口、岸、遊撃加藤吉兵衛、センター趙土倫──これらの選手の晴業を私は、いつもスタンドの天辺に、鴉のやうにぽつんと止つたまゝ、ぼんやりと眺めて居るのです。谷口投手が、逆モーシヨンなる技で問題を起したころでありました。毎日の見物人の数は稀で、ガランとしたスタンドには、前の方に応援部の幹事らしい一団が控えてゐるだけで、折々、谷口ツ! とか、趙さん! とかといふ声が放たれました。私も時には思はず拍手を送りました。

 その日もひとりで、未だ選手が繰込まぬうちからスタンドの天辺で私は居眠りをしてゐました。──すると、いつの間に私の傍らに現れたのか気づきもしませんでしたが、一人の見るからに逞ましい図体の虎髥の学生が、ぬつと私の前に立つて、

「おい──」

 と言葉をかけるのです。「君は何科だ?」

 彼は片手に竹皮包みの弁当を載せ、大きな握飯をむしや〳〵と頬張つてゐました。いつか選手も繰込んでゐてノツクが開始されてゐました。この学生は、いつも本塁寄の階段に屯してゐる一団の一人ですが、最も凄烈な掛声を放つので、私も顔だけは覚えてゐました。彼はフアイン・プレイや大当りを目撃すると、グランドに飛出して選手の肩を叩いたり握手を求めたりするのです。板草履を穿き、両袖を肩までたくしあげてゐます。居眠りなどをしてゐたので私は批難でもされるのではないか? と驚きました。私が答へ損つてゐると、彼は噛りかけのむすびを握つた腕を宙に浮かせたまゝ、

「俺は政経科二年の大音寺虎雄つてんだが、」と名乗りました。

「俺か──」

 と私も自分の名前を続けて「俺は、英文科の一年だよ。」

 と答へました。

「フヽン、文科だつて──文科の野球フアンなんて珍らしいな。」

 そんな風に云ふ彼の言葉つきも全く憤つてゞもゐる調子でした。

「そして俺は、応援部と正義会の理事なんだが、君は応援部に入らぬかな?」

 大音寺の云ふところに依ると、応援団の幹部に欠員を生じてゐるところ故、君を余程熱心な愛校者と見ての上ですゝめるのだが、若しもリーダーが不得意なら、旗手になれと誘ふのであつた。

「大分前から、はなさうと思つてゐたんだが、今日まで云ひそびれてゐたのさ。何うだ、賛成か?」

「入つても好い。旗手でなくて、リーダーをやつても好いよ。」

 私は力を込めて即座に答へました。愛校者と見られたのが非常に嬉しかつたのです。正義会には、私は度々入り度いと思つてゐたのでしたが、その部員が控所にビラを貼つたり、教室に演説に来るところを見ると、多くは如何にもその会員らしい硬骨漢ばかりで、柔弱さうな自分の様子を知つてゐる私は決心がつき兼ねたものでした。

「さうか、君にはあの旗は振れんかも知れないからな。」

 大音寺は私の姿を改めて見直しながら、

「声は大丈夫か?」

 と云ふのです。旗といふのは、「穴八幡大明神」と大筆を揮つた一丈もの幟のことで、これを振り翳す幟持の一隊を新たに組織しようといふ議が起つてゐるとのことだつたのです。(これは然し実現はされませんでしたが、寄附金の募集文を私は書いたことを覚えてゐます。)

「…………」

 声! と云はれると私は止胸を突かれて、たぢろがずには居られませんでした。

「考へんでも好しいよ。それは、まあ、いづれのことにして、他の部員に紹介しよう。応援部だつていろ〳〵の仕事もあることだし……」

 彼は、私の声は信ぜぬらしかつたが、入団と決ると、──それで、よしツ! と何やらうなづき、

「まあ、一つこれでも喰はんか、そして此方へ降りて来い──」

 と、握飯を私の鼻先へ突出しましたので、私もそれを頬張りながら、部員達の集つてゐる一隅へ赴き、大音寺から、やはり政経科の大塚五郎、工藤輝雄、服部滝之進、その他五六名の幹部を紹介されました。

 やがて選手達も引きあげて、目白台のあたりに夕靄が降り始めた時分になつて、私は大音寺をはぢめ、大塚、工藤、服部等にとりまかれて声量の試験をされることになりました。これに通過すれば、大塚と服部が応援法についての動作の要領を教授するといふのでした。──先づ大音寺は、鬼のやうな拳固を頭上に構えて、フレー〳〵、ワセダ──といふ声に合せて空間を斜めに切り、言ひ終へると共に両腕を空高くパツと拡げるのでした。大音寺の声量は、真に虎の遠吠の如く素晴しいものでした。

「模範通りに──」

 と服部が傍から命じました。私は上着を脱ぎ棄てるや、殆ど夢中で、同じことを怒鳴りました。熱い煙りに巻き込まれるやうに眼がくらみ、そのハズミに、ポウツと鳴る一本の煙突に化したやうな気がしました。

「もう一度! ──」

 と今度は、「ガンバレ〳〵、ワセダ」と大音寺は叫びます。それは拳闘家のやうな構えでありました。

「構えの方は別の日に大塚達に習へば好いんだ。」

 体もろとも声にとられてしまつて、腹を曲げ過ぎるといふ批評が出たが、大音寺はそれはともかく、

「体に似合ぬ立派な声だ。吾党の士として大いに頼もしいぞ。」

 と云つて私の肩を叩きました。

 私はあの時程愉快さを味つた時はありません──彼等と肩を並べて、校歌を合唱しながら、その時運動場を引上げた時の私の胸は滝に洗はれたもののやうに爽々しかつたではありませんか。

「君の大音寺虎雄といふ名前は、ほんたうの名前か、団長としての仇名ぢやないか。」

 私は彼等の悠然たる脚どりに、歩調を合せ、すつかりもう打とけた親しみに浸りながら、そんなことを云ひました。大音寺は得意さうに、珍らしく大声で笑ひ、

「こやつ皮肉なことを云はんと。何でこれが仇名で堪るものかえ。」

 と肩をゆすりました。

「鹿児島産の大虎だよ。」

 そんなことを云ふ者もあつて、私達はがや〳〵と大音寺の下宿へ繰り込みました。



「この蝋燭のやうな男は、柄にもない張りのある声で、蜻蛉のやうに軽快なジエスチユアだ。ひとりぐらゐかういふのが現れるのは至極結構だ!」

 私は忽ちさういふ評判をとつて、間もなく晴の試合に登場しました。大音寺の間近の下宿に移つてからは、生れ変つたやうに健やかな青年に戻り、暑中休暇になると、正義会の地方演説部に加はつて、東京を離れました。


 作者附記──こゝで擱筆しては竜頭蛇尾のそしりを逃れぬが、都合上止むなく中断する次第である。主人公なる「私」とヒロインとのいきさつについては、以上の経過の後のはなしが寧ろ本篇の主題としては願目の筈だつたのに、云はゞ副線的の序事のみに終つたことを断つて置き度い。諒を得れば幸である。そして、表題は仮のものである。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

底本の親本:「早稲田文學 第一巻第五号」早稲田文學社

   1934(昭和9)年101日発行

初出:「早稲田文學 第一巻第五号」早稲田文學社

   1934(昭和9)年101日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年1015日作成

青空文庫作成ファイル:

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