泉岳寺附近
牧野信一
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一
泉岳寺前の居酒屋の隅で私が、こつぷ酒を睨めながら瞑想に耽つてゐると、奥で亭主と守吉の激しい口論であつた。
「こいつ奴、よく喋舌りやがるな。」
「喋舌るさ。喋舌られるのが厭だつたら、自分こそあんまりケチなことを云ふない。」
「やい、守吉、俺はケチで憤るんぢやないんだぞ。気をつけろ……」
亭主の方は店に遠慮して、口のうちに癇癪を噛み殺しながら仕切りにぶつぶつ小言を吐いてゐる模様だつたが、守吉の方は親父の弱味をねらふかのやうに疳高い金切り声を挙げるのである。
「そんなに、あれが大事なら、稀には遊び道具位ゐ買つて呉れ──」
「未だ抜かすか、こいつ奴!」
「おやツ、打つのかね。打つなら打つて御覧なさいだ、やあい、青くなつてゐらあ、可笑しいや!」
しかし守吉の声は、口惜しさのあまり涙に震へてゐた。
「こいつ、何て口の減らねえ野郎だつ!」
「さあ打て……殺さば殺せ……だ!」
「野郎──!」
亭主が叫んだかと思ふと、コキンと、たしかに守吉の頭に拳固が鳴つた。
「あツ、痛てえ痛てえ、やりやあがつたな!」
守吉は、おそらく実際の痛痒を倍にも誇張した底の、憎々しい居直り声を張りあげてあらん限りに、
「痛てえ、痛てえ!」
と絶叫した。そしていつまでもそれを連呼するのであつた。さすがに亭主の方が堪りかねて、
「何てえ、始末の悪いガキだらう!」
チヨツチヨツと舌打ちしながら店に現れると、私の他に二人ゐた職工風の若者に向つて、
「いや、何うも飛んだ騒ぎで……」
と恥しさうにあやまつた。
まつたくあれが子供の口かと思ふと、埒外の私達でさへ驚いて顔を見合せたのである。亭主はてれたわらひを浮べてゐたが、顔には血の気が失はれて、呼吸を秘かにはずませてゐた。守吉は亭主の長男で尋常五年生である。愚図で好人物で、そして物を言ふのにも相手の顔さへまともには決して見ないといふ風な無口の亭主に引きかへて、守吉は常々、もつと豊かな喋舌家である。
「あゝ、痛てえ痛てえ痛てえツ!」
守吉は、手脚で激しく畳を打ちながら皮肉な悲鳴を挙げつづけてゐた。
「しかし、また、何うしたつてえことなのさ、子供の頭を擲るなんて……」
堪りかねた一人の職工が、亭主に質問をかけると、彼は益々具合が悪さうに、うろうろして、いやどうも──と紛らせながら、奥に向つて、
「おいおい、好い加減にしろよ、守吉、煩せえぢやねえか……」
と弱い妥協を申し込んだが、子供は益々激しく悲鳴の火の手を挙げてゐた。──「太鼓を買つて呉れ、ケチなこといふ位なら太鼓と刀を買つて呉れ!」
私は彼と、往来で出遇へば微笑を交す程度の仲であつたが、彼が仲間と遊んでゐるところなどを見ると、斯う云ふ商売の息子であるせゐか、酔客の口説を真似ることや、野卑な冗談を吐いたりすることが非常に巧者で、聞くだにひやひやさせられる場合が屡々だつた。そして私は、彼の薄い皺のやうな感じが漂うてゐる煤色の顔や、小さく凹んだ眼や、乾いて艶の悪い唇や、へうきんに身軽な挙動や、ちひさく痩せた躯の恰好などに、雀に接するやうな滋味を感じてゐた。
「君は随分やさしさうに見えるが、稀には癇癪を起したりすることもあるんだね。」
奥の叫び声ですつかり憂鬱になつてしまつたらしい亭主に、私が話しかけると彼は困惑の色を益々深くして、不精無精にその原因を語つた。
この居酒屋の軒先には、泉岳寺に因んだ小型の陣太鼓が看板になつてゐた、私は、呑屋の屋号としても、また私のこの頃の酷く打ち沈んだ気分として、そんな颯爽たるおもむきの文字がひとごとながら気恥しいので、単に、居酒屋と、この文中にもあしらつておくだけなのであるが、そして話の場合でも単に「泉岳寺の前で待つてゐるから」といふ風に称んで決して屋号は知らぬ風に過してゐるのだつたが、この居酒屋の名前は、「陣太鼓」といふのであつた。しかし私は、そんな、ほんものの看板がぶらさがつてゐたことは今まで気づきもしなかつたのである。
ところが、いつもいつも守吉は、そつとこの看板を盗み出して、泉岳寺の裏山に同勢を集めては「義士の討入ごつこ」を演ずるといふのだ。
話しながらでも、奥の罵り声がひびく度毎に亭主は、稲妻にでも射られるかのやうに堪らぬ身震ひをして思はず立ちあがらうとするのであつた。看板をおもちやにする位ゐのことなら、何もそんなに威猛高になつて激昂するにも当るまい、あの子供の云ひ草が疳に触るのは無理もないが──それにしても私は寧ろ亭主の神経的にあられもない姿が不可解であつたが、その時更に憾みがましい守吉の叫ぶ、しみつたれ! などいふ声が耳をつんざくと、亭主は矢庭に奥へ駆け込まうと身構へたので私は腰かけから飛びあがつて慌てて彼を抱き止めた。
「殿中でござるぞ、殿中で……」
守吉が私達の傍らを鼠のやうに駆け抜けながら、そんな嘲笑を浴びせた。
討入りの合戦なら、さつきも私は裏山を抜けて此処に通ふ道すがら、近頃花々しい大仕掛けの光景を見せられた。私は、いつも高輪御所の前通りから、近道の空地を選んで泉岳寺の裏山へ抜けた、そして高輪中学の前を泉岳寺の横手から、恰度、内蔵之介の銅像の背後を通つて、山門から外へ抜けるのであつたが、しよつちゆうゆききしてゐる近隣の居住者であるとも気づかず、そこの土産物を商ふ店からは、通る度に声をかけられるのだ。
「ええ、お土産はいかがさま、義士のハツピに源蔵の徳利はいかが?」
「両刀使ひの木刀はいかがさま?」
「ええ大石の陣太鼓はいかが!」
私は聞き流すだけで、注意もしなかつたが、裏の山で実演される義士達の持物やら衣裳のおもむきが仲々念入りで、俳優達のしぐさといひ、科白のものものしさなどは、街々で見かける鉄兜の戦ごつことは雲泥の相異なので、さすがに土地柄だけあるものだと舌を巻いて思はず見物することがあつた。売店の軒先に昔ながらの絵草紙が展げてあるのを子供達が恍惚として見あげてゐるさまを屡々瞥見した。
この日も私が口笛を吹きながら空地にさしかかると、向ふの切株の上に陣羽織姿の大石内蔵之介が立ちあがつて、いまや打入りの太鼓を鳴らさうと身構へてゐるところであつた。やがて、掛声と共に山鹿流の太鼓の音が物凄く鳴り響いたかと思ふと、八方の草むらからうしろ鉢巻の浪士が、どつと鬨の声を挙げておし寄せた。──私は、邪魔になつてはいけないと気づいたから大急ぎで坂を降りようとした時、不図横目で見ると内蔵之介は守吉であるのが知れた。むかふは必死の勢ひで通行人などには気づきもしないらしく(それに私は嘗て、その遊びの面白さに釣られて見物しようとしたところが、浪士達が急にてれてしまつて立廻りを中止してしまつたことがあるので、見えがくれに駆け出したのである。)中学の裏手にあたる雨天体操場の吉良邸へまつしぐらに攻め入るところであつた。太鼓の音は次第に急速度に、小きざみに消えるかとおもふと、再びもとへもどつて力一杯、突喊の脚並をねらつて颯々と鳴り響くのであつた。私はいつか山門の売店で陣太鼓を買つたことがあるが、それは力を入れて打てば破れるほどのおもちやであるのに、守吉の太鼓はあまり調子よく鳴り渡るので不思議に思つて遠くから注意して見ると、何処からあんな本物を探して来たのだらう──と、その時は思つたのである。骨董品のやうな重味を持つた立派やかな太鼓で、胴には朱色の房が結ばれ、皮には金泥に漆黒の巴印の紋章が浮んでゐた。
私は、凹地づたひに崖下に降りて石垣と石垣にはさまれた露地を駆け抜けようとすると、角の物置の蔭では、吉良方の一隊が縫込みの稽古着に袴の股立ちをとつて、互ひに清水一角に扮するのを争つてゐる最中だつた。
不図、太鼓の音が止絶れたので私が物蔭から振り返つて見ると、守吉が崖の上から上半身を乗り出して、狼のやうな形相で呶鳴つた。
「やいやい、何を愚図々々してやんだい、早くしねえと俺あ帰つちやふぞ。」
「守ちやん、あたいにも一度で好いから大石に扮らせて呉れよ。」
崖下から呼び返す者があつた。守吉は驚いて小脇の太鼓を両腕に抱へ直した。
「馬鹿野郎──家へ聞えたら大変なんだぞ、だから俺はとても苦労しながら叩いてゐるんぢやねえか、いつまでも遊んぢやゐられねえんだよ。」
守吉の太鼓は余程の権威を持つてゐると見えて、彼が半狂乱の態でそんなに叫ぶと、吉良勢も陣容をたて直した、再度の討入りを互ひに合図し合つてゐた。
鉄兜の新しい戦争ごつこが始まつたので吻つとしてゐたところが、やはり彼等にはあの旧劇の方が変化の興味が多いと見えて、いつの間にかもとへ戻つてしまつた。当分は悩みが絶えぬであらうといふ意味のことを滾しながら亭主が、今日守吉を捕へてからのことを話し出した時、私が待つてゐたところの進藤一作と坂口按吾と枝原源太郎達が到着したので、私達は私達だけで文学の話を始めた。それにしても私の耳の底には、守吉の打つ太鼓の音が、はつきりと残つてゐた。家に悟られぬための技巧の苦心があつたのかと知ると、はじめ私は単に彼が腕を揮つて、あんな風に大きく振りあげた撥を宙に構へて、容易に太鼓の面に降さうとはせず深い見得を切つてゐる姿を、得意の陶酔状態だとばかりに眺めたのが、此方こそあまりに呑気なわけ知らずであつたと思はれた、考へて見ればあの守吉の太鼓の打ち方は、漸く撥を降してドンと一つ大きく響かせたかと思ふと忽ち煙りのやうにどろどろと余韻を曳かせて、やがてまた思ひ切つてドンと打つては慌てて掻き消してゐたので、あれは正しく打ち入りの山鹿流とは類を異にした方法に違ひなかつた。だが、それは、突喊の軍勢の呼吸に、ぴつたりと合つてゐたのが、考へれば考へるほど私は感心して来て、間もなく泥酔してしまつた。──後架に立つた時、何気なく奥の一隅を注意すると、いつの間にか裏口からでも戻つてきたとみえる守吉が、あふむけに寝そべつて、凝つと天井を眺めてゐたが、ふと人の気合ひを感ずると、慌てて、薄暗い壁ぎはへ転げ寄つた。
二
崖下の花屋の二階を借りて自炊をしてゐる進藤の部屋で、私が進藤の小説を読んでゐると、薄の繁つてゐる窓先から、
「小父さん、何してんだい、勉強かい?」
見ると、守吉が崖の端にしやがんで、私の机を見降してゐた。窓と崖とは凡そ同じ高さで、際どく接近してゐるのだ。
「芝居がはじまるのか?」
守吉は、苦くかぶりをふつた。
「やらうか、小父さん?」
彼は、私の傍らで将棋盤に向ひ合つてゐる枝原と進藤を認めて、指先で駒を打つ真似を示した。ハサミ将棋の謂である。私は、あたり前の手合せは勿論、ハサミ将棋も知らなかつたのだが、最近守吉に依つて手ほどきを享けたのだ。
枝原達の勝負が終るがいなや、厚紙の盤をもう守吉は有無なく私の方に向けるので、あまりすすまないのであるが私も駒を並べずにはをられなかつた。それに就いて私は既に守吉に三千円の負債を負つてゐるので、いや! といへば卑怯になるのだ。守吉の申出で、一回の勝負を私達は五銭と定めてゐたのだが、実際のとりひきはその単価で行ふとしても、せめて口だけでは景気好く零を二つ加へた勘定で話し合はうではないか──と、それも彼の発案で、此方も賛成してゐたのだ。そして、私の負債が一万円(実は一円)となつたら支払ひをすることを約束してゐたのだ。
その時は私も、たはむれごころで、その程度の負債ならば即座に支払つて守吉の笑顔を見るのも一興だ、一万円の負債を払ふなどは面白いと思つたのであるがそれからと云ふもの彼は往来などで出遇つても、大きな声で、
「何しろ俺は、この小父さんに金の貸があるんだからな!」とか「例のものは何時払つて呉れるの、あのまゝで止めるんなら、あれだけでも何とかして貰ひ度いな。」などと真顔になつて吹聴するので、少々私は煩くもなつてゐたのだ。
「今日は、千円でやらう。」
面倒だから、三回勝つてしまはう、注意さへすれば負ける筈はない。──と私は思つたのだ。
「よしツ! 俺は兎も角三千円のもとでがあるんだからな、実に三千円の貸しが……」
守吉は腕まくりをして胡坐を組んだ。
「さう三千円三千円と、そのことばかり云ふなよ。」
私は割合に真面目な顔で呟いた。
ところが私は、二番、三番と忽ちのうちに敗北した。余程注意の念を凝らしてゐるつもりでも、つい私は、ふと他の妄想に走つたり、のべつにまくしたてる守吉の駄弁に煩はされたりして、くだらぬところでいち時に三つもはさまれてしまふのであつた。
「五千円──あゝ、吾輩は終ひに五千円の金持となつたか──愉快愉快!」
「もう一番!」
私は思はず膝を乗り出して挑戦した。
「飛んで灯に入る夏の虫──とは手前えのことだ。さあ、寄れ、寄らば一刀両断で……」
別段彼は私を罵るわけではなく、口癖となつてゐる芝居の科白を滑達にまくしたてるのだが、次第に私は、それらの科白までが小癪に触つて堪らなくなつた。どうかして私は、二挺ハサミの追撃でも喰はせて一と泡吹かせてやりたいものだと、二手も三手も前から遠囲みの陣形で攻撃にかゝると、彼は忽ち私の魂胆を見破つて、
「斯う来る、あゝ来る──か、ふゝん、太え了見だ。この、どめくらの田舎つぺが!」
あはや私の鉾先が、もう一手で敵の陣中目がけて両天秤の凱歌をあげさうになる途端、私は快哉の叫びを挙げんものとわくわくしてゐるのだが、つい彼の悪態が耳について胸が震へ出すのだ。
「左う来りや、斯う逃げて──」
彼は潜航艇の真似などをして、飛鳥の如く駒を翻すので、私は唇を噛んで追跡にかゝつてゐるうちに、
「さあ、何うだ、思ひ知つたか!」
彼は、突然げらげらと笑ひ出すのだ。驚いて私は陣形を見直すと、追撃にばかり熱中してゐた私の駒は、見事敵の逆手に陥つて立往生の両天秤にかゝつてゐるのだ。
「わつはつは……痴けの猿め、大臼にしかれて成仏さつしやれ。」
「……チツ、畜生! 口惜しいな!」
私の胸と肚はふいごのやうに伸縮して、熱気が口や鼻腔から激しく噴出した。負債は、見る間に火の車に煽られて一万八千円と飛んだ。
「一万円で行かう。」
私は非常にいら〳〵としてうめいた。
「あの……ぢや、守公のところへ行つてゐますよ。」
私が小説の読後感をのべる約束なのに、さつぱり動かうともしなくなつたので進藤は不安な気色を浮べながら枝原を促して立ち去つた。これまでに私は進藤の小説を幾篇か読み、相当の敬意を持つてゐたが、今日の「大きな手」と題する短篇は近来の快作だつた。私は、何んな類ひの賞讃辞を与へたら好からうか──と、親しい間柄の進藤の場合であるだけに寧ろ白面の推賞が息苦しかつた。愛読に値する二人の新しい作家を同時に友達に得られるなどとは私にとつては全く稀有の現象だつたが、大分前に私は枝原の或る小篇を亦、あまり口を極めて推賞しすぎたゝめに、彼は近頃嘗ての私の賞讃辞をおそれて、創作気分に頓坐を来してゐた。その枝原の「危禍」を思ひ合せても、今日の進藤に対して私は苦しい注意を抱かねばならぬと思つたのだ。それにしても進藤の「大きな手」は、恰も私はガンと頭を打たれて痴夢を醒された態の快作で、作者の顔をうかがふすら息苦しかつた。
「一万八千円の財産から、一万円を張り込むのは少々山カンだが、まあ好いだらう。」
守吉は、陶然と眼をかすめて意地悪るらしく頤を撫でたりした。
「一万円宛で、もう二度やるんだぞ。」
考へて見ると私は、その時三千円の支払ひ能力すら皆無だつたので、一挙にして二万の金を攫得してしまはうと念じた。
やがて合戦は、黒雲をはらんでじり〳〵と開始された。敵も左うであつたが、私も今度こそはじつくりと下肚に力をこめて、爬行的におして行く駒が目的の場所に息を休めても即座に指先を離さぬ留意振りで、両眼を皿と擬した。私は水の底を潜ると同様に、一つの駒が行手に収つて、漸く指先を離すまで、真実呼吸を断つた。そして深い吐息を衝きながら凝つと敵の戦略を見守つた。凡そ三十秒乃至は一分毎に、恰も空気枕の栓を抜いた刹那の如き放出音が、敵と味方の堅い唇から、交互に盤面にあたつてゐた。──余儀なく互ひの軍兵は、いつか点々と隊をそろへて盤の中央に斜めとなつて二列に対陣して、進む道を失つた。
「お前の番だよ。」
憤つとして私は、せきたてた。守吉は、隅の駒を震へる指先きで徐ろに退けたが、やがて、
「しめたツ!」
と力一杯叫ぶや、突然立あがつて、夢中で架空の陣太鼓を打つた。
「ど、どどん、ど、どどん、どどんどどんどどん!」
狂へるが如き凱歌であつた。「二万八千円、二万八千円、わあツ!……」
私には未だはつきりと意味が解らないので、ともかくその胸を突いて畏る畏る一歩を踏み出すと、すつかり落つき払つてしまつた敵の将軍は、太いやうなつくり声で、
「気の毒だけれど、これは駄目だ──まるで、ばく然たるものぢやないか……」
と、にやにやしながら、すいと駒を横に寄せると私の先手は、綺麗にはさまれてゐるのである。私は、ぎくりとして階段型の陣容を改めて鳥瞰して見ると、その順で行けば、次々と一つづつ私の兵士は滅亡して行くより他はない悲惨な状態だつた。
「ちよい、ちよい──と!」
守吉は、はやし立てながら、まつたく、ちよいちよいと難なく私の軍兵は次々に馘られる始末だつた。
「ばんざあい! 二万八千円だツ!」
「…………」
私の首は、ごろりと畳に転げてしまつた。妙なもので、斯う執拗に攻めたてられると、その莫大な金額がそのまゝ夢ともつかずに犇々と私を怯やかせた。さうかと思ふと私は、債権者としての田舎に於ける自分の名前を今更のやうに思ひ出したり、私の山や田畑をめぐつて幾人もの強慾者連が、血で血を洗ふ暗闘を巻き起した光景などが、虚空のスクリインにまざまざと展開されたりした。
「さあ、この始末は何うして呉れますかね、もしもし、おさむらひ、たしかな返事を伺はせて貰ひてえものですな。」
守吉の科白は、尻あがりに物凄気な殺気を含んで、或ひは毒々しい皮肉の口吻を突き出して、
「これは、何うも恰でばく然たるものだ。」
と、厳かに不平の唸りを挙げた。その時私は、その守吉が唸る韻を踏んでゐる見たいな言葉が、近頃私が酔つた時の口癖であるのに私は気づいた。この口癖の原因を私は探つて見ると、たしかにそれは田舎の財政上の騒動の頃に端を発してゐると見られた。私はその頃、そんな呟きより他に言葉がなくて、やけ酒をあほりながら憤懣を充してゐたと見えるのだ。それが、また、すつかり私の口癖になつてしまつて、今でも私は稍ともすればその言葉を呟くのが習慣だつた。いつの間にか守吉は、そんな私の口癖を聞き覚えたと見える。声色ばかりでなしに、私がそれを唸る場合の眼の据ゑ方から口の歪めなりや、首の振り具合までも守吉は巧みに模倣してゐたが、今は有頂点のあまり自身が、当のモデルの前で、モデルのしぐさを真似てゐるといふことさへ気づかぬ風で、唸つたかと思ふと、ぽん〳〵と額を叩いてやにさがつたり、果ては、物凄いひよつとこ口をにゆつとばかりに私の鼻先へ突き出すが如き示威の有様だつた。
「おさむらひ──まるで漠然たる……」
「…………」
「あツ、痛てえツ、打つたな!」
守吉は仰天して飛びのくと、頭をさすりながら、しかし私が真面目であるか何うかを見定めるやうに、おどけた眼つきで此方を見あげた。
私は、吾に返つて、はつと後悔したが、もうとり返しがつかぬ気がしたので、追ひかぶせて、
「喋舌り過ぎるぞ、手前えは──」
と威猛高になつてしまつた。守吉は突然私の威勢に驚いて、唇の色を変へた。同時に彼は私の卑怯な心底を見抜いたと思ひ違へて、瞋恚の眼を光らせながら、
「打ちやあがつた。そんなに口惜しいか──浪人野郎!」
借金よこせ──彼はあらん限りの声で絶叫すると一緒に、転げるやうに梯子段を駆け降りた。──その誤解が二重に私を逆上させた。私は、鷲掴みにして、口をおさへてしまはうとして、飛びかゝつたが、思はず脚を滑らすと、家鳴りをたてゝ梯子段を滑り落ちた。幸ひに、尻を落して脚を先に滑つたので頭を打つ危禍を逃れたが、その物音で階下の人達が飛び出す騒ぎになつた。
「ざまあ見やがれ。」
守吉は崖の上から覗きこんで、
「借金よこせ〳〵!」
とばかりに調子をとつて連呼した。
三
守吉の騒ぎを聞いて、空地にあつまつてゐた大高源吾や堀部安兵衛や大石力彌や、その他五六名の、各自に飛道具を携へたいくさ人達が駈けつけて来た。
「何うしたんだい、守ちやん、早く仕度をして来ないのかい。」
彼等は、花火の用意をして、星月夜の今宵、壮烈な夜襲を試みる計画らしかつた。──仲間のものにとり巻かれた守吉が、崖下に立つてゐる私をゆびさして、説明をはじめたらしいので、私は大きにあわてゝ、
「違ふぞ〳〵、待つて呉れ、守吉の感違ひなんだ。」
手を振りながら近づいて行くと、彼等は一斉に軽い戦闘気分を漂はせて、私の左右に身構へた。──私は、決して、勝負の金を払はぬといふのではない、守吉の饒舌が煩に堪へぬので、憤つてしまつたのだ……。
「さあ、一緒に伴いて来い。」
と云つた。
私は、花屋の主人を使ひに頼んで、うちから冬のオーバーコートを持ち出して、質屋へ走つて貰つた。自分が、その場をしばらくの間でも立つたら、債権者が更に不安の眼を輝かせさうだつたから、その監視の許に人質となつたのである。
私が主人から渡された九万円の中から守吉に三万円を渡すと、彼は急にてれ臭さうな嗤ひを浮べて、
「小父さん、憤つてる見たいだな──とつても好いかえ?」
など逡巡してゐたが、やがて、一枚宛銀貨を数へながら、
「今、二千円の釣を持つて来るからね。」
「釣りなんて、いらないよ。」
「いよう、豪勢だな──えゝ毎度有りがたう。」
守吉は同志を促して引きあげて行つた。
枝原と進藤が定めし待ち佗びてゐることだらうと思ふと私は、急に、夢から醒めたやうに立ちあがつたが、長い時間を斯んなことで過してしまつたことが、言ひわけの仕ようもなく気恥しかつた。──秋らしい澄明な空は、いつの間にかすつかり暮れて森の上にはきらびやかなアンドロメダ星雲が瞬いて、牡牛星に導かれた「七人の花嫁」が微かに流星の彼方に光りはじめてゐた。それはさうと、流れ星が恰で降るやうだ──と私は、驚いて眼を視張つたら、それは集合の合図に挙げられる上の空地からの花火であつた。いつもは、たゞ音のするだけの花火であつたが、今日の空には、五色の玉や、滝のやうな流星が、止め度もなく打ち挙げられてゐた。それらの花火を私は、秋空の星雲と見紛ふたらしい。未だ未だ「七人の花嫁」の現れる候でもないのに、赤、青、黄と、あまりに眼ぢかく花嫁の行列が明滅するかと思へば、滝のやうに降りかゝる流星花火の翼が蝎となつて鋏を伸ばし、天秤の座に傾くと、狐や猟犬や蛇遣ひが雪崩れをうつて花嫁の後を追ひかけるのだ。そして、追ひ詰められた牡牛は、恰もさつき守吉の鋏にかかつて天秤座に衝突する私の軍兵を思はせて、大空に踊りながら見る間に馘られた。その間を見はからつて、太鼓が、カンカンと鳴り渡つた。新しい太鼓の音であることは直ぐと私にも悟られた。
太鼓打ちをとりまいた七八人の浪士が、手に手に流星花火の筒をささげて、間断もなく挙げつづけてゐたのであるから、崖下の私に星雲の怪を想像させたのも無理もない。彼等は、太鼓を打ち烽火をあげて同志を糾合してゐるのであつた。
そして、その傍らを脚速く素通りしようとする私の姿を認めるや──ばんざあい! といふ凱歌といつしよに、私の脚並みに合せて太鼓が鳴り出し、花火の吹雪が目眩くばかりに降りかゝつた。
「ああ、面白い面白い!」
私は、きらびやかな凱歌に送られて恍惚としながら軍勢の間を通り抜けて、銅像の裏へ降り、山門を抜けた。
見ると真向きの居酒屋の障子に、進藤と枝原のシルエツトが鮮かに映つて、二人は大分に酩酊したらしく、互に腕を突き出したり、胸を張つたりして、会話のやりとりにさかんであるらしかつた。
私は、先づ二人の間に割込んで、
「おいおい、あの銅像の裏手の空を御覧よ、近ごろ珍らしい豪勢な花火だらう。あれは進藤の──」
と云はうと、決心した。「進藤の今日の仕事を讚へてゐるんだよ。」
そして徐ろに盃を挙げながら、「大きな手」の批評にとりかゝらうと私は思つたのである。
「遅いのにも程があるぜ──少々借りが溜つてゐるので来憎くなつたんぢやあるまいな。」
「借りといつたつて、たつた三四両のことぢやないか──そんなことで、待ち呆けを喰はせられては堪らないぜ。」
「ひとの心持も知らないで、無責任だな。」
私が入口に近づいた時、進藤と枝原が私を非難する言葉が聞えた。そして二人は、声を合せて、
「まるで漠然たるものぢやないか!」
と唸つて、はツはツ! と興ざめ気な天狗のやうにわらつた。その二人の、「私」の声色が、守吉のよりも巧みなので私は、不図たぢろいでしまつた。──山の方を振り返つて見ると、大石の銅像の向方からは、次第に絶間の長くなつてゆく花火が窺はれ、カンカンカンと鳴る微かな太鼓の音が、もう合戦にとりかかつたらしい調子で聞えたが、どうも此間の太鼓の音に比べると、上調子である、けれど、あれならば遠慮なく叩けると見えて、継けざまに力一杯打つてゐる──左う思ふと私は、しかし、不思議な遣瀬なさに襲はれて来て見返るのも堪へ難くなつたので、蝎形の流星が銅像の頭の上に消えかかるのをチラリと見たまま、慌てて居酒屋の中へ飛び込まうとした時、ひよいと軒先を見あげると、太鼓の看板が提灯の蔭に寂しくぶらさがつてゐた。そして、太鼓の掛る鍵輪の個所には小さな、新しい南京錠が降してあるのを、私は見出した。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
初出:「新潮」新潮社
1932(昭和7)年10月1日発行
入力:宮元淳一
校正:伊藤時也
2006年9月17日作成
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