酒盗人
牧野信一



 私は、マールの花模様を唐草風に浮彫りにした銀の横笛を吹きずさみながら、

………………

おゝ これはこれ

ノルマンデイの草原から

長蛇船ロングサーバントの櫂をそろへて

勇ましく

波を越え また波と闘ひ

月を呪ふ国に到着した

ガスコンの後裔

………………

 と歌つた。

 節々をきざむ私の指先が、花模様の笛に反射する月の光りのうへに魚となつて躍つてゐた。──明る過ぎる月夜の街道であつた。笛を吹く私のシルエツトが、あまりはつきりと地に描かれてゐるので、もう一人の合奏者が私の先に立つて水を渉つてゆくと見られた。月は一体、どのあたりに歩みを停めてゐるのかと私はいぶかふて、なほも切りに笛を吹きながら後ろの空を見あげたが、空はたゞ一面に涯しもなく青白く明るみ渡つてゐるだけで月のありかを指差すことは出来なかつた。さかさまに懸つて空を踏んで行く──私は、空を行く悦びも地を踏む悲しみも知らぬ月の光りの如き涯しもない永遠の夢心地で、おもむろに歩みを速めて行つた。朦々と明るみ渡つた煙りの縞瑪瑙に畳まれた長廊下を──。

 たつた今私は、務め先の魚見櫓の台上から、望遠鏡を伸して村里の様子を眺めて見ると、橋のたもとにある一軒家の私達の居酒屋サイパンの前に旺んな焚火の火の手があがつて、その傍らを、拳を振りあげたり、躍りあがつたりしながら、何れが誰やらさだかには識別出来なかつたが、狐に化された連中のやうに烏頂天となつた影法師が次々と酒場の中へ繰り込んで行く模様をみとめたので、こいつは、てつきり、俺達が首を伸して待ち焦れてゐたところの音無村から酒樽の荷が到着したに相違ない……。

「ブラボウ〳〵!」

 と私は思はず拳を振つて歓呼の叫びを挙げながら、高さ凡そ十余丈もあらうといふ長梯子を、にもものの見事に滑るが如くに駆け降りたのである。

 いち日に何辺ともなく昇り降りする魚見櫓の梯子であるが、こんなに愉快に駆け降りたことはまつたく珍らしい。その上、サイパンの酒樽が空になつて以来、もう幾月か? 指折り数へて見れば、あれは、たしか十五夜の月見の宴の時であつた。私達の宴会が漸くたけなはにならうとした時に、

「ギヤツ!」

 といふ、たゞならぬ恐怖にふるへた絶望の唸り声が酒場の隅に起つたので、見ると、サイパンの亭主が、片手に樽の呑口を握り、片手にジヨツキをぶらさげたまゝ、悲鳴と一処に昏倒するところであつた。

「お父さん、お父さん……」

 私が奏でる横笛と私の妻君が弾奏する手風琴に伴れて、タンバリンを振り回すメイ子を中心にして酒場の連中がグルリと手をつないでカロルを踊つてゐたところ、父親の唸り声を聞くと、娘は、雉子のやうに人垣を飛び越えて父親にとりすがつた。

 私達は、また大地震が起つたのかしら! と驚いて、それまでの身構へを執り直したが、次の瞬間に、憐れなその源因を発見した。

「どくつ! とひとつ、何とも云ひやうのない不思議な音をたてゝ、呑口が鳴つた。……あゝ、万事休す矣!」

 サイパンは、私達にとり巻かれて、娘をかき抱いたまゝ、堅い片方の拳で眼眦を突くばかりであつた。

 私は、からからと笑つて、

「馬小屋からドリアンを曳いておいで──僕が、早速音無村へ駆けつけて、三樽の酒を仕入れて来よう。」

 と胸を張り出して、メイ子に向つて裏手の方を指差した。

「僕が出向けば大丈夫だよ、一刻の後にはサイパンの酒場は置きどころもない酒樽の山で埋めるよ。皆な、その辺の腰掛を片づけて、輪をひろげてカロルをつゞけてゐたまへ──今夜の月見は酒樽に腰掛けて……」

「僕の言葉に不安を覚ゆるのは、カレドニアの海賊の出陣にあたつて敗北を夢見るよりも愚かな心配さ。」

 然しメイ子は、既にもう鬼のデスマスクをかむつて瞑目してしまつた父親の胸に顔を伏せて、たゞ激しく首を振つてゐるばかりであつた。

「破産だ──もう、死んでも好い……」

 サイパンは微かに唸つた。

 これほど云ふのに、何うも私には得体が知れない──で私は、一層たのもし気に胸を張つて、

「ねえ、諸君!」

 と、一同の顔をかへりみた。一同の声援をかりて、この父と娘の不思議な悲劇の一場面に笑ひの花を咲かせてやらなければならぬと考へて、私は更に磊落な音声で、

「酒樽が二つや三つ空になつたと云つて、そんなに俺達の前で愁嘆するなんて、それぢや反つて俺達の顔を潰すようなものぢやないか、はつはつは……うつふ、何といふ面白くもないナンセンス・ドラマであることよ。うつふ、うつふ……。

羨君有酒能便酔うらやむきみがさけありてよくすなはちゑふことを

羨君無銭能不憂うらやむきみがせんなくしてよくうれへざることを

………………

 ドリアンを曳け、ドリアンを……」

 と、大いに叱咤の腕を挙げるのであつたが、一同も亦黙々として一言の声を発する者もないのである。──見ると、彼等は五百羅漢のやうにたゝずむだまゝいつまでも洞ろに光つたまなこをあちこちの空に挙げてゐるのみであつた。

 間もなく私は、サイパンが私達を常連とする限り近郷近在のあらゆる酒問屋は、一切の御用を御免蒙ると由し合せてゐるといふ話を説明された。──この上私に、そんな歌をうたはれては、胸に涙さへ込みあげて来ると一同の者も思はずそろつて否々と首を振り、興醒めの風穴に吸ひ込まれて行つた。その私のうたを耳にすると、身の毛もよだつと云ふのであつた。この上、せんなくして能く不憂、能く便ち酔はれては、俺達も早々に住み慣れたる故郷ふるさとを逐電しなければならなくなるであらうと私は、泣かされた。

「黙れ、馬鹿野郎バアバアル!」

 と私は、大いに感興を殺れた腹立ちまぎれに、思はず傍らの漁夫の七郎丸の頭をぽかりと擲つた。

「…………」

 七郎丸の眼から球のやうな涙がポロリと滾れ落ちた。といふのは私の拳が痛かつたのではなくて、私の「永遠の夢」と現実との喰違ひが、憐れで、且また同情の念に堪へぬと云ふのであつた。

「先生!」

 と彼は、真に譴責を享けつゝある兵士の態度で云つた。「この悲しみを先生に見せまいと思つて私達は今日まで、あらゆる方法を講じてサイパンの樽を持ち続けて来たのであるが……」

 するとあちこちから溜息と咽び泣きの声が起つて、酒場は忽ち落莫たる秋の野原と化してしまつた。

「七郎丸、そんなことを先生に云つてはいけない……」

 メイ子は飛びあがつて七郎丸の口腔くちを両手で閉した。

「静かにしろ、バアバアル──それなら、それで俺にだつて思案があるぞ。」

 つい私も泣きたくなりさうになつたので、震へ声で叫んだ。私の発声と共に、一同は、思ひをとり直した如く立ち直つて、どや〳〵と各自の腰掛に戻るより他はなかつた。サイパンも息を吹き返して、メイ子に腕を執られながらストーヴの火を掻きたてた。

 私は、いつぞや私が自ら描写したイダーリアの肖像画が懸つてゐる正面の酒注台に飛び乗つて、両脚をぶらん〳〵させながら、

「さて、諸君、今の私の暴言を許し給へ。」

 と一咳と共に云ひ放つた。──私は、一週に二回の宵を限つて、此処で、斯うして、彼等に「ギリシヤ哲学」の講義をするのであつた。──宇宙の根元は単なる火か、単なる水か、非ず、万物は永遠に火と水のしぶきをあげて流転する巨大なる水車みづぐるまなり、しぶきは絶え間なく遍々と飛んで混沌の虚空を宿す、影去りて光り射し、或る時は、雪晴雲散北風寒ゆきはれてくもはさんじほくふうさむく、光、影、火、水、このきらびやかな流転の姿に宇宙の秘義ミステリウムあり、恍惚エクスターゼが生じ、生成の浴霊エンツシアスムス……二年前の春であつた、私は何うにでも大きくさへ云へば事足りる原始哲学の大法螺の巌を砕いて、縷々と説き来つて、プラトンの野を過ぎ、アリストテレスの街を飛んで、事態漸く中世の戦場に移らうとした頃から哲学と芸術との境が滅茶苦茶になつて、近頃では、主に騎士道文学の享け売りを読物として、まんまと生徒から聴講料をせしめるソフイストとは成り変つてゐた。

 おい、やかましいぞ、皆な少し静かにしろ──その頃の騎士の間では、それ程の意味を表すに、バアバアルと叫ぶのが流行した、源を正せば非ギリシア人といふ程の意味で、引いては一種のスウエヤアに等しく用ひられるに至つた。この言葉を浴せられた者は、手もなく一言の許に引きさがらざるを得ないといふ不文律が生ずるに至つたのである……。

 私は、そんな智識を披瀝して、いつしか私達の間では、これが常用されるに至つてゐたのだ。滅多に放言しない代りに、何人に依らず、いかなる理由があらうとも、一度びこれを相手に叫ばれたならば、沈黙の浴霊にひれ伏さなければならなかつた。

 私は、岬を一つ越へた音無村に父祖の縁家先にあたる業慾な酒造業者が住んでゐて、奴の為に私は様々な被害を蒙り、云はゞ奴の為に私はこのやうに浅間しい浪々の身分とは化したのである、それ故、盗めるものなら盗み出しても罪とは思はぬ、だが、こゝで一番私が智慧をふるつて、ソクラテス流の対話法に依る弁舌をもつて彼の酒造家を説伏せしめて、難なく酒倉の扉を開かしめてやらうと思ふのであるが、

「それでも諸君は、今宵の月に不安の雲をかけようとするか?」

 と私は、マセドニアのフリツプを抗撃するデモスデネスもどきの雄弁をふるつて情熱の鬼と化した。喉の痛さを覚へたので私は傍らの水桶をとりあげると、それはドリアンのかいば水だ! と注意されたが、関はずにがぶ〳〵と呑んだ程の逞しい感情の意気に炎えた。

「ミスター Happy Pendulum!」

 と私の仇名を呼んで立ちあがつたのは、村役場の執達吏であつた。「残念ながら、その手は巌に向つて矢を放つよりも空しい戦略であります。既に音無家おとなしけに於きましては、門番に命じて吾々一味の者の姿を見出すがいなや即座にあの黒い扉を閉めて、あの閂を入れさしてしまふ……」

 云ひも終らず彼は絶望の息を呑んで、引きさがつた。

 あの扉と、あの閂! それは実にも、一度び閉されたならば人力の微弱さを嘲笑ふ開かずの表象シンボルに相違なかつた。

「昨日も私はサイパンと伴れ立つて、談判に行きましたが……」

 続いて立ちあがつたのは牛飼男の権太郎であつた。「私は、この拳が割れる程門の扉を叩きました。と、頭の上の物見窓の口があいて、門番が顔を出して、金袋を持つて訪れたのかね、と申すので、否、それに就て相談があるのだ、金袋よりも確実に重味のある提言を引つさげて参り出たのであるから、兎も角、扉を開いて欲しい──と私達は、こゝぞと思つて、今の先生の熱弁よりも凄まじい剣幕で窓先に取り縋らうとした途端、門番は、大口をあけて嗤ひながら、お前達がめいめいに金袋をぶらさげて、こゝでぢやら〳〵と鳴らしたならば、そいつを合図にこの門を開け──といふ御主人の命令だよ、斯う云つて……」

「では僕は、先づ門番と対話を試みる。親戚会議の急用をひつさげて訪れたのだ、主人を出せ……」

「いえ〳〵──」

 とサイパンが幽霊のやうに手を振つた。「ペンドラムの姿を発見したならば、一切の声がとどかぬ間にあらゆる窓々の扉を有無なく閉ぢて、耳には蝋をつめろ、彼奴は一種独特な笛吹きの術と弁舌をもつて人をたぶらかす手腕に長けてゐて、聴く者あらば必ずその心を囚へ去り……」

「バアバアル……一体これは何うしたら好からうか。」

 私は、サイパンが音無の主人の口調を伝へてゐるのにも関はらず、思はずサイパンを睨めつけてしまつた。──「何といふ無礼な奴であらう。」

 私は、稍暫く重い腕組をして熟考の底にさ迷ふてゐたが、決して思はしい考慮が浮んで来なかつたので、つい溜息と一処に、

「これは、結局、金袋をこしらへるより他に手だてはないのかしら?」

 と呟くと──突如、酒場は、スパルタの下院議員がアテネ討伐の可決に立ち上つた時のやうに湧き立つて鬨の声をあげるや、

「さうだ、さうだ!」とか「先生が、それを決心するのを俺達は息を殺して待つてゐたのだ」などゝ、或者は帽子を飛し、或者は上衣を旗にして絶叫した。

「──つまり明日から私も、講義を止めて、働くといふことなんだが……」

 私は一同の者が何うしてそんなに激しく讚同の喚きを挙げるのか、不思議に思ひながら言葉を続けようとすると、彼等はもう私の言葉などには耳も傾けずに熱狂して、ドツとばかりに私をとり巻くがいなや、

「講義は休みだ、嬉しい〳〵!」

「酒が飲めないことよりも、講義の休みの方が甲斐がある。」

 斯んなことを喚きながら、忽ち、先刻のよりも花々しいカロル踊りをはぢめた。もうすつかり、それで湧き立つて人の言葉などは聴く者もなくなつたので私は手風琴を弾きはぢめた妻君の傍らへすゝんで、

「一体これは何うしたわけか、僕は未だ胸中の工夫も少しも発表しないといふのに?」

 と質問すると、妻君は口笛の絶間に斯んなことを述べた。

 ──もう一ト月も私の講義に続かれたらサイパンはおろか、村の若者は悉く勘当されるといふ苦境に至つてゐたのである、といふのは講義が済むと私はいつもいつもあられもないソフイスト気取りで、飲む、飲む、飲む、それがもう大変な莫大な聴講料に当つてしまつて、あちこちの家々では家庭争議が絶え間もなく、やがては村の騒動にならんずる雲行であつた。

「さうであつたか!」

 と私は深い感慨に打たれて、それにしても彼等一同の憤しみ深かつたことに同情の念に堪へなかつた。

 それ以来私は、R漁場の魚見櫓に奉職して、毎日毎日何回となく長梯子を登り降りしてゐた。サイパンとメイ子は、店を閉ぢて漁場の食堂係りをつとめた。私達は、サイパンの店の一隅に巌丈な錠前をとりつけた銭箱を備へて、酒樽到着の夢を見ながら、すなどりの業人は海原へ、牛飼等は山向ふの牧場へ、小作家は田畑へ、皆々孜々として仕事に励み、一日の労銀を携へて帰る夕暮時に、その幾部分かをサイパンの箱へ投げ入れてバツカスを祈つた。……一つ二つと数へて見ると恰度八十八段もある長い梯子を、ソフイストの職を擲つた私も、焦るゝ酒の夢を待遠しがりながら朝となく夜となく昇り降りしながら、せつせとサイパンの賽銭箱にお百度を踏んで来た信心家であつた。

 蜜柑の収穫も済んで遥かの山々は斑らに雪を頂いてゐた。二三日前にメイが私の部屋に昇つて来て、

「お賽銭箱が、もうあたしの力では持ちあがらなくなつたわ。」

 と包みきれぬ嬉しさを浮べた。

「お前のタンバリンの鈴を聞かれる日も、いよ〳〵眼ぢかとなつたわけか。おゝ、チヤラ〳〵と鈴の音か、金袋の音か知らぬけれど僕の耳には、はつきりと聞えるよ。」

 私はメイ子を膝の上に乗せて、あれはもうこれ位ひ重いか知らなどゝ云つた。

「これ持つてつてよ──重いわ。」

 私の笛の音を聴いて私の妻君も駆け出して来た。彼女は登山袋のやうに、バンドのついた手風琴を背につけてゐた。

「いよ〳〵到着したと見えるね。」

「えゝ、さつきサイパンと権太郎さんが馬車を曳いて音無村へ行くところを見たわ。」

「そんなら、さうと、此方にも知らせがありさうなものなのに……」

「思はぬ光景を見せて、びつくりさせてやりたいと思つてるのよ、屹度!」

 私は妻と腕を組んで、すいすいと月の光の中を泳いで行つた。

 だが私は、サイパンの酒呑場に踏み込んで見ると、思ひも寄らぬ光景を発見した。薄暗いランプの下に、埃だけが積つてゐる円卓子を取り囲んだ連中は恰も鴉のやうな放神状態で、夫々の厭世的な姿を視守つてゐるだけであつた。そして私の入来に気づくと一勢に顔を反向けて、土鼠のやうに暗がりの方へ蠢いて行つた。

 私は、言葉の通じぬ異国人に物を尋ねる程の困難を犯して、漸くその理由を問ひ訊して見ると、今日はいよ〳〵期が熟したのでサイパンを先頭にして数名の連中が金袋を携へて音無家を訪れたところが──。

 彼等は勢ひきつて音無家の門に到着すると「ペンドラムの仲間が、この通りに莫大な金袋をひつさげて、酒を購ひに来たのである、いざ扉を開けたまへ。」

 斯う叫んで一勢にぢやら〳〵と、神前の鈴を振るやうに金の音を響かせた。すると物見窓の口から鬼のやうな腕がぬつと現れて、

「数へて見ませう、どれ〳〵……」

 と一つ一つ袋をうけとつて、大分待たされたかと思ふと、やがて門番が顔だけを現して、

「御苦労様でした。お金はあれで充分だつた、サイパンの家賃、七郎丸の舟貸料、ペンドラムの蜜柑畑の租税の立替、それらのものゝ返済金として充分だつた。更に同額の金袋を持参したならば酒を売らう。」

それこれとはわけが違ふぞ、はなしは始めから……」

 一同は狼狽して窓口に飛びかゝつたが、忽ちぴたりと閉ぢてしまつて、空に一羽の鳶が大輪を描いて舞つてゐるだけであつた。──私の言葉に従つたばかりで、何も彼も水泡に帰してしまつたわけである。

「攻め入ろう。」

 私は狂気の叫びを挙げて、空の酒壜を卓子で打ち砕いた。

「手だては斯うだ。」

 私は次々の仲間に何事かを囁いた。

フアラモンよ フアラモンよ

吾等は剣を執り 斧を揮つて戦はう

額から流れる汗が腕をつたふて滝となるまで

黄色い山麓に大鷲は悦びの声を放ち

鴉は死者の流す血の海を泳ぎ

海原は手負ひの傷

牧童達は永い間泣いてゐた

フアラモンよ フアラモンよ 吾等の王よ

吾等の父は戦場の露と消えた

荒鷲の大丈夫も泣きつゞけた

嘆くがまゝに嘆きつゞけた

戦つて戦つて そして凱旋したあかつきは

吾等はおのがじし花嫁を選ばう

その乳は吾等の子孫の心臓を

勇気をもつて満すべき血とならう

おゝ 時は流れる

いまはのきはに吾等は微笑わらはう

フアラモンよ

………………

 私は、ノルマンデイの海賊の戦ひの唄バルヂンを、横笛で吹奏した。そしてドリアンに打ち跨つた。その間に戦器を積んだ三台の馬車が用意されると、それに十五騎の連中が分乗して、鳴りを鎮めて出発した。

 振り返つて見ると妻とメイ子が切りに腕を振つてゐた。笛を高くあげて呼応すると、影が長槍のやうに伸びて、彼女等の胸にもとゞきさうであつた。月は行手の山の蔭に沈まうとしてゐるらしかつた。

 音無家の屋根が眼下に見降せる丘の上まで来ると、私は馬上からアメリカ・インヂアンのアツシユの弓を満月と振りしぼつて、ひようと放つた。一片の詩片を結んだ矢は、流星に見紛ふ弾道を描いて、ピラミツド型の屋根に落ちた。

But this fold flow'ret climbs the hillこの花こそは山にも攀ぢよ,

Hides in the forest, hunts the glen林にかくれ谷間に棲めよ,

Plays on the margin of the rill川のほとりにあそびては,

Peep down the fox's den狐住む洞をものぞけいさほしく ......”

「酒をうけとりに来た── Happy Pendulum brotherhood.」

 轍に草を巻き、靴をサンダルに履き換へ、先頭の五騎は登山用のロープを肩に掛け、次の五騎は大小五個の滑車及び梃子、手押の二輪車を曳き出し、残りの者は馬の皮手袋をつけて、竹刀を用意した。

「僕達は、酒の買出しに遥々とやつて来た音無家のお得意様なんだよ。戦ひの気分は、兼ねて申し合せた通り、この丘の上で脱ぎ棄てゝ──さあ、月あかりの径を踏んで行かう。」

 そして私達は五棟の白壁づくりの酒倉が立ち並んでゐる音無家の裏手へ回つた。──執達吏の兵田弥介をして、裏門のくゞり所を叩かしめた。

「ペンドラム家の依頼を享けて、貴家の財産しらべに参つた街の弁理士です。主人を呼び出さぬと、有無なく、この五つの酒倉に差押への赤札を貼るべき権利を持つてゐる者ですぞ。」

 くゞり戸があいて弥介の姿が闇に吸はれた様子を見てとると私は、三番目の酒蔵の塀側に亭々と聳えてゐる樅の梢を指差して、

「ロープ」

 と号令した。

 綱は竜巻のいきほひで、空を切つて見あげる酒倉の屋根にさしかゝつた梢にからまつた。二条、三条……と次々に綱は枝に懸ると見ると、私達は飛鳥の早業で枝から枝へつたはつた。

 私は、先端に鉄の大鉤のついた一本の綱を酒倉と酒倉の間の地に落し綱の中腹に大型の滑車をとりつけ、太い腕木のやうな枝に結びつけた。外側では五人の皮手袋が、綱の一端をつかんで、私達の合図を待つてゐるのであつた。

 これ位ひの高さの木の上で行ふ離れ業は、八十八段もあるR漁場の魚見櫓での作業に慣れてゐる私達にとつては遊戯にも等しいものであつた。

 私は額に手を翳して、木の間を洩れる月光のまぶしさをさへぎりながら、凝つと母家の様子を窺つてゐると、やがて二張りの提灯を先に立てゝ五六体の人影が、そろそろと酒倉の方へすゝんで来た。

 収税吏にその身を窶した大学生の田野流吉が何やら切りと指をあちこちに差しながら提灯持ちに向つて案内をいそがせてゐる様子であつた。また執達吏の兵田は、抱鞄の中から部厚な書状を取出して、歩みを運びながら鉛筆を持つて支細らしくいろいろと誌を付してゐるのが窺はれた。

 真実私は、この家に対しては数へきれぬ理由から此方側が莫大な債権を有してゐる身で、若しも私が怒つたならば難なく「支払命令」を突きつけることが可能であつたが、そして私は、この家に対しては前々からこの上もなく怒つてゐるのであつたが、その怒りを発表する段になると、役所に何々といふ積立金を収めない上は法の施しようのない事を知つたのである。勿論、そんな積立金などが私の手許にありよう筈はなかつた。

 酒倉の扉の前に達すると、思ひなしか消沈の意気で首垂れてゐるらしい音無の主が、徐ろにかきがねを外すと、ギイといふ音を立てゝ観音開きの扉をおした。その音を私は、梢の蔭ではつきりと聴いた。

 稍しばらくの時が経つてから、いよいよ酒樽が二人の男衆に荷はれて、次々に、二つ、三つ、五つと担ぎ出された。

 そこに高張提灯をつけて、五種類の酒の出来具合を収税吏と農林技士が吟味しようといふのである。一方、執達吏の兵田は、醸造高を点験して「差押へ」の思惑を示す筈であつた。

 提灯の下に床几が運ばれると、酒樽は田野の指図で恰度私達の眼下の空地に並べられた。

 田野と兵田は並んで焚火の前の床几に腰を降した。そして、二人の前には大盃がさゝげられた。

 二人は先づ一盞を、おごそかに干した。

 それが私達への「用意」の合図の筈だつたから、七郎丸と権太郎が、葉がくれに梢を伝つて酒倉の蔭に風のやうに飛び降りて、息を殺した。

 私は、手に汗を提つて彼等の様子を凝つと視守つてゐると、何うしたことか田野も兵田も立ちあがる気色もなく、四つ五つと盃を重ねてゐるではないか。

「失敗つた!」

 と私は呟いた。──「可愛想に二人は待ち焦れた酒の香に誘惑されて、前後のことを忘却したのだな。」

 案の条二人は、次第々々に波動を高めてゆくペンドラムと成り変つて、歌でも歌ひ出しさうな様子になつて来た。

 もう一刻の猶予も出来ぬ、あの二人に彼処で酔はれてしまつては一切のプログラムが滅茶苦茶になつてしまふ──と私は、気づくや、時を移さず枝から枝へ飛び移つて、いきなり焚火の傍らにバサリと飛び出た。

「アツ!」

 と叫んで、思はず酒瓢箪をとり落した音無の主の顔色が透明白膏セレナイトに変つたのを見て私は、

「空を飛んで、酒樽をうけとりに来たのだ。通達状は白鳩の矢にはさんで、屋上に届けておいた。」

 さう云つて、胸先をさすつた手の先をこれみよがしに主の前に差し伸した。そして、ははははとわらつた。

「夜盗だ。夜蔭に乗じて垣を乗り越へて潜入した曲者と、私は取引きいたす手段てだては弁へぬわい。」

「臆病窓から腕を伸させて、俺達の金袋を掠奪させた代償に酒樽をうけ取りに来たのだ。」

「門から訪れをうけた時に、埒はあけよう。」

「強力を用ひても担ぎ出す魂胆で、俺達は堂々と門を叩いたのだ。何を隠さう、そこに控へる三人の官吏は、お前方のお得意様の道案内だ。」

 すると主は傍らの男衆に向つて、

「裏門に閂を容れて、番犬ネロを放せ──」

 と命じた。四人の男共が、とるものもとりあへず裏手の方へ走つた。そして、主は、さつきの私の嗤ひを真似るが如き陰気な高笑ひに皮肉味たつぷりと、

「左う聞いたからには、手前達は袋の鼠も同然だ、執達吏ときいて止胸を打たれたが──何の態か、振舞酒に現を抜してあの態たらく……」

 と肚を抱へた。

 執達吏共は、まことにその嘲笑に相当する大振子と変つて、眼を据えたまゝ無何有の境に、私共を裏切つた。

「さあ、さあ、酒は何樽でも御所望次第、持つて行かれるものならば此場から御遠慮なしにお運びになつたらいかゞなものだ?」

「もう一度、申して見給へ。」

 私は彼の卑怯性では従来再三ならず手を焼いた経験を持つてゐるので、さう念をおしたついでに兵田の鞄から紙片をとり出すと、

「書状を書いて御覧な。」

 と、わざと冗談めかしく所望した。

「書かうとも〳〵!」

 彼は筆をとりあげて、

「この月の曇らぬ間に、この酒樽を持ち出すならば……か」

 などゝ読みあげながら、まことに antic な契約書をさらさらと認めて、

「私の屋敷は、この通りに見事な鬱蒼たる木立にとり囲まれて、月の在所に関はりのない砦であるから、要とあるならば高張提灯を貸さうかの?」

 などゝ云つてゐる間に私が、もう一辺、意味のない洞ろな高笑ひで、かけすの擬声を仄めかすと、抜きあしで忍び寄つてゐた七郎丸と権太郎が綱の先の鉤を酒樽の懸縄にがつちりとくわへさせた。

 気合ひで、それを察すると私は、見るも意地悪気に頤を伸してゐる主に向つて、

「曇るも曇らぬも待つ間もなく──」

 と、非常に大きな声を張り挙げて、

「たつた今、ものゝ見事に持ち出して見るから見物するが好からうよ。」

 と叫ぶがいなや、腰にさした横笛を引き抜いて、

「Tattoo Tattoo Tattoo !」

 と最高音に吹き鳴した。

 呼応の声が塀外から、どつと巻き起つたと同時に、頭上の梢に滑車の軋みがきりきりきりきりとものゝ見事に Fiddle の伴奏のやうに響わたると、さながら大仏の頭のやうな酒樽が空中高く舞ひあがつた。

 樽は宙で一息衝くと、塀外から三叉の鉤をつけた長竿が現れ、おもむろに力をゆるめる綱といつしよに、見る間に、向方の月あかりの奈落に影を没した。それと一処に再び梢の上から二番目の綱が投げられると、時も移さず Tattoo の合図で二つ目の樽が宙に浮ぶ──それ曳け、曳け曳け!

 巨大な蜂の巣と見紛ふ梢に懸つた樽の有様を見上げて、私はしばし、この世にも奇怪な光景から魔呵なる恍惚の浴霊に浸ると、月を信仰する北方の蛮族の夢に駆られて、思はず、

「有りがたい〳〵!」

 と念じながら、その下にひれ伏した。

 酒樽が金色の暈にきらめきながら、怖ろしい白光を放つた。そして、

「クララ、クララ、クララツクス、クララツクス!」

 といふ音響を発した。

「おゝ、あれはローマの Caligula 皇帝が、アポロの殿堂からツオイスの神像を持出さうとして、その手を像に触れた瞬間、神像が発した笑ひ声である。──はからずも音無の森でツオイス像の高笑の御声を聞かうとは何たる妙佳なことであらうよ。」

(註。ツオイス像の姿に接して、その高笑ひの響きを聞きたる者は、幸福に恵まるゝといふ伝説あり、また一説にはツオイス像は芸術品の極致を象るものにして、何人と雖もこれを一瞥するならば胸に永遠に絶へざる歓喜の泉を蔵するに至るとあり。)

「クララ、クララツクス、クララ……」

 不思議な高笑ひの声が、高く低く梢から梢へ韻々とこだまして、月の暈を目がけて飛んで行つた。

「先生、何を斯んなところで有りがた涙を滾してゐるんです?」

 七郎丸が私を促すのであつた。

「だつて、君には、あのツオイスの声が聞えぬのか……おゝ、次第に遠ざかるよ。」

「あれは音無家の者共が、吾々の策略に舌を巻いて逃げて行く悲鳴の声でありますよ。」

 さう云はれて私は振り返つて見ると、酒倉から母家へつゞく灌木の繁みを縫つて、右方左方に提灯が飛び交ひ犬の遠吠えの声に入れまぢつて、たゞならぬ人々の仰天の叫びが吹雪となつて飛び散つてゐた。

「追手が来ると面倒です。鉤に脚をかけて下さい、先生──よろしいか。Tattoo !」

 七郎丸が口笛で合図すると、今度は酒樽の代りに私の五体が軽々と宙に浮んだ。

「執達吏と収税吏が、泥酔してしまつて、いつかな動かうともしませんが?」

「バンドに鉤をひつかけて、救ひ出してやれ、裏切者と思ふな──、君は、五本目の綱に飛び乗つて、酒倉の屋根を飛び越えるのだぞ。あゝ、面白い〳〵。」

 さう云つて私は、真に月世界の大時計の振子と化した想ひで、高く低く、次第にその振幅を増して、宙に能ふかぎりに大きな弧を描いた。

〝Tattoo Tattoo〟

 不図気づくと、もはや、私はサイパンの酒樽に凭りかゝつて、酔後の一睡を貪つてゐたところであつた。

Tattoo Tattoo !

フアラモンよ フアラモンよ

そして吾等が凱旋のあかつきは

 酒注台の片隅で古風なオルゴールが、勇ましい軍歌を歌ひ出してゐた。

 これは私の寄贈に関はる自動オルガンで、銀泥に朱の馬鞭草うまつゞらと、金色の凌霄花トランペツトフラワアを鍍金した総鞣皮張りの小箱であるが、殊の他に大きな音響を発するので、メイ子は帰館の時も忘れて眠りほうけてしまう酔漢達の夢を呼び醒すためのコーリング・ベルの代用に使つてゐた。

 強弱々、強弱々──と、いとも原始的な淋漓たる韻を踏んで鳴り出すバルヂンの音響に打たれると(歌詞は私より他に知る者とてもなかつたが──。)何んなに凄まじく眠り込んでゐる酔漢であつても、忽ち目を醒してしまふのが慣であつた。

 あちらの樽、こちらの樽の蔭からむくむくと起き上る人達を見ると執れも私の戦友共が、蹣跚たる夢に飽きて、もう一度私達夫妻の合奏に伴れて花々しくカロルを踊つて、今宵の慕を閉ぢよう──と云ふのであつた。

 それにしてもあれらの何処までが私の夢であつたか、或ひは夢と云ふのは私のごまかしであるか──それを判別すべく、焦れた酒の香に酔ひ痴れたまゝの私の頭では、少くとも明日を待たねばならなかつた。あれらが悉く夢であつたならば、このいきさつを私は再び一篇の物語に綴り代へて、親愛なる諸君の前に披瀝したい望みを持つてゐる。

 ともかく、これらの酒樽は尋常の手段に依つて獲得したのではない──といふことは事実である。

………………

時は流れる

いまはのきはに吾等は微笑わらはう

Tattoo Tattoo !

「あれあれ、もうお前さんの用は済んでしまつたんだよ、皆さんは大変御気嫌好くお目ざめになつて、これから、もう一度仲善くカロルを踊らうといふところなんだよ、御苦労〳〵可愛いいあたしのバアバアル!」

 メイ子は生物に物言ふように呟くと、オルゴールを抱きあげて頬を寄せながら休止のボタンを入れた。

 不図私は、窓から岬の方角にあたる空を見上げると、昼間のやうに白く明るい光りの中に月とすれすれの高さで漁場の櫓が悄然と聳えてゐた。それが、知らぬ国の風景のやうにほのぼのと眺められた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房

   2002(平成14)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「酒盗人」芝書店

   1936(昭和11)年318日発行

初出:「文藝春秋 第十巻第二号」文藝春秋社

   1932(昭和7)年21日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年117日作成

2016年59日修正

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