テンコツさん一家
長谷川時雨
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──老母よりの書信──
鼠小僧の家は、神田和泉町ではなく、日本橋区和泉町、人形町通り左側大通りが和泉町で、その手前の小路が三光新道、向側──人形町通りを中にはさんで右側大通りが堺町、及がくや新道、水天宮は明治七、八年から芝三田辺より来られ候。
三光新道が鼠小僧の家、母親と妹がすまつてゐて、妹には旦那があつて、その旦那の来てゐる時は、表のこうし戸の前に万年草の植木鉢が出してある。鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさなよき男のよし、その母は引廻しの日にとうといお寺へ参つて坊さんになつたさうです。祖母さんの若いころには堺町に芝居が三座あり、その外人形座もあり、かげま茶屋といふものもあつたよしに候。
私は微笑した。こんなつまらない事ではあるが、他人のいった事が正しいような気がして無意識に従うことがある。実は、前章の末に書いた鼠小僧のくだんの中に、神田和泉町と書いたのは何処かに目に残っていた文字をそのまま書いてしまったのだった。講釈本からかも知れない。あるいは戯曲の台本などからかも知れない。
和泉橋は今でも神田と下谷にかけてかかっている。和泉町といえば神田の方がゴロがよい、というわけでもあるまいが、日本橋区内の和泉町は知る人がすけない。そこで、ちっとばかり古い事を並べて見ると、本編最初からお馴染になっている大門通りは、廓の大門の通りなのだから大門とよんでください。芝にも大門があるがあれは大門である。
日本の首都である東京の日本橋の中央の大問屋町が、遊女屋町吉原の大門通りであって、堺町、和泉町、浪花町、住吉町、大坂町でとんで伊勢町など、みんな関西から出稼ぎ──遊女屋の出身地だとばかりはいわれまいが──人の地名から来ている。長谷川町は大和からの名であろうが、其処には長谷川という大きな木綿問屋が現今でもある。
葭町を廓の中心地とすると、人形町の名がどうやらわかってくる。人形屋もありはあったが、室町十軒店の方が有名でもあり、数も多い。ここの人形商はおやま商業であったことがわかる。親父橋が渡しで廓がよいに不便だろうと、遊女屋側からかけたので、遊人それを徳とし、その特志家を──実は商業上手を、おやじおやじと尊称した名が残ったのであると記録にもある。このよし原が浅草田圃に移され、新吉原となってからでも、享楽地としては人形町通りを境にして親父橋寄りに、葭町、堺町、葺屋町側に三座の櫓があり、かげま茶屋、色子、比丘尼が繁昌した。今では反対の側の住吉町、浪花町の方に芸妓屋がのこり、明治の末大正にかけて、かきがら町に私娼、大正芸妓があった。
新吉原は浅草公園を外苑地帯として根を張り、あとから移転していった芝居──山之宿の市村座、鳥越の中村座など、激しい時代転歩にサッサと押流され、昔日の夢のあとは失なってしまったが、堺町、葺屋町の江戸三座が、新吉原附近に移るには間があった。古い廓のロマンスというようなものが残っていたかというと、私が知っているのは禿が池というのが大門通りの突当り、住吉町の地尻りにあった。今でも何か神社が残っているであろうが、かなり広い池をもった社で神楽堂が池の中にあった。昔日はもっともっと大きな池だったときいていたが、埋立られて、清元家内太夫の家や、芸妓屋や、お妾さんの家がギッシリと建ってしまった。向側に粋なうなぎやがあったが、そうなっては掛行燈の風致もなにもなくなってしまった。この池に悲しい禿が沈んだのだということが子供心を湿らせたに過ぎない。
テンコツさん一家に対して、あまり長い前置詞であるが、この池尻りの向う一帯が、松島町という細民の部落で、その附近にこの一家が散在していたからだ。
とはいえ、私は松島町の姿を多くは知らない。よく見ておくべきだったが、子供心にはそんな欲心がない。中島座という小芝居が非常に繁昌した──それも目で見たより、家の人がいうのが耳に残っていた方がかっている。
テンコツさん森口嘉造氏はそこら一帯の大屋さんで、口利きで、対談事、訴訟にもおくれをとらぬ人、故松助演じるところの『梅雨小袖』の白木屋お駒の髪結新三をとっちめる大屋さん、鰹は片身もらってゆくよの型で、もちっとゴツクした、ガッチリした才槌頭である。テンコツさんのいわれは知らない。一度何のことかと父に訊いたら、拳固をかためて頭のところへもっていったようなことをしたが、私にはなんのことなのか分ったようで訳らなかった。たぶん、頭がかたい──頑迷だというのかも知れない。母にきいたら、頭の脳天に丁字髷をのせていたのだともいった。
テンコツさんの住居は、中島座の通りで、露路にはいった突当りだった。露路口に総後架の扉のような粗末な木戸があった。入口に三間間口位な猿小屋があった。大猿小猿が幾段かにつながれていて、おかみさんが忙しなく食ものの世話をしていた。人参やお芋を見物のやる棒のついた板の上に運んでいた。私ははじめ猿芝居かと思っていたがそうではなく、といって、見物に小銭で食物をやらせるのばかりが商業でなく、猿を買出しにくる人もあったかも知れないが、貸猿がおもなのだから、猿廻しの問屋とでもいったらよいかもしれない。
ざわざわと人の多い、至るところ細い道だった。毎年冬になると鯨の味噌漬の樽がテンコツさんからの到来ものだった。大橋の下へ船がついたからとりにいってくれといってよこした。で、このせまい町から、ある年の冬火事をだしたおり、荷物は大橋から船へ積めと手伝いにゆく者たちはいっていた。
その時の火事は大きかった。江戸時代の残物で、日本橋区内のコブであった汚ない町が一掃されたが、哀れな焼け出されも沢山あった。一度眠った私の家が叩き起された時は、大門通り一ぱい火の子がかぶっていた。家々では大提燈を出して店の灯を明るくした。酒屋はせわしげで、蕎麦屋は火をおこし、おでんの屋台はさかんに湯気をたてた。纏がくる、梯子がつづく、各組の火消が提燈をふりかざして続いてくる。見舞人が飛ぶ。とても大通りは通られはしない。
子供たちは角に立って、ガクガクして飛んできておちくだける火の子の華を眺めていた。火喰鳥が空をまわってるからこの火事は大きくなるなどとろくな事はいわなかった。でなくてもこの火事はあるべきものとしてこの近辺の者には予想されていたのだった。松島町の方に火柱がたつということは毎夜噂されていた。祖母をさすりに毎晩交替でくる、栄良だの栄信だのという小あんまたちまでが、自分たちも見たように咄すのだった。私たちも怖々夜更けに出て見たことがある。そういえば気のせいか、下の方は見えないで、一抱え以上もある火気が──丸い柱が、ポッと立っているように思えたのだった。
書生たちは早くからあつまってきた。河岸を廻って細川様(浜町清正公様)のさきから、火事場の裏からでなければはいれまいと父も洋服を着て出ていった(その前までは刺っ子を着るのだったが)。火事場の中には、テンコツさん一家の一人に、肺病で寝ている、来春大学を出る法律書生の、父のたった一人の甥もいたから、家のものは案じきっていた。
と、大通りの勢いのよい人たちに突きのめされながら、薄いきもの一枚で、葛籠を肩にした青い少年がフラフラと現われた。待ちには待っていたが、手厚く連れてこられるものとして待ちかまえていた女たちはそれを見ると戦慄た。長病の少年が──火葬場の薬までもらおうというものが、この夜寒に、──しかも重い病人に、荷物をもたせて、綿のはいったものもきせずに──
母一人子一人なのに──なにがほしいんだ、祖母はグッと胸に来たらしかった。全然肌合のちがう嫁ではあるが──祖母には、その少年がたった一人の男の孫であり、その子の母親は私の父の兄の後妻であった。父の兄は維新後の世の中のゴタゴタのころ、懐に金を入れて出たまま行衛不明になって、幼子と後妻だけが残ったのを、家を売った金や残りのものと一緒に実家の兄、テンコツさんの近くへいっていた。
少年は暖かい床に入れられ、私の母に静かにさすられていた。祖母はやがて帰ってくる、自分の子でも私の父には、少年が背負されて来た葛籠は見せたくなかった。
「おやそ、こんな葛籠はなぜ焼いてしまわなかった。お前はなぜ猪之をおぶってすぐに来なかった。」
と、少年の母が来るとすぐ祖母は激しくいった。だが、いかにも後家相をした、色の黒い、小欲で眼の光っている、痩せた長顔の、綿入れを三枚重ねて着て、もてるだけの荷物の包を両手にさげて、転がったら最後焼け死んでしまいそうなかたちしたおやそさんは、いまや息子のことよりは荷物だった。
「葛籠はまいりましたか?」
と洒然として訊ねた。
哀れな少年猪之さんは寒夜の火事と、重い葛籠が災いして死んでしまった。
テンコツさんは大屋さんから立派な家主さんに代った。人形町通りも半分焼けたので銀座に似た煉瓦建になった。その幾軒かはテンコツさんの持家であった。住居も紳士風にした。石のような羊羹を紙に包んでくれなくなった。
大きな納屋──物置きが母屋から離れたところに出来たと思ったらその隅に床をつくり、畳を二畳ばかり敷いておやそさんのいるところが出来た。沢庵桶や漬け菜との同居である。あんまりの事に、こんどは私の母が不服だった。
「家からの仕送りが毎月行くのに、まるで……」
そんな年齢でもなかったであろうに、おやそさんは鼠の骨のようにほしかたまっていた。でも何かあると、例の葛籠の中に焼けのこった裾模様の派手なのを着てくるのではたのものの方が困っていた。彼女の嫁入り衣裳なのだから、いかに黒の紋附でも悲惨だった。
おやそさんは忠実に雇われてきた。夜でも急用があるといえば、巾の広い木綿じまの前掛けをかけて、提灯をさげて、朴歯をならして、謹しやかに通ってきた。袋物商の娘だったので、袋ものをキチンとつくった。私たちのお弁当箱の袋や、祖母の巾着を気に入るようにつくりあげた。或日、そのおやそさんが、クドクド祖母や母を説いていた結果が、六つの年からあがった長唄の師匠をとりかえられる事になった。おやそさんの姪が、杵屋勝梅という名取りになったが、まだよい弟子がないのだというのだ。
私の長唄のおしょさん六喜美さんは、眼玉にホクロのあるような目で、背中が丸くて、猫がコウバコをつくったようなお婆さんだったが、後取りにする内弟子のふうちゃんより、名取りのおなっちゃんより私を可愛がって、御自慢で附合浚いに連れ廻った。鉄砲町の百瀬という接骨医の裏にいたが、半片を三角にきって煮附けたお菜をわけてくれて、絵硝子のはまった行燈のわきで一緒に御膳をたべさせるのを楽しみにしていた。お浚いの時は、二間の戸棚を開けはなし、中央の柱を上だけぬいて山台にする。十銭札や二十銭札──この間中あったのとは違った──が廃められる時、戸棚の方へむかって、そっと勘定していたが、部厚なのを見せて、誰にもいってはいけないよといった。大きな、どてらを着ていた背中を忘れない。その親しみのある人から離そうというのだから、私は厭だといった。では、どっちのおしょさんにもやらないと母は叱った。
浪花町の裏にいた勝梅さんも、焼け出された一家だから、三味線よりほかなんにも持ってなかった。兄さんは叔母のおやそさんそっくりの人で、肺病かもしれなかった。だんまりで袋物の細工をして、時折トントンと小さい木槌の音をたてるばかりだった。母親がおやそさんやテンコツさんの姉さんで、額の大きい、落ちくぼんだ大きな眼──この人は美人だったと思われたが、しどくしどく貧乏にやつれて、骸骨みたいな顔をしていた。おきみさんという娘は父親似で、大きなふっくりした顔と、フンダンな髪の毛をもっていたが、人がよすぎてポンとしていた。父親の善兵衛さんは、名の通りの人物で、今なら差当り、クラシカルなモデルにでも役にたとうが、そのころでは高い鼻と豊頬とのもちぐされで、水鼻をたらして、水天宮様のお札を製造する内職よりほか仕事がなかった。
「六喜美さんは好いお弟子が沢山あるけれど、勝梅さんはお前がいかないと困るのだから。」
と説きおとされて厭々通うことになった。最初は何も教えてはくれなかった。毎日一、二段ずつお浚いのように唄わされた。まあ、助六を知っていますか? ではそれを──勧進帳も? 牛若も? まあ、あれも? これも? いい声だいい声だとそやされて無中になって唄った。しまいには、兄さんが体がわるいので気むずかしいが、やっちゃんの唄をきくと大層よろこぶからと──これは体のよいおとりで、窓はいつもあけはなち簾だけにしてあったから人だかりがした。そのうちポツポツお弟子が出来てきた。
お弟子の種類が所がらで面白い、水天宮様のおきよめ──門前で五の日五の日に、神前へそなえる小さいお供餅を細い白紙でちょいと結んで売る商売、中には売色で名高い女もあった。年増の芸妓の手ほどきなどで、そのうち裏から表通りへ越すようになった。階下が住居で二階が稽古場、壁が汚ないので古新聞を一ぱいに善兵衛おじいさんが張ってくれた。勝梅さんは色白の毛の薄い大あばたで、眼が見えないから、壁の汚ないのは平気だが、子供のくせに潔癖性で、気味悪げに私が見廻すので、来なくなるといけないからと、大ふんぱつで張ってくれたのだった。
三味線が二張に見台。そのほかは壁の隅に天理王を祭った白木の小机があるだけ。私はお稽古を待っているうち中、うらさびしさにボンヤリしていた。六喜美さんのところは上り口に赤い鼻緒のポックリが足も入れられないほど並んで、入口の三畳でふうちゃんが下ざらいをしているし、八畳の隅でなっちゃんが出来ない子に撥をもってやって教えているし、おしょさんの前にはあとからあとからとおじぎをして出てゆくし、私は縁側で、千なりほおずきをとったり、石菖に水をやったりして怒られたり褒められたり、お手だまをとったり、みんなで鞠をかがったり、千代紙で畳んだ香箱へ、唄の出来ないところへ貼りつける細かい紙を刻んだり、おちぢれをこしらえたり、お三宝だの菊皿だのと、時間なんて気にもしなかったのに──だが、古新聞はそれらにました悦びを与えた。あたしは善兵衛さんに手伝って、いつになく機嫌よく壁張りの手伝いや見物や助言をした。それは逆さまだ、こっちの面へ糊をつけた方がよいのと。
古新聞が壁にはられてからあたしはせっせと稽古に通うようになった。番がきてもなかなか座らない。おまけにお弟子がすけないからいつも私の番がすぐにある。私は這入ってゆくにも足音を忍ばせて、こんちはも言わないで壁にゆく。勝梅さんは内職の毛糸の編物をしているが、勘のよい盲目さんで、ニヤニヤ笑いながらいった。
「おやっちゃん、はじめましょう。」
あたしの背の──目のとどくところのうちは無事だったが、とうとう天理様の机がもちだされることになった。それでたりずに見台まで、鼠がひくようにひっぱった。勝梅さんが不思議がって探り廻しだしたのに吃驚した私は二ツ重ねた足台からおっこって、階下の人を驚かせ、二階へ駈上らせた。勿体ないといって盲目さんは泣いた。階下からは兄さんが、かわりの読物をかしてくれた。たしか『都の花』という新聞の附録だったが、苦しい生活を知らないあたしは遠慮もなく頁をあわせて立ちきってしまったので、コチコチの兄さんが疳癖玉を破裂させて梯子段からどなり上って来た。だが、何が彼をそんなに怒らせたのか分らなかった。
『都の花』は近所からの借ものだったのだ。あたしはまた高いところの古新聞を読んだ。厠のはどうにもならないが、梯子段の近辺は手すりにのぼった。窓の近くは窓にのぼり、欄間に手をかけて屋守の這うかたちでした。向側のキリ昆布屋から危なくて見ていられないと苦情を申込んで来たので、また兄貴が呶鳴った。翌日ゆくと、善兵衛おじいさんが股の間へ摺鉢を入れて、赤っぽい大きなお団子をゴロゴロやっているので、摺鉢をおさえてやりながら、なににするのだときくと、ただニヤニヤ笑っていたが、やがて、古新聞がお団子色にぬりたてられた。
兄さんが死んで、おきねさんが三ツ輪に結って、浅黄がのこをかけてお歯黒をつけて、どこかみだらな顔つきになったが、それも見えなくなった。骸骨の顔に大きな即効紙を張ったおばあさんも死んだ、善兵衛さんはどうしたのか、勝梅さんは天理教をやめて耶蘇になったといった。外国婦人につれられて歩いているのを見かけたといったものもある。
おやそさんに、も一人の姉さんがあった。やっぱり近所に住んでいたが、みんな後家さん──後家さんはお母さん一人で、あとは老嬢だったのかも知れないが、女ばかり四人してキチンと住んでいた。母子なのだか姉妹なのだかアンポンタンにはわからないほど、梯子段のようにだんだん年をとった四人だった。一番若い下の娘だけが廿二、三でもあったのだろうが、一体に黒っぽいおつくりの時代で、ことにテンコツさん一家だから花の香はなかった。大きいおうるどみすがおとよさんといって学校の先生だった。中位のおうるどみすも教師だった。下のミスも先生になりかけていた。お母さんだけが台所をしていた。この女ばかりの家は用心堅固で、貧乏が入りこまないようにしていた。大きいミスの名が通りものになって、おとよさんの家と呼んでいた。
善兵衛がおひとよしだから姉さんはあんなになってしまってと、おやそさんは言ったが、勝梅さんのお母さんよりおやそさんの方がよっぽど貧乏性だった。
おやそさんは、あたしの祖母がなくなったとき、寐棺が来たら蓋をとって見て、
「まあ結構な──どれまあ。ちょいとお初に入れて見せて頂いて──どんな具合だかおあんばいを」
と中にはいって横に寐て言った。
「なんて楽なことで御座いましょう。お布団はふくふくして、なんとももうされないよい気持ちで御座います。おばあ様にあやかりまして、私も極楽往生いたしますように。」
なまいだ、なまいだ、なまいだ、と棺から出てきても空念仏を言いつづけていた。
おやそさんが、漬物桶と同居して死んだ時、十本の指に十本、手首にも結びつけていた紐がある。その紐はみんな寐床の下から出ていた。死体を棺に入れたら床の下からずるずると幾つもの巾着が引きずられて畳を這った。貸金の証文、鍵類、お札のいれたの、銀貨の入れたの、銅貨の入れたの、穴のあいたビタ銭のまであった。大概のものは棺の中へ一所に入れて、現金は何処へか寄附された。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
※「老母よりの書信」は旧仮名遣いになっていますが、ルビにつきましては、岩波文庫編集部の方針「現代仮名づかいで振り仮名を付す」に従い「いずみちょう」としました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年7月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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