木枯の吹くころ
牧野信一



     一


 そとは光りに洗はれた月夜である。窓の下は、六尺あまりの探さと、三間の幅をもつた川だが、水車がとまると、水の音は何んなに耳を澄ましても聴えぬのだ。

「寒いのに何故、窓をあけておかなければならないのだ?」

 俺は囲炉裡のふちで、赤毛布にくるまつただるまであつた。彼は返事もせぬのである。

 俺たちの頭の上のラムプは、暗かつた。太吉は、むつと腕を組んで、ラムプよりも明るい月の光りが吻つと煙つてゐる窓を視詰めてゐるだけだつた。彼の膝の上には編みかけの草鞋がのつてゐる。太吉は左の眼が義眼なので、手仕事に疲れやすかつた。彼は、体裁を顧慮することなく、また気短かで、平気で安価の眼玉を購ふので、それは目蓋から喰み出して、右の眼と色が異つてゐた。俺は彼の眼を見ると、時々憎みを感じた。

 だが光りを浴びて、彼の眼玉は高価の品に似た。左右の色も区別がなかつた。──彼は再び膝の上に眼を落して、仕事にとりかかつた。右の眼は稍々悲し気にうつむき、余念なく人生をあきらめてゐるかのやうであつたが、左のはぎらりと飛び出して、俺の方を睨んでゐた。このために彼は、つい多くの人達の感情を害した。友達は彼にいつも高価品を購ふことをすすめるのだが、ひと月に少くとも一度ぐらゐは破壊の憂目を見るので、とても買ひ切れぬと彼はこぼした。

 彼は四十歳だが、結婚の経験を持たなかつた。

 微かな鼾きがするので、見ると、彼は草鞋の端をつまんだまま、うつとりと居眠りであつた。義眼の眼蓋は主人が眠つても、笑つても決してしまらなかつたから、見る者は屡々本尊の心的状態を見誤つた。──笑ふ──と云へば、彼はわらふ場合には目蓋を閉ぢるのが癖である。然し、いつにも俺は彼の笑ひ声に接した験しもないのである。

 太吉が、その時突然蟇のやうに仰向くと、突拍子もない大きなクシヤミを発した。これがはじまると、十も二十も連続するのが彼の癖だつた。

 炭をついでゐた俺は、

「だから、窓を閉めれば好いのに……」

 と慌てて、立ちあがりながら着てゐる毛布を貸さうとした。彼は、はつはつはつ……とクシヤミの発作に駆られて肩をすぼめてゆくのだ。そして、それが破裂すると、飛びあがるまいとして囲炉裡のふちに獅噛みつくのだが、やはり、ぎよつと背中が無理に弾んで了ふほどの激しいクシヤミであつた。そんな弾みに逆らはうとして五体に止める力は、反つて窮屈な反動を呼んだ。

「アツ!」

 と俺は思はず叫んだ。太吉の硝子眼玉が、勢ひ好く飛び出して、爛々たる焔の上に落ちたのである。これを彼は懸念して、クシヤミが破裂する毎に異様な力を込めながら震へてゐたのだ。

「アツ、眼玉が落ちてしまつた、ああああ!」

 俺はおろおろして火箸を取るのであつたが、俺の騒ぎで初めてそれと気づいた太吉は、

「火箸はいけないいけない!」

 と夢中で俺の腕をおさへた。なるほど人さし指位の太さで、二尺あまりの長さであらう鉄の火箸では、この上もなく危険だ。太吉は、とるものもとりあへず先づ黒の色眼鏡をかけた。彼は、そんな不体裁な眼玉を関はずに容れてゐる癖に、一方に変なはにかみやであつて、何んな切端詰つた場合にも眼玉の脱された眼窩を決して他人には示さなかつた。──彼は窓を閉めた。跣足で土間に飛び降りると、入口の扉に閂を入れた。そんな用意などは何うでも好ささうなものなのに、そんな大事をとつた後に、膳棚から箸箱を探した。そして、杉箸の先を操つて眼玉を拾はうとするのであるが、一向に見当が定まらぬのである。箸は、赤い火を突くばかりなのであつた。驚きの発作で、クシヤミは止つてゐた。眼玉は、火の中で真ツ赤であつた。彼の箸は炎へはじめてゐた。勿論、俺も箸をとつて手伝つてゐるのだが、俺の箸の先が近づくと何故か太吉の箸は切りとそれを横に払つて邪魔するのである。彼は、照れてゐるやうであつた。──間もなく、ぎんなんの実がハネたやうな音がした。

「太吉さん、居たかね?」

 窓の外で久良の声だつた。太吉の情婦であつた。久良は、いつも窓から覗いた。月の光りを受けると、義眼がほんもののやうに光るのを太吉は承知してゐたのだ。

 太吉は俺の顔を見て、手を振り、掌で口をおさへた。俺は唇を噛んで、息を殺した。太吉は、そつと腕を伸ばして、ただでさへ暗過ぎたラムプの芯を極度に細めた。──消えてしまつた。

 普段太吉は、久良に会ふ時にだけ容れ換へる二円五十銭のものを手文庫に蔵して棚にあげてあつたが、四五日前の晩に鼠に落された。久良は癇性の強い質で、五十残の眼玉の太吉とは会ふことが出来なかつた。怕れに戦かされて久良は、決してその眼の太吉と向き合ふことが出来なかつた。その眼の太吉が、嬉しいことを呟いても、久良は共々に悦ぶことが出来なかつた。また彼が、憂世を喞つて悲しんでも、同情も寄せられぬのを久良は切ながつた。

 ラムプは消えても、火気の焔が太吉の胸から顔へかけて赤く毒々しかつた。

「もうやすんだのかね?」

 久良は、男の安否をうかがふのであつた。

「ど、う、しようか?」

 俺は太吉の耳に口を寄せるのであつた。

「…………」

「ふたり、ちやんとそこに居るでねえか!」

 久良は節穴から覗いた。

 太吉の膝頭は小刻みに震へてゐた。やがて、せツせツせツ! と蟋蟀に似た歔欷であつた。


     二


 俺は外に出て、そのわけを久良にはなした。久良は、袂で顔を覆つた。

「お前えのうちに、草鞋あるかね?」

 俺は太吉の手の草鞋が三足になつたら、それを穿いて十里先の町へ金策へ赴くのだ。町の郵便局には、二円五十銭が一個、五十銭が三個、代金引換郵便で到着してゐた。馬の背と山駕籠と草鞋の旅人だけが通る嶮しい山径だつた。

「今夜、おれが自分でこしらへて見よう。」

 久良は、編み方をさぐる指の先を月夜の中に動かせながら、

「太吉は宵ツ張りは出来ないが、おれ、二晩位ひは平気よ。」

 と云つた。太吉は、女の傍らでも眠らなかつた。眠つてゐても、何かをねらつてゐるかのやうに、あいてゐる片眼を見る者は、囲炉裡の傍らで坐つたまま居眠りをするところに向つてゐる俺ひとりだつた。

「夫であり、妻であらうとする者が、たつた一つの目玉のことぐらゐに、何故そんなに拘泥するのか俺は不思議でならぬ。」

 と俺は首を傾けるのであつた。然し、それは、夫であり、妻であらうとする者にだけしか解らぬ絶対の矛盾であつて、また二人は夫々まことに風の変つた個人主義者であるのだ──といふ意味のことを久良は長たらしい方言で説明した。

 俺と久良は川のふちにたたずんだ。まはりの山々も、森も、畑も、そして流れも、腹一杯に光りを飽満して、ふくれてゐた。俺は、ぐるりと身のまはりを見廻した。自分の影も見あたらなかつた。まるい月は恰度俺達の頭上にあつた。

 久良は、橋のたもとのあたりまで送つて貰ひたがつたが、斯んなときには必ず扉の節穴から女の様子を注意してゐる太吉に、俺は遠慮して、

「ここで見てゐてあげるよ。」

 と断はつた。別段、太吉は妬心は無かつたのであるが、秘かに情人の姿を眺めることを好んだ。

 橋を渡つて、向方の稲むらの間に達しても動いてゆく久良のかたちは、どこまでもはつきりとしてゐた。久良は、戯れに稲むらの間を事更にジクザクと縫つて、このまま別れてゆくのが名残り惜しいといふ風に、いつまでも振り返つてこくりこくりと首を動かせたり、慌てて稲むらの蔭に隠れたりした。それは扉の内の恋人への会釈に相違なかつたから、俺は柿の木の幹にもたれてぼんやりと見送るだけの役目を果してゐた。

「済まないね。」

 やはり節穴から覗いてゐた太吉が、太い声をかけた。


     三


 久良がつくつて来た二つの草鞋の一足は大き過ぎて芭蕉のやうであり、一足は指が悉く喰み出して役に立たなかつた。久良はそれらの製作に疲れて、囲炉裡のふちに伸びた。太吉は、色眼鏡の代りに、片方の眼だけを蓋する四角の布に糸をつけて耳にかけてゐた。

 久良は、太吉の自然の一つの眼を惚れ惚れと見あげて、

「これは優しいけれど……」

 と云つた。だが、その目覆ひの直ぐ下の有様を想ふと、気味悪くて近づけぬと神経性の痙攣を全身に波立せた。太吉は、優しい眼の方の横顔を久良の側にして、草鞋の手工に急いでゐた。

 暗いラムプであつた。風模様だつた。ラムプの灯が、扉の隙間からの風で稍々ともすると消えかかつた。

「荒れるのか知ら?」

 俺は、木々に鳴る風に耳を傾けた。太吉は外の模様をあらためるために立ちあがつて、

「明神ヶ岳の空が明るいから、荒れる気づかひはなからう。これで雨を飛ばしてしまはうといふんだから、あしたは晴れだよ。」

 と、いつまでも扉の外へ顔を曝してゐた。

「雨だつて俺は出かけるよ。この靴に草鞋をくつつけて……」

 俺は、夏のうちにヤグラ岳を越えて、丹沢山へ踏み入る目的でそろへた山登りの道具を持ち出して囲炉裡のふちに並べてゐた。登山袋も靴も杖も手袋も新しかつた。計画を立てて支度だけは整へたものの、急に水車の支障が起つて実行し損つたのである。

 久良が、あしたの俺の弁当をつくるために竃の前で吹竹を構へてゐた時、

「お久良お久良、手前はまた斯んな目ツカチのところに来てやがんのか!」

 と赤鬼のやうに酔つ払つた久良の老父が呶鳴り込んで来た。

「余計な世話だよ、目玉さへ這入れば太吉は立派な男なのよ。」

 久良は養父と犬猿だつた。

「ほざくな。さあ、帰れ……」

「お前えは、だけど、台の茶屋からほんたうに金をとつたのか?」

 久良の顔は蒼かつた。炎えついた竃の火が煙りを吐いて、久良の姿にからまつた。父親は、白く輝き、眼眦の鋭い久良の容貌に見惚れてゐた。

「お久良、無理を云ふな──お前えが飲ませて呉れる酒なんだ。」

「おらの知るこつちやないげに! おら、茶屋奉公づら真平だよ。」

「ふんなら、俺らは何うなるといふんだ。約束をしてしまつて、金はそつくり畑に注いでしまひ……」

「畑に注いで、また畑から飲代をしぼり出して……か、堂々回りも好い加減にするが好いぞや、おらは、もう太吉と夫婦約束したんぢやよ。」

「目ツカチづれの約束なんて……」

「目ツカチ目ツカチと云つて貰ふまいぞ。」

「飛びくり目玉の、でんぐり目だ。野郎達は金がいくらあるといふんだ。」

「お前えは太吉の立派な目玉を知らないんだね。世の中は進んでゐるんぢやぞよ──ほんものと寸分違はぬ目玉は直ぐにも買へるんぢやい。太吉は立派な聟だあよ。目さへ這入れば、台の運送屋に務める手筈になつてゐるだよ。」

「立派な目とやらを見せて貰はうけえ。飛びくり目玉は……」

「あれは普段のぢやよ……」

 久良は煙りに咽んで、顔を覆うた。義眼にもいろいろな区別があることを、老父は決してうなづかなかつた。

てんまにや乗りたくねえもんだ。太吉の目玉が平べつたく凹んで、月給とりになつたら俺あ拝んでやら……」

「悪たれ吐くと、月給とつても金、払つてやらんぞ。」

「立派な口を利いたのを忘れんな、アマ!」

「太吉を見違へて、後悔せぬが好いよ。」

「ワツハツハ……」

 老父は扉を蹴つて立去つた。

 太吉は窓に突つ伏してゐた。俺は腕組の中に首垂れて、懐ろに息を吐いてゐた。不運となると、何も彼もいちどきに行詰るものだ! と、俺はこの頃の成行きに驚かされた。間もなく台の茶屋の亭主が、老父のよりも激しい悪たれ口を聞いて、久良を拉しに来るであらう。水車小屋の差押人が飛び込んで来るであらう。俺は、彼等に弁明の言葉を持ち合さぬのだ。太吉は、抗弁の舌に恵まれてゐるが、目玉をつけてゐないと彼は他愛もなく意気地を失つて口が利けなかつた。彼等は太吉の弱みを知つて、事毎に、飛びくり目玉! と罵つて、無下に彼を凹ませた。

 窓にもたれてゐた太吉は、またクシヤミの発作に駆られはじめてゐた。然し彼はもう、その反動に少しも逆らふことなしに、くしやんくしやんと、ハネツルベのやうに悠々と胴仲を折り曲げては、柿の葉がくるくると舞つてゐる窓の外へ上半身を乗り出してゐた。

「あんな喧嘩をしては帰るわけにもゆくまいね……」

 俺が久良の上を案ずると、太吉も久良も俺が町から戻るまでは、到底二人で夜を共にすることは適はぬと萎れるだけだつた。俺が、屋根裏の寝室へ引きあげようとすると、久良は弁当をつくり終るまで待つて呉れと慌てるのであつた。

 俺には、寧ろ太吉と久良の感情の状態が察知し難かつた。

 いつものやうに久良は俺に送られて、風の吹きまくる畦道へ出た。翌朝は、雨でも出発することを更に俺は久良に約して橋のたもとで見送つた。水の上を巻いて来る風の音に交つて、太吉のクシヤミの響きが未だ続いてゐた。小屋のラムプは消えてゐたが、窓の中で餅を搗くやうな激しいお辞儀を繰り返してゐた太吉の姿が、白けた夜気の中にうつツてゐた。


     四


 町で用達を済すと、もう夜だつたので郵便局へは廻れなかつた。どこに泊らうかしら? と俺は、停車場のベンチで目をつむつた。台の宿を廻らずに、俺は山径ばかりを一気に駆け抜けたので半分の道程で町に着き、幸ひ天気は麗らかだつた。──海辺に旅人宿をさがした。水筒には、久良が詰めた酒がそのまま口もつけずに重かつた。

 沖の潮鳴りが高かつた。濤声が激しく雨戸を打ち、やがて雨だつた。俺の眠りは、山村も海辺も容易かつた。

 郵便局から小箱を抱へて走り出ると、不図鍋川第八に出遇つた。台の茶屋の亭主なのだ。俺が顔を反向けようとすると、

「これから山へお帰りかね。恰度好いところだから伴れにならうぢやないか。」

 と、彼は珍らしく愛想が好かつた。

「酒代は幾ら溜つてゐたかね。今、半分だけ払つて……」

 太吉が、久良のいきさつで彼の店へ赴き、自暴的に飲んだ酒代が溜つて、かねがね第八は居催足だつた。

「お前さんの責任ぢやあるまいし、まあ、そんな心配は無用としておかうよ、今日のところだけは……」

「彼が払へなかつたのは僕の責任なのさ。君も御承知の通り暫く僕は彼に給料が渡せなかつたのだからね。」

「お久良が、わしの店に来ることになつたら遊びに来て呉れるかね。」

「久良はもう太吉と結婚してゐるんぢやないか、給料の代りにあの水車小屋を俺は二人に譲り渡して、間もなく東京へ戻るんだ。」

 北山駅で俺達は汽車を降りた。これから二里を赤松村までバスに運ばれて、残りの径は怒山ぬやまの小屋まで徒歩だつた。深い森があつた。谷川のふちへ添つて鋸の径を登るべきだつた。鋸山峠の見晴しは、遠い海原の上の島まで望まれた。俺は、あの峠の松の根元で独り悠々と休息することを楽んでゐたのだ。鋸山、唐松、鬼柳、音取、泥臼、狐岡、寄生木──山を登り降るにつけて、そんな滑稽とも怕ろしとも云ひ難い名前の村々を踏み越えて漸く怒山へ達するのだ。第八の館は、狐岡村の「台の宿」といふところだつた。

 俺は、そこまで第八と伴れ立たねばならぬのか? と考へると、鬱陶しかつた。

 第八は、久良が太吉などと何んな間柄があらうが無からうが頓着もなく、

「あの女は、うちのものだ。」

 と落着いてゐた。「ともかく、あの目玉にはお久良が竦毛を震つてゐるといふんだから、ものになる気づかひはないさ。」

「君は好い年をして、女に悪く甘いといふ噂だね。」

 俺は、第八の種々な不道徳を知つてゐたので非難のつもりでさう云ふと、彼は反つて嬉し気に、ヘツヘツ! とわらひ、

「お久良は仲々の別嬪ぢやないか。わしとの間柄もまんざらぢやないにさ。」

 などとヤニさがつた。それから彼は、また別に夫ある女の袖を引くことのおもしろさなどについて弁じたてたり、久良に恋慕してゐる旨を白状した。

 鋸山にさしかかると彼の脚どりは稍々ともすると後れ勝ちで、一町も先へ立つてしまふ俺を呼び返すのだ。

「ゆうべ少々飲み過ぎたせゐか、下肚がどうも息苦しくて適はん。」

 と彼は顔を顰めて、俺の水筒を傾けた。水かと思つたら、これや酒か! と彼は悦んで、漸く峠の松に達すると、どつかりとみこしを据ゑた。彼は、狐岡村の改名運動のために町へ赴いたことやら、前夜の遊蕩の素晴しかつたことやらを自慢した。

 俺は、聞くともなしに耳を傾けるのだつた。すると、どうやら俺の泊つた海辺の宿の隣り客が彼であつたらしい。うとうととすると、女の悲鳴やらで俺は時々眠りから醒されたが、そんな物音で別段に俺は安眠をさまたげられもしなかつた。第八のはなしは支離滅裂だつた。

 低気圧が沖のあたりを覆うてゐるのか、水平線のありかが見あたらず、島の姿も消えてゐた。陸は明るい陽射で、山々にあたつた光りが前夜の雨に洗はれた白い村や野辺に滑つてゐた。

「しかし、君、お久良が云ふにはだね──太吉は滅多に他人ひとの前では掛けぬといふ立派な目玉を所蔵してゐるといふが、それはほんたうかね? まつたく太吉の右の眼は偉く優しい色男の眼だ。あれが若しも二つそろつてゐたひには、お久良が惚れるのも当り前だが、嘘だらう、そんなに巧者な目玉なんて、いくら今時とは云ふもの何処へあつらへたつて出来る筈のものではないぜ。あの優しい目がそろつたら俺も兜を脱ぐが。どうもお久良は太吉の片目に瞞されてゐるとよりは思はれぬのだがね……?」

「…………」

 俺は、余ほど、太吉の上等の眼玉を今ここに持つてゐるんだぞ──とおどかしてやらうかと思つたが、第八の極まりもない陰険な性格を思ひ出して、素知らぬ風を装つた。うつかりそんなものを見せでもすれば、過失を装うて石の上にでも取り落す位ゐのことは第八にとつては朝飯前だ。太吉が、なるべくそれを普段に使用しなかつたのは、左様な意地悪る連の悪戯を怕れたからだ。太吉は、やがて水車小屋と運送屋で資金を拵へて、一日も速かに怒山の里を見棄てる決心だつた。他国へ赴いて、あの眼を用ひてゐる限りは誰もそれを義眼と疑ふ筈もないのだ。怒山の者共は、わけても片目の人を軽蔑するのが風習だつた。

「ねえ、そんなものはありはせんだらうがな?」

 第八は仲々執拗だつた。

「ツアイス製などには相当のものがあるさうだが、色を合せるのが厄介でね……」

 俺は空呆けるより他はなかつた。

「何だい、それは?」

 第八は、それでももう不安さうに膝を乗り出した。

「東京の医療具店へ当人が赴いて、研究すれば、それこそ肉眼と寸分違はぬものを容れることは出来るのさ。然し、俺は太吉の右の眼の色も形も十分知つてゐるから、近いうちに取り計らつてやらうと考へてゐるのさ。」

 もともと太吉のそれは俺の計らひで、何時壊れても代金さへ差支へなければ間違ひなく取り寄せられてゐたのだ。

 すると第八は鼻と眼の間に深い皺を寄せて、

「止せ止せ!」

 と、つまらなさうにはき出した。「余計な世話を焼くものぢやないさ。わしや、ほんたうに君の料簡が解らんのだよ。前々から云はうと思つてゐたんだがな……」

 こんな山の天辺だといふのに第八は、何かに気兼する風に俺の耳に、悪臭を含んだ口を寄せた。俺は、思はず鼻をつまんだ。──「太吉を君は一体何う思つてゐるのか知らないが、奴はあれだけ君の世話になつてゐるくせに、わしのうちなどに来て酒に喰ひ酔ふと、徹頭徹尾君の雑言だよ。云はうか、あいつは──と奴が君を指してだ、あいつはお久良を俺から横どりしたがつて、厭に俺達に親切がりやあがる──と、先づ斯うだ!」

 第八は一息入れて、凝つと虚空を睨んだ。彼の鼻はあかかつた。俺は、太吉を信じてゐるのだから、第八の突然の鬼のやうな真面目な表情が空々しかつた。俺は、脚下の野をまつしぐらに走つて来る汽車を見てゐた。

 何をいつまでも重々しく第八は力み込んでゐるのか、嘘を考へるのは六ヶしいに違ひなからう! と俺は思つて、それにしても仲々彼が言葉をつづけぬので、ちらりと容子を振り向いた。第八の表情は、怖ろしい仁王のおもむきで唇を噛んだままだつた。迎合したと思はれてはならぬと俺は、直ぐに視線を反らして燐寸をすつた。

 やがて俺は、異様にも第八の、

「うむ……、う……、こいつは何うも……」

 と、聞くも不思議な仰山な煩悶のうめき声を感じた。俺は、唾を吐いて見向かうともしなかつた。

「こいつは、いけないツ! しまつたことになつたわい……」

 第八のうめき声は絶頂に達して、見ると、切腹した者のやうにドウと前にのめつた。彼は下腹を我武者羅に抱へて、虎のやうに吠えはじめた。俺は、うしろに廻つて抱へ起さなければならなかつた。のめらうとする第八の重さは、俺の両腕の満身の力に逆つて強靭なバネであつた。

 癲癇なのかしら? と俺が呟くと、第八は激しくかぶりを振つた。意識は明瞭なのである。

「何うすれば好いんだらう?」

 俺は途方に暮れた。

 すると第八は唐松村へ降る櫟林の方を指さして、

「氷──氷をたのむ!」

 と頭をさげるのだ。多分、櫟林の下の沢田のふちへ降つたら、氷は発見されるだらうから、

「大いそぎで……」

 と喚いた。彼の急病は、睾丸炎の勃発だつた。病名が判然すると俺は安心したので、まさかそれほど無情の腹もなかつたが、

「俺は先を急ぐから失敬したいね。」

 とからかつてやつた。第八は、悲鳴をあげて芝の上を転がつた。幸ひと沢の日蔭の水溜りに薄氷が張り詰めてゐた。帽子が防水布なので、それに氷の破片を盛つて、引き戻ると、第八の発作は稍々収まつたものか、坐つたかたちで俺の袋の上に腹這つてゐた。然し激痛に襲はれる毎に彼は、こんにやくのやうに身悶えながら袋に獅噛みつくのであつた。

 帽子を更に手拭ひにくるんで、俺は彼に手渡した。彼は       氷嚢を患部に結びつけるのであつたが、俺はその間に唐松へ走つて山駕籠を伴れて来ようとした。

「唐松までは、一里もあるぢやないか。そんなに長い間を、俺ひとりが斯んなに苦しんで、斯んなところに独りで寝ては居られない。」

「もう、そつちを向いても好いかね?」

 ──三四時間手当をつづけて休息したら、どうにか動きはつくやうになるであらうから、それまで看病を頼むと第八は泣くのであつた。

 凡そ三十分間毎に、俺は氷嚢の端をつまんで沢へ降らなければならなかつた。

「唐松まで君の肩を借りて、今夜は唐松泊りとするんだね。」

 第八は辛うじて立ちあがると俺の杖と肩をたよりにして出発した。降り坂になると第八は苦痛に堪へず俺の登山袋の上にのしかかつた。小包は、しかし木製の箱だから安心だ! と俺は思つた。

 平坦な道になると第八は稍々苦痛から救はれて、そろそろと太吉の蔭口をききはじめた。そして、もう今宵あたりは久良は親父に引つぱられて狐岡に来てゐるだらう、さうと決まればあの女だつて茶屋の華やかさに汚れて、あんな目ツカチのことなどは即座に忘れるに相違ない、一層唐松で駕籠を雇つた上、一気に花の山を越さうか──などと好い気なことを呟いた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

初出:「新潮」新潮社

   1934(昭和9)年71日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:伊藤時也

2006年83日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。