ベツコウ蜂
牧野信一
|
ひとりのスパルタの旅人が述べてゐた。
「わたしの国では凡ての人が、若しも乱酔者を発見した場合には直ちに彼を捕縛して厳罰に処し、鉄窓のもとにつなぐべき権利を附与されてゐる。更に法律は、犯人に如何なる口実があらうとも裁判に問ふべき余地をも許さず、従令それがデイオニソス酒神の祝祭日であらうとも断じて彼を釈放せしめなかつた。」──と。
僕は、まことに極りもなく野卑であり、破廉恥なる屋根裏の乱酔者であつた。あれからもう既に六十日にちかい月日が経つて、蝉の声はすつかり止絶えて、わづかばかりの赤トンボと秋型の黄蝶がちらほらとしか飛んでゐない頃となつた。僕が、乱酔者たる自身を、自ら捕縛して、この人里離れたる森蔭の小屋に閉ぢ込めて以来、好くも長い孤独の日々に堪へて来たものとさへ思はるるのだ。僕は、まるで犯罪者のやうに兢々として、出遇ふものゝ眼である限りは蜂や蜻蛉のそれでさへも怕れ戦くほどの怯惰なる心を抱いて逃げて来た。僕は、捕虫網と毒瓶と魔酔薬と展翅板と解剖器と標本箱の類ひを槍や楯のやうに抱へ込み、そして一てうのギターを背中につけて逃げ伸びて来た。君にすらハガキも書かなかつた。どうしてしまつたことであらうと、おそらく君は苦い感に打たれてゐるだらうと推察する。
僕がこの田舎にたどり着いた時分は、恰も僕の目指す膜翅類の花々しい活躍期であつた。だが僕は自らすゝんで採集の野へ立ち向ふ程の気力も失せて、稍ともすれば森蔭や水ふちの隠花植物のはびこつた日蔭に蹲つて、果てしもない嘆きの身柄を持ち扱ふばかりであつた。梢を見あぐれば有吻類の鳴き声がかまびすしく蝶のヒカゲ、キマダラ、カラスの類ひがひらひらと踊りまはり、見霞すむ稲田の上に眼を放つと蜻蛉の群がさんさんたる陽りに翅を翻して游泳してゐるのだ。まことに僕は、これらの花々しい虫類の活躍を眺めるさへ、悲しい圧迫を強ひられて、稍ともすれば首垂れがちであつた。腕を曲げて、膝の上に眼を閉ぢるばかりであつた。そして、かすかに眼蓋を開くと、あしもとの小川の水は眼ばゆく照り映えて、空のやうに澄んだ水底には、水カマキリやヤゴが物憂気に逼ひまはり、目高が飛び交ひ、アメンボウが水の表面を長い脚で可笑しく歩いてゐるのだ。産卵の発作に駆られた蜻蛉が舞ひ降りて来て、水の上をほいほいと叩く姿が、影を映じて、恰も二個の虫体が、水の上下で囁きを交してゐるかのやうであつた。やはり僕は圧倒されるのだ。自分の考へや、生活の不自然さが罪多く呪はれて、忽ち胸のうちがもくもくと戦いて来るのだ。生きものゝ姿から暫しの間でも眼を転じたいものだ──とは、この節の僕の屡々なる吐息であるのだ。僕が捕虫網を振りまはす心底は、云ひ得べくば、吾と吾が虚無を撓望する無惨な妄想へのための暴挙に他ならぬのだ。
慌てゝ水際の草の中へ眼を転じ、怕るゝ胸をさすらうとすると、おゝ俺は観た──一個のベツコウバチと一体の脚長蜘蛛とが、今や孔雀歯朶の葉裏で、死もの狂ひの大格闘を演じつゝある惨状を! 蜘蛛は細毛の豊かな八本の脚を縦横無尽に伸び縮め、緋縅の鎧着たる阿修羅の蜂を抱へ込み、触鬚のかぶりを振つて、颯つとばかりに銀色の糸を放出すると、恰も、御用だ〳〵! と叫ぶ取り手の如くに、掛けたが最後がんぢがらめにせずんば止めぬ妄執をもつて挑みかゝつた。鎧の兵士は見るも鋭い槍の先をもつてこゝを先途と突きまくつてゐた。その槍の先は、ともすればねらひが脱れて、敵の逞ましい脚部の間を滑つて空を突いた。その間に繰り出さるゝ捕縄は無限に伸び来つて、あはや槍兵の身は翅もなく脚もなく徒らに空を突く憐れな槍の先の活動を残したまゝに身動きもならぬ最後に立ち至つたかの観であつた。
勇気は恐怖の中で培養さるべきだ。然して吾等は恐怖の情を涵養すべく屡々絶望の谷をのぞくべきである──俺はそんなことを呟いた。──それは左うと僕は、この大格闘の態は撮影すべきだ! と気付いて、ふところからカメラを取り出して、焦点を合せることのみに必死となつた。だが、もう息の根が止るかと見えるベツコウバチの力は容易に尽きる気合ひもなく、またもや翅に鞭を加へたかと見ると脚の自由を奮ひ返して、巨大な怪物の胸を滅茶苦茶に引つ掻いた。
可成り沈着な態度に据つてゐるつもりなのだが、僕の腕の先は滑稽な位ゐ激しく震へてゐて、断じてシヤツタアを切ることが適はなかつた。いつか僕の体はさかさまに水ふちにのめり、肘の先に触れる流れの冷たさを感じ、麦藁帽子が転落してふわふわと流れてゐたが、僕は草葉の蔭の大格闘にのみ全力を挙げてレンズを合せようと眼を据ゑ込んでゐるのだが──何故かまた眼が据はれば据るほど、度胸! とでも云はうか、それがさつぱり据らないで、写真器を構へる手の先はアル中の如くふるへるばかりなのである。──おゝ、その間に二個の格闘体は(確と観察は出来なかつたが、遂ひにベツコウバチの突き出した槍の先が、アシナガグモの団子のやうな腹部に命中したらしかつた。)歯朶の葉の上から真つさかさまに地上に転落した。
「アツ!」
と僕は思はず後悔の叫びを挙げた。ところが、ハチを胸のうちに深く抱き込んだクモの脚は急激な痛手で一挙に内に向つてかぢかんだために、敵を抱いたまゝ、丸く凝固して、悶絶したので、地に落ちるといつしよに脚場もなくころころと急斜面である歯朶類の「大森林」の中を転げて、あはやといふ予猶もなく、水の上を目がけてもんどりを打つたのである。
見たところは凡そ三メートル位ゐの川幅なので、ひと思ひに向ひ岸に飛び越えるかしらと、身構へたが、妙なもので、飛ばうとは思はずに眺める時には、難なく飛び越えさうに見えるのだが、さて本気になつて、いざ飛ばんかと身構へて見ると、決して素手では飛べる川幅ではないのだ。おそらく四メートルが正確であらうか。
その間にも、クモとハチは互ひに水中に陥入つたことを驚く態で、地上の時とは趣きの異つた掴み合ひを続けるうちに岸辺を離れると流れの中央に浮び出て行つた。そして、おひおひと反対の岸の方へ寄つて行くのであるが、僕は飛び越えることがかなはぬので、一層の焦慮に駆られて、カメラを向けるのであつた。
この状態が撮影出来れば、更に本望だ──と僕は夢中になつたが、直ぐの眼下に置いてもレンズを合せ損つた程の僕に、そんな離れ業が適ふわけがないのだ。専門家だつて無理であらう。それをまあ僕は余つ程夢中になつてゐた証拠には、「写せる了見」で、凝つとばかりに半身を乗り出してゐるのではないか。
夥しく緩漫な流れで、水量は豊かであるが、たゞ眺めると、何方へ向つて流れてゐる川なのか判別もつかぬのであるが、今、浮んだまゝの虫の姿を視入つてゐると、思ひの他にそれは悠々と、遥か彼方の堤の先の本流へ向つて流れてゐる──のろくもないのだ、流るゝ虫を追ふためには横歩きでは稍困難を感ずる程度の速やかさで眼のあたりに流れてゐるのである。
これも亦僕の一驚に価したことは、今更の如く事実であつた。──で僕は、不図、たつた今さつき落した帽子はどの辺に行つてゐるかしら? とおもつたので、川下へ眼を放つて見たが、まつたく影もかたちも発見出来なかつた。
初秋の真盛りの陽りが碧い空と、熟れる田畑の上に縞をつくつてゐた。僕は森の中でばかり空を見あげることに慣れてゐるためか、酷く眼ぶしく、またテレ臭かつた。堤の向方の空には巨大な積乱雲が現れ、耳を澄すと大きな急流の轟々たる音が聞えた。帽子はとうに急流に乗つて、海へ達してゐた頃だつたらう。
何をぼんやりしてゐるのだ! と僕は声を発して、思はず坊主頭を擲つた。その頭といふのは、この間、例の如く森の中で憂鬱な哲学に耽つて寝てゐると、不意と梢から何か落ちて来て、僕の額にあたつたのだ。触れて見ると、夥しい悪臭を放つ鳥の糞なのだ。選りにも選つて、斯んな遇然もあるものなんだね。伽噺の阿呆者も、つくりごとではないぞ。僕は鳥の糞を見て、鳥を云ひあてる知識がなかつたから、誰かに訊ねて見ようとしたのだが、
「これは鴉の糞だ。」
と答へられたらと思ひ返すと、突拍子もなくゾツとして、慌てゝ川の中へ頭を突つ込んだ。そして僕は知らん顔をして、理髪所の扉をくゞつた。
理髪所の主は、飲酒家である僕の当来を期待してゐた飲酒家であつたが、予期に脱れてこんな僕が現れたので、常々から不平であり、多少の悪声を放つてゐるらしかつた。僕が酒を飲まないために悪声を放たれたなんていふことは最初の経験である。
──「一分刈りにして呉れ。」
と僕は、凸凹に映る鏡の前に腰を降しながら云つた。
その時の主と僕との会話の一節──
「いや、まはりだけではないんだよ、坊主にするんだ。」
「惜しいぢやねえか──」
「俺の勝手だ。」
「のぼせるのかね?」
「…………」
「勉強ばかりしてゐるんだつてね。稀には気晴しをやつたら、清々して、坊主になるよりは……」
「俺、口を利くのが退儀なんだ。」
「まるで人が違つてしまふね。飲んだら最後あの弁舌達者が──」
「酔つても、もう決して喋舌らんぞ。」
「それは、また何うして……?」
「無なのだ──。無であるのに、喋舌つたなどゝは、夢のやうだ。」
極悪な鏡なので、口をあくと般若のやうになつたり、返事の代りに首を動かすと、眼が裂けたり、鼻が天狗になつたりした。
「ふゝん、夢のやうかね。たゞでさへ人が変つたやうなのに、頭まで異つてしまつたら、皆なが見違へるだらう。後悔はないかね。」
その時蓬髪を刈つて、坊主となつた頭なのだ。つい余談に走つたが、やはり訳を附け足さぬと変だらうと気づいて誌したのであるが、全くこの頃は誰もが僕を見違へて、或る酒屋の親爺などは、代金のさいそくに来て、
「留守かね?」
と僕のことを、眼の前に居るのも知らずに僕に訊いたよ。僕は、その時吾ながら奇異の感に打たれた。決して、その時酒屋の主を怕れて、これはうまいぞなどゝは思ひもしなかつた。少し位ゐは左ういふ心持も湧いたであらうが? と後になつては疑念さへ抱き度い位ゐであるのだが、その時こそは単に、現実といふものゝ荒唐無稽感に誘はれるばかりで、絶対に苦笑ひさへも覚えなかつた。合憎くと暗いランプの下で、背中を丸めて展翅板の蝶々を脱してゐたところだつた。
「貸しは貸しで心配するには当らないから、元気をつけて酒をとつて貰はう──と……」
酒屋は、「僕」に左う伝へて呉れと、僕に云ひ残して、
「案外律気なんだな!」
あつはッは! と嗤つて立ち去つた。
鴉の糞をきつかけにして、坊主頭にはなつたんだが、勿体振つた云ひ回しをゆるして貰ふならば、乱酔時代からの兼ねての夢であつた別人にもと成りたいものよの切なる希ひからの迷信だつたのだ。一ト月も二タ月も顔には剃刀もあてず頭は蓬々として鳥の巣のやうであつたとは云へ、まさか対人的に別人の観が適用するなんてことは夢にも考へたわけではなかつた。
さて、うつかりと雲を眺め遥かの急流の音に耳を傾けてゐるうちに、気づいて見ると肝心のクモとハチは、僕の眼の下から、歳月のやうに速かに流れ去つて姿も見えぬのだ。緩い流れだと見て、傍見をしてゐたが、何んなにゆるゆると見えてゐても絶えず流れてゐるものはこんなにも速やかなのか! と僕は、大層に慌てふためいて、つまりその、それだけのいわれから坊主となり、帽子を飛ばしてカンカンと秋の陽にたゝかれてゐる青い頭を擲つたといふわけだ。
僕は流れのふちを異様な大股で降りはじめた。慌て過ぎて駆け出したりなどしたら、見失ふ怕れが多いからさ。横に逼ふ虎のやうな、物凄い格構だつたに相違ない。アタッチメントを掛けつ放しの写真器で、移動してゆく被写体にシヤッタアを切らうとしてゐるんだから、余つ程何うかしてゐたに違ひない。僕はそれまで標本に作成したものばかりの、静物撮影にのみ慣れてゐたのだ。
それでも間もなく僕は、虫に追ひつくことが出来た。彼等は最早、溺れかゝつたのか、それとも重傷に参つたものか、相抱いたまゝ自然の流れに身を任せてゐた。僕は、葦の水際に腹逼つて、ねらひを定めてると素早くレンズに収めた。それらの流れに歩調を合せて、逼つたまゝ尚も降つて、三枚目の撮影を終つて、漸く吻つとして立ちあがつた。既に小川の流れは堤に近くなつて、肉眼に映る程度の速力を現はし、流るゝ毎に微かな波をうかべてゐた。
一刻の後には、最早ハチとクモとは格闘の勝敗もなく瀬の如き急流に落ちて、水煙りと化すであらう。僕は、誌すと酷く大袈裟な感だが、
「おゝ、国滅ビテ山河在リ矣──」
そんなことを唸つた。
堤の下で、流れは殆んど川幅一杯の渦巻を描いてゐるのだ。せめてあの渦巻に陥入るまでの彼等を見送らうとおもつて、漸く彼等をのせた流れが僕の小走りの速さとなつてゐるまゝに追ふてゐた。──で、もう凡そ渦巻の一間あまりの近くとなり、水面に円やかな波が感ぜられて、駆け足となつた時、僕の視線の先端で固くなつてゐたクモが、死んだとばかりおもつてゐたところが、にはかに脚をもぐもぐと動かしたかと見ると同時に、突然その胸の中から、一本の朱色の光りが斜めにほとばしり出たか──いゝえ、やをらとベツコウバチが翅を翻して飛び立つたのである。あのハチの飛ぶ態は、きらきらと黄金色に輝く陽りの中で、飛ぶ星の如く、まつ赤な一直線を描いてゆくのだ。あはやの間もなく彼の姿は遠い稲田の彼方へ消えた。──クモは? と見降すと、失敗した角力取りのやうにのそのそ、と平気で水の上を歩いて、向ふ岸へあがつてゐた。
僕は、大きな渦巻を眺めてゐた。止め度もなき華麗な光りがさんさんと降り灑いで、それは巨大な向日葵の花環のやうであつた。
さつき飛した僕の帽子が、未だ其処で、こくりこくりと渦巻の上をさ迷つてゐた。
僕は、一目散に水車小屋へ駆け戻つた。
あの撮影は失敗だつた。何れにもハチとクモの姿は這入つてはゐないのだ。三枚とも、一様に、水が写つてゐるばかりだつた。
でも僕は、その白紙同然の三枚の陽画の裏に、月日と時間と天候のことを誌した。それでもその三枚を仔細に見わけると、明暗の微かな相違が認められ、全々の白紙と、積乱雲の影らしいものと、また一尾のアメンボウの姿らしいものが発見出来るので、夫々に、水や倒さまの雲やアメンボウを写すのが目的ではなかつたといふ言葉を附けたして、採集日誌のスクラツプにはさんだ。ベッコウバチの標本写真は五枚も撮つた。
「これに刺されると、くまんばちよりも酷い。」
と隣家の田市が云つた。やはりあの時ハチの針はアシナガクモの腹へは命中しなかつたのだらう。
田市の倅の倉市(十三歳)が悲鳴を挙げて駈け込んで来た。僕は火の気のない炉端に、肘枕で夢を見てゐたところだつた。寒い原つぱをひとりで歩いてゐる夢だつた。せめて大事にするものは、昆虫と夢より他はなかつたので、いつも丁寧に夢のことを日記に誌してゐた。この夢も、また醒めたら忘れぬうちに誌しておくのだから──と僕はその時夢の中で呟いでゐたが、倉市のたゞならぬ悲鳴に驚いて──それは可成り長いはつきりとした夢だつたのだが、寒い原つぱと、そしてその呟き以外は忘れた。
あかい蜂に刺された、それだ! と倉市は、僕の頭上の壁に懸つた標本箱に、ベッコウバチを指さした。
どこだ〳〵? 早く見せろ──と僕は、消毒薬やらアムモニアをとり出して、腕まくりをしたが、倉市はにはかにはにかんだ。
臀部を刺されてゐたのだ。
手あてを終へて僕が小道具を片づけようとすると、倉市は足の裏をおさへて唇を噛んでゐた。痛々し気な踏み抜きだつた。五分あまりの黒い竹の先が、つちふまずを斜めに貫いて臀部よりもこの方が重傷だつた。
「これは医者へ行かなければならない。」
僕の解剖刀は新しく、ピンセツトや柄つき針の類ひも消毒液に浸して完備してゐたが、手術後の洗滌と消毒を怕れて、僕は言下に左う呟くと、
「さあ、俺におぶされ!」
と背中を向けた。すると倉市は、脚を抱へたまゝ転がつて──医者に行くのは厭だ、是非とも僕の手で切開して欲しいといふ意味の悲鳴をあげて肯んぜぬのだ。
「医者に行つた方が痛くはないんだよ。下手をやつて、あとからバイキンが這入つたら大変なんだから……」
然し僕が、何んなに慰めに努めても彼はすゝめに従はうとしないので、僕は悲しくなり、斯うしてゐる間にも毒が滲み込まぬとも限らぬのだ、一刻の猶予も危険だ! と怒鳴つて、有無なく僕の背中に縛りつけた。
そして、十三ではあるが、十一貫もの目方があり、僕も近頃またぐつと痩せて十一貫代にさがつてゐるので、ふらふらとして杖がなければ歩けなかつた。僕は、捕虫綱の柄を杖にして、よたよたと倉市をおぶひ出した。
「気の毒だな、小父さん──俺、困るな。」
「ぐづ〳〵云ふな。喋舌ると重味が倍になる見たいだぞ。」
夕暮間ぢかくの畦道を、僕は牛のやうな鼻息で橋近くの医家へと目指した。漸く医院の軒灯がひとつ、コスモスの生垣の向方に赤く見えたかと思ふと、何故か倉市は、此処まで来ればもうひとりで大丈夫だから降して呉れ、そして小父さんは此処で待つてゐて呉れ──と云ひ出して諾かなかつた。
そして僕の手から杖をとつて、彼は一本脚で跳ねて行つた。僕は、その後ろ姿を見ると可憐に堪へられず、
「伴いて来てはいけないよ、小父さん!」
と倉市が振り向いて杖を振る度にうむと応へて暗がりにしやがむのだが、到底凝つとしては居られなかつた。──みちみち訊いたところに依ると、倉市は先程父親が内職にしてゐる泥鰌のもぢりを森の向方の川へあげに行つたところが、喧嘩をしたまゝ流れて来たハチとクモが彼の臀部に衝突して、蜂の槍に刺されたといふのであつた。そして、慌てゝ蛇籠の上に飛びあがる拍子にあしのうらを傷けたとのことであつた。
「トゲをとほしたんぢやい、診て呉れ。」
医者の玄関先で、倉市が──六度、七度、八度……と僕はかぞへた──同じことを叫んでゐるのに、一向応へがせぬのだ。──僕は、倉市に遠慮して、コスモスの垣の間からそつと様子を窺つてゐた。
「診て呉れ、痛いんぢや……」
はぢめて襖の奥から声だけがあつたらしく倉市は、(おゝ、さつきはあんなに苦しがつて悲鳴をあげてゐたのに、すつかり涙を拭いて男らしい声だ、偉いぞ! と僕は呟いだ。)肩をそびやかせて、
「新田の田市の惣領ぢやよ──」
と名乗つた。
もう、とつぷりと日が暮れてゐた。軒灯の色が赤であるからではない、憤つとした顔つきで襖の間から胡坐のまゝ顔を突き出した五十格構の金眼鏡の男の、つるりとしたやうな顔は酒気であかゝつた。
「煩せえな。われあ、銭もつてんのか?」
とほき出した。
「いくらでえ?」
倉市は価を訊き返した。
「どんなトゲだ?」
「蛇籠のさゝくれだあ……」
男は無精者らしく、妻楊子などをくわへながら立ちあがつて来て、倉市が示した脚を丸太のやうにつまみあげると、
「八十銭もつて来う。」
と云つた。
「もぢりをあげに行つたところで、やられたんぢや。おつちやんが、それをもつて本宿へ行つてゐるから、帰りにや銭もつて来る。」
「われのちやん公の帰りなんて、何であてになるもんけえ。喰ひ酔つて、鼻唄ヅウもつて帰るづら……」
「診て呉んねえのか?」
「貧棒人のくせに、足のトゲ位ゐ、うぬで引つこぬけ……」
──僕は夢中でコスモスの垣根を飛び越えた。僕は、玄関先へ、全く夢中でおどり込むと倉市を抱きあげて、
「倉市、御免よ──。斯んな医者より俺の道具の方が安心だ。」
そして、おびんずるのやうな医者の顔に眼眦を裂いて、
「馬鹿野郎──」
とあらん限りの声で叫んだ。すると彼は、急に微笑を湛へて、何か弁解の辞を述べはじめたが、もう僕の耳はぐわん〳〵と鳴つてゐるばかりで何も聞えず、往きがけと違つて十一貫の倉市をまるで軽々と担ぎあげて、宵月夜の畦道をどんどんと駆けてゐた。
わあん〳〵〳〵!
倉市は僕の腕の中で、クマゼミのやうに激しく泣き出した。──わあん〳〵〳〵! ……と僕も倉市と同じやうに泣き喚いてゐた。それから、僕が不図、あの医者は一体いくつなのか? と、訊ねると、
「齢か?」と倉市が云つた。
「うむ、齢だ──」
「三十一だとよ。」
と倉市と僕は、白けた顔を見合せたが、会話が終ると同時に、二人は前よりも一層激しく泣き出した。
倉市の傷の手当を済せて、僕は書斎の寝台に彼をやすませて、囲炉裡端で腕組をしてゐると、
「銭はあるぞや、銭は小父さんが持つてゐるぞや!」と倉市が叫んだ。──のぞいて見ると彼は、すや〳〵眠つてゐた。僕は、もう飲まずには眠れぬ──と呟いで、ふところのうこんの銭袋を探つた時、さつき、赧つ面の、のつぺらぼうの玄関先で、銀貨や銅貨が莫迦に手応へおもしろく飛び散つてゐたことに気づいた。
いつか君に、僕の部屋の本を売り払つて金をおくつて呉れと申し込んだのは、その翌日だつた。その金が着く日まで、一本足の倉市がぴよん〳〵と飛んで、自家から握り飯を運んで養つて呉れた。僕は、学生時代に外科医であつた叔父の医局に寄宿してゐたことがあるので、あの程度の傷の手当なら自信もあり、倉市の負傷は一週間で全快した。
虫がゐなくなると、小父さんは東京へ帰つてしまふのか? ──倉市はそんなことばかりを気にしてゐたが、いつしかあたりにはヒカゲ蝶の姿ひとつも見えなくなり、捕虫綱は穴だらけになつて納屋の中へ棄てられた。今となつても、僕は未だ「スパルタの法律」から嘗ての乱酔者たる己れの罪を放免せずに、ひたすら水車の音に耳を傾けてゐる次第なのだ。
今日も僕は、倉市と伴れだつてあの川のほとりを散歩した。
「俺がベッコウにやられたのは、この辺だつたよ。」
「あのハチとあのクモとの戦ひは、珍らしいものではないんだな。」
「これからは、うちのおつちやんは田螺を探すんだよ。」
「田螺も売れるのかね?」
「手間には引き合はねえさうだが。──」
虫がゐなくなつてからの僕の生活は、荒涼たるものである。僕は、孤独の怕ろしさを味はひ尽してゐるのだ。触るゝものゝ眼である限りは蜻蛉のそれであつても怕れ戦くのだ──などゝ云つてゐたが、孤影が生むところの尽きざるものゝ眼は、どちらを向いてもしんしんとこの身に迫つて来て、鉾を構へる術もないのだ。
ワグネル「小生も屡々妄想に耽つた験しもありますが、未だそれに依つて刺戟を享けたことはありません。称揚すべき自然の態も林や野原を見つめて居りますと忽ち倦怠を覚ゆるのが常です。などて小鳥の翼を嫉みませうや。書斎に籠つて一巻から次巻へ一頁から次頁へと心を移す時にこそ実にも名状すべからざる愉悦を覚え、あらゆる天の祝福が天降つて来るかの恵みに打たるゝのであります。」
フアウスト「おゝ余輩の胸には常に反撥する二つの魂が潜んでゐる。即ち一方なる肉慾的慾望は不手際なる蔓を以てこの世に執着し、他は雲煙模糊たる霞をとほして遥かなる清浄の空へ翼を伸さんものと悶掻いてゐるのだ。おゝ天地の間を往来する精霊こそゐますならば金色の雲間から翼を垂れて余輩の上に新しい世界の光りを与へて呉れ、おゝ、新しい世界へ導く一領の神通衣こそを……」
ワグネル「師よ、悪魔の群を呼び給ふな。奴等は北方の空からは矢鏃の如き舌を以つて襲ひ、乾からびた風となつて東の方からは師の肺腑に迫り、南方の荒涼たる砂漠からは火炎を吐きかけ、西の方からは僅かの間だけは爽々し気な風をおくるも、忽ち翻つては森も牧場も人間までも溺らせずに止まぬ雲霓と化して挑みかゝるのです。彼等は神から遣はされたかの装ひをもつて、天使の如き口吻を用ゆるのみであります。帰りませう。既に夕闇が迫りました。吾々が家の真価を悟り得るのはこの夕刻ばかりであります。何をそんなに瞶めて居らるゝのですか。何者が此の薄暗い中で先生の注意を惹いて居るのでありますか。」
………………
倉市「小父さん、もう帰らうよ。何を考へてゐるんだい。酒が飲みたいのか?」
……フアウスト「君にはあの作物や切株などの間を徘徊する黒犬が見えませんか。」
ワグネル「見えて居りますが……」
フアウスト「君はあの動物を何だと思ふ?」
ワグネル「たゞの尨犬ではありませんか。」
フアウスト「君はあの犬が大きな螺線状の輪を描いて吾々に近づいて来るのに気がつかぬか、若し僕の見誤りでなければ、彼奴は一条の火の尾を引いてゐるが……」
………………
倉市「橋場のお医者が街から帰つて来るんだよ。一処に伴いて来るのは、彼奴のお妾なんだつて。いつか俺は、あの女とお医者の女房がこの川ふちで大喧嘩をしたところを見たよ。」
僕「何うしても俺には、あの男が三十一歳とは思へぬな──不思議だ。」
倉市「田螺とりを、ほんたうに小父さんは手伝つて呉れるつもりなのか?」
僕「疑ふなよ、君──虫がゐなくなつてからといふものは、俺は何を為る気力もなくなつて……」
倉市「お医者は未だ俺達に気づかぬやうだね。こんな狭い道ですれ違ふのは、厭になつてしまふな。」
倉市は僕の腕につかまつて、引き返さうと促すのであつた。
恋は暗闇で楽しむものか、だが明るみで見せてやりたい、この想ひ──そんな風な意味の七五調の唄を口吟みながら、医者の姿が次第に僕等の前に近づいて来た。そして彼は、不図吾々の姿に気づくと、何のつもりか突然ゲラ〳〵と嗤つて、酷く酒臭い呼吸を濛々と僕の胸先へ吐きかけた。そして、
「いよう、これは〳〵──水車小屋の大将と新田の若様か。若様の御足は如何か──おトゲはいくらでも抜いて差しあげませうよ、母ぢやが黄疸のみぎりの薬代は確かに先夜受取つたほどに、若様の蛇籠のトゲでも枳殻の針でも何本たりとも抜いて進ぜませうほどに……ハツハツハ! 商買妙利、大明神か!」
そんなふざけたことをぬかして、傍らの妾の手を引いて行き過ぎようとした。
その瞬間、誰の声であるか判別もつかなかつたが、「アツ!」とか「キヤツ!」とか、見境へもつかぬいくつかの叫びが入り交つたかとおもふと同時に、脚もとの流れの上に巨大な鯉が跳ねたかと見えるが如き水煙があがつて、おびんずるがあをむけざまにもんどりを打つてゐた。
「こん畜生奴!」
と、妾が般若と化して僕の胸に飛びついて来た。白粉の香りが、僕の鼻を甘く衝いた。──人間が相手だ! と僕は気づいた。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「文藝年鑑1934版」文藝協会編、改造社
1934(昭和9)年6月20日発行
初出:「行動 第一巻第三号」紀伊国屋出版部
1933(昭和8)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。