パンアテナイア祭の夢
牧野信一
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野菜を積んだ馬車を駆つて、朝毎に遠い町の市場へ通ふのが若者の仕事だつた。
村を出はづれると、白い川の堤に沿つて隣りの村に入り、手おし車ならばそのまゝ堤づたひに真ツすぐに、また次の村に入れるのだが、そのあたりから道が急に狭くなつてゐるので、馬車だと迂回して、鎮守の森の裏手から、村宿を通り抜け、鍛冶屋と水車小屋に、朝の挨拶をかけて、橋を渡るのであつた。
「お前の槌の音が聞えると、タイキ(馬)は、きつと脚を速くするぜ。」
「その脚音は此方にもちやんと聞えるわよ。斯んな勤勉家のお前と私とが、万一夫婦になつたら村一番の金持になるだらうね。」
鍛冶屋の娘と若者は斯んな話を、大声でとり交したことがあつた。
娘のあんな戯談を若者は、どうかして思ひ出すと屹度悲しくなつた。何故だか若者には好く解りもしなかつたし、また、深く考へて見もしなかつたが──。そして若者は、この頃では、鍛冶屋の前を通る時には、
「お早やう!」
と叫んで、振り向きもせずに駈け抜けるやうにしてゐた。
と、屹度、娘も、槌を止めて、何か云つた。──「ヒツプ! ヒツプ!」と、口笛のやうな声をおくることもあつた。
「靴を買つて来てお呉れ! そら、お金よ。」などゝ、駈け寄つて来て、若者の胸先きに財布を投げつけることもあつた。
「オーライ!」
と、云へることゝ、云へぬことゝがあつた、若者は──。だが、娘からの頼みを忘れたことはない。
三つの村を通り、二つの橋を渡つた後に漸く若者の馬車は市場のある町に着くのであつた。
……夏だと、白い川の堤に差しかゝつた時分に夜が明けるのがならひだつた。屹度、そこで白々と空が明るくなるのが常だつた。そして若者の胸に、娘の映像がはつきりと現れ出すのが例だつた。──白い川の堤を、ゆた〳〵と進みながら、娘の白い幻をあざやかに空に描くのが、若者の秘やかな悦びだつた。
曙の薄明りの中で若者は、娘を堅く抱き締めた。
明方の白い川である。若者は、寝屋の夢でも屡々この堤を見た。御者台に娘と肩を組んで並びながら堤を進んで行く白い夢を、若者は屡々見た。
いつの頃からか若者は、その川のことを「白い川」と独りぎめに称んでゐた。或日、市場からの帰りに、旅人に村へ行く近道を尋ねられると若者は思はず、
「あの白い川の堤に添つて──」などゝ教へて、不図苦笑を覚えたことなどもある。明方の印象だけが深いので若者には何時もそれは白い川だつたが、その時は快晴の真昼時で水はあたりの新緑を深く映して、一面に青く光つてゐたから──。
この頃若者は、白い川のあたりから、町に入るまでの間、御者台に首垂れて本を読み続けることにした。タイキは道に好く慣れてゐたし、出遇ふ者のある筈もなかつたから別段手綱を執る要もないのである。馬は間違ひなく、それで、町へ着くのである。若し若者が全くまどろんでゐたとしても──。
……「俺は昨夜不思議な夢を見たよ。お前が今俺におくつて呉れる次々の輝かしい言葉に答へる俺の悦びの返事を、俺はすつかり昨夜の夢でそらんじた。だから、万一俺が今お前に答へる言葉が、お前にとつて不満であつたにしても、どうか悪く思はないでお呉れよ、ロータス!」
「お前が若し、妾の言葉に対して一切の沈黙を守つてゐようとも、妾の心はあらゆる輝かしさに満ち溢れてゐるから、この上もう、何んな言葉も要らない。勇ましい姿のアハヴよ。橄欖の冠は必ず汝の頭上に落ちるだらう、ゼウスにかけて妾は疑はぬ。」
若者は、白い川のほとりを進みながら、こんな言葉を声をあげて朗読した。遠い昔、ギリシヤのこと、パンアテナイア祭の戦車競技に出陣する勇士とその恋人の物語である。
若者は、一行読んでは書物を胸に抱き、空を仰いで恍惚とした。白い川のせゝらぎの音が、群集のざわめきでゞもあるかのやうに颯爽と若者の耳に伝はつた。
若者の脳裡では、アハヴが自分となり、ロータスが鍛冶屋の娘に変つたりした。
「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天をさして高唱した──ロータスよ、別れだ!
ロータスは恋人の剣をとつて、薔薇の枝を剪つた! そして、誉れに輝く勇士の鎖かたびらの胸に真紅の薔薇をさして、云つた。──発ち給へ、道々にこの花片を撒きたまへ、妾はそれを一つづゝ拾うてお前の戦勝を祈らなければならない! 夢にも後を振りむくことなしに、この瑠璃色の朝陽を衝いて、さあ、一散に発ちたまへ……」
若者は、震へ声で朗読した。若者は、思はず御者台に立ちあがつて、空に向つて拳を振つた。
「一散に──行け、行け、行け!」
若者は、パンアテナイア祭の戦車競技に選ばれた幸福な、そして悲愴なアハヴの心を心としてしまつた。──ほのぼのと明け放れた朝霧の中で、若者のタイキは花々しい嘶きを挙げて快走した。
そのまゝ鍛冶屋の前を駈け抜けてしまふ決心だつたから、
「寄つてつて頂戴!」
娘がタイキの轡をとつた。ロータスを、いつか若者はこの娘に扮装させて、幸福な騎士にしてゐた自分から、不意に醒めてドギマギしてしまつた。若者は、真赤になつて、
「早起きだね!」
と、無愛想に云つた。
「早起きだつて? あたしが──。毎朝々々お前の車が通る時に起きてゐるのは吾家と、水車屋さんの二軒にきまつてゐるのを知つてゐるくせに……。何を空とぼけたことを云つてゐるのさ。」
「いや、それは間違へたか!」
若者はソフト帽の前をおろしながら云つた。
「でもね、今朝は少々お願ひがあるのよ。ミヤツ村が今日からお祭りで、招ばれてゐるのよ。途中まで乗せてつて貰はうと思つて待つてゐたの──」
「待つてゐる間に、まあ一杯! こいつを一つ仕上て置かないと義理の悪いことがあるんで──」
娘の父親はジヨツキの酒を若者にすゝめた。娘と父親は槌をとつて馬蹄を打つた。朝から晩まで槌を打つ仕事に励んでゐる父と娘だつたが、若者は彼等の仕事を足をとめて眺めたのは今朝がはじめてだつた。
カーキ色のシヤツの袖をまくしあげて、唇をしつかりと引き結んだ娘は、早朝から一杯機嫌の父親が、槌に合せて、飄逸な掛声で音頭をとつても、眉一つ動かすことなしに、夢中で重い合槌を打ち続けた。娘の額からは玉の汗が流れた。
「手伝はうか?」
と若者は云つた。
「素人には──」
娘は耳もかさなかつた。
娘の槌が降りる毎に綺麗な火花が飛び散るのを若者は、胸が一杯になるやうな想ひで眺めた。
娘が他所行の着物に着換へて、赤い帯を締めて仕事場に現れて来た時には若者は、ジヨツキの酒を皆な空にしてゐた。若者は、酒を口にしたことは殆ど験しがなかつたが、綺麗な仕事を眺めてゐるうちに奇態な有頂天を覚えて、うか〳〵と飲み尽してしまつたのに気づいて吾ながら吃驚りした。
「ぢや出掛けようか──」
若者はさう呟いて立ちあがつて見ると、頭が風船のやうに軽くフワ〳〵として、何だか酷く愉快な気がした。
「ちよいと待つて──。これから、此処で御飯を食べるのよ。」
娘は仕事場の火床に鍋をかけた。
「その間、お父さんと一緒にもう少しお酒を飲みながら待つて頂戴!」
三人は火床を取り巻いて腰をかけた。
「今日は市場の帰りにミヤツに寄らねえかね。あつしもお午時分には行つてるから。──この娘が踊り舞台に出るのを見てやつて呉れないかな──」
「黙つてゐようと思つたのに──」
と娘は、箸で父親を打つ真似をした。「黙つてゐて、見せようと思つてゐたんだつてえのに、おしやべりなお父さんだな!」
若者は得体の知れない嫉妬を覚えた。
「それは是非今日は、帰りに寄せて貰はう──それは黙つてゐられゝば勿論解る筈はないだらうな。」
「真ツ黒なのが、真ツ白になるんだからな──」などゝ父親が、からかつたりしたが娘は、知らん顔をして頻りに飯を喰つた。
「お漬物が足りなくなつてしまつたけれど出して来るのが面倒だな!」
「生でも好いかへ?」
若者は、外の馬車を指さして娘に云つた。
「生で好かつたら何でもあるぜ──」
「キヤベツをむしつて、ソースをかけて喰べようか──」
「キヤベツなら素晴らしいのがある!」
若者は車に駈け寄つた。
「そうら斯んなのが!」
「それ、一ついくらなの?」
「戯談ぢやない!」
「いゝえ──。キヤベツのお土産ぢや具合が悪いかしら?」
「いや〳〵──」
と若者は慌てゝ手を振つた。「お土産なら果物がいろ〳〵ある。あげるよ〳〵!」
「ぢや、何でも沢山頂戴──。あとで車に乗つてからで好いわ。」
若者は無暗に嬉しかつた。
「ね、そのかはり、今度、タイキの馬蹄をあたしがつくつてやるわ。」
「そいつは好いな!」
と若者は頓狂な声で叫んだ。
──若者は、自分も鍛冶屋になることを空想した。自分が、あの父親の場所に坐つて娘を相手に仕事をする場面などを空想した。さうかと思ふと、毎朝々々御者台に娘と並んで市場へ通ふ光景を想つたりした。だが、娘が居なくなるとあの父親はたつたひとりぽつちになつてしまふのだ、そしたらどんなに寂しいことだらう、鍛冶屋も止めてしまはなければなるまい、これはどうしても自分が鍛冶屋になるより他に道がないといふものか……。
何を馬鹿な! と若者は不図胸のうちで呟いた。「馬鹿なことを思つてゐる! 酒に酔ふと斯んなものかしら……」
若者は妄想を退けようとしたが、それからそれへ花やかな雲のやうな繰言がむく〳〵とわきあがつて来て、おさへきれさうもなかつた。そして、凝つと腕組をして息を殺して見ると、小屋全体が徐ろに揺れて、宙に浮びあがつて行く通りに思はれた。──どんなに揺れても、火のまはりで談笑してゐる三人が、ありのまゝの姿でくつろいでゐるのが、馬鹿に奇妙だつた。
若者は、気が遠くなりさうだつた。──どうして好いのか? 何をどうして好いのか? ……斯う心持が、にぎやかで、面白く、そして、胸が激しく鳴るのは、面白さからでもないやうな──悲し気な心地がしたり何かして、このまゝ凝つとし続けたら昏倒でもしてしまひさうな不安に襲はれたりした。
「お前さんは強い。これだけ飲んでもビクともしないのは、さすがに若い者だな──ミヤツでひとつ今晩は大振舞ひをやらうぢやないかね。」
「……強いのだか──」
弱いのだか? 自分には解らない──と若者は云はうとしたが、弱い! と云ふのも何だか具合が悪いやうな、また、強い! などゝ云ふのも自慢見たいな! それから、酒飲みのやうに思はれたりするのも口惜しい見たいな! ……いろ〳〵と若者は、止め度もない気おくれがしたりして、焦れたかつた。
若者は、激しく頭を振つた。──白い川が現れた。娘と自分が御者台に並んで堤を進んでゐた。……ミルク色の朝霧の中で若者は娘にキスした、──五体が忽ち底なしの硝子管見たいなものゝ中を急転直下して行くかのやうな怖ろしく甘い寒さに縮みあがつた。
「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天を指して高唱した。──ロータスよ、別れだ!」
「え? 何うしたの──」
と娘が眼を視張つた。口のうちで呟いたつもりだつたが、口に出たのか? と若者は気づいたが、アハヴとロータスの別離の場面がまざまざと眼の先に展開しはじめて、若者はたゞ呆然としてゐた。
「あゝ、さう、読んでゐる本なの? 面白い? 途中で話して!」
娘はバスケツトをさげて立ちあがつた。
「ぢや、頼みますわ。」
二人が御者台に並ぶと父親はタイキの轡を離した。
いつか日は高くあがつて、飽くまでも明るく真ツ直ぐな街道が水々しく光つてゐた。遥かの行手にある橋は云ふまでもなく、その先の小山の麓の村から立ちのぼる細い煙までが、莨の煙りのやうに青い空に消えてゆくのが手にとるやうに見渡された。見透す限りに一直線の街道で、その対角線の中心を目差して進んで行くと、誰でも、ちよつと物狂ほし気に爽快な滑走! を誘はれる──そんな、見事な一直線の街道である。
「ぢやお父さん、先へ行つてゐるわよ。お父さんが出かける時分には乗合が通るわね、あれでいらつしやい。」
娘は父親を振り向いて手を振つた。
若者は、パンアテナイア祭の物語を何んな風に話して娘を悦ばさうか知らと思つてゐた。娘に素晴しい果物籠をつくつてやらなければならない! と思つてゐた。
「道々にこの花片を撒きたまへ。……夢にも後を振りむくことなしに、この瑠璃色の朝陽を衝いて、さあ、一散に発ちたまへ。」
若者は諳誦した。
「あの本の話をして──」
「アハヴは──」
と云つたゞけで若者は喉が塞つた。そして吾知らずタイキに鞭をあてた。タイキは一散に駈け出した。
「アハヴは不幸だ。俺は何処までも二人だな……。祭りへ行くのだ、パンアテナイアの祭りへ!」
若者は夢中で叫んで唇を鳴し、空に朗らかな鞭を鳴した。
「あゝツ、速い! 面白いな──」
と娘は若者の腕をつかんで叫んだ。
「面白い? そんなら明日から、毎日あの白い川のほとりを──。あの堤の夜明け時なら……」
若者は、もう少しでそんなことを云つてしまふところだつた。若者は、陽を余りにまぶしく感じて、更に物々しく鞭を振つた。
「おーい。キヤベツがごろ〳〵転げ落ちてるよう。待つて呉れ〳〵!」
軒先で見送つてゐた父親は、突然大声で叫んだが、応へがないので、同じことを絶叫しながら一目散に追跡した。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
1930(昭和5)年11月22日
初出:「文學時代 第二巻第七号(七月号)」新潮社
1930(昭和5)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年3月3日作成
2016年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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