二日間のこと
牧野信一



 八月×日

 ──蜂雀コリブリの真実なる概念を単に言葉の絵具をもつて描かんと努むるも、それは恰も南アメリカの生ける日光を瓶詰となして、大西洋を越え、イギリスの空に輝く雨と降り灑がうとするが如き不可能事に他ならぬ──。

 そんな章句を読みながら、いつかうとうと、眠ると、一羽の蜂雀が渺望たる海の上を飛んでゆく夢を見た。見渡すかぎり睦の影も見あたらず、船に乗つてゐる感もないのに、いつたい自分は何処の隅から、この光景を眺めてゐるのか? と自問して、眼が醒めた。

「ゆうべ何時ごろお帰りになつたの?」

 トシは晩飯を運んで来ると、机の上のものを床の間に置換えて食膳の代りに灯りの下に据え直してゐた。

「遅かつた。」

 自分も時間などは忘れてゐた。新橋を乗つたのが終列車で、加けに汽車の中でひとりでポケツト壜の酒を空けてしまつたほどであつたから、真暗な田舎路に降りるよりは、一層家族のゐる小田原へ赴く筈だつたのに、やはり自分は此処の駅に降りたものだ。

 朝、一度早く起きて、国府津へ赴き朝飯を済してから、山径をまはつて此処に戻つた。夜見村といふところに借りてある仕事部屋である。

「それで、また夜と昼があべこべになつてしまつたの?」

「…………」

 自分はそんなはなしを交へるのも物憂く、だまつて起き上つて井戸端で顔を洗つた。トシは岡持の中から皿や小鉢を取出して、並べ終ると、子供を背つたまゝ膳の傍らに坐つて、あかりに飛んで来る虫を煽ぎはぢめてゐた。

「ひとりでやるから、そのまゝ置いてつて呉れ。」

 トシが給仕に来て、ながくなると垣の隙間から嘲笑を投げるものなどがあるので、自分は迷惑した。──川の向ひ側に建つた新しい別荘にトシは奉公してゐたが、そこの息子と二年ばかり前に結婚して東京へ移り、やがて離縁して戻つてゐた。私は、余程前からトシとは知り合ひだつたが、結婚についても離縁に関しても別段に改めて聞されたこともなかつた。

「……噂位ひされたつて、何でもなければそれつきりぢやありませんか。」

 トシは私の顔いろを見てわらつた。自働車などを持つてゐるといふ東京の邸で暮したといふので彼女は方言もなく、流行のはなしなどについては私よりも明るかつた。

「それも左うだが──」

 と私は口ごもつた。そんなこと位ひを迷惑に感じたりする自分の方がさもしいと思はれた。──「でも、この辺の人は俺の女房のあることを好く知つてゐる筈なんだが。」

「でも、それは……」

「女房があるといふことは何も弁解のたねになるわけでもあるまいが、あんまり思ひもかけぬ噂などされると驚くよ。」

「驚ろかなくつても好いでせう。──妾のこと嫌ひ──?」

「嫌ひでもないけれど、野心などは持つたこともない。」

 トシは時々、自分の経験を小説のやうだと云つて吐息を衝いた。なるほど芝居にでもなりさうな小説に似てゐると私も思ひ、やはり古風な芝居のやうな事件といふものは往々に実在するものらしいとうなづかれた。トシは物腰動作も、不しつけさうに振舞つても可成りに都会流に洗練されてゐて、私としても別段に厭な感じもなく、またそんな遊蕩児に誘惑されただけに、容貌も姿もフレツシユで、何か物を云ふ毎に、何か自分の云ふことをいちいち信じ難いとでもいふ風に、軽く首をかしげて微笑を浮べるところなどは多分の愛嬌に富んでゐた。

 背中の子供が泣き出したので、トシは紐を解くと今迄私が眠つてゐた隣室の蚊帳の中に寝せて乳をふくませようとするので、私は故意に脇見をして縁側へ出た。──蚊帳を透してトシの横顔が白く冴えてゐた。

 この光景は、何処から見ても平凡な家庭生活者の姿であつて、いきさつを知る者の眼から見たらば怪しげな噂の的になるのは当然だ──と私は思ふと、安閑と椽側の椅子になど凭つても居られなくなつて下駄を穿いて、庭ともつかぬ椽先へ降りた。

「子供を寝せるのなら、うちへ伴れてつて呉れないかな。何うもその様子はおだやかでないぞ。」

 私が困惑の声を出すと、トシは、

「それぢや、こゝへ来て子供を抱いて下さいな。」

 などゝとわらふばかりで動きもしなかつた。


 八月××日

 晩飯が運ばれて来ないので、坂下のトシのうちへ出かけた。三人ばかりの酔客がゐて、自分が現れると、不図騒ぎを消して互ひに眼と眼を見合せた。──私は、トシの母親が仕度して来た酒をコツプに注いだ。トシのことを何う思ふか? と母親がさゝやいたが、私は好く意味が通ぜず、ぼんやりしてゐると、

「お前さんと一処に引越してゆくと云つてゐるんだが──」

 とつゞけた。

「でも今は、ひとりなんで若い女を女中に雇ふわけにもゆかないよ。」

「小田原へ伴れてつ呉れるとか……」

「当分は帰らないつもりなんだよ。」

 奥の間では、トシと父親が子供のことに関して口争ひをしてゐる模様だつた。間もなくトシが、何かヒステリツクな声をあげて、まろび出て来たかと思ふと、

「妾はもう斯んなうちには居ない。──何処へでも行つてしまふ。」

 と泣き倒れた。

 そして、いきなり子供を私の膝の上に投げ出して店先へ走り出た。──私は、子供を抱いたまゝ途方に暮れて、じつとしてゐた。

「君たちは何を妙な顔をして俺の方ばかりを眺めてゐるんだ。俺は事件には全く関係のない人物なんだぜ。」

 私は、まはりの者共が恰で迂参な中心人物でゝもあるかのやうに私の上をじろ〳〵と眺めてゐるので、思はずそんなことを口走つてゐた。──そのうちに子供が急に激しい声で泣き出した。

「おい、駄目だよ──俺には子供をだますことは出来ないんだ。トシを呼んで来ないかな──何処へ行つたんだらう。」

 私はテレて、口ごもつた。トシの父や母の姿も見あたらないのだ。私は寄んどころなく、赤児を抱いたまゝ外へ出て、腕を揺籠のやうに振り動かせながら坂を登つて行つた。子供は軽かつたが、泣声は容易に収まりもせず、私は唇を激しく震はせた唸りを響かせたり、泣くな〳〵! とあやさうとするのだが、吾ながらそれが拙劣で、手の施しようもなかつた。それでも漸く坂を登り切る頃になると、赤児の泣き声は止んだので、眠つたのか知らと、薄明りにすかして見ると、赤児はまぶしさうな眼をぴかりと視開いてゐた。

 うちの前まで来ると、私の部屋の縁側で、トシが椅子に腰かけ、父親が切りと何か云ひつゞけてゐる様子が生垣の間からうつつた。折角子供が静かになつたところだから、ついでのことに、もうしばらく守りしてゐてやらう──と私は要もないのに、そのまゝもう一辺径を引返した。

 ……トシの思惑は恬淡で決して私などに関心を持つてゐる筈もないのだが、余程周囲の人達が私との間に就いて途方もない誤解を認めてゐるらしかつた。──左う思ふと私は返つて今更の如くトシの魅力を明らさまにさせられるやうだつたが、それは私にとつてはやはり飽くまでも客観的のもので、私は久しい前からの自分の「女人厭悪症」とでも云ふべき頑迷な固疾から追はれてはゐない思ひが、奇妙に嘆かはしかつた。

 トシのうちの近くまで戻ると、さつきの酔客が互ひに胸を張り出したり、ゲラゲラとわらつたりしながら、何うもトシと私との噂に打興じてゐるらしい様子が、開け放れた窓に現はれ、はつきりと声までが伝はつた。私は詳しく立聞きしてやらうと、足おとを忍ばせて窓下にすゝみ寄つた時に、また突然子供が大声で喚き出したので、私は仰天して後もどりすると、一散に坂径を駈け登りはじめてゐた。──酔客連は、やはり私の噂に花を咲かせてゐた最中だつたと見えて、窓から折重つて私の後姿を眺めてゐたが、振り返つた私が、不図何か叫んだのを聞くと、事件でも起つたのかと誤つて、とるものもとりあへずバラ〳〵と追ひかけて来た。──私は、自分のうちの方へ向はずに途中から折れて川ふちへ降りはぢめてゐた。一刻先は、何うなるかもわからぬ不安心ともつかぬ胸のときめきを私は感じた。ともあれトシの苦境に関しては、この上傍観は適はぬといふが如き奇妙に颯爽たる亢奮を覚えた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝首都 第二巻第九号」黎明社

   1934(昭和9)年91日発行

初出:「文藝首都 第二巻第九号」黎明社

   1934(昭和9)年91日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年104日作成

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