病状
牧野信一



 凍てついた寒い夜がつゞいてゐた。

 私は、十銭メートルの瓦斯ストーヴに銀貨を投げ込みながら、空の白むまで机の前に坐りつゞけたが、一行の言葉も浮ばぬ夜ばかりだつた。

「いつでも関はぬから起してお呉れ。」

 細君は明方の私の食事については、パンや果物の用意をとゝのへて、机の傍らにすやすやと眠つてゐるのだが、稍ともすると私は気の弱い食客の心地に襲はれた。

 カーテンが水底のやうに白んで来ると、私は頼りないあきらめの吐息を衝いて五体がたゞ煙りのやうにふわ〳〵としてゐるのを感ずるだけだつた。

 私は、どてらの上にそのまゝ外套を羽おり、襟巻きに頤を埋めて、そつと部屋を忍び出た。私は食堂を探さうと考へながら、坂を降りて行つたが、極く稀に朝霧をきつてゆく車の響きがするだけで、街は未だ眠りの奈落であつた。私は雪の中に道を失ふた旅人のやうに、あてどもなくふら〳〵と歩いて、眠気の襲来を待つのであつたが、不図、辛うじて一台の車を拾ふと、品川まで──とつたへた。

 そこの廓内に夜通しの営業に栄えてゐる一軒の食ひものやのあることに気づいた。

 私は怕る〳〵盃に口をつけてゐた。──おもふにつけ、それは苦く味はひのない液体で、一杯の盃を傾ける毎に思はず顔を顰めては、凝つと首筋を伸して宙を睨めてゐるだけだつた。

 寺小屋の机のやうな食卓が二列にならんだ広い座敷で、私のと一つ置いたところでは、ひとりの眼の据つた頬のこけた中年の、商人とも他所行の職人ともつかぬ男が、何かの鍋を前にしてやはりひとりでぼんやりと湯気を視詰めてゐた。既に、その食卓の上には四五本もの徳利がならび、間もなくもう一本を注文したのであるが、女中が酌をすゝめようとすると、

「関はないで──」

 と彼はことわつてゐた。そして、無造作気な手酌で盃を傾けては、何かうつうつと深い思案に耽つてゐる様子は、余程不気嫌な豪酒家と察せられた。──向ふ側には真つ赤になつた会社員風の二人伴れが、切りと女中を相手に頓狂な声を挙げて、ふざけちらしてゐた。──広いところに客の数は、それだけだつたが、二人伴れの騒ぎだけが華々しくて、こちら側の二人は、まるで申し合せたかのやうに黙々としてゐるだけだつた。三四人の女中達が向ふ側の騒ぎを取り巻いて、うしろ向きなので表情は解らなかつたが、客は正面なので悦に入つてゐる笑ひ顔などがはつきりと私の眼にも映つた。そして時々彼等の視線を私はまともに感じたが、私は別段反らせもせず一層憤ツとした気味合ひで済してゐると、向ふの悪る騒ぎは益々嵩じて、どつといちどきに笑ひくづれたり、ふざけた悲鳴をあげたりした。どうも、その様子が、何か私の姿を嘲弄してゐるらしくも思はれた。そんなきつかけから見ず知らずの客同志が大喧嘩をはぢめるといふやうな場合を酒場などで私は見ることもあるので、私は胸を冷してうつ向いてしまつた。私の胸は飽くまで弱々しく打ち沈むばかりであつた。彼等のわらひ声がつゞけばつゞくほど、如何にも自分は嘲笑のまとに価するやうないつそこのまゝ遠方へでも逃げのびてしまひたいやうな止め度もない気恥しさが湧くばかりで、反撥心なんていふものは夢にも感ぜられなかつた。

 私は吐息ばかりを衝きながら、眠さが襲ひ次第に飛び立たうとして、盃を傾ける毎に、今度は、凝つと眼をつむつて見るのだが、更に眠気も酔も襲はず、注ぎ込んでゆく苦い酒の流れが胸先を白々しく迂回するかのやうであつた。

「何といふことだ……」

 私はそつとつぶやいて、両掌を拡げて胸の上を撫でたり、重々しく腕を組んで首垂れたりするばかりであつた。

「……何だと、もう一辺云つて見やがれ!」

 突然、そんな啖呵が私の耳の傍らに鳴り渡つた。聞くも爽々しい巻舌の江戸弁だつた。

 見ると、隣りの中年者が、食卓に突いた片肘をそびやかせて、軍鶏のやうな眼光をもつて向方側の二人伴れを瞶めてゐた。一陣の寒風が颯つと吹き抜けた概で、あたりは水底のやうに静まり返つた。

「──見損ふない、馬鹿野郎!」

 彼はつゞけて突き飛すやうな言葉を挑んだが、相手は蝉のやうにぱつたりと鳴き止んだまゝ一言の返答もなかつた。──まことに胸のすく見事な調子だ! と私は感心したがそれが若し自分の敵から投げられる科白だつたらと想ふと、聞くだに五体が竦む怕ろしさだつた。その彼の言葉の調子は、刃の鋭どさを閃めかせて、間断もなく敵の胸先を突きとほすのであつた。刃はおろか、稲妻とも何とも云ひやうもない霹靂で、底光りを湛えた物凄さであつた。彼は相手の手応のないのを悟ると唇の端にわらひを浮べながら、ゆるゆると盃を執りあげてゐたが、私が瞥見する彼の姿は真に近寄り難い青光りの中に途方もない殺気を含んで蜂のやうに身構えてゐた。私は他人ごとながら有無もない恐怖に圧し潰されて、膳の下の膝がしらが可笑しい程震えてゐるのさへ止め難かつた。

 やがて向方側の二人伴れは、時を見はからつて、すご〳〵と立ち去つた。

 嘲笑の声も、憤激の啖呵も──私の疲れた頭に響くと悉くが己れの上にかゝつた譴責の声であるかのやうな妄想に駆られて、私の胸はびく〳〵と震えた。

 彼等の立ち去るのを見送つてゐた隣りの男は、その時、私に話しかけるともつかぬ独白めいた口調で、

「振られた人形が、二つ首をならべてゐやがるなんて、あいつ等、抜しやがつた。」

 とつぶやいた。──そして彼は、ぼんやりと私の顔を眺めてゐるのであつた。──ところが私は、たつた今、彼の様子に、そんなに怯えたにも関はらず、知らぬ間に酔でも回つてゐたものか、急に平気になつて、

「俺の顔に何か付いてゐるのか?」

 と突き返した。

「いゝえ──」

 彼は白々と素直であつた。

「ぢや何で、そんなにひとの顔を見るんだ、さつきの奴みたいぢやないか?」

 と私はふくれた。

「振られやがつた──と云はれたのが、実はわつしは痛かつたのさ。」

「…………」

 私はそんなことで話相手になるのは億劫だつたので、眼をつむつてゐると、

「仕事のやまが見つからないうちは生きた心地もないといふものさ。振られてゐるといふのは、つまり仕事に置き去りを食つてゐるといふわけで……」

 彼は何やらわけの解らぬことを、くど〳〵と呟いてゐるのだが、私がまた不図眼をあくと、眼ばたきもせずに鋭く視張られた彼の眼光がやきつくやうに私の面上に注がれてゐるので、私は思はずぎよつとして慌てゝもう一度眼をつむらうとすると、逸早く彼が先に眼を閉ぢた。妙な人だ! と思ひながら私は彼の顔をしげ〳〵と打ち眺めた。鼻筋が嶮しく引きしまつた唇のあたりには如何にも抗し難い科白を吐きさうな凛とした厳しさが窺はれた。そして眼蓋が神経的にぴくぴくと震えてゐるのであつた。見るにつけ、その顔かたちは激しい雨にでも打たれたものゝやうな窶れと憂ひに覆はれてゐた。それでゐて、それは遊堕の後の窶れとは全く趣きの異なる何か張り切つた万遍のない神経がみちみちてゐるやうな迫力を覚えさせられるものであつた。私は次第に彼の崇厳な顔面に惑かるゝ感で、眺め入つてゐた。──すると間もなく、また彼が眼を開いたので私は驚いて眼を閉ぢた。

 そんなことが三四遍繰り反されてゐるうちに私は、とてもてれ臭くなつたので、彼が更に仮睡を装ふて顔を伏せた間にそつと帰り仕度をして立ちあがつた。そして外へ出ようとした店先から、何気なく振り返つて見るといつの間にか彼も頭を持ちあげてゐたが、反対の海の方の空を眺めてゐた。いつまでも明方のやうな薄暗さで、今にも降り出しさうな空工合だつた。

 翌日の明方頃、また私は空しい机の前を離れて、昨日の食卓で朝飯を喰はうとしてゐると、程なくまた彼が颯爽たる脚どりで這入つて来た。そして彼は私に気づくと、不意にからからと笑ひ出しながら、隣りに座を占めた。その時私は気づいたのであるが、彼の笑ひ声は鴉のやうな響きで、笑つても決してその表情は笑ひのために歪まぬのであつた。頭上の空を鳴き渡る鴉のやうに可成り長く笑ふのであつたが、彼の表情はカラス天狗のやうに悒鬱で、わずかに口が開いたまゝ喉の奥が空々しく鳴つてゐるだけなのであつた。

「やあ、また振られ同志の顔が出遇ひましたね……」

 彼はそう云つて、なほも奇天烈なワラヒ声をつゞけてゐた。

「厭なことを云はないで呉れ給へよ、おもしろくもない。」

 私は迷惑さうにつぶやいた。

「だつて、お前さんの顔には、ちやんとそうかいてあるんだもの……」

「……何うでも好いや。」

 私は横を向いて、煩さがつた、──まつたくきのふの彼ではないが、私としても斯んな状態の折から、幾度びもそんなことを耳にすると、一層気持が滅入るばかりで途方に暮れずには居られなかつた。

 ほんのわずかばかりの酒で、私はその時底もなく酔つてしまつた。──どんなはなしを彼と取り換したか殆んど記憶もないのだが「御面師おめんし──御面師とは?」

 と私は彼が何かのはずみに、私に、おめんしですよと云つた時、さつぱり意味が解らずに訊きかへしたのであつた。

「般若とか、ひよつとこ──とか、そんなものをつくるのがしようばいなんで……」

 さう云ふと彼は、ぐつたりと肩の力を抜いてふところへ向つて吐息を衝き、再び顔をあげると夢でも見るやうな眼つきで、ぼんやりと私の顔を視守るのであつた。そして彼は自分の仕事の説明をしたばかりで、相手の私に関しては何も訊ねることもなく、たゞたゞ私の顔ばかりを一心に眺めつゞけるばかりであつた。そして頭の中に何かのかたちを描いてでもゐるらしく、凝つと眼を据えたまゝ、私の鼻やら口つきやらを抉るやうに視据えるのであつた。──だが、私も彼の職業を知らされて見ると、それも殆んど気にならなくなり洒々と酔つたまゝ、

めんなどといふものは、天狗とか、ひよつとことか、もともとあんな荒唐無稽な型ちが決つてゐるものゝ、やはり普通の人間の顔が参考になるといふ場合があるものなんですかね?」

 などと開き直つて質問したりした。

「あります。──やはり、はつきりと、その度毎にあるんです。わたしは……」

 彼は言下に答へた。──「腕の先では出来ません。怖ろしい夢ばかりを見るんです。何と申したら好いやら云ひやうもないんだが、夢が、眼の前に探し当てたものゝ汐にのつて、実を結ばない限りは、天狗も鬼もあつたものぢやない……」──「御面のかほつきなんていふものは、それあもう此方の了見が汐にのつたあとなら、何が六つかしいの、何が楽だのなんていふ差別もなく、きまり切つたものなんですけれど、その笑つたり憤つたりしてゐるかほつきの蔭に、それこそ、飛んでもない、途方もない、わけと云つたら何もないらしい──つまり、その、振られて、振られて空の上へでもほうり出された見たいな、突つ拍子もなく馬鹿気きつた憂ひといふものが、夫々降りかゝつてゐなければならないんです。こいつは何うも口で云つても到底埒はあかない、理窟ぢや手に負へない──その上に、その時、その時に依つて異る自分の了見を、あれだけの定つた顔かたちの上に万遍なく現すために、他の人間の顔をかりようとするんだから……」

 彼は自分の云ひたいことが言葉にならぬのを、もどかし気に打ち切つて、いよいよ眼を据えて私の顔ばかりを視入つて来るので、さすがに私もいさゝか薄気味悪さを覚えて、

「そんなんなら何も僕に限つた事はなからうぢやないか、止めて貰ひたいな。僕はひとりで少々考へごとがあつて、ぼんやりしてゐるんだから、顔なんて見られるのは閉口だよ。誰の顔だつて飽かずにいつまでも眺めてゐたら、途方もない悲しみに満ちてゐるといふものだらうがな……」

 と私もつい余計な口を利いてしまつた。そして無理に笑ひ声をたてゝ見た。すると、正しく鳴き声ばかりが、彼のそれと似て鴉の如くクワツ〳〵と筒抜けながら、顔の筋肉は少しもゆるがなかつた。

「いゝえ、わたしは、あなたのやうに──さつぱりと振られて、見得も得意も、やけつぱちもないといふやうなお面を、いや、様子を何時にも見たことはないんです。」

「ちえツ馬鹿めんのモデルにされちや堪らないぞ?」

 と私は云ひ棄てゝ立ちあがつてしまつた。

「何もそんなに肚を立てないだつて好いぢやありませんか──」

 彼は私の姿を弱々しく見あげながら、悲しさうにつぶやくのであつた。いつか別の客に向つて、あれほどの圧倒的な威喝を浴せた男であるからには、いつかは短気を起して私の上にも目ざましい罵りを加へるだらう──私はそういふ光景を自分の上に想像して、吾ながらの生気を呼び反したいといふやうな憐れな状態だつた。

「然し、何ういふわけで──」

 と私は最も横柄な口調で唸らずには居られなかつた。「特に僕の姿にばかり、君は飛んでもない興味を持たうとするんだい。実に迷惑だな──」

「何ういふわけか──」

 と彼は益々弱々しく首垂れるばかりだつた。「見ると全く変哲もない顔なんだが──僕はあなたが憤つたり笑つたりする時に、その顔が何んな風に動くかと……何とも失礼な云ひぶんで申しわけありませんが、兎も角、云はせて下さい──はぢめて遇つた時から、不意とそんな考へを持ちはぢめたのです、ところが、あなたは笑つても憤つても、声だけで顔はちつとも変らないんです、空々しいと云へばそれまでだが、考へて見るとわたしは、そんな顔といふものにこれまで出遇つたためしがありません──それにしても、もと〳〵あんたはそんな風だつたんでせうか? 若しそうだとすれば得難い珍品だ、何にも動きのない顔にこそ、いろいろな動きの顔かたちが想像出来るものなのです。」

 益々妙なことばかりを云ふ奴だ! と私は気色を悪くしたが、若し彼の云ふ通りだとすると、自分にしろそんな人間の顔には接したこともない──と思はれた。

「神経衰弱のせゐだよ。」

 と私は云つた。笑ひ声だけは、クワツ〳〵とひゞいて、寧ろ私は彼のに似てゐるとは思つたが、その他の場合で、そんなに自分の顔つきが白々しいものとは考へられもしなかつた。もと〳〵自分は堪え性のない感情家で、泣いたり笑つたりの表情までが激しいたちだつたが、いつの間にそんな風に変つてゐたのか思ひも寄らなかつた。さう思つて見ると何うも近頃、笑つても、泣いても、心底から感情に支配される如き思ひもなく、空々しい歎きの煙りにうろたへてゐるばかりの気がするのであつた。

「御面師だけあつて、妙なところに気を留めたもんだね。幸ひ僕が神経衰弱なんで、反つてそんな、君の云ふことに耳を傾けたりするんだが、普通の人が聞いたら気狂ひの寝言だらうよ。」

「それあ知つたことぢやないが──今晩はひとつはなしついでに、もう少しつき合つて下さいませんか。」

「厭なこつた、馬鹿〳〵しい!」

 私は、袖をつかまうとした彼の腕を激しく振払つた。

「そんなことを仰言らずに、ほんのもう一時間でもつき合つて下さいよ。あなたは、これにこりて屹度もう此処にはいらつしやらないに違ひありません。……残念なんだ。」

「無論、来ないよ。」

「あゝ、云ふんぢやなかつたな!」

 彼はさも〳〵落胆さうに息を吐いた。その歎声が如何にも真に迫つて切なさうだつた。内容をおもへば腹が立つだけだつたが、何は兎もあれ見ず知らずの男が、自分にそんなにも熱心な関心を持つたかとおもふと、私は余りにも無稽な奇抜さを抱いた。

「君を怕れて来ないといふばかりでなく、僕は間もなく田舎へ転地しなければならないんだよ。」

 私はついほんとうのことを口にした。

「田舎といふと……?」

「小田原──」

 私は下向きながら答へた。彼は是非とも宛名を知らせて呉れと諾かなかつた。それは故郷とは云ふものゝ、めあての家も未だあたりがなかつたので、私は駅前の本屋を気付にして、彼の手帳に名前を誌した。

 二三日経つて私は大崎のアパートを引きあげた。

 私は町端れの家から、一丁場を汽車に乗つて河のほとりの農家の離れへ通ひ詰めてゐたが、空しい日ばかりがつゞいてゐた。──あたりはもう蛍の飛び交ふ夏景色であつた。私は、自分が小説作家であるといふ考へを放擲しなければならぬと考へた。私は、あれらの惨めな冬から春へかけて、小説を書かうとして苦しむがために二重に制作を為し損つてゐた自分の姿を幻灯のやうに思ひ出すだけであつた。私は二三冊の書物と、手提ランプを携へて毎朝早く河のほとりへ通ひ詰めて、きまり好く夕暮時に町へ戻つてゐたが、農家の厩屋で馬を眺めるだけで一日を終ることが珍らしくなかつた。

「何うせ何も出来ないからには、せめて時間だけを正確にして、健康をとり戻さう。」

 私は停車場のベンチに凭つて、そんなことを声に出して呟くのだが、そんな有閑人の如き行動は一刻もゆるされぬ状態なので、落着かうとすればするほど背後から吹きまくられる烈風のために、飛び散りさうだつた。無意な姿であればあるほど、胸のうちの嵐は目眩むばかりに吹きまくつた。

「あツ──もし〳〵……あツ、やつぱりそうだつた!」

 そんな声で私は目を開くと、ひとりの無帽の、角帯に黒つぽいよれよれの素袷を着流した男が、私の眼上に枯木のやうに突ツ立つたまゝ眼ばたきもせずに私の顔を見降してゐた。あの御面師だつたのだが、稍しばらく私は彼と思ひ出せなかつた。

「随分、探しました……」

 と彼は手提袋を私の傍らに置いて、

「突然過ぎて何とも云ひやうもないんですが──」

 彼は身の振り方に迷つてゐるらしかつたのである。仕事が一つ出来あがるまで、何処かの宿なりと紹介して欲しいといふのであつた。──私は速座に、

「僕の借りてゐる部屋に来給へ──」

 と応へた。それに私は稍人に好意を感ずると酔つた紛れには大変に度量の広いやうなことを口走る悪癖があつたから、おそらくこの人にも大層なことを喋舌つたのだらうと思つた。その時まで私は、東京で遇つた時の彼のことまでを忘れてゐたくらひだつたのだが、私は如何にも思ひがけない旧知にでも出遇つたやうな悦びを感じて、

「さあ、これから一処に行きませう。僕は毎朝この時間で、河のふちの仕事部屋へ通つてゐるんです。」

 などと奇妙にうき〳〵と元気づきながら、切符を買つたり、朝飯はこの頃はいつもこの汽車の弁当だとか、

「田舎には夜通し起きてゐるやうな、あんな家がないんで、はぢめのうちは途方に暮れたが……」

 などと吾ながら何時にも覚えたこともない饒舌振りだつた。私はいつもいんねんもない人に対しては恬淡になれぬたちなのにも関はらず、尾羽打ち枯した彼の姿を見れば見るほど愛惜を覚ゆるのであつた。

「ピーツと出るかとおもふと、直ぐにこの次で降りるんですよ。カモノミヤといふ駅──来る時には気づきもしなかつたでせう。だから余つ程手つとり早くしないと、飯を喰ふ間もありませんぜ。ところが僕はすつかり慣れてしまつてね、恰度汽車が止る間際にぴつたりと弁当を仕舞ひ終へるといふ芸当が、それはもうあざやかなもので……」

 そんなことを喋つてゐるうちに、飯を喰ふ間もなく次の駅だつた。

「弁当などにしなくつても、あたしは自炊には慣れてゐるから──」

 彼は、天涯の孤独者であることをはなし、だが屡々あゝいふ遊里で私に出遇つたとは云ふものゝ、それは夜眠れぬために、ふらふらと出歩いたまでゞ嘗て青楼などにあがつたゝめしもない……。

「まつたくもうそんな心の余猶なんてある筈もなく……」

 彼は私が訊ねもしないのに、切りとそんな弁解めいたことを口走つたりした。

 眼ばかりが、らんらんと光つてゐる男だつた。私は明るみの中を歩く彼の姿を、はじめて眺めた。前こゞみにのめり工合の細く骨張つた肩先きを、物を言ふ毎に角度をつけて振り向くと、おこつた蟷螂に似てゐた。

「この河のふちを半みちも歩かなければならないんですよ。」

「さしづめ、これは河童だな…‥」

 彼は、片方に弁当の折、片方に仕事道具らしい手提袋をぶらさげた両腕を、二つの提灯でも持つたやうにさゝげて、田甫道をすたすたと先へ立つた。

 恰度離室はなれが六畳八畳の二間なので、私はもと〳〵からの南向きの六畳に、彼は西向きの部屋に、わかれた。

 私は夜になつても町へ戻らぬ日がつゞきはぢめた。──仕事部屋に引き籠つてゐる彼は、屡々ひとりで鴉のやうなワラヒ声をたてるのであつた。

 私は襖越しに彼の鑿の音を聞きながら夜をこめて机に向つてゐた。──私は、日記を書くより他に術がなかつた。

「R、非常なる酒に酔ひて現れ、隣り村の茶屋へ吾を誘ふ。吾は一滴の酒も飲めぬものなり、Rは、吾を指して自殺の怕れが感ぜられると云ひたり。」

 私の日記にはそんな個所があつた。Rといふのは叔父である。

「Rの車に送られて部屋に戻ると、隣室よりは鑿の音切りなり。その音にせかれて机に向ふものゝ、Rに対して決して思ひ切つたことの云へぬ自分の意久地なさのみが省みられて憮然たるばかりなり。御面師と共に旅立ちたいものよ。」

「Rの叔母が来て泣く。Rの行状に関してなり。叔母はもう五年来Rと別居してゐるといふ。K村のRの家へ叔母を案内する。大勢の親類のうちで、やさしい心をもつてゐる者は、お前さんひとりだと云つて叔母はみちみちも泣き止まず、自分は唇を噛むおもひ──。Rの家の前で叔母と別れる。やさしい心だなどと云はれるのは斯んなにも切ないものかとおもふと、そゞろに自棄を覚ゆるなり。」

「またRが来る。非常に酔つてゐる。思ひあまることがあるなら何事でも相談しなければいけぬと云ふのだが、人に云ふべき類ひの煩悶はないのだ。此処は自分の仕事部屋だから酔ふた人に来られるのは迷惑だ! と、たつたこれだけのことさへ云へぬのは何うしたといふことであらう。」

「作家志望だと称する泥酔の佐田某なる老村吏が現れて、最もあやふやな自然主義の主張を喚きたてた。猥雑聴くに堪えざるものであつた。或る時の吾酔態にも似たるかと慄然たり。」

「町から来たる妻に、口を極めて罵らる。何故に多くの縁者を振り棄てぬのか? といふのであつた。吾に生活能力の欠けたるは、その間の怯堕がわざはひする所以なりと非難の声尽きず。多くの縁者の吾を軽蔑すること夥しき由、かゝる渦中に再び戻りたる吾が所業の不甲斐なさを妻は哭して止まず。」

「R叔母来りて、先日送られしものゝRの行衛皆目不明にて未だ会はざりしといふ。此処に同居を促したれど、吾が身辺のうそ寒き気はひを察してか諾かず、深更に至りて町へ戻り行く。劇中の人物にも似たる悄々たるさまなり。」

「K叔母来りて、吾と吾が母との同居をすゝむるなり。母は既に零落して、子の帰来を待つ由なりと伝ふれど、K叔母の所存こそ信じ難きものなり。R叔母の言とおそらく反対にて、R叔母に依ると、凡そK叔母の言たるや、吾が母の意志には非ずして、K叔母は寧ろ吾が心を苛立たしめて(以下五行抹殺……筆者)一家の団欒を希ふはもとよりなり。されど、この心の、母を敬ひ得ざる不幸の、怕るべき佗しさの(以下四行抹殺……筆者)所詮、吾には母を放擲してまでの放浪性は抱けぬものならむ。その零落こそを待ちて、吾はすゝみて扶養の任をはたしたき念なり。」

 日記に現はるゝ私の片言は、何処をひらいて見ても惨憺としてゐた。

 或る日御面師は、Rの振舞ひで、よろよろと酔つて戻つた。

「何だつて、もうお好み次第のものをつくつて御覧にいれます。それについては、是非ともひとつあなたには、これまでのお礼のためにお贈りいたしたいんですが……」

「折角だが僕は貰つても仕方がありませんから、Rさんが世話をして呉れると云ふんならそつちへ売つた方が好いでせう。」

「いえ〳〵……」

 と彼は行儀好く手をついて首を振るのであつた。「是非ともこの部屋に、わたしの仕事を一つ遺させて戴きたいんで……」

 彼がそんなことをくど〳〵と、申し立てはぢめると、私は何故か急に腹が立つて来て、

「Rのうちへ行つて呉れ。僕は、やはりひとりでなければ自分の仕事は出来さうもない。」

 と突つぱなした。誌しもしないのだが、彼の言のうちにはさつきから頻繁に、Rさん、Rさんといふ名前が出没してゐたのだ。

「わたしが居たら邪魔になりますか?」

「今迄は気にもならなかつたんだ。然し、若し邪魔になつても、さしあたり行き場のない時にはさうも云はないが、Rさんと、そんなはなしが出来たといふんなら、君にしたつて其方へ行つた方が運が向くだらうよ。」

「妙なことは云はないで下さいよ。わたしは何うしても此処で、一つだけはこしらへて、あなたへ置いて行かなければ気が済まない。」

「僕は御面なんて欲しくないんだ。」

 斯んな場合のそんな返礼などといふわざとさに私は敵はなかつた。

「欲しくなくつても、わたしは置いてゆかずには居られないんだ。」

 と彼は飽くまで強情を張つた。

「…………」

 私は、そんなものを置いてゆかれることが、ほんとうに迷惑だつた。

「止めて呉れないか、僕は子供の時分から御面といふものが妙に怕くて……」

「だから、好みの注文を出して……」

「しつこいな。好みも何もありはしないよ。君には僕の云ふことが解らないのかしら。僕は御面なんていふものは嫌ひなんだよ。」

「一概に、左う云つてしまふものぢやありませんや。御面師と知つて、今迄あなただつて、あたしを置いて呉れたんぢやありませんか、急にそんな……」

 彼の調子には不意と棄鉢の気が萌したやうであつた。贈らうと主張するのを、贈られたくないと謝絶する自分のわざとらしさも随分ときわどいものとおもふのであつたが、左うなると私も益々強情になつて、その上、不気味さともつかぬ戦きにさへ襲はれ出したのである。何をつくるのか知らぬが、いろいろな顔つきの御面を私はあれこれと想像すると、それが何んな類ひのものであつても、自分の持物になどなつたら、たとへ一日であらうとも、何か自分との因縁でもついて、いつまでゞもの思ひ出の種にでもなりさうな堪らぬ厭気を覚ゆるのであつた。──それにしても、あの朝停車場で彼と遇つた以来、もう一ト月にもなるのに、今が今迄、彼といふ人物にとても迂滑な親しみなどを覚えてゐた自分が今はもう他人の夢のやうに翻つてゐるのが吾ながら不思議であつた。

「ともかく注文を出して下さい。」

 彼は頑として坐り込んでゐたが、余程酩酊してゐると見えて、思はず達磨のやうに前へのめりかゝつたりするのであつた。──「きくまでは決して動きませんよ。」

「困つたなあ……」

 と私は大声で叫んだ。斯んな途方もない、斯んな仰山な、加けに厭に意味あり気な──何といふ馬鹿々々しいことだらうと私は苛立つたが、不図彼が私の面上に注いでゐる凝然たる視線に気づくと、わけもなく抗し難いきつさきに似たものに貫かれて、もう言葉もなくなつてゐた。

 そして私は、つぶやくともなしに、

「俺も一日も早く、小説家に逆戻りをしなければならんぞ。──一体、何をまご〳〵してゐたんだらう。」

 などといふ声を出してゐた。

「こつちも漸く、あぶらがのつて来たところだから……」

 彼もつぶやくのであつた。

 夜になれば、あたりはもう全くの夜中の感じで、Rが酔つた声でも挙げて繰り込んで来るより他は、滅多に人の声もない青畑の一隅である。──私は、暗闇に飛んでゐる蛍の点々たる光りをかぞえてゐた。肉親の人々の顔かたちがいくつとなく浮びあがり、その中にはもうこの世にゐない人達の、たゞ呆然と、とり済した御面が、ありありと入り交つてゐた。

 私は、御面師の腕で彫まれるあれこれの御面のさまざまを、眼の先に描き出した。そして、在りのまゝなる人間の顔のつまらなさに引き換へて、仮面などといふものゝ、絶対に誇張された表情の怪美に眼を視張つた。自分の作風は、太い線をもつて滑稽バロクの段階に鮮明でありたいものだ! と夜空へ向つて眼を据えた。

「大層な蛍ですな!」

 こちらの顔ばかり視詰めてゐるのかとばかり私はおもつて、気拙がつてゐたところが、その時彼は舌を巻いて蛍の美観を嘆じた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1刷発行

初出:「文學界」文圃堂書店

   1934(昭和9)年71日発行

入力:宮元淳一

校正:伊藤時也

2006年83日作成

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