塚越の話
牧野信一




「塚越の奴は、──教室でラヴ・レターを書いてゐたさうだ──。一体彼奴は、俺達のこれまでの忠告を、何と思つてゐやがるんだらう。失敬な奴だ。」

「彼奴は俺達を馬鹿にしてゐるんだ。その時だけは好い加減に点頭いてゐるが、肚では舌を出して嗤つてやがるんだ。」

「改心の見込はないかな?」

「断然──鉄拳制裁と仕よう。」

 私が、自習室へ入つて行つた時に恰度其処では斯んな相談が可決されたところだつた。ミリタリズムの気風が、最もさかんな中学であつた。私達は四年生であつた。

「塚越のことなら俺に一任して呉れないかね。鉄拳制裁だなんて、彼奴にそんな手荒なことをしたら、あの体の弱い塚越は、何んな打撃を蒙るか解つたものぢやない──」

 私は、乱暴な友達に向つて、塚越をかばはずには居られなかつた。──一同は、裏切者を見出したかのやうな眼つきをして一斉に私を睨めた。

 私は塚越と別段に親交があつたわけではなかつたが、青白い、見るからに病弱気な塚越が、そんな制裁を享ける光景は、想像したゞけで堪へられなかつた。

「塚越を殴るんなら俺を殴れ──とでも云ひさうな勢ひだね。」

 その中で一番幅を利かせてゐる──中学四年生でありながら、既に柔道二段の選手である伊達が、微笑しながら私の肩を叩いた。

「殴りたければ殴つて見ろよ。」

 と私は云つた。──すると一同は、急に、ハツハツハ! と声を挙げて笑つた。

「気位だけは一端だが、やられたなら君なんて、塚越よりも酷く参るだらうよ。ハツハツハ……」

 と伊達が私の肩をつかんで、ゆすぶると、それぎり、皆なの、今迄の、「真面目な昂奮」は急に消えてしまつた。

 ──実際私は、一同の昂奮が私に向つて晴さるゝならば、独りで闘つても、何だか、負けぬ気がしてならない位であつたが、あんまり他合もなく氷解して見ると、此方も返つてテレ臭くなつて、皆と一緒に笑ひ出したが、胸の鼓動は未だ早鐘のやうであつた。

 無論詳しいことは忘れてしまつたが、別の日に塚越が私を訪れて来て、

「此間は有りがたう。」

 と礼を云ひ、母がよこしたのだといふチユーリツプの鉢を私の机の上に置いた。春時分のことだつたに違ひない。

「何うして、そんなことが解つたの?」

「ドラ猫の奴が、皆な僕に話したよ。」

「えツ、伊達が

 伊達の仇名などを平気で云へる者なんて一人もなかつたのに、塚越は至極自然な調子で、

「僕はあんなドラ猫なんてさつぱり怖しくも何ともないんだが、何も知らない君が、そんな時に、そんな仲裁をして呉れたといふことが、とても嬉しかつたんだよ。君、友達になつて呉れないか。」と云つた。

「…………」

 塚越と交際する者などは誰一人無い筈なのに、塚越の云ふところに依ると、伊達は此頃毎晩のやうに塚越の家に遊びに来る──といふことだつた。

「伊達なんて、学校ぢやあんなに偉さうにしてゐるけれど僕の家に来ると恰度猫みたいに意久地がないんだよ。それは、僕に、姉が居るからなのさ。彼奴は僕の姉に参つてゐやがつてね、とても醜態だぜ、君、一度見に来て見ないか。そのことだけは誰にも云はないでゐて呉れと僕は伊達に頼まれてゐるんだが、君には何も彼も云つてしまはなければ僕の気が済まないから……」

「伊達ツて、変なニセ豪傑だな!」

「君は、未だほんとうの子供なんだね。」

 と塚越は、セヽラ嗤つた。「吾々が君、フエミニストに傾いて行くことは当然の本能ぢやないか。僕は学校の豪傑連なんて毛程も気にしてはゐない、──僕は何うしても恋人が欲しいのだ。恋人さへ見つかれば、死んでも好いと思つてゐる。」

 その晩塚越は、遅くまで私の部屋に居て、私の決して知らぬ──甘く、艶めかしい、花やかな世界の話を告げた。

 学校では、塚越は何時も運動場の片隅に蹲つて、物憂気な姿であつた。そして私が通りかゝると、何となく臆病さうな眼をしてさしまねいたが、私は余り近寄らなかつた。



 学期の終りの頃であつた。

 塚越享、右の者不都合の廉に依り退学を命ず──斯んな掲示が出た。

 噂に依ると、塚越は運動場に艶書を落したのを生徒監に拾はれたのが、この事の起りであるさうだつた。

 いよ〳〵、では塚越は恋人が出来たのだな──と私は思ひ、秘かに彼のために祝福した。何故なら彼は、常々、恋人さへ出来れば何んな犠牲も厭はない、それに自分の家の者は、新時代の教養に目醒めてゐて、このボンクラ学校の変態教育法などに就いては不満を抱いてゐるし、寧ろ転校の意志を持つてゐる位である……。

「一日も早く恋人を見つけた者は、それだけ人生の幸福を余分に吸ひとつた生活の勝利者である──僕が読んだ小説の中に斯んなことが書いてあつたが、僕は身をもつてこの言葉を尊敬してゐる。」

 塚越からそんな言葉を聞かされてゐたので、学校の控室はその時猛々しく涌きたつてゐたが、私は別段驚きもしなかつた。そして皆なが、彼を最も汚らはしい罪人であるかのやうに騒ぎたてゝゐるのも、塚越の影響で私は寧ろ不自然なことのやうに思はれるやうになつてゐた。

 私は、その晩の一挿話だけを今は最も明瞭に覚えてゐるだけなのである。──私は、その晩塚越を訪れる為に道を急いで行くと、街角で、これも私を訪れるといふ塚越に出遇つた。

「海辺へ行かう。」と彼が云つた。

 砂浜を歩きながら彼は私の肩に腕をかけて朗らかな声で云つた。

「君、驚いたか!」

「驚かなかつた。」

「悪口がさかんだらう。」

「とても、物凄い!」

「愉快だな!」と彼は胸を拡げて空を仰いだ。「その手紙といふのは、僕が、女性の筆蹟を真似て自分で書き、そして自分に宛て投函した偽の手紙なんだよ。それを僕はワザと落してやつたんだ。」

「……! 恋人は?」

「夢の中に生きてゐるだけさ──僕は、明日の朝早く、この町を出発して東京へ行く、それから英語の自信がついたらアメリカへ行くことになつてゐる。」

「君は勇敢だ!」と私は云つた。

「ワザと落したとは云つたが──が、君、その手紙を郵便配達の手から僕は、門先で受けとつたが、その時は、真に恋人からの便りに接したかの通りな悦びに打たれたぜ、何とも云ひやうのない嬉しさだつた。思はず僕は今君に、余外なことを白状してしまつたが、ほんとうは僕は今も、真に恋人が出来たつもりの心地に浸つてゐるのだよ。僕の名誉のためだなんて誤解して君、その真相を学校の奴などに伝へたりしないで呉れ給へよ、僕は、何も彼も決して不真面目な動機から行つたわけではないんだから……」

 そして塚越は、一瓶の立派な香水と、シエレイの詩集とを──これは僕の恋人から、僕の友達である君への贈物だ──などと附け加へて私におくつた。

 塚越の眼に涙が溜つてゐた。



 それ以来何年目であらう、手紙の往復はあつたが、それも絶えてから何年目、私は四五日前の晩遇然に銀座で塚越に出遇つた。──私達は酒場へ赴いて、十二時まで健康を祝し合ふた。

 塚越は或る映画会社の有名な撮影監督であつた。私は、その方面の事情に就いては殆ど知識はなかつたが、彼は非常に謹厳な人格者であるといふので評判が高いといふ噂であつた。

「これは世間には発表しなかつた未完の作品なんだが、君にだけは是非見て貰ひたいと思つてゐるんだ、完成してから誘ふつもりだつたが、今日は、とても好い心地に感傷的になつてしまつて……僕の家へこれから来て呉れ、出来てゐる部分だけを、君と二人で見たいのだ──とても甘いものなんだが、僕の生命は豊かな甘さの中に拡がる無限の憧憬──何うかして僕は自分の涯しもない夢を、はつきりと作品にとらへたいといふ念願で、創りかけてゐるものなんだから……」

「でも、もう時間が遅いからこの次の日にして貰はうか……」

「僕は、未だに独身なんだよ──」

 と彼は私の遠慮などは気にしないで云ひ続けるのであつた。「僕は映画の製作といふ仕事が凡そ自分の性格に適した天職と思つてゐる──一切のことが、あの仕事に没頭することだけで満足出来るのさ。まるで……」

 と彼は、不図酔から醒めて、稍はにかんだかのやうな口調で、

「夜中など、たつたひとりで自分の稍気に入つた作品を写して眺めてゐると、未だ見たこともない恋人と……」と云ひかけて、彼は、

「やあ失敬──調子に乗り過ぎて、すつかり詠嘆的になり過ぎてしまつた。──ともかく行かう。」

 と私の腕をとつて、強ひてタキシーへ誘ひ込んだ。



 塚越の未完成の映画は、恰度私が今此処に記した少年時の挿話に適合する、私にとつてはとても愉快な写真であつた。中学か大学の寄宿舎の出来事になつてゐるが、鉄拳制裁の決議の場面もある。チユウリツプの鉢をもつて、「塚越」が「私」を訪れる処も現れた。

 が、映画の塚越には、美しい恋人が現れるのであつた。

 月夜の海辺で塚越と私が、手をとり合つて何か感に堪へぬが如き動作に耽つてゐるところに、塚越の恋人が急を告げるかたちで駈け寄つて来る──場面が変ると、伊達を先頭にした多くの豪傑達が凄まじい勢ひでおし寄せて来るのであつた。と、また海辺の場面に返ると、塚越と恋人を舟の蔭に隠した私が、ひとり豪傑連に立ち向つて何やら弁明を云つてゐる。間もなく乱闘! 私は、実に見事に豪傑連を手玉にとつてしまふ──そのあたりから芝居は次第に佳境に入つて来るのであつたが、不図私が振り返ると、切りに映写機のハンドルを廻してゐるのが、映画の中で塚越の恋人に扮してゐる女優であることに気づいた。

「その時の貴方は、あんなに強く頼もしく塚越さんに思はれたんですつて……」

 と女優が私に話しかけたりした。

「彼女は君の恋人なのか?」

 と私はそつと塚越にささやいた。

「そんなことはない──」

 塚越は寂しさうに首を振つた。「然しこの写真を見てゐる間だけは、丁度自分で書いたあの手紙に自分が満足した時のやうな何とも名状しがたい満足を覚えないでもない。」

 塚越と私が酷く神妙な調子でそんなことを囁き合ふてゐると急に部屋の中にどや〳〵と大勢の若者が入つて来て、

「塚越さんの思ひ出に花が咲いた!」とか「ブラボー〳〵。」とか「塚越さんのために祝盃だ。」などゝ塚越と女優と、そして私をとりまいて喚きたてた。

 パツと明るくなつたので私がキョロ〳〵と彼等の顔を眺めると、今、映画の中で別の名前で塚越や私や伊達やその他に扮してゐた元気の好い俳優達であつた。そして彼等の花やかな騒ぎを見てゐるうちに私は、やはり女優は塚越の恋人であるらしいと思つた。

 その後間もなく私は、塚越から女優との結婚に就いての意志を報ずる手紙を貰つた。その手紙の中には、「不幸なる晩婚者が──」などゝいふ熱烈な文字があつた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房

   2002(平成14)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「若草 第七巻第四号」宝文館

   1931(昭和6)年41日発行

初出:「若草 第七巻第四号」宝文館

   1931(昭和6)年41日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年117日作成

2016年59日修正

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