痴酔記
牧野信一
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千九百三十年、クリスマスにちかき頃──。
J・K兄
「シプリア人と処女の話」の作者の名前は解らぬだらうか? そして、矢張りこの作が、吾々の悪魔を、作品のうちにとり入れた世界での最初の文芸作品であらうか? それから「シプリア人と処女の話」といふのが本来の題名なのか、それとも「アグリタスとジヤステイナ」が原名なのか、君の意見を訊きたい。アグリタスはジヤステイナを意に従へるために終に悪魔の助力を乞ふのであるが、それも無駄になり、アグリタスは悪魔との規約を破つてその洞窟を去り、全く孤独でジヤステイナを訪れるのだが、悪魔は彼の変心を怒つて、何と叫ぶのであつたかね? その罵りの言葉を是非とも訊きたいのであるが、不明であつたら君自身の創作で、その言葉を僕に与へて呉れ。
──僕は、憂鬱で堪らない。
K兄、また書くよ。
「シプリア人と処女の話」の次に吾等の悪魔の現れる作品は「ガンデルシヤイム寺院の会計係テオヒラスの誘惑」であらうか? そしてこの作者は十世紀代の女流詩人ホロース・ウヰーサか? この作品は朗読に価する韻文詩の由であるが、誰かの和訳文はないだらうか。僕は、テオヒラスが職を失うてシシリアの街を慟哭しながらさ迷ふところを、今日のやうに貧しく寄辺ない心の日に朗読したならば定めし意に添ふであらうと思ふのだよ。
ホロース・ウヰーサから、一六三七年のカルデロンの「或る魔術師の話」に至るまでの間には、一五〇七年のヨハネス・トリテミアスの「ファウスタス書翰集」一五四八年ヨハンガストの「備忘録」マリンアスの「日記」、一五八八年ウヰールの「ファウスタスとの交遊」一五九九年ウイドマンの「ファウスタスの手記」等で、実在の彼の伝記、逸話が集められてゐるが、彼を題材に選んだ文芸作品は一つもないのかしら?
僕は読んだ──。
パイロン「マンフレツド」
ヨハネス・スパイス「ファウスタス伝」
クリスト・マロウエイ「ファウスタスの悲惨なる伝記」
レツシング「フアウスト」
ゲーテ「ファウスト」
ツルゲネイフ「フアウスト」
等と僕は、薄曇りのした空を見あげながら指を折るのであるが、未だ〳〵沢山の脱落があることだらうな、ファウスタスに酷似した人物が登場する作品に関しては──。
悪魔との契約書は、紀元十三世紀以後に於ては、必ず血をもつて認めらるべく規定されてゐる由、君も僕も悪魔に従うて、先づ第一に貧困と戦ひつゝあるが、僕は契約時の文面が成りたゝぬのである、血は斯の如く惜まぬ者であるが──。
僕はこの頃、この部屋か或ひは「多くの人々は多様なる彼方に赴くべし、而して知識は増さるべし」とか「自然界に向つて吾等は吾等の意見を押売する」とかといふ厭に勿体振つた意味からANTICIPATIO・MENTISといふ屋号の、仲々もつてエロティックな酒場に自分自身を見出さぬ日は、主にG・L・マイアム氏のレントゲン・スタヂオに出入してゐる。彼は、一言にして云ふならば、ベーコンの所謂「其自体に於ては弱小にして無用なる才能も、正しき手段と秩序とに適用せらるゝ時は、重要となる。」──の「哲学と科学の王国」に兵士となつて、レントゲン映画といふものゝ完成に没頭してゐるファウスタスの後裔である。
酒場「ANTICIPATIO」にて。
「J・K兄──」
とまた私は外国の友達に手紙を書いた。
「昨日マイアム氏のスタディオで、ファウスタスに関する挿話を見出したから通知する。
例のローマンカトリック派のヨハンガストの手記のうちに次のやうな一節があつた。
(私は一五四八年の復活祭の前夜バジル神学校の寄宿舎で彼と食卓を囲んだ。その時彼は私に、我国では決して見ることも許されぬ珍奇な鳥類の料理を御馳走した。私は、礼に充ちた言葉をもつて、如何にして斯る鳥類を手に入れたかと云ふ質問を発すると彼は、怖ろしく不気嫌な顔をした後に、やがてその両眼に涙を溜めたまゝ黙つてしまつたので、私もそれ以上に追求するわけにはゆかなくなり、同時に、出所不明の食物は神の掟に従うて口にするわけにはゆかなくなつた。すると彼は、間もなく気嫌を取り戻し、朗らかな音をたてゝ、掌を打つと次の部屋から一頭の馬と一匹の犬とが現れた。彼は、非常に得意さうに胸を張り出して、それらの動物を指差し、彼等は如何なる類ひの事柄であらうとも自分の命ずるところであるならば決して逆らはぬ自分の最も忠実なる下僕である。貴兄の眼前で働かせて見せようか──などと吹聴したが、これも私としては神の掟に逆ふ事柄である故辞退した。が然し私の親友である天文学者のギオラヒラスは、彼がこの二頭の従者に命じて炊事の用をなさしめつゝあるさまを見たと私に伝へた。)
(翌年の冬彼は悪魔に絞殺された。)
次の一文はスポンハイムの寺院長ヨハネス・トリテミアスが一五〇七年度中の書簡で、友なる某検査官に送つた通信文中の一節である。
(ジオルジアス・サベリカスなる人物は戸籍なき漂泊者にて、自ら魔術の王と称して、神聖なる教理に戻る奇怪不埒なる説を流布し回る惨めな悪漢であります。この者、去月ガイレンヒーゼン市に現れ、同市の公会堂に於て、「キリストの奇蹟驚くに足らず」及び「哲人プラトン並びにアリストートルの著書を尽く焼き棄てるも、余の脳裏より容易に之を供するを得べし」なる二題目のもとに、十時間に亘る講演を行ひたる由を同市の僧侶より聞きましたので、早速会見を申し込みましたるところ、小生の到着を待たずしていちはやく遁走しました。その節彼が道々にポケットよりとり落したる名刺を拾うた者の言に依りますと、彼は八通りの偽名を有し、その中にはファウスタスなる文字も見うけられたさうでございますから、勿論お訊ねの不埒なる科学者と存ぜられます。そのおつもりにて追跡なさるゝやう至急お取り計ひなさるゝが適当と存ぜられます。)
(僕は当時彼と友達であつた。)
これはアンスバッハ市に当時在住した物理学者マリンスの、彼に関する述懐録の一部分である。
(彼はクンドリング生れで、クリコウの大学に在る頃より魔術に通じ、漂泊的学者となつた。彼は、何時も名状すべからざる憂鬱な相貌で、様々な不思議に就いて高言するのが癖であつたが、数年前ベニスに現れた時に、空中飛行の実験を示すと吹聴して、或る烈風の凄まじい日に高塔の頂きから空中に舞ひあがり──その時彼の五体は突風に巻き込まれて空高く飛び、大胆にも悠々と落着き払つて三態の悪魔の姿体を示したので地上より遥かに見あげる者の眼には、正しく奇蹟の験証なりと見られたが、忽ち運河の中に墜落して人事不省に陥つた。その後数年経て、ウンテンベルグの旅館に、更に驚くべき憂鬱な相貌で立現れたので、主人がその故を問ふと彼は、たゞ一言、眠いのだ──と答へたのみ。そして、深夜になると突然凄まじい家鳴りが起つたので、宿の主がその寝室に来て見ると、彼は寝台の傍らに俯向に伏して、悪魔のために絞殺されてゐた。)
──さよなら。」
と私は慌てゝ書いた手紙の封をしてしまつた。私はこの手紙をもつと続けたかつたのであるが、宇宙の神秘に目眩んで昏倒しさうになつたからである。私は、論理的抽象観念の超感覚圏から、悪魔に対する贖罪金を支払つて、精神生活上の最下級の安住地であるべき可見世界に渡りをつけて再び矛盾と闘ふべき情熱に欠けてゐた。私は、私の恩師がクラシカル・ヘレニズムの極美を讚嘆して、
「あれらの自己に対する信頼、現在の可見世界に於ける精神的創造の活動、祖先としての神々への純粋なる崇拝、芸術品としてのみの神々の讚嘆、力強き運命に対する帰依」──等の讚嘆詞に於ける神々を、鬼神と訂正して、自身の蓋然思想と争はずには居られなかつた。私は、私のファウスタスを再生せしむる為にはセラピスやイシスの秘法を受得して、彼を絞殺した文明宗教と戦ひながら、怪奇な、そして華麗なる混沌芸術の地獄へ導かしめなければならなかつた。
「何うなすつたの、独りで、お酔ひになつたの?」
ヘレンが私の肩に凭りかゝつて訊ねるのであつた。彼女は、この酒場を訪れる多くのアグリタス達の「ジヤステイナ」である美しい酒注娘である。
「俺は、絶望の盃をもう一杯重ねる。そして、お前は、あのオルガンの前に坐つて、マルシアス河の悲歌を弾いて呉れ。」
「死んではいけないよ。──向方の隅にゐるお客様が、さつきからあなたの様子を見て、あれは何処の役者なのか、余程六つかしい役でも配られたと見えて、可愛想に、酒場に来てまでも稽古に夢中になつてゐる。何を、何時、何処で演るのか訊いて来て呉れ──ですつてさ。……それはさうと妾は擽つたくつて仕方がない、あのグロキシニアの花鉢の蔭からモノクルをつけて凝つと此方を視詰めてゐる生真面目さうなヴアンダイキの髥紳士が居るでせう、あの大学教授つたらお酒は一杯も飲めないのに毎晩妾のために此処に来て、何とかして私の隙を見はからつては、妾の首筋から幾粒かの南京豆を妾の背中の中へ落し込んで、それが悉く妾の裾から床に滾れ落ちるのを見とゞけて、あゝこれでさつぱりしたと呟きながら帰つて行くのが、道楽かと思つたら研究なんですつて! 今も、うつかりしてゐたら、いきなりそれを背中の中へ投げ込まれてしまつたのよ。擽つたいと云つたらありはしない、とても凝つとしてゐられないわ、ね、一処に踊つて呉れない。」
「南京豆の一粒が、この床に落ちる時の微かな音が聞えるでせうか?」
と私は教授に質問した。すると彼は、娘の一瞬の動作をも見逃すまいと眼をそばだてゝゐるところだつたので、極めて迷惑さうに、軽く点頭いたゞけであつた。
「先生──」
と私は、ワグネルもどきの声色で更に言葉を続けた。「私は先生のやうな大学者と言葉を交すことが出来れば、夜を徹するも敢て辞さぬ者です。明日は復活祭で御座いますから、何卒あと二三の質問を御許し願ひたいものです。」
「…………」
「空に星あり、地に馬あり、卓上に一個の薄暗きランプあり、一杯のほろ苦き酒あり、然して一冊の錬金術教科書あり──さて、悲しめる詩人は孰れを選んで天の……」
「おゝ、ヘレンの裾から南京豆が一つ滾れ落ちたぞ、わしは何を措いてもあれを拾ひあげなければならない。わしは、あれらの種子を拾ひ集めて、温室のフレイムの中に播くのである。わしはセラピス教の信者である、火烙りされた諸々の種子も一度び神聖なる処女の肉体に温めらるゝならば、再び芽を生じ、蔓を伸し、蔓は終に天上に達して神と人間との間をつなぐ実証唯理の綱となるであらう──の教義に基づく万有神正論の信者である。見失はぬ間に拾ふて来なければならない、腕を離して呉れ給へ。」
「有り難う、先生。私も今、この錬金術書はストーヴに投げ込みランプは吹き消し、門戸で私の出立を待つてゐる馬は気儘な野に追放してから共々に先生の仕事を手伝ひませう、そして私は私のファウスタスに貴重な種子を服用させてやらなければならない。」
「馬鹿なことを云ふな。あれを貴様に拾はれて堪るものか、この悪党奴。」
「では、この審きは私達のヘレンに頼むことにしようぢやありませんか。」
「悪魔の弟子野郎──神正論者の修業を邪魔だてすると、剣を抜くぞ。」
「恩師ファウスタスの命のためとあれば、寧ろそれは此方の願ふところだ。私は、斯る秘薬を索める機会に出遇ふために、このやうな悩ましい面貌を永年保ち続けて来たのだ。」
「あゝ、わしは飛んでもない盗人野郎に、懐ろの中へ飛び込まれてしまつた。何故俺は口を慎しまなかつたのだらう。」
私達が、鼻と鼻とを衝き突けて争ふてゐると、
「何て、まあ煩い漁色漢達だらう。あゝ、面倒だ、灯りを消してやれ!」
とヘレンが叫んだかと思ふと、忽ち部屋は真暗闇になつた。
二人は、思はず、アツと叫んで、床に四ツん這ひになつた。そして口々に、俺はダイアナの犬だとか、俺はファウスタスの馬だとかと呟きながら秘薬の在り所を訊ねなければならなかつた。
「暗いうちに、ひとりで野蛮な踊りを踊り抜いて、背中の擽つたい南京豆を振り落してしまはなければならない。」
と呟きながらヘレンは軽妙な靴音をたてゝ彼方此方と飛びまはり始めた。
「ヘレンは、一体何んな踊りをおどつてゐるのだらう?……この靴音で想像するやうな踊りを、わしは未だ嘗て明るみのうちで見たこともないが……」
真夜中のやうな静寂の中で、教授が斯う唸つた後には、全くその靴音から娘の動作や表情を想像するのは困難である。恰も小声で何事か囁くかのやうな微妙な甘美さに満ちた靴の音が響いた。
「あゝ、俺は、この儘で満足だ……」
私は、一度ソフアの上に這ひあがつたが再びドタリとだらしない音を立てゝ床の上に転げ落ちると、絞殺された悪魔のやうに下向にのめつてしまつた。(神が、悪魔の屍を上向きに置かざらしめぬのは、神が、吾らをしてメフィストの奴僕たらざらしめんが為の誡めなり──と神学者ヨハンガストが、バジル神学校でファウスタスに会見後、悪魔に絞殺された彼の屍の位置を指して、その談話録の中に述べてゐる。)
絶望の盃であをつた酒の酔が、にわかに目眩ましい渦巻になつて私の五体を得体の知れぬ恍惚の空に導いた。私は、ヴェニスの空中で三態の悪魔の姿体の見得を切つたファウスタスの夢を追つた。……さあ、そこで、真つ倒まに、水の中へなり、沼の中へなり、転落するのを待つばかりだつた。
私は、静かに瞑目した。生温い風を切つて円筒のやうなものゝ中を一散に転落して行く気合は、はつきりと解るのであるが、一向奈落の底に達しないではないか──などと遠くに娘の靴音を聞きながら考へてゐると、不図眼蓋の裏がぼんやりと明るくなつて来た。
シエードの周囲に氷柱のやうなヒラヒラがついてゐる古めかしい台ランプが点つてゐるのだ。私は永い年月の間田舎のうらぶれた村の書斎で、このランプを点し、このやうな眼つきをして、未だ見ぬ花やかな世界に憧れながら孤独の歌をうたひつゞけた。あの、ランプではないか。私は、破れかゝつた重く憂鬱な手風琴を取りあげると、重味を補ふための皮のバンドを十文字に背中に結びつけて、「奴隷の夢の歌」や「インヂアンの嘆きの歌」を弾奏した。そして、また「七つの星の歌」や「錬金鍛冶屋の労働の歌」や「翼ある馬の歌」などを歌つて情熱の空を駆け回つた。嵐の晩となると「メフィストフェレスの登場歌」や「ジークフリード遠征の歌」を高唱して奇怪な幻と闘つた。また私は「早稲田の歌」や「バッカスの行進曲」を弾奏し、意気に炎え、終には狭小の可見世界に居たゝまれなくなつて、春先きの或る日、歓楽をもとめて蜂のやうに都へ登つた。
断末魔の瞬間には、過去の様々な経験や人物を一時に思ひ返すといふ話であるが、私もこの時、今にも息が止絶れてしまふかと思ふと、そんな他愛もないランプの周囲に集つた過去の様々な自分の憧れに満ちた表情が次々と現れては消えた。薄暗いランプの蔭で、おまけに飾りの氷柱がちか〳〵と光りを反射するので、表情の凹凸だけが暗闇の中に、明暗の線がくつきりと強い大写しになつてぼんやりと浮び出るばかりであつたが、孰れもあの村の部屋にゐたままの自分の姿だけである。それにしても様々な憧れに満ちた表情の動きは同じ顔かたちでありながら何と底深く洞ろな相違に充ちてゐることであらう! などと感心しながら私は、今床に打ち倒れてそんな夢を追つてゐる自分の表情を想像した。
次の晩私は机の前で、何うしても先へ進むことの出来ない書きかけの小説原稿を破き、
「あゝ、もう今年も暮れる。」
などと呟いてゐるところに、友達の酒木と鱒井が訪れて、
「これは日本一の美酒である。」
「味つて、賞めて貰ひたい。」
と一本の酒壜を差し出した。
「何といふ名前の酒?」
と私が訊ねると、
「メイコン、迷へる魂、迷魂。」
と得意気に答へた。
「何うして君はそのやうな銘酒を手に入れたの?」
私は、ヨハンガストもどきの口調で質問すると、二人はそのいわれを詳さに説明したのだ。私は納得して、共々に健康を祝福する盃を高く挙げたのであるが、それはまあ何といふ不思議な酒であらう、常々強酒をもつて自認する私が、三つ目の盃を挙げた時は、もう魂が何処かの空へ飛んでしまつてゐた。
二人は、私が近頃ファウスタスにのみ現を抜かして、悪魔に絞殺されかゝつてゐるのを感知して、バルザックその他の自然派の作物を読むことの忠告と、近いうちに共々に小旅行を試みようではないかといふ相談に来たのであつた。
私は、それらの事を非常に賛成して、更に迷魂の盃を重ねた。そして、もう今日限りだと称して私は、ハインリッヒ・ヒルゼルの書中にあるファウスタスの、各国の朝廷を遍歴する冒険旅行談を試みたさうであるが、間もなく私は熱に浮されて、ボロ〳〵の部屋着のまゝで散歩に出かけた。呪はれた私は、二人の友達と何処で別れたのか更に記憶がなかつた。
「先生、私は迷魂と称ばれる銘酒を服用して、適度に酔うて来ました。間もなく私は自然派の作物を携へて旅行に出かけます。──今日は、お名残りです。」
そんな夜更けでも未だ研究に没頭してゐるマイアム氏のスタディオを私は訪れてゐた。
「おゝ。恰度好いところに来て呉れた。ヘレンが助手になることを承諾して、さつきから仕事にとりかゝつてゐるところだよ。」
云ひながらスヰッチを入れると、目の前のスクリーンに一個の人体が現れた。レントゲン光線の中に現れた、その人体はスパルタ風の体操を始めてゐた。
マイアム氏は、やがてこれを映画に完成しようと心を砕いてゐる前の晩もあの酒場で私と出遇つたあのモノクルの教授である。自分は撮影技術のことばかりでなく様々な骨格の運動状態を見極めなければならないのだ。やがて自分の期する撮影機が完成すれば白昼凡ゆる場所に野外撮影に出かけて一切の生物の運動上の骨格状態を撮影しようと思つてゐるのだが、それまでは、この当り前のレントゲンで種々なモデルを頼んだ上で、標本を撮つてゐるのだが、その標本画のうちに未だ酔漢の運動状態だけが不足してゐる──と彼は兼々私の酔態が稀に見る奇体なものであるからモデルになつて欲しいと望まれてゐた。そして私もこれまで幾度か酒をあをつて、この不気味な光線の中に立つたのであつたが、何時の時でも私はいざといふ段になると酔が醒めてしまつて失敗に終つてゐた。
スクリーンの人体は、スパルタ体操を終ると、右手をあげて此方をさしまねいた。
「ヘレンが君を招んでゐるんだよ。」
G氏が斯う云ふので、私がスクリーンの向ひ側に入つて見ると運動シャツ一つになつて立ちはだかつてゐる綺麗な彼女に出遇つた。
「まあ、好く来て下すつたわね。」
彼女は私の姿を認めるがいなや、いきなり私の首に抱きついて悦びの接吻を浴せた。私が斯んな好意を彼女から享けたのは初めてゞあつた。
「妾、もうさつきから心細くつて仕方がなかつたのよ。」
と彼女は私の耳にさゝやいた。「あの先生は、たゞの変質者に違ひないわ。活動写真を撮るなんてことは皆な嘘ぢやないのかしらと思ふわ。だつて、妾を斯んなところに立たせて、踊らせたり、体操をさせたりして、自分は向方側で黙つて見てゐるだけなのよ。」
「技手は、今夜誰がやつてゐるのだらう。」
私が、それを務める時もあつたので訊ねると彼女は、
「そんなこと誰だつたか気がつきもしなかつたけれど……さつきから彼の人つたら、昨夜妾が酒場で灯りを消してから、何んな踊りを踊つたか、それを是非見せて呉れツて諾かないのよ。」
と情けなさうに述べたてた。私は、G氏が彼女の云ふやうな平凡な変質者だなどとは思ひもしなかつたし、だから、先生は決して娘ばかりに興味を持つてゐるわけではない、僕の酔態に就いてなどもこれ〳〵の関心を持つてゐると説明しようかと思つたが、今の彼女の言葉に私は強く胸を打たれて、
「そして踊つたの?」
と胸を震はせて訊き返さずには居られなかつた。
「だつて別段踊り様も何もありやしないわ。妾は、たゞ昨夜だつて、あの時、出たら目の脚踏みをして南京豆を振り落してゐたゞけのことなんですもの。」
「…………」
私はG氏の胸中を推察した。そして、闇に描いた夢を飽くまでも実現させようとするG氏の執心に同情と敬意を払つた。
「たゞ、斯うやつたゞけなのよ──と云つて妾は、仕方がないから烏賊が泳ぐ見たいに体をくねらせたり、縄飛びをする時のやうに飛びあがつたりするんだけれど、お前は私を欺さうとしてゐるなんて云つて、何うしても信じないのよ。」
「……ヘレン、近いうちに僕達と一処に旅行に行かないか?」
私は、何う云つて好いか解らなくなり、胸苦しくなつたので話頭を転じた。
「えゝ、行くわ、妾、あの先生のモノクルから逃れられるんなら何処へでも行くわ。」
「さうか──」
と私は腹の底で唸つた。そして私は秘かに氏のモノクルを盗みとつたかのやうな怖れを覚えながら、
「ぢや約束しよう。温泉のあるスキー場へ行かうぢやないか……」
と誘つた。
「えゝ、はつきり約束しませう、先生に聞えないやうに──。嬉しい!」
とヘレンは思はず私の胸に顔を埋めた。
スキーと云へば、さつきヘレンが泳ぎとスキーに就いて経験があるとG氏に云ふと、G氏は、おゝ自分は未だそれらの運動状態の標本も撮つてなかつた、それを頼むと云つて、本物のスキーを穿かせられて、幾通りもの姿勢や、また台の上に載せられて、水泳のポーズも撮られたところである──とヘレンは附け加へた。
宇宙万有の真髄に向つて、学究の力をもつて、その神秘と闘はうとするのが念願であるG氏であるが、何うして斯うまで深く人体のことばかりに拘泥してゐるのだらうか、近いうちに質問して見なければならない──私が、フラフラとする脚どりでヘレンを抱きながら首をかしげた時、スクリーンの向方側のソフアで一休みしてゐたG氏が、
「ライト──」
と、技手に命じた。
灰白色の光線が私達の肉体を射透した。
「では、マキノ君、自由なポーズを示して呉れ給へ。」
G氏は私に呼びかけた。──いつの間にか私の「迷魂」の酔は醒めかゝつてゐたが私は、もうこれで当分G氏とも名残りか! などと思ひながら、
「オーライ、サー。」
と答へると、光茫の圏内を手を振り脚を挙げしながらグルグルと歩きまはつたり、四ツん這ひになつてヘレンに飛びついたりした。
すると、前夜の酒場の場合と全く同様なランプの幻が私の眼蓋の裏にあり〳〵と浮びあがつて来た。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説 第二輯」芝書店
1932(昭和7)年5月10日発行
初出:「文藝春秋」文藝春秋社
1931(昭和6)年2月1日発行
※片仮名の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
2016年5月9日修正
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