心象風景
牧野信一
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槌で打たなければ、切り崩せない堅さの土塊であつた。──岡は、板の間に胡坐をして、傍らの椅子に正面を切つて腰を掛けてゐる私の姿を見あげながら、一握りの分量宛に土塊を砕きとつて水に浸し、適度に水分を含んだ塊を順次に取り出しては菓子つくりのやうにこねるのであつた。
岡の額には汗が滲んだ。彼の労働の状態を眺めてゐると、私も全身に熱を感じた。私達は朝の七時から仕事に着手して、午迄一言の言葉もとり交さなかつた。──極寒の日であつた。
岡が自分の手で建築した掘立小屋のアトリヱである。四囲の壁は、壁を塗るべき下拵へだけが出来てゐて、未だ壁は塗つてなかつたから、内に居て、外の風景が格子の間からキラキラと眼に映つた。碧い空が見えた。アトリヱの傍らの芝生には鶏や兎や山羊が遊んでゐた。窓では私達が捕獲した梟の籠が日を浴びてゐた。
このアトリヱを建てゝから四度目の冬の由である。凡そ一年に一作の彫刻家である岡は、このアトリヱで「兎」「鶏」「梟」等の作品をつくり、そして今年は「私」をモデルに選んだのである。
空では百舌が諧調的な鳴声を挙げてゐた。岡は、練りあがつた土塊を掌に載せて、空想的な眼差で稍暫く打ち眺め、そして、今度は怖ろしく入念な実験的な表情で凝つと私の顔と姿とを、それと見比べた後に──よしツ! と点頭いてから、ぽんと傍らの瓶の中へ投げ入れるのであつた。
やがて瓶は、ゴムのやうに柔軟な土で一杯に満された。
「これだけで丁度君の半身像が出来る分量だ──さあ、今度は支柱だぞ。」
岡は、バケツの水で土まみれの手を洗ひ、息も衝かずに次の仕事に取り掛つた。彼の達磨に似た容貌は、亢奮の息づかひで赤かつた。──岡は鋸を執つて、凡そ二尺四方角の平板を作つた。そして板の中心に、私の胸から凡そ眼の高さに等しい木片の棒を板の裏側から打ち抜いて一本釘の上に垂直に立てた。
さて、それを制作台の上に据ゑると彼は、主柱を心棒にして、其処に形造られるべき私の姿を、指先を持つて想像した後に、今度は荒縄を水に浸して、壁に向つて、サツと切つた。しぶきは壁の隙間を飛んで、軒下の八ツ手の葉に降りかゝつた。彼は縄の一端をつかんで更にもう一度空に、鞭に等しい凜烈な唸りを響かせ、力強く唇を噛みながら螺旋状にギリギリと支柱に巻きつけた。
其様子を見守つてゐると私は、体内に奇怪な震動を覚えた。此一本の支柱は私の脊髄に該当し、螺旋状に巻かれた荒縄は私の内臓器官と神経系統に相当する──と私は想像したのである。
「さあ、これから──!」
これが「私」の肉附けをするために、最初に土塊をとりあげた岡の最初の言葉であつた。私は、思はず、礼儀正しい写真を撮影する刹那に似た気取つた緊縮を身内に覚えた。
「自由な心持でゐて呉れ給へよ。そして自由なことを考へてゐて呉れ給へ。」
岡は云ひながら私の顔を視詰めて、一気に両掌の土塊を柱に固めつけた。岡が自発的に言葉を発したのを私は珍奇に思つた程彼は、酒に酔はぬ時は無口の質である。──柱は、忽ち百目蝋燭程の土の棒と化し、やがて間もなく柱の中下部以下が三倍の太さとなり、壜型となつた。混沌の大気の中に、雲煙が凝つてアミーバが形成される概であつた。
第一日の仕事を終へた。
岡は壜型の氷結を防ぐために、濡襤褸をもつて幾重にも大切にこれを包んで、最後に毛布を覆つてから、肩のあたりを細紐でくゝつた。
「斯うして置けば、このまゝ──若し君が幾日休んでも大丈夫……」
「出来るだけ毎日来るつもりだけれど、万一あまり長く間を置くやうなことがあると、君の創作気分に触るやうな場合はありはしないかね?」
私は、自信の無い受動的な気分ばかりで、そんなことを怖る怖る訊ねた。
「三年──」──岡は、眼をギヨロリとさせて唸りながら微かな笑ひを浮べた。──「三年、間が飛んでも此方は平気だよ。」
石油ストーヴは油が切れて、丁度、自然と火が消えたところだつた。
アトリヱを出て段々になつた桑畑を降り切ると、此処にも四角な掘立小屋がある。これも岡の手製の家で、以前彼は此処を木彫室に使つてゐたが、倉閑吉と鶴井大次郎が住み込むやうになつて以来は、二人のために完全に明け渡したのである。
囲炉裡で、さかんに火が燃えてゐた。鮒が焼かれてゐた。
「そんなに焦しては喰へぬぞ。」
「俺が喰ふのだ。お前の分はお前が焼け。」
「それは俺が釣つた魚だ。」
「いや、お前のは此方の小さい方だ。」
私達が扉をおした時、二人は肴のことで争つてゐた。常々倉は、鶴井を指して、彼奴はものの味が解らぬ山家の無頼漢だと軽蔑し、鶴井は反対に倉を目して、生臭好きの猥漢だと嘲弄し合つてゐる間であつた。事毎に反対の意見をおし立てゝ齧み合つてゐる仲だつたが、兎も角もう一年足らず、一つの小屋に起居してゐるわけであつたから、完全な敵同志ではないに相違ない。それにも関はらず二人の者は、一人の場合に他人に会ふと必ず、どちらかのことを敵と称んで呪詛した。不自然な生活の結果に違ひない。
二人は私達の顔を見ると、岡の仕事はじめのための祝盃を挙げるべく待つてゐたところである、酒は凡そ何升工面して来べきか? といふことを交々呼び掛けた。私達は、果して何処の酒屋がこゝろよく私達に一荷の酒樽を渡すであらうか? といふことに就いて寄々会議を凝した挙句、隣り村の一軒の酒造家の主が岡の前年度の制作である「木兎」を望んでゐるらしい口吻である故、是を一番弁舌を以つて籠絡して来よう──と鶴井が勇敢な役廻りを買つて出た。
私と岡は、そして鶴井と倉は、四角な囲炉裡に夫々相対して向ひ合つてゐた。私は焔の合間から時々岡の方を見ると、彼の視線は何時も凝然と私の上に注がれてゐた。そして彼は、人知れず煙りのうちに指先きをもつて何かの輪廓を描いてゐるといふ風であつた。
その晩私は、酔ひ潰れて鶴井達の小屋に泊つてしまつた。──朝になつてアトリヱに行つて見ると、岡は瓶の土を練つてゐた。
「今日は無理だらう?」
と彼が云ふので私は、
「腰掛けてゐる位ゐ……」
さう云ひながら、モデル椅子に凭ると、岡は壜型の毛布を取除いて、仕事にとりかゝつた。
その日の仕事では、壜型の肩が稍扁平な壁になつて、頭部の丸味が伺はれる程度になつた。
仕事が終つたところに、私の妻が、私が前の晩帰らなかつたのを案じて来た。岡が私の代りに、私達が仕事の着手を悦んで祝盃を挙げ過ぎた事に就いて詳さに説明した。
「これが俺だよ。」
肥つた壜型を指して私が左う云ふと、
「未だ、これでは面影が解らないけれど──」
と、それが余りに無造作な恰好であることを何とはなしにわらひながら、
「それでも、此方が前だといふことは解るわね。」
さう云つて、未だ石地蔵ほどの人間味も現れてゐない「私」の土塊を、そつと眺めてゐた。
岡は襤褸布を絞つて、「私」を包みはじめた。
「もう幾日位ゐしたら、似て来ますの?」
「さあ──明日、若し、続けられるとして、続いて二日──位ゐしたら、そろそろヘラを使ふやうになるでせうから……」
岡が左う云ふと彼女は私の方を向いて、
「ね、休まずに続けなさいな。」
とすゝめるのであつた。「二三日、此方に居続けたら何うなの?」
「それは──無理でせう。」
と岡が引きとつて、桑畑の下の小屋を指さした。──「病気になるといけない。」
岡が、この程度にでも物を言ふのは珍らしい! と私は思つた。
それにしても私は、モデル椅子に坐りはじめてからといふものは、何うもこれまでの私とは稍趣きを異にした寡黙家に変つたやうに思はれて来た。
桑畑の下の小屋からは、未だ日も暮れぬといふのに大きな酔つ払ひの声が挙つてゐた。鶴井の弁舌が効を奏して、四斗樽が到着してゐたのである。鶴井や倉の他に、別のしやがれた男の声と、鳥に似た女の歌をうたふ声が交つてゐた。
小屋から巻き起つて来る唱歌は、狸よ、狸よ、お寺の庭は、今宵も隈なき月夜の萩の花ざかり、同勢集めて出ておいで、一杯機嫌のお月見で、和尚さんは大浮れ、浮れて浮れてぽんぽこぽん、お前も負けずに打てや打て、ぽんぽこぽんと腹鼓……。
歌詞を私は、覚えなかつたのであるが、たしかそんな意味合ひのおどけた童謡で、ぽんぽこぽん……と、腹鼓の擬音を一節毎に合唱するのであつた。
それが物凄まじい胴間声と、しやがれ切つた調子放れの、だが歌手自身は唱歌手としての一種のポーズを執つてゐる態の有様が窺はれて、聴く者の身に悪感を強ひられる如き変梃なてのうると、さうかと思ふと、女のこれはまた実に突拍子もない人騒がせ気な、聴く者の胸に、その唱歌者の無神経質な偽陶酔状態を感ぜしめて身を切らるゝ百舌鳥に似たそぷらの、そのほか無造作に耳を澄すと、ひとつひとつが、いろいろな動物の不自然な場合に発する唸り声を例証に挙げて、滑稽めいた形容辞を冠せずには居られない底の、雑多な騒音が、決して飽和することなくばらばらに入れまじつて、だが、夫々精一杯に絶叫されてゐるので、寧ろ、それは、白昼であればあるだけ、あたりが森閑とした麗らかな冬景色の止め度もなく明るい畑中であればあるだけ、戸惑ひをして現れた化物共の有頂天の酒盛り騒ぎのやうに、不図私には面白く思はれた。お竹蔵の夜神楽が、真ツ昼間の田舎の空に飛び出して──私はそんな妄想に打たれて、得難い胸の高鳴りを覚えた。
「やあ、はじまつてゐる、はじまつてゐる──あツはツはツハ!」
私は、突然天を仰いで大笑ひの声を挙げたが、それは私の口腔を飛び出て、うらうらと冴え渡つた碧空へ散つてゆくのを気にして、見あげると「笑ひ」とは思へぬ──烏天狗の、人間を威嚇する音楽のやうに享けとれた。近頃、とんと斯様な噂は消え去つたが、一体このあたりには私の幼時の頃までは、天狗の出没に関する事蹟が矢鱈に流布されて、悪夢を持つた人々の心胆を寒からしめてゐたものであるが。
どうにも前の晩の寝不足が祟つて、凝つと「モデル椅子」に掛けてはゐられなくなつたので、私は岡の仕事に中止を乞ふてアトリヱを出たのであるが、脚下に、なだらかな凹味になつた桑畑から、むつと噎せ返して来る和やかな陽にあをられると、人心地もなく、さんらんたる夢に酔ひ痴れてしまつてゐた。ところで、天と地の底なしの明るみを湛えた空洞の無音状態に耳をそばだてながら、貝殻の空鳴りと同様の、無形の、巨大な翅音の竜巻に巻き込まれて窒息しかかつてゐたところに、突如として、桑畑の一隅の小屋から破裂して来た珍奇な唱歌隊の合唱に、云はゞ私は救助されて、地上に伴れ戻されたのであつた。
小屋は、今や、未曾有の乱痴気騒ぎをはらんで、間もなく、はち切れんばかりの凄まじさの絶頂であるかのやうだつた。
私は、妻の手をとつて、
「行つて見よう、行つて見よう──」
と浮きたつた。
二人は、両腕を水平にして、丘の上に、爪先立つて、凧のやうに胸一杯に風を吸ひ込んだ。──そして、滑らかな芝生を、グライダアに化けた気で、一気に駈け降りた。ほんたうに、それは芝生を滑走して、突端に迫つたならば、ものゝ見事にふはふはと離陸出来さうな青空であつた。
「面白い、面白い、ハツハツハ……」
跣足か、でなければ薄底のサンダルでも穿いてゐるやうに、妻のも、私のも、靴音なんて知らぬやはらかな芝生であつた。
「凧だ、凧だ!」
私は、調子に乗つて、凧のやうに翼を煽ると、妻君も真似をして、唇にぶんぶんとぷろぺらの唸りを発しながら、小屋の窓から糸をたぐり寄せられてゐる通りに、一直線に騒ぎの方へ吸ひ込まれて行つた。
然し妻君は、二人今あの騒ぎの小屋へ沈没したならば、手もなく夜昼のけじめも忘れた泥酔の土鼠に化してしまふことを怖れて、もう暫くこの芝原で遊んで行かうではないか、岡のアトリヱから筵を持つて来て、橇にして、このスロウプを滑つて見ようではないか? などといふことを申し出た。
私は賛成して、上衣を脱ぎ、靴や靴下も棄てゝ運動の用意をした。妻君も私の通りにして、
「さあ、一二三! で、上まで、昇りツこ!」
さう云つてスタートの構へをした。
で、私達は兎のやうに丘を駆けのぼりはじめた。恰度中程にさしかゝつた時に私は、事更に脚を滑らして見て、
「アツ!」
と、叫んだ。適度なやはらかみと傾きの加減と明るさを湛へた絨毯に似た芝生の感触が、そんな誘惑を私に強ひたのである。ところが、滑り落ちはじめて見ると、それは、思つたよりも眺めたよりも、中々に嶮しい感じの傾斜であつて、私の体は頭もろとも、ものゝ見事に逆転して、樽のやうであつた。私に続いて妻君は腹這ひになつて横になると、忽ち風車のやうにグルグルと転げ落ちて来た。私は、下の芝生で待ち構へて、回転が止らうとするほんの手前で巧みに両腕に掬ひあげた。
二人は腹を抱へて笑つた。
私達が、そんな遊びを繰り返してゐる間も絶え間なく小屋からは、酩酊者の合唱が響いてゐた。
「あの仕事が、はじまつたとすると、あれが済むまでは、東京へ移れないかしら?」
妻君の云ふのは、私のモデルのことゝ、私達が同じ町に住む私の老母との間のことであつた。私達は「町の生活」をあきらめて、東京へ移らなければならないと思つてゐたのであるが永い間機会を逸してゐた。
「移れないこともなからうが──時々、此方に来さへすれば好いんだからね。」
二人は芝生に寝転んで、空を見あげてゐた。
「おうい、おうい! 此方をお向き!」
さういふ声がするので私達が振り返つて見ると、窓から半身を乗り出して倉閑吉が切りと此方をさしまねいてゐた。別段に、傴僂といふわけはないのだが、背中の曲り工合と丈の矮小のあんばいから、それに比べて不釣合な容貌の魁偉さ、その上、いかなる類ひの婦人に対しても単なる機会次第に依つて、おそろしく大胆な恋を挑むのが習性である彼をさして、皆なは、ノウトルダムのカシモドと仇名してゐるが、
「なるほど──」
と私は、夕映の逆光線を浴びて顔を歪めてゐる閑吉を見ると、たしかに、それは、カシモドと称ぶよりも、寧ろノウトルダムのシメイルのうちの何れかに類似してゐると思はれた。彼は画家と称して、一年ばかり前の春頃、凡そうらぶれた様子で何処からともなく歩いて、未知の私のところに宿を乞ひに来たのであつたが、いつの間にかから、小屋の連中と知合ひになつて今では此の方に移つてゐた。
彼は、二度ばかり私に向つて、
「君の女房は、僕に惚れてゐるよ。」
などゝ云つたことがある。平凡な好意を、自分にのみ特別なものと思ふ曲解者であるらしい──と私は思つたゞけであつた。然し私は、倉の不思議な虚栄心に好奇の眼を向けるやうになつてゐた。
「皆なが待つてゐるんですよ、早く来ませんか──」
倉は、ありたけの声で呼んでゐた。と、倉の姿が急に消え去つて(どうも、襟元をつかまれて引き込まれたやうだつた。)鶴井大次郎が乗り出た。
「アトリヱまで、歌が聞えたでせう?」
私は、点頭いて、それで出て来た由を答へた。
鶴井は「馬」といふ仇名を持つてゐるが、別段何処が馬に似てゐるわけでもないのだが、声の珍奇な太さなどにも何か馬を聯想するところがあるらしい──などゝ、私は今更のやうに思つた。倉の矮小に比べて、鶴井は六尺豊の大男であつた。
合唱中のあの胴間声は鶴井であり、あのてのうるは倉であることに私は気がついた。
で、私達がいそいで身仕度をとゝのへようとすると大次郎がさかんに手をふつて、そのまゝで〳〵と呼ばはるので、そのまゝ私も妻も上著を腕にかけ、泥の素足に靴を突つかけたまゝ小屋を目がけて駆け寄つた。小屋は相もかはらず此処を先途とはやしたてる合唱をはらんで、大浮れの絶頂であつた。ぽんぽこぽん〳〵のこうらすが聴くも身の毛がよだつばかりに乱脈な調子で繰り返されてゐる。自分も酒に酔へばいつもあの通りに浮れて、あんな大はしやぎの旗振りになるのかと思ふと、真面目な人達に軽蔑されるのは無理もない──と私は思つた。
扉をおすと、歌は突然ぴつたりと止んだが、その時私は、思はず、
「あツ!」
と小声で叫んでしまつた。だつて、凡そ二坪ばかりの容体をもつた小屋の中に、まあ、何と、居るわ、居るわ! 数へやうもない、うよ〳〵とした者共が一杯、目白おしにつまつてゐるではないか。むうつとする酒の香りと煙草の煙りが濛々と渦巻いてゐる中に、しどけなく酔ひ痴れた男女がいくたりともなく折り重なつて累々たる有様であつた。──そして私達が入つてしまつた後から扉が閉められると、臆病窓に似た窓をたつた一つしか持たない小屋は牢屋のやうに薄暗くつて、あの明るみから飛び込んで来た私は、昼間の映画館に入つた時と同様に眼がそれに慣れるまでは余程の時間を要した。
「さあ、君が来るのを待つてゐたんだ、歌つて呉れ〳〵、例のナンシー・リーを──」
さういふ唸り声と一しよに、私の眼の先に茶呑茶碗の盃がぬつと突きつけられた。常々私が唱歌に関しては彼等のリーダーであつて彼等の歌ふ限りの大凡の種目は新旧の差別なく私の伝授に依るものばかりであつた。今、歌はれてゐた狸の唄は別だつたが──。
「やつぱり君が居ないと駄目なんだよ、何うも俺達覚えの悪いには吾ながらあきれたね、あんなに百万遍も教はつたナンシー・リーもリング・リング・ド・バンジヨウも乃至は旗の歌といひヤンキー・ドウルも、いざ歌はうとして見ると、おしなべてぽんぽこぽんの歌と同じ節になつてしまふんだよ。」
「君が先に立つて歌へば俺達も歌へるんだから、一つ、まあ端から順々に披露して呉れ。」
「──何を、はにかんでゐるんだい。愚図々々してゐると喉を絞めるぞ。」
八方から所望されるのだつたが、私は、白面といふばかりでなく、知らぬ人の顔が大分見うけられるので、有無なく調子に乗るわけには行かなかつた。で、私は、そんな呑み方は不得意であつたが、目をつむつて茶碗の酒をひつかけたが、さつぱり動く気色も感ぜられなかつた。
「さあ、歌へ〳〵、このモダン男……」
さう云つて向方側の隅から私に飛びかゝつて、実に堪らない口の悪臭をはあつと私の鼻に吐きかけた男に気づくと、緑山寺の和尚であつた。アトリヱの丘つゞきにある寂れた寺の住職で此処から歌が聞えると、とるものもとりあへず、生垣を飛び越えて屹度駈けつけて来るのである。四五日前、珍らしく鶴井が野良装束になつて、生垣のはちすの手入れをしてゐるところを見たので、私は、はちすの花を貰はうとして傍へ行くと、
「今ね、和尚の道を塞がうとしてゐるところなんだよ。どうも酒樽が着いて以来、泊りがけの御入来でね。」
と寺の方を指さしながら、生垣の穴をつくろつてゐた。──不図、そのことを思ひ出したので、私は窓に伸びあがつて生垣の方を眺めると、此間鶴井がぶつ〳〵云ひながら塞いでゐた生垣には前にも増した大きな花のトンネルが、鏡のやうに光りを吐いてゐた。倉や鶴井は、あの和尚は和尚らしくなくて、喧嘩と猥談にのみ長けた大生臭だ──と顰蹙するのであつたが、私には彼等自身の方が、寧ろそのまゝの言葉に適当する者と思はれた。
「俺が卵を売つた金で酒をぶらさげて帰る時だけは、奴等は、緑山寺さんだとか、大師さんだとかと云つてちやほやする癖に、此頃鶏がトヤについて俺の収入の道が絶えたとなつたら、忽ち手の裏を返しやがるんだよ。」
奴等といふのは眼の前にゐる倉や鶴井を指すのであるが、和尚は憤慨に堪へぬといふ口吻で私に詰め寄るのであつた。──「俺あ、ちやんと見たんだ、鶴井の野郎が垣根の穴を塞いでゐるところを──べらぼう奴、あんなものを突き抜くのは一ト息だよ。……あつはつハ……さあ、飲め、さあ、飲め、そして歌をうたふんだよ。」
「とつ、とつ、とつ……」
私は云はうとした言葉が、何故か急にどもつてならなかつた。「とつ、とつ……鶏が、何うかしたんですか?」
私の傍らにゐる一人の実に美しい(と私に思はれた。)、凡そ、この小屋に不調和な近代風の洋装をした断髪の婦人が、女だてらにあぐらに似た坐り方で、この人だけはウヰスキイのポケツト壜を前にして栓のグラスを傾けてゐるのであつたが、稍ともすると、凝つと私の方を向いて、此方の思ひなしのせゐか、なんとも甘々しい視線でいつまでも私を眺めるのであつた。──それが私は気になつて堪らなかつた。
「寒玉子で一番大いに儲けてやらうと、たくらんでゐたところが、つい先頃鼬の奴にねらはれてあらかた生血を吸はれてしまつた上に、残つた連中が五羽ながら雄でね、二羽の雌と来たらそれ、そのトヤといふものにつきやあがつて、さん〴〵の態たらく……」
「そ、それあ、どうも──」
と私は上の空で同情した。
そのうちに、あちらはあちらで、倉と鶴井の激しい喧嘩がはじまつた。
「まあ、大さんの声の大きいこと……」
と婦人は、さう云つて、ほゝゝゝとわらつて、また、私の顔を見あげた。さつきの合唱中のあの「無神経質な偽陶酔状態を感ぜしめて身を切らるゝ百舌鳥に似たそぷらの」と形容した女声は、この人だな! と私は思ひあたつたが、此度はその声が、決してそんな風には私には響かなかつた。
「……あのね、あの、あたくし、斯んなことを直接に申すのは恥しいんですけれど……」
と、つゞけて婦人は真赤な唇を手の甲でおさへながら、視線は決して私から離すことなく円らにうつとりとさせたまゝ「もう何年も何年も前から、あなたの作品のとても熱心な愛読者なんですのよ。」
と、いともふくよかに呟いた。
「はあ、さうですか……」
私は、落つき払つたつもりで答へたが、にはかに胸が激しい鼓動を打ちはじめた。
「やい、この低脳の風来坊! 手前えは、ぬすつとだぞ。歩いて来た時のボロツ着物を着て出て行きあがれ。」
鶴井の声は益々高まつた。そんなことには私達は、至極慣れてゐたから誰も驚く者とてもなかつたが、罵り合ひは次第に激しくなつて、あたりを圧した。
「何とでも云やあがれ。──うぬが、お春に書いた手紙は皆な俺は読んで知つてゐるんだぞ。……ふつふつふ──だ。大した名文だよ。」
倉閑吉は、くるりと鶴井に背を向けて皮肉気な嗤ひを浮べてゐた。すると鶴井は、突然、髪の毛を毮つて
「あゝツ、口惜しいツ!」
と叫んで、ワツと泣き伏した。そして、「倉の奴は、自分が、文字といふものが何一つ書けないことを飽くまでも秘密にして、俺が書いた手紙を、そつと手写して、事もあらうにそれをそのまゝ、お春に渡して、加之に俺のことを、さん〴〵にこき降した。」
と身を震はせて泣きながら、鶴井は誰にともなく大喚きに訴へた。鶴井は、もう、たしか四十歳であつたか? と思ふ。
「鶴井──」
と和尚が呼んだ。──「その手紙は倉に頼まれて俺が写してやつたんだよ。いきさつを詳しく聞きたかつたら、はちすのトンネルを俺の背丈けに明けたならばね……」
こつちでは、私の作品の「愛読者」が、
「あの、妹さんでいらつしやるんですか?」
と私の妻に訊ねてゐた。妻が、それに答へそびれて、どぎまぎとしてゐる様子だつたから私は代つて、云はうとした時、不図食膳の蔭にある私の手を、徐ろに力を加へながら握る者があつた。
妻かしら? と私は思つたので、見ると、妻は和尚を隔てた隣りで、熱さうに両掌で頬をおさへてゐた。
私は、ドキツとして慌てゝ手を引かうとすると、力一杯手首をつかまれてしまつてゐた。──私は、五体までがしびれるやうな冷たさともつかぬ奇体な戦きに襲はれた、それが、その婦人であることに気づくと──。大分に注がれた酒が、一塊の氷のやうに固まつたかと思ふと、たちまち、また箭と化して、脳天から爪先を目がけて発止と駈け抜け、矢継ばやに颯々と射貫れて、何だか自分の体が、底のない一個の硝子の円筒のやうなものに変つてしまつたやうに思はれた。
その時扉の外で、私の名前を呼んで、
「居るかね、居るかね──」
と云ひながら近づいて来る声がした。──私は、返事も出来なかつた。おそらく餠でも喉につかへでもしたやうに苦悶気の眼を白黒させたことだらう! と、追想すると、恥のために死にたくもなる位ゐであるが、その時は、総身がぶる〳〵と震へるばかりで、それを更にあたりの者に悟られまいとする努力とがこんがらがつて、立往生の態であつた。
扉があいて、ぱツと光りが射し込むと同時に離されたから好かつたものゝ、素知らぬ風を装つて額に掌をあてゝ見ると、冷汗が玉となつてゐた。
「やあ、居るね。──大した騒ぎぢやないか……」
岡であつた。岡は真赤な顔をして私の傍らに立つと、
「君、実に済まんことをしてしまつたんだよ。」
と、てれて、眼をぎよろりとさせた。
「…………」
「勘弁して呉れよ、君──とんだ失策をしてしまつたんだが。」
前置ばかりを気の毒さうに岡が繰り返すので私は、不安の雲に巻き込まれたが、漸くその理由を聞くところに依ると、三日間の連続の仕事で、漸く壜型の「私」に微かな眼鼻のあり所が感ぜられるところまですゝんだところ、
「もう一枚着物を著せて置けば好かつたのを、ついうつかり前の日のまゝにして置いたら、すつかり凍つてしまつてね……」
と云ふのであつた。
「やり直しは、僕は平気だが。」
私は漸く言葉を発し得た。
つまり、壜型の粘土の私の像に、襤褸布の巻き方が足りなかつたゝめに氷結して、ポロポロになつてしまつたのである。
「失敬しちやつたな、どうも──」
「それは──ぼ、僕は関はんよ、どうせ、たゞ椅子に腰かけてゐるだけのことなんだもの、君こそ、馬鹿を見たゞらうが……」
「失敬、失敬──」
と繰り返して岡は私の手を握つた。
それから暫くたつて私は、ひとりでそつとアトリヱに来て見ると、なるほど壜型の「私」はすつかり水分を失つて石となり、試みにコツコツと金篦の柄で叩いて見ると、叩くそばからぽろぽろとくづれて、またゝく間にあとかたを失つた。
私は、モデル椅子にぼんやり腰かけて暮れかゝつた外を眺めた。──あの婦人の映像が、はつきりと頭にのこつてゐる。
「すつかり駄目になつてしまつたんだつて!」
私の後を追つて来た妻であつた。──私は、思はず飛びあがる程吃驚した。
「まあ、斯んなに!」
妻は、くづれ落ちた土を見て痛ましさうに呟いた。
「…………」
私は、妻に堪らない後ろ暗さを覚えるので、さつきの事を告げようと思つたが、それにしても、単に、あれだけのことを、何う云ふ術もないし、また、あの婦人の行動を積極的のものとのみ見て告げるのは、それも何とはなしに己れの卑怯を自分に見せつけるやうでもあり──だから、何も、あらたまつて云ふべきほどの事でもなからう、と、思ひ直したが、何うも胸に異様なときめきが後から後から津浪となつておし寄せて来るのに敵はなかつた。
「何うしたの、さつぱり元気がないぢやないの。がつかりしちやつたの?」
「さうぢやないが──。明日から出直して、この仕事にかゝるんだから、早目に来るとして、今日はこのまゝ帰らうかな。」
小屋からは、また合唱が響いてゐた。そして、さつきと同じやうに女の鳥に似たそぷらのもまじつてゐた。
私は、その明朗気な婦人の歌声に反感に似た軽い嫉妬を覚えた。
「あの方、名刺を下すつたわ。」
妻が小型の名刺を差し示したので、見ると「小倉りら子」と誌してあつた。
「絵を勉強してゐるんですつて──」
「…………」
「そしてね、絵の次に好きなのがウヰスキイなんだつて。」
妻は、まばたきもしないであらぬ一方ばかりを凝つと眺めてゐる私に、そんなことをはなしかけた。
ある日、私達は岡のアトリヱで酒を飲みはぢめて、近頃になく私は泥酔した。そして、まつたく前後不覚であつた。あまり多勢だつたせゐか、相手の顔すら悉く曖昧だつた。
朝眼を醒して見ると、何処だか得体が知れなかつたが私は、しやれたやうな部屋で、花美な蒲団に寝てゐるのであつた。
傍らを見ると、もう一つ並んだ同じやうな蒲団の中から、頭もろとも潜り込んでゐるので誰やらわかりもしなかつたが、ほんとうに雷のやうなと形容したい猛烈な鼾声が、ごろごろと鳴つてゐた。……その唸りは、さはつて見るのは薄気味悪いくらひに凄まぢく大波を打つてゐるので、私は、誰だつて関ふものか──と思つて跳ね起きた。
「……何ツ云つてやがんだい、べらぼう奴……グググ……」
突然、そんな音響がしたので、気をつけて見ると、それは眠つてゐる人の寝言であつたから私は、遠慮して部屋を抜け出さうとすると、なほもその人の寝言は意味も解らずに続いてゐるかと思ふと、やがて、それは何とも名状し難い不思議な、強ひて聯想を求めるならば鳥のかけすの鳴声のやうな、苦悶に似た叫びを挙げたりした。
──そんな奇声では、夢も醒めたか知ら? と思つて振り返つて見たが、相変らずその人は無何有の奈落で安心してゐる模様であつた。
ともかく、それは、男も男、たしかめるまでもなく度えらい男の、濁りを湛へたばすであると思ふと──私は何といふこともなしに吻つとして、著たまゝ寝てゐた著物の兵古帯などを締め直してゐると、間断なく鼾声と寝言が入れ交つてゐたが、寝返りを打つ拍子に彼は、家鳴りをたてゝ力一杯側らの壁を蹴つた。
それでも彼は、未だ夢が醒めないばかりか、頭だけを被著の中にかくして、不図私が見ると鬼のやうに逞しい荒くれた毛脛の二本の脚部をすつかり露出して、加けに、今、壁を蹴つた方の脚は、蹴つたまゝの有様で、壁の中腹にぬくぬくと立てかけて、休んでゐた。──もう一本の脚は(私は斯んなことを記述するのは実に閉口なのであるが、或る必要を覚えるので余儀なく誌すのであるが──。)私の蒲団の裾の方にふん張つて、膝をぎつくりと四角に曲げてゐた。また、一本の腕は、ぬつと頭の上に突き出て、枕をあらぬ方へ突き飛してゐた。
一体誰だらう、和尚か知ら、R村の加茂村長かしら──左う私が首を傾けたのは、常々和尚は、自ら「雷の如き軒声」と称して、自分のうたゝ寝の態を自慢してゐたし、またR村の加茂と称ふ大酒家の老村長は、自分は、寝言であらゆる秘密を口走る習慣があるので、うつかりしたところには泊れない、君となら──と私を指して、一処に旅行をしても平気であるがといふことを云つてゐたので、私は二人の何れかを聯想したのであつたが、若し私が、単に、その寝姿を眺めて、知人を想ひ浮べるならば万一的が外れた場合に、たとへそれが私の秘かな呟きであつたにしても、私は満腔の恥を強ひられねばならぬであらう──ことほど左様に、その人の寝像たるや世にも猛々しく、あられもない姿であつた。
更に私は、これこそ、記述を差控へるべきであるのだが(後になつて、この人が奥田林四郎と称ぶ或る男と判明するのだが、やがて私はこの男に惨々に苛められるのであるが、肚の中で癪に障るばかりで何うしても憎い奥田を説伏せしめることが出来ないで、無念の歯噛みをふるはせるといふことになるのであるが、そんな場合に立ち至つてから私は、わずかに奥田のこの寝姿を廻想して秘かに鬱憤を晴す想ひをするのであるからなのであるが──。)あゝ、やつぱり私は止めて置かう、不しつけであるばかしでなく、そんな描写は自ら卑怯と責められるから……。
──私は思はず袂で顔を覆ふと、這々の態で部屋を飛び出した。
和やかな朝であつた。
その館は、町端れの、時折り私が執筆の仕事等を携へて滞溜することのある海辺の旅舎だつた。
それは左うと──俺は自分の仕事をしなければならないのだ、うか〳〵と、もう幾月も遊んでしまつたことだ、今日はモデルが終つたら直ぐに帰つて来る、晩飯を待つてゐてお呉れ──と、はつきりと前の日に妻に云ひ残して出かけたまゝ、知らせもせずに他所に泊つてしまつたと思ふと私は、まつたくそんなことは珍らしいので、弱い心地になつて道を砂浜伝ひに急いだ。
私は裏の門から駆けこんで、直ぐに自分の部屋へ逃れて、もう一度寝直さうとする。
「やあ、お早よう!」
と、泉水の傍らで、私の妻と茶卓子を囲んでゐた倉が、変なわらひを浮べて厭に愛想よく呼びかけた。
一体私は、事もなくにや〳〵とわらふ人は苦手であつたが、倉の、にやりわらひは就中毛嫌ひを覚えるのであつた。
「夜をこめてのモデル働きぢや、仕事は一時にはかどつたことでせう?」
「徹夜でモデルになることなんてあるものか──酔つ払つてしまつたんだよ。」
「ほゝう!」
倉は、皮肉気に驚いて、
「そいつは、また滅法な元気ですね。」
などと、にやり〳〵としてゐるのだ。
「君は、居なかつたのか、昨夜は?」
「冗談でせう──拙者は、昨夜から引きつゞいてこの家の客だつたさ。大次郎も共々──奴は未だぐつすりだ。」
ぐつすりだ! といふ言葉を聞くと、私はさつきの光景を思ひ出して、総身に鳥肌を覚えた。
妻は、決して私の方を見向くことなしに編物をつゞけてゐた。──他所から泊りがけで帰つて来るやうな場合には、寧ろ晴々しく迎へるといふ風な、いつもは気の利いた細君であるのにその表情は何故か飽くまでも頑として、むつと唇のあたりが尖つてゐるのであつた。
その妻の姿では、寧ろ私の方が気嫌を損じてしまつた。
「奥田林四郎は、何うしましたか?」
倉が訊ねた。
「そんな人、知らないね。」
「昨日、あなたを訪ねて東京から来た人さ──作家ださうぢやないか……」
「あゝ、あの人か──あれ、奥田といふ人なの?」
私は岡のアトリヱで出遇つた洋服の紳士に気づいたが、顔は思ひ出せなかつた。
「あの人なら何も僕を訪ねて来たといふわけぢやないんだよ──。あいつは……」
と私は云つた。その時私は、その男が、とても真面目さうに眼を据ゑて稍ともすれば、芸術家としての立場として僕が云ふならばね──とか、結局僕はサンボリストなんで──などゝそれが酩酊者の耳にも酔を醒すかのやうなキンキンとした奇声で、鼻が、そいだやうに高く眼がぐるりと凹んでゐたことなどを微かに思ひ出した。そして、何とも、やりきれね男だ──と思つた印象に気づいた。
「あいつは。あの、小倉りら子さんの友達なんださうだぜ。」
「なるほど──」
その時、私は電話に呼ばれた。──名前を訊いて貰はうとすると、ともかく私に出て欲しいと云ふだけで、何とも云はぬといふのである。
「どなた?」
私は、突つけんどに訊ねた。──倉も嫌ひだが、あの奥田とかといふ奴は一層嫌ひだと思つてゐた。
「あの、あたくしよ……」
私には、直ぐにりら子と解つた。いつもなら私は、斯んな場合には仲々のつむぢ曲りで、そんな思はせ振りに出遇ふと、相手の名前が解つても、わざと素知らぬ風にしてゐるのであつたが、
(尤も、そんな験しは殆ど無かつたが。)
「あゝ、小倉さんですか?」
と爽やかに云つた。
「ほゝ、お解りになつて──お早うございます。」
「……いや、さうですか。」
「ほゝゝゝ、まだ、好くお眼がさめませんの。」
「いゝえ、そんなこともありませんが……」
「妾、今、どこからお電話してゐるかお解りになつて……」
「解りませんな。」
それよりも何うして彼女が、私のところが解つたのか、決して手紙のやりとりをした験しもないのに──などゝ私は思つた。
「あのね……今、お閑?」
「えゝ、まあ……えゝ、閑です。」
この退屈気な、そして、凡そ俗つぽく甘つたる気な相手の態度が、抽象的には私にとつては虫唾を覚える程疳癪にさわる類のものだつたに関はらず──私は、さつぱり厭な気が起らないばかりか、次第に胸がときめいて来た。
「あの、少し散歩なさいませんか?」
「しかし……」
と私は叫んだ。「うちへいらつしやいませんか、道は……と。」
「嬉しい、伺つても関ひませんこと……」
「関はないから……」
庭の方で変な咳払ひが起つたので、そつちを私が見ると、それは倉らしかつたが、驚いたことには、妻が、ぬつと立ちあがつて迂参さうに私の様子を睨めてゐるのであつた。
こいつはしまつたぞ──。
私は、不図──左う気づいたが、それにしても、何故、妻は急にそんな顔つきとなつたのかそして私自身も何故妻のそんな顔つきに胸を冷すのか──私は、寧ろ不思議に思つた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「酒盗人」芝書店
1936(昭和11)年3月18日発行
初出:「文科」春陽堂
1931(昭和6)年10月~1932(昭和7)年3月
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2016年5月9日修正
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