サンニー・サイド・ハウス
牧野信一



 ………………

 火をいれた誘蛾灯が机の上に置いてあります。その光りで見ると、捕虫綱もあります。毒壺も、採集箱もそろつてゐます。

 どうもこれは見覚えのある道具だと思つて、とりあげてみると捕虫網の柄にも、採集箱の隅にも、ちやんと、S・Mと、僕の名前が記してあります。何年か前に博物学者にならうといふ理想をもつてゐた頃僕が使つたまゝ、一切の昆虫採集用具が部屋中に散乱してゐます。壁には採集物の額が並べかゝげてあり、棚にはアルコールづけの標本が、どれも僕の明瞭な採集記憶を呼び起させて、一杯ならんでゐます。

 毒壺の中では一つの玉虫と甲虫かぶとむしが苦悶してゐます。

「これは?」

 と思つてゐると、隣りの部屋からルルが入つて来て、

「今日の成績は何うだつたの!」

 とたづねるのです。

 ルル!

 あの頃の僕のたつたひとりの友達であつた緑色の瞳をもつた娘です。

 すると僕は、毒壺を指さしてゐました。僕のつもりでは、これは誰が採集して来たのか? と訊ねたのでしたが、ルルはそれを見るととても輝やかしい眼を視張つて、綺麗な驚嘆詞を放ち、そして僕の頬を平手で、賞讚の意をもつてハタハタと叩きます。

     …………………………

 僕は捕虫網をかまへて広い野原を縦横に飛びまはつてゐます。夢中です。

 春の真昼時らしいのに、蜜柑の樹蔭にたゞずんでゐるルルが、誘蛾灯をもつてゐて、ちよいと此処へ来て御覧とさしまねくので、近寄つて見ると、灯火のまはりには無数の風船虫が群れ集ふてゐます。

「これは?」

 と今度はルルが僕に訊ねます。

「おゝ、それは風船虫と称ばれる昆虫類である。これを硝子の水筒に飼育して、色さま〴〵なきれの片々を沈めてやると、彼等はそれを水面まで引きあげる。水の表面に達すると慌てゝそれを離す。彼等はこの運動を水筒中に住む限り連続させる習性をもつものだ。この光景を眺めると恰も水中に五彩の雪が降る如くに美しく、面白く、眺める者の心を慰めるであらう。」

 僕はルルのために、ぎごちない英語をもつて説明してゐます。

 ルルが是非とも、それを実験して見たいと云ふので、僕は捕虫網を五月の鯉のぼりのやうに軽く打ち振ると、風船虫の群はまるで大鯨に呑まれる小魚のやうに、網の胴なかに吸ひ込まれました。

「ほんたうは、斯んなにうまくつかまへられるわけのものではないのだがな?」

 僕は、ちよつと不安を感じたものゝ、ルルが先程と全く同程度の輝やかしい眼を視張つて、あの通りに僕の頬をハタハタと叩いてゐるので、やつぱりこれで好いのだらう──と思ひます。

     …………………………

 不図僕は、苦笑しました。

 それが白日の夢だつたからです。猫やなぎの芽があちこちにふくらむでゐる小川のほとりで僕は芝生に寝転んでゐました。川しもにある水車小屋の水車の音が長閑に聞える他に何の音響もありません。

「あんまり天気が好過ぎて、温泉にでもつかつてるみたいな気持になつてしまつて、うつとりとしてゐると、思はず筆が指先から滑り落ちてしまふんだよ──。何をするのも惜しい……」

 と云ふので眼をあいて見ると、Y・Kがスケツチ箱を投げ出して僕の傍にごろりと寝ころびました。そのカンバスを見ると、まるでパレツトの代りにでもしたのではなからうかと疑られる程に、たゞ其処には無闇に明るい絵具ばかりが飛び散つてゐます。

「シユウル・レアリスト……ひかりに酔つ払つたな!」

 僕がY・Kをからかふと、彼は、酷く生真面目な調子で、

「俺は斯んな天気に出遭ふと怖ろしくて仕方がない。自分などといふものが、まるつきり何処かへ飛び去つてしまつて、硝子箱の中に泳いでゐる魚になつた! と俺は呟いたりしてしまつた!」

 などと唸りました。──「通りかゝりの子供がね、おや〳〵この絵かきは空に魚なんぞ描いてゐやがる──なんて冷かすので気づくと……」

「睡眠不足ぢやないのか?」

「それは君だらう──俺が眺めてゐるのも知らないで君は其処で大いびきを挙げて眠つてゐたぜ。加けに口をあけて……U・Sの奴、その君の姿を面白がつて、うつしてしまはう〳〵! と云つて、今、大急ぎで、家へパテー・ベビーをとりに行つたところだよ。もう来る時分だ。」

「おい〳〵、ぢや俺は眠つてゐることにしようよ。U・Sに撮らせてやらう。──眠つてゐないでも、眼をつむつてゐると芝がやはらかいせゐか傍へ来る者の足音はさつぱり解らないよ。」

     …………………………

 それから四五日経つた晩のことです。大学生のU・Sが近頃の作品(映画)を発表するから──と云つて僕の部屋の壁にシーツをはりつけました。

 僕は、あまり興味をもつて見ませんでした。僕の知り過ぎてゐるその辺の風景や僕の友達等の日常生活の断片などを今更そんな写真で見ても僕は少しも面白くないのです。

 早春の一日──。

 などと題して、蜜柑問屋のフオード自動車に一同が乗り込んで田甫道を走つてゐる光景──だとか、僕の妻が箪笥から着物を次々に取り出すと、Y・S等がそれを片ツ端からスーツ・ケースに詰め込んでゐる、──次に、各自の鞄をさげたり、登山袋をせおつたりして妻も一処に打ちはしやぎながら村境ひの橋を渡つて来る……おや〳〵、俺の知らぬ間に彼等は旅行でも試みたのかな? と僕がちよいと眼を視張ると、次に、パツと質屋の門口が現れたり、妻の妹のR子が酒罎をぶらさげて橋を渡つて来るところへ、Y・Kが現れて、代りに持つてやつたり、四角な窓が開くと、妻の上半身が現れて、酷く注意深い眼で彼方此方を見渡してゐる、と、次に野菜畑が現れる、次に一直線の田甫道を、三人の若者が、キヤベツや大根や葱を抱へて、たゞならぬ気色で駆けて来る──。

 ──また、朝の地引網の光景もある、綱引きの人々の大写しが出る、その中にはY・Kもゐる、U・Sもゐる、若い作家のJ・Tもゐる、僕の可憐な妻や妹もゐる、彼等は満身に力を込めて綱を引いてゐる、皆なシヤツ一枚で腕まくりだ、やがて綱が引きあげられると新鮮な魚がピチ〳〵とはねてゐる──そして彼等は両手に魚をぶらさげて渚づたひに戻つて来る──村の停車場、彼等は改札口で人を待つてゐるらしい、やがて汽車が着く、駅名の立札が現れる──まばらに人が降りて来る──妻が片手をあげてヒラヒラさせると、東京の友達(僕の見知らぬ)が、三人現れる、ひとりは大変に着飾つた美しい婦人で、二人は運動家らしい若者で、ラケツトなどを携へてゐる、皆が握手する、美しい婦人と妻が手を取り合ふ、その握手の大写し、指輪と腕時計の光る白い手と、人差指に繃帯を巻いた浅黒い手──脚の大写し、厚いフエルト草履と踵のまがつた靴──一同は嬉々としながら停車場を出て来る──小川の向方に細い煙突を持つた丸木小屋に似た僕等の家が見える、妻が彼方此方の景色を指差してゐる──海、半島、蜜柑山、水車小屋、──やがて、家に近づく──からたちの垣根に添うて行くと門口に標札が立つてゐる、三人の客が立止つてそれを眺め、嗤ふ──表札の大写し──。

「Sunny Side House」

 誰が、何時そんな表札をたてたのか僕は知らない、僕は大概西向の自分の部屋の窓から出入してゐるので、そんなものに気づきもしなかつた──。

 妻が川ふちで釣糸を垂れてゐる……鮒がかゝる──彼女は魚籠びくをのぞいて、魚の数をかぞへる──大写し、十尾ばかりの鮒。

 E・Tが空気銃で梢をねらつてゐる──引き金を引く──小鳥が落ちて来る──E・Tの腰が写る──小鳥が一束になつてくゝりつけられてゐる。

 水車小屋の裏口からY・Kが米袋を担いで出て来る──。

 犬が風呂敷包みをくはへて駆けて来る──妹が縄飛びをしながら後をついて来る──停車場前の広い道──「焼豆腐、生あげ」と障子に書いてある店先が写る──。

 それから晩餐の支度の光景やら、食卓を囲んで一同が何やら相談してゐるところやら、あまり忙しいので客達も甲斐甲斐しいいでたちになつて彼等の仕事を手伝つたり、終ひには皆が打ちそろつて、向方に例の地引網が始つてゐるのを目がけて砂浜を駆けて行くところなどが写りました。

「それで終りか?」

 と僕が退屈さうに訊ねると、

「もう少し──」と誰やらが答へます。

 写る──。

 僕の部屋で、机の上に誘蛾灯があり、空の毒壺、空の標本箱──そんなものばかりが空しく写つてゐる、その間に酒徳利などもある──窓があけ放してある──人影は見あたらない──

 春になつたら採集を仕事の合間に試みようと思つて、たしかに僕は斯んな道具だてをしたのであるが、採集の夢にばかり耽つて、毎日々々何もしないで、皆にかくれて、ぼんやりと過してゐたのです。

 ──で、僕は、

「一同が、あの通りに生活のために営々としてゐるにも関はらず、お前は──」

 斯んな言葉を耳にしたかのやうに、済まぬ心地がしました。

 あの事は僕は忘れてゐたら、次に、始めて僕の姿が写りました。芝生に寝転んで、眠つてゐる僕の姿です。──あの時は眠つた振りをしてゐたつもりだつたのに、いつの間にかほんたうに眠つたと見えて、其処に写り出た光景は夢にも気がつかぬものでした。

 大写し──僕の寝顔──僕は、寝言でも呟くらしく時々口を動かせたり、軽い笑ひを漂はせたり、何か悲しさうに眉をひそめたかと思ふと、鼻をむづ〳〵させてクシヤミまでしました。気づかぬことだが、眠つてゐる間にも仲々動きがあるものだ──僕は、そんな馬鹿なことを沁々と呟いたりしました。

 そのうちに一同の者が現れて、輪になつて僕を眺め、どういふ意味か知らないが、手をつなぎ合ふと、カゴメ〳〵の遊戯でも始めたらしく、足拍子軽やかに僕のまはりを堂々廻りをして──写真は終りました。

「あの時Y・Kが傍らに来て寝転んでゐたかと思つたのも夢だつたのか?」

「ちよつと話はしたが、君は、うと〳〵してゐるので、僕は直ぐに引き返して、こゝの処は僕が写したんだぜ。」

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「西部劇通信」春陽堂

   1930(昭和5)年1122日発行

初出:「若草 第六巻第五号」宝文館

   1930(昭和5)年51日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年718日作成

2011年55日修正

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