黄昏の堤
牧野信一
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小樽は、読みかけてゐるギリシヤ悲劇の中途で幾つかの語学に就いての知識を借りなければならないことになつて、急に支度を整へて出かけた。停車場の辺まで来ると時間で出るバスが恰度出発したばかりのところで、走つて行くのが行手に見えた位だつたので、一層一ト思ひに! と思つて、大胯で歩き出したのである。
彼は真向うに見える丘を一つ越えた村にゐる友達の青野を訪れるのであつた。少々歩を速めれば、国道を回り道をして行くバスに比べて、此方は一直線に田甫道を寄切つて丘を伝うて進むのだから時間の相違は殆ど同じ程度だらう──などと思つて彼はステツキを振りながら彼方此方に月見草が咲いてゐる夕暮時に近い田甫道を小川のへりに沿うて急いで行つた。秋めいた微風が吹きはじめた頃で、たゞの散歩なら至極快い美しい眺めの田園風景なのだが、小樽は脇目も触れずに、上着を脱いでも汗は滲ませながら郵便脚夫のやうに忠実に進んで行つた。青草が靴を深く埋める程の小径である。
「途中で日でも暮れたら往生だぞ!」
田舎の夜道に慣れない彼は斯んなことを呟いて、頻りに腕時計と消えかゝりさうになつてゐる夕映の空ばかりを気にしなから、口笛を吹いたりした。
そんな風に彼は道を急いでゐたが、最初の思惑とは違つて、どうやら丘にまでも行き着かないうちに日が暮れさうな模様だつた。
「斯んなことなら明日にすれば好かつたものを──」
などゝ彼は後悔したが、今更引返すわけにもゆかない、道の中ばに達してゐた。遥か遠くの山裾にある人家に、もうポツポツと灯などが点きはじめてゐた。
「愚図々々してはゐられない!」
歩きはじめてから一刻だつて愚図々々などしたわけでもないのに彼は、達磨のやうな眼をしてそんなことを呟いた。
「駈けろ〳〵!」
不図、思ひ出すと斯んな馬鹿な話がある。つい此間のことである。遊びに来た青野が、彼に真面目に、青野の村の村長が或る夕暮時に、さうだ恰度この辺だ! 小川の流れが左に迂回してゐる水門のほとりだと云つた! ──狐に化されて酷い目に遇つたといふ凄い話を伝へた。あの時小樽は、
「馬鹿な〳〵!」と笑つて、てんで身を入れて聞きもしなかつたが、今、不意に、その現場のあたりで思ひ出すと、思慮なく寒気がして来た。青野から小樽が聞いた話の筋書は省略するが、「狐に化される」と云ふ言葉は変だが、斯んな風な精神状態の場合には在り得べきことだ──などと理学士の青野が、それを科学的に説明したことなどを思ひ出すと、すつかり非科学的な頭に今はなつてゐる小樽は、「在り得べきこと」ばかりが無闇に信じられて、脚はもう宙を踏む思ひに打たれてしまつた。
「村長だつて、君、相当の現代人なんだがね──」
とも青野は、「在り得べきこと」を裏づけたつけ!
「逃げた〳〵〳〵、村長は、君、こいつはいけない! と思つたから、駈け出したんだよ。自分は、はつきり醒めてゐるわけなんだよ、飽くまでも──。ところが君、土堤が長いこと、長いこと! そして、珍らしいことには、馬鹿にいろんな人達に出遇ふといふんだ。」
青野が云つた斯んな言葉が小樽は酷く気になつて来た。
「さうだ、駈けちやいけない。悠然と、しつかり歩かなければ──」
小樽は、わざと声を出して、重々しく唸つた。この頃ギリシヤ悲劇などにばかり没頭してゐるので何か小樽の頭の中には、在り得べきこと! と、在り得べからざること! との境を超えた夢が、何時も華やかに煙つてゐるといふ風な力弱い恍惚境があつた。それが、彼は突然不気味になつて来た。
漸くの思ひで長い田甫道を突き詰めて、丘の径道にさしかゝらうとする馬頭観音の祠の前で小樽は一息吐いてゐると、
「あたしの家へ来るの、小樽さん!」
と、呼びかけられた。
小樽は、冬子だな! と直ぐに気づいたにも拘はらず、その瞬間には飛びあがるほど喫驚した。
「冬ちやんか?」
「あしたあたりを東京へ帰らうと思ふので、これから町へ、ちよつと買物へ行かうかしらと思つて出かけて来たところなんだけれど──」
小樽は冬子の様子をジロ〳〵と験聞した。
「斯んな恰好ぢや、帰りに寒いかしら!」
白い上着一枚の冬子は、潮にやけた露はな腕を小樽の眼の前に示した。
「…………」
従兄さんは居る? と青野のことを聞かなければならないのを忘れて、小樽はキヨトンと冬子の姿を眺めてゐた。
「もう一トあし遅れると行き違ひになつてしまふところ──」
冬子は小樽が自分を訪ねて来たと思つてゐるらしかつた。──だが、小樽もそれに逆らはうともしなかつたばかりか、
「ほんたうに──」
と点頭いてゐた。「……そして冬ちやんは、ひとりで行くの?」
「バスを待つてゐるんだけれど、仲々来ないのよ。田舎の乗物はこれで厭になつてしまふはね。──でもね、あなたが一緒に行つて呉れゝば、あたしは、却つて歩いて行きたいのよ。どうせ、まだ早いから好いでせう。そして、帰りには一番終ひのバスで……」
「だつて、この坂から独りで帰れる?」
「いゝえ、あんたが送つて来て呉れるのよ。」
と冬子は、自分の冗談めかした独り決めを笑ひながら、厭にぼんやりしてゐる小樽の両手を執つて徒ら気に振つた。
「そんなら、帰りだつて、若し乗り遅れたつて、歩いて来ても好いな。」
と小樽は、夢のやうな心地で云ひ放つた。
「青野の家へ着くまでに夜にならなければ好いが──と僕は、さつき、この道をとても慌てゝ来たんだぜ。」
「何故夜になつたらいけないの、怕いの?」
「まさか──」
と小樽は口走つてしまつた。
「おなかでも空いてゐるの?」
「決して──」
と小樽は、青草を蹴つて行く冬子の白い靴がチラ〳〵とするのを視守りながら云つた。さつきはたしかに空腹でもあつた。青野の処に行き着いたら早速食卓に割り込まう! と思つてゐた位だつたが、今はもう胸が一杯で、他のことは皆忘れて一途に有頂天の思ひであつた。
「厭アな人!」
「何が厭な人なのさ、え?」
小樽は、仰山に冬子の顔を覗き込んだ。
「だつて……」
「だつて! それが何うしたの?」
「だつて、さつきは──いえ〳〵、もう好いのよ、解つたわよ。」
「御覧な! 素晴しい月見草ぢやないか、どら一枝、胸にでもさゝうかな。」
「今夜は屹度お月夜ね……」
「平気だ、斯んな道──」
小樽は、組んでゐた腕を離して、わざと武張つた足どりで先へ立つたりした。
「帰りにだつて?」
「闇だつたら提灯を買つて来ようよ。」
小川の迂回するあたりの道だつた。夕闇が漸く溢れ、終ふせて、向ひ側の岸のあたりでまはつてゐる水車小屋の事の飛沫が白い蝶のやうに見えたりした。
二人は会話が杜絶れると、肩を組んで、口笛に合はせて鮮やかな歩調を踏んで行つた。
「ね──」
と冬子が云つた。「ほんたうは、あたし、町へなんか行つたつて行かなくつたつて関はないのよ。さつき、たゞ、あゝ云つただけだつたのよ。」
「そんなこと何うでも関はない──」
と小樽は、全く意に介さぬ心地で咽ぶやうに云つた。「僕だつて──」
「わかつてゐた?」
無論何が何だか解つてゐなかつたが彼は、
「僕だつて、たゞ散歩に来たゞけのことだつたんだもの──」などと云つた。あんな用事があつたのだつたが、斯う答へても亦少しも嘘をついたとは思へなかつた。そして、力を籠めて訊き返した。
「明日東京へ帰るといふことは?」
「それは、ほんたう──」
「…………」
「東京まで送つて来れない?」
「……アイシスとオリシス──」
と彼は片手に抱へてゐる一冊の本の包を云つた。「これを今読んでゐるところなんだけれど──」
「そんなの、そのまゝ持つて行けば好いぢやないの? アイシスつて何?」
「アイシスは娘の名、オリシスは──」
「恋人?」
「まあ、さうなんだけれど──オリシスといふ若者は酒神を信仰し過ぎて、オリンピアの学芸競技に落第して……」
「何なのよ、それは? 喜劇なの?」
「大悲劇──」
「悲劇ですつて! 馬鹿にしてゐるわ。ちつとも悲しくなんてありあしない。好い気味だわ、バツカスの信仰者なんて──」
「ぢや、もう少しその先を聞いておくれ。冬ちやん。」
と彼は切なさうに云つた。
「止して頂戴よ。大嫌ひだわ。あたし、バツカスだなんて!」
冬子は機嫌を損じて彼の腕を打ち払つた。
「送るのが厭だもので、あんなことを云つてごまかさうとしてゐるのよ。いゝわよ。──散歩も此辺で止めませうよ。」
「御免──」
と小樽はあやまつた。「止めるんなら、青野の家まで送つて行かう。」
「従兄さんの辞書を借りなければ解らないところでもあるんぢやないの?」
「それもある──けれど、是非読まなければならない本ぢやないんだから、何うでも好いんだ、それは……」
「馬鹿にしてゐるわ。」
「冬ちやん──」
と彼は駈け寄つた。「僕は、何うして好いか解らなくなつてしまつた。」
……と、冬子も突然ぴつたりと立ち止まつて、両手で顔を覆つた。そして、
「あたし──もよ。」
と低く呟いた。「憤つたやうなことを云つてしまつて、堪忍して……」
……小樽は、本もステツキも上着も投げ棄てゝ、冬子の腕をとつて極めてねんごろにさゝやいた。
「兎も角、町まで行くことにしようよ。ね、冬ちやん。そして、提灯を買つて、この道を帰つて来ることにしようよ。」
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「日本小説集 第六集」新潮社
1930(昭和5)年6月3日
初出:「若草 第五巻第十号」宝文館
1929(昭和4)年10月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月5日修正
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