街上スケツチ
牧野信一



 明るいうちは風があつたが、陽が落ちると一処に綺麗に凪いで、街は夢のやうにうつとりとした。──円タクの運転手が、今年の冬は実に長かつた! と力を込めて話しかけた後に、然しまた、これからは事故が多くなるので、浮々うか〳〵しては居られない、事故では自転車が一番多い、居眠りをしながら走つてゐるのがあるのだから……。

「だが、今夜のやうな陽気だと、吾々もつい眠くなりさうだ。気をつけなければならない──」

 などゝ呟いでゐた。

「未だ歩いてゐたのか?」

「ひとりか?」

「さつきは、酷く忙しがつてゐたぢやないか、未だ帰らなかつたのか?」

 銀座に出て、独りで歩いてゐると、次々に出遇つて、三人が、五人となつた。三人は、風のある明るいうちに、同じ街角で出遇ひ、忙しさうにして別れたのであつたが──みんな独りで歩いてゐた男達であつた、そして、飲み友達であつたのだ。五人とも、酒を飲まぬ限りは、何となく瞑想家沁みた気の毒な人達だ。いつまで顔を見合せてゐても、微笑一つ浮べぬといふ風だ。

「未だ時間が早過ぎるな。」

 Dが、さう云つたのは酒場の事である。

「おい、D──」

 とBが、手持無沙汰からDの肩をつかんで睨めた。「俺は眠いよ。だから今夜はお前がEともみ合ひを始めても、俺は、うつとりと聞いてゐるからね。眠気醒しだ。」

「今日俺は、エレベーターの中で居眠りをしてゐる人を見たよ。七階まで三度往復してゐたが……気がついて見ると、俺も、ぼんやり三度往復してゐた。好いあんばいに運転手も気がつかなかつたが。」

「リフトの運転手が、眠気に襲はれたら辛いだらうな、これからは。」

 春と眠気に就いて、自動車から船へ移り、飛行機の挿話に移つてゐた時、突然群集が異様などよめきを挙げた。開き直つて見ると、どよめきは、罵しりと笑ひの交錯である。

「何うしたんだい、夜が明けるぞ。」

 車の窓からそんな声がした。往来が、一杯行き詰つてゐる。

 罵りと笑ひの声は、八方から交叉点を目がけて飛び散つてゐた。何方側の車も行き止つてゐる。電車も十文字に停り続けて、先の車の窓々からは重り合つた乗客の顔がのぞき出てゐる。だが、それらの無数の表情は一様に向ふを眺めて何か好意に充ちてゐるかのやうな長閑な微笑が漂ふてゐた。

 人々の肩の間から事故の焦点を注視すると、交叉点のゴー・ストツプに故障が生じたのである。二人の係官が満身の力を込めて、ハンドルを回さうとしてゐるのであるが、断然動かなくなつてしまつたのだ。

「やあ、ゴー・ストツプが眠つてしまつた。」

「誰か手伝つて……」

 そんな声がする。

 一人の係官は、他の係官の助けを借りて、「交通整理機」の柱をよぢ登つて、あの灯籠のやうな個所に踏み止まつて、仔細に、故障の個所を験べはぢめた。──帽子が邪魔になつて、下に投げ棄てた。気の毒にも、汗に堪へられなくなつたと見えて、上着を勇ましく脱ぎ棄てゝ、懸命に表示板を叩いて、首を傾げてゐる。

 別の信号灯が用意されて、交通は間もなく開けたが「交通整理機」の故障は、容易に回復しなかつた。──街々の光りを映して流れる河のやうな往来は、もうそんなことには気もつかず、目眩めまぐるしく、とうとうと流れて止まなかつたが、その真ン中の動かぬゴー・ストツプの上で、飽くまでも修繕の仕事に没頭してゐる係員のシヤツ一枚の姿が、夢幻的に、巨大な蛾のやうに見へた。

 はぢめは同情の念に堪へられなかつたが、いつの間にかそれも春の晩の長閑な光に溶けこんで、歌でもうたひながら呑気な仕事を続けてゐるようだつた。それにしても、その姿は、火をとりに現れた不思議な蛾に違ひなかつた。──皆なが歩き出したので私も従つたが、余程離れて振り返つても、未だ彼は、塔の頂きに凝ツと止つてゐた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房

   2002(平成14)年620日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第三号」文藝春秋社

   1931(昭和6)年61日発行

初出:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第三号」文藝春秋社

   1931(昭和6)年61日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2009年129日作成

2016年59日修正

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