駆ける朝
牧野信一
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「苦労」は後から後から、いくらでもおし寄せてくる。どんな風に撥ねかへし、どんな風に享けいれるか? に、思案がいるが、思案の浮んだためしがない。
──早朝に起きる。机に、十八型程の大きさの磁石が載つてゐる。文鎮の代りである。此間まで懐中時計を重しに使つてゐたが、悲しい時には、僕にはあのセコンド針の小刻みの音がとても息苦しくなるのだ──そんなことをはなしたら理学土の友達が苦笑して、これを呉れた。──「これなら安心だらう。引力の続く限り針は……」
なる程僕は、この頃はじめて此処のSとNの方向を知つた。
水々しく青葉が輝いてゐる壮麗な朝だ。
シヤツ一枚になつて、白靴を穿いて裏口から駆け出す。──針を見て、指すところのSの方向へ──と思つた。
犬が夢中で追ひ駆けてくる。真似をして妹も弟もシヤツ一枚になつて伴いてくる。牛乳配達の車がガラガラと帰つて来る街を駆け抜けて、丘をのぼる。
「S──S──S──!」
犬が吠えた。犬を呼んだのではない、方向を誤まらぬ意気添えだつたのに、あゝ彼の呼名はSだつたか! エスは有頂天になつて僕の脚にからみつかうとする。
急な坂を一息に駈け昇つてしまふ。落葉樹の森に入る。
森に育つたロバートは、森を出て、人生の行手を定めなければならなかつた──。
森──で、不図思ひ出した。誰の作で、何んな題かも忘れてゐるが。
ロバートは森を出て、山を越え、谷を渡りして、美しい海辺に行き着く。彼は妻と子と三頭の家畜と、そして一袋の金貨とを携へてキヤラバンの一行に加はる、青草の豊かな地に新しい居住地を見出すために勢ぞろひをした一隊である。彼等は出発の用意が整つて、第一の脚を踏み出さうとした時、輝いてゐる海を眺めると、洋々たる希望が胸に充ち溢れて思はず一勢に歓呼の声を挙げる! 勿論若いロバートも夢中で両手を拡げて叫んだ。
長い旅を終つて安住の地に住んだロバートが、一生を振り返つて、最上の悦びは何だつたらうと考へたが、あの海に出そろつて歓呼の声を挙げた時の爽々しさに並ぶべき悦びは決して見出されなかつた──といふ。
厭な、悲しい主題だ、御免だ! と思ふ。慌てて森を駆け抜けようとする。
節面白く口笛を吹く──夜があけた、鳥が鳴く、鍛冶屋も一緒に眼を醒す、火をおこせ、槌を打て、トンテンカン、トンテンカン、働け働け、鳥と一緒に働け、愉快な森だ、そら打て、そら打て、鳥よ、啼け、一日一杯面白い! ──そんな調子で笛を吹く。「森の鍛冶屋」だ。駆ける脚の速くなること、速くなること!
気づいて、振りかへつて見ると、妹も弟も姿が見へない。エスだけだ。──だが、呼んでゐる。声が山彦になつて行手の蜜柑畑の方に響いてゐる。
「兄さんの……馬鹿ア──」
「狐が出るわよう──」
「バウワウ、バウワウ……」
知らない、駆けろ駆けろ、声などに振りむかずに──「山の住居から来た獅子の如くに、己が勇気を信じてオデイセイは行く」──の勢ひで──と、景気をつけて飛んで行く。
だが、俺には勇気はないらしい──などと気づいて、吐息をついたが、未だ未だ休んではいけない! と力みかへる。ポケツトを探ると干からびたレモンのかけらがあつたので、噛み噛み、どんどんと駆けて行く。
森の中程に円い芝原がある。真ツ直ぐな青草の道が一本、線路のやうに寄切つてゐる。青草が黄色い陽りを一杯含んでキラキラしてゐるので、花が咲いてるやうだ。さうだ、好く好く見れば、野茨がわかる。げんげも、たんぽぽも満開なのだが、何しろ此方はそんなに速く走つてゐるのだし、加けにとろんとろんとした陽炎が切りに炎えたつてゐるんだから、野茨、たんぽぽ位ひの区別がつけば僕の眼は確かといふものさ。ともかく、虹のやうな道を面白ろ可笑しく、ぴよんぴよんと跳んで行く。
「おーい、おーい!」
「ちよいと、そこをどいて下さアい!」
何の声だかわからないが木蔭の方から此方へ向つて聞える。鉄道が敷けるといふ噂だから、多分向方の畑の中で測量技師が働いてでもゐるのだらう。
行手の草むらの中から、ぴよいと、金魚のやうな娘が飛び出して、ころころと此方へ向つて駆けてくる。──何だらう、花摘みにでも来た娘が虫にでも仰天したのか知ら……。
斯う思つて、だんだん近づいて行くと、娘は振袖姿だ。──それが、草に躓くのかな? 息苦しさうに、ころんでは起き、起きてはころびして、八苦の態である。そのうちに、もう起きあがる力がなくなつてしまつたと見へて、のめつたままになつてしまふ。
僕は、大分無気味になつて来る。ゾツトして脚がすくみさうになる。が、それどころではない、早く行つて介抱してやらなければならない! と思ひ返してゐると、と、今度は、また草むらから四五人の男がバラバラと立ち現れて娘の逃げて来た道を、追つて来るのだ。腕まくりをし、股だちをとつた大の男だ、頭はチヨンまげだ。
「おーい、おーい!」
「ちよいと、そこをのいて下さアい!」
何だ、馬鹿馬鹿しい!
活動写真隊のロケーシヨンか!
気まりが悪かつたので僕は、草むらの中へ駆け込んでしまふ。それでも胸が大時計の振子のやうにゴクンゴクンと物凄く鳴つてゐる。声の主は余程の遠くで、山彦がその辺に響いてゐるのだらうとばかり思つてゐたところが、直ぐ左手の木蔭から切りに僕に向つて「おーい、おーい!」を繰り返してゐたのである。
日は斜に高かつた。
まはり道をして、森を抜け出る。と、小山の頂きである。街が一面に見降せる。僕は、真下の火の見櫓の筋向ひにあるメソヂスト教会堂の屋根にとまつてゐる、なぢみの天気雞で、「S・N・E・W」を見定めようと思つたのである。
風がないので天気雞は、東・西・南・北の上に凝つととまつて海を眺めてゐる。海原が雲のやうに見へる。海は未だ晴れてゐないとみへる。──僕は、南ばかりを眼ざし、そして、それは、さう僕が立つた海の彼方かと思つてゐたが、大違ひだ。当推量ほど当にならぬものはない。
南は、右手の岬の鼻あたりにあたる。
あの位置で、斯う南を指して来たならば此処がもう陸の行き詰まりかと思つてゐたが、これでは未だ後七哩ちかくまでも走らなければ、南を指す陸の尽きるところへは達しない──そんな馬鹿なことを思つて、変に考へ込んだりしてしまつた。
それもその筈だ! あんなに湾曲してゐる道を、あまり曲つてゐないつもりで駆け通して来たのだもの! 丘の上から見ると渚の深い弧線の中程に立つてゐた。
僕は、それでも当てが外れたことをがつかりして、まるで天気雞を疑ひでもするかのやうに、腕を水平にあげたり、おしやか様のやうに天を指さして見たり、信号兵のやうに空間を斜に切つて見たりしたが、一端思ひ違へた方角が何うしても南でないとは、容易にあきらめがつかなかつた。
小山を降つて蜜柑畑を越えて行くと、梅林にかこまれたトラツク・フヰルドのある公園だつた。
芝生の丘から見降すと、いつの間にか弟や妹達はそこに来てしまつてゐる。エスも来てしまつてゐる。エスは記念碑の傍らで、ぼんやりと彼等の運動を眺めたり、時々思ひ出したやうに何かをねらつて飛び狂つたりしてゐた。
弟達は、変る変るピストルの持手になつてスタートの練習をしてゐる。スタートを繰り返す度に弟が、いちいち研究的に首をかしげたりするのが仰山に映つた。
此方が、小山の頂きで、方角をはかつたり、くしやみをしたりしてゐる間に、あたり前の道を進んでゐた彼等は、遥かに此方を追ひこして目的のところに着いてしまつたものと見へる。──いくら天気が好くて、爽々しかつたとは云ふものの、ただ、あてがなくシヤツ一枚になどなつて、方角をはかりに駆け出したわけではない、僕だつて──。
こんな日には、朝のうちに兄弟うちそろつて、このトラツクまで運動に来るのが慣はしだつたのである。この日は僕だけが大分傍道にそれたり、妙に慌しく先走つたりしたものの──。
「おーい。」と僕は、さつき自分が呼びかけられたあれを思ひ出しながら呼んだ。
「のろいね。ロケーシヨンを見てゐたの?」
直ぐに気づいて弟が呼応した。
僕は否とかぶりを振つた。
「いつの間にか脇の道に反れてゐたのね?」
「うむ。」と僕は力を籠めて返事した。そして、何処で何を愚図愚図してゐたの? などと問はれるであらうことに先廻りをして、
「もつともつと駆けたかつたので──」
と出たら目な虚勢を示した。「わざと廻り道をしてゐたのさ。それで恰度好いオーミング・アツプが出来たから、今日は誰にも負けないつもりだよ。」
三人は、この頃二百米のタイムを争つてゐる仲だつた。練習は出たら目だが──。
勿論何時も僕が、一番拙い。──この日は、また別のハンデイキヤップをつけて、何回も試みたが、来るまでにあまり余計に駆け過ぎた報ひで、僕は忽ち倒れてしまつた。
加けに、気になつてゐることが多過ぎて、飛んだり跳ねたりしてゐる自分が、影のやうに思はれたりするのであつた。
「苦労」のことを云ひ残したが、僕の運動は、後から後からおし寄せるあいつに向つて戦ひを挑む思案のやうだ、無意識的ながら──。苦労の種類は際限がない。
これは、例へばスポーツのためのスポーツに野心の持てないのが悲しい! といふほどの軽い主題だ。
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第二十六巻第八号」新潮社
1929(昭和4)年8月1日発行
初出:「新潮 第二十六巻第八号」新潮社
1929(昭和4)年8月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2014年8月21日修正
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