熱い砂の上
牧野信一




 駆け出した、とても歩いたりしてはをられなかつたから──砂が猛々しくけてゐて誰にも到底素足では踏みこたへられなかつた。

「熱い〳〵!」

「素晴しい暑さだ!」

「競争! 競争! 波打ちぎはまで──」

 三人の若者と二人の娘が脱衣場から飛び出て、砂を踏んで見ると、熱さに吃驚して、ピヨン〳〵と跳ねあがりながら夢中で波打ちぎはを目がけて駆けて行つた。

「厭々々! 誰か──」

 海老茶の水着をきた娘が悲鳴をあげた。そして我むしやらに砂を蹴つてゐた。──若者のAが振りかへつて、両腕を拡げて軽々と娘を載せた。

 その光景を見ると、

「あたしも〳〵!」

 と、もう一人の、赤黒の太い立縞の水着を着た娘が若者のBにとり縋つた。Bは、Aのやうに娘を両腕に載せたが、重くて、とても自由には駆けられさうもなかつた。気の毒な程痩せた男だつた。

 見るからにBは苦しさうだつた。それでも意地を張つて、娘を抱へて駆け続けようとするのだが、ヨタ〳〵としてしまつて、脚ばかりを、熱いもので、大雪のなかでも歩いてゐる時のやうに仰山に挙げ、徐ろに降ろしながら、大汗で、唸つてゐた。

 それを、もう渚についてしまつたAと娘が振りかへつて、腹を抱へて笑つてゐる。Aより先に行き着いてゐた若者のCが、

「おーい!」

 と水の中から首を出してBを呼んだ。

 Bは、答へるどころではない。

「落したら酷いわよ。」

 Bの腕の上にゐる娘は、あはれなBを嘲笑した。そして両脚をバタ〳〵と動かしたり、男の脊中をピシヤ〳〵と叩いたりした。

「凝つとしてゐてお呉れよ。──あゝ、もう俺の足の裏は感覚がなくなつてしまつた。」

「決して、あたし達靴なんてはいて来ないから、毎日たのむわよ、Bさん──」

「チヨツ! 救からねえな。」

 とBははき出した。

「ライフ・ボートにならうか、B──」

 Cがしきりに水の中から呼びかけてゐた。

「馬鹿ツ!」

 とBはCに怒鳴つた。──「勇敢な騎士ナイトを見よ──だ。かうなれば俺は、もうこのまゝ、どんな火の上だつて、水の中だつて、このお姫様は離さないよ──だ。」

 やつと波うちぎはに着くと娘はBの腕からころげ落ちて、Cの方へ泳いで行つた。



「何だ、これ位の熱さ!」

「ふざけてゐやがら──」

「弱虫な奴等ぢやないか!」

「あのモダン・ガールのざまはどうだい。」

「見せつけやがつて──」

「泳いでツて、一つ脚でも引つ張つてやらうぢやあねえか……」

 芸妓げいしやを伴れた二人の男が、あの若者達の嬌態を眺めて舌を鳴らした。

「ぢやお前達は入らないんだね。」

「見物してゐるわ──」

好興こうけうな話だな。──ぢや一番俺達の達者なところを見せてやらうか。」

「どうぞ──」

 と二人の芸妓は横を向いていつた。

「よしツ!」

 二人は浴衣を脱いで砂地に走り出た。煙草をふかしたり、手拭を頭に巻きつけたりしながら二人は、わざと悠々たる足どりで歩いてゐたが、四五間行つたかと思ふと、異口同音に、

「こいつあ、堪らねえ!」

「おツそろしい熱さだな!」

 と叫ぶがいなや、ワツ! といつて、煙草も何も放り出して一目散に波打ちぎはを目がけてころげ込んだ。

「さつきの人達の方が余ツぽど偉いわね。」

「あいつと来たら何でも口ばつかしなのよ。」

「大嫌ひさ!」

 二人の芸妓はそんなことをいひ交してゐた。



「さあ、お父さんにおんぶしな! お前は──」

 と、その人は子供を脊おひながら、妻君にいつた。「あそこまで、その草履をはいて行くんだ。」

「あなたもはいていらしつたら何う?」

「俺は好いさ──。さあ、好いか、坊や、しつかりお父さんにつかまつてゐるんだよ。夢中で駆け出すからね。面白いよう──」

「好いわね、坊や、お馬〳〵!」

「それ、一二三!」

 と号令をかけて、一散に駆け出して行つた子供伴れの夫婦がゐた。

 そつと眺めると砂からは湯気のやうな陽炎がえたつてゐた。それが忽ち乾いて、ジリ〳〵と反りかへつてゆくかのやうな白い砂原だつた。──脱衣場の隅では、狂ひ調子に性急な蓄音機がジヤヅを奏でゝゐた。

「ゲツト セツト!」

「オン ゼ マーク!」

「ドン!」

 と口で鳴らして、パラ〳〵と駆け出して行く小学生の群があつた。

「止しなさいよ、草履なんて──」

「盗まれるわよ。」

「靴! 泳ぎ憎いわよ。」

「今の小学生見たいに一思ひに飛んでつてしまへば平気よ。」

「何だか怖いやうだわ、あの砂原が──」

 こんなことをいひ合ひながら仕度をしてゐる女学生の一団もあつた。

 みんな出かけてしまつて、やがてそこには僕ひとりきりになつてしまつた。僕は、熱い砂の上! ──そんなことを、何か、苦痛な舞台とでもいふ風に、そして、また、日常の自分の慌しい生活が、熱い砂の上で、悲鳴をあげて踊りまはつてゐるかのやうな、涯しもない、狂躁的な姿を思ひ合せでもするかのやうな──物々しい、妄想に走つて、ぼんやりしてゐた。

 それはともかく僕も水に入る仕度をしたところなのだつたが、先に行つた人達の焦け砂を踏んで行く姿を見ると、はたと臆病に打たれて駆け出す気勢を奪はれたかたちだつたのである。

 それにしてもこんな暑さの日は珍らしい。夏の間に二度とはあるまい!

「早くお出でな!」

「一思ひに、そこを飛び越えて──」

「そこを駆けるお前の姿を見てやらう。」

 先へ行つた僕の伴れが、手まねきしてゐるのを見て僕は、そんな声を空想したりしてゐたのである。



「ボートを漕いでおくれ!」

「早く来て──」

 かう呼ばれたので僕は、思ひきつて飛び出した。カツ! とした。

「熱い!」

 と叫んで僕は思はず跳びあがつた。熱い! 熱い! 熱い! 到底、地に足のうらを触れてゐられさうもない!

「こいつは堪らない!」

 と僕は更に叫んで、大幅飛びを試みた。もう夢中だつた。僕は、ハードル競技の走者のやうに駆けては飛びあがり、飛び越えては駆けた。──向方を見ると皆が腹を抱へて笑つてゐる。

 そして口々にこんなことをいつてからかつた。

「おぢさん、四苦八苦のてい──」

「アツハツハ……あの顔つき!」

「駄目〳〵、もう引ツ返せないわよ。」

「何てまあ、だらしのない恰好だらう、意久地なしだわね!」

「男ぢやライフ・ボートは出せないよ。」

「ちよつと、あの腰つきは何とかダンスに似てゐるぢやないの?」

「野蛮だな!」

 僕は、応へる口もなく、まつたく、しどろもどろな思ひで、見栄も外聞もなく顔を歪め、脚を曲げ、腕を振りして、奇天烈なフオツクス・トロツトを踏んで、今にも目が回りさうだつた。

「止せば好かつた。」──「吾家うちで昼寝でもしてゐれば好かつたのに!」──「何の何の、もつと駆けろ、沙漠だ、沙漠だ! どうせ沙漠だ!」

 僕は、苦しまぎれに口から出まかせの言葉を吐いたり、マーチを口吟んだりしながら一散に掛け続けた。

 いくつも、いくつも水の上に木の葉のやうに浮かんでゐるボートや、渚の人々や、紺碧の空や、赤い旗や、白いパラソル──などが花片のやうに僕の目の先でフラツシユした。

 そして、

「もつと早く駆けないから、熱いんだ。」

「身振りばかりが仰山で、さつぱり駄目なんだもの。」

「ふざけてゐるんぢやないの?」

「あそこに綺麗な芸妓がゐたもので、此方に来るのが厭々だつたのよ、屹度!」

「さうだ、横目ばかりつかつてゐたぜ、さつき!」

「チエツ、厭になつてしまふな!」

 こんな声が、やはり花片のやうに四方から降りかゝり、何方が海で、何方が陸か、不図見当がつかぬやうな錯覚に打たれた──と思つたが、それは僕がもう二三間で波打ちぎはにたどりつかうといふところで、勢ひをつけ、トンボ返りをした刹那の、耳に散り散りに残つてゐた、さつきからの彼等の嘲笑だつたのだ。──僕は、だが、水の中へさかさまに飛び込んで直ぐに首を出すと、あんな思ひも、あんな言葉も、すつかり忘れて、

「さあ行かう!」

 といつてオールを執つた。

 不図振り返つて見ると、白い砂地を、奇妙な足どりで駆けて来る滑稽な人影がいくつも見えた。──あまり砂が白く光つてゐるので、駆けてゐる人達が氷滑りでもしてゐるものゝやうに見えたりもした。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「週刊朝日 第十六巻第二号」朝日新聞社

   1929(昭和4)年714日発行

初出:「週刊朝日 第十六巻第二号」朝日新聞社

   1929(昭和4)年714日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年718日作成

2011年53日修正

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