沙漠の古都
国枝史郎
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第一回 獣人
一
「マドリッド日刊新聞」の記事……
怪獣再び市中を騒がす。
去月十日午前二時燐光を発する巨大の怪獣何処よりともなく市中に現われ通行の人々を脅かし府庁官邸の宅地附近にて忽然消滅に及びたる記事は逸速く本社の報じたるところ読者の記憶にも新たなるべきがその後怪獣の姿を認めずあるいは怪獣の出現も通行の人々の幻覚に過ぎず事実上かかる怪獣は存在せざりしには非ざるやと多少の不安と危惧とをもって両度の出現を待ちいたるところ……。
「ホホオそれじゃまた怪獣が出現したというのだね?」
民間探偵のレザールが全部新聞を読んでしまわないうちに、傍らで聞いていた友人の油絵画家のダンチョンが、驚いたようにこう云った。
「どうやら再び現われたらしい──ところが今度はこの前と違って、顔ばかりに……むしろ眼の縁だけに燐光を帯びている獣だそうだ。まあ聞きたまえ読むからね」
南欧桜の咽せ返るような濃厚な花の香が窓を通して室の中いっぱいに拡がっていた。その室でレザールとダンチョンとは肘掛椅子に腰かけたまま軽い朝飯をしたためた後、おりから配達された新聞をこうして読んでいるのであった。
「いいかい読むぜ。聞きたまえよ」
そこでレザールは読みつづけた。その要点はこうである。
──昨夜、すなわち三月十日、時刻もちょうど午前二時頃、両眼の縁に燐光を纒った、犬のような形の動物が、忽然街路に現われたが、府庁官邸の宅地まで行くと、そのまま姿が見えなくなり、それと同時に一軒の家から、恐怖に充ちた男の声が、一瞬間鋭く響き渡ったが、それもそのまま静かになった。そして不思議にも怪獣の姿は、どこにも見えなかったと云うのである。
「燐光を放す動物なんて、実際そんなものがあるのだろうか?」
「さあ」とレザールは考え深く、「全然ないとも云われない。魚には確かにあるのだからね」
「そりゃ魚にはあるだろうけれど──例えば烏賊などはその通りだが、眼の縁だけに燐光を放すそんな獣ってあるものだろうか──それはそれとしてもう一つこの新聞記事で見るとどうやら奇怪な動物なるものは、二匹いるように思われるね」ダンチョンはレザールの顔を見て審かしそうに云ったものである。
と、レザールは微笑を浮かべたが、
「つまり眼の縁だけ燐光を放す昨夜あらわれた怪獣と、去月十日にあらわれた全身に燐光を放す獣と、都合二匹というのだろうね……君もなかなか眼敏くなった。僕も新聞を見た時からこいつをおかしく思ったんだ──燐光を放った獣なんか一匹いるさえ不思議だのに、二匹もいるということはどう考えてもちと腑に落ちないね……なあにやっぱり一匹だろう」
「記事からいくと二匹だがね」
「往来の人の錯覚でこの前は全身が光るように見え、昨夜は眼瞼だけ光るように見え、それで驚いたに違いないよ……で僕は一匹だと思う……だがあるいは、あるいはだね、一匹もいないのかもしれないよ」レザールは微妙に云ったものである。
「全部を錯覚にするのだね?」ダンチョンは首を横に振って、「一度ならず二度までも一人ならず数人の者が、そういう獣を見たのだから、錯覚とばかりは云えないね」
「君の云うのが本当かあるいは僕の説が正しいか、探って見なければ解らないが、ただ怪獣が出たというばかりで世間の害にならないのだから、探って見ようという興味もない……依頼者でもあればともかくだが」
「しかし」とダンチョンは遮って、「無害ということも云われないね。現にその獣に脅されて悲鳴をあげた者があるといって、この新聞にも書いてあるんだからね」
「無理に難癖をつけるとして秩序紊乱という奴かな。怪獣の秩序紊乱かな……どうも獣じゃ仕方がない──それとももしやその獣の……オヤ誰か来たようだ。こんなに朝早く来るからには火急の事件に相違あるまい」
コツコツと扉を打つ音がした。
「おはいり」とレザールは声をかけた。扉が開いて一人の貴婦人があわただしげにはいって来たが、レザールとダンチョンの二人を見ると当惑したように立ち停まった。
レザールは恭〻しく立ち上がったが、
「私がお尋ねのレザールで──これは友人でございます。きわめて気の置けない友人で……ええと、ところで市長の奥様、どういうご用件でございましょうな?」
きわめてなれなれしく云ったものである。
「オヤまあ私をご存知で?」
市長夫人は手を差し出しレザールにそれを握らせながら、
「いかにも私はおっしゃる通り市長の家内でございます」といくらか驚いた様子である。
「マドリッド市民は誰にしましても自分の町の首脳者の──つまり市長でございますね──内助者たるところの奥様を知りたいと思わないものはございません」
恭〻しくレザールは微笑した。
「でも」と夫人は首を振り、「体がひどく弱いものですから、こちらへずっと参りましてからも、毎日たれ込めておりまして、それこそ町へなどは一度も出ず、重大な社交にさえ顔を出しませんのに……」
「おっしゃる通り奥様はあの米国の大統領のハージング夫人とそっくりで、社交嫌いだとか申しますことで──けれどたった一度だけ招待会には出られました筈で」
「そうそうたった一度だけ──主人が印度から当地へ参り市長の職に着きました時、きわめて少数の知人でしたが、お招きしたことがございました。きっとあの時でございましょう?」
「さよう、あの時でございます。あの時私は舞踏室で、奥様をお見かけいたしました」
「それは少し変じゃございませんか──あの時およびした人達の中に、あなたのお名前はなかった筈で」
「レザールという名はございませんでした。しかしマドリッド日刊新聞の社長の名前はありました筈で」
夫人はしばらく考えてから、
「ポンピアド様という名前の六十過ぎた立派な方?」
「獅子のような頬髯を生やした人で」
「たしかにお招き致しました」
「それが私でございます」
「まあ」
と夫人は呆れ返り、
「でも、お見かけ申しましたところ、あなたはやっと三十ぐらい、それだのに一方ポンピアド様は……」
「ですから奥様尚一層化け易いのでございますよ。三十男のこの私がやっぱり他の三十男に化けるということは困難ですが、六十の老人に化けることはいと易いことでございます……もしもご不審におぼしめすなら、五分間ご猶予を頂いて、化け直してお目にかけましょうか」愛想よく軽快に云い放した。
しかし夫人は手を振って、淋しく美しく笑いながら、「いいえそれには及びません。なるほどそうかも知れません。名誉の探偵でいらっしゃいますもの……それにしても本物のポンピアド様は、どうしていらっしゃらなかったのでございましょう?」
「たしか旅行中でございました」
「それではあなたはポンピアド様に断わらずにおやりなすったので?」軽く夫人は非難した。
「毎々のことでございますよ」レザールは愉快そうに微笑した。
「そんな権利がございまして?」と夫人の声はやや鋭い。
「さよう」とレザールは真面目になり、「私と、それにもう一人、私にとっては大先輩で、かつまた非常に仲のよい──奥様もあるいは名前ぐらいはご存知でいらっしゃるかもしれませんが──ラシイヌという探偵だけには、そういう権利がございますので。どうしてと申しますに我々二人は、政府の機密に参加したり、皇室のご依頼に応じたり、これまで数度その方面で働いたことがございますので、政府は我々二人の者へ特権を与えてくれました」
すると夫人は頷いて、
「そうでございましょうね、よくわかりました。──ただ今お話しのラシイヌ様、知っているどころではございません。ただ今お逢いして参りましたので」
「ああそれじゃもうお逢いでしたか」
「そうしまするとラシイヌ大探偵が私にこのように申しました──レザールにもご依頼なさるようにって」
レザールは苦笑を浮かべたが、ダンチョンの方を振り返り、
「ラシイヌが僕を験すらしいね」
それから夫人の方へ頭を下げて、「それではどうぞお話しを──ラシイヌへおっしゃったと同じように、私にもお話しを願いたいもので」
椅子に寄ったまましばらくじっと市長夫人は黙っていた。それから静かに話し出した。
二
「……どこからお話し致しましょう? やっぱりずっと最初からお話しした方がよさそうです──先月十日の真夜中でした。午前二時頃ででもございましたでしょうか、突然良人の居間の方から呻くような声が聞こえましたので、しばらく聞き澄ましておりましたところ、それっきり物音が致しません。きっと夢でも見たのだろうと、そのまま眠ろうと致しますと、庭の方へ向いた室の窓が不意に明るくなりましたので吃驚して起きようと致しました。さようでございますね、その光は銀のような光でございました──ところが窓のその光も次の瞬間には消えましたので、起きかかった床へまたはいり夜の明けるのを待ちました。朝のお茶の時に食堂で良人の顔を見ましたところ、大変蒼いじゃございませんか。どこかお体でもお悪くて? 私が訊きますと首を振って、いいやと一言云ったきり、黙ってお茶をのむのでした。そこへ新聞が来ましたので何気なく取り上げて見ましたところ、思いあたる記事がございました。燐光を放す巨大な獣が、昨夜市中にあらわれて、府庁官邸の宅地まで来ると消えてしまったという記事です。私はハッと思いました。それでは昨夜窓に映った銀色をしたあの光は、さては怪獣の光だったのかと……。
『あなたは昨夜変な光を窓からごらんになりませんでして?』私は良人に訊いてみました。すると良人はひどく顫えて蒼白になったじゃありませんか! けれど変化したその表情は、すぐに良人の強い意志で抑えられてしまったのでございますね。良人は冷静にこう云ったものです。
『いいや、そんな光は見なかったよ』
それで私は新聞の記事を良人の方へ向けまして、
『昨夜二時頃この町へ怪獣が出たそうでございますね』
『ふうむ、怪獣? どんな怪獣?』良人は益〻冷静に、『町の人達の錯覚だろう。燐光を放す獣なんかこの世にある筈はないからな』
『でもねあなた、その光を、昨夜私も見たのですよ』
『お前が見たって、その光を? それじゃお前も錯覚党の仲間入りをしたって云うものさ』
こう云って良人が笑いましたので、私もそのまま安心して黙ってしまったのでございます。
けれどどうやらそれからというもの、良人の様子が沈んでしまって、考え込むようになりました。そんな時私が話しかけましても、ろくろく返辞さえ致しません。そうかと思うと何んでもない時に、お前今何んとか云わなかったかい、などと訊く事がございます。一体の様子が何かこう遠い昔の思い出事に耽ってでもいるように見えまして、気味が悪いのでございます──こんな塩梅でつい昨日まで日を送って来たのでございます……ところが昨夜、いえ今朝です、それも午前の二時頃です、私は再度室の窓が燐の光に反射して、銀色に輝くのを認めました。そこで私は飛び起きて窓の側まで走って行って、首を出して戸外を覗きましたところ……」
夫人はここで声を呑んだ。
「恐ろしい恐ろしい何んて恐ろしいんでしょう! 私は今でも思い出すと夢ではないかと思いますの。どうでしょうほんとに眼の縁だけ燐のような光に輝いている大きな犬のような動物が、良人の居間の窓の枠へ前足を二本しっかりと掛けて、硝子戸越しに主人の居間を覗き込んでいるではございませんか。あやうく叫び声をあげようとしてやっと私は声を呑み、狂人のように手を揉みながら、じっと聞き耳を立てました。良人の室から嗄れた良人の言葉が洩れましたからで……
── ROV! 湖! ──埋もれた都会! ……帰ってくれ帰ってくれ恐ろしいコ……マ……イ……ヌ──。
嗄れた良人の声の中から私に聞き取れた言葉と云えばただこれだけでございました。それとて私には何んのことだかちっとも意味が解りませんでしたけれど──主人が喋舌っている間中、怪獣は身動き一つせず、じっと聞き澄ましているのでした。主人の声が途切れた時突然怪獣は飛び上がりました。そうして一本の前足を硝子戸の枠へ掛けたかと思うと、どうでしょうスルスルと硝子戸が、横へ開いたではございませんか。良人は叫び声をあげました。そうして床へ倒れたと見えて、ドシンという音が聞こえて来ました。その後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は──何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前からあまり勝れていず、現在あまり質のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません──顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加を初め印度、南洋、中央亜細亜、新疆省と、蕃地ばかりを経巡ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかんじんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので」
「おっしゃる通りでございます」夫人は憂わし気に云ったものである。「印度から故郷へ帰りましたのも、その病気のためでございました」
「ところで目下のご容態は?」
「危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕を──神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕を最近に経験するとなると、生命のほども受け合われないなどと──あるいは脅かしかも知れませんけれど……」
「ははあそのように申しましたかな?」
レザールは黙って考え込んだ。わずかに開けられた窓の隙から春の迅風に巻きあげられた桜の花弁が渦を巻いて、洋机の上へ散り乱れていたが、ふたたび吹き込んだ風に飛ばされどこへともなく舞って行った。
隣室で時計が十一時を報じ、なま暖かい春陽の光が洪水のように室に充ち窓下の往来を楽隊が、笛や喇叭を吹きながら通って行くのも陽気であった。
夫人は深い吐息をして、
「そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……」
「いかにもさようでございますね──世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で」
レザールは片眼をつむりながら、少し皮肉に云ったものである。
「はいその通りでございます……良人が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので」
「それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう」
「どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように」
夫人は云って口ごもった。レザールは頷いたばかりである。でまた二人は黙り込んだ。
「それで」とレザールは重々しく、「ご依頼の件は怪物が今後一切窓の側へ現われないように警戒する──ただそれだけでございましょうか?」
夫人はちょっと躊躇したが、
「はい、ただそれだけでございます」
「怪物の正体は何であるか? 何故窓の側へあらわれたか? 閣下が怪物を見られた時、何故独り言を洩らしたか? そして何故卒倒なされたか? 調べる必要はございますまいか?」
夫人はまたも躊躇したが、
「いいえ必要はございません」
レザールはその眼をグルグルと廻し、彼独特の悪戯児のような、無邪気だけれど意地の悪い、微妙な笑いを洩らしたものの、夫人の悄れた様子を見るとすぐその笑いを引っ込ませた。
彼は母指の爪を噛み──彼の一つの癖である──天井の方へ眼をやりながら、かなり長い間考えていた。それから夫人へ質問した。
「奥様、あなたはご良人といつ頃結婚なさいましたな?」
「はい、今から一年前、印度に主人がおりました時に……私も印度におりましたので」
「それでは奥様はそれ以前の閣下の行動に関してはご存知ないわけでございますな?」
「良人が話してくれませんので」
「そこでもう一つ最近において──先月十日以前において、誰か様子の怪しいような訪問客はございませんでしたかな? 閣下に対する訪問客で……」
「いいえ、一人もございませんでした。素性の解った方達ばかり他にはどなたも参りませんでした」
「そこでもう一つ閣下におかれては、どなたと一番お親しいので?」
「私と違いまして良人は誰とでも快よく逢いますので来客も多うございますが、探検好きでございますから、やっぱりこれも探検好きのエチガライさんとは特別に親しいようでございます」
「ははあエチガライさんでございますか? 動物園長のエチガライさん?」
「はい、さようでございます」
三
「これは重大のことですが」レザールはにわかに重々しく、「エチガライさんが来られた場合の閣下の態度はどんなようでしょう?」
「大変親しいのでございます。すぐと書斎へ引っ込んで内から扉へ錠を下ろし、一時間でも二時間でも話し合うのでございます。良人がこれまで探検したいろいろの地方から発掘した動物の骨とか瓦とかそんなものを二人で研究したり、それについて二人で議論したり、そしてどうやら二人して著述にでもかかっておりますようで」
「いいことを聞かしてくださいました。大変参考になりそうで」
レザールは親しそうにこう云ったが、
「ところで園長のエチガライさんは、たしか閣下のご周旋で今の位置につかれたということですが?」
「さようでございます。私達が印度を引き揚げて当地へ参り、ものの一月と経たない頃訪ねていらしったのでございまして……」
「どちらから来たのでございましょうな?」
「あの方は良人の友人で、私とは関係がございませんし良人も私にあの方については何とも話してくれませんので、どちらから参られたか存じません──けれど良人にとりましては、大事な人と見えまして、ただ今の地位も見つけてあげるし、金銭上の援助なども、時々するようでございます」
「もう一つお訊ね致しますが、印度から当地へ参られてから、盗難とかまたは紛失とか、そういう種類の災難におかかりなすったことはございますまいか?」
「さあ」と夫人は首を傾げ、しばらくじっと考えていたが、「いいえ、なかったようでございます……けれど、たった一度だけ──いいえ恐らくこんな事は参考になんかなりますまい」
「それはいったいどんなことで?」レザールはかえって熱心に訊いた。
「先月の初めでございましたが、新米の女中が誤まって良人の書斎を掃除しながら、捨ててはならない紙屑を掃きすててしまったとかいうことで、良人が大変な権幕で叱りつけたことがございました」
「すててはならない紙屑を女中が掃きすてたというのですな? ハハアこいつは問題だ! 閣下が憤慨なさる筈だ! そして女中はどうしました? もちろんお宅にはおりますまいが?」
「短気な女中でございまして、叱られたのが口惜しいと云って暇を取って帰ってしまいました」
「行衛は不明でございましょうな?」
「女中の行衛でございますか。いいえ判っておりますので」
「え、何んですって? わかっている? そうしてどこにおるのですかな?」
「エチガライ様のお宅ですの──エチガライ様がその女中を最初にお世話してくださいましたので」
レザールは元気よく立ち上がった。そうして夫人へ頭を下げ、例の微妙な微笑をして、
「奥様、ご安心なさいまし──もう怪獣はこの市中へは、決して姿は出しますまい。出さないようにいたしましょう」
夫人もスラリと立ち上がった。
「それで安心いたしました」こう云って右手を差し出して、レザールにその手を握らせてから、レザールに扉口まで送られて、夫人は室から出て行った。
レザールは椅子まで帰って来たが、さっきから黙って聞いていたダンチョンへその眼をふと注いで、
「どうだなダンチョン、この事件は? 面白い事件とは思わないかな?」
「面白そうな事件だね、どうやら怪物の正体が君には解っているようだね」
「まあそういったところだろう」レザールは腕を組みながら、独り言のように云いつづけた。「市長は有名な探検家で……新疆省へも行った筈だ… ROV の沙漠……埋もれた都会……それからそうだ湖だった……エチガライという変な男……それ前に狛犬があったっけ……怪しい女中……紛失した紙片……燐光の怪獣に市長の気絶……そして市長は心臓病だ……巨万の富を有している──どうだなダンチョン、これだけの事実がこれだけ順序よく揃っていたら、君にだって真相は解るだろう?」
「ところが僕には解らない」
「よっぽど君は鈍感だよ。しかし素人だから仕方がない。……ところで夫人の話しの中で、怪しいと思った人間が君には一人もなかったかな?」
「エチガライという男が怪しいね」
「すなわち動物園長だ! 動物園長が怪しいと見たら君はどういう処置をとるね?」
「何より先に動物園へ行って、園長の様子をうかがうね」
「まずそれが順序だろう……ところで既にラシイヌさんが動物園へは行ってる筈だ……もうすぐ電話のかかる頃だ」
そういう言葉の終えないうちに、卓上電話のベルが鳴った。
「そうら見たまえ! 云った通りだ」
レザールはいそいで受話器を取った。
「モシモシ」と彼は呼びかけた。「ラシイヌさんでございますか? ……私はレザールでございます。あなたから電話のかかるのを待ちかねていたのでございますよ……え、何んですって? 市長夫人? 市長夫人でございますか? 市長夫人はさっき参って今帰ったばかりでございます。大分心配しておりました……それで、事件の真相は、解決なすったのでございましょうね? ……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんので。全く一目瞭然です……ところで、ところで……え、何んですって? 私を馬鹿だとおっしゃるので?」レザールはひどく驚いて耳へあてた受話器を下へ置いた。がまたあわてて耳へあてた。ラシイヌの声が聞こえて来る……。
「……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんて? 箍が弛んだぞ、おい、レザール! 君はまるっきりこの事件の性質というものを知ってないな! 表面きりしか見ていないな! だから暢気でいられるんだ! 君はほんとにおめでたいよ! 君はまるっきり赤ん坊だ! 事件の奥の奥の方をちょっとでも君が覗いたら君はおそらく恐ろしさにそれこそ気絶してしまうだろう! 君はこの事件の根本をいったい何んだと思っているんだ? 恋愛でもなければ金でもない! もっと執念深い、もっともっと破天荒な人種と人種との争いなんだぜ! そうして、いいかい、しかも今夜、僕達がうっかりしていようものなら、このマドリッドの市民達の数百人は殺されるのだ! そうして、いいかい、この市中は、猛獣毒蛇の巣になるのだ──で君に命令する! 今夜二時にどうあっても動物園まで来てくれたまえ。いいかいレザール、忘れるなよ。僕の命令と云うよりもマドリッド市民の命令なのだ! 命令というより懇願なのだ!」
ラシイヌの電話はここで切れた。レザールは両腕を組んだまま、深い疑惑に陥入った。
四
動物園は市の中央、H公園の中にあった。公園の周囲は目抜きの街路で、十二時を過ぎても尚人通りが賑やかにゾロゾロ続いていた。しかしさすがに二時となると、商店では窓々の扉を鎖ざし電車の軋りも間遠となり、時々疾走する自動車の音が、人々の眠りを醒ますばかりであった。
公園は樹木に囲まれていた。百年また数百年、年を重ねた大木が、枝を交え葉を重ね、その下を深い闇にして夜空にすくすくと聳えていた。H公園は一周するとほとんど二里にも達しよう。森に林に丘に池、所々に建物が立っていて、到る所にベンチがあった。四辺は厳重な煉瓦の壁で、壁を蔽って内と外に鬱々と樹木が繁っていた。昼間のあいだに騒ぎつかれて夜は静かな鳥や獣の深い眠りを驚かすのは、近頃阿弗利加から送られて来た二匹の牝牡の獅子であった。
檻に馴れない沙漠の王は格子の間から空を眺め、初めは悲し気な呻り声、それから次第に高くなり、やがてその声を聞いただけでも気の弱い獣は血を吐いて死んでしまうと云われている雷のような吠え声をあげるのであった。
その雷のような吠え声がだんだん嘆くような呻きとなり、そしてプッツリ絶えた時、夜は一層深くなり闇が一層濃くなったように思われる。……
今その声が絶えたばかりで、あたりは死んだように静かであった。
その時一つの人影が闇の中から産まれたようにどこからともなく現われて正面の横の潜戸の前で、戸に身を寄せて立ち止まった。内部を窺っているらしい。
すると忽然潜戸の戸が内の方から開けられて、そこから一人の園丁が上半身を突き出した。
「レザール君かい?」と園丁は闇をすかして声をかけた。
「ラシイヌさんですか? レザールです」闇の中の人影は前へ出た。
「ちょうど時計が鳴ったとこだ。確かに今は午前二時だ……さあすぐ内へはいりたまえ」
レザールは潜戸から忍び込んだ。忽ち潜戸の戸が閉まる。
二人は暗い園内をそろそろと先へ歩いて行く。ラシイヌは一言も云わなかった。それが一層レザールには物凄いことに思われた。
二人はなるたけ木下闇の人目にたたない闇の場所を、選りに選って歩いて行く。
「止まって」
と突然ラシイヌは鋭い忍び音で注意した。で、レザールは立ち止まって前方の闇をすかして見た。窓々へ鎧戸を厳重に下ろして、屋内の燈火を遮断した、小柄の洋館が立っている。園長の住んでいる官舎らしい。
闇に馴れた眼をじっと据えてレザールは官舎を注視した。すると意外にも官舎の前の芝生の上に一団の、蠢めくものの形があった。よくよく見ると人間で、十人に近い人数である。円く芝生に胡坐をかき、額を土へ押しあてて何事か祈ってでもいるらしい。ブツブツといういとも小さい呟きの声が聞こえて来る。祈祷の声ででもあるらしい。
すると突然その中から一人の男が立ち上がった。やや明瞭りと云うのを聞けば、それは回教の祈祷であった。
「アラ、アラ、イル、アラ……唯一にして絶対なる吾らの神よ……吾らをして強くあらしめたまえ! 吾らをして敵を殺さしめたまえ! ……何物をも吾らより奪うなく、何物をも吾らに与えたまう神よ!」
その男は両手を空へ上げ、手をあげたまま腰を曲げ、地面へその手の届くまで、上半身を傾むけた。それから再び腰を延ばし、両手で空を煽ぎ立てた。それからまたも腰を曲げ、地面へ両手を届かせた。そうしては延ばし、そうしては曲げ、幾十回となく繰り返した。
その時かすめた太鼓の音が──鈴の音のする手太鼓の音が、円座を作った真ん中から、夢のように微妙に聞こえて来た。とそれへ銀笛の音が混った。幽かに幽かに鉦の音も──その不思議な調和というものは! 人をして深い眠りを誘い、夢中で人を歩かせるような、また、この欧州のどこへ行ったとて、到底聞く事の出来ないような、東洋式のその調和! 単調で物憂い太鼓の音。人間の霊魂を地の底から引き出して来るような笛の音。聞く人の心をせき立てて犯罪の庭へでも追いやるような、惨酷な調子の鉦の音……小声で唱える合唱の祈祷。そうしていつまでもいつまでも同じ礼拝をつづける男! 時刻は深夜の二時である。
レザールは物凄さに身顫いした。
物凄さはそれだけではすまなかった。次の瞬間に起こった事件の物凄さと不思議さとはレザールにとって生涯忘れられないものであった。
見よ、正面の石造りの、洋館の扉が徐々に開いて、そこから静々とあらわれた、燐光を纒った動物を! 動物の全身は白金が朝の太陽に照らされたようにカッと凄まじく輝いている。怪獣は石段を一飛びに飛んで、回教徒の円座へ近寄って来た。そうして四本足を折り、彼らの前へ蹲まった。
教徒の唱える讃美の声はその時ひときわ高くなり、深沈と寂しい音楽の音は次第に急速に鳴り渡った。空間に手を上げ手を下げて何物かを熱心に招いていた彼らの中の一人が、その時その手を怪獣の背へ、電光のように触れたかと思うと、燐光の怪獣は一躍しちょうど火焔の球のように、広大な園内を一文字に門のある方へ走り出した。とその門が大きく開いて怪獣はそのまま街の方へ矢よりも速く走って行き見る見るうちに見えなくなった。
怪獣の姿が見えなくなるや音楽の音色は急に止み、十人の教徒は立ち上がった。そして動物の檻の方へ足を早めて歩き出した。手を上げて何物かを招いていたその男が先頭に立ちながら。
ラシイヌは急にしっかりとレザールの手を握ったものである。
「見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴だよ」
「それでは女ではないのですね?」
レザールは驚いて訊き返した。
「なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙人でもない」
「ではいったい何者なので?」
「長く欧羅巴にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻人という奴さ」
「回鶻人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻人という奴はいない筈じゃありませんか」
「歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ」
「いったいどこから来たのでしょう?」
「新疆省の羅布の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!」
「で、どこへ行くのでしょう?」
「檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね」
「いずれ理由があるのでしょうな?」
レザールは髪を掻きむしった。
「理由はつまり復讐だ!」
「マドリッドへ復讐するのですか?」
「マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ」
「どんな悪いことをしたのでしょう? そうしてそれは何者です?」レザールは益〻いらいらした。
「マドリッド市長が彼らの宝の、経文の一部を取ったのだ──つまり発掘したんだね。そこで彼らはその経文を取り返すために出て来たのさ」
「ふうむ」とレザールは呻くように、「市長の書斎を掃きながら、贋物の女中が掃きすてたという、例の紙屑という奴が、その経文の一部ですな?」
「その紙屑を取り返すために、女中に化けて住み込んだり、燐光を放す狛犬を、人工で拵えておっ放し、市長を脅したってものさ」ラシイヌは悠々と説明した。
「私も贋物だと思いました」レザールはいくらか昂奮したが、「……つまり私はこの事件を、こんなように解釈しましたので……」
「話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を──燐光を放す怪獣を──何の贋物だと思ったかね?」
「恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました」
「犬か狼かいずれ直きに彼奴の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻人が、猛獣の檻を開いたから」
見ると彼らは四方に分かれ五つの檻の前へ立ち、パッと一斉に戸を開けた。そして烈しく叱咤した。
「シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッー」
しかし猛獣は──獅子も虎も、容易に現われては来なかった。
が、その次の瞬間には、五つの檻から猛獣が──猛獣のような真っ黒のものが、吼えながら一時に現われて、回鶻人を取り囲み、彼らを捕えようとひしめいた。
園内は回教徒と警官との格闘の庭と一変した。檻から出たのは警官であった。
「帰ろう」
とラシイヌはゆっくりと門の方へ足を向けた。
「これでもう万事片づいた。後は警官に任せて置こう」
レザールは何んとも云わなかった。ただ黙々と蹤いて歩く。
警官の叱咤、回教徒の怒号、鳥獣の吠え声や啼き声で戦場のような動物園を、見返りもせず二人の者は正面の門から街へ出た。街には何んの異状もない。市民は眠っているらしい。
その時、一台の自動車が、突然横手からあらわれた。警官が数人乗っている。
「とまれ!」とラシイヌは立ち止まって、片手を上げて合図をした。
「どこで怪獣は捕らえたな?」
ラシイヌが笑いながらこう云うと、警官達も笑い出し、
「府庁へ行く道の中央で。……いや飛んでもない怪獣だ」
「レザール君、見るがいい。これが怪物の正体よ」
ラシイヌはレザールを押しやった。
自動車の中には東洋犬の毛皮を冠った人間が、昏々として眠っていた。
レザールはその顔を見詰めたが、
「こりゃ園長のエチガライだ!」
「すなわち怪獣の正体さ──よろしい、諸君、では怪獣を病院へかまわず運んでくれたまえ」
自動車は再び爆音をたて、街路を辷るように走り去った。
「行こう、レザール、じゃさようなら……明日君の家を訪問しよう。その時君の話しを聞こう。今夜は眠いから失敬する」
ラシイヌはクルリと体を向け、横町へズンズンはいって行った。
五
その翌日のことである、ラシイヌとレザールと美術家とが、レザールの室で落ち合った。やっぱり麗かな春の陽が、南欧桜の香と一緒に室の中へいっぱいに射していた。
「……夫人の話を聞いているうちに、動物園長のエチガライが、疑わしいと思いましたので……」
レザールはいくらか恥ずかしそうな、思い違いを恥じるような、感激の伴なわないぼやけた声で、自分の解釈を一通り、ラシイヌに説明するのであった。
「さぐって見ようと思いましたけれど、ラシイヌさんのことですから、私より先に動物園へ行っていらっしゃるに違いないとこの友人のダンチョン君とも噂していたのでございます。するとはたしてあなたから電話がかかったというものです──しかし私はエチガライが、自分で犬の皮を着てマドリッド市中を駆け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので──市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう──そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした」
「夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね」
ラシイヌは愉快そうに頷いたが、
「実はね、僕も、正直のところ、動物園で調べるまでは、やっぱり君と同じようにエチガライを疑っていたものさ。あいつが犯人に違いないとね。ところで僕は君の考えより、一つだけ余分に考えたってものさ。それは燐光の怪獣だが、これには必ず何らかの迷信がからまっているだろうと──そこで図書館へ飛んで行って、回鶻辺に拡がっている土人の迷信を調べて見ると、あったあった大ありだ。あの辺にわずかに残っている、回鶻人の後裔達は──土耳古人との混血児だが──燐光を纒った狛犬を彼らの神の本尊とし、狛犬を祭った神殿に対し、もしも無礼を加えたものは恐ろしい神罰を蒙むるだろうと、こう書いてあるその後へ、神罰の例が二つ三つ記してあったというものさ。神社の財宝を盗める者──狛犬の吠え声を耳に聞き、悪性の熱病にかかるべし。神殿の経文を盗めるもの──狛犬の姿を三度認め、三度目に命を失うべし云々……。
『それでは園長のエチガライは回鶻人の後裔かな?』僕はその時疑ったものだ。とにかく僕は大急ぎで、動物園へ行ったものだ。真っ先に園長に逢って見ると、どうして立派な西班牙人だ。そして可哀そうに大病だ。しかも病気は神経病だ。脅迫観念に捉らわれている。それから女中に逢って見ると、一見土耳古の女だけれど支那人のようなところもある。しかしどのみち混血児だ。僕は何気なく遠くから金貨を一つ投げてやった。すると女中は両足を開けて、腰を曲げながら受け取った。で男だとわかったのさ。投げられた物を受ける時女なら両足を閉じるからね。それから後は君が昨夜、親しく見た通りというものだ。回鶻人という奴は──彼らだけではないけれど、一体に無智の人間ほど不思議な力を持っているもので、彼奴らはつまり妖術者なのだ。催眠術かも知れないが、とにかく一種の法力で、人間の心や体付きまで獣類に一変させるのだよ。……見込まれたのが園長だ。園長は決して悪人ではない。一個の学究に過ぎないのさ。学者という者は馬鹿のようなものだ。融通が利かないで正直だ。そこへ彼奴らはつけ込んだのさ。その上園長は市長の友で市長の家の案内を知り抜いているから好都合だった訳さ。そこで彼奴らは法術で──いわば一種の呪縛だね。園長の意志を縛ってしまって、彼奴らの意志を代わりに注ぎ込み、かねて用意をして置いた細工を凝らした獣の皮をスッポリ園長へ着せてしまって、そこでおっ放したというものだ。こうして市長を脅かしたのさ。経文を盗んだくらいだから、もちろん市長はその狛犬の迷信も知っていたに違いない。燐光を放す狛犬を見てハッと思ったのは当然さ。それに市長は心臓病だ。一度ならず二度三度、そんな狛犬を見たとすると、心臓麻痺を起こすかも知れない。そうしてほんとに死んだかも知れない……ほんとにあぶないところだったよ。それで彼奴らは昨夜を最後に、引き上げようとしていたものさ。行きがけの駄賃に猛獣を放し、憎いマドリッドの市民達を──つまり彼らは東洋人で、あらゆる欧羅巴の人間を人種的に憎んでいるのだからね──食い殺させようと計ったものさ。幸い僕が気がついてすぐ警視庁へ電話をかけ、警官をひそかに呼び寄せておいて、園丁達に云いふくめ、あらかじめ猛獣を檻の中から出しておいたからよかったものの、そうでなかったら市民達の円かな眠りは醒まされたろう」
「しかしどういう方便で回鶻人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い──それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった」
「聞いてみれば何んでもありませんなあ」
レザールは思わず呟いた。
「どうです」とラシイヌは画家を見て、「あなたがもしも小説家ならよい小説が出来ますな」
「神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油絵で描きましょうかな」
「獣人というような題にしてね」
ラシイヌは笑って云ったものである。
麗かな春の午後である。
第二回 沙漠の古都
六
夕暮れは室へも襲って来た。卓上のクロッカスの鉢植えの花は、睡むそうに首を垂れ初めた。本棚の上に置かれてあるバスコダガマの青銅像の額の辺へも陰影がついた。隣室を劃った垂帳のふっくりとした襞の凹所は紫水晶のそれのような微妙な色彩をつけ出した。
壁にかけられた油絵のけばけばしい金縁の光輝さえ、黄昏時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。あちこちに置かれた玻璃の道具、錫の食器、青磁の瓶──燈火の点かない一刻を仮睡の夢でも結んでいるように皆ひそやかに静まっている。
月はもう空に懸かってはいるがしかし太陽は没していない。昼でもなければ夜でもない。夜と昼との溶け合った真に美しい一刻である。
薄暮時のこの一刻を、私はしばらく味わおうとして食堂の椅子へ腰かけていた。
耳を澄ませば窓の外の芭蕉や蘇鉄の茂みから孔雀の啼き声が聞こえて来る。名残の太陽を一杯に浴びてまだまだ戸外は明るいと見える。孔雀の啼き声と競うように高い鋭い金属性の鸚鵡の啼き声も聞こえて来る。窓外の壁板に纒っている冬薔薇の花が零すのであろう、嗅ぐ人の心を誘って遠い思い出へ運んで行くような甘い物憂いまた優しい花の香が開け放された窓を通して馨って来る。その花の香に誘われて私の心は卒然と三年前に振りすてた故国の我が家へ帰って行く。……
夕の鐘が鳴り出した。回教寺院で鳴らす祈祷の鐘だ。冬といってもこの西班牙のマドリッドの暖さはどうだろう! 秋の初めと変りがない。雪は愚か雨さえもこの一ヵ月降ろうともしない。乾き切った十二月の空を通して鳴り渡る回教寺院の鐘の音の音色の高いのは当然だ。しかし神々しい鐘の音ももう明日からは聞かれまい。明日はこの国ともおさらばだ。東洋と西洋とを一つに蒐めて亜弗利加の風土を取り入れたような、異国情調のきわめて深い世にも懐しい西班牙を立って明日は沙漠へ向かわねばならぬ。支那の西域羅布の沙漠! そこへ私は出かけるのだ。沙漠は私を呼んでいる。その呼び声を聞く時は西班牙を懐かしむ心などは跡方もなく消えてしまう! 私は今日までまあどんなにその呼び声を待ちかねたろう……冬薔薇の匂いがまた匂う。三年前に立ち去った故国の我が家の面影がまたもわが眼に映って来る。私の思い出はその家へ今なつかしく帰って行く。
支那広東裳花街。そこに私の家がある。家といっても父も母も遠い昔に死に絶えてたった一人の妹だけが老婆の召使いと二人きりで寂しく暮らしているばかりだ。父母は革命の犠牲となって袁世凱の軍に殺された。そして家財は没収され家の大半は焼き払らわれてしまった。その時私は十五歳であった。そうして妹は十一であった。忠義な召使い夫婦の者に私達兄妹は救われた。焼け残った家へ立ち帰って父母の屍を葬ってからの私達兄妹の生活は昔の栄華に引き代えて世にも貧しいものであった。南支那切っての貿易商、南支那切っての名門の家──その家の形見の私達兄妹は世間の人達からは嘲笑され生き残った召使い達には逃げられて、私達兄妹を助けてくれた老召使い夫婦の者だけにかしずかれてわずかに生きていた。そのうち召使いの老人は弾傷が原因でこの世を去り私達二人の孤児は良人を失った老婆一人を手頼りにしなければならなかった。私は実際その時まではただ可哀そうな名門の児──意気地のない貴公子に過ぎなかったがこの時慨然と震い立った。私は剣をとったのだ。革命党に参じたのだ。孫逸仙の旗下に従いたのである。
「黄蓮!」と私はある日のこと──慨然と立ったその日のこと妹に決心を打ち明けた。「私を自由にさせておくれ。私を戦に行かせておくれ。父母の仇敵は袁世凱だ。あいつを生かしては置かれない。あいつは民国の仇なのだ! あいつをこのまま放抛って置いたらきっと皇帝になるだろう。あんな匹夫を皇帝に戴いて私達は生きていられるかい。あいつは匹夫で姦賊なのだ! 曹操のような人間だ。なんの曹操にも当たらない。あいつはむしろ王莾なのだ! 王莾を皇帝に戴いた時の漢の天下はどうだったろう? 酷い塗炭の苦しみに人民はどんなにもがいたかしれなかった。王莾よりももっと袁世凱は匹夫なのだ。その上父母の仇敵だ。私はあいつを討つために革命軍に投じようと思う。どうぞ私を行かせておくれ。私が行ってしまったらお前はきっと寂しいだろう。お前の寂しさを思いやると私の決心は弛むけれど、国の大事には代えられない。たとえ戦に出て行っても時々家へ帰って来よう。そうしてお前を慰めてあげよう。私は決心したのだよ。私を自由にさせておくれ」
すると妹は微笑して──眼には涙を溜めてはいたが──私の言葉に頷いた。
「私に心配はいりません」妹は優しく云ったものである。「私は老婆とお留守をしていつまでもここにおりましょう。そして兄さんのご決心がとげられるように神様へお祈りをしておりましょう」
優しい妹のこの言葉で決心は一層堅くなった。そこで充分妹のことを老婆に頼んだその後で私は家を出たのであった。孫文元帥の陣中では私は最初旗手であった。しかし間もなく自分から望んで軍事探偵の任務を帯び窃かに北京へ忍び込み讐敵の動静を窺った。袁総統の権勢は飛んでいる鳥を落とすほどで容易に接近出来なかった。それでも私は根気よく彼の身辺を窺った。こうして星移り物変り幾星霜が飛び去って行った。果然王莾は頭巾を脱いでその野望をあらわした。袁皇帝と称えようとした。釜で煮られる湯のように中国はにわかに騒ぎ立ち袁討伐の呪いの声が津々浦々にまで鳴り渡った。国民の輿望を一身に負って袁討伐の征皷を四百余の州に響かせたのは孫文先生その人で、漢の代の王莾を滅ぼした劉秀がこの世へ現われたかのように、先生の態度は勇ましく先生の人望は目覚ましかった。
その頃私は名を変じ身分を変え、軽奴となって袁総統宮殿の門衛の一人に住み込んでいた。そうして機会を窺って国と父母の仇を刺そうとした。
ある夜深更のことであった。おりから春の朧月が苑内の樹立や湖を照らし紗の薄衣でも纒ったように大体の景色を﨟たけて見せ、諸所に聳えている宮殿の窓から垂帳を通して零れる燈火が花園の花木を朧ろに染め、苑内のありさまは文字通り全く幻しの園であった。私は詰め所からうかうか出て苑内深く逍遙って行った。あたりは森と静かである。誰も咎める者もない。
「寂々タル孤鶯ハ杏園ニ啼キ、寥々タル一犬ハ桃源ニ吠ユ──」
自分はその時劉長卿の詩を何気なく中音に吟じながら奥へ奥へと歩いて行った。そういえばほんとに花園の中で鶯が寝とぼけて啼いている。犬も遠くの方で吠えている。
「顛狂スルノ柳絮ハ風ニ随ツテ舞ヒ、軽薄ノ桃花ハ水ヲ逐フテ流ル──」
杜工部の詩を吟った時には湖水に掛けた浮き橋を島の方へいつか渡っていた。橋を渡って島へ上り花木の間に設けられてある亭の方へ静かに歩いて行った。
その時嗄がれた老人の声が亭の中から聞こえて来た。
「そこへ来たのは何者じゃ? いや何者でも構わない。話し相手になってくれ──さあここへ来て腰をかけろ」
私はちょっと驚いたが構わず中へはいって行った。でっぷり肥えた小作りの、粗末な衣裳を身に纒った老人が縁に腰かけている。大輪の木蘭の花の影が老人の顔の上に落ちているのでハッキリ輪廓は解らなかったが、老人はじっと眼を閉じて何か考えているらしく、身動き一つしなかった。私も縁へ腰かけた。こうして二人はしばらくの間ものも云わずに向かい合っていた。
と、老人は眼を開き、その眼を私に注いだが、
「お前はこの景色をどう思うな? 林泉、宮殿、花園、孤島、春の月が朧ろに照らしている。横笛の音色が響いて来る……美しいとは思わぬかな? ──もっともお前は打ち見たところまだ大変若いようだ。自然の風景の美しさなどには無関心かも知れないが」
「美しい景色だと思います。雄大ではありませんが華麗です。自然というよりも人工的で技巧の極致を備えています」
「君はなかなか批評家だ。いかにも君の云う通り技巧に富んだ風景じゃ。君はこういう庭園を所有したいとは思わぬかな?」
「所有ってみたいとも思いますし、所有ってみたくないとも思います」
私が云うと老人は嗄がれた声で笑ったが、
「君はなかなか皮肉屋だね。ところで君のその言葉の、意味の説明を聞きたいものじゃ」
「これという意味もありませんが、こういう庭園を持つ者は王侯以外にはございません。こういう庭園を持つという意味は王侯になることでございます。男子と生まれて王侯となるのは目覚ましいことでもございますし願わしい限りでもございますが、さて王侯になって見たら側目で見たほどには楽しくもなく嬉しくもないかも知れません。楽しくも嬉しくもないのならこんな庭園を所有するような王侯になっても仕方がない。こう思うからでございます」
すると老人は忍び音に面白そうに笑ったが、
「君は老子の徒輩と見える、虚無恬淡の男と見える。二十そこそこの若い身空でそう恬淡では困るじゃないか。どうやら君はここへ来る時詩を微吟していたらしいが、無慾の君のことだから、『贈レ僧』という杜荀鶴の詩でも、暗誦していたんじゃあるまいかな?」
「いいえ」と私は笑いながら、「杜荀鶴のその詩は存じません。私の吟じたのは杜工部です」
「知らぬというのなら教えてやろう──私には思い出の詩じゃからの」
老人の言葉には威厳がある。底知れないような深みもあり聴いている人を押しつけるような圧力さえも持っていた。私は次第にこの老人に敬服するようになって来た。そして私は疑った。
「この老人は何者だろう? 官人かそれとも府の役人か? ただ者のようには思われない」しかし老人の顔の上には依然として木蘭の花の影が黒々と落ちているために確かめることは出来なかった。
その時老人は感慨をこめて杜荀鶴の詩を微吟した。
「利門名路両ナガラ何ゾ憑ラン、百歳ハ風前短焔ノ燈、只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、僧ト為テ心了セバ総テ僧ニ輸セン──どうじゃな、これが杜荀鶴の詩じゃ。上手の作とは思わぬが私にとっては思い出の詩じゃ。只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、私は若い時この詩を読んで一生の目的を定めたのじゃ。実はこの私も若い時にはちょうどお前と同じように名利の念に薄かった。布衣であろうと王侯であろうと人間の一生は同じことじゃ。王侯などになったならかえって苦労が多かろう。布衣の方がなかなか気楽らしいなどと思っていたものじゃ。しかるにこの詩を見た時に私はほんとにこう思った。浮世を捨てて僧に成ってさえ決して心了せないものを布衣でいたなら尚のこと心は満足しないだろう。どのような位置にいたところで人の心は安まらない。同じく心が安まらないものなら、人と産まれた果報には、思い切ってこの身を働かせて大事業をするのも面白かろう。それが男子の本懐じゃ! つまりこのように思ったのじゃ。そこで私は考えた。富貴に向かおうか王侯に成ろうかとな、私は両方を征服しよう! 慾深くこのように考えた。それから私は努力めたものだ。二十年三十年四十年、馬車馬のように突き進んだ。そして美しかった青年の私が、いつの間にかこんな老人となり死病にさえもとりつかれて余命少くなってしまった。なるほど私は人間として得べきだけの福禄は得たけれど、得れば得るほど尚得たいという望蜀の念に攻められて安穏の日とては一日もない。そして私には敵がある。兇刃、鴆毒、拳銃の類が四方八方から取り巻いている。そして私には死んだ人々の怨霊が日夜憑ついていて安らかな眠りを妨げる。私は金持ちだが金持ちだけにもっと大金が欲しいのじゃ。小さな野心は大野心を孕み大きな野心は最大の野心を産む。あらゆる人間は野心のために自分の身心を切りきざむ。私はその例のよい標本じゃ。そこで私はこう思った。杜荀鶴の詩を読んだ時に何故こんな決心をしたのだろう。こんな決心をする代りにいっそ出家をしていたら多少の安心は出来たろうと。今になっては返らぬ愚痴じゃ。もうどうしようにも仕方がない境遇が私を引っ張って行く。今さら出家はもう出来ぬ。私は境遇の傀儡となって盲目滅法に進むまでじゃ。こういう憐れな境遇にいる私のせめてもの慰めといえば、夜な夜なこのように姿を変えてあらゆる人間から遠ざかり、一人自然の懐中へはいって悠々と逍遙することじゃ。しかし唯一のその楽しみも長く味わう事は出来ないだろう。私は死病に憑かれていてじきに死ななければならないからの」
老人はしばらく考えたが重々しい調子で云いつづけた。
「明日にも私は死ぬかもしれぬ。こう云っているうちにも死ぬかもしれぬ。そこでお前に頼みがある。いいや頼みというよりもむしろお前に慫慂るのだ。そうだ慫慂るのだ」
こう云って老人は懐中から小さな手箱を取り出したが、それを私の前へ置き、
「これをお前に進呈する。家へ帰って開くがいい。お前の今後の運命はこれによってきっと定まるだろう。もし手に余ると思ったら謹んで土に埋めるがいい。これは天から授かったものじゃ。最初は私に授かった。私は天からの授かりものを自分のものにしようとした。しかし今ではもう遅い。私の命数は定まっていて、どうすることも出来ないのじゃ。それで私への福運を改めて私からお前へ譲る。天から授かったと同じことじゃ。しかしどのような幸福でもそれを得ようと思うにはまず艱難を冒さねばならぬ。手箱の中にある幸福を完全に握ろうとするからにはやはり艱難を冒さねばならぬ。その艱難が恐かったらその幸福を捨てるがいい、手箱を土中へ埋めるがいい……しかしお前はこの私が初めて逢った他人のお前へこんな大切な幸福の箱を何故易々と渡すのかと不思議に思うかもしれないが、それは決して不思議ではない。正直のところこの私は手箱を譲ってやりたいような味方を一人も持っていない。私の周囲にいる者は一人残らず皆敵じゃ。衣を纒った狼じゃ。で私は素晴らしい幸運を他人のお前へ渡すのじゃ」
不思議な老人はこう云うと縁からスラリと立ち上がった。そして私へは構わずに亭を離れて歩き出した。私はしばらく呆気にとられ老人の姿を見送っていたが気がついて背後から声をかけた。
「ご老人!」と私は忍び音で、「お名前をおきかせくださいまし、いったいどなたでございます?」
すると老人は振り返ったが、
「この国で一番不幸な男! それがすなわちこの私じゃ」
「この国で一番不幸な男? それがご老人だとおっしゃいますか?」
「世間の人達は反対にこの国で一番幸福者がこの私じゃなどと云っている」
「どうも私にはわかりません……」私は老人を見守った。
「ここにある宮殿や庭園はみんなこの私の所有物じゃ……四百余州の天も地も今では私の自由になる。私はそういう人間じゃ」
私は尚も老人をおりから雲を出た月に照らして、じっと仔細に見廻したが、吃驚して飛び上がった。
「あなたは! そうだ! わかりました!」
「わしは寂しい人間だよ! 一人の味方もない人間だよ」
老人は低く呟いたがそのまま静かに歩き出した。そして浮き橋を渡って行った。私はその後を見送った。いつまでもいつまでも見送った。民国の仇の後ろ姿、父母の敵の後ろ姿。袁世凱の後ろ姿を手を拱いて見送った。何故飛びかかって行かなかったのか? 手箱を貰った恩義のためか? いいや決してそうではない。総統の威厳に打たれたからか? 何んの何んのその反対だ! 私は全く袁世凱の寂しい姿に打たれたのであった。
……私は手箱を取り上げた。鉄で造られた粗末な手箱! 私は月光に照らして見た。何んの奇もなく変もないけれども、ほんとに奇もなく変もないこの貧弱の手箱から私の運命を左右するような世にも奇怪な羊皮紙が忽然として出て来ようとは……
果然、その夜から間もないある日、袁世凱の突然の死が、世界中の新聞に発表されて世の中の人を駭かせた。あまり突然であったため、世人は死因に疑いを抱き暗殺ではなかろうかと噂した。暗殺か自殺か自然の死か私だけには解っていた。彼は寂しさに堪えられず寂しさに食われて死んだのだ。
その後私はどうしたかというに、孫文先生の旗下を離れ一旦自家へ立ち帰って妹や婆やと邂逅した。それから再び家を出て世界の旅へ上ったのである。旅へ出かけた目的は? 恐らく私が説明しても誰も信用しないだろう。余りに荒唐な話しだから。つまり私は手箱の中の羊皮紙に書いてある文字を手頼りに雌雄二つの水晶の球を探し当てようそのために世界の旅へ上ったのである。こうしてその球を見つけた時こそ私の運の開ける時で、実に私は一朝にして巨億の財産家になれる筈であった。
ほんとに私は三年の間世界の国々を経巡った。金がなくなれば労働をし、金が出来ると先へ進み、亜細亜と亜米利加と欧羅巴とをほとんど皆尋ね廻り三月前から西班牙のこのマドリッドへ来たのであった。多くの支那人がそうであるように料理にかけてはこの私もかなり自信を持っていた。いよいよ金がなくなって労働をしなければならない時には私はいつも料理人になった。おんなじでんでマドリッドへ来るや伝を求めてこの旅館の料理人に私はなったのである。そして機会を待ったのである。阿弗利加へ渡るその機会を……がしかし今では阿弗利加などは全く眼中になくなってしまった。球は手近で発見された。そして私はその球を追って西域の沙漠へ向かうのだ。彼らと一緒に向かうのだ。彼ら探険隊の一行と──
私は喜びと不安とのためにドキドキ心臓が動悸をうつ。しかし勇気が衰えない。何んの勇気が衰えるものか。何がいったい不安なのか? 彼ら探険隊の一行の中の頭領とも云うべきラシイヌ探偵、副頭領とも云うべきレザール探偵、二人を恐れるそのためにか? ほんとに二人は抜け目のない鋭い人間には相違ないがしかし私は恐れない。何んの私が恐れるものか、先方でこっちを恐れるがいい。
卿ら、探険隊の諸君達! 卿らの守っている運命の球を出来るだけ大切にするがいい。隙を見てその球を奪おうとする支那の青年がいるのだから。料理人として卿らが雇い入れた張という支那の青年に眼を離さない方がよいだろうと敢て僕は諸君に警告する……
──孔雀の啼き声が聞こえて来る。鸚鵡の啼き声が聞こえて来る。冬薔薇の匂いが匂って来る。陽の落ちた後の夕空を夕映えが赤く染めている。明日は恐らく天気だろう。この食堂ともおさらばだ。そろそろ料理人部屋へ帰って行って荷造りの真似でもやることにしよう。
明日は沙漠へ向かうのだ。沙漠が私を呼んでいる……(備忘録下略)
七
「あの女を君はどう思うね?」
ラシイヌは小声で囁いた。
「前から気がついてはいましたが、土耳古型の素晴らしい美人ですね──あれをモデルにして描きたいものだ」
「描かざる画家」のダンチョンはこれも小声で囁いた。ラシイヌはちょっと舌打ちをしたが、ニヤリと苦笑したものである。
「君の描きたいねも久しいものだ。描きたい描きたいというばかりで何一つ君は描かないじゃないか。だから皆が君のことを描かざる画家のダンチョンだなんて下らない綽名をつけたのさ──あれほど君が意気込んでいた『獣人』の絵だってまだ描かない。ほんとに君はなまけ者だ……それはそうと向こうのあの女だが、君は変だとは思わないかね?」
「変だって何が変なんです?」
「そういう返辞が出るようなら君には向こうのあの女の変なところが解らないと見える。いいかいよっく見てみたまえ、今あの女は下を向いて熱心に新聞を見てはいるが、その実新聞を見ているのではなく僕らの様子を見ているのだよ」
「なんで僕らを見るのでしょう?」
「さあね、そいつは解らない。わからないから不思議なのさ。いったいどこからあの女はこの列車へ乗り込んだのだろう?」
「チェリアビンスクからだと思います」
「よく君はそんなことを知っているね?」ラシイヌはちょっと不審そうに訊いた。
「知ってるわけがあるんです」ダンチョンは何んでもなさそうに、「絵葉書を買おうと思いましてね、チェリアビンスクで汽車が止まると僕は早速下りました。プラットホームへ下りたんです。下りた拍子に僕の胸へぶつかって来た者があったのでヒョイと顔をあげて見るとですね、土耳古美人が立っているのです。『ごめん遊ばせ』と仏蘭西語で云って顔を赧らめたというものです。見ると女の荷物を担いだ赤帽が背後に立っていました。だからあの駅で乗車ったんですよ」
「ふうん、あの女がぶつかった? たしかに君にぶつかったんだね? 実は僕にもぶつかったのさ。クルガンの停車場へ停車く前に煙草を喫もうと思ってね、喫煙室へ出かけたものさ。あの女の前を通った時だ。不意に女が立ち上がって僕の腰の辺へぶつかったよ。その時僕は敏捷に働く手の触覚を感じたものだ。ズボンのポケットの辺にだね」
「きっと偶然にさわったんでしょう。あんなに美しい若い女がまさかに掏摸はやりますまい」
「…………」ラシイヌは返辞をしなかった。見て見ないような様子をして、列車の片隅に腰かけながら新聞を見ている疑問の女へじっとその眼をやったものである。
十二月極寒の西伯里を、巨大なインターナショナル・ツレーンは、吹きつける吹雪を突き破り百足のような姿をしてオムスク指して駛っている。しかし室内は暖かい。暖かい室内には乗客達が各自好みの外套を着て毛皮の襟をしっかりと合わせ座席に腰かけて話している。一等客室のことであるから、誰を見ても大概はカルチュアされた立派な紳士や淑女達で話している言葉も上品であった。モスクバ訛りの鼻声で声高に話している夫婦者、病身らしい十八、九の蒼ざめた娘はその横の方でじっと黙って聞いている。恐ろしいほどによく肥った宝石商らしい老人は、自分の前に腰かけている貴公子風の美男子をとらえて、パミール高原で見つけたという黒金剛石の話しを話している。その横の方では支那商人が、あたりの様子には無関心に、琥珀のパイプで雲南煙草をポカリポカリと喫っている。見廻りのボーイがやって来ると周章ててパイプを隠すのであった。小露西亜あたりの地主らしいむんずりと肥えた四十男は先刻から熱心に玻璃窓を通して日没の曠野の光景を一人黙って眺めていたが、やがてポケットから骨牌を出して一人で占ないをやり出した。蒙古の豪族とも思われる五人の伴を連れた老人は、卵型をした美貌を持った妙齢の支那美人を側へ引き寄せ仲よく菓子を食べている。五人の従者はその様子を東洋流の無表情の眼でむしろ慇懃に眺めている。トルキスタン人の一団はずっと向こうの客車の隅で、何か間違いでも起こったと見えて、口やかましく論じている。そのトルキスタン人の一団を左手に見た片隅に、土耳古型の美貌の持ち主の問題の女がいるのであった。きわめて豪奢な狐の毛皮の大型の外套をふっくりと着て体全体を隠してはいるが、強靱な、それでいてスラリとした、きゃしゃではあるが弾力のある、素晴らしく優秀な肉体が外套を通してうかがわれる。いちじるしく目立つのはその帽子だ。それは深紅の土耳古帽で、帽子を洩れて漆黒の髪が頸へ幾筋かかかっている。匂うばかりの愛嬌を持った。それでいて鋭い鋼鉄の眼、羅馬型ではない希臘型の、顫えつきたいような立派な鼻、その口は──平凡な形容だが──全く文字通り薔薇のようだ。可愛らしく小さい紫色の靴、形のよい細っそりとした黄色い手袋……
彼女は新聞を膝へ置いてちょっと小首を傾げた後、側のバスケットの蓋をあけて中から林檎を取り出した。それから彼女は手袋を脱いで林檎の皮をむき出した。露出した手首が陽に焼けて鳶色を呈していることは!
「ね」とラシイヌはダンチョンに云った。「どうしても怪しい女だよ。あれだけの美貌とあれだけの服装。どう踏み倒しても命婦だね。土耳古皇帝の椒房にいる最も優秀なる命婦だよ。皇妃と云ってもいいかも知れない。ところがどうだい、あの手の色は! まるっきり労働者の手の色だ……でそこで僕は思うのだ。あいつは唯の女じゃないよ」
「それじゃ掏摸だとおっしゃるので? あの素敵もない別嬪を?」ダンチョンは不平そうに云ったものである。「僕には怪しいとは思われませんね。彼女はきっと旅行家でしょう。だから陽に焼けているんですよ」
「手首だけ陽に焼けるわけがないよ」
「土耳古婦人はいつの場合でも面紗で顔を隠すそうです。顔や頸が焼けなくて手首だけ焼けるのはそのためでしょう」
「なるほど」とラシイヌは微笑して、「その解釈はよいとしても、どうして常時僕らの方へああも視線を向けるのかね。あいつの注意を引くような好男子は一人もいない筈だ」
「視線を向けると思うのは恐らくあなたの眼違いでしょう。僕にはそうは見えませんものね」
「よし」とラシイヌは語気を強め、「レザールの意見を聞くとしよう」
彼は車中を見廻したが、同業であり後輩である私立探偵レザールは、どこの腰掛けにも見えなかった。はるか向こうの窓際にこの一行の立て役者の博言博士マハラヤナ老が──世界を挙げて探しても十五人しかいないという回鶻語の学者とは思われないほどの好々爺然とした微笑を含んでコクリコクリ居眠りをしている横に、これもやっぱり同行の冒険好きの医学士で一行の衛生を担任しているカルロス君がいるばかりで、レザールの姿はどこにも見えない。
ラシイヌはいくらか不安になった。というのは一行の守り本尊の水晶の球を密封した鉄の手箱をそのレザールが体に着けているからである。
ラシイヌは席から立ち上がった。しかしその時連結されている隣りの客車の扉があいて、レザールがそこから現われたのでラシイヌは安心して腰かけた。
レザールは何故か眉をひそめラシイヌの側へやって来たが、耳へ口をつけると囁いた。
「あなたは料理人をどう思います? あの張という支那人を?」
「変ったことでもあるのかね?」ラシイヌは不思議そうに訊き返した。
「地図を持っているのですよ」
「地図⁉」とラシイヌは眼を見張った。その眼でレザールを見守って、「もっと詳細く話したまえ」
「今……」とレザールは話し出した。「オムスクへ着くのも間もないので一応道具類を見て置こうと三等の客車へはいって行きますと、監視を命じておいたあの張が道具の積み重ねを前にして熱心に何かを見ているのです。近寄って肩越しに見るとですね。西域の地図じゃありませんか。『張!』と私が声をかけるとバネ仕掛けのように飛び上がって地図を懐中へ隠しました。『地図を見せろ!』と嚇してもどうしても見せようとしないのです。『何んのために地図を持ってるか?』とかまわず詰問しましたところ、『幸いに縁あって皆様の探険隊の一員となって西域に向かうことが出来る以上は極力私も骨を折って皆様のお手伝いが致したいと思い西域の地図を求めました』とこういう彼の云い草です。『どこでその地図を手に入れたか?』尚も私が尋ねますと、『西域は支那の領地ですし私は支那人の事ですから地図などは容易に手に入ります』と何んでもないように云うのです。なるほど理窟にはかなっていますが、それほど理窟にかなっているなら尚の事地図を見せればよいのにどうしても見せようとしないのです」レザールはちょっと云い淀んだが、「こんな具合であの支那人は胡乱な人間だと思いますので、いっそ思い切ってオムスク辺で解雇いたしたらいかがでしょう?」
「解雇するのもよかろうが旨い料理が食えなくなるね」ラシイヌはニヤニヤ笑いながら、「ところで張のその地図と僕らの持っている西域の地図とは全く同一のものだろうかね?」
「私は瞥見しただけで正確のところは云われませんが同一のものらしく見えました」
「僕らの持っている西域の地図はヘジン博士の著わした実地踏査の写生地図で他に類例のないものだがそれを持ってるというからには料理人は確かに怪しいね。僕らの地図を模写したかもしくは瑞典まで出かけて行ってヘジン博士に邂逅って手ずから地図を貰ったか、どっちみち尋常じゃなさそうだね……僕ら一行の行動は──つまり僕らが組織的に人跡未踏の羅布の沙漠を徹底的に探るというこの著しい行動は、『第二「獣人」の事件』と一緒に世界的に評判されていて秘密を包んだ水晶の球のいかに尊いかということも世間の人は知っている。そして尊いその球を僕らが守護していることも世間の人は知っている。だから僕らは僕らの球を世間の悪い人間どもに盗まれまいと用心して、毎晩持ち主を代えているほどだ……こうまで用心をするというのもただ盗人が恐ろしいからさ。怪しい人間は遠慮なくドシドシ遠ざけるがいいだろう」
「明日は早朝五時頃にオムスクへ汽車がつきますからそこで解雇を云い渡しましょう」
「よかろう」
とラシイヌは頷いた。そうして改めて土耳古美人を胡散くさそうに眺めた後、レザールにそっと囁いた。しかしレザールにはその美人が怪しい曲者とは見えなかった。そんなことよりも張コックが先刻持っていた西域の地図を、明日解雇を云い渡してからどうしたら取り上げることが出来るかとそればかりを懸命に考えていた。
……しかし実際には、張料理人を解雇することは出来なかった。解雇することが出来ないばかりか彼らは彼に助けられた。と云うのはオムスクへ着かない前、その夜のちょうど十二時頃に、車中に恐ろしい事件が起こって彼らを全滅させようとしたのを張がいちはやく助けたのであった。
事件というのはこうである──
夜が更けるに従って天候は益〻悪くなって怒濤のような音を立てて吹雪が車窓へ吹きつけて来た。車内の乗客は玻璃窓を閉じ鎧戸までも堅く下ろして、スチームの暖気を喜びながら賑やかにお喋舌りをつづけていた。するとそのうち人々は次第に談話を途切らせた。そうして皆睡気を感じて寝台へ行く人が多くなった。ラシイヌも睡気を感じたので立ち上がって寝台へ行こうとした。不思議とどうにも体が弛い。「変だぞ」と彼は呟きながら室の内をいそいで見廻した。マハラヤナ博士もレザールもダンチョンさえも昏々と壁板へ頭をもたせかけて人心地もなく眠っている。よく見ると乗客全部のものが皆他愛なく眠っている。たしかに眠っているらしい。しかし誰も彼もおかしなことにはその眼を大きく明けている。それでは眼醒めているのだろうか? それにしても彼らは身動きをしない。その時ラシイヌはふとさっきから、東洋でくゆらす抹香のような、死を想わせるような、「物の匂い」が、閉じこめた車内を一杯にして、匂っているのに気がついた。彼はある事を直感した。で彼は危難から遁がれようと急いで窓へ手をかけたが、もうその時は遅かった。見る見る身内の精力が消え、四肢が棒のように硬直し眼だけ大きく見開らいたまま腰掛けの上へ転がった。しかし意識は明瞭であった。あらゆるものがよく見えた。乗客も手荷物も窓硝子も。しかし一本の指さえも動かすことは出来なかった。尚、物音もよく聞こえた。列車の突進する轍の音、窓に吹きつける雪の音……ラシイヌはその時室の隅で女の笑う声を耳にした。笑い声の起こった室の隅を彼は辛うじて眺めて見た。口と鼻とへマスクを掛けた一人の女が立っている。赤い土耳古帽に黄色い手袋、狐の毛皮の外套を着て紫の靴を穿いている。そして右手に青銅で造った日本の香爐を捧げている。大変小さい香爐ではあるがそこから立ち昇る墨のような煙りは強い匂いを持っていた。女は室内を見廻した。それから香爐を腰掛けへ置いてツカツカとこっちへ近寄って来た。少しも躊躇することなしに彼女はレザールへ走り寄った。同じようにちっとも躊躇せずに彼女はレザールの上着を剥いだ。それからチョッキをまた剥いだ。そして下着を引き破り胴巻に包んだ鉄の手箱をそこからズルズルと引き出した。彼女は胴巻を床へ棄て手箱を眼の前へ持って来てしばらく仔細に見ていたがようやく納得したと見えて外套の内隠しへしっかりと蔵いホッと初めて吐息をしてそのまま隣室の扉へ行ってドアの取手に手をかけた。しかし女が捻らない先に鉄の取手がガチャリと鳴って扉が向側から押し開らいた。女は二、三歩よろめいた。その鼻先へ突き出されたものは自動拳銃の銃口である。女はまたもよろめいた。すると扉口から一人の男──料理人姿の東洋人──張教仁が現われた。
「手をお上げなさいお嬢さん!」立派な仏蘭西語で張は云った。女の顔は蒼褪めた。そして神妙に手をあげた。張は片手で拳銃を握り空いている片手を働かせて女の外套を探ったが、素早く鉄箱を取り出した。
「さあもうこれで用はない──ねえお嬢さん、さぞあなたは残念にお思いなさるでしょうが、それは少々気がよすぎます。しかしあなたのやり口は全く上手なものでした。支那西域の庫魯克格の淡水湖に限って住んでいる、丰々という毒ある魚の小骨の粉末を香に焚いてそれで人間を麻痺させるなんて実際あなたはお怜悧でした。そういう秘伝を知っている者は支那の道教の信仰者か西域地方を踏破した人か、どっちかに限られている筈です。どうしてあなたがそれを知っているか、そんなことはお尋ねしますまい。私という人間がいなかったらあなたのやられた方法は立派に成功したでしょう。私のいたのはあなたにとってはとんだ災難というものです……汽車が徐行を始めましたね。まだオムスクへは着かない筈だ。さては石炭の供給かな。とにかくあなたには好都合です。さあさあ早くお下りなさい。警察官へ渡すにはあなたは余りに美しすぎる。それにあなたは東洋人だ。そして私も東洋人だ。同情し合おうじゃありませんか」
張は一方へ身を除けながら、出口の扉を開けてやった。すると女は猫のようにプラットホームへ飛び下りた。そしてそのままその姿を吹雪の闇へまぎれ込ませた。
闇の中から女の笑う美しい声が聞こえて来た。
「美しい支那の貴公子よ! 今日はお前が勝ったけれどいつかは私が勝って見せる。沙漠で逢おうねまたお前さんと……私は沙漠の娘だよ。沙漠ではお爺さんが待っています。ではさようなら、さようなら!」
ほんとにその声は美しい。張は石のように佇んだままその声の後を追っていた。恋愛を覚えた人のように。
まだ車中では眠っていた。香爐からは煙りが上がっていた。
八
私達はオムスクで一泊した。翌朝早くホテルを出てイルチッシ河の河岸へ出た。流程二千三百哩、広々と流れる大河の態は大陸的とでも云うのであろう。一行は汽船へ乗り込んだ。セミパラチンスクまで行くのである。両岸はキルギスの大平原で煙りの上がるその辺には彼らの部落があるのであろう。セミパラチンスクで二泊した。これからは陸路を行くのである。塔爾巴哈台までの行程にはただ禿げ山があるばかりだ。一望百里の高原は波状をなしてつづいている。ところどころに湖水があって湖水の水は凍っていた。馬と駱駝と荷車の列──私達の一行はその高原をどこまでもどこまでも行くのであった。塔爾巴哈台からは支那領で、それから先はどことなく沙漠の様子を呈していた。ノガイ人種を幾人か頼み彼らに駱駝をあつかわせ、烏魯木斎指して進んで行った。烏魯木斎の次が土魯番で私達はウルマチとトロバンとで完全に旅行の用意をした。悉皆馬を売り払い駱駝を無数に買い込んだ。氷の塊を袋に詰め充分に食料を用意した。探検用の専門の器具は木箱に入れて厳封した。ノガイ族キルギス族土耳古族、それらの幾人かをまた雇った。同勢すべて三十人。いよいよ沙漠へ打ち入った。
幾日も幾日も一行は沙漠を渡って行く。……
もうここで十日野営を張る。いつまで野営をするのだろう。いつまでも野営をするがいい。私はそれを希望する。私はこの地を離れまい。美しい謎の土耳古美人を自分のものにするまでは断じて私は離れまい。
阿勒騰塔格の大山脈と庫魯克格の小山脈とに南北を劃られた羅布の沙漠のちょうどこの辺は底らしい。どっちを見ても茫々とした流れる砂の海ばかりだ。遙かに見える丘陵もやっぱり砂の丘であって一夜の暴風で出来たものだ。ところどころに沼がある。しかしその水は飲めなかった。多量に塩分を含んでいる。立ち枯れの林が一、二ヵ所白骨のように立っていて野生の羊がその周囲を咳をしながら歩いている。遠くの砂丘で啼いている獣はやっぱり野生の駱駝である。私達を恐れているのだろう。夜な夜な無数に群をなして草原狼が現われたが、火光に恐れて近寄らない。一発銃を撃ちはなすと慌てて姿を隠すのであった。
河の流れも幾筋かあった。しかしその水は飲めなかった。やっぱり塩を含んでいる。これらの河や沼や池は、全く不思議な化物で絶えずその位置が変るのであった。動く湖、移動る沼、姿を消してしまう河や池──全くこの辺のすべてのものは神秘と奇怪とに充ちていた。ある夜突然空の上から微妙な音楽が聞こえて来た。多数の男女の笑う声も。しかしもちろん姿は見えなかった。音楽も風のように消滅した。そうかと思うとまたある晩は氷塊と駱駝とを盗まれた。氷塊も駱駝も私達にとっては命と同じに大事なものだ。みんなはすっかり恐怖した。そうして厳しく警戒した。またある晩は木片の面へ不思議な文字を書きつけたものが天幕の中へ投げ込まれた。博言博士はそれを見ると顔色を変えて説明した。
「これがすなわち回鶻語じゃ。誰がいったい書いたんだろう。まだ墨痕は新らしいが」それからその語を翻訳した。
「──沙漠の霊を穢すなかれ。汝らの最も尊敬する貢物を捧げて立ち去らざれば、沙漠の霊汝らを埋ずむべし──」
突然ラシイヌが笑い出した。
「これで正体がほぼわかった! もう心配をする必要はない。黙って放抛っておくんだね。そのうちに僕が悪戯者の沙漠の霊を捉らまえてやる」
しかし博士のマハラヤナは印度人の常として迷信深く不安そうにしばらくの間考えていたが、
「あらゆる物には霊魂がある。沙漠にも霊魂はある筈だ──そこで思うにこの霊は数千年のその昔にこの地へ国を立てていた楼蘭という土耳古族の家国の霊かも知れません。もしそうなら祀らねばならん」
「何をいったい祀るんです」ラシイヌは益〻笑いながら、「決してご心配には及びません。まあご覧なさいその霊めをきっと捉えて見せますから」
自信の籠もったこの言葉はそれまで不安に襲われていた土人達の心を一掃した。
回鶻語で記した木片が天幕へ投げ込まれたそれ以前から、誰が入れるのか解らないが、私の服のポケットへは女文字で記した仏蘭西語の紙が一再ならずはいっていた。最初の紙にはこう書いてあった。
同じ東洋人なる支那の貴公子よ、妾を固く信じ給え、西班牙の愚人の守りおる彼の水晶球を奪い取り妾の住居へ来たりたまえ。
第二の手紙にはこう書いてあった。
早く決心なさりませ。奪い取った球を手に握って沙漠を東北へお逃げなさい。里程にして約二里半を足に任せてお逃げなさい。そうしたら村落に行きつくでしょう。沙漠に立っている羅布人の村! 人口は約二百人、飲まれる泉が湧いています。青々と常磐木が茂っています。沼には魚が住んでいて葦の間には水禽がいます。住民はみんなよい人です。音楽と盗みとが上手です。沢山の伝説を持っています。彼らの中の頭領は七十に近い老人です。綽名を沙漠の老人と云って幾個かの伝説と幾個かの予言と幾個かの迷信とに養われている魔法使いのような翁です。住民の家は灰色で土で造ってありますけれど老人の家だけは木造りでしかも真紅に塗られています。真紅な家へいらっしゃい。そこに私がいるのです。
可愛らしい支那の貴公子よ。妾の言葉を信じなさい。東洋人同志ではありませんか。
第三の手紙は昨夜来た。次のような文句が記してあった。
私はあなたに命じます! 今度こそ実行なさいましと。しかしあなたはこのわたしをきっと疑っておいででしょう。あなたの疑いを晴らすためわたしの素性を申し上げましょう。私は土耳古の将軍でピナンという者の二番目の娘のエルビーという女です。私は宮廷で育ちました。皇后の侍女頭をしていました。ある夜新しい命婦のために皇帝は夜会をひらかれました。諸国から献ぜられた五人の命婦はいずれも憂欝な顔をして席に控えておりました。五人のうちで一番若い──十七位の波斯乙女はわけても悲しそうな様子をして眼を泣き脹らしておりましたので妾の注意をひきました。宴会が終えて命婦達が各自の椒房へ帰った時、私は皇后の許しを受けて命婦達を慰問に行きました。例の十七の可哀そうな命婦の華麗な椒房へ行って見ると、可憐の乙女は寝台の上でシクシク泣いておりました。私は侍女を遠ざけてから乙女に慰めの言葉をかけてその身の上を尋ねました。乙女の言葉によりますと、乙女は波斯でも由緒正しい絹商人の愛娘で、その時からちょうど一月前、父母に連れられてコンスタンチノーブルへ観光に来たのだそうでございます。ところが白昼誘拐かされ朝廷の大官に売られたのをその大官がさらにそれを皇帝に献じたということです。娘は私に云うのでした。「どうぞここから逃げられるようにお取り計らいくださいまし。ここに手箱がございます。幾代前からか知りませんが私の家に伝わった鉄の手箱でございまして中には解らない昔の文字で何かを記した羊皮紙があると父母が申しておりました。そしてこの箱さえ持っていればどんな危難でも遁がれられると云って幼少時から肌身放さず持たせられていたのでございますが、これをあなたに差し上げますからどうぞお助けくださいまし」と。私は可哀そうになりました。で私は娘に云いました。「私が助けてあげますからちっとも心配はいりません」と。そして私はその翌日乙女を私の馬車に乗せて堂々と王宮からつれ出しました。幸い誰にも咎められず英国大使館へ馬車を着け大使に乙女を任せて置いて妾は王宮へ取って返して乙女から貰った鉄の手箱を何気なく開けて見ますると、古代回鶻語で記された羅布の沙漠の秘密の謎があらわれて来たではありませんか。そこで私はその箱を握ってすぐに宮中を抜け出しました。皇帝の命婦を逃がしてやった罪の発覚を恐れたよりも、羊皮紙に書かれた秘密の謎のその価値のあまりに大きいのに驚いたからでございます。それから回鶻語の暗示に任かせ沙漠へ来たというものです。そして私はこの沙漠の雌の水晶球を手に入れました。ですからもしももう一つの雄の水晶球を手に入れましたら二つの球を携えて、羊皮紙に記してあるように私達の村から十里へだてたロブノール湖へ船を浮かべて地下に建てられた都会へまで流れて行くことが出来るのです。そしてその都会へ着いた時二つの球は奇蹟をあらわし巨億の宝の隠れ場所を私達に示すことになっております。
同じ東洋人なる支那の貴公子よ! 雄の珠を奪っていらっしゃい。妾と土耳古の民族の最初の祖先の回鶻人が国家の亡びるその際にひそかに隠したそれらの富を一緒にさがそうではありませんか。雌の玉の持ち主である沙漠の「老人」が、私達のために湖水まで案内をするそうです。
あなたは難解な回鶻語を──羊皮紙に書いてあった回鶻語を、どうして妾が読み得たかきっと不思議に思われるでしょう、がそれには理由がございます。今も手紙に書きました通り回鶻人は土耳古民族の最初の祖先なのでございます。土耳古宮廷にいるほどの者は必ず回鶻語の初歩ぐらいは大概読めるのでございます。羊皮紙に書かれたあの文字はきわめて簡単でございました。
三回目の密書を読んだ時私はようやく決心した。球を盗もうと決心した。汽車中の出来事があって以来ラシイヌ達はこの私を極度にまでも信用して球の入れてある鉄の箱をついには私に預けさえもした。つまり彼らはこの私を同志の一人に加えたのであった。球を奪うことは容易であった。一夜、満月の明るい晩ついに私は目的をとげ、土耳古美人の住んでいる緑地へまで落ち延びた。常磐木、泉、土人の小屋、他には魚が泳いでいるし木々には小鳥が啼いている。緑地は住みよさそうに思われた。常磐木の間に祠がある。石の狛犬がその社頭に二匹向かい合って立っている。「沙漠の老人」と土耳古美人とは私を祠へつれて行って私に拝めと云った。無宗教の私は云われるままに祠に向かって三拝した。
と老人が私に云った。「若者よ、これは吾らの神じゃ。吾ら羅布人の神なのじゃ。そして羅布人は回鶻人じゃ。数千年の昔から今日まで他人種の血液を混じえずに純粋に残った回鶻人は吾ら羅布人ばかりなのじゃ。吾ら純粋の羅布人はここの緑地に集まって吾らの唯一の守り本尊アラなる神を祠に祭りアラ大神の使者の燐光を纒った狛犬を神の権化と懼れ恭い、数千年住んで来た。しかるに今から数年前西班牙人の探検隊が羅布の沙漠へ襲って来て神の祠を破壊して経文の一部と羊皮紙と箱に納めた雄の球とを何処ともなく奪い去った。吾らの怒りは頂点に達し神に復讐の誓いをして、西班牙人の探検隊の頭目の行衛を探索した。そして計らずもその頭目が西班牙の首府のマドリッドの市長の要職にいると聞き吾らは雀躍して喜んだ。そこで一隊の暗殺団をマドリッドへ向けて送ってやった。そして巧妙なる手段をもって最初に経文を取り返した。そしてその次には他の一団が──それも沙漠から送ったのだが──その二回目の暗殺団が市長の胸へ短刀の切尖を深く突きさした。市長はしかし死ななんだ。死なないばかりか決心して、ラシイヌなどという私立探偵へ水晶の球と羊皮紙を託し沙漠の秘密を探らせようと探検隊を組織させた。──ラシイヌ達の一行はこの二回目の暗殺を「第二獣人事件」と云っている──探検隊を組織したという噂を知ったので、途中に迎えて水晶球を奪い取ろうと思いつきエルビーを汽車まで向かわせたのじゃ。お前の邪魔でこの企ては到頭失敗したけれど、邪魔をしたお前が味方となり、白人達の奪い取った水晶球をまた奪って緑地へもたらせてくれたからには、恩こそあれ恨みはない……ところでお前は支那人だのにどういう理由で白人達の探検隊に加わったのか?」
老人は不思議そうに私を見た。それで私は私自身のこれまでの経歴を物語った。老人は黙って聞いていたが、
「お前は回鶻語が読めるのか? 袁世凱のくれたという手箱の中の羊皮紙をどうしてお前は読んだのじゃ?」
「鉄の手箱には原文と一緒に訳文がはいっておりました。袁世凱の勢力で回鶻語の学者を呼びよせてひそかに訳させたのかもしれません」
老人はなるほどと頷いて、それっきり何んにも云わなかった。
翌日私達は家を出た。十里の道を二日かかってロブノール湖まで歩いて行った。既に土人が用意して置いた獣皮の小船が湖の岸に音もなく静かに浮いていた。三人はそれへ飛び乗った。巧みに老人が櫂を漕ぐ。
老人は漕ぎながら話し出した。老人の言葉をエルビーが仏蘭西語に訳して話してくれる。私は傾聴するばかりだ。
「伝説によれば」と老人は云った。「数千年の昔において今度の事件は予言されていた。水晶球の雄の球は白人によって奪い去られ黄色人によって取り返さるべしと。そしてもう一つ伝説によれば一旦白人に渡った球は後に残っている雌の球と共にロブノール湖の水で洗浄されると。だから球を二つとも箱に入れてここへ持って来た。もう一つ最後の伝説によると、失われた球を取り返した人は、アラ大神の祝福を受けて地下に尚生きて働いている回鶻人を見ることが出来、彼らの都会へ行くことが出来、そして都会へ行きついた時雌雄の球の奇蹟によって古代回鶻人の埋没した巨財の所在を知ることが出来ると。で今吾らは伝説通りロブノール湖に浮いている。奇蹟があらわれるに違いない」
老人は厳かに云い放すとじっと湖水を眺めやった。
冬の真昼の陽に輝いて、周囲一里ほどの湖は波穏かに澄んでいる。空を行く雲も鳥影も鏡のように映って見え、日光を吸って水の中は黄金のように輝いている。
老人は二つの箱を出して、湖水の水を注ぎかけた。そして大神を讃え出した。
「アラ、アラ、イル……」と熱心に。
動くともない湖水の水がその時渦を巻き出した。渦の中心に船がある。船が急速に廻り出した。と、砂山の一方の岸が見る見る崩れてその跡へ洞窟のような穴があいた。水がその洞へ流れ込む。いつしか船も流れ込んだ。忽然と四辺が暗くなり一筋の陽の光も見えなくなった。エルビーが私に縋りつく。老人は闇の中で祈っている。
「アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、イル……」
船はずんずん流れて行く、地下の水道を矢のように……(備忘録下略)
九
「張の姿が見えないぞ!」
朝早くレザールが叫び出した。マハラヤナ博士もラシイヌもその声に驚いて飛び起きた。沙漠の暁の薄光が天幕の中へ射している。彼らは真っ先に球を納れた鉄の手箱をさがしたが、その影さえも見えなかった。一行三十人の人々は手を分けて張を探したがどこにも姿は見えなかった。みんな絶望して溜息をついてそして沈黙に落ち入った。
「信用したのが悪かったね。今さら云っても返らないが」ラシイヌの声は憂欝だ。
「彼奴はいったい何者だろう? 仏蘭西語が出来て英語が出来て料理が上手で度胸がある。西域の地図を持っていた──ただの鼠じゃなかったんだ」レザールの声は泣きそうだ。ひょうきん者のダンチョンさえ黙って地面を見つめている。
しかしいつまでそうやっていても張の出て来るきづかいはないので、またも一同立ち上がって彼の行衛をさがしだした。今度は幾組かに組を分け四方へ一度に出て行った。
ラシイヌと博士との一行は同勢八人が一団となり東北をさして探しに出た。わずか一里ほど行った時意外にも一つの村へ出た。常磐木が青々と茂っている、泉が地面から湧き出ている。村には一つの祠があって狛犬が二匹並んでいる。
「ははあ市長が水晶の球と羊皮紙とを発見た祠というのは、ここにあるこの村の祠だな。しかしこんなに手近な所に緑地があろうとは思わなかった。恐らく張の逃げ込んだのもこの緑地に違いない」ラシイヌは心でこう思ったので土人を無理に引っ捕らえ博士の通弁で質問した。
「はい逃げ込んで参りました」冷笑しながら土人は云った。
「そしてたった今湖水を指して発足したばかりです」
「湖水というのはどこにある?」
「南方十里の彼方です」
ラシイヌも博士もこれを聞くと顔を見合わせて微笑した。手掛かりを握ったからである。土人を二、三人案内にしてすぐ南方へ足を向けた。途中で一夜、夜を明かし翌日の正午ごろそこへ着いた。湖水は波も平らかに凍りもせずに澄んでいる。岸に一艘の獣皮の船が水に軽々と浮かんでいる。ラシイヌと博士は船へ行って中の様子を調べて見た。鉄の手箱が空のままで船の中に二つ置いてある。そしてその横に手帳がある。表紙に書いてある六個の文字──「備忘録、張教仁」と鮮かに……
マハラヤナ博士は声を立てて備忘録の文章を読んで行った。張という人物のいかなる者かを二人は初めて了解した。湖水の岸の洞穴が開いて流れ込む水に連れられて三人を乗せた獣皮の船が同じく洞穴へ流れ込んだと記してあるあたりの文章は、博士とラシイヌとを驚かせた。二人は手帳から眼を放して湖岸を見廻したほどである。しかしもちろんどの岸にもそんな洞穴は開いていない。備忘録の最後の頁にはこんな意味のことが書いてあった。
沙漠の地下にこんなに大きい、こんなに賑やかな古代都市が、そっくりそのまま建っていて歴史上既に亡びている回鶻人が生きていて元気に働いていようとは、何という文明の驚異だろう。驚異ではあるが夢ではない。私達三人はその都会で市民達によって、今、現在、未曽有の歓迎を受けている。ああその都会の美しさ──それは現代の美ではない。それは天国の美しさだ──ああその都会の不思議さは文字や言葉ではあらわせない。そしてついに我々は水晶の球にからまっている巨財についての不思議な謎をいとも容易に解くことが出来た。市民達が教えてくれたのだ。吾らはその富を獲るために近日地下の都会を出て南の方へ行こうと思う。新しい船の用意も出来、新しい手帳の準備も出来た。もうこの古い獣皮の船、もうこの穢れた備忘録、私には不用のものとなった。地下水道を逆流するロブノール湖の水に託して沙漠にいる人々へ送ろうと思う。博言博士にラシイヌ閣下、ダンチョン君にレザール氏、さようならさようなら!
不思議と暖かい日であった。そのくせ空は曇っている。そしてそよとの風もない。探検隊の一行は沙漠にいる必要がなくなったので、出発の準備にとりかかった。
博士とラシイヌとは肩を並べ沙漠を的なく逍遙いながら、感慨深そうに話し合った。
「あなたを印度からお呼びしてわざざわざ参った甲斐もなく探検は失敗に終りました。あなたに対してもお気の毒で済まないことに思っています」
「いやいや」と博士は打ち消した。「私に斟酌は無用じゃよ。かえってあんたにお気の毒じゃ。さぞまあ落胆したろうが、これも一つの運命じゃ」
「それにしても博士、地下などに、ほんとに都会があるものでしょうか?」
「沙漠のことじゃ、そんなことも、全然ないとは云われまい」博士はちょっと考えてから、「つまり沙漠は文明の墓じゃ。死んだ者ばかり住んでいるところで、人界でもあることだが仮死の状態の人間をうっかり死んだと誤認して墓に持ってくることがある。それとそっくり同じで沙漠の暴風が一晩吹いて、砂上に出来ている大都会を一夜に葬ることがあるが、葬られながら尚地下で生きていないとも限らない」
「そうかと思うと一夜のうちに、暴風が砂を吹き上げて、埋没した都会を一瞬間に地上へ出すということを何かの本で見ましたが、そういうこともあるのでしょうね?」
「そういうこともあるそうだ」博士は幾度も頷いた。
この言葉が讖をなしたのか、果然、その晩、季節はずれの暴風が一夜吹きつのった。そして眼の前の砂丘の上へ石の標柱を現出した。それに刻まれた回鶻語を博士が朗々と読んだ時、ラシイヌもレザールもダンチョンも息をひそめて傾聴した。
我らの国家亡びんとす。キリスト教徒は我が敵なり。
巨財を砂中に埋ずむべからず。南方椰子樹の島国に送る。形容は逆蝶。子孫北方に多し。
三羊皮紙に内容を書し亜細亜の天地にこれを送り、一柱二晶に解釈を記す。
「形容は逆蝶、子孫北方に多しか……」しばらく経ってからこう云ってラシイヌはじっと考えた。と不意にクルリと身を翻えして天幕の方へ馳せ帰った。万国地図を取り出して彼は仔細に調べだした。
「諸君、解った。濠州だ」ラシイヌは元気よく云い放った。
「見たまえ濠州のこの形を、逆にした蝶にそっくりだ。北方の海中に島が多い。だからすなわち子孫多しだ。思うに古代の回鶻人は国家の亡びるその際に財産をあげて南洋へ送り濠州のどこかへ隠したと見える。そしてその事を水晶の球と石の標柱とに記したのだ。それから三枚の羊皮紙へ暗示的の文章を書き記して亜細亜方面へ送ったと見える。それで後世智恵者があって羊皮紙の文字に疑いを起こし沙漠へ探検にやって来てあの標柱を掘り出すか、二つの水晶球を得るかすれば、巨億の財産を隠匿した場所を発見することが出来るという、そういう寸法にして置いたらしい。恐らく張というあの支那人も、羊皮紙の一枚を手に入れた幸運な智恵者の一人なんだろう。そして運よくあの男は水晶の球を二つながらここで手に入れたに違いない。しかし僕らも天の助けで、あの標柱をさがし当てた。僕らと張は五分五分だ。沙漠には用がなくなった。舞台は南洋に移ったのだ──それでは僕らも沙漠を横切り支那の本土へ一旦出てさらに南洋へ行こうではないか」
いかにも愉快そうにこう云ってラシイヌはみんなを見廻した。みんなの顔にも歓喜の情があふれるほどに漲っている。
沙漠はその間も、キラキラと幻のように輝いている。
秘密! 秘密! あらゆる秘密を蔽い隠しているように沙漠は朝陽に輝いていた。
第三回 世界征服の結社
十
北京の春は逝きつつあった。世はもう青葉の世界である。胡沙吹く嵐にもろもろの花がはかなく地上に散り敷いた後は、この世から花は失なわれた。ただ紫禁城の内苑に、今を盛りの芍薬の花が黄に紅に咲いているばかり。大総統邸の謁見室に、わずかに置かれた鉢植えの薔薇さえ、その色も艶も萎れていた。
中央停車場に程近い燕楽街の十番地に、木立の青葉に蔽われて巍然と聳えている燕楽ホテルの、三階の一室に久しい前から逗留している客があった。
客は男女の二人であったが、男の方は、その顔立ちから、南方支那の産まれと覚しい三十歳足らずの貴公子で、起居振る舞いに威厳があった。しかるに一方女の方は、東洋人には相違ないが、支那の産まれとは思われない。むしろ近東土耳古辺の貴婦人のような容貌で、態度はきわめて優美ではあるが、北京の生活に慣れないと見えてどこかにギゴチないところがある。口さがないホテルの使童達は奇妙な取り合わせの二人を評して、広東産の鶏と土耳古産まれの孔雀とを交接せたようだと云うのであった。
二人は大変仲がよくて、室にいる時も一緒にいるし戸外へ出る時も一緒に出た。しかしおおかたは室に籠もって相談事でもしているらしく、室の錠はいつもおろされていた。
この頃北京は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺された。そして犯人はただの一度も捕縛されたことがないのであった。
そのまた殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、ある白昼のことであったが、警務庁の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼の賑やかな音が笛や太鼓や鉦に混じって騒々しいまでに聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾り、槍を提げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、「収紅孩」らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、「周の鼎、宋の硯」と叫びながら、偽物を売る野天の売り子、雑沓の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った。
すると突然班長が苦しそうな声で叫び出した。
「どいつか俺を引っ張って行く! どいつか俺を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、どいつか俺を引っ張って行く! ……遠くで俺を呼んでいる! どいつが呼ぶのか解からないけれど!」
叫びながら班長は、真白昼の、灘子街の盛り場を一散に、電光のように走るのであった。
不思議なことには、そうやって、班長は走って行きながら、全身をちょうど弓のように思うさま後方へ彎曲させて、彼を引き摺る眼に見えぬ力に、抵抗するようではあるけれど、先の力が強いと見えて、見る見るうちに彼の姿は、人波の中に消えて行った。
しかも翌日彼の姿は屍骸となって皮肉にも警務庁の玄関に捨ててあった。屍骸には一つの傷もない。圧殺したような気振りもない。と云って毒殺の痕跡もなく、自殺したらしい証拠もない。ただそれは一個の屍体であった。傷がないばかりかその屍骸は掠奪されてもいなかった。官服はもちろん懐中の金も一文も盗まれてはいなかった。そして屍骸の死に顔には「驚き」の表情はあったけれども「無念」の表情は少しもない。
こういう不思議な殺され方で大道へ屍骸を晒らした者は班長ばかりではないのであった。先刻も云った通り政府筋の高位顕官が殺されたのみならず南方は広東でも民党の有力者が殺された。そうかと思うと北方では、張作霖の将士が殺された。
誰も彼も全く同一の、不思議な殺され方で死ぬのであった。すなわち眼に見えない何者かが、眼に見えない人の呼ぶ方へ、眼に見えない力で引っ張って行く。そして行衛が失われる。そして翌日は九分九厘まで大道へ屍骸を晒らすのであった。
こういう奇怪の殺人が、頻々と行われるそのうちに、北京童の口からして次のような詩がうたわれるようになった。
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
北京を振り出しに、この詩は、田舎へまでも拡がった。中華民国の津々浦々で、唄うともなく童の口から、口癖のように唄われるのであった。
古事に詳しい老人達は、訳の解らないこの詩の意味を、昔に照らして考えては見たがどういう意味だか解らなかった。
十一
それは明月の夜であった。金雀子街の道に添うてすくすくと立っている梧桐の木には、夜目にも美しい紫の花が、梵鐘形をして咲いている。家々の庭園には焔のような柘榴の花が珠をつづり槎枒たる梅の老木の蔭の、月の光の差し入らない隅から、ホッ、ホッと燃え出る燐の光は、産まれ出た螢が飛ぶのであった。
粋な、静かな、金雀子街の、その穏かな月光の道を、体を寄せ合った男女の者が、今、ひそやかに通って行く。
何か囁いてはいるらしいが、この初夏の名月の夜の、あたりの静寂を破るまいとしてか、その話し声はしめやかであった。時刻は十二時に近かった。そのためでもあろうか、この平和な屋敷町の往来を行き交う人は男女以外にはいなかった。二人の歩く靴の音だけが、規則正しく響いている。
この時、往来の遙か向こうから、酒に酔っているらしい男の声で、詩を唄うのが聞こえて来た。しかもその声は近づくに従って詩の文句がややはっきりと聞き取れた
古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
詩は北京で流行している例の不可解のそれであった。酔漢はその詩を唄いながら、だんだん二人へ近づいて来た。見れば、酔漢は、苦力と見えて、纒った支那服のあちこちに泥が穢ならしく着いている。五十を過ごした老人で、酒に酔った顔は真っ赤である。
「いよう、ご両人お揃いで」
酔った苦力は、男女を見ると、こう頓狂に叫びながら、道の真ん中に突っ立ったものの、別に悪態を吐くでもなく、自分の方で二人を避けて、そのままヒョロヒョロと行き過ぎたが、擦れ違う時に、自分の肩を男の肩へぶっ付けた。
とたんに苦力は囁いた。
「気をつけるがいいぞ張教仁!」
囁かれた男はそれを聞くと、ピクリと体を痙攣させ、そのまま往来へ足を止めた。
「気を付けるがいいぞ、張教仁! 十歩。二十歩。いや三十歩かな……」
苦力はまたも囁いたが、そのままヒョロヒョロと歩いて行く。張教仁は突っ立ったまま苦力の姿を見詰めている。彼の頭は混乱し、彼の眼は疑惑に輝いている。
「何をあなたにおっしゃったの? あの気味の悪い支那人は?」伴の女はこう云って、不思議そうに男を見守った。
張教仁は黙ったまま、尚も疑惑の眼を据えて苦力の姿を見送ったが、やがてクルリと振り返り女の顔をじっと見て、「気を付けるがいいぞ、張教仁! こうあの苦力は云ったのです」張教仁は眼を顰め、「気を付けるがいいぞ、張教仁! 十歩。二十歩。いや三十歩かな。こうあの苦力は云ったのです」
「それはどういう意味でしょうね? そうしてどうしてあの苦力は、あなたの本名を知っているのでしょうね?」
「どうして本名を知っているか、全く合点が行きません。私の本名を知っている限りは、恐らくあなたの本名だって知っているに違いありませんよ」
「紅玉、紅玉、これが本名ね。私は名ぐらい知られたって、何んとも思やしませんよ」
「本名を知られたということは、あまり苦痛ではありませんけれど、どうして本名を知られたか、本名を知っているあの苦力はいったいどういう身分の者か、それが私には不思議です。不思議といえば、苦力の云った、十歩。二十歩。いや三十歩かな。この言葉の意味こそ不思議です」
「ほんとにどういう意味でしょうね」紅玉はしばらく打ち案じたが、「歩いて見ようではありませんか。十歩。二十歩。三十歩。その通り歩いて見ましょうよ」
そこで二人は肩を並べ、螢火の飛んでいる静かな道を、十歩、二十歩、三十歩、と、先へズンズン歩いて行った。そしてとうとう数え数えて、三十歩の所まで来た時に、はたして事件が起こったのであった。事件というのは他でもない。ちょうどそこまで来た時に、紅玉が突然苦しそうな声で、
「誰か私を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、誰か私を引っ張って行く! 遠くで私を呼んでいる! 誰が呼ぶのか解らないけれど!」
こう叫びながら矢のように、往来を一散に走り出したのである。
張教仁の驚きは形容することが出来なかった。しばらくは往来に立ったまま、紅玉の姿を見送っていたが、やがて一声叫ぶと一緒に、彼女の後を追っかけた。その走って行く男女の者を、見失うまいとその後から、もう一人追っかけて行く男がある。
それはさっきの苦力であった。海の中のように蒼白い、月光の巷を三人の者は、マラソン競走でもするように、走り走り走り走り、とうとう姿が見えなくなった。
十二
紅玉を失った張教仁の、その後の生活は悲惨であった。燕楽ホテルの自分の室で、じっと悲嘆に暮れるのでなければ、北京の市街を夜昼となく、紅玉を探して彷徨うのであった。紅玉の行衛をさがすためには、彼はもちろん警務庁へもすぐに保護願いを出したのではあったが、警務庁では相手にしない。相手にしないばかりでなく、こんな事をさえ云うのであった。
「事件の性質が性質ですから、屍骸を見つけるのならともかくも、生きている女を見つけようとしても、それは不可能のことですよ。この警務庁の庁内にもそういう事件がありまして、班長が命を失いました」
こんなような訳で、警務庁では、事件を冷淡に扱かって、行衛をさがそうともしなかった。
張教仁の身にとっては、紅玉は仕事の相棒でもあり、二人とない大事な恋人でもあった。その紅玉を失ったということは、精神的にも物質的にも、大きな打撃と云わなければならない。そしてもちろん彼にとっては、物質的の打撃よりも、精神的の打撃の方が遙かに遙かに大きかった。もしも紅玉が永久に、彼の手に戻らないとしたならば、彼の性格はそのことのために、一変するに相違ない。
「忽然として現われて来て、私の心を捉えた女は、また忽然と消えてしまった。しかし彼女は消えたにしても、彼女が残した胸の傷は容易のことでは消えはしない。それにしても本当に紅玉という女は、何んという不思議な女であろう。そういう女に逢ったということは、なんという私の不運であろう」
こう思うにつけても、張教仁は、どうしてももう一度紅玉を手に入れたいと焦るのであった。彼はそれから尚頻繁く、北京の内外をさがし廻った。
こうしていつか月も経ち夾竹桃や千日紅が真っ赤に咲くような季節となり、酒楼で唄う歌妓の声がかえって眠気を誘うような真夏の気候となってしまった。
張教仁はある夜のこと、何物にか引かれるような心持ちで、かつて愛人を見失なった金雀子街の方角へ、足を早めて歩いて行った。わずか一月の相違ではあるが、薄紫の桐の花も、焔のような柘榴の花も、おおかた散って庭園には、芙蓉の花が月に向かって、薄白くほのかに咲いている。
「花こそ変ったれ樹木も月も、あの時とちっとも変っていない。それだのに私の心持ちは、何んとまあ変ったことだろう」
張教仁は支那流に、このように感慨に沈みながら、トボトボと道を歩いて行った。こうしてしばらく歩いてから、何気なく彼は顔を上げて、行手を透かして眺めると、五間ほどの先を男女の者が、親しそうに肩を並べながら、ずんずん先へ歩いて行く。
後ろ姿ではあるが、夜目ではあるが、先へ歩いて行く男女のうち、女の方はどう見直しても、紅玉の姿に相違ない。
張教仁はうしろから、思わず声高に呼びかけた。
「紅玉、紅玉、おお紅玉!」
すると女は振り返った。そして歯を見せて笑ったが、そのままずんずん歩いて行く。振り返って笑った女の顔は、やっぱり紅玉に相違ない。張教仁はそれと知ると、嬉しさに胸をドキドキさせ、女に追い付こうと走り出した。しかしどのように走っても、不思議なことには双方の距離はいつも五間余りを隔てている。しかも先方の男女の者は、どのように張教仁が走っても、それに対抗して走ろうともせず、いつも悠々と歩くのであった。
張教仁の肉体は次第次第に疲労れて来た。今は呼吸さえ困難である。それだのに尚も張教仁は全力を挙げて走っている。そうして連呼をつづけている。
「紅玉、紅玉、紅玉!」と……
しかし、女はもう二度とは、振り返ろうとはしなかった。支那服を纒った肥大漢の、しかも老人に寄り添ったまま、その老人に手を引かれ、悠々と歩いて行くのであった。
すると、その時、行手から、巨大な一台の自動車が、老人の前まで走って来た。それと見た老人は手を挙げて止まれと自動車に合図をした。そして自動車が止まるのを待って、女を助けて乗らせて置いて、やがて自分も乗り移った。
その時ようやく張教仁は、自動車の側まで馳せ寄ったが、そのままヒラリと飛び乗った。
自動車はすぐに動き出した。扉がハタと閉ざされた。
「紅玉!」
と息づまる大声で、張教仁は呼びながら、自動車の中を見廻した。
車内には人影は一つもない!
「こりゃいったいどうしたんだ!」
彼は魘された人のように、押し詰められた声で叫ぶと共に、やにわに扉へ飛び付いたが、外から鍵をかけたと見えて、一寸も動こうとはしなかった。
その時、今まで点もっていた、車内の電燈がフッと消えて、忽ち車内は暗黒になった。
暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
十三
暗黒の自動車は月光の下を、どこまでもどこまでも走って行く。
張教仁は暗い車内の、クッションへ腰を掛けたまま、事の意外に驚きながらも、覚悟を極わめて周章てもせず、眼を閉じて運命を待っていた。どこをどのように走るのか、自動車は駸々と走って行く。いつか二つの窓をとざされ、外の様子はどんなにしても窺うことは出来なかった。
「成るようにしか成りはしない。命をくれてやる覚悟でいたら何も驚くことはない。さあどこへでも連れて行け」
彼はこのように思っていたが、このように思っている彼をして、尚且つ魂を戦かせるような、奇怪な事件が起こって来た。しかも他ならぬ自動車の内で。
と云うのは彼が、そう覚悟して、クッションに腰かけているうちに、どうやら暗黒のこの車内に、誰かいるような気配がした。すなわち彼と向かい合った、向こう側のクッションに、何者か腰かけているらしい。張教仁は慄然とした。そして思わず声をあげた。
「いったい誰だ、そこにいるのは!」
するとはたして、向こう側から、含み笑いの声がして、
「張教仁君、怖いかね」と、嘲笑いながら訊く者がある。
「怖くもなければ驚きもしない。いったい君は何者だね?」
「怖くないとは豪勢だね。が、しかしすぐに怖くなるよ。何者かと僕に訊くのかね。さあ僕はいったい何者だろう。僕が何者かはどうでもいい。僕は僕より偉大な者の使命を帯びて来たのだから、使命さえ果たせばいいのだよ」
姿の見えない向こう側の男は、こう云ってまたも笑うのであった。張教仁は恐怖よりも怒りの方がこみ上げて来た。
「使命を帯びて来たんだって!」張教仁は怒鳴り出した。
「そんならご大層のその使命をさっさと果たすがいいじゃないか!」
「それなら、そろそろ果たそうかね。君のためには急ぐよりも、ゆっくりした方がいいのだがね」
相手の男はまた笑った。
「その斟酌には及ぶまいて。君の方でゆっくりするようなら、僕の方で事件を急がせるまでだ!」
「事件を急がせるってどうするんだね?」
「君に飛びかかるということさ! 君を撲るという事さ!」
「なるほど、君は勇敢だね」
眼に見えぬ男は、こう云うと、また例の厭な笑い方を、臆面もなくやり出したが、ちょっと改まった言葉つきで、
「張教仁君、手を延ばして、君の真正面へ出すがいい、真正面の空間に、何かブラ下がっている筈だ。そいつが僕の使命なのだ」
張教仁は無言のまま、両手をズウと出して見た。はたして正面の空間に、一筋の糸で支えられた二振りの抜き身の短刀が、上の方から下がっていた。張教仁はヒヤリとしたが、度胸に狂いは生じなかった。反抗心がムラムラと彼の胸中に起こって来た。
「こいつが使命だって云うんだな。つまり人殺しの使命だな。そんな事だろうと思っていた」
「殺人の使命と云うよりも、決闘の使命と云った方が、紳士らしくてよさそうだね」
眼に見えぬ男の言葉である。同じ言葉がまた云った。
「張教仁君、二振りのうち、君の好いた方を取りたまえ。残ったのを僕の武器としよう。そして二人で自動車の中で、切り合おうじゃあるまいか」
「理由の知れない決闘を、僕はしようとは思わないよ」張教仁は云い放した。
「がしかしそいつは不可能だ!」相手の男は威圧した。
「僕は使命に従って、君と決闘せにゃならぬ」
「君は使命に従って、それじゃ僕を殺したまえ。そうして君の親玉に、決闘して殺したと云いたまえ。僕はこうして坐っているから、その短刀で斬るがいい。理由の知れない決闘は、僕は断じてやらないからね」
張教仁の言葉には断乎たる決心が見えていた。その決心に押されたのか、相手の男も沈黙した。車内は寂然と物凄い。物凄い車内に二人を乗せて巨大な自動車は、深夜の道をどこまでもどこまでも走って行く。
十四
その時、眼に見えぬ男の声が、慇懃な調子で云い出した。
「張教仁君、さようなら、君の決心は見えました。それは立派な決心です。大概の人間はここまで来ると、気を失なってしまいます。そうでなければ短刀を持ってむやみに斬ってかかります。そうしたあげく恐怖のために、やはり気絶してしまうのです。そしてそのまま死んでしまうのです。屍骸はやむを得ず自動車から往来へ棄ててしまいます。あの警務庁の班長なども、屍骸になった一人です。それだのにあなたは堂々と私の要求を拒絶した上に、そこに平然と坐っています。あなたは一個の英雄です。あなたの胆力はこの私をすっかり感心させました。そして私の大事の使命もそのため自然果たされました。あなたはまことに堂々と第一の関門を過ぎたのです。第二第三の関門については、私は与り知りません。張教仁君、さようなら! いずれどこかで逢うことでしょう」
慇懃な声が消えると一緒に、闇中にほのかに浮いていた男の姿も全く消え、車内も森然と静まった。
空には蒼白い月光が真昼のように照っている。月光を受けて銀のように、自動車の幌は光っている。往来には一人も人がいない。無人の街路をまっしぐらに、自動車は走って行く。
「世界の涯へでも行くがいい! 俺はどうなっても構わない」
張教仁は闇の中で、こう不機嫌に呟いた。すると、その時、走りに走った怪物のような自動車はさすがに疲れたというように、徐々に速度を弛め出した。
するとその時、行手の方で、厳めしい門でも開くような、ギギ──という音が聞こえて来た。そして、どうやら自動車は、その門の中へはいったらしく、一層速度が弛やかになった。やがて間もなく停まったのである。
突然自動車の扉が開いた。車外もやっぱり真っ暗である。
張教仁は躊躇もせずヒラリと自動車から飛び出した。
こうして物凄い「死の自動車」から、張教仁は遁がれたけれど、その後も彼の身の上には、死の自動車よりも恐ろしい、奇怪な事件が頻出した。しかも、同じその夜のうちに。そしてその事件に対しては、張教仁は次のように、自分の備忘録へ書き記した。
(張教仁の備忘録)……私は自動車から下りたけれど、あたりが余り暗いので、どうすることも出来なかった。ここは建物の中らしい。その証拠にはどっちを見ても、月影も星影も見えようともしない。そして建物は大きいらしい。どっちへ向いていくら歩いても、板にも壁にも触ろうともしない。どんなに寂しく、建物の中で、私は立っていたことだろう。私を乗せて来た自動車は、どこへ行ったか影もない。よしまたそこにいたにしても、この暗さでは解るまい。涯てしも知れない真の闇が、恐怖を知らない私の心を、ようやく乱すように思われて来た。私はどんなに陽の光と、人間の声とに憧れたことか! 私は戦慄を感じながら根強く闇に立っていた。すると、意外にも、幽かではあるが、薔薇色の火光がどこからともなく、流れて来るのに気がついた。私はあたりを見廻した。何んという不可解のことだろう! ほんの今までは闇であった私の足もとの地の上に、一間足らずの円い穴が、薔薇色の光を吐きながら、口をひらいているではないか。好奇心に駆られて私の胸は烈しくドキドキと動悸を打つ。私はそっと近寄って行って、穴の上へ首を突き出した。螺旋階段が垂直に、穴の口から下りている。その階段の尽きる辺に、一つの室があるらしく、華やかな燈火が煌々と真昼のように灯っている。そしてそこには愉快そうな沢山な人がいると見えて、唄声なども聞こえて来る……。
私はすっかり驚いて、眼を離すことが出来なかった。何んという不思議な対照だろう! 何んという信じられない光景だろう! 私の今いるこの位置は、暗黒で、人気がなくて、物凄い。それだのに地下のあの室には、燈火と歌声と歓楽とが、一杯に充ちているらしい。
私はしばらく考えた後、その室へ行こうと決心した。暗黒の恐怖に蝕れながら、ぼんやり地上に立っているより、たとえそれ以上の恐ろしいことが、あの地下の室にあるにしても、自分から行ってその恐ろしさを、経験した方が有意味であると、心に思ったからである。
そこで私は身を起こし、螺旋階段へ足をかけた。そして垂直の階段をズンズン下へ降りて行った。十分ほど時間を費した時、とうとう私は地下の室へ、自分が来た事を発見した。
室の三方は壁であった。天井の中央からはシャンデリアが無数の電球を下へ向けて、室を明るく照らしている。飾りらしいものはないけれど、室の中央に一脚の丸卓子が置いてあって、その上に一葉の紙があり、紙には設計図が書かれてある。それにもう一つ、巨大の像──支那服を纒った老人の、巨大の像が室の口に、居然と置かれてあるのであった。
十五
私はその像を見ているうちに、誰の銅像だか解って来た。すなわちそれは既に死んだ袁世凱の像である。どういう訳で袁爺の像が、ここに置かれてあるのだろうかと、私はしばらく考えて見たが、それの解ろう道理がない。袁爺の像はここばかりでなく、十字形をなした長廊下のその真ん中にも置いてあった。廊下の真ん中に置いてある袁爺の像を発見る前に、私は奇怪な地下の館の、あらゆる場所を見歩いたのであった。蜘蛛手に延びている無数の廊下! 廊下の左右には室の扉がズラリと一列に並んでいた。私は室の扉を叩いて見た。誰も中から返辞をしない。返辞こそしないが室の中には沢山の人達がいると見えて、賑やかな声が聞こえていた。しかも賑やかなその声は、何かに酔ってでもいるように、濁った、だらしのない喉音である。
それから私は尚懲りずに、二、三の室の扉を叩いて見たがやっぱり返辞をするものがない。濁った、だらしのない、喉音だけがガヤガヤ聞こえて来るばかりである。一つの室からはハッキリと詩を唄うのが聞こえて来た。
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
「あの詩をうたっているんだな」
私は別に気にもかけず、先へズンズン歩いて行った。そして廊下の十字路のその中央に置いてある袁爺の銅像の前まで来て、像を見上げて佇んだ。
すると、忽然と、像の影から、一人の支那人があらわれた。見れば、意外にも、その男は、金雀子街で姿を見せた、穢い年寄りの苦力であった。今日もやっぱり酔っている。ヒョロヒョロとあぶなそうに歩いている。
「おや!」
と、私は仰山に、驚きの声を洩らしたのである。しかし老人は見向きもせず、右の方へユラユラと行きかけたが、その時、またも、囁いた。
「ズンズン行くがいいぞ! 張教仁! 左へ左へ左へとな! 突き当りの帳をかかげるがいい……」
云ってしまうと、老苦力は銅像の影へ身を寄せた。ともうどこへ行ったものか、どう見ても姿は見えなかった。
冒険を覚悟のこの私は、苦力の言葉に従って、左へ左へ左へと、足を早めて歩いて行った。二十分あまりも歩いた時、長い廊下が行き詰まり、そこに一つの室があった。しかも扉は半ば開き、内側に垂れた錦繍の帳の色さえ見分けられた。私は少しの躊躇もせず、グッと帳をかかげると共に、室へスルリとはいったのである。
ああ、夢のような室の態よ!
ほんとに夢のような小さい室! その室を仄かに馨らせるものは、甘い阿片の匂いである。室を朦朧と照らしているのは、薄紫の燈火である。それは天井から来るらしい。天井から来る薄紫の燈火の光に照らし出されて、幽かに見える一つの寝台。白衣の乙女がその上で、のどかに阿片を飲んでいる。
乙女の顔を見た時の、私の驚きと喜びとは、筆にも言葉にも尽くされない。乙女は尋ねる紅玉であった。……私は寝台に走り寄った。そして紅玉を抱きしめた。
「お前は紅玉! ああ紅玉!」
私の洩らした言葉と言えば、たった二言のこれだけであった。これだけを洩らすと私の眼から滝のように涙が流れ出た。
すると、彼女は──紅玉は、眠げにその眼をひらいたが、私の顔をじっと見て、そして異様に微笑した。それからまたも眼を閉じたが、やがて静かに語り出した。夢見るようなその言葉つき……。
「……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも──遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も──そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね」
「紅玉! 紅玉! ああ紅玉! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!」
私はほとんど半狂乱のうろうろ声で云い迫った。
しかし紅玉はそう云われても、尚譫言をつづけるのであった。
十六
「きっとあなたは知っていらっしゃるわね。近頃北京から田舎まで、妙な詩が流行っているでしょう。あの詩の意味を知っていて? 『古木天を侵して日已に沈む』こう真っ先にあるでしょう。あの意味はこうよ、こうなのよ──天のように偉かった支那の国に、古い大木が蔓延って、支那の国を蔽うたので、日光を透すことが出来なかった。そのうちにその日が沈んでしまった。つまり日というのは文明のことよ……『天下の英雄寧ろ幾人ぞ』こうその次にあるでしょう。この意味は読んで字の通りよ。つまりそうなった支那の国には、英雄などというものは、一人もないと云っているんだわ。『此の閣何人か是れ主人』これが三番目の文句ですわね。閣というのは他でもない、地下に出来ている館のことよ。私達のいるここのことよ。そうしてここは阿片窟よ。阿片窟ではあるけれど、同時にここは秘密結社の一番大事な本部なのよ。こういうとあなたは訊くでしょう。いったい何の秘密結社かってね。私教えてあげますわ。世界征服を心掛けている恐ろしい秘密の結社ですの……そして結社の首領というのは──そうよ、結社の首領というのは、大変偉い人ですの、私をここへ呼び寄せたのも秘密結社のその首領よ──そして私はその人に、愛情を捧げておりますの!」
「いったいそいつは何者だ! いったいそいつはどこにいる!」私は思わず怒鳴りつけた。それほど紅玉の譫言は私の心を傷つけたのであった。
すると彼女は同じ調子で、私にそれを物語った。
「あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ」
「銅像だって⁉ どんな銅像?」
「廊下に立っていたでしょう」
「あれは袁世凱の銅像だ!」
「昔はそういう名でしたわね」
「袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!」
「世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ」
「夢だ夢だ! くだらない、夢だ!」
「いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!」
私は怒って烈しい声で、紅玉を叱咜しようとしたが、しかしそれは不可能であった。何ぜかというにその一刹那、遙かに遠く警笛の音が地下室の静寂を破ったからで。続いて二笛! また三笛! 忽ちどよめく声がする。怒声、哀願、女の泣き声……それから拳銃の鋭い音! 剣の鞘のガチャつく音! 警官が襲い込んだらしい。
私は一言も物を云わず、紅玉を肩に引っ担いだ。それから室を走り出た。長い廊下を一散に、右へ左へ走り廻る。カッと燃え上がる火の光が、行手の廊下を隘いでいる。地下室は焔々と燃えているらしい。煙りに咽せて私は思わず廊下へ倒れようとした。その時私を呼ぶ者がある。
「左手の壁のボタンを押せ! そこから上へ登って行け! 躊躇せず走れ張教仁!」
私はハッと刎ね起きて、声のする方へ眼をやった。煙りに包まれ火を踏んで、一人の支那人が立っている。両手に二挺の拳銃をもち、正面を睨んだその姿! それは意外にも金雀子街と、銅像の前とで邂逅した、穢い老人の苦力であった。しかし姿は苦力であるが、付け髯と付け眉とをかなぐり棄てた、生地の容貌をよく見れば、思いきや、それは、羅布の沙漠で、私が裏切って捨てて逃げた、西班牙の花形、ラシイヌ大探偵! 私に何んの言葉があろう! ただもう恥じ入るばかりである。やにわに私は頓首した。それから左手の壁を見た。はたしてボタンが一つある。そいつを押すと、壁の一部が、そのまま一つの扉となり、ギーと内側へ開いた隙から、紅玉を抱えて飛び込むと、扉はハタと閉ざされた。
暗中にかかった階段を、私は紅玉を抱えたまま、上へと、命の限りに登って行った。
こうして階段を行き尽くし、ようやく地上へ出て見れば、そこは案外にも金雀子街の、他人の家の庭の空井戸であった。そしてもう夜は明けていた。……(備忘録終り──)
その翌日のことである。中華民国警務庁の、保安課の室に十四、五人のかなり重大な人々が、ラシイヌ探偵を取り囲んで、じっと話に聞き惚れていた。
「……まあそう云った塩梅で、いろいろ研究をした結果、形の見えない何者かが形の見えない糸をもって引っ張って行くという、その事実は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民を騙かしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
こう云ってニヤリと苦笑した。
第四回 上海夜話
十七
上海、英租界の大道路、南京路の中央のイングランド旅館の一室で、ラシイヌ探偵と彼の友の「描かざる画家」のダンチョンと葉巻を吹かしながら話している。
「……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?」
「それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ」
「美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗に隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか」
「顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀たあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな」
「なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?」
「無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……」
「君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃と云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落をする。頭髪を香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素の日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫を尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京から一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海まで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ」
こう云うラシイヌの口もとにはさすがに微笑が漂ってはいるが、鋭いその眼には非難の光がギラギラ輝いているのであった。
ダンチョンは次第に首を垂れ、小児のように頬を赭らめ、いつまでも無言で聞いていたが、この時フッと眼を上げた。その眼にはいかにも困ったような、嘆願の表情が浮かんでいて、それが滑稽で無邪気なので、ラシイヌは思わず笑いかけた。それを危く取り留め彼は厳然と云い渡した。
「それでは君はその別嬪が、手紙で君に指定した通り、今夜公園の音楽堂へ音楽を聞きに行きたまえ。しかし一人では行かせないよ。もちろん見え隠れではあるけれど、僕も一緒に行くことにしよう。そうして君がその美人を、モデルに頼むことに成功するか、それとも美人が君を捕らえて、逆さに釣るして泥を吐かせるか、恋の争闘を見ることにしよう。こいつはとんだ見世物だよ」
ラシイヌは云って立ち上がった。
「たしか音楽の始まるのは午後八時からだということだね。それまでは君も辛棒して、博士の室へでも行っていて、八時になったら出て行くさ。それまでに僕も僕の用を片付けて置くことにしようかね。もっとも僕の用というのは、街をブラツクことだけれど」
ラシイヌは室を出て行った。それから彼はホテルを出て、県城指して歩いて行った。
十八
あるいは「東洋の紐育」もしくは「東洋の桑港」──こう呼ばれている上海も、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢とが、道路にも屋内にも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が──すなわち黄浦河の岸上の街と、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道を馳って行く。三層五層の大厦の窓は、悉く扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰軋花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路を右に曲がり、福建路を行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石の指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠の帽子を戴いて、靴先に珠玉をちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳に蒐め、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度人もあれば、土耳古人もある。煙草ばかり吹かしている洪牙利人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長の高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥の商人などが、黄金の威力に圧迫され、血眼になって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築が街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
街は次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼を顰めさせる。
城内と城外とを距てている城壁の前まで来た時に、いつもながら彼は感嘆してしばらく立って眺めていた。城壁の周囲三十支那里、磚瓦をもって畳み重ね、壁の上には半町ごとに厳しい扶壁が作られている。長髪賊の乱の時初めて備えられた大砲が、扶壁に残ってはいるけれど、ほとんど使用に堪えないまでに青黒く砲身が錆びている。城壁に沿うて丈なす草が、人に苅られず生い茂り、乏しい紅白の草花が咲いているのも野趣がある。昔、戦国の世の時代に、養う食客三千人と、世上の人に謳われた、春申君と申す人の、長く保った城である。城には七つの郭門がある。郭門は城内の旧市街にいずれも通じているのであって、道台衙門のある所はすなわち東大門内である。知県衙門のあるところは小東門内の中央である。
日没を合図に内外の市街は──県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟であってその日没も近づいているので、ラシイヌは郭門の一つから城内へ急いではいって行った。城内の街の狭隘さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出しほとんど小溝をなしている。下水の桶から発散する臭気や、葱や、山椒や、芥子などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙りと共に人の嗅覚を麻痺させる。小箱のような陋屋からは赤児の泣き声や女の喚き声や竹の棒切れで撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱を作っている。
街には人が出盛っていて、あっちでもこっちでも支那人らしい誇張した声音と身振りとで「負けろ」「まけない」の掛け合い事──つまり、商売をやっている。誰も彼もみんな忙がしそうだ。そういう忙がしい人達を縫って、さも隙そうな若者どもが、小唄を唄いながらぶらついている。仔細に見るとそれらの者はいずれも逞しい体をした働き盛りの若者である。しかも彼らは働こうともせず、唄を唄って歩いている。彼らのうたうその唄こそは、ラシイヌの聞きたがっている唄である。
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
この唄をうたうに若者どもは「巨魁来巨魁来巨魁来」と、最終の一連に力をこめ、いかにも今にもその巨魁がどこからか堂々と乗り込んで来て、姿を現わすのを待っているかのように、勢い込んで唄うのであった。
ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
ラシイヌはそれから尚しばらく、城内をブラブラ彷徨ってから、黄浦河の岸へ出て行った。
県城とそして三つの租界を、東の岸に立たせたまま北へ流れる黄浦河は、水こそ黄色に濁ってはいるが、その河幅は二百間、無数の商船や軍艦や支那船を満々たる水に浮かべ、揚子江に向かって流れている。目星い大きな工場は、いずれも河の東岸にあって、巨大の煙突、急傾斜の屋根が、空を蔽うて林立し、重い起重機を動かす音や猛獣のような汽笛の音や、のんびりした支那流の掛け声などが、煤煙の空に響いている。オリエンタル船渠の工場からは鉄槌の音が聞こえてくるし、対岸に孤立して立っている董家造船所のドックからは汽罐の音が聞こえて来る。
ラシイヌは河岸を米租界の方へ耳を傾げながら歩いて行った。そのうちに焼け爛れた砲弾のような太陽がグルグル廻りながら、平野の地平へ没してしまって、間もなく四辺は暗くなった。遙か県城の方角に当たって、関門を鎖ざす軋り音が、一日の終りを告げるかのようにさも重々しく響いたが、その音と一緒に諸所の工場から蟻の群でも出るように職工達が現われた。疲労れた声音で挨拶をしてちりぢりに四方へ散って行く。その後は森然と静まり返り夜業をすると見えてある工場の、二つの窓から火の光が戸外にカッと洩れて来るのさえかえって寂しく思われた。
四辺は森然と静かである。
その時、ラシイヌが歩いている河岸の下の水面から、元気のよい唄声が聞こえて来た。それは、やっぱりあの詩である。
古木天を侵して日已に沈む
…………
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
ラシイヌはちょっと眉をひそめ、足下の水面をすかして見た。巨大の支那船が浮いていて、燈火も点けてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静となった。すると今度は反対の岸──二百間あまりもかけ隔てた対岸の方から幽かに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の燈の灯は、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船の中から同じような青色の燈火が浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのまま彳んで、支那船の様子を窺った。
すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面が静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へ塊まった時、一個の大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿のように、敬虔な態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
もう十分で八時である!
彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
公園へ向かって走るのである。
黄浦河とそして呉松江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。眩くばかりの電燈が、楽堂の周囲に照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。
十九
もう已に音楽は始まっていた。それは伊太利の音楽隊で、モールをちりばめた服装から指揮者の風姿から、かなり怪しげな一団であったが、「伊太利人」という吹聴のためか、聴衆は黒山のように集まっていた。聴衆は全部欧羅巴人で支那人は一人もいなかった。それは公園の入口に「華人不可入」と書いた建札が、厳めしく立っているからだ。
ラシイヌは聴衆の間に交って、彼の鋭い観察眼であたりを静かに見廻した。「描かざる画家」ダンチョンを発見出そうためである。ダンチョンの姿はラシイヌの左手、十間ほどの彼方にいた。新しい帽子に白のネクタイ、思い切ってめかしたその姿は、ラシイヌには滑稽に思われた。性来どこかにおかしみを持った田舎者じみたダンチョンが、神経質な眼付きをして、音楽などはうわの空で、例の美人を発見けようと、四辺をキョロキョロ見廻す様子は、それは全く珍であった。
ラシイヌはおかしさを堪えながら、ダンチョンの様子を見守った。
その時、きょとついたダンチョンの眼がある一所に据わったので、ラシイヌは「オヤ」と呟きながら、その方角へ眼をやった。はたしてそこには婦人がいた。すなわち楽堂の柱に寄って、黒い面紗で顔を隠した水色の服の欧州美人が、スラリと彳んでいるのであった。
「おや」とラシイヌは婦人を見ると、またも思わず呟いた。というのは面紗のその女が確かに見覚えがあるからであった。
「ハテナ、いったいあの女とどこで知人になったろう?」
ラシイヌは一瞬間心の中で記憶の糸を手繰ったけれど思い出すことが出来なかった。
その間も楽堂の舞台では、拙い音楽が続けられていた。そして聴衆は根気よく静かに耳を傾けている。
しめやかな、静かな、いと平和な、異国情緒の光景である。
ラシイヌは尚も眼をそばだて、面紗の女とダンチョンの様子を代わる代わるに眺めやった。そして怪しい素振りでもあったら、追っ駈けて行こうと用意した。
するとその時、どこからともなく、獣の鳴き声が聞こえて来た。「キキーキキー」と鋭い声! 音楽に夢中の群集達は、鋭い獣の鳴き声に注意しようともしなかった。静かに音楽を聞いている。一人の面紗の女だけがその鳴き声を聞くか否や、烈しく体を顫わせた。そして獣の鳴き声に促がされでもしたように、急にスルスルと、群集を分けてダンチョンの方へ近寄った。
面紗の女とダンチョンとはそのまま体を寄せ合って聴衆の圏から出ようとした。それと見て取ったラシイヌは、これも素早く聴衆を分けて燈火の明るい広場へ出た。そうして真っ直ぐに前方を見ると、面紗の女とダンチョンとが木立の繁った暗所の方へ、側目もふらず歩いて行く。程よい間隔を中に保って、ラシイヌはその後を追って行った。
鋭い獣の鳴き声は──それは猩々の鳴き声であるが──樹立の彼方、鉄柵の向こうの公園の外の人道から、またもその時間に聞こえて来た。面紗の女とダンチョンとはその鳴き声に導かれるように公園の裏門を辷り出た。そして人道を南の方へ足を早めて走って行く。三度も四度も行手の方から猩々の鳴き声が聞こえて来る。ラシイヌはこれも駈け足で二人の後を追っかけた。
こうして幾分走ったろう? 暗い大きな建物の蔭から、獲物を狙う豹のようにひらりと走り出た支那人がある。血気盛んの若者らしく筋骨なども逞しく、走って行く脚も軽々と、二人の男女を追って行く。
ラシイヌはちょっと驚いて、その支那人を見詰めたが、
「ほほう、彼奴か、あの男か!」
思わずもこう呟いた。こう呟いたそれと同時に、面紗の婦人の何者であるかを、閃めくように理解した。
面紗の女とダンチョンとは、次第に速力を速め出した。まるで舞うように走って行く。二人の走るのを誘うかのように、幾度も幾度も猩々の声が行手の方から聞こえて来た。その鳴き声は、不思議なことには、手近の所から聞こえることもあり、遙かなあなたから来ることもある。
疲労を知らないラシイヌの体も、さすがにいくらか疲労れて来た。しかし、もちろん、この追跡を止めようなどとは思わなかった。彼らの走るに従って彼も風のように走って行った。
こうしてどれだけ走ったろう? 黄浦河の河上に浮かんでいる、無数の商船や帆船の、マストや煙突が遙かあなたにボンヤリ聳えて見える所──その辺は闇のように暗かったが──そこまで一団が来た時に思いもよらない活劇が、電光のように湧き起こった。
二十
ちょうどそこまで来た時に、支那青年は走り寄り、さも憧憬に耐えないように、また心配に耐えないように、何か一声叫びながら面紗の女を引っ抱え、その口に烈しくキッスをした。すると女は驚きのあまりあたかも気絶したように──見ようによっては悪夢から醒めて傍らの保護者に縋りついたかのように、支那青年に抱えられたまま微動をさえもしなくなった。驚いたのはダンチョンで、彼は甘い自分達の恋を妨げられでもしたかのように、平常の彼に似もやらずやにわに拳を揮り上げて支那青年に跳び掛かった。こうしていまにも二人の間に格闘が演ぜられようとした時に、鋭く咆哮する猩々の声がすぐ耳もとで聞こえて来た。
と、闇の中からムラムラと二、三十人の人影が現われて、三人を中に取り込めた。そしてその時走り寄ったラシイヌをさえも包囲した。
こうしてそこに訳の解らない争奪戦が行われた。
二、三十人の人影は一言も物を云わなかった。彼らは一切無言のまま彼らの仕事を続けて行った。支那青年の腕の中から彼らは女を奪い取った。怒って飛びかかる青年を、五、六人がかりで押さえつけた。その時大きな真っ黒の箱が彼らによって運び出され、面紗の女は彼らの手でその箱の中へ入れられた。それと見たダンチョンはその箱へ飛鳥のように飛びかかった。すると彼らは十人あまりでダンチョンを箱から引き離した。その拍子に箱の蓋が取れた。と、見よ! 箱の内部には、仔牛ほどもある猩々が、堅く鉄鎖で縛られながら、気絶したまま倒れている面紗の婦人の枕もとに居然と坐っているではないか!
蓋はすぐに蔽われた。その箱を彼らは引っ担ぎ、黄浦河の方へ走って行く。往来に無残に打ち倒された支那の青年はそれを見ると、よろめきよろめき立ち上がったが、
「紅玉、紅玉、おお紅玉!」
こう叫びざままた倒れて、そのままぐったり動かなくなった。どうやら気絶したらしい。気絶した彼のすぐ傍には、これも気を失ったダンチョンが、無態の姿をして倒れている。
さて、ラシイヌはどうしたろう? 彼もやっぱり気絶して往来の上に倒れていたが、しかし彼の気絶だけは本当の気絶ではないのであった。彼は不思議の一団が黒い箱を担ぎ出すと見るや否や、彼らの様子を探るため故意と彼らに乱打されて地上へ倒れてしまったのであった。で彼は、彼らが立ち去ったと見るや忽然と往来へ立ち上がった。そして一瞬の躊躇もせずダンチョンの側へ駈け寄ったが、危険がないと見て取ると、支那青年の側へ走って行って、その耳もとへ口を当て、「オイ、しっかりせい張教仁!」と大きな声で呼ばわった。そうして青年の手を取ってその脈搏をしらべて見た。脈は幽かに搏っている。
「まずまずこれも危険はない」
ラシイヌは呟いて立ち上がり、ほんの一瞬考えたが、次の瞬間には足を早めて、黄浦河の方へ走って行った。
黄浦河の岸まで来た時にラシイヌは木蔭に身を隠し、驚異の瞳を輝かせて河中の奇蹟を凝視した。
水面には支那船が浮かんでいる。その甲板には柩のような例の黒箱が置いてある。それを囲んで群像のように彼らの一団が彳んでいる。船尾には血のような火光を放す燈火が一つ据えてある。彼らは寂然と静まり返り、河の下流へ眼を注いで何物かを待っているらしい。遙か彼方の対岸の方にも血のように赤い燈光がさも物凄く点っている。その物凄い燈光とこっちの赤い燈光とは合図し合っているらしい。
四辺は寂然ひそまり返り、諸所の波止場や船渠の中に繋纜りしている商船などの、マストや舷頭に点されている眠そうな青い光芒も、今は光さえ弱って見えた。どこやらの時計台で幽かに午後九時の時刻を報じている。
支那船の中の一団は依然として静かで無言である。やっぱり下流を眺めている。木蔭に隠れているラシイヌも位置から動こうともしなかった。彼らの様子を眺めている。
こうして幾時間経たろうか、時計台の時計はその度ごとに陰気な音を響かした。こうして時計が午前三時を物憂く三つ打ち終えた時、下流の方から闇を分けて一隻の船があらわれた。小型ではあるがその代わり速力の速やそうな商船である。その商船の速力はやがて徐々に緩るくなった。緩るい船脚を続けながら支那船を凌いで行き過ぎたが、ほんの五、六間行き過ぎた時一つの不思議が行われた。と云うのはそれは他でもない。その商船が進むに連れて支那船も静かに動き出し、商船の船腹へ近付いて行く。しかも二隻の支那船が、すなわち、先刻まで遙か彼方に、燈火ばかりを見せていたその支那船も近付いて行く。
二隻の支那船が商船の腹へピタリと横付けにくっつくや否や素早く縄梯子は投げられた。猿のような早さでその商船へ彼らの一団は乱れ入った。
忽ち起こる怒号叱咜! 七、八発の拳銃の音! 入り乱れて闘かう人の影! 五分足らずの格闘で掠奪戦は終局した。珠数繋ぎにされた船員が甲板の上に倒れている。それらを眼下に見おろして、大勢の部下に囲まれながら、白髪の貴人が立っている。部下達の翳ざす燈火の光で、その風采が鮮かに見える。丸龍を刺繍した支那服を纒い、王冠を頭に戴いている。小肥りの体にやや低い身長。鋭い眼光に締まった口。ああそれはかつての大統領、またそれはかつての支那の皇帝、袁世凱の姿ではないか!
商船は船尾を翻えした。そして異常の速力で元来た方へ引き返した。こうして一隻の運送船は闇に姿を隠したのである。
程経て水上を巡邏している水上警察署のモーターが何気なくその辺へ差しかかった時、主のない二隻の支那船が波に漂々浮いているのを不思議に思って調べて見たが、目ぼしい物は何もなかった。もちろん例の黒い箱も、もはやそこにはなかったのである。
二十一
一切を見届けたラシイヌは、すぐにそこから引き返して、格闘の場所へ帰って来た。すると依然としてダンチョンだけは、気絶したまま倒れていたが、張教仁の姿は見えなかった。
「それでは彼奴だけ甦えって、どこかへ姿を隠したと見える」
ラシイヌは心でこう思って飽気ないような表情をしたが、ダンチョンを抛擲っても置けないので、彼を旅宿まで運ぶための自動車を探しに街の方へ、大速力で走って行った。
ボルネオ航路の英国汽船の一等船室の寝台には、体中を繃帯で包まれた「描かざる画家」ダンチョンが情けなさそうな顔をして、彼の正面に腰かけながら愉快そうに喋舌っているラシイヌの口もとばかりを見詰めていた。
ラシイヌは説明を続けて行く。
「……何ね、僕は、それ前から──描かざる画家のダンチョン君を、誘惑している貴婦人があると君から明かされないそれ前から、君のみならず僕ら皆んなが、袁更生の一団から狙いをつけられているという事を、ちゃあんと知っていたのだよ。どうして僕が知ったかと云うに、教えてくれた人があったからさ。誰かというに他でもない北京警務庁の連中さ。つまり彼らは僕のために暗号電報を打ってよこして、北京警務庁の依頼によって、袁更生の阿片窟を僕が暴露いたのを怨みに思って僕に怨みを晴らすため袁更生の一味徒党が僕の行先に着きまとい上海に渡ったということを知らしてくれたというものさ。その電報を見た時に僕は直覚的にこう思ったね。いやいや彼らが僕らを追って事実上海へ来ているなら、その目的は僕なんかに危害を加えようというのではなくて、僕らが抱いているある目的──云うまでもなく南洋へ行って埋もれている宝を探そうという、その目的を僕らの手から奪い取ろうということがすなわち彼らの目的であって、僕に向かっての復讐などは眼中にあるまいとこう思ったのさ。何故そう思ったかというにだね、南洋に埋もれている宝について、彼らは僕らとおんなじくらいの知識の所有者だということを、僕が発見したからさ。どこで発見したかというに他ならぬ彼らの阿片窟さ。どうして阿片窟で知ったかというに意外にも阿片窟の女部屋で、沙漠の娘と自称している紅玉という美しい土耳古娘を発見したからに他ならない。どうして紅玉がそんな所に捕虜になっていたかというに袁更生の魔術によって引き寄せられたものと思われるね。一旦魔術にかかったからは、紅玉といえども袁更生の意志のまにまに動かなければならん。で僕は紅玉は問われるままに例の埋もれた宝の所在を袁更生に話したと思う。さてそれが事実だとすればだね、爾余のことは自と解釈出来る。真っ先に彼らは僕らの中の誰かをうまく捕虜にして、宝物の所在をもっと詳しく聴き取りたいとこう思って、君に白羽を立てたのさ。君が、モデルにしようとした面紗の女は囮なのさ」
「それにしても面紗のあの女が紅玉であろうとは思いませんでした」
「僕だって最初は知らなかった……本来なれば紅玉は、阿片窟征伐のあの晩に張教仁に助けられて安全の所にいる筈だが、その後袁更生の魔術の手にまた奪い返されたものと思われるね」
「紅玉ばかりか張教仁まで飛び出して来ようとは思いませんでした」
ダンチョンは今でも痛そうに頭の辺を抱えながら呻くような声で云うのであった。
「ほんとにあの男も可哀そうだ。しかし憎めない人間だよ。支那人に似合わない勇気もあって、なかなか面白いところがある」ラシイヌは微笑を含みながら、「いずれあそこへ飛び出したのは紅玉を奪い返すためだったろう。どうやら張と紅玉とは恋人同志のように思われるじゃないか。しかしそんな事はどうでもいい、とにかくこのまま張教仁だって黙って引っ込んではいないだろう。いずれ南洋へ押し渡って僕らと競争するだろう。張の競争は恐ろしくはないが、ちょっと手強いのは袁更生だ。暗夜とは云っても黄浦河の上で堂々と汽船を奪った手並みは敵ながら天晴のものだったよ。しかも手段が支那式で滑稽味を帯びていて面白かった」
「どんな手段を使いました?」
「二隻の支那船を綱で繋いで、その綱を水中に張り渡したまま獲物の掛かるのを待つという、これが彼らの手段だったのさ。はたして汽船が引っかかったね。汽船は綱を引っかけたままずんずん先へ進んで行く。汽船が進むに従って二隻の支那船は近寄って来る。とうとう汽船の横腹へ二隻の支那船がピッタリと左右から寄って来てくっついたものさ。一旦くっついた支那船は綱に引かれて容易のことでは汽船の腹から離れようとしない。そこで縄梯子を引っかける。それを伝たわって甲板の上へ螽斯のように躍り込む。拳銃を五、六発ぶっ放す。これで仕事は終えたのさ。どうやら僕の見たところでは、敵の大将袁更生殿は、僕の立っていた反対の側の支那船の中にいたらしかった」
「それにしても猩々は何んのために箱の中になんかいたんでしょう!」ダンチョンはにわかに眼を丸くして恐ろしそうに叫んだものだ。
「あれか」とラシイヌは頷いて、「あれには僕も驚いた。しかし後になって気が付いたが、魔法化された猩々なのさ。そして袁更生の身代りなのさ。つまり紅玉の監視者なのさ」
「どうも私には解りません」
「どうやら僕の袁更生観は最初とは多少変ったらしい。最初は僕はあの男を催眠術師と思っていた。しかしそいつは違っていた。彼は道教の方士らしい。方士は自分の身代りに悪獣を使うということだ。その悪獣に法術を加えて獣の本性を失わせ、反対に自分の意志を注いで自己化した獣にするということだ。そうして自己化したその獣を馽薚と名付けるとかいうことを本国の図書館で見たことがある。あの猩々は馽薚なのさ。だから猩々は袁更生に代わって袁更生の役目を務めたのさ。紅玉を操つっていたのさ」
第五回 宝庫を守る有尾人種(上)
二十二
「皆さんの船がラブアン島辺で、支那の海賊に沈められたと、新聞で読んだ時の驚きと云ったら、いまだに心臓が躍っております。ところが当のあなたから一同無事に上陸したと入電した時の嬉しさは言葉で説明なんか出来ません。それで取る物も取り敢えず駈けつけて来たのでございますよ……」
──この一行の探検隊の先乗りとしてずっと前から、南洋へ渡っていたレザール探偵は、ラシイヌ探偵からの電報を見て、ほんとに取る物も取り敢えず、ラシイヌの一行を待ち構えながら滞在していたボルネオの首府の、サンダカンから自動車を走らせ、ラシイヌ達が避難しているここクック村の護謨園へ、たった今到着いたところであった。
「早速来てくれて有難い」
疲労の様子などはどこにも見えない相変らず元気のよい言葉つきで、ラシイヌはまず礼を云った。それからラシイヌ一流の事務的の口調で今度の事件の大体の経過を物語った。
「……いずれ詳細くは後から云うがラブアン島の沖合まで僕らの船が来た時にだね、突然島蔭から現われて発砲しかけた船がある。船の形は商船だが船首と船尾に一門ずつ大砲の筒口が光っているので海賊船とすぐ知れたよ。大砲を二、三発打ちかけて置いて停まれの信号をしたものさ。逃げようと思っても向こうの船が素晴らしく船脚が速そうだから逃げおおせることが不可能だ。やむを得ず船は停まってしまった。賊船はドンドン近寄って来る。船客達は騒ぎ出す。号泣、怒号、神に祈る声! 愉快な航海が一瞬のうちに修羅の巷と変ったのさ。いずれ海賊と云ったところで黙って穏なしくしてさえいれば命まで取ろうとは云わないだろう。有金財産みんなやったらまさか船は沈めないだろうとこう僕は心で覚悟を決めて、博士やダンチョン君にも意を伝えて静かに甲板へ立ったまま近寄る賊船を見ていたところ、どうも近寄るその賊船に見覚えがあるような気がしたので双眼鏡で眺めたものさ。すると見覚えがある筈だ! 袁更生の一団が黄浦河の上で掠奪した例の和蘭の汽船じゃないか! しまった! と僕は叫んだね。まごまごしてはいられない! みんなの生命に関することだ。僕は博士とダンチョン君とマーシャル医学士とを従えて船尾の短艇へ走って行った。遁がれるだけは遁がれて見よう。こう思ってみんなを短艇へ乗せてそれを海上へ下ろして置いて僕もそいつへ飛び込んだ。それ漕げ! と、僕の命令と一緒に力任せに漕ぎ出したね。海賊どもはそのうちにこっちの船へ乱れ入ってあらゆる掠奪を行ったあげく暴逆なる撃沈を実行して悠々と引き上げて行ったんだが、天の佐けというものか僕らの乗っている短艇の姿を彼らは発見しなかったらしい。追撃される心配もなく僕らは短艇を漕ぎ進めた。しかしどこまで漕いで行っても陸らしいものの影も見えない。そのうちに夜がやって来た。その夜が明けても陸が見えない。その時の僕らの失望と云ったら……空腹と熱さと喉の乾きとで誰も彼もみんなへばったものさ。やがてまたもや夜となった。みんなは漕ぐのを止めてしまって仰向けに船の中へ寝たものだ。僕だってご多分に洩れはしない。じっと空の星を見詰めながらあぶなく涙を落とそうとしたね。陸の上ならともかくも鰐の住む南洋の波の上では腕の振るいようもないからね。そのうち僕はうとうととした。幾時間寝たか覚えはないがかなり眠ったことだろう。ハッと眼が覚めて前方を見ると朝陽に照らされた護謨林が壁のように立っているじゃないか! 思わず僕は飛び起きたね。そうしてみんなを揺り起こして船をその岸へ着けたものさ。護謨の林があるからには護謨園があるに相違ない。護謨園があるなら人間がいよう。その人間を探すことが何より急務だということになって、林の中を分けて行くとはたして護謨園の前へ出た。その時の嬉しさというものは思わず閧の声をあげたくらいだ。こんな事情で今日まで護謨園の主人に保護されて生活していたというものさ。聞けば護謨園とサンダカンとは、三十哩足らずの道程で自動車も通うということだったので、園の事務員にお願いして君の所へ昨日遅く電報を打ってやったんだが、こんなに早く来て貰ってみんなも心強く思うだろう」
ラシイヌはやおら立ち上がって、窓へ行って戸外を覗いたが、
「護謨林の様子を見るとか云ってさっきみんな戸外へ出て行ったが、そのうち帰って来るだろう」
こう云うと長椅子へ腰を下して前途の冒険を考えるかのように軽くその眼を閉じたのであった。
木小屋式の建物の内はしばらくの間静かであった。窓を通して真昼の陽が護謨林の頂きから射して来るのが室の板壁へ斑点を着けそこだけ黄金色に輝いている。聞いたこともないような南洋の鳥が林から広場へ飛んで来て、窓の方を横目で見やりながら透明の声で唄っているのが、室の中に寝ている病人達を慰めているようにも思われる。林の中のあちこちから護謨液採りの土人乙女の鄙びた唄声も響いて来る。亡国的の哀調を含んだ、しかものびやかな調べである……。
二十三
その時正面の扉をあけてマハラヤナ博士がはいって来たが、レザールのいるのも気がつかないようにセカセカとラシイヌに云うのであった。
「唄を聞きたまえ! 土人乙女の唄を!」
「さっきから聞いてはおりますがね……」
ラシイヌは鷹揚に返辞える。
「で、君はあの唄をどう思うね?」
博士の口調は真面目である。
「どう思うと訊かれても困りますな。私は西班牙の人間でボルネオ土人ではありませんから、唄の文句さえ解りませんよ」
「なるほど」と博士は顔を顰め、「これはこの私の誤まりじゃ……それでは私が訳してあげよう。文句はきわめて簡単じゃからの」
それから博士はうたうような調子で土人の唄を訳して行った。
昔、昔、大昔に
二羽の巨鳥が住んでいた
「人間を作ろうじゃあるまいか」
一羽の巨鳥がこう云うと
「そいつはおおきにいいだろう」
他の一羽もこう云った
いちばん最初に作ったのは
巨きな巨きな樹であった
二番目に彼らの作ったのは
堅い堅い石であった
「樹から人間は作れないよ」
「石からも人間はつくれないよ」
「水と土とで作ろうか」
「おおきにそいつはいいだろう」
水と土とで作られたのは
私達の先祖、人間様!
土が積もって山となり
水が溜まって湖となる
山と湖とに守られて
私達の先祖が住んでいる
湖と山とに囲まれて
先祖の宝が秘蔵されてある
訳してしまうと老博士はラシイヌの顔を真っ直ぐに見て熱心な口調で云うのであった。
「山と湖とに守られて私達の先祖が住んでいる。湖と山とに囲まれて先祖の宝が秘蔵されてある。……この唄の意味をどう思うね? 僕らがこれから向かおうとする宝庫探検の目的とこの唄の文句に含まれている一つの暗示的の意味との間に脈があるとは思わないかね? ……」
すると、その時まで博士の横に黙って立っていたレザールが、横の方から口を出した。
「大いにあると思いますな……実は私もこの唄の意味とそっくり同じ意味のことをボルネオ土人から幾度となく話して聞かされたものですよ。つまりそのために濠州の方を探検するのを後に廻してボルネオから先に探検べようと、数回手紙や電報でラシイヌさんと打ち合わせて、濠州のメルボルンへ行く途中、サンダカンへ先に上陸して、ともかくもボルネオの奥地の方を、探検しようと二人の間だけでは決定していたのでございますよ。どうしてどうして私達に取っては土人の唄や伝説は決して馬鹿には出来ません。第一私の目的が、数千年前に生きていた沙漠の住民の羅布人が国家の滅びるその際に隠匿したという大財宝を、発見しようというのですから既に立派な昔噺式で伝説的でもあるのです。まして今では発見についてのこれぞという手懸かりもないのですからせめて、土人の伝説か俚謡でも、手懸かりの一つにしなかったら取っ付き場所がありません……」
マハラヤナ博士は驚いたようにレザールの顔を眺めたが、
「おお、君はレザール君か!」
「博士ご無事で結構でした」
「君は濠州の方にいる筈だが?」
「さよう、濠州の方にもおりました。ただし只今申し上げたようなああいう事情がありましたので少し前からこのボルネオのサンダカン市に来ていました」
「なるほど」と博士は眉をしかめ、「それじゃ何かね、濠州より先にこのボルネオを探るのかね……僕は少しも知らなかったが」
「絶対の秘密を保つため今まで申し上げないでおりました」
「それじゃ僕らが海賊に襲われてこのボルネオへ避難したのはあまり損でもなかったのだね」
「天の祐けというものでしょう」
三人は愉快そうに哄笑した。林の中からは乙女の唄が尚のどやかに聞こえて来る。真昼の光で樹々の梢は黄金のように輝いている。
二十四
ボルネオ政庁の玄関には山のように人々が集まっていた。南国の空はよく晴れて朝陽がキラキラと輝いている。椰子の葉隠れに啼いている鳥も今日の門出を祝うようだ。一台の自動車が見物を分けて静かに前へ辷り出た。車内にはラシイヌとダンチョンとマハラヤナ博士とマーシャル氏とが元気の溢れた顔をして悠然と坐席に着いている。この勇敢な探検隊をよく見ようとして群集は自動車の周囲へ寄って来た。政庁の露台には州知事をはじめサンダカン市の名誉職達が花束を持ちながら並んでいる。道路には警官が立ち並んで大声で群集を制している。家々の門には国旗が立てられ、街の四辻の天幕張りからは楽隊の音色が聞こえて来る。
その時知事は露台の上から、その探検の成功と隊員の無事とを祈りながら花束を自動車へ投げ込んだ。それに続いて名誉職達は手に手に持っていた花束を雨のように下へ投げ下ろした。楽隊は進行曲を奏し出す。見物の群集は閧を上げる。響きと色彩と人の顔とが入り乱れている雑沓の間をそろそろと自動車は動き出した。やがて市中を出外れると一時間二十哩の速力で自動車は猛然と走り出した。目差すところは森林である。その森林には探検用のさまざまの道具を守りながらレザールが待ち受けているのである。こうして自動車は進みに進みその日の正午を過ごした頃、遙か彼方の護謨林の中に幾個か張られた天幕の姿が白く光るのを見るようになった。自動車が近付くに従って林の中から一行を迎える歓呼の声が聞こえて来た。純白の天幕を囲繞いて銅色の肌をした土人どもが蠅のようにウヨウヨ集まっている。その中に一人白々と夏服姿の若紳士が小手をかざして見ているのは無論レザールに相違ない。
自動車は警笛を吹き鳴らし次第次第に速力を弛めだんだん林に近寄って行った。そして全く停まった時には自動車の周囲は土人の群で身動きもならないほど取り巻かれた。彼らは一斉に手を上げて無事の到着を祝すための奇妙な叫び声を挙げるのであった。
ラシイヌの一行は自動車を降りて土人の中を掻き分けながらレザールの後に従って天幕の方へ歩いて行った。林の中の有様はちょうど軍隊が野営したかのように、活気と混雑とに充たされている。馬や水牛は草を喰みながら絶えず尻尾を振っている。小虫の集まるのを防ぐためだ。火を焚いている土人がある。いずれもほとんど半裸体で足に藁靴を穿きながら、その足でパタパタ地面をたたいてボルネオ言葉で話し合い時々大声で笑い出す。弓を引いている土人もある。護謨の林の奥を目がけてヒューッとその矢を放すと同時に、木立の上から南洋鷹が弾丸のように落ちて来た。武器の手入れをする土人もある。銅笛を吹いている土人もある。競走をしている土人もある。
十数の天幕を支配するかのように、巨大の天幕がその中央に棟高く一張張られてあったが、ラシイヌ達の一行はその天幕へはいってきた。
ラシイヌは四辺を見廻してから事務的口調で質問だした。
「土人は一人も逃げないかね?」
「そのうちポツポツ逃げ出すでしょうが、今のところ一人も逃げません」事務的口調でレザールも云った。
「それでは総勢百人だね?」ラシイヌは軽く頷いて、「探検用の道具類は一つも盗まれはしないだろうね?」
「一応調べることに致しましょう」
天幕二つに満たされてある道具類の検査が始まった。一つの天幕には武器の類が順序よく並べて置かれてある。七十挺の旋条銃、一万個入れてある弾薬箱、五十貫目の煙硝箱、小口径の砲一門、五個に区劃した組立て船、二十挺の自動銃、無数の鶴嘴、無数の斧、シャベル、鋸、喇叭、国旗、その他細々しい無数の道具……もう一つの天幕には食料品が山のようにうず高く積まれてある。それに蒙昧の野蛮人を帰服させるための道具として数千粒の飾り玉やけばけばしい色の衣服類や無数の玩具やを箱に入れてこの天幕に隠して置いたが、それら一切の武器や食料は少しも盗まれてはいなかった。
その夜はそこで一泊して翌日いよいよ奥地を目掛けて探検隊は出発した。河幅おおよそ二町もあるバンバイヤ河の岸に沿って元気よく出発したのである。アチン人種、馬来人種、ザンギバール人種、マホメダ人種、さまざまの人種が集まって出来た土人軍の五十人が先頭に立って、進む後から、白人の一団が進んで行く、その後を小荷駄の一隊が五十人の土人軍に守られて粛々として歩をすすめる。数百年来人跡未踏の大森林は空を蔽うて昼さえ夕暮れのように薄暗く、雑草や熊笹や歯朶や桂が身長より高く生い茂った中を人馬の一隊は蠢めいて行く。先頭の一団は斧や鋸で生木を払って道を造り岩を砕いて野を開き川を埋めて橋を掛け後隊の便を計るようにすれば、後隊の方では眼を配ってダイヤル人種、マキリ人種などの食人種族の襲撃から免れしめるように心掛ける。先頭の隊で太鼓を打てば後方の隊でも太鼓を打つ、白人隊で喇叭を吹けば土人軍でも喇叭を吹く。そして時々喊声を上げて猛獣の襲来を防ぐのであった。白人は全部馬に乗り土人軍でも酋長だけはボルネオ馬に騎がった。暁を待って軍を進め陽のあるうちに野営した。斥候を放し不眠番を設けて不意の襲撃に備えるのであった。一日の行程わずかに二里、目的す土地までは一百里、約二ヵ月の旅行である。しかも最後の目的地にはたして宝庫があるや否やそれさえ今のところ不明である。それに、もう一つラシイヌ達にとって、心にかかることがある。袁更生一派の海賊がやはりこの島に上陸していて、やはり土人達の唄を聞きまた土人達の伝説を聞いて宝庫の所在に見当を付けて、その宝庫を発くため探検隊を組織して奥地に向かって行きはしないか? もしも彼らが行ったとしたら我々白人の探検隊よりも遙かに便宜がある筈である。ボルネオ土人の風習として亜細亜人に好意を尽くすからである。土人の好意を利用して彼ら亜細亜人の海賊どもは捷径を撰んで奥地に分け入り、我々よりも一足先に宝庫の発見をとげはしないか? ──これがラシイヌ達の心配であった。それで彼らは一刻も早く奥地地帯へ踏み込もうと土人軍どもを鞭韃した。しかしどのように鞭韃しても荊棘に蔽われた険阻の道をそう早く歩くことは出来なかった。
二十五
行く行く彼らは土人の部落──すなわち部落へ到着くごとに飾り玉や玩具を出して見せて彼らの食料と交換した。米や野菜や鶏や卵や唐辛または芭蕉の実やココアなどと貿易したのである。部落の土人は想像したより彼らに敵意を示さなかった。貯蔵ていた食料を取り出して来て惜し気もなく彼らと交換した。そして一行を歓待して土人流の宴会を開催いてもくれた。羽毛を飾った兜を冠って人間の歯の頸飾りをかけ、磨ぎ澄ました槍を手に提げ宴会の庭へ下り立って戦勝祝いの武者踊りをさも勇猛に踊ってくれた。もっとも時には一行に向かって敵意を現わす部落もあった。バンバイヤ河の水源のバンバイヤ湖へ来た時に突然葦の繁みから毒矢を射出す者があった。味方の土人が五、六人それに当たって地に倒れた。それに驚いた味方の土人は一度に後に退いたが旋条銃の狙いをよく定めてやがて一斉にぶっ放した。次第に消えて行く煙りの間から湖水の方を眺めて見ると独木舟がおよそ十五、六隻周章てふためいて逃げて行く。多数の死傷者があるらしい。味方の土人は勢いを得て岸に沿うて敵を追おうとしたがラシイヌはそれを許さなかった。伏兵のあるのを恐れたからだ。味方の負傷者を調べて見るといずれも傷は浅かったが、鏃に劇毒が塗りつけてあるので負傷者はのた打って苦しがる。そしてだんだんに弱って行く。マーシャル医学士は智恵を絞って負傷者のために尽くしたけれど、二人だけはその夜息が絶えた。土人の死骸を埋葬してから一行は尚進んで行った。一つの部落へ着いた時、不思議にも部落は空虚であった。一人の土人の姿もない。そこで一行は安心して部落の空地へ天幕を張って、その夜の旅宿をそこに定め各〻眠りにつこうとした。ちょうど真夜中と覚しい頃、突然部落の家々から一斉に焔を吐き出したので、一同は初めて土人達の計略に落ちたことを感付いた。焔はその間も天幕を包んで四方から刻々に襲って来る。立ち昇る火の粉を貫いて雨のように毒矢が降って来る。無智の土人達は火を怖れて消そうともせず顫えている。馬や水牛やボルネオ犬は──いずれも荷物を運ばせるために市から連れて来た家畜であるが──火光に恐れて手綱を切って焔を目掛けて飛び込もうとする。味方は火薬を持っているだけに危険の程度が大きいのであった。火焔が天幕を焼くようになったら自と火薬は爆発しよう。五十貫の火薬箱がもし一時に爆発したら、一行百余人の生命は粉な粉なになって飛んでしまうだろう!
ラシイヌもレザールもマハラヤナ博士も、ダンチョンもマーシャル氏も手を束ねて茫然と火勢を見ているばかりでどうすることも出来なかった。椰子や護謨の樹に燃え移る焔が樹油にパチパチ刎ねる音や、燃え崩れる小屋の地響きや、敵方の上げる閧の声が、千古斧を入れない森林の夜を戦場のように掻き立てる。
その時、四人の酋長の中、ザンギバール人の酋長が息せき切って走って来たが、マハラヤナ博士を捉らまえて何か早口に話し出した。
それを博士が通弁する……
「飾り玉を百個くれるなら敵の土人と和睦して、火事を消し止めてお目にかけるとこの酋長が云っているのです」
「飾り玉で和睦が出来るなら二百でも三百でもくれてやりましょう」
ラシイヌは喜んでこう叫んだ。博士がそれを通弁する。すると酋長は身を翻えして側の椰子の樹へよじ上り敵の土人を見下ろしたが、そこから大声で怒鳴り出した。と、不思議にもそれっきり敵の方から矢が来なくなった。間もなく焔の勢いが弱って次第次第に消えて行った。危険は全く去ったのである。危険が立ち去ったばかりでなく、新たに五十人の味方が出来た。今まで敵であった部落の土人が、五十人の壮丁を選りすぐって従軍させたいと云い出したからで、ラシイヌはそれをすぐ許した。彼ら部落の土人どもはザンギバール人であるのであった。それでこっち方のザンギバール人の酋長の提議をすぐに入れて容易く和睦をしたのであった。
百五十人の探検隊は翌日部落を発足して奥地への旅を続けて行った。無限に続く大森林! 森林の中の山と川! 底なしの沼や鰐の住む小川! それを越えて奥へ奥へ既に一月も進み進んで英国領もいつか越え、和蘭領へはいり込んだ。こうして尚も追撃を続け、目差す奥地も間近くなった。その時精悍なダイヤル種族の大部落と衝突したのであった。
幾度かの小戦闘が行われた。食人人種ダイヤル族は噂に勝って猛悪であった。味方の土人は彼らを恐れて前進しようとはしなかった。彼らの姿を一目でも見ると手の武器を捨てて逃げるのであった。それを叱ると罰を恐れて隊から逃亡するのであった。十人あまりも既に逃げた。逃げる時土人は銃を盗んだり飾り玉を盗んだりして逃げるのであった。
ある夜、敵方の陣地から不意に唄声が聞こえて来た。それは意外にもあの詩であった。
古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
この詩を聞くとラシイヌはいまいましそうにこう云った。
「心配した通り袁更生めがダイヤル族を手なずけて旨く味方に引き入れたらしい。海賊の一味が加わったからには、ダイヤル族のあの陣地は容易に抜くことは出来ないだろう。仕方がないから僕らの方でも堅固な砦を築くことにしよう」
こうしていよいよ両軍の間には持久戦の準備が始められた。
二十六
(張教仁備忘録)……どこから私は書いて行こう? 私の頭は乱れている。何んと云って私は説明をしよう? 私は全く五里霧中だ……ラシイヌ探偵の親切で一旦奪われた紅玉を阿片窟から奪い返して燕楽ホテルへ連れ戻ったのもほんの一時の喜びであった。ある日私の目の前で彼女は窓から飛び出して再び行衛を晦ましてしまった。袁更生の邪教に誘われてふたたび犠牲になったのだ。それからの私は狂人であった。袁更生の行衛を追って北京から上海へ下って来たのも紅玉を取り返したいためであった。しかしどのように探しても紅玉の行衛は解らない。私はとうとう諦らめて南洋に向かって去ろうとした。宝庫を探しに行こうとした。私は費用を使い果たしてこの時全くの無一文であった。そこで私はいろいろに考え私のいつもの十八番の手で南洋航路の英国船の料理人として雇われた。明日はいよいよ出航というその前の日の宵の中を私は公園の柵の外の海岸通りを歩いていた。公園の中の楽堂では管の音が聞こえている。青葉を渡る風の音が公園の並木に当たっている。大変和やかな夜であった。私は何気なく前を通ると面紗を冠った若い女が足早に向こうへ歩いて行く。姿こそ変っているけれど何んで彼女を忘れよう! それは紅玉に相違ない。それからの私の行動は自分ながら愚劣に思われる……やにわに私は走りかかって紅玉を腕に引っ抱えた。紅玉の背後から追跡けて来た一人の大きな欧羅巴人が突然私の邪魔をした。……不意にその時闇の中から無数の人間が飛び出して来て私と欧羅巴人とを打ち倒し紅玉を箱の中へ入れようとした。……箱から現われ出た大猩々! 私はそのまま気絶して再び呼吸を吹き返した時には四辺は寂然と静まり返り、一人さっきの欧羅巴人が死んだように倒れているばかりだ。私の負傷は軽かったので疲労れた足を引きずり引きずり、汽船の料理人部屋へはいり込んで深い眠りに墜ちてしまった。
航海は大変無事であった。台湾海峡も事なく通りやがて香港へ到着した。南支那海を南東に向けて再び航海は続けられた。フィリッピン群島を左に見て英領ボルネオの首府サンダカンへ次第次第に近寄って行った。航海はこれまでは無事であった。しかし偶〻ラブアン島辺へ正午頃船が差しかかった時突然大難が起こったのであった。すなわち、海賊──袁更生の船が汽船を沈没させたのであった。
私は海へ飛び込んだ。鮫や悪魚の住んでいる海へ。それでも私は喰われもせずしばらくの間泳いでいた。その時短艇がどこからともなく私の側へ漂って来た。疲労れた手足を働かせて私はボートへ這い上がった。人影はなくて肉の砕片が真紅に船底を濡らしている。そしてそこには一本の櫂と一挺の短銃と若干の弾丸と万年筆と手帳とが血に穢れて散らばっている。恐らく誰かが短艇に乗って、賊から遁がれようとしたのだろう。しかるに不幸にも賊に見つかって鉄砲で撃たれて海へ落ちたのだろう。──死んでその人は不幸ではあるがおかげでこっちは大助りだ! こう思いながら四辺を見ると既に賊船の姿はなくて今まで乗って来た汽船の影さえどこの波間にも見えなかった。私はホッと安堵してそれからボートを漕ぎ出した。間もなく日が暮れて夜が来た。激しい空腹と疲労とは私を昏睡に引っ張り込む。今眠っては危険である! 死に誘惑される眠りであると、心の中では思いながらいつか眠りに捕えられた。
……幾時間私は眠ったろう……
何者か私の全身を摩擦している者がある。嫋かではあるが粗い手で私の全身を擦っている。その快い触覚が疲労と苦痛とで麻痺している私の肉体を労わってくれる。私の意識は次第次第に恢復するように思われた。どうかして一目眼を開こう、眼を開いて私を労わってくれる親切な人を見ようとしても重い眼瞼は益〻重くどうすることも出来なかった。それでも私は努力した。そしてようやく薄目を開けてあたりの様子を見ようとした。するとその時私の体を撫で廻していた手が止まった。いくらあたりを見廻してもそれらしい人の姿もない。ただここに一つ不思議なことには日光から私を防ぐため棕櫚で拵えた大きな笠が私の体を蔽うている。そして砂地に足跡がある。跣足の人間の足跡である。その足跡は海岸の背後の大森林まで続いている。岸辺を見ると繋ぎ止められたボートが水に浮かんでいて舟の中には元通り短銃や万年筆が置いてある。私はそこまで這って行ってそれらの物を取って来たが、もう這うことも出来なくなった。私は腹を砂の上へ丸太のように転ってそのまま昏々と眠りに入った。そうして再び目覚めた時には私の側に椰子の果実と呑み水とが一椀置いてあった。果実を食って水を飲むと私はようやく元気づいた。棕櫚笠を頭に戴いて短銃と弾丸帯を腰に着けて手帳と万年筆とは下衣に隠して林の方へはいって行った。何より先に蘇生させてくれた恩人の姿を見つけようと足跡を手頼りに進んで行ったが、林へはいると雑草に蔽われ見出すことが出来なかった。雑草は丈延びて身丈よりも高く林の中は夜のように暗い。喬木はすくすくと空に延し上がり葉と葉は厚く重なり合い数町あるいは数里に渡って緑の天蓋を造っている。太古のままの静けさが森林の中に巣食っている。鳥も啼かず人影もなく風さえ葉の壁に遮られて林の中までは吹いて来ない。
自然の厳粛に打ち拉がれて私は茫然と立ち尽くした。いったいどうしたらいいのだろう? これから俺はどうしよう? こう思って来て自分ながら恐ろしい運命に戦慄した。
二十七
どっちへ行こうかと森林の中を途方に暮れて見廻した時、またも奇蹟が発現われた。こっちへ来いというように丈なす草が苅り取られ小径が出来ているではないか!
「足跡の主に相違ない」
私はすぐにこう思った。それで少しも躊躇せずに小径を奥へ歩いて行った。私は幾時間歩いたろう? 体が綿のように疲労れて来た。私は一歩も進めなくなった。ここでこのまま倒れたなら猛獣毒蛇の恐ろしい牙がすぐにも噛みつくと思いながらどうすることも出来なかった。歯朶の葉の茂っている地面の上へ私はパッタリ腰を下ろした。すぐに睡眠が襲って来る。私は眠りに落ちたらしい。眠りながら私は手の触覚を体の全体に感じていた。嫋かではあるが粗い掌の絶え間ない触覚を感じていた。
どれだけ眠ったか私には一向見当がつかなかった。眼を開いて見ると朝だと見えて厚く重なった葉の天蓋から二筋三筋日光の縞が黄金線のように射していた。林の中の諸〻の葉は朝風に揺れてさも嬉しそうに上下に舞踏を踊っている。そして私の枕もとには新鮮な果実が置かれてある。私は朝飯をそれで済ますと体に勇気が充ちて来た。やおら私は立ち上がって森林の旅を続けようとした。その時何気なく四辺を見ると私のすぐ側の雑草の中に巨大な一匹のボルネオ虎が毒矢に貫かれて死んでいる。私は思わず飛び上がった。身の毛の慄立つ思いをしながら死骸の側に彳んだ。
「昨夜こいつがこの俺を餌食にしようと襲って来たのを、例の眼に見えない恩人が毒矢で射殺してくれたのだろう」
私の心は感謝の念ではち切れそうに思われた。そして私はどんなことをしてもその恩人を発見だして思うさま感謝を捧げないことにはどうにも気がすまなく思われて来た。私は毒矢を抜き取って仔細にそれを調べて見た。土人の使う弓矢である。鏃の先には飴色をした毒液がたっぷり塗りつけてある。記念のためにその弓の矢を私は大事に手に持って先へ的なしに進んで行った。昨日のように雑草の中に一筋径が出来ている。朝風が止むと林の中はまた音もなく静まり返って陽の光さえ幽かになった。草の丈は益〻高くなる。喬木はいよいよ生い茂ってどこで尽きるとも想像がつかない。今の私の境地ほど寂しい境地はないだろう。しかし私は私を守る例の恩人が絶えずどこかで見張っていてくれると思うので寂しくも恐ろしくも思わなかった。私は私の恩人についていろいろ想像を廻らして見た。毒矢を使う上からはこの島の土人に相違ない。しかし私を撫すった時の嫋かな手付きを考えて見るに男のようには思われない。それでは土人の女だろうか?
「土人の女がこの俺のような支那の若者をこう熱心に保護してくれる所以がない」
こう思うにつけてもいよいよ私はその恩人を一目なりとも見たい希望に燃え立った。
その日も林で一日暮らして三日目の昼頃になった時少し林がまばらになって空の蒼味と陽の光とがいくらか仰がれる小丘へ出た。見るとその丘の頂きに三本の樫の木が立っていて、二丈あまりの高い所に風雨に曝らされた木小屋が一ついかにも厳重に造られてあって、丈夫な縄梯子が掛かっていた。小屋の古さに比らべて縄梯子はまだ新らしい。私は丘へ上って行って注意深く小屋を見上げて見た。その構造でその小屋が猛獣狩りに用立てるためずっと昔に造られたもので、今はもう誰もその小屋には住んでいないという事が感じられた。猛獣狩りの小屋だけに素晴らしく厳重に造られてある。四方の板壁には規則正しく三つずつの銃眼が造られてあるし正面の扉などは錆びてこそおれ鉄の一枚板でつくられてある。
私は念のため小屋に向かって幾度も呼んで見た。もちろん答えるものもない。そこで私は決心してそろそろと縄梯子を上って行った。小屋の内には予想した通り人間の住んでいる気配もない。ガランとして空虚である。熱帯蜘蛛の大きな網が到る所にかかっている。床には塵埃が積もっている。そして木椅子や卓子が五人前ちゃんと揃っている。室は二つに仕切られてあった。奥の小部屋は寝室と見えてボロボロの寝具が敷かれてある。
「五人の勇敢な猟師どもがボルネオ虎や猩々や馬来種の猪を獲るためにこの小屋の中に閉じこもって銃眼から猟銃を発ったものらしい。沢山獲物が出来たので小屋をそのまま放擲ってどこかへ立ち去って行ったのだろう。風雨に曝らされた板壁の様子や床に積もった塵埃から推すと、三年、五年、もっと以前から小屋は造られてあったものらしい」
こう思いながら尚私は室の様子を見廻した。すると今まで気が付かなかったが室の片隅のテーブルの上に、果実がうず高く積んであって椰子の実で拵えた椀の中に飲料水さえ盛ってある。ちょっと驚いて眼を見張ったがそれでもすぐに感付いた──
「眼に見えない例の恩人」が昼食を送ってくれたのだろう。
そこで木椅子へ腰掛けて味の好い賜り物を頂戴した。それから小屋に別れを告げて縄梯子を伝って下りようとした。その縄梯子が見当らない。ほんの先刻まで掛かっていた棕櫚縄の梯子が見当らない。私は呆然と突っ立ったまま考えることさえ出来なかった。
「これはいったいどうしたんだ!」私は声を筒抜かせて無意味に室の中を見廻した。ほんとにこれはどうしたんだ! 棕櫚縄の梯子は私の足もとに手繰られて置かれてあるではないか! いったい誰が手繰ったんだろう? 云うまでもなく「恩人」だ! どういう意味で手繰ったんだろう?
「ほんとにどういう意味だろう?」
私はしばらく考えた。
私の胸へ光明が一筋しらしらと白んで来た。
「そうだ!」と私は膝を打った。「小屋に住めという謎なんだろう! 雑草を苅って径をつけてここまで私を導いて来て梯子を外ずしたというのだからこれより他に考えようはない……住めというなら住むことにしよう。住みよさそうな小屋でもあるし猛獣の害から遁がれることも出来る。的なしに林を彷徨うよりここにいた方がよさそうだ」
私はにわかに決心して室の掃除に取りかかった。それから自分で縄梯子を掛けて林の方へ枯草を採りに──それで寝床を拵えるつもりで──雑草を分けてはいって行った。
その日とそしてその翌日と二日かかって小屋の中を規則正しく片附けた。今のところ食料と飲料水とは「見えぬ恩人」が持って来てくれるので心配する必要はなかったけれど、いつそれが中止になるかもしれぬ。自分で食物と飲料水とを供給することに心掛けなければ困難な目を見るだろう……このように私は考え付いたので果実の所在と泉の出場所とを毎日熱心に探し廻った。
私はこんなように考えた……。
「こんな厳重な小屋を造って猛獣狩りをした位だから、十日か二十日で小屋を見捨てて立ち去って行った筈はない。一月や二月は小屋に籠もって生活していたに相違ない。あるいは半年も一年もここに籠もっていたかもしれない。それではその間を猟師達は市から持って来た食料や水で、生活をしていたろうか? 五人の猟師の一年間の食料! それは随分大したものだ。とてもそれだけの大量の物をこの小屋へ貯えては置かれない。それでは彼らはどうしたろう? 自分の思うところでは恐らく彼らは食料や水を小屋の附近の林の中で求めていたに違いない! だからそいつをこの俺も林の中で見つけよう」
幸いにも私のこの考えは間もなく事実になって裏書きされた。半哩と離れない林の中で二つとも私は見つけたのであった。すなわち、泉と果物の樹とを……
第六回 宝庫を守る有尾人種(中)
二十八
私の見つけた果樹園には椰子や檳榔樹やパインアップルやバナナの大木が枝も撓わに半ば熟した果実をつけて地に垂れ下がっているのであって、その果樹園の中央所に四方を石で畳み上げた人工の泉が湧き出ていた。苔や木の葉に蔽われてはいたが、玉のような水は濁りもせず掌に掬って飲んで見ると一種の香味と甘味とを備えて大変軟らかな水である。
果樹園と泉とを見つけてからは私は急に心強くなって生活にも不安が伴わなくなった。菜食人種の私にとっては、魚肉や獣肉の食われないということもさして苦痛とは思われない──このように私が果樹園を発見したということを例の「眼に見えぬ恩人」はどこかで見ていて知ったと見えて、もはや果物や清水の類を持って来ることをしなくなった。その代りある日土人用の弓と矢とをこっそり持って来てくれた。それにもう一つ火打ち石と火打ち鎌とを持って来てくれた。おかげで私はそれ以来鳥や獣を獲ることが出来て、それらの肉を火で炙って賞味することが出来るようになった。私はその時まあどんなに一摘みの塩を欲しく思ったろう! 塩を持たないこの私は果物を絞ってその液に浸してわずかに肉を食うのであった。
私の日々の生活はロビンソン・クルーソーそっくりであった。小屋で備忘録を認める。朝食として食べるものはバナナ三個に無花果に、椰子の果実を四分の一。昼までは私は腰かけたまま種々のことを考える。それから私は猟に行く、腰へ拳銃と弾丸帯をつけて手に土人用の弓を持って背中へ矢筒を背負った姿で林の中へ行くのであった。私は猟をしながらも例の「眼に見えぬ恩人」を探し出そうと苦心した。そして私はその恩人がどんな所に住んでいるか、彼の住んでいる土人部落を発見したいものだと思いながら林中を縦横に歩くのであった。半日林中を狩りくらして陽のあるうちに小屋に帰って夕飯の仕度にかかるのであった。夜は獣油に燈心を浸して乏しい光をそれで取った。
燈火は点けても心を慰める書物一冊手もとにはない! この寂しさは何んと云おう! 寂しいと云えば万事万端寂しくないものは一つもない。林を渡る嵐の音、丘で嘯く豹の声、藪で唸っている狐の声。……
ある夜銃眼から覗いて見ると一匹の豹が小屋の扉を一生懸命で掻いている。この辺は木立がまばらなので月光が隙から射して来る。その月光に照らし出された豹の姿の美しさ、軟かな毛並み鮮かな斑点、人の児のような優しい手つきでセッセと爪を磨いでいる。私はしばらく見ていたが内側から扉を足で蹴ると扉を掻く音をヒタと止めて、少しの間考えていたがやがて抜き足して小屋を離れて幹を伝って丘へ下りた。そして林へはいって行った。
林に住んでいる獣のうち山羊や小猿はよく慣れて毎日小屋の辺へ集まって来た。そして私から餌を貰っては喜んでそれを食べるのであった。最初は恐れていた小鳥達も次第次第に慣れて来て終いには銃眼から小屋の内へまで恐れ気もなく舞い込んで来て小鳥らしい可愛い悪戯をして──たとえば糞を落としたり椅子のもたれをつついたりして──そしてまた同じ銃眼から林の方へ帰るのであった。ある日私は山羊を捉らえて試みに乳を絞って見た。すると純白の不透明の乳液が、椰子の実の椀に三杯取れた。それは大変味がよくてきわめて立派な飲料であった。煙草には不自由しなかった。野生の煙草の木がどこにでもあって立派な刻煙草になるからである。手製のパイプへそれを詰めて惜し気なくそれを吹かす時私は真に幸福であった。小憎らしいのは猩々である。遠くの木の股から顔を出して二日でも三日でも見守っている、弓を向けると仰天して周章てて葉蔭へ隠れるけれど少し経つとやっぱり覗いている。嫉妬深い獣の習慣として私と戯れている小猿達を見ると、彼は猛烈に岡焼きして気味の悪い声で吠え立てて威嚇そうとするのであった。
一哩ほど林を行くと蘆の茂っている川がある。そこには幾匹かの鰐がいて、獲物の来るのを待っている。ある日私は友人と一緒に──すなわち山羊や小猿を連れてその川の方へ猟に行った。間もなく川の岸へ出た。その岸を私と友人達とは喧騒きながら歩いて行った。すると私の目の前にいた一匹の元気のよい青年の山羊が、水を飲もうとして川へ下りた。とその瞬間褐色をした一本の材木が首を上げた。カッとその口を開けたかと思うと山羊の半身は鞠のようにその口の中へ飛び込んだ。材木と思ったのは鰐であって鰐はそのまま水音を立てて水底深く沈んでしまってどうすることも出来なかった。またある時のことであるが、やはり私は友人を連れて沼沢地方を歩いていた。蘆や薄が生い茂ってそれが身長の倍ほども延びて空に向かって靡いている。私の友人の猿や山羊は沼沢地方が珍らしいと見えて、私より先に走って行って騒がしくお喋舌りを交せている。ところが突然そのお喋舌りが糸を切ったように断ち切れた。
二十九
それと一緒に沼の方角で悲しそうな獣の吠え声がする。そして何物か薄を分けて沼の方へ辷って行くらしい。私はちょっと躊躇したが次の瞬間には沼を目がけて夢中のように走っていた。いずれまたきっと鰐のために友達を取られたと思ったからだ。しかし私は十間と走らず思わずギョッと立ち止まった。あまりの恐ろしさに私の体は一時にゾッと鳥肌立って頭の髪さえ逆立った。私の体で役立つものは見開いた二つの眼ばかりで手も足も力を失ってしまった。
一頭の大鹿を横に喰わえた一匹の蟒蛇が蜿蜒と目の前の雑草を二つに分けて沼の方へ駛っているではないか! 私の友達の山羊や小猿がお喋舌りを止めた筈である。私さえ一声も出せなかった。蟒蛇の姿が沼の中へ全く沈んでしまった時やっと魂を取り返した。私は初めて悲鳴を上げ沼とは反対の方角へ足を空にして走り出した。すると一度に山羊も猿も私の後から叫びながら気狂いのように走って来た。
私のその時の恐怖と云ったらその夜全身発熱して二日というもの小屋の中から一歩も戸外へ出られなかったというそういう事実に徴しても知れる。全くそれは私にとっては産まれて初めての恐怖であった。
しかし間もなくその次に起こった「あり得べからざる奇怪の事件」「人類学上の一大奇蹟」その怪事件に比較してはほとんど恐怖とは云えないかもしれない。
「人類学上の一大奇蹟」! それはいったいいつ起こったのかというに、鹿を呑む大蛇を眼に見てから十日ほど経ったある日のことで、その日私は小屋に籠もって煙草ばかりポカポカ吹かしていた。小屋の外では山羊や猿や独唱好きの小鳥などが、私を呼び出そうとするかのように賑やかに絶え間なく喋舌っている。風もないかして林の中は森然と静まり返っている。
彼らの呼び出しに応じようともせず私はいつまでも室にいた。
するとにわかに彼らの声が糸を切ったように断ち切れた。糸を切ったように絶えた時にはいつでも恐ろしい彼らの敵が彼らを襲う時である。何物が襲って来たのだろうと私は耳を傾けた。その時遙か林の方から不思議の叫び声が聞こえて来た。林に住むようになって以来かつて一度も聞いたことのない得体の知れない声である。悪漢に襲われた若い女が必死の場合に上げるような物凄い断末魔の叫び声に似てそれより一層悲しそうな声だ。私は腰掛けから飛び上がって林に向いている銃眼から声のする方を眺めて見た。私の見たものは何んであったろう? 巨大漢! 巨大漢! 否怪物だ! 漆黒の毛に蔽われた身丈ほとんど八尺もある類人猿がただ一匹樹枝を雷光のように伝いながら血走る両眼に獲物を見すえ黄色い牙を露出しにしてその牙をガチガチ噛み合わせながらこっちに向かって飛んで来る。彼の著しい特色というのは長い尻尾を持っていることでその尾はちょうど手のように自由の運動をするらしい。すなわちその尾を枝に巻きつけて全身の重みを支えるばかりか時にはその尾を振り廻して行手を遮る雑木を叩くと丈夫の生木さえその一撃で脆くも二つに千切れて飛んであたかも鋭い鉞なんどで立ち割ったようになるのであった。尾を持っている類人猿! その有尾人猿に追いかけられて悲鳴を上げながら逃げて来るのは土人の若い女であった。長髪を背後へ吹きなびかせて恐怖に見開いた大きな眼を小屋の方へ高く向けながら足を空にして走って来る。赤銅色の逞しい四肢は陽に輝いて白く光り腰の辺に纒った鳥の羽根は棕櫚の葉のように翻えり胸を張って駈けるその姿は土人とは云え美しい。追われるものも追うものも忽ち林を駈け抜けて丘を巡った空地へ出た。有尾人猿は樹の枝から巻いていた尻尾を放すと一緒に鞠のように地上へ飛び下りたが、両の拳を握ったり開いたり拳の先を時々地につけ牛のような肩を前のめりに出して踊るようにして追って来る。疲労れを知らない有尾人猿に次第次第に追い詰められて土人乙女は恐怖のため走る足がだんだん鈍くなった。そして小屋の中にこの私が住んでいることを知っているかのように、両手を小屋の方へ差し上げて例の悲しそうな断末魔の声を繰り返し繰り返し叫ぶのであった。乙女の叫びに誘われて私の心は揮い立った。麻痺していた手が自由になった。私は拳銃を取り上げて小屋の扉を蹴開いて縄梯子を伝わって丘へ下りた。それから少しの躊躇もせず乙女の方へ走って行った。こうして乙女を背後へ囲い有尾人猿の猛悪な姿へヒタと拳銃を向けた時私の勇気は挫けなかった。
不意に私が現われたことが尾のある人間を驚かせたと見えて彼は一瞬間立ち止まった。しかしその次の瞬間には雷のような嘯きを上げながら疾風のように飛びかかった。彼の両手が私の体へまさに触れようとした時に私の拳銃は鳴り渡った。しかも続けざまに三発まで。
三十
有尾人猿の山のような体がもんどり打って地に倒れると、それまで隠れていた山羊や小鳥や小猿の群が林の中からやかましく喋舌りながら現われて来た。人猿の周囲を取り巻いて彼らは一斉に廻り出した。ちょうど凱歌でも奏するように廻りながら叫び声を上げるのであった。
土人乙女はどこにいるかと私は背後を振り返った。すると乙女は今までの恐怖が一度になくなったためでもあろうが、両手をダラリと脇へ垂れて人猿の姿を見守っていたが、振り返った私の顔を見ると南洋土人の熱情を現わし、いきなり私へ飛びついて逞しい腕で私を抱えて私の胸へ顔を押し当て全身を顫わせて絞めつけた。感謝の抱擁には相違ないが余りに強い腕の力で無二無三に絞め付けられ思わず悲鳴を上げようとした。乙女はそれに気がついたと見えて腕の力を弛めたがその代り今度は私の体を隙間なく唇で吸うのであった。乙女のやるままに体を委かせて私はじっと立っていたが夢中で接吻する乙女の顔へ思わず瞳を走らせた。どうして蛮女の顔だなどと軽蔑することが出来ようぞ! 何んという調った輪廓であろう! 土人特有の厚い唇もこの乙女だけには恵まれていない。欧羅巴人のそれのように薄く引き締まっているではないか。そしてその色の紅いことは! 珊瑚を砕いて塗りつけたようだ。高く盛り上がった厚い鼻も情熱的の大きな眼も南洋の土人というよりも欧州人に似ているのであった。
彼女の情熱が和んでから手真似でいろいろ話して見た。その結果私の知ったことは、「眼に見えない私の恩人」というのは彼女であったということと、四哩を隔てた森林の中に土人の部落があるということと、今その部落は合戦最中で敵の軍中には白人がいるので手剛いなどということであった。
そこで私は彼女に従いて彼女達の部落まで行って見ようと早くも決心したのであった。
その日私と土人乙女とは部落を差して出立した。道々私は尚手真似でいろいろのことを聞き出した。私を一番驚かせたのは土人部落に私と同じような支那人がいるということであった。しかも大勢の人数であって、その大勢の支那人達は部落の土人に味方して白人達に引率いられている侵入軍を向こうに廻して戦っているということであった。
とにかく部落へ行って見たら万事明瞭りするだろうと歩きにくい道を急ぐのであった。この美しい土人乙女が縁も由緒もないこの私を、どうして助けたかということも手真似によって知ることが出来た。彼女は私を一目見ると──すなわち海岸のボートの中に命も絶え絶えに気絶していた私の姿を一目見ると、南洋熱帯の乙女らしく憐れな姿の私に対して恋を覚えたということである。だから私を助けたので、そうでなければかえって私の肉を食ったろうということである。こんな恐ろしい事件を彼女は率直の手真似をもって一向平然として語るのであった。人の肉を食うダイヤル族! いかに彼女が美しくとも土人の血統は争われない。私はつくづくこう思った。そして恐ろしい蛮女によって恋い慕われるということがこの上もなく苦痛に思われた。しかし一方私にとって彼女は命の親である。燃えている彼女の熱情に向かって、無下に冷水を注ぐということも義理として私には出来なかった。しかし私には紅玉がある。紅玉! 紅玉! ああ紅玉! 紅玉はどこにいるのだろう? 森林の中に生死も知らずこうやって暮らしている間も一度として忘れたことはない! 息のある限りはどんなことをしてもきっと必ず探し出して見せる! ……
それにしても蛮女が私に対する熱情と誠実とをどうしよう! 彼女はいつでも私の前を用心しいしい歩いて行く。毒蛇や猛獣の襲撃から私を防ごうためである。鰐のおりそうな川まで来ると彼女は私を背に負って素早く水を渡るのであった。
わずか四哩の道程をほとんど十時間も費して土人の部落へ着いた時には既に真夜中に近づいていた。
夜中の満月は空にかかりその蒼茫とした月光の下に、茅葺きの小屋が幾百となく建て連らなっている一劃がすなわち土人の部落であった。侵入軍を相手として合戦中であるからでもあろう部落の中は騒がしかった。私は木蔭に身を隠しながら部落の様子を窺った。諸所で焚火をしていると見えて薔薇色の火光が天に上り蒼白い煙りが立ち上っている。土人達の叫び声や矢を放す音や小銃の音さえ聞こえて来る。
この私の驚いたことはそれらの雑音に打ち混って立派な支那語の話し声が明瞭り聞こえて来ることであった。尚一層私を驚かせたのは北京で聞いた例の詩があざやかに聞こえて来ることであった。
古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
「袁更生一味の海賊どもがあすこにいるに違いない!」
私はすぐにこう思った。体中の血汐が復讐の念に思わずカッと燃え上がった。
三十一
その時土人の部落を越えた遙か向こうの森の中から閧の声がドッと上がったかと思うと、それに答えて部落からも太鼓を打つ音が鳴り響き、凱旋踊りでもするように女子供までが広場へ出て薔薇色の火光を浴びながら足を空へ上げて踊り出した。
土人乙女はその時まで私の側に立っていたが、部落の光景を眺めるや否や、やはり足を空へ上げて狂気のように踊り出した。そして私を引っ張りながら部落の方へ走り出した。部落に近附くに従って、何が広場で行われているかそれを明瞭り知ることが出来た。
広場に一本の杭があって一人の人間が縛られている。たった今向こうの森の中で捕虜にされたものと見えて、頬の辺に生々しい切り傷の跡がついていてそこから生血が流れている。純白の服はズタズタに千切れ肌さえ露骨に現われている。蛮人どもはそれを巡って凱旋踊を踊っているのであった。私は捕虜の顔を見た。ダンチョン氏の顔であろうとは! 紛う方もないその捕虜は一緒に沙漠を探検した西班牙の画家のダンチョン氏だ! そう感付くとすぐ私は土人らが敵として戦っている白人に率いられた侵入軍とは、ラシイヌ探偵やレザール探偵達の探検隊に相違ないとこのように忽ちに連想した。
「それでは西班牙の探検隊はすぐ向こうまで来ているのか。それにしてもどうしてダンチョン氏は土人の捕虜になんかなったんだろう? 捕虜になったということをラシイヌ探偵達は知らないのだろうか? 探検隊の人達には私は恩を受けている。殊にラシイヌ探偵には生命をさえ助けられている。袁更生達の阿片窟に紅玉を尋ねて迷い入った時、私に逃げ路を教えたのは他ならぬラシイヌ大探偵だ。ラシイヌ探偵の仲間の一人のダンチョン画家が、土人のために今や生命を取られようとしている。それを目前に見ている以上義理としてでも救わなければならない。しかしどうして助けよう? どうしたら救うことが出来るだろう?」
私は立ったまま考え込んだ。土人乙女はそれを見ると、踊っていた手を急ぎ止めて手真似で私へ話しかけた。
「心配することは何んにもない。あなたは私を有尾人猿から救ってくれた恩人ですから、私達部落の人達はあなたを歓迎するでしょう」
彼女が熱心に話しかける手真似の意味はこうであった。しかし私は動かない。やっぱりじっと考えている。すると彼女はまた手真似でこのように私へ話しかけた。
「あなたが不安に思うなら私が先に部落へ行ってあなたのことを話しましょう」
それでも私は黙っていた。
乙女は小首を傾けて私の顔を見守ったが、急に体を翻えして部落の方へ走っていった。私がここにいることを部落の人達に告げるためであろう。
彼女の姿が綿の木の花でしばらく蔽われて見えなくなった時、私は咄嗟に決心してもと来た方へ走り出した。袁更生の一団が土人部落にいる以上は捕まったが最後私の生命は失われるに決まっている。それが恐ろしく思われたからだ。
しかし私の逃げた時は既に機会を失っていた。部落の方から追っかけて来る土人達の叫び声が刻一刻背後の方から聞こえて来る。私は方角を取り違えてただ無茶苦茶に逃げ廻った。突然行手の藪地の中から支那語の叫び声が聞こえて来た。袁更生の一味の者が先廻りをしていたに相違ない。背後からは土人が追っかけて来る。彼らの持っている槍の穂先が月光にキラキラ光って見え鳥の羽根を飾った兜の峰が雑木の上から覗いて見える。
私は進退きわまった。それからの私というものは無茶というよりも夢中であった。腰の拳銃を抜き出して土人軍に向かって連発した。確かに二、三人射殺したらしい。驚いて逃げ出す土人を見捨てて藪の中へ兎のように潜ぐり込んだ。どこをどのように歩いたものか、ほのぼのと四辺が明るいのでハッと驚いて前方を見ると、何んということだ、眼の前に土人部落の例の広場が篝に照らされて拡がっている。そして不幸なダンチョン氏は杭にやっぱり縛られていたが四方には土人の姿もない。
私は義侠心に揮い立った。
「ダンチョン氏を助けるのはこの機会だ!」
そこで私は雑草を分けて広場の方へ近寄って行った。しかしその時私の心を他へ振り向けるものがあった。……私の横手の遙か向こうの木立の蔭から女の声が、夢にも忘れない恋人の、紅玉によく似た笑い声がさも楽しそうに聞こえて来た。それに続いて獣の鳴き声がこれも楽しそうに聞こえて来た。
私は雷にでも打たれたように今いる位置に突っ立ったままその笑い声を聞き澄ました。繰り返し繰り返し女の声と獣の声とは聞こえて来る。どうやら女は獣を相手に戯れてでもいるらしい。
私は四方へ注意を向け踊る心臓をしっかり抑えて声のする方へ忍び寄った。
三十二
明るい満月に照らされて、土人の小屋の裏庭の様子が手に取るように眺められた。霜の降ったように白く見える庭の地面に銀毛を冠った巨大な猩々が空に向かって河獺のように飛んでいる。その猩々をあやすように、両手を軽く打ち合わせているのは白衣を纒った少女である。振り仰ぐ顔に月光が射して輪廓があざやかに浮かび出た。まごう方なき紅玉である!
前後の事情をも打ち忘れて私は前へ走り出た。
「紅玉!」
と私は絶叫して彼女を両手で抱こうとした。すると猩々が走って来て二人の仲を遮った。鈴のような眼で私を睨み紅玉を背後へ庇おうとする。
「どなた!」
と紅玉は、聞くも慕わしい昔通りの声で訊いた。
「どなたって俺に訊くのかい。張教仁だ! 張教仁だ!」
しかし紅玉は感動もせずに、私の顔を見守ったが、
「張教仁さんて! どなたでしょうね? ……そうそうやっと思い出しました。そういうお方がありましたわ、ずっとずっと昔にね……羅布の沙漠で逢いましたっけ、芍薬の花の咲く頃まであなたと一緒におりましたわ……そして桐の花の咲く頃にあなたの所から逃げましたわ。けれどとうとう発見って好きな好きな阿片窟からあなたの所へ連れ帰られてどんなに悲しく思ったでしょう……それからまたも逃げました。そうよ、あなたの所からよ……私には恋人がありますのよ。可愛い可愛い恋人がね! さあ銀毛や飛んでごらん! 私の恋人はお前なのよ! さあ銀毛や飛んでごらん!」
すると彼女の命ずるままに魔性の獣の猩々は空に向かって幾回となくヒラリヒラリと飛ぶのであった。
空には満月、地には怪獣、女神のような恋人が白衣を纒って立っている……所は蕃地で人食い人種のダイヤル族の部落である……
……私はグラグラと目が眩んだ。発狂するんじゃあるまいか! 一方でこんなことを思いながら片手で拳銃を握りしめ銃口を猩々に差し向けた……
……それから私は何をしたか判然り自分でも覚えていない。とにかく私はダンチョンと一緒に土人に追われながら逃げていた。ダンチョンの縄を誰が解いたのか(もちろん私には相違ないが)どうして解くことが出来たのか、それさえ判然とは覚えていない──私の覚えていることは拳銃を射ったことである。いったい誰に射ったのか? 猩々に向かって射ったらしい? 何のために猩々を射ったのか? 紅玉を誑かす悪獣であるとこのように思ったからである。何故そのように思ったのかどうして説明出来ようぞ! ただ直感で思っただけだ! 私の射った拳銃の弾は不幸にも悪獣には当らなかった。ただ驚かせたばかりである。驚いた悪獣は一躍すると紅玉の体を引っ抱えた。そしてスルスルと立ち木に上ぼった。大事そうに紅玉を抱いたままヒラリと他の木へ飛び移った。こうして次々に梢を渡って林の中へ隠れ去った。それっきり彼らとは逢わないのである……。
私とダンチョンとは物をも云わず土人の声の聞こえない方へ力の続く限り走って行った。そして全く力が尽きて二人一緒に倒れた時には夜が白々と明けていた。猛獣の害も毒蛇の害も疲労れた私達には怖くもない。そこでグッスリ寝込んだのである。
その日の昼頃ようやく私は小屋を探し当てた。しばらく二人とも無言である。木椅子へグッタリ腰かけたままダンチョンも私も黙っている。幾時黙っていただろう? それでもやっとダンチョンは懶い声で話し出した。
私はダンチョンの話によって探検隊の一行が土人部落から一哩離れた護謨林の中に戦闘のための砦を造って立て籠もっていて、今日かもしくは明朝あたり焼き打ちの計で土人部落の総攻撃をやる筈だと、そういう事を知ることが出来た。それにもう一つその探検隊の目的というのを知ることが出来た。話によればこの小屋から西南の方角へ十哩行けばそこに険しい山があって山の麓には湖がある。その湖の底にこそ私達が長らく探していた彼の羅布人の一大宝庫が隠されてあるということであった。
「これは最近の発見だが、博言博士のマハラヤナ老がダイヤル土人の捕虜の口からこういうことを聞いたそうだ──それは湖底のその宝庫を有尾人という原始人が守っているという事だがね。それが獰猛の人種でね、さすが兇暴のダイヤル族も有尾人にだけは恐れていて接近することを忌むそうだ」
「有尾人なら僕は見たよ」
私は先日の出来事を掻いつまんで彼に物語った。それから私は彼に訊いた。
「全体どうして土人になんか君は捕虜になったんです?」
「それがね」とダンチョンは苦笑して、「ラシイヌさんやレザール君が(描かざる画家ダンチョン)だなんて僕に綽名をつけるので、一つこの島の風景でも描いて名誉恢復をしようと思って、それで昨日もカンヴァスを持って林をブラブラ歩いているうちに土人の部落へ出てしまったのさ」
ダンチョンは暢気そうに笑うのであった。
その日の夕方、林の彼方に噴煙が高く上がるのを見た。焼き打ちに遇った土人部落が火事を起こしているのであろう。夜に入ると焔の舌が、空にヒラヒラ現われた。
林の鳥獣は火光に恐れて小屋の根もとへ集まって来た。猪は鼻面で土を掘ってその中へ自分を隠そうとする。栗鼠は木の幹を上り下りしてキイキイ声で鳴きしきる。山鳩は空を輪のように舞って一斉に下へ落として来てもすぐまた空へ翔け上がる。豹は岩蔭で唸っているし水牛は萱の中で顫えている。
火光は益〻拡がった。部落を悉く焼きつくしてどうやら林へ移ったらしい。
南洋原始林の大山火事!
鹿や兎や馴鹿は自慢の速足を利用して林から林へ逃げて行く。小鳥の群は大群を作って空の大海を帆走って行く。斑馬の大部隊は鬣を揮って沼の方角へ駈けて行く。
火足は次第に近付いて来る。煙りは小屋を引き包んだ。
私は拳銃をひっ掴み、土人乙女が置いて行った弓矢をダンチョンに手渡すや否や二人は小屋から飛び下りて、走る獣の中に混って風下の方へ逃げ出した。
三十三
恐怖に充ちた人間の叫びが背後の方から聞こえて来た。振り返る間もなく、私達の横を飛鳥のように駈け抜けて行くのはダイヤル部落の土人達で武器さえ手には持っていない。もちろん私達を認めても襲って来ようともしなかった。火足から遁がれよう遁がれようとそればかり焦せっているようだ。
火足は間近に迫って来た。ちょうど紅でも流したように深林の中は真紅である。熱に蒸されて私の背中は滝のように汗が流れている。この大危険の最中にも私はこんなことを考えた。
「土人と一緒に逃げてはならん。土人の行く方へ行ってはならん。彼ら蛮人の常としていつ心が変るかもしれん。幸いに深林を出外れてたとえ草原へ出たところで、そこで土人に襲われたらやっぱり命を失ってしまう。土人の逃げて行く反対の方へどうしても俺達は逃げなけりゃならん」
私はダンチョンへ呼びかけた。
「西南の方へ! 西南の方へ!」
するとダンチョンが叫び返した。
「そっちへはもう火が廻っている!」
「黙って従いて来い! 黙って従いて来い!」
そう云って西南へ方向を変えて狂人のように走り出した。ダンチョンも後からついて来る。
見渡せばなるほど西南一帯一面に焔の海である。しかし焔の海の中にあたかも一筋の水脈のように暗黒の筋が引かれてある。どうやら一筋の谿らしい。そこまで行くには私達は大迂廻をしなければならなかった。大迂廻をするもよいけれど、向こうの谿まで行きつかない前に火事に追いつかれはしないだろうか?
と云って、他には方法がない。
運に任かせて私達はその大迂廻をやり出した。天の佑けとでも云うのだろう、私達が谿まで行きついた時火事もやっぱり行きついた。
谿には河が流れていた。何より先に私達は河へ体を浸したのであった。
こうして岸に沿いながら静かに下流へ泳いで行ったが、行手は昼のように明るくてお互いの顔の睫毛まで見えた。幾時間私達は流れ泳いだろう。かなり急流の河の水が全く水勢をなくなした時私達は河から這い上がって四辺を急いで見廻した。火事の光は射してはいるが、火事場からは既に遠退いている。薔薇色の火光に暈かされて人間界ならぬ神秘幽幻の気が八方岩石に囲繞された湖の面に漂っているようだ。目前に鏡のように湖が拡がっているではないか!
「湖!」
と私は呟いた。その声は恐ろしく顫えていた。
するとダンチョンも云うのであった。
「湖! 違いない、あの湖だろう!」
到頭私達は来たのであった。宝庫を秘している湖へ!
第七回 宝庫を守る有尾人種(下)
三十四
蕃界の夜は明け始めた。私とそしてダンチョンとは黙って湖畔に立っていた。暁の寒さが身を襲うので私達はブルブル身顫いをした。空は次第に色着いて来た。鼠色、薄黄色、薔薇色……と湖水を囲繞いている原始林は夢から醒めて騒ぎ出した。葉は葉と囁き枝は枝と揺れ幹と幹とは擦れ合って化鳥のような声を上げる。風が征矢のように吹き過ぎる。雲のように塊まった鳥の群が薔薇色の空を右に左に競争するように翔け廻る。湖水もだんだん色着いて来た。鉛色、鯖色、淡黄色、そして次第に桃色になり原始林に太陽が昇った時には深紅の色に輝いた。
高原に囲まれ林に蔽われ湖水を湛えたこの別天地は、こうして夜が明け太陽が出て全く昼となったのであった。恐ろしい昨夜の大山火事はどっちの方角へ燃えて行ったものか、そんな恐ろしい山火事などは全然どこにもなかったようにこの別天地は静かであった。
しかし私にはこの別天地があまり静かであるがためにかえって物凄く思われて来た。豹の鳴き声でも聞こえるといい、猪が林から出て来るといい、そうしたら若干南洋のボルネオの島にいるのだという境地に対する安心の念が自然に心に起こるだろうに。あまりに四辺が静かであるためかえって恐怖心が起こるのであった。
私と同じ恐怖の念がダンチョンの心にも起こっていると見えて、疑惑に充ちた眼付きをして彼はあたりを見廻していたが、突然私の肱を突いて嗄れた声で囁いた。
「見たまえあれを! あの顔を!」
何故か私は「顔」という言葉がこの時ゾッと身に沁みた。それで私は眼を躍らせ彼の指差す方向へ周章てて視線を走らせた。
顔! 顔! 人間の顔! しかも一つや二つではない。ほとんど幾十という人間の顔が藪地の木の間から私達の方を瞬きもせずに瞶めている。それは確かに人間の顔だ。人間の顔には相違ないが、それが人間の顔だとすると何んという奇怪な顔だろう! 普通の人間の顔から見るとほとんど二倍の大きさはある。そしてその顔の五分の三はセピア色の毛で蔽われていて、巨大な鉄槌で打たれたかのように低く額は落ち窪み無智の相貌を現わしている。それに反して唇は感覚的に膨れ上がり鼻より先に突き出ている。鼻翼ばかりが拡がって全然鼻梁のない畸形の鼻は眼と口の間に延び縮みして護謨細工の玩具でも見るようである。
私は、余りの恐ろしさに、思わずダンチョンへ縋ろうとした。
「妖怪だ妖怪だ! いや蕃人だ!」
私は思わず呻いたが、妖怪だと思ったその蕃人の、一番前にいた一匹が藪地からヒラリと飛び上がって喬木の幹へ抱き付きスルスルと梢へ昇るのを見て、それが妖怪でも蕃人でもなく思いもよらない類人猿の有尾人種であることを知った。
「ピテカントロプスだ! 有尾人種だ!」
私はまたもこう呻いて、にわかに失望した眼を見張って、どこかに救い主はあるまいかと前後左右を見廻した。すると同じ恐怖のために気絶しかかっているダンチョンは、私の手を堅く握りながら怯えた声で叫び出した。
「百匹! 五百匹! 一千匹! 猅々めが四方から押し寄せて来る!」
なるほど、そう云えば私達を囲んで、木間や藪の蔭や丘の上から黒雲のように叢がって、蛇のような尻尾を頭の上へピンと押し立てた人猿どもが、私達へジリジリと迫って来た。
緑の森林、澄み切った湖水、絵のように美しいこの世界は、一度に人猿の出現によって恐怖の地獄と変ったのであった。しかし私はどんな事をしても恐ろしい人猿の爪と牙から遁がれなければならないと決心した。とは云えどうして遁がれたものか? 彼らの群へ飛び込んで行って人猿どもと格闘して彼らの群から脱しようか? しかし体量五十貫もある森林の原人と闘かって打ち勝つ希望があるだろうか? そんな希望は絶対にない! それでは湖水へ飛び込んで泳いで対岸へ逃げようか? しかし対岸へ行き着いたところで、その対岸の森林にはやはり人猿が住んでいるだろう! それではどうして遁がれよう? どうしたら逃げることが出来るだろう?
一瞬の時間も無駄にせず私はここまで考えて来た。そして到頭行き詰まった。その間も兇暴の有尾人種は蕃人特有の狡猾さをもって一歩一歩私達に近寄って来た。こうして彼我の間隔が十間余になった時、彼らは一斉に立ち上がった。何んという立派な体格であろう! もしも彼らに尾がなかったなら、そして全身に毛がなかったなら勇ましい立派な武人であろう……彼らは私達を取り巻いて忽然と踊りを踊り出した。私達二人を中心にして最初グルグルと左へ廻りそれから今度は右へ廻り、またもグルグルと左へ廻りそれからまたも右へ廻る、あたかも大水が渦巻くようにいつまでもいつまでも廻るのであった。
三十五
「こいつが彼奴らの策戦だな!」
こう思った時にはもう私達は彼らの渦に巻き込まれて催眠状態に墜ちていた。
……緑……大空……人猿の顔……そして彼らの叫び声……湖水……日光……毛だらけの手……沢山の沢山の毛だらけの手が私達を地上から持ち上げた。そして緑の林を縫ってどこかへ私達を運んで行く……緑がだんだん深くなる。日光が次第に薄くなる……忽然、一人の老人が私達の前に現われた。何んという智識的の顔だろう。何んという立派な白髪だろう。人猿達の先に立ってその老人は走って行く。人猿を指揮しているのだろう。神か? 予言者か? 救世主か? 神よ我らを助けたまえ! ……林の中は闇になった。再び日光が射して来た。緑の壁が揺れ動く。どこへ運ばれて行くのだろう? ……
それは昔のことであった。今からざっと三十年も遡らなければならなかった。その頃一人の青年がボルネオの島を歩いていた。それは英国の動物学者で兼ねて考古学にも通じていた、青年の名はジョンソンと云ってさすが英人であるだけに冒険心に富んでいた。彼は考古学と動物学とのこの両様の学説を深く研究した結果によって、どうしても南洋のボルネオかイラン高原の大森林中に巨大な尾を持った人間が棲息しているに違いないという一つの確信を持つようになった。で彼は自分の学説がはたして確証を得るや否やを実検しようと決心した。そこで数人の同志を募り最初はペルシャの方面からイラン高原を探検した。しかしそこではそれらしい有尾人種にも逢わなかった。数人の同志は失望してそのまま英国へ帰ってしまったが、ジョンソンだけは決心を変えずに単身ボルネオへ渡ったのであった。
彼は蕃人の襲撃や猛獣毒蛇の難を避けて長い日数を費したあげく、ようやく奥地までやって来たが有尾人種の影も見えない。自信の強いジョンソンももうこうなっては自分の説を押し通すことは出来なくなった。有尾人種などというものは浅墓な自分の妄想であって、世界のどこを探し廻ったところでそんなものは実際には存在しないとこう諦めざるを得なかった。
彼はすっかり失望してどうしてよいか解らなくなった。猛獣の難を避けるため高い護謨の樹の頂きへ小屋を造ってその中で彼は幾日も考えたが、どうもこのままここを見棄てて立ち去ることが残念に思われ、やはりこのままこの地にとどまり、有尾人種はいないにしても他に珍らしい動物どもが沢山群れ住んでいるによって、せめてそれらを研究しようとようやく彼は決心した。で彼は真っ先に自分の住む小屋の修繕に着手した。それから食物と飲料水とを小屋の近くに発見してそれに改良を加えたりした。体を保護する武器としては拳銃一挺に弾薬若干とそして一振りの洋刀だけで他には何にも持っていない──虎の啼き声、豹の呻き、月影蒼い夜な夜な群れて襲って来る狼などの物凄い吠え声に怯かされながら、こうして蕃界奥地の生活がジョンソンの上に始まったのであった。
一年二年──三年四年──五年の月日が経過した。森林に住んでいる鳥や獣のほとんど総てと親しくなりほとんど総てを研究した。彼にとっては虎も豹も恐ろしいものではなくなった。性来壮健の肉体が蕃地の気候に鍛練され猛獣と格闘することによって一層益〻壮健になり猿族と競争する事によって彼は恐ろしく敏捷となった。そうして彼はもうこの時には有尾人種の存在については全く前説を否定して考えさえもしなかったが、彼、すなわち、ジョンソン自身がちょうど人猿そのもののように完全の野人になり切っていた。森林を走るに、枝から枝幹から幹を伝わって風のように速く走ることも出来た。高い梢の頂上から藪地の上へ飛び下りても少しも怪我をしないほど軽くその身を扱いもした。
何んという愉快な生活だろう。何んという原始的の生活だろう。これがすなわち我らの祖先──人猿そのものの生活なのだ! 自然の食物、自然の飲料、自然の遊戯、自然の睡眠、ここには何らの虚栄もない。そして何らの褥礼もない。過去において自分が生きていたあの欧羅巴の社会生活もこれに比べたら獄屋のようなものだ。自分は心から謳歌する。この森林の生活を……
ジョンソンは実際こう思ってこの蕃界の生活を恐れるどころか愛していた。そして再び欧羅巴などの虚飾に充ちた社会生活へは帰って行くまいと決心した。
彼は鳥獣を愛しみ鰐魚をさえも手なずけた。彼には鳥獣の啼き声やあるいはその眼の働きやもしくは肢体の蜒らし方によってその感情を知ることが出来た。そして彼らが何を要求し何を嫌うかを察することが出来た。で彼は彼らの要求する事を飽きもせずに彼らにしてやった。その代り彼らも彼のためにいろいろの用事を足してやった。
三十六
ある天気のよい日であったが、彼はその時小屋を出て小丘の上に坐っていた。
突然前方の森林の中から鳥獣の悲鳴が聞こえたが、それと一緒に藪地を分けて虎が一匹走り出した。その虎の跡を追っかけて同じ藪地から出て来たのは──思いもよらない有尾人猿で、それと知った彼の驚きは形容することも出来なかった。彼はやにわに飛び上がり、その人猿に向かって行った。鋭い咆哮! 烈しい叱咜! ……さしもの人猿もジョンソンのために胸を蹴られて転がった。
こういう出来事があってから数日経過したある日のこと、いつも小屋にいたジョンソンの姿がどこへ行ったものか見えなくなった。そしてジョンソンと慣れ親しんでいた無数の鳥獣を悲しませた。
既にこの時は、ジョンソンは、生け捕った人猿を案内にして原始林と湖水とで飾られた太古のままなる神仙境へ足を踏み入れた時であった。
幾年か幾年か時が経った。
巴里や倫敦では幾万の人がこの世から死にまた産まれた。……
もちろん、蕃地の南洋でも、鳳梨の実が幾度か熟し無花果の花が幾度か散った。そして老年の麝香猫や怪我をした鰐が死んだりした。
幾度か年は過ぎ去った。青年も老人になる頃である。金髪も白髪となる頃である。若い英国の動物学者がボルネオの奥地へ小屋を造って、鳥や獣を相手にして自由の生活をしていた時から既に三十年も経っていた。それでもやっぱり護謨の樹の上には木で造った小屋が立っていた。
……この頃、湖水と原始林とで美しく飾られた神仙境──すなわち人猿の住居地には、有尾人以外に老人が──紛れもない欧羅巴の人間があたかも人猿の王かのように彼らの群に奉仕されて、いとも平和に住んでいた。
岩窟の内は暗かった。獣油で造った蝋燭が一本幽かに燈もっていて私達二人と老人とをほのかに照らしているばかりで、戸外から射し込む陽光はここまでは届いて来なかった。
私とそしてダンチョンとは有尾人猿の王だという不思議な老人の捕虜となって岩窟の中へ連れて来られ、老人の伝奇的の経歴を老人の口から聞かされてどんなに不思議に思ったろう。しかし私達は疲労れていた。それで老人の話の間にいつか昏々と眠ったらしい。
やがてようやく目覚めた時には翌日の真昼になっていた。私達は老人の許しを得て岩窟の外へ出る事にした。
日光の洪水! 青葉の輝き! そして紺青の湖の底の知れない深い色! それらの色彩に眩惑されて私達はしばらく佇んだ。藪地の中から聞こえるものは人猿達の声である。それさえ今日は穏しい人間の声のように思われる。
私達二人は湖岸へ行ってそこでまたもや彳んだ。
「神秘の湖水! 神秘の湖水!」
私は思わずこう呟いてダンチョンの顔を見返った。「そうだ」とダンチョンも呟いて私の顔を見返した。
「私達二人が真っ先に神秘の湖水を見付けたのだ。だから今度は真っ先に湖底を探る権利がある……羅布人の宝庫、巨億の宝が底に隠されてある筈だ」
ダンチョンの声は感激のために弓の絃のように戦慄した。私はそれを手で制して無言で湖水を見守っていた。その時、眼前の湖水の水が左右に山のように盛り上がり見る見る崩れたその中から丘のようなものが現われた。と見て取った一瞬間、水中の丘から十間も離れた水藻の浮いている水面から水沫を颯と上げながら空中にヒラヒラと閃めいたのは、蟒蛇に似た顔である。
「雷龍!」と私の口から驚異の声が飛び出した。
その時ダンチョンは遙か向こうの森林を指で差しながら、
「大きな蜥蜴が飛んでいる!」
と恐怖に充ちた声で云った。
全く彼の云う通り、二十尺もある大蜥蜴が肩に付いた翼を羽搏きながら木から木へ龍のように飛んでいる。そしてその側の藪を分けて、豺と象とを合わせたような八、九間もある動物が二本の角を振り立て振り立て野性の鼠を追っかけている。それは確かに恐龍である。雷龍といいまた恐龍と云いいずれも今から数十万年前、地球に住んでいた動物で、それは人猿と同じように数十万年前のその昔に悉く滅びた筈である。それだのに人猿と相伴なってボルネオの奥地に棲息し二十世紀の今日まで生存えていようとは正に世界の驚異である。
私とダンチョンとはこの驚異にすっかり魂を怯かされて湖水の岸から逃げ出した。
そして岩窟へ帰ったのである。
三十七
猛悪の人猿の社会にも幾個かの不文律が行われていた。自分の所有でない雌性に対しては決して乱暴をしない事。人猿以外の敵に対しては一同団結して対うこと、食物は一時に貪らず一ヵ所に集めて貯える事……これらが主なるものであった。この不文律の執行者が彼らの王たる老人で、老人の課する刑罰をば人猿どもは怯じ怖れた。
人猿達の生活は極端に自由で快活であった。彼らは木の上で生活しまた木の上で睡眠を取りそして木を渡って遊戯した。彼らの日常の食物は木の実、草の根、鳥獣などで、彼らは勤勉によく働いて沢山の食物を漁るのであった。湖水を中心に原始林は十里四方に拡がっていたが十里四方の大森林こそ人猿達の王国であった。彼らは広大のこの森林で数十万年の昔から数十万年後の今日まで、子を産み、育て、繁殖し、ダーイニズムより超越して、原始的生活の範疇内でその生活を存続し、今日にまで至ったのであった。それにしてもどうして長く逞しい尻尾を持っているのだろう? それは格別不思議でもない。恐らくは彼らはあの尻尾を数十万年の昔から数十万年後の今日まで、盛んに使用して来たのだろう。そのため尻尾があのように立派に発達したのであろう。利用即発達の大真理が、ここで用立った訳である。
ある日、私とダンチョンとは森林の中を彷徨っていた。私達の跡を追いながら沢山の人猿が木を渡っていつまでもいつまでも従いて来た。森林の案内に通じていない私達を警戒するのでもあろう時々私達の先へ立って、方角を指で差したりした。行くに従って森林は益〻厚く繁茂して陽光さえ通らない。私達の足音に驚いて狐や兎が逃げ出したり、臭猫が茨を潜りながら狐猿の隠れた同じ穴へ周章てふためいて飛び込んだり、群れて遊んでいた手長猿が一度にギャッと叫びながら枝から枝へ遁がれたりした。
不意に私達の面前へ大猩々が姿を現わした時には恐怖のために足を止めた。しかし危険はちっともない。人猿が私達を守っている……はたして私達の頭上からヒラヒラとちょうど蝙蝠のように人猿達が下りて来た。そして悲壮な格闘が大猩々との間に行われたが、ものの十分も経たないうちにゴリラは三つに引き千切られた。
森林が開けて陽が射している大きな沼へ来た時にまたも私達は前世紀の怪獣の一つに遭った。十間もあるらしい長身の背中一面に角の生えた尾と頸の長い動物で、その尾と後脚とを利用して立ったままヨチヨチ歩いている。私達の姿を見付けるや否や一躍して水中へ飛び込んだがそのまま姿は見えなくなった。私達二人は沼の岸を静かに歩いて進んで行った。キキ! キキと木の梢で悲しそうな声で鳴くものがあるので何気なく仰いで梢を見た。眼玉の飛び出た鰭の長い八尺あまりの鯊のような魚が鰭で木の幹を攀じながら悲しそうに鳴いているのであった。
私達は尚も彷徨って行った。鰐の住む濁った河を渉り鴨嘴の群れている湿地を越えて足に任せて彷徨った。
またも森林が途絶えて、前方遙かに砂丘が見え、熱帯の太陽が赧々と光の洪水を漲らせている何んとなく神々しい別天地が私達の前へ展開した。
光の洪水に洗礼されたその前方の砂丘の上には一個の祠が安置されてあってあたかもそれを守るかのように石で刻まれた狛犬が、肩に焔を纒いながら祠の前に坐っている──その光景を眺めた時、私は卒然と羅布の沙漠の緑地で見た同じ祠を頭の中に描き出した。
「おお何んと同一ではあるまいか! ……ロブの沙漠のあの祠とボルネオの奥地のこの祠とは!」
私は感激に胸を顫わせ釘付けのように突っ立ったままじっと祠を眺めていた。すると私のこの感激を一層高潮に誘うような不思議な事件が突発した。それは、今まで梢の上で私達を守っていた人猿達が、祠の姿を見るや否やバラバラと梢から飛び下りて人間のようにひざまずいて祠を遙拝することであった。
ああその熱心さと敬虔さとは何んに例えたらよいだろう? 古代、仏教の信者達が仏陀の尊像を堅く信じて祈願をこめた熱心さと敬虔さとに例えようか。それにしてもどうして人猿達が遙拝の仕方などを知っているのであろう? 誰か彼らに教えたのか。それとも、自然に覚えたのか。そしていったいあの祠には何が祭ってあるのだろう! 彼らの神か? 宝物か? そして大きなあの丘はただ砂の堆積ったものだろうか? それとも何かがあの丘の中に隠されてあるのではあるまいか?
「神秘! 神秘! 要するに神秘! 湖水と同じくただ神秘!」
私は心で呟いて四辺の様子を見廻した。すると私はこの辺一体──もちろん砂丘も引っ包めて土地の低いのに気が付いた。
三十八
人猿と老人とに養われて私達は十日を経過した。ある朝、人猿の騒ぐ声が物々しく岩窟まで響いて来た。そして意外にも大砲の音が湖水の向こうから聞こえて来た。
私達はハッと飛び起きた。
そして岩窟から走り出た。私達は何を見つけたろう? ……
朝陽に輝く湖水を越え、原始林の緑を背中にして遙か向こうの湖水の岸に五、六十人の人間が、大砲の筒口をこっちへ向けて群像のように立っている。
「ラシイヌ探偵の一行だ!」
ダンチョンが嬉しそうにこう叫んだ。
「しかし」
と私は躊躇した。
「袁更生かもわからない」
二人は熱心に眺めやった。
危険に対して敏感な、人猿どもは大砲の音に、すっかり度胆を抜かれたと見えて森林の奥へ逃げ込んで一匹も姿を見せなかった。私とダンチョンとは佇んだままなお熱心に眺めやった。距離が距たっているために袁更生の一味ともラシイヌ探偵達の一隊とも見分けることが出来なかった。
しかし間もなくその一群がもう一度空砲を打ち放しこっちの様子を窺ってから、危険がないと思ったものか徐々にこっちへ近寄って来たので、その一群が何者であるかを私達はやっと知ることが出来た。
──彼らは私達の味方であった……
情熱的の挨拶が双方の間に取り交わされ不思議の奇遇が言祝がれた。それから双方争うようにして今日までの経験を物語った。彼らの話す話によってあの恐ろしい山火事がどうして起こったか知ることが出来た。蛮人のために捕虜になったダンチョンの命を助けようため彼らが放した砲弾が蛮人の部落に命中して萱葺き小屋を焼いたのがその原因だということである。そして彼らはあの素晴らしい焦熱地獄の火の中で土人と戦ったということであった。そしてとうとう土人どもを全く屈服させたあげく、袁更生の一団をボルネオ島の北の端れへ息も吐かせず追いかけて行って、そこで鏖殺にしたそうである。しかし残念にも袁更生だけは取り逃がしたということであった。
この惨酷な屠殺戦では、かなり味方も傷ついたので重い負傷者の若干を土人の部落に預けて置いて、負傷かない壮健の者ばかりがここまで来たということであった。
「君の方で僕らを裏切っても、どんなに僕らから逃げ廻っても、僕らの方では君のことをちっとも悪くは思っていない。そうじゃないかね張教仁君……」
いつも寛大なラシイヌ探偵が、こう云って快活に笑いながら、力強く私の手を握った。その時は実際私の顔は恥ずかしさのために赧くなった。
「そればかりでなく……」と大探偵は私の顔をつくづく見て、「僕らの友人ダンチョン君を蛮人の毒手から救ってくれた君の義侠心に対しては心からお礼を申し上げる」
こう云って彼は叮嚀に頭を私に下げさえした。私達二人は湖水の岸の倒木の上に腰かけて互いに話し合っているのであった。ダンチョンはレザールやマハラヤナ博士に人猿と老人を紹介しようと、皆んなを引き連れて森林の中へ先刻はいって行ったままいまだに帰って来ないらしい。
それで四辺は静かである。
湖水は平らに輝いている。
恐龍も雷龍もトラコドンも大砲の音に驚いたと見えて水から姿を出そうともしない。樹々の倒影、雲の往来、みんな水中に映っている。
風が窃かに渡ったと見えて水面に漣がもつれ合った。
しかし再び静かになり湖水は黄金色に輝いている。神秘! 神秘! 正に神秘! この平和らしい湖水の底にこの平凡な湖の中に、羅布人の宝が、巨億の富が、はたして埋もれているとしたら何んというそれは神秘であろう! 神秘! 神秘! 正に神秘! しかも価値のあるこの神秘を今や我らは開こうとして湖水の畔に集まっている。
神秘が神秘であったなら、我々は財産家になれるだろう。そうだ素晴らしい財産家に!
私は湖水を眺めながらこんな空想にふけっていた。
すると、ラシイヌ探偵が、何か口の中で唄い出した。
…………
山と湖とに守られて
我らの先祖が住んでいる
湖と山とに囲まれて
先祖の宝が秘蔵されてある
突然ラシイヌは立ち上がった。そして厳かにこう云った。
「湖水へ船を浮かべよう! 皮で作った船がある! そして湖水の底を見よう! 湖水の秘密の第一歩をとにかく探って見ようではないか!」
三十九
探検隊の一行は私を蕃地へ残したまま元来た方へ引き返した。探検隊の人達は──わけてもラシイヌ探偵は自分達と一緒に来るようにと熱心に私に勧めたけれど私は同意しなかった。どうして同意しなかったかというに、それには私だけの理由があった。
一行がいよいよ湖畔を去って深い原始林へはいって行くや、今まで姿を見せなかった有尾人どもは木や草の中から醜悪の顔を覗かせて賑やかにお喋舌をやり出した。そして人猿とほとんど一緒にどこかへ姿を隠してしまった動物学者の老人もいつの間にか岩窟に帰っていた。私は今まではダンチョンと一緒に蕃地に停まっていたのであったが、そのダンチョンも一行と一緒に原始林の中へ消えて行って私は文字通り一人ぼっちになった。だから私の友達と云えば予言者のような老人と尾を持っている原始人と湖底の怪物トラコドンなどで、友達と云えば友達ではあるが、いずれも縁遠い者どもであった。
私はやはり以前の通りに老人と一緒に老人の岩窟で朝夕日を送っているのであったが、今度の事件が起こってからは、その老人も以前のようには私に好意を示さなくなった。それで私は自分の住家を岩窟の外へ求めようとした。老人は長い間考えてからようやく私の希望を容れて小屋を造ることを許してくれた。老人の命令に従って有尾人達は私の小屋を湖水の見える林の中の高い木の上へ造ってくれた。人猿達は腕力に任かせて巨大の生木をピシピシ折ったり鉄より強い藤の蔓を糸でも切るように引き千切ったりして、ものの半日と経たないうちに私の小屋は出来上がった。何より私の喜んだことは老人にも人猿にも妨げられずにたった一人で小屋の中で熟考することが出来ることで、私は終日そこに坐って是非ともこれから行なって見ようと思う計画について考えた。この計画があったればこそ、ラシイヌ探偵の勧めにも応ぜず一人蕃地へ残ったのである。
しかし私の計画についてこの備忘録へ記すより先に、何故探検隊の一行がこの土地を見捨てて立ち去ったかを書き記す方が順序らしい。
探検隊の一行が私達の面前へ現われた日のその翌日のことであったが、ラシイヌ探偵の指揮の下に革船を一隻湖水に浮かべて湖底の様子を探ろうとした。折り畳み式の革船で八人乗りの大きさであった。湖水に浮かべる船としてはこれ以上勝れた船はない。軽く漂々と水に浮かんで燕のように軽快である。
ラシイヌ探偵とレザール氏とマハラヤナ博士と医学士とダンチョン画家と二名の土人、そして私とが船に乗った。湖底の雷龍が首でも上げて船を覆さないものでもないとラシイヌ探偵は心配して、岸に集まっている土人軍に命じて時々大砲を撃たせることにした。もちろんそれは空砲で、ただ臆病の雷龍をその音響で威嚇していつまでも湖底に止どまらせるのがラシイヌ探偵の望みであった。
殷々と鳴り渡る大砲の音に私達の船は送られて湖水に向かって漕ぎ出した。行く行く私達は水眼鏡で湖水の中を覗いたが、珍奇な水草と畸形の魚とで水中はあたかも人の世における五月の花盛りそっくりである。
原始林が風を遮るので湖水の面は漣も立たずちょうど胆礬でも溶かしたように蒼くどろりと透き通っている。岸に近い水面は木立を映して嵐に騒ぐ梢の様子がさながらに水に映って見えている。船の進むに従って水尾が一筋水面に走りそこだけキラキラと日光に輝き銀色をなして光っている。無数の水禽が湖心の辺に一面に浮かんで泳いでいたが、船が近付くのも知らないようにその場所から他へ移ろうともしない。
私達は湖水の中心へ来た。そこでしばらく船を留めて湖底の様子を窺った。しかし到底水眼鏡などでは幾丈と深い水の底を突き止めることなどは出来なかった。靡く水草、泳ぐ魚、わずかにそれらが見えるばかりだ。
そこで今度は岸に添うて湖水の周囲を調べようと土人軍達が屯ろしているその岸を指して船を漕いだ。土人達はほとんど間断なく空砲を空に向けて撃っている。その陰森たる大砲の音は人跡未踏の神秘境のあらゆる物に反響して木精となって返って来る。
こうして私達の革船が岸から十間ほどに近付いた時、にわかに船が動かなくなった。そしてその次の瞬間には、反対に船は速く走って後方へ後方へと戻るのであった。
思いがけないこの出来事はどんなに私達を驚かせたろう! 半分飽気にとられながらそれでも腕力を櫂にこめて岸へ近付こうと漕ぎつづけた。すると今度は後方へも戻らず勝して前方へは進もうともせず岸から十間の距離をへだててただ岸姿に横へ横へとあたかも湖水を巡るかのように急速に革船は廻り出した。
その時ラシイヌの鋭い声が私達の耳を貫いた。
「水を見ろ! 水を見ろ! 水を見ろ!」と。
私達は一斉に湖上を見た。湖水は湧き立っているのではないか!
四十
今までは小さな漣さえなかった碧玉の湖水が白泡を浮かべて奔馬のように狂っている。そして不思議にも湖上の水は巨大な渦巻を形造って湖心を中心にして廻っている。私達の船はその渦巻の一番外側の輪の中にあった。船はその輪の水勢に連れて湖岸に添うて走って行く。
船が走るに従って岸上の土人軍は驚嘆の声を口々に鋭く叫びながら船の後から追っかけた。しかし水勢には及びもつかず見る見る船と彼らとの距離は遠く遠く隔った。
湖水を一周した頃には船は渦巻の第二の輪をいくらか渦巻の中心の方へ傾きながら走っていた。私達はあらゆる努力をして渦巻の外へ出ようとしたが、蟻地獄へ落ちた蟻のようにどうすることも出来なかった。船は岸上に屯ろしている土人軍の前を過ぎようとした。その時土人達は口々に叫んで棕櫚縄を一筋投げてくれたが船首をわずかに掠めたばかりで空しく水中へ落ちてしまった。いつか私達は渦巻の輪の第三番目にはいっていた。水は輪なりに走りながら時々高く盛り上がり次の瞬間には波を立てて低く落ち窪んだ。私達の船が波に乗って高く空中へ盛り上がった時、私は素早く眼をやって渦巻の中心を見たのであった。その辺一体は白泡に閉ざされ数千の白馬が鬣を振って踊りを躍っているように見えたが、その白泡の真ん中所に直径半町もあろうかと思われる蒼黒い穴が開いていて、湖中の水はそこを目掛けてただ直向きに押し寄せていた。穴はあたかも漏斗のように円錐形を呈していて、落ち込む水がそこへはいる滝のようにすぐに落下せずにやはり漏斗形に廻り廻って静かに地底へ潜るのであった。
私は船が波の頂きに一瞬間とどまっている時にこれだけのことを見て取ったので、波が崩れて谷が開けその水の谷へ真一文字に私達の船が突き入った時にはもう水穴は見えなくなった。
この間も船は水穴を目掛けて刻々に進む水勢に引かれて湖水をグルグル廻っている。
何気なく岸の方を眺めて見ると遙か彼方に断崖のように赭黒い色をして聳えている。いつもは岸に擦れ擦れになって湖水の水が湛えているのに、今は一丈余の断崖となって森林を背負って立っている。つまりそれだけ湖水の水が地下に吸い込まれてしまったのである。
こうして私達はどれほどの時間湖水の面に漂っていたか考えて見ることも出来なかったが、とうとう船が渦に巻かれて湖心に出来ている水穴の中へ正に落ち込もうとした時に、天佑とでも云うのであろうか、忽然と水穴が閉ざされ大渦巻が運動を止め湖面は再び鏡のように日光を吸って輝き出した。
私達は初めて元気付いて力を極めて船を漕いだ。そして土人軍の屯ろしている湖水の岸へよじ登った時、蘇生したような気持ちがした。
湖水の水はその容積の三分の二余りを減じていた。水草が水面に旗のように流れ、幾匹かの恐龍と雷龍とが巨大の首を水から出して私達の方を眺めている。水禽は一羽もいなかった。岸に近い水は森林を映し、岸に遠い水は空をひたしていとも平和に澄んでいる。
あの素晴らしい渦巻の恐ろしかった光景はどこを眺めても見当らない。水はいかにも減じてはいるが、太古のままの夢を孕んで森然と静まり湛えている。
私達は互いに眼を見合わせ一言も物を云わなかった。豪雄のラシイヌ探偵さえ空しく湖水を眺めるばかりで、陽に焼けて黒いその顔には驚異の情ばかりが浮かんでいる。
こうして私達は湖水の岸にしばらくの間佇んでいた。
その時、またも湖水の面に以前と同じ奇蹟が行われた。湖心のあたりに蒼黒い穴が忽然と一つ現われたが、そこを目がけて湖中の水が渦巻きながら押し寄せて行く。
何んという奇観! なんという壮大! 湖中に流されて眺めるのと湖岸に立って見渡すのと、こうまで相違があるものであろうか!
……見渡す眼下の湖水の水は何物にか引かれてでもいるかのように渦の外輪は大波を立て、渦の内輪は独楽のように澄み切った速さで廻っている……名も知らぬ畸形の海獣や巨大な水牛やトラコドンは、その渦巻に巻かれまいと水沫を立てて狂い廻りながらしかも水勢には争い難くやはり渦巻に巻かれたまま蒼黒い水穴──死の漏斗へ、一刻一刻近寄って行く、……死の水穴の縁のあたりには落ち込む水が斬り合って水蒸気の雲を濛々と立て陽に輝いて眼も眩むような鮮かな虹を懸けている……虹の花輪に飾られた蒼黒い漏斗、死の水穴は、落ち込む水をすぐ捉らえて、漏斗に入れられた酒や水が漏斗形にグルグル廻りながら下の容器にしたたるように捉えられた水は穴の内面を眼にも止まらぬ勢いで漏斗形に駸々と馳せ廻り、次第に下へ次第に下へグングン廻って落ちて行く……。
四十一
……今、水牛が穴の中へもんどり打って投げ込まれた。水勢は忽ちそれを捉らえて穴の内面を漏斗形にグルグルグルグルとぶん廻した。もがく事さえ出来ないと見えて四足を高く持ち上げたまま余りに水勢が劇しいため水中に深く沈むことも出来ず全身を水面へ露出したまま虹の花輪のその真下で死の輪舞を続けていたがやがて次第に水勢に巻かれて下の方へ下の方へと落ちて行き忽ち姿は見えなくなった。次から次と様々の獣が今の水牛と同じように渦巻に散々揉まれたあげく例外なしに水穴へ落ちると、同じように漏斗形に廻り廻ってやがて地底へ引き込まれて行く……そして水穴の縁の辺には水蒸気の雲が立ち迷い虹がキラキラと輝いている。……見る見るうちに水は減り周囲の岸が高く峙立ち、湖底が徐々に露出れて来た。
──私の書き記す備忘録には少しの偽りも記してない。偽りを書かない備忘録へ私はこの後の光景を実に次のように書いたのである。……
やがて湖水は全く涸れて、いつか渦巻も消えてしまった。そしてその後へ残ったものは欝々たる原始林に取り囲まれた火山岩で造られた大穴である。所々の水溜には小魚がピチピチ刎ねているし水草が岩石にからまっている。底には砂礫が溜まってはいるが泥はほとんど見あたらない。砂礫に埋もれて恐龍の死骸が幾個もあちらこちらに転がっている。
私達始め土人達は湖水の跡へ下りて行って各〻勝手の探検をした。
私達は渦巻の起こったほとりの湖水の底とも覚しい辺へ急いで足を向けて行ったがそこには直径一町もあるような大磐石があるばかりで穴らしいものの影もない。ダイナマイトを取り寄せて念のため大石を砕いて見たが岩の破片が飛ぶばかりで大磐石は動こうともしない。
それからいったい湖水の水はどこへ流れて行ったのであろう? そして巨大な獣はどこへ行衛を眩ましたのであろう?
空は蒼々と照り渡り森林は粛然と立っているが、私達の疑問は解けようともしない。誰も彼も黙然と押し黙って四辺を見廻すばかりである。
マハラヤナ博士は印度人らしい迷信深い眼付きをして、天地を交替交替見廻していたが、卒然としてこう云った。
「神の怒りじゃ! 神の奇蹟じゃ! 霊地を我々が穢したため天帝が恐ろしい奇蹟を現わし我々に怒りを示されたのじゃ!」
するとラシイヌは科学的の冷やかな声でこう答えた。
「神の怒りではありますまい。恐らく奇蹟でもありますまい。彼らが──すなわち、人猿どもが、悪戯をしたのだと思われます。奇蹟ではなくトリックです」
「いやいや決してそんな筈はない」博士は躍起となりながら、「奇蹟でなくて何んだろう? あの大水が見ているうちに行衛知れずになったのは正しく神の奇蹟なのじゃ! 人猿どもに、あんな動物に、これだけの奇蹟が何んでやれよう、──それとも君は水の行衛を説明することが出来るかな?」
「岩です、岩です、この大磐石です! この中へ水は落ち込みました」
「それでは君は岩を砕いて水の在所を示すがよい」
「ご覧の通りダイナマイトを掛けても大磐石は砕けようともしない。この大岩さえ砕けましたら水の在所はすぐに知れます」
「いやいや、岩の砕けないのがすなわち神の御心なのじゃ!」
二人の議論は土人達の間に電光のように拡がった。迷信深い土人達は迷信深い博士の説に一も二もなく同意した。
そして土人のこの行動が結局大勢を左右してラシイヌ探偵も一行と一緒にこの土地を去らなければならなくなった。そして最初の計画通り濠州を指して第三番目の探検旅行を試みようとサンダカンに向かって引き返した。
私は蕃地へとどまったが、私の蕃地の生活はかなり不自由で寂しかった。
私は終日小屋に籠もって計画について考えた。計画というのは他でもない。ラシイヌ探偵の意見と同じく水の行衛を探すことであった。
私は次のように考えた──
湖水の水が涸れたのは涸らすだけの仕掛けがあったからで決して神秘でも奇蹟でもない。それならいったい何んの理由で湖水の水を干したのか? それは思うに、羅布人の巨財が湖水に隠されてはいないということを、探検隊の人達に証明するためのトリックである。
それではいったい湖水の水はどこに湛えられてあるのであろう? それこそ私がどんなことをしても探し出そうと決心している大事な計画の一つであって水の行衛が知れると一緒にあるいは羅布人の巨財の在所も自ずと知れるようにも思われる。
私はとにかく何より先に有尾人達の住んでいる森林の中へ分け入って私の疑問を試みようとした。しかし不思議にも人猿どもは、私を絶えず監視して森の奥を訪うのを拒絶した。そしてもちろん岩窟の老人も私が森林へ分け入ることを非常に嫌っているらしかった。
そこで私はこう思った──
「何より先に人猿どもを自分の味方に慣けなければならない」
とは云えどうしてなつけたものか最初は考えにも及ばなかったがその内一策を考え出した。私は美味い食物によって彼らを釣ろうとしたのであった。彼らは半分人間ではあったが煮焚きの術を知らなかった。それを私は利用したのである。
ある日私はいつものように自分の小屋の石のストーブで兎の肉を燻ぶしていた。それがすっかり出来上がった時果実の絞り汁に充分浸して小屋から外へ出て行った。
四十二
森林には大勢の人猿どもが彼らの生活を営んでいたが、私を見ると警戒するように互いに何か叫び合った。私は老人に教わった人猿どもの言葉のうち、簡単な単語だけを知っていたので、最初に行き逢った人猿に向かって、
「焼き肉。食え!」
と彼らの言葉でまず元気よく云って置いて持って来た燻肉を投げてやった。その人猿は最初のうちは地に落ちている肉の片を審しそうに見ていたが、とうとう片手で取り上げて口へ持って行って噛み付いたが、生肉の味とは似ても似つかぬ微妙な味に驚いたか、その肉片を握ったまま彼の仲間へ飛んで行き、忙がしく何か喋舌り出した。と一斉に人猿どもは私の方へ眼を向けたが爛々と光るその眼に打たれて私は思わず戦慄した。
次の瞬間には私の周囲を幾百という人猿どもが三重にも四重にも取り巻いて、両手を私へ突き出してじっと私を見守っていた。手に持っただけの肉片を彼らの群の中へ投げ込んで置いて、私は恐怖に襲われながら木の上の小屋へ逃げ込んだ。
私の計画は成功してその時以来人猿どもは私の姿を見掛けさえすれば、両手を前へ突き出して燻肉を請求するのであった。
ある時私は蔓で編んだ大きな籠を拵えたがその中へ燻肉を一杯に充たして最初の旅行を企てた。しかし十町と行かないうちに籠の中の肉は悉く尽き、肉が尽きると人猿どもは歯をむき出して威嚇した。そして私を小屋の方へ遠慮会釈なく追い立てた。それで私はまた空しく小屋へ帰らなければならなかった。
こうして幾日か日が経った。
湖水は依然として空である。水溜りの水も悉く干て水草などは大概枯れた。
無尽蔵にいる兎や狐を狩り取ることもいと容易すければ、その肉を燻ぶることも焼くことも大して手間は取らなかったが、私の目指す森林の奥まで持ち運ぶ方法に苦しんだ。途中で餌物がなくなろうものなら、あの兇暴な人猿どもはまたもや遠慮会釈なく小屋へ追い返すに違いない。これが自分には苦痛であった。
しかし窮すれば通ずという古い諺にもある通り、間もなく私はその困難に打ち勝つ方法を発見した。
荷車を製造るということである。
なんという容易なことだろう! しかしこうやって思い付いて見ればきわめて容易のことではあるが、思い付くまでの苦心と云ったらまたひと通りのものではない。私はこの事を思い付くや否や嬉しさのあまり雀躍した。
私は焼き肉を褒美にして人猿どもを使用した。彼らは私の命令通りどんなことでもするのであった。彼らの爪は鋸であり彼らの犬歯は斧であった。そして素晴らしいその腕力はモーターとでも云うべきであろう。やはり半日とはかからないうちに立派な一個の荷車が出来た。思う仔細があったので、その他に私は一人乗りの筏を一隻製造らせた。二本の櫂も……
それは天気のよい朝であったが、焼き肉を荷車にウンと積み込み筏をその上に引き冠ぶせ、筏の上へは私が乗って、一匹の人猿に車を押させて二度目の旅へ出発した。
人猿は四方から集まって来てひしひしと荷車を取り囲み胡散臭い眼付きで私を見た。その時私は一掴みの焼き肉を後方目掛けて投げつけた。これと同時に人猿の群から鋭い叫び声が湧き起こり、続いて格闘が始まった。落ちて来た焼き肉を拾おうとして互いに争っているのである。元来彼らは食物については仲間同志争った例がない。それは彼らの世界とも云うべきこの広大なる原始林の中に無尽蔵に食物があるからであって、彼らは自分の要求に応じて何んでも自由に得ることが出来た。自然競争の必要もなく格闘することもなかったのである。それだのに一度私が現われこれまで一度も味わったことのない、不思議な食物──焼き肉が、私の手によって投げられた。しかもその肉はきわめて美味でその上制限されていて無尽蔵に食うことは出来ないのである。だからどうしても必然的に食物競争が行われる。そこが私の付け目であって、彼らが競争しているうちに荷車を前方へ進めるのであった。
焼き肉──競争──格闘──前進!
日光も透さぬ大森林を荷車はグングン進んで行った。そして朝が昼となりやがて夕暮れが近付く頃、大森林の涯まで来た。
この森林の果てへ来るのが私の唯一の目的であった。そして森林のこの果てはかつて前方ダンチョンと一緒に道に迷って来た事があった。そしてその時私は見た!
代赭色をした平原を! その代赭色の沙漠の中に一筋堤防のあったことを! そして堤防のその上に二頭の狛犬に守られて神の社があったのを!
四十三
そして私は再び同じ所に社んで沙漠を見ようとしているのだ。
しかし私が森林を出て眼を前方に走らせた時、沙漠も堤も狛犬も悉く水に埋ずもれてわずかに社の屋根ばかりが水を抜け出て輝いているのがハッキリ両眼に焼き付いた。まことにそこには沙漠の代りに湖水が漲っているのであった。
しかし私は驚かない、むしろ予期していたことである。
私は荷車へ飛び上がってあるだけの焼き肉をひっ掴み四方八方へ投げ散らした。そして人猿の叫び声や格闘の響きを後にして筏を湖水へ浮かべたが、二挺の櫂を手に持ってヒラリと筏へ躍り上がり櫂をあやつって辷り出た。
筏はずんずん進んで行く。人猿どもは岸に並んで物凄い叫びを上げながら拳を揮って打つ真似をするが、間を大水が隔てているのでどうすることも出来ないらしい。筏はずんずん水を切って社頭の方へ進んで行く。私の胸は期待に充たされ心臓が劇しく鼓動する。
夕陽、微風、波の囁き──湖水の上は涼しくてどのように漕いでも疲労れない。
筏は社に近寄った。
湖上に出ている屋根の側まで筏が流れて来た時に、そこに一隻丸木舟が纜ってあるのに気が付いた。それに不思議にも社の屋根に人間が一人はいれるくらいの四角な穴が開いていて垂直に梯子がかかっている。
私はこれを眺めた刹那、既に秘密の十分の九まで解決したような気持ちがした。私に何んの躊躇があろう! 独木舟の船尾へ筏を纜ぎそれから屋根へ這い上がった。
それから梯子を下ったのである。
下へ下るに従って射し込む日光が薄くなり全く暗黒になってからも尚下へ下りなければならなかった。私はこっそり心の中でおおよその間数を数えながら下へ下へと下りて行った。
「十間、二十間、三十間……」
と、ここまで数えて来た時に梯子は既に尽きていた。それとも知らず私の足は次の桟木を踏もうとしてハッと空間に足を辷らせ真っ逆様に墜落した。
そして気絶をしたのであった。
私の意識が次第次第に恢復するように思われた。一人の老人が私の前に蝋燭を持って立っている──しかし恐らく幻覚であろう──その老人を囲繞して宝石が無数に輝いている。黄金の兜、黄金の鎧、蝋燭の光に照らされて天上の虹が落ちたかのように燦々奕々と光を放し香の匂いさえ漂っている。
「何んという美しい幻覚であろう」
私は半分正気付いてこう口の中で呟いた。
「なんという立派な老人であろう──岩窟に住んでいる動物学者のあの老人にそっくりだ……幻覚よ、永く消えないでくれ」
私はまたも呟きながら体を起こそうともがくのであった。
気高い老人が重々しく髯だらけの口を動かした。
「気が付いたかな、張教仁!」
私は辛うじて返辞をした。
「あなたはどなたでございます?」
「わしは岩窟の老人じゃ」
「動物学者のご老人?」
「そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう」
私は四辺を見廻した。何も彼も尊げに光っている向こうの隅には黄金の板、櫃の上には波斯絨毯。黄金で全身をちりばめられた等身大の仏の像はむきだしに壁に立てかけてある。その仏像の左右の眼には金剛石が嵌められてあって蝋燭の光に反射して菫色の光を澪している。
「ここはいったいどこなのです?」
「ここは水底の地下室じゃ!」
「宝物庫でございますな?」
「いかにもさようじゃ。羅布人のな」
「え、羅布人でございますって!」
「回鶻人と云ってもよい」
「回鶻人でございますって? ──それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布人の宝庫! 羅布人の宝庫!」
「しかしお前が発見けるより先に私がいち早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ」
「それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?」
老人は黙って微笑した。
「それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?」
「ただわしがそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……」
四十四
老人は静かに云いつづけた。
「凄まじいほどの巨財なのじゃ。ところで今日の世界と云えば物質一方の世界ではないか。そういう世界へこれだけの巨財を仮りに提供したとなったら、その財宝の所有争いで国々で戦争さえするであろう。それを私は恐れるのじゃ」
老人はこう云って沈黙した。私には老人のその言葉がいかにも真理に聞こえたのでそれからは何んにも云わなかった。
老人は自分で蝋燭を取って私の前を歩きながら、地下に造られた四十の部屋をいちいち私に見物させた。
お伽の世界にでもあるような幽幻神秘の宝物庫が、私の眼前に展開されて、見て行く私の眼を奪い計り知られぬその価値に私は思わず溜息をした。
私は発見したのである! 探し廻っていたその宝庫を! 数千年前支那の西域羅布の沙漠に国を建てた回鶻人の一大国家が、基督教徒に征められて国家の滅びるその際に南方椰子樹の島に隠した計量を絶した巨億の財を私は今こそ発見けたのだ!
老人と一緒に船に乗って私は森林へ帰って来た。そして人猿に守られて老人の岩窟へはいったのである。
こうして再び老人と一緒に岩窟で生活するようになった。
老人が彼らに命じたのでもあろう、それ以来私は人猿達に監視されることがなくなった。私は文字通り森林の中を自由自在に歩くことが出来て、老人をこの国の国王とすれば私は副王の位置にあった。
私の生活は安全であり前途は希望に充ちていた。と云うのは老人が口癖のようにこのように私に語るからであった。
「わしは大変年老いている。わしは間もなく死ぬだろう。そうしたら君こそここの王じゃ。ここの国王に成ったからには、あの水底の地下室の一切の財宝の所有者じゃ! 君の随意にすることが出来る」
しかし老人は容易のことではこの世を去りそうにも見えなかった。钁鑠として壮者を凌ぎ森林などを駈け歩いても人猿などより敏捷であった。私も老人の真似をしてよく森林を駈け歩き彼らに負けまいと努力した。
こうして半年が経過した。そして一年が過ぎ去った。
ある日老人が私を呼んで、種々の鍵を手渡してくれた。そしてどうして一日のうちに大水を自由に動かし得るかそういうことまで話してくれた。それは老人の科学思想がいかに発達しているかを証明するに足るところの霊妙を極わめた装置であって、それを私が知った時にはこの老人を敬う念が以前よりは一層加わっていた。
老人は私の手を握った。
「君は明日からここの王じゃ。彼らを愛してやりたまえ。私は少しく休息しよう」
こう云って優しく目を閉じた。その日が暮れて夜となり月が天上に輝いている時老人は安らかに死んで行った。
翌日私達は老人のために新らしい柩を拵えた。夜になるのを待ち構えて小丘の上へ葬った。いつも賑やかな人猿達も今宵に限って静粛であった。空には月が照っている。森林では夜鳥が鳴いている。人猿どもは墓標を囲んで夜が更けるまで蠢いている。
墓場の前で人猿達に、私はこのように宣言した。
「老人に代わって張教仁がこの森林の王となる! それはお前達の誰よりも私が一番利口だからだ!」
人猿どもは首を垂れて私の言葉を傾聴した。私はそこで丘を下りた。人猿達は私を守って虔しやかに歩いて行く。
こうして私はこの日を初めに完全にこの国の王となった。人猿どもはこれまで通りに森林の中で楽しげに暮らして老人のことは忘れたらしい。私の言葉の命ずるままに彼らは怡々として従った。
私は新らしく授けられた自分の力を試みようと、老人の教えに従って一つの鍵を使用した。するとその時まで乾いていた湖水の跡の大磐石が音もなく静かに刎ね上がり、その後へ出来た大穴から沸々と水が盛り上がった。見る見るうちに漲り渡り再び洋々たる湖水の態が私達の眼前に拡がっていた。
人猿たちはそれを見ると森林の中から走り出て、湖岸に立って奇怪至極の彼らのダンスをやり出した。
ここに再び人猿国には昔ながらの平和が帰り、巨財を貯えた四十の地下室は沙漠の砂丘を頭に戴き肩のほとりに秘密の入り口──すなわち狛犬に守られたところの不思議な社を保ったまま落ちる夕陽、昇る朝陽に燦くキラキラと輝きながら永遠の神秘を約束して私の支配下に眠っている。
底本:「沙漠の古都」国枝史郎伝奇文庫26、講談社
1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
初出:「新趣味」博文館
1923(大正12)年3月~10月
※「探検」と「探険」の混在は底本の通りです。
※「烏魯木斎」「庫魯克格」は、それぞれ「烏魯木斉」「庫魯克塔格」が正しい形であると思われますが、底本の通りとしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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