貝殼追放
泉鏡花先生と里見弴さん
水上瀧太郎



 田山花袋氏は里見弴さんを評して「大正の鏡花」と呼んで居る。その他、雜誌や新聞にも「大正の鏡花」は散見した。云ひ出したのは田山氏か、別の人か、自分は知らない。無責任な雜誌や新聞の「大正の鏡花」呼ばはりには、ほめた意味の時もあり、輕く扱つた意味の時もあつたが、田山氏の場合は、明かにほめた意味では無かつた。恰も「文章世界」の投書家の小説を評して、「大正の花袋」だと云ふのと同じ程度のものであつた。

 今更言ふ迄も無い事だが、泉先生は明治大正にわたつての偉大なる作家である。自分は常に斯う思ふ。若し先生が西洋に生れたとしたら、先生は世界的の作家として喧傳され、日本の飜譯家達は、先を爭つて誤譯だらけの飜譯をするに違ひない。不幸にして先生は、他國の人には讀み切れない、やゝこしい言葉の國に生れた爲め、敏感なる歐羅巴の文藝批評家に鑑賞の歡喜を與ふる事なく、鈍感なる此の國の西洋盲拜者流から、屡々誤つた批評を受ける事になつた。

 里見弴さんが勝れたる作家だといふ事も、既に喋々する必要はなくなつた。乍併しかしながら里見さんの場合にも、鈍くて押の強い連中は、屡々間違つた批評を浴せかける。「大正の鏡花」の如きも勿論その一例である。

 凡そ一流の達人は、その道の藝の巧拙を見誤る事が殆ど無い。泉先生が常に里見さんの作品のいいところと出來損つたところとを、痛い程明かに指摘されながら、しかも弴さんの冴えた手腕うでを推稱して、現代並びなきものとして居られるのは、かくれもない事實である。里見さんが泉先生に敬服し切つて居る事は、新著「慾」を獻じて居る事によつても、世の中に知れわたつて居る筈だ。

 さうして此の御兩人が、親しいおつきあひをして居られる事も事實である。けれども「大正の鏡花」に至つては、泉先生も里見さんも、お互に迷惑を感じるに違ひ無い。

 泉先生の藝は弴さんの所謂はらの藝である。斷つて置くが、茲に肚の藝とは、確固たる自己の世界を把持して動かない人の藝を謂ふのである。由來僞物の藝は容易に眞似する事が出來るが、肚の藝はさうはいかない。以前は、泉先生の眞似をする人間が隨分澤山あつたが、到底とても眞似切れなくなつて、影をひそめてしまつた。里見さんの藝も肚の藝である。相手がどんな偉い人だらうが、好きな人だらうが、その人の眞似なんかしようとは思はない人間である。若し眞似をしようと思つたら、お手本よりも一枚上手うはてに出て、まんまと自分の肚の藝にしかしてしまふに違ひ無い。さういふひえもんを持つて生れた人だ。

 かう書いて來ると、勢ひとして、御兩人の作品の相違する點を眞赤になつて論じなければならなくなりさうだが、それは餘りわかり過ぎた事で馬鹿々々しい。自分はその馬鹿々々しさを避ける爲めに、最近に拜見した御兩人の作品各一篇を選んで、その作品から受けた感激に醉ひながら、且つ作者の特點を明かにしたい。

「伯爵のかんざし」は、大正九年一月號「婦女界」に掲げられた泉先生の新作である。元來先生の作品は、部分的には冴えた客觀的描寫の手腕を見せながら、大體の構想と仕組は物語風ナレエテイブである。單純に、あるが儘の世相を描寫するのではなくて、一篇の骨子を成す物語の開展に大部分の興味を置くのである。而して又、あるが儘の世相を、如實に物語る事は先生の興味の埒外であつて、あり得可からざる事を、あるが如くに物語る事が先生の獨特の世界なのである。

此のもの語の起つた土地は……

 と冒頭の一句がおのづから示してゐるやうに、「伯爵の釵」も亦物語である。同時に又、あり得べからざる事を、あるが如くに物語る小説なのは勿論の事だ。

 一年あるとし、激しい旱魃のあつた眞夏、女優村井紫玉を主とした新劇團が、北陸の都で興行して、人氣を博した時の事である。美しい女優は人目を避けて市中の見物に出た。公園の下の宮の境内の、高い手水鉢を𢌞つて一人の稚兒が水を求めてゐるのを見て、紫玉は斯うして飮めば仔細は無いよといひながら、溢れる水を唇にけて見せたが、稚兒は、手を淨める水にくちつけるのを咎めた。おもひあがつた女優は、稚兒の口巧者を生意氣がつて、その頭を掌で叩いて見返りもせずに去つた。扨て公園の岡の茶店に憩ひながら、先刻の稚兒の事が不圖ふと胸に浮んだが、その稚兒が男だつたか女だつたか、はつきり記憶おぼえてゐなかつた。稚兒のゐた宮は浦安神社と呼んで、女神か男神かは知らないが、水を司る神なのであつた。時にその茶店の前に、墨染の法衣も破れた僧形の門附が來て膝まづいて虫齒に惱む口中へ、禁厭まじなひとして、紫玉が曾てさる伯爵に贈られた釵を揷入れてくれと嘆願する。斷り切れずいふがまゝにしたが、扨てこの後で釵には、坊主が口中の惡臭がまつはりついてしまつたので、紫玉は瀧壺に投捨てた。しかもその釵は同日に同じ公園の池の鯉魚の腹から出て、女優の手に戻るのである。その夜再び逢つた門附は、先刻の禮心に、近く雨の降る事を豫言し、それを利用して雨乞の一幕を演じ、いやが上にも名を擧げよと教へた。教へられた女優は、さまざまの事の不思議に神異を信じる心になり、芝居がゝりで雨乞をしたが、雨は降らずに嘲罵の的となつた。口惜さに身を恥ぢて、さかしまに池に身を投じたが、氣の付いた時は目の前に、門附の坊主がゐた。氣高い貴女を見た。貴女は浦安の宮で見た稚兒に寸分違はぬ、水を司る神であつた。坊主はかしづく下僕しもべであつた。さうして女優が身を投げたと思つたのは池ではなくて、神意によつて車軸を流す豪雨だつた。

 間違つてゐたら、面目ないが、これが一篇の物語の筋である。何もそんなに下手な梗概を述べるには及ばないといふだらうが、自分は自分の批評の筆を進める爲めの便宜上、特に味もそつけも無い略筋を勝手に書いて見たのである。

 此の水上瀧太郎作る所の梗概を讀む人は「伯爵の釵」の荒唐無稽に驚くだらう。驚かない者は、その馬鹿々々しさにあきれるのだらう。乍併しかしながら、去つて泉先生の描出した「伯爵の釵」を讀め。勝れたる感覺を持つ讀者の目の前には、此の荒唐無稽の筋書が、空氣は浮動し、日輪は東から西へ𢌞り、瀧は轟き、池は波立ち、鯉は躍り、雨は車軸を流す光景となつて、あり得可き神祕境を展開する。花を描いて香を想はせざるは未だ達人の藝では無い。女優の身じろぎにつれて、その身につけた香料は、遠慮無く讀者の鼻を衝くであらう。

 これを呼んで、内容無き技巧といふものはあたらない。不幸にして泉先生は、世の中のぼんくら批評家の爲めに、無益に勝れた技巧を持つ作家だと誤り呼ばれる事が多い。自分は茲に文藝の作品の技巧の問題について論じようとしてゐるのではないが、凡そあらゆる藝術が、表現によつて初めて作品としての存在をかちうるものである以上は、内容と離れた技巧なるものの存在しない事は明白である。或作家の技巧が生きてゐるか、死んでゐるかは、如何にその内容を、適確に表現し得たか得なかつたかによつて定まるのである。東西古今偉大なる藝術家は偉大なる表現能力即ち勝れたる技巧の所有者だつた。彼等は凡人よりも強く深く感じ、凡人よりも鋭く表白する。悲みにしろ、喜びにしろ、他人のはかり知る事の出來ないところ迄味はひ盡す。その境地迄行く事の出來ない者から見れば、屡々それが嘘に見える程、彼等と衆愚の間には距離がある。

 泉先生の場合に於ても、自分の如きは、あり得可からざる事をあり得可き事のやうに描く作家だと評したが、それは凡人の場合からいふ言葉であつて、實は先生自身にとつては、先生の描く世界はあり得可き世界なのだ。必ず存在する世界なのだ。一昔前、或雜誌に出た先生の談話に「黄昏の國」を論じたものがあつた。それによると、此の宇宙の間には、晝と夜との世界の外に、未だ吾々の知らない黄昏の世界がある。時にふとその「黄昏の國」を覗いた者は、神を見、佛を見、妖怪を見る。神も佛も妖怪も、その國には常に姿を現はしてゐる。たゞ吾々の世界にいい氣になつてゐる者の目には、うかゞひ知る事が出來ない丈だといふのであつた。これは單なるお話では無い。先生はかたく信じてゐる。さうして此の信仰が、先生の作品をして荒唐無稽な物語におちいらしめず、吾々の想像が描出し得る神祕境を披瀝するのである。

 自分は泉先生の作風を評して物語風だといつた。乍併それは輕い意味に於てのお話とは全然違ふ。お話は口のさきでしやべる丈でも事は濟むが、先生の物語には、前提として、先生の目に映じた幻影ヴイジヨンがなくてはならない。それは實在に等しい。近頃流行はやるやうな、昔の英雄、美人、高僧、盜賊等の逸話に、無理に近代的問題をつけ加へた小説のやうなのは、あれは心理解剖の遊戲で、お話の部に屬す可きものだ。泉先生の場合に於ては、假令たとへ神を描いても、その神は昔話の神ではなくて、吾等と共に存在する神なのだ。

 神は確に存在すると先生は信じてゐる。さうして先生の神樣は、最も人間に親しく人間の如く無邪氣に人間の如く我儘に、人間の如くいたづらな神樣である。「伯爵の釵」の女神もよく之を立證してゐる。此の無邪氣にいたづらな女神の前に、おもひあがつた女優が現はれたのだもの、からかはれ、こらしめられ、可愛がられないでは居られない。自分は女優が女神の前に現はれたのだと云つた。「伯爵の釵」の主人公は、女優ではなくて女神である。女優のしたあらゆる事が、殆どすべて見通しに女神によつて見透みすかされてゐる。先生の神に對する憧憬と、近代的の女性に對する輕侮はかういふ處にも覗ひ知る事が出來る。

 それでも村井紫玉の如きは、平生人間を大別して好きな人間と厭な奴、善玉と惡玉に類別する惡癖のある泉先生としては、隨分いたはつてやつた方なのであらう。先にもいつた通り、その作風は物語風で、作者は始終作品の中に顏を出し、勝手氣儘に好嫌すききらひから出立する鼓吹と罵倒をちやんぽんに出して憚らない先生が、元來嫌な束髮を餘り甚しく滑稽化しなかつたのは難有い。

膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、擧つて座中の明星と稱へた村井紫玉

 とかき出して、

髷も女優卷でなく、わざとつい通りの束髮で、薄化粧の淡洒あつさりした意氣造。形容しなに合はせて、煙草入も、好みで持つた氣組の婀娜あだ

 と先生は何時の間にか、自分の好みの女にしてしまつた。これが後に、雨乞の場になると、

扨て、遺憾ながら、此の晴の舞臺に於て、紫玉の爲に記すべき振事は更にない。渠は學校出の女優である。

 と本音を吐き、

須臾しばしを待つ間を、法壇を二𢌞り三𢌞り、緋の袴して輪に歩行いた。が、此は鎭守の神巫に似て、然もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威嚴を損じた。

 と冷嘲して居る。感情の強い作家は、紫玉に對して持つた好感を忘れて、平生一般新劇團の女優に對する忌々しさを、せめてもの腹いせに持出したものらしい。かういふ惡いいたづらは、先生の作品には絶えず現れて、吾々を冷々させる。其處に先生の作品に、屡々破綻を見る事は否定出來無い。

 乍併、いつたん女優が靜止の状態を離れて、動けば動く程活々として來るところは、誰が何といつても及び難い藝である。例之、艶なる女優が瀧に臨んで、白金プラチナの釵を投げうつところ、其處には作者が常に好んで描く人間の意氣が爽かに動いてゐる。例之、芝居がゝりの雨乞に失敗して、恥辱に堪へられず身を沈めるところ、其處にはおごれる者の一朝にしていたましく傷ついた姿が殘酷ともいふ可き程鮮かに浮び出してゐる。何故に先生は人を描いて、靜止の姿よりも活動の姿に妙を盡すかといへば、それは先生自身は意識しない事に違ひないが、驚く可き印象的描寫の力なのである。換言すれば、好んで自分の主觀的色彩を作品に出す先生は、實は客觀描寫の極致に達して居るといふ事なのである。先生の印象的描寫は、單に色彩を強烈に描くばかりではない、音響を描き、香氣を描き、殊に動作を描いて遺憾が無い。三人の女優が池に舟を浮べて、底知らぬ水の渦卷に脅されて立騷ぐところもいゝが、就中先生の印象的筆致の代表的の手本ともいふ可きは、女神昇天の一節である。

かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧なる巖の聳つ崖を、翡翠の階子を乘るやうに、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる曠野の中をタタタタと蹄の音響ひゞき

 何といふ壯大な景色だらう。自分は此の一節を讀んで息が詰る程感嘆した。繪具も樂器も、果してこれ丈の色彩と音響を傳へる事が出來るだらうか。

 これは昇天の女神を幻に見るが儘に描いたものであらうが、同時に又、天地を靜めて降る豪雨の人格化と見ても差支へない。要するに此の凄じい景色の中に、一度死を決して池に身を投じた女優が、倒れ伏して居るのである。靈氣に打たれて新なる生命に蘇生よみがへる事は疑も無い。かういふ解釋をする時には、先生の小説は極めて象徴的なものになつて來る。それが正しい解釋か如何どうかはしばらくおき、いづれにしても先生の作品の不思議な魅力は、その内容の幽幻を、白日の光よりも強く輝かしく描き出す印象描寫の冴にあるのである。此の特點を嘆稱する吾々は、何時いつか一度先生が、おもひ切つて現實的な事柄をありの儘に描いて見せてくれないだらうかといふ慾を抱き度くなる。

 乍併先生は、恐らく承知しないだらう。何故ならば、此の一篇によつてもうかがひ知られるやうに、先生の創作の興味の大部分は、人の企て及ばない不思議を描く事、その不思議を描くのに、變幻極まり無きこんがらかつた綾を見せる事にあるからだ。浦安の宮のきざはしの傍に立つ、紅の手綱、朱の鞍置いた、つくりものの白い神馬は、やがて後段の昇天の馬の姿である。その宮の前の御手洗みたらしに水を求めた稚兒は、旱魃を救ふ爲めの女神だつた。殊に作者が案を得た時膝を打つて喜んだらうと思ふのは、その稚兒が男だつたか女だつたか記憶が朧になつて、考へ迷ふところであらう。茶店の主人の言葉によつても、浦安の宮の神は、男神か女神かわからなかつたのだ。時に甚しく全體の作品の効果よりも、部分的の冴に夢中になつてしまふ泉先生は、此の一節に全力を盡したに違ひない。先生自身の最も好まれる、人の意表に出る興味が躍然として現れてゐる。何時いつもながら先生は、平坦なる途を選んで誤り無き事を心懸ける作家でなく、人の難しとするところを敢て爲途げて見せようとする冒險的技巧に終始する作家なのだ。

 冒險的の技巧を喜ぶ點に於ては、里見弴さんも亦泉先生にひけをとらない。さうして此の特徴が、「大正の鏡花」の原因となつてゐるのらしい。乍併第一に、弴さんは、泉先生の如き物語を專一とする作家ではなく、或特殊の状態に置かれた人間を、さまざまに觀察し解剖し盡したあげく、あくどい程鮮かに描出さうとする作家である。時にはそれが、單に或場景の描寫丈で終る事もある。さういふ時には、作者は場景が思ふまゝに描けて居れば滿足なのであつて、特に戲曲的な事件の發展や大團圓などは問題の外にあるのである。くどくどした説明を離れた描寫の冴は、茲に再び「大正の鏡花」の間違を引起しさうだが、眞にいきいきした描寫をなし得る僅少の作家の中に、先づ第一に並んで數へらるべきは此の御兩人である爲め、期せずして似通つた味を持つ時があるのであらう。

「彼と小娘」は、大正九年一月號「新小説」に出た里見弴さんの小説で、短い三つの場面と、更に短いはしがきから成立つてゐる。

十八九で女を識つてからも、一度も年下のものに目をくれたことはなかつた。可愛がられる、といふ、受身の享樂しか彼は識らなかつた。

 その彼が二十二の夏、六つも年上の女の許に流連ゐつゞけした時の場面が先づ目の前に浮んで來る。いかにも鮮明に、おいらん臭いにほひがむつと鼻をつく程十分描き出されて居る。驚く可き細かい描寫であると同時に、驚く可き大膽なる省略法を用ゐて居る。しかも此の人間を觀察し、人間を描き、徹頭徹尾人間に執着してゐる作者は、景色を描く場合にも、決して人間を忘れ無い。おまけにいつもの通り、おそろしく性慾的エロテイツクだ。殆んど挑發的だと云つてもいい位肉體の觸覺が描かれてゐる。例之、鐵の棒におつつけてゐた額、十四になる小娘のたべてやりたい頬邊ほつぺた、上新の皺だらけな足頸、人形屋の店さきに投げ出してあるやうな足が二本。

「よく肥つてるねえ。」

「あなたは痩せててちひさいわね。」

 といふ直ぐ後に、

「おんぶしてあげませうか。」

 と續けて小娘に云はせたうでには敬服した。ここのところで、

「おんぶしておくれ。」

 と男に云はせては、まるつきり其場の景色が出て來なくなる。小娘の方からおんぶしようといひ出したので、ダラリと足が引きずつたまゝおんぶされた男が、

「大丈夫よ、足をちぢめなさいよウ。」

「かうか。」

 と股をわつて、意識して膝頭で娘の腿を締めつける段取が生きて來たのだ。名人の藝に違ひ無い。

 男はその小娘を、小娘に對する特有の慾情の危機迄行きながら逃がしてしまつた。

 次は郊外の貸家の場面になる。

三四年のちのこと、彼は、相變らず年上の女との關係で、暫く二人で世を忍ぶために、郊外に貸家を見つけてゐた。

 此邊に出て來る十四五の、髮をお下げに編んだ娘も生きてゐる。野菜畑の間をピヨン〳〵飛びながらやつて來る、安つぽくて可愛らしい姿は極めてエロテイツクだつた。夜の暗がりよりも、晝の暗がりは更に變な心をそゝるに違ひない。しかも空家の中だ。殆ど名人の書いた上品な春畫の趣きを備へてゐる。小憎らしい程うまいと思つた。

 男はその小娘と、再び危機に迫りながら、又しても逃がしてしまつた。

えゝもう破れかぶれだ!

 と思ひながら、自分の心を見透かされてしまつた。心持の上ではさきが上手うはてだと感付いて、忽ち逃足になるところが素敵にうまい。かういふ細かい、皮肉な、心の變化を捕へる事は、弴さんの最も得意とするところで、屡々此の作者の作品は、始めから終迄此の心持の鬪爭ばかりで持切る事さへあるのである。此の點に於て、極端に單純に、一本調子に惚れたり、恨んだりする泉先生の作中の人物とは、甚しく違つてひねくれてゐる。

 突然場面は山中になつた。吉原では三郎さんと呼ばれて、いかにもその名が三郎さんでこそ、おんぶしたり小娘におびえたりしてもしつくりはまると思はれた男が、何時の間にか、草艸紙に出て來る曲者のやうな旅商人になつて現はれた。どう考へても三郎さんらしくない。肚の藝が少し下り腹になつたのだ。しくしく痛んで來たかたちだ。とはいふものゝ、切放した一場面として見る時は、これも亦冴えたうでを見せたものである。

汚れた吸取紙色をした腰卷をだし、手拭だけ新しいのを被つた、十四五の田舍娘

 を犯さうとする、

大名縞の薄汚れた袷を着て、木綿博多の帶に尻を高々とからげ、鼠色になつた白の股引に脚絆、手甲、草鞋ばき、

 の男の立𢌞は、愈々景色を明瞭に描き出した。一層春畫の趣を増した。

 男はこの小娘を、ひつくりかへすところ迄行つたが、又してもしくじつてしまつた。

片頬に幾筋も縱皺をよせて苦笑ひながら呟いた。

にがてだなア……

 作者は最後におちをつけて、此の色彩の鮮明な、巧緻を極めた繪本を閉ぢた。

 自分は此の短篇によつて、豫而かねて弴さんがこころざした描寫の冴は完成したものと思つた。勿論思想的に偉大な作品ではないが、そんな事は作者が覘つたところではないから構は無い。要は作家が描かうと思つた丈の事は、完全に描けてゐるのである。此の點に於て、「彼と小娘」は弴さんの傑作の一に數ふ可きものである。但し前にもほのめかして置いた通り、三郎さん一人に對する三人の小娘の、それぞれ異つた場面を見せる爲めに、特に選んだ景色の中、第三のものは餘りに脈絡が無さ過ぎてをかしい。繪本を見せるやうな書振では、三郎さんが苦み走つて來る迄の經路が示し切れない爲め、甚だ唐突の感がする事になつた。邪推すれば、作者の冒險癖が、たまたま手傷をおはせたものであらう。此の冒險好と關聯して、弴さんは又頗るつきのいたづらつ子だ。一事一事に、何かしら目新しい形容をつけなくては承知出來ない。數へればきりが無いが、その中の傑作と思ふのは、吸取紙色の腰卷である。但しこれも、此の場に於て最も選ばれたる形容かといへば、實は寧ろそぐはないものだと答へ度い。旅商人も、小娘も、芳年よしとしの繪にでもありさうな景色なのに、突然舶來の色彩が滲んで來たやうで吸取紙は似合はなかつた。たゞそればかりを切り放してみた時、いかにも弴さんが嬉しさうに微笑しながら想ひ浮べた洒落らしくて面白いのだ。

 最後に注文を出して置き度いのは、此の甚しく挑發的な、色彩の豐富な繪畫を文字で描き出す手腕を揮つて、更に一層濃艶なものを書いて貰ひ度い事だ。實は、以前から時々考へてゐる事だが、弴さんの作品には、變態性慾と殘虐性の興味が甚だ強い。それは谷崎潤一郎氏のやうな意識的なものではなく、不知不識に本性をあらはしたともいふ可きものに思はれる。「彼と小娘」の如きも、大いにくすぐつたいものではないか。弴さんもつて如何となす。

 終に臨んで、自分が甚だ遺憾に思ふのは、いろ〳〵の事情で、最初自分が企てた批評とは全然違ふ粗末なものが出來上つてしまつた事だ。泉鏡花先生並びに里見弴さんにも紙上に於てあやまつてしまふ。そのかはりにあんまり叱らないやうにして頂きませう。(大正九年一月十五日)

──「人間」大正九年二月號

底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店

   1940(昭和15)年1215日発行

初出:「人間」

   1920(大正9)年2月号

入力:門田裕志

校正:岩澤秀紀

2012年513日作成

2012年817日修正

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