創作生活にて
牧野信一



 窓下の溝川に蛙を釣に来る子供たちが、

「今日は目マルは居ねえのか。」

「居ないらしいぞ。」

 などと、ささやき合つてゐるのを聴いた。

 さういふ俗称の蛙がゐると見える、いつたい何んな蛙の謂なのか──と私は、読みかけてゐた本を顔の上に伏せて、蚊帳のなかで耳をそばだてた。二三日前に押入の隅から取出した幼児の褓〓(「ころもへん+呂」)蚊帳だつた。この貸家の先住者が忘れて行つたものらしい。洋傘の式で紐を引くと、四ツ手網のやうにパツと拡がるのであつた。川トンボの模様が薄墨色で描かれ、水のすがたが乙字型に流れてゐる。私は、稍々ともするとこんな蚊帳をかむり、手脚を極端に縮めながら、不可能なる夢と争つた。

 ……「やあ、目マルは寝てゐるんだよ。」

「ほんたうか……」

「水鉄砲でおどかしてやらうか。」

 声だけで私は、あれは岡本屋の倉だ、鍛冶屋の庄だ、酒倉の伝だ──と聴きわけられるのだ。普通に、このあたりでは人の名前を一字に略して呼び、敬称は付け足さず、或ひは仇名が平気で通用してゐた。いつも私は、蛙を苛める子供たちを見つけると、窓から半身を乗り出して大声で呶鳴るのであつた。それ故、村のいたづら子たちとは、次第に敵味方で、彼等は机の前で苦気な顔つきを保つたまゝ、主に窓の外ばかりをぼんやりと眺めてゐる私に溝の向うから挑戦して来るのであつた。田舎の子供たちの、悪いたづらや執拗な悪づれは言語同断で、事毎に私は癇癪をたかぶらされた。中でも倉や伝は、生意気の司で、聞くに忍びないやうな卑猥な言辞を弄して通りがかりの娘などをからかつた。その癖、成人おとなの姿に面と向つて接すると、はにかみなのか低脳なのか察しもつかぬのであるが、土竜のやうにむつつりとしてしまつて、ものを尋ねても返事もしなかつた。私は坂下の倉の店に飯を食ひに行くので、そして私はどちらかといふといつも少年に親しみ深い方なので、酒飲みなどには向はずに、倉の相手にならうとするのであつたが、彼は恰も疑ひに満ちた眼でぴつかりと此方の顔を眺めてゐるばかりで断乎として口を利かなかつた。

「唖なのか?」と私は云つたことがある。

「このガキは内気なんだよ──。おツさんが銭やるつてよ、倉──」

 母親がそんなことを云ふと、倉は私が銭を与へるまでは動かなかつた。

 親父がバリカンをつかつて倉の髪を刈る時は、まるでドラ猫を絞めるやうな騒ぎであつた。倉の木槌さいづち型の頭は虎斑で、シラクモが蔓つてゐた。

「野郎、もう少し凝つとしてゐねえか。」

 親父は倉の首根つこを鷲掴みにして、じやくじやくとバリカンを動かすのだが、屡々舌を鳴らして、頭をはつた。すると倉は、蟹のやうに歪めてゐる顔つきの中で、赤い口をカツと開くと、

「動かずに居られるけえ。ケバが襟ツ首に一杯ぢやねえかよ。払つたらどうだい?」

 などと父親の拳固などは怕る気しきもなく喚きたてるのであつた。私はそんな光景を眺めると大概刈手の方へ反感を持つのが常なのに、倉の場合に限つては、その顔が歪めば歪むほど胸のすくおもひで、態ア見やがれとでも嗤つてやりたい位ゐだつた。親父が癇癪を起して、もつと力一杯、あのデコスケ頭を擲つてやれば好いのに──そんな馬鹿なことを思ひながら、白々しく騒ぎを眺めるのであつた。そんなに、どつちも辛いのなら金をやるから理髪店へ行つて来るが好からう──斯ういふことを云ふと親も子も悦んで中止するのであつたが、この頃では私はわざと知らん振をした。三銭でバリカンを借りて来るといふのであつた。

「痛いなア──不器用!」

 倉が口汚く罵つても、親父はもう別段憤らうともせず、ぷツぷツと襟首の毛を口で吹きながら仕事を急いだ。

「倉、お前えのあたまは、山焼のあと見てえだな。」

「目マルの奴、もうせんには床場賃を呉れたのに、この頃はケチになりやがつて……」

「シラクモさへなければ、俺ンちで剃つてやるつて云つてるぞ。」

 伝は青い西瓜頭である。ずんぐりとした倉と反対に、色艶の悪い腺病質の体格だが、蔭だけでは非常な饒舌なのにも拘はらず、やはり決して私には馴れなかつた。そして彼は間断なく口笛を高調子に吹き鳴らすのが癖だつた。庄は、いつも猿又ひとつの素つ裸で、赤ン坊をおぶつてゐたが、空身の者よりも素早く活躍するのだ。そして喉が自慢で、子守唄の代りに恋歌の俗謡をうたつた。だが、その自慢は自惚れに過ぎず(尤も岡本屋に集る酔つ払ひ達は口を極めて推賞し、彼が覚えて来る流行歌に耳を傾けたが──)、まるでカンの違つた金切声で、私は胸を掻き毮られた。

 それにしても私だつて、この三人組を特に憎む心などはあり得よう筈もなかつたのに、他の子供たちは次第に馴れて将棋盤や玉ころがしなどを携へて宵のうちには遊びに来るやうにもなつてゐるのに──何故か彼等は、垣の外からばかり遠巻になつて、私の邪魔を謀るるかのやうであつた。

「倉たちが途中に待伏せして、石を投げつけるから……」

 遊びが済んで帰る刻限になると、斯んなことを云ふ者さへ次第に数を増した。私は手提ランプを点じて、ひとりひとりを門口まで送りに出ると、成るほど暗い畑の中から、石を投げたり、異様な鳥の鳴き真似などを挙げて悸しかかつた。伝の口笛と庄の擬声とで合奏する奇怪な音響は、暗い田舎道に臆病なせゐか成人の私でさへ慄然とするが如き不気味な調子だつた。

 やがて、溝の上を棒切で叩いたり、石ころを投げつけたりする騒ぎといつしよに、伝は調子を合せて百舌のやうに口笛を鳴らし、庄は不思議にこましやくれた音声を張りあげて、何かの乱闘の場面でもあるらしい浪花節を唸つた。

「蛙なんて苛めるなツ。やかましいぞツ。」

 私は、思はず蚊帳を蹴上げて叫んだ。

「やあ、目マルが起きたぞツ。」

 倉の声だつたが、もう三人の姿は見えなかつた。──目マルとは俺の仇名だつたのか! と私は気づいた。さう思つて見れば、さつきだつて倉が目マルの奴が何うの斯うのと喚いてゐたが、自分のこととも知らずに上の空で聞いてゐたのが、一層私は向つ肚がたつて、

「いい加減なことを云ふな。馬鹿野郎!」

 と震へ声で叫んだ。

 青葉の木の間を転げるやうに逃げてゆく伝が、嘲りの口笛を鳴らし、倉が、

「マル、マル、マル……」

 と私の飼犬の名を呼んだ。

「目マルの怒りんぼう。手前えの蛙ぢやなかんべえ。」

 彼等は口々に、目マル、目マル──とはやしながら姿は見せぬのだが、それよりも私は奴等にマルを誘はれてはならぬと慌てて、

「マルツ、マルツ!」

 と癇のたかぶつた声を発して呼び戻したがつた。マルは振り向きもしなかつた。マルは私よりも余計に倉たちに狎れてゐた。

「おうい、倉ア。──マルを伴れてつてはいけないぞ。怒りはしないから、マルを置いてつてくれ。」

 私は寧ろ頼むやうに大声を発したが、一向に反応もなかつた。私は、凝つとしては居られぬので、いきなりと上草履のまま窓を乗り越え溝川を跨いで追跡を試みた。

「今日こそは、何うしても奴等をつかまへて、あぶらを絞つてやらなければならないぞ。」

 いつも、さあ仕事をはじめようかといふところになると斯んな騒ぎが起つて、台なしにされてしまふんだ。これでは恰で、奴等と喧嘩をするために、わざわざ斯んな辺鄙な田舎に家をもとめたやうな始末ではないか──私は、じめじめとする暑さにとり逆せて心底からの憤激に炎えあがつた。

 桑畑を抜けると白い街道が、河原へ向つて一直線に通じてゐる。

「よしツ、この道なら何処にも隠れ場はありつこない。追ひ詰めるまでだ。」

 庄はこの日に限つて子供を負うてゐなかつた。三人とも猿又ひとつの素つ裸で、跣足で、宙を飛ぶバツタのやうに行手の道に跳びあがつては駆けてゐた。そして、殆どもう顔かたちも定かではない遠方ではあるし、到底もう私などにはつかまりつこはないといふ自信に満ちて、股目鏡を構へて追手を覗いたり、踊りををどつてさしまねいたり、悠々たる戦人の見得をもつて額に手を翳して眺めまはしたり、大きな髥を腕一杯の大きな八の字にひねりあげる真似を示したりした。細い伝の姿がわずかに見分られる程度だが、それも入れ交つて、汗の垂れて来る私の眼には確とは判別も適はなかつた。それを彼等も自認して、さういふ場合だけ発撥する大胆さと活溌さを縦ままに、様々な悪罵を放つた。加けにいろいろな作り声をするので、全く誰が云ふのか聞きわけもつかぬが、事毎に、目マルの馬鹿野郎とか、目マルのしみつたれとか、目マルの薄鈍野郎などといふ声が鮮明だつた。そんな仇名ぐらゐ驚きもしないが、あまりにしちくどく同じことを繰り返されると酔つ払ひの嫌味言と差別なく肚がたつて来る。──然し私がそんなに夢中になつて彼等を追ひかけはじめたのは、云ひ後れたが、ただそれだけの憤懣からではないのだ。彼等は私が厭がれば厭がるほど巧みに私の眼を盗んで、マルを伴れ出すと、途方もない虫ケラなどを囮にして、ちんちんとか、おあづけなどといふ類ひの芸を仕込まうとするらしいのだ。もともと私は、犬のそんな類ひの芸当は、見るも嫌ひなのだ。加けに同居者と云へば、その犬の仔一匹であるためか、いつの間にか私は余程の愛着を覚えてゐて、それが、いたづら子たちにとりまかれてそんな芸当を覚えさせられたら堪らぬ──と、私は常規を脱して、迷信的に辟易しさうだつた。ともすればタンタレスの拷問にかかつてゐるが如くに自分の上を想像して厭世的になり勝ちの私は、この上眼の前で自分の犬からそんな芸当を見せられたりしては不吉この上も無い──と考へた。第一彼等は決して常套なる餌食を与へようとはせず、蝉などを用ひて、犬の歓心をたぶらかせた。

 そればかりでなくマルは未だ確固たる飼犬と定つてゐるわけでもなかつたのだ。

「若し、僕が旅から帰つて来た時に、あなたの方に狎れてゐるやうだつたら、そのまま飼ひつづけて貰ひます。僕は、この犬に対して自分の或る運命を占ふ考へを抱いてゐたのですが、再び僕が戻つて来た時にこれが完全にあなたのものになつてゐたら、それはそのなりで、僕はまた新たな信念を持ち直す予備はつくつてあります。」

 若い作家の谷川龍太郎の所存は私の腑に落ちぬところもあつたが、親しい間柄で、作家としての気儘に関しては、私は常に有無もなかつた。私は彼の幾つかの不思議な詩魂に充ちた作品を傑作として認めされ、その前途に関しては満腔の期待を寄せざるを得なかつた。──何も彼も打ち棄てて、仕事の旅へ赴くといふ彼がマルを抱へて遥々と私を訪れて来たのは、未だ私がここに移つて間もない春先のことだつた。あの窓先は一面の桜林で、花見隊の仮装行列で賑はつてゐたころだつた。その日は丁度、達磨の仮装隊が、バンドの唱歌に節を合せて、腕を振り、脚をそろへて身振り可笑しく繰り込んでゐた。桜林のあちこちからは、行列の練り歩くに伴れてドツといふ哄笑のざわめきが捲起つてゐた。籠目でつくつた真赤なる大達磨を被つた一隊は、おそらくは達磨も花に浮れて手を出し脚を伸し──といふ趣向なのだらうが、逞ましい腕を宙に振り、馬のやうに精悍な脛も露はに、節面白く踊り出した光景は、まことに観る者の胸をも浮き立たせずには置かなかつた。

 私は、いつものやうな佗しいおもひで窓に凭りかかつて、浮かれ達磨に追ひかけられた綺麗な娘が悲鳴を挙げながら逃げ出すさまなどを、うつとりと眺めてゐた。──すると、その目も綾なる花吹雪の中に、何処から迷ひ込んで来た悲劇の主人公であるかのやうな、顔の蒼白い、丈のひよろりとしたひとりの青年が眼鏡を光らせながら、いかにも一心さうに傍目も触れず人々をわけて登場して来た。彼は帽子もかむらず蓬々とした髪の毛を額に垂し、紺絣の着物の胸を大切さうに両腕で抱へながら、夢中で何ものかを探し索めてゐるかの様子であつた。彼は常々夥しい近視眼で、真向のものをねらふやうな前かがみに愴惶しい大股ですすむのが癖だが、まはりがそんなけしきであつたせゐか、その姿が、如何にも危急を告げる非常な人物の動作であるかのやうに私の眼に映つた。私も思はず胸が鳴り出して、

「ああ、あれは俺の友達だ、俺を訪ねて来たに相違ない。」

 と呟くのだが、何うしても彼の名前が浮んで来なかつた。彼の作中に現れる様々な人物は、孰れも遠方の夢から霧を衝いて立現れたやうな在り得べくもない姿でありながら、如何にも在り得べき面白さを髣髴とさせるおどけて蒼ざめたる空想の人形だつたが──彼のその姿は、やはりはつきりとして、その作中の人物にそのままと見えた。

「多々羅──多々羅……」

 私の口を突くのは、彼の或る作中の人物の名前だつた。漸く彼は気づいて、一気に私の窓まで駈け寄ると、

「僕の犬を当分預つて呉れませんか。」

 と苦しいものでも吐き出すやうに云ふのであつた。そして赤毛の縫ぐるみの玩具のやうな仔犬を、ふところからとり出した。

「僕が突然斯んなところに来てしまつて、驚いたらう。でも好く居所が解つたものだ。」

 私は一年振りかで見る彼に、久闊を述べる意だつたが彼は、鳥のやうな無表情で、

「ああ未だ、これには名前もつけてなかつたな。しかし何うでも好いさ……」

 と何事かひとりで点頭いてゐた。──多々羅雁太といふのが、いつも彼が作中であつかふ真面目過ぎて滑稽な人物の名前であつた。雁太は何んなに急ぎの用向で外出する場合でも、玄関先で、ステツキを倒して見て、それが倒れた方向から道を踏み出さずには居られないといふ風な変人だつた。(それ故私は、預つた犬が卑賤な芸当などを覚えてゐて、その上私には余り狎れてもゐなかつたとしたら、あいつは何んな顔をするだらう──と憂へずには居られないのだ。)

 彼は着のみ着のままで生家を飛び出して来たが、仔犬のことだけは忘れ兼るので、やがて訪れることの能ふ家に預けて置きたいといふのであつた。彼の家出の因は、勿論その創作生活の奇矯と渋滞からに相違なかつた。

「そして君は何処へ行かうと思ふの、生活のことでは何か目あてでもあるの?」

 私は寧ろ此処にでも滞在した方が無事だらうと思はれるのであつた。

「やア、しまつた。僕は犬のおかげでステツキを何処かへなくしてしまつたぞ。」

 彼は突然カラカラとわらひ、直ぐにまた鹿爪らしい顔に戻つて、

「そんなことは訊ねないで下さい。僕は決して自殺しませんから……」

 と唸つた。二三日たつて彼は、酷く手持無沙汰さうに、髪の毛を掴んだり、耳を引つ張つたりしながら出発した。

「いいえ。このあんばいでは、あしたにでも戻つて来るかも知れませんが、ともかく一つは書いてしまはなければならないんだ。何も書くことが見あたらぬといふ時は、案外容易く書けるのが、これまでの経験だから。──それにしても自然派はいつの時代でも、羨むべく無難なウドの大木だ。」

「君は大分疲れてゐるらしいぢやないか。出発は見合せた方が好くはないのか。」

 私が尤もらしいことを呟いでも、彼は仕事の夢にばかり一心で上の空だつた。

「ステツキが無い、ステツキが紛失した──と、こいつは案外な辻占にもなりさうだ。」

「それは書けさうぢやないか、君なら……」

「送つて貰ふのは厭だから、ここで失敬します。」

 遥かの坂下の河原に電車の終点が見えた。ふところに仔犬を抱いたまま私は、袖を翻して颯々と降つて行く雁太の後姿を見送つてゐた。桜の並木から斜めに洩れるまばらな光りが、彼の肩先にこぼれて、花びらと見違へられた。大手を振つて降つてゆく彼は、降り坂に勢ひづいて泳ぐやうな恰好だつたが、やがて脚並みが駈けはじめると左右の袂が凧のやうに拡がつた。

「ああ、あそこに、あんな美しい夢が降りかかつてゐるのに──何うして俺のこの腕の先はそこまで伸びぬのであらう。」

 若しかすると彼は、口に出してそんなことでも呟いでゐたかも知れないとさへ思はるるやうに、それともステツキを失つて無性にテレ臭いものか、前の方に伸した腕を空へでも引き掛ける見たいに高くささげたり、ふらふらとする頭を抱へて見たりしながら、一散に降つて行つた。

 マルといふ名前は、自分がつけたのでもなかつたがと私はうつかりしてゐたのを気にして見ると、いつの間にかそれはあの子供たちが呼び出した名前らしくもあり、また、今更もう別の言葉で呼んでも役に立つ筈もないので──などと急に取返しのつかぬ後悔に追はれたりした。

 雁太があんなにも切なさうな姿で駈け降りて行つた坂径を、今自分も、あんな憎むべき子供たちにからかはれながら走つてゐるかと思ふと、私は何うしても捕へることが敵はぬ無何有の悪意地な夢が、恰もあの子供たちに姿を変へて嫐りに現れたのか──そんな厭な聯想におびやかされたりした。

「マル、マル、マル……」

 私は犬の名を口にするのも業腹だつたが、冷汗を堪へて喚きながら、全く非常な姿の、胸もはだけ、空脛も露はの大童で馬のやうに突貫した。──だが、降り坂に勢ひを得て電車の終点までは一息に達したが、坂の途中から体力に逆つた単なる慣性で止むなく二本の脚が猛烈な威勢で空滑りしたやうなものであつたから、待合室にのめり込むがいなや、ベンチに倒れてフイゴのやうに激しい呼吸のまま目を瞑るより他はなかつた。

「未だ発車までは二十分も間があるよ。」

 と注意する声を聞いた。

 勿論敵は取り逃したのは云ふまでもなく、漸く身を起した時には、もうその電車も発車の後で、遥かの河下の森蔭に近い停車場で、田圃道を駈けて来る乗客を待つてゐるのが、箱庭の景色ほどに見えた。この電車は、追ひかけて来る乗客のためには、車掌は煙管をくはえ出して待構へた。

 もう何処を突き留めようにも当りもなかつたが、引返したところで今日の一日は滅茶滅茶に決つてゐる、明日からは犬は鎖につなぐことにして、この一日だけはあきらめよう、少し位ゐの芸は覚えさせられたにしても、餌食のことを考へると竦つとするが、今後断じて放しさへしなければ、やがて忘れるに違ひない──私は胸をさすつて、社のある裏山の杜へでも赴かうと思ひ直した。この頃私は、妄念妄想に身を焼かれたり、孤独の佗しさに堪へられなくなつたりすると、いつもその神社のある杜へ赴いた。私は鈴を鳴らし、賽銭を投げて、神前に額づいた。ひたすら私は神の慈悲に祈る心が強かつた。

 その社は普段には神官も住まぬ郷社で、私はいつも二三時間も午後の真昼時を森蔭の草原に横になつてゐることもあり、時には誘蛾灯を携へて夜間採集に耽つたが、人影に出遇つた例は稀だつた。──前の年の夏、私はここの神楽殿の軒に釣鐘大のスズメ蜂の巣を発見して、隣り村から山を越えて観察に通つたことがある──いつものやうに神前に向つて熱心なる合掌をなした後に、池のふちに来て蜻蛉を視守つてゐる時、あの痕は何うなつてゐるだらうと思ひ出した。

 蝉の声が空一杯に漲ぎつて、全く耳を掩はんばかりのかまびすしさで、ふらふらと歩いてゐると地からもそれぞれ万遍なく湧いて来るやうな──地を踏む想ひも忘れられさうだつた。で、耳の底が間断なくじんじんと振動してゐるので、反つて何か別の音響が聞えるやうな空鳴りがするものか──と私は不図首を傾けた。然しどうも空鳴りではなくて、神楽殿の裏手のあたりから、ピツピツピツ! と鳴る神楽の笛に似た口笛と、その合間に、たしかに人間の合唱するヨイヨイヨイ! といふ声がつたはつて来るのであつた。──私は神楽殿に登つて蜂の巣の痕が、全く拭はれてゐるのを軒合によぢて確かめたりしてゐるうちに、一時止絶されてゐた笛と合唱が、今度は実にも明瞭に、然も神楽殿の楽屋の床下あたりから、賑々しく湧き上つたのに驚いた。そればかりでなく、芝居の真似事でもあるらしい仲々巧者な酔漢の科白などが聞えた。

「さて各々方、酒も大分廻つたやうだから、もう一ト踊りをどらうかえ……」

「それとも犬奴の仕置にかからうかえ……」

 ……私は跫音を忍ばせて楽屋へ廻ると、賑ひは正しく縁の下なので、床にそつと腹匍ひながら板の間から覗き見た。

 アツ! と私は、もう少しで声を出しかかつた。あの三人組が真黒な筆をもつて、眉毛やら髥やら眼眦やらを夫々大層な武悪面に塗りあげ、後ろ鉢巻のいでたちで、出鱈目な芝居の真最中である。素裸の上に紙の陣羽織やら鎧に似たものを来てゐるが腰から下は褌ひとつで、股引や草鞋を履いてゐる態に、墨を塗つてゐるのだ。そのまはりには十名あまりの子供の見物人が目を見張つてゐた。楽屋の床下は、池の水のはけ口を前に控へて、自づと涼風の吹き抜ける深々とした木陰で、通りがかりの人の眼にも附き憎くく、そのやうな遊事の舞台にはまことにあつらへ向きだつた。周囲は恰も塀を囲らせた如き繁みの中で、薄明るい縁の下が好適な舞台になつた。──マルは長い藤蔓で柱につながれてゐた。

「ともかく一喫してからのことに仕様か。」

 役者連は汀にどつかりと腰を降した。後向だつた伝が黒い仮面をぬいで汗を拭つてゐたが、彼は草で編んだ蓑のやうなものを着て露出する首筋やら手脚は真黒に塗つてゐた。影が濃厚なので、地面に蹲つた彼等のかたちは巨大な甲虫のやうで眼ばかりがギヨロリと光つてゐた。見物人も吻つと息を入れて、さつきの演劇の凄絶さに見震ひしてゐたが、話の模様で察すると、二人の武者修業者が狼(マル)と闘つてゐるところに、天上から烏天狗が飛び降りて来て、大乱闘が始まるといふやうなものであるらしかつた。

「ほんたうに昔はこの森には烏天狗が住んでゐたのかな?」

 見物人のひとりが吐息といつしよに呟いた。

「昔どころか、橋場のグレ天は若いうちに此処で天狗にさらはれたんぢやないか。それであんな阿呆になつてしまつたんだぞ。」

 倉が、そんな噺をはじめると一同は寂と静まり返つた。いつか太陽は遠くの山脈の上に傾いて、脚下の流れの音がさらさらと音をたててゐた。ぼつぼつと帰支度にとりかかる女の子たちも現れた。

「おいおい帰らんでもよろしいぞ。俺達が頑張つてゐるところに天狗が出れば、今の芝居よりも面白い踊りを見せてやるといふものだ。カアーツ、カアーツ!」

 と庄が天狗のわらひ声を立てると、帰途の者たちは悲鳴をあげて逃げだした。

「チヨツ、何といふ意気地の無いガキ共だらう。だが俺たちもそろそろ体を洗つて引上げようかな。」

「まあさ、目マルのマル公に、今日こそはおまはりを覚え込ませて了はうぜ。」

「目マルのマル公か、ハツハ……、目マルのマル公、目マルのマル公と誰かハヤクチで十遍も云へるか。」

「いつそ、マル公のことを目マル、目マルつて呼んで見ようぜ。野郎、屹度聞き間違へて、チンチンでも、ワンでもやるぞ。」

「目マル、目マル……」

 伝がマルを呼んで、餌を掴んだかたちの空拳を眼上に示して「ワン! だ!」と命令した。マルは、それに伴れて「ワン!」と応へて宙に飛びあがつた。

「チンチンだ──目マル!」

 今度は庄が何か喰つてゐる真似をしながら腕をあげると、マルはきちんと前脚を曲げて後脚で立ちあがつた。そして、クンクンと喉を鳴らした。いつまででもその姿勢で、やがてマルの口端からは涎が垂れた。

「ほんたうの目マルが、これを見たら何んな顔をしやがるだらう。何だか、莫迦にイイ態ぢやないか。」

 三人は腹を抱へてゲラゲラと嗤つた。そのどよめきが縁の下一杯に拡がつた。私は何とも名状し難い薄気味悪い風にあふられて、思はず床から胸を浮せた。

「この上、おまはりを覚えたら河向うの髥ダンが一両で買はうてえんだ。」

「だつて、ほんたうの目マルがそれこそ目を丸くして怒るだらう。」

「怒つたつてお構ひなしよ。知ンねえよと云つてしまへばそれつきりぢやないか。そのうちには野郎だつて、どこかへ引越してしまふヅラな。うちの父ツちやんが云つてゐるんだが、何でも他所者からは銭を捲上さへすれば構はねえんだからつて……」

「だが野郎、この頃イヤにケチになりやがつて、俺たちには使ひも頼みやがらない。」

「だから彼奴のつもりで、ウンとマル公を苛めた揚句に、売り飛ばして仕舞うて魂胆なんだよ。御同役、他言は無用だぞ。」

「それツ、もう一遍、ワンだ、目マル!」

「おあづけだ。目マル。」

 翅をきつた蝉を倉は、マルの鼻先へ投げ出したりした。

「チンチンしろ、目マル。」

 マルは矢継ばやに命令されて、うろたへ廻ると、

「しつかりしろツ!」

 と伝が尻を蹴上げたりした。私は彼等の座談の片々をいちいち記憶に止めて忘れ難かつた。私の息づかひは次第に荒々しく、胸が大波のうねりを湛へて動揺するのを止め難かつた。──あはや私は、有無もなく飛び降りて憎き奴輩を引捉へてやらうと幾度身構へたかわからなかつたが、目マル目マルと奴等が間断もなく叫ぶ毎に、マルが諾々として吠えたり、尾を振つたりするさまを見ると、得体の知れぬハニカミ心が湧いて来て、思はずも眼を瞑つて了つた。

 間もなく、彼等は、おまはりの訓練にとりかかつた。さつきの芸当は余裕をもつて、戯れ気であつたが、今度は一同は肩肘を張つてマルの周囲をとりまき、棒切の鞭を振つた。

 倉が、重々しい口調で──お、ま、は、り──おまはり──おまはり──と、蝉をつまんだ手の先で、マルの上に大きな輪を描くのであつた。マルは、倉の腕の先を見あげながら、首だけを動かすだけで、体は未だ動かなかつた。

「覚えの悪い畜生だな。えいツ、斯うするんだい。」

 伝はむんずとマルの尻尾を掴んで、回転のかぢをとつた。マルは後脚をすくはれて、横態に転げた。

「日が暮れてしまふぢやねえか。イイ加減に覚えやがれ──目マル!」

 庄はマルの首輪をもつて振り廻した。

 なるほど梢のクマ蝉やアブラ蝉のわんわんと鳴り渡る声に交つて、蜩の、シロフオンを滑るやうな伴奏が八方から襲ひかかつてゐた。その間を縫つて、ミンミン蝉の条々たる余韻が低く高く舞ひ乱れた。

「しつかりしやがれ──こん畜生奴!」

 伝と庄は、マルの首と尻尾をつかんで、轆轤を回すやうに引きまはした。倉は、相変らず仁王立のまま、全身に力を込めて、

──おまはり──おまはりだぞ──」

 と飽かずに繰返してゐた。犬ばかりが災難かと見ると、今はもう訓練者達の方も余程の困憊と焦躁にあふられて、冗談ぐち一つ利く余裕も失ひ、爛々たる真剣の眼を輝かすばかりであつた。彼等は悉く滝の汗を流してゐると見えて、眉毛や髥の墨は流れて顔ぢうはおろか、いつの間にか陣羽織や合羽も投げ棄ててしまつて全身までが真黒になつて、恰もアフリカ山中の矮人種のやうであつた。倉の刈り立ての虎斑頭と、伝の青い坊主と、棕櫚の葉か何かをしばりつけてゐる庄の頭が、薄暗がりの底で縦横に走つてゐた。鳥瞰である故、顔の様子は一層見わけ憎くかつたが、頭の具合で夫々の姿が私の眼下に出没してゐるうちに、追々とそれらの渦巻は勢ひを増して、一体もう連中は何の目的で何を騒いでゐるのか見定めもつかぬ大騒ぎとなつた。人間の唸りか、獣の喚きか聞きわけも敵はぬ奇怪な騒ぎの坩堝と化した縁の下は、恰も変化の掴み合ひでもあるかのやうな叫びや、罵りで凄まじい泥合戦だつた。キヤーンといふ犬の悲鳴が起つたかと見ると、

「畜生、引つ掻きやがつたぞ!」とか「うわツ!」とかと喚く人間の声が梢から梢に陰々と反響した。

 マルは汀に投げられた餌を目がけて飛びついたが、綱がとどかずに、仰向態にもんどりを打つた。

「食はせるぢやないぞ。──こつちへ投げろ──眼を廻させて、お辞儀をさせてしまへ。」

「尻尾をもつて、力一杯引ずり倒せ……」

 ……マルは連続的な叫びをあげた。蝉の声が此処を先途と鳴り響いて、森全体は世にも騒然たる狂躁音をはらんだ一個の共鳴箱と化して、今にも破裂しさうであつた。私の額からはじりじりとあぶら汗が流れて、もう目も見開いては居られなくなつた時、不図私は、この巨大な共鳴箱が悪魔の騒ぎを抱いたまま、ふはふはと天へ浮きあがつてゆく心地に誘はれたかとおもふと、やがて打上花火の弾丸のやうに一直線へ天上へ向つて飛びあがつた瞬間、それは轟然たる音響と共に爆発した。それと同時に私は、あらん限りの声を振り絞つて、

「わあーツ!」

 とばかりに叫ぶや、天狗のやうな羽ばたきをたてて、神楽殿の楽屋から、池のふちへ飛び居りたのだ。全く夢中の動作といふより他はなかつた。──そして私は、私のよりも凄まじい、わあアーツといふ悲鳴を感じた。

 ──見ると、真黒な矮人種は、仰天のあまり、一斉に尻もちを突き、ギヤツ! とつぶれたかとおもふと、一刹那、ぴかりと眼をむいてゐたが、忽ちもう一遍、ぴよんと跳ねあがつて、目を醒すがいなや、更に、わツ! と叫んで、狐よりも素早く、風をくらつて逃走した。

 ──私は、追跡も適はなかつたのだ。また、そんな気力もなく、別段に彼等を敵と攻めて戦はうなどといふ念力はさつぱりと消え去つてゐた。そして私は、ただ極端に異常な亢奮のあまり、五体も六感も海綿のやうにしびれて、脚腰もたたなかつた。

 マルは、柱につながれたままグルグル巻きの自縛の縄に悶えて、バウバウと吠えたててゐた。逃げて行つた者共を憾むけしきもなく、切りに、その行方へ向つて吠えたて、何故か私の方は見向かうともしなかつた。

 雁太が来るまでに、俺は何うしてもこの犬を自分のものとして狎してしまはなければならない──私はそんなに思ひながら犬の傍らへ匍ひ寄つて行つた。それにしても、何とかして別の名前を改めて、つけたいものだ──と考へて、蝉の声が益々落日の蔭でピツチを競うてゐる梢を見上げた。すると神楽殿の楽屋の軒先から池の上へ翼を伸してゐる百日紅の枝に、白つぽい浴着ゆかたが一枚ふはりと懸つてゐるのを発見した。ヒヤリとして見直すと、それは今まで着てゐた自分の着物で、私は裸であつた。帯はいつもグルグル巻なので、いつ何処に落したか覚えもなかつた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房

   2002(平成14)年720日初版第1

底本の親本:「新潮 第三十一巻第十一号」新潮社

   1934(昭和9)年111日発行

初出:「新潮 第三十一巻第十一号」新潮社

   1934(昭和9)年111日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年1015日作成

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