熱海線私語
牧野信一



     一


 一九三四年、秋──伊豆、丹那トンネルが開通して、それまでの「熱海線」といふ名称が抹殺された。そして「富士」「つばめ」「さくら」などの特急列車が快速力をあげて、私達の思ひ出を、同時に抹殺した。帝国鉄道全図の上から見るならば、僅々十哩? 程度の距離であるが、生れて四十年、東京と小田原、小田原と熱海の他は滅多に汽車の旅を知らぬ蛙のやうな私たちにとつては、憶ひ出の夢は全図の旅の夢よりも深く長かつた。私たちは旧熱海線の小田原町に生れ、私の最も古い記憶に依ると、小田原ステーシヨンの広場のあたりが祖父母や母と共に私が育つてゐた家の竹藪に位ひした。私は未だ小学校へも通つてゐなかつた。

「近頃は、どうも人車ジンシヤつてえ便利なものが出来たんで熱海行はすつかり楽になつたが。」

 熱海行の朝(私の記憶では、蜜柑の穫収れが済んだ頃だけがあざやかであるが──)といふと、私たちは暗いうちに起きて竹筒ランプの傍らで朝餉に向ひ、祖父は自家製の酒を一本傾けながら、

「つい此間までは駕籠か草鞋がけだつたんだからな。それが何うも芝居見物にでも行くようなこしらへで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでもお午時分には着いて仕舞はうつてんだから大層なものさ。」

 と得意さうだつた。得意といふのは、人車ジンシヤ鉄道株式会社といふものゝ祖父は相談役か何かであつたゝめに、私たちが人車なんか……と、うつかり軽んじようとすると、不機嫌であつた。飽くまでも文明の利器として、認識しなければ面白くなかつたのであるが、母や私は鉄道馬車で国府津へ赴き、煙りを吐く汽車に乗り慣れたので、従令線路の上を走るとは云ふものゝ人間が後おしをして滑走する人車などゝいふ鉄道に驚くわけには行かなかつた。居眠りをしながらでも──などと祖父は極めて安楽さうに吹聴するものゝ、おそらく十人乗りぐらひの箱車を四五人の被布姿の運転手が力を合せて後おしするのであつたから、ちよつとした勾配に差しかゝつても、歩く人よりも遥かに鈍くなり、降りとなれば、運転手達は虫籠にとまつた蝉のやうに踏台に吸ひつき、その間こそは正に一瀉千里、「つばめ」か「さくら」のやうに実に猛烈な勢ひで砂塵を巻いて、滑り落ちるのであつたから、母は私を抱きすくめて震へて居り、あんなことを云つてゐた祖父にしろ思はず婆さんと声を合せて御題目を唱へるやうな始末だつたから、凡そ安楽な気遣ひは絶無だつたのだ。登りとなれば、大概の乗客がその速力の遅さに業を煮して、先へ立つて歩いたり、中には後おしの弥次馬に成る者さへあるのだから、そんな車の中で居眠りなどして居られる不人情家は見当らなかつた。

 町端れの停車場まで、私は爺さんと合乗りし、そして婆さんと私の若い阿母が、浅黄ちりめんの高祖頭巾を被り、毛布のやうに大幅の流行肩掛をかけて二人乗の俥に並んだ。姑と嫁がさも〳〵仲睦しいといふ、さういふ示威行為が流行したのださうである。私のいでたちはといふと、いつもそれで爺さんと母との間に一悶着が起りかゝるのであつたが、母は外国にゐる亭主が、息子わたしのために贈つて寄す洋服を着せ、どうせ途中で歩くのだからとボタンの長靴を穿かせようとするし、爺さんは、

「俺あ、メリケンはきつい嫌ひだよ。」

 と身震ひした。「歩くつたつて、人車ぢやないか。おまけに岩吉がゐるんだし……」

「これは岩吉におぶさるのは嫌ひぢやありませんか。」

 と阿母は反対するのであつたが、洋服などを着た姿を友達に見られると、あとが怕いといふ当人の陳述も出て、大概爺さんの主張が通つた。私としては他所行の穿物といふのが、これがまた苦手の畳付の駒下駄であつたり、雪駄であつたりするために、加けに黄色い棒縞の厭に光つた袴など穿き、むかふに降りてから梅林のちかくの家まで行く間、転んだりするので、岩吉におぶさるのが常例だつた。岩吉は以前、小田原の俥夫であつたが、今時人力なんて曳いて居られるものかと発憤して人車の運転手に乗り換へたが、バクチを打つたとかの廉で間もなく免職になり、熱海で遊んでゐた。危く懲役へ行くところを、爺さんの口利きで救かつたとかで、恩に着てゐるさうであつた。(私は、そんな幼年の癖にして、そんな類ひの話を漏れ聞いてゐたなど──事実、記憶してゐるところを見ると、我ながら小癪な小僧と思ふのである。)

「岩吉は石川五衛門見たいだから、嫌ひだよ。」

 私は自分ながら、動ともすれば自分を子供の折から厭なやつだと秘かに思つて憂鬱になる癖があつたが、例へばそんな冬の朝など肌ざわりの違ふ冷たく光つた着物などを着せられると、妙に魂までが悲しいような嬉しいような女の甘つたれのやうな生体のないものになつて、人の悪くちを云ふのが愉快だつた。

「あたしも嫌ひさ。おぢいさんが贔屓などする気が知れやしない。ほんとうに岩吉となんか遊んぢやいけないよ。」

 と母も、子の甘つたれをとがめもせずに同意した。私は、絵本で見る石川五右衛門が釜うでにされながら子供をさしあげてゐる顔つきが、その盗賊の偉さなどゝいふものは全く別にして、単に毒々しく獰猛気な拙劣な絵の顔つきと、笑つても苦味走つてゐる見度いな角頤の具合や、頬骨の感じなどが、おそらく懲役などゝいふ恐るべき言葉からの連想があつたからには相違ないのであるが、岩吉を髣髴させるのであつた。ところが、口では嫌ひだと云つて居りながら、二人ぎりになると子供を相手に云ふべからざる卑猥なことを、低いふつきれ声で、さも〳〵秘密の相談でも交すやうにさゝやく彼の容子に魅力を覚えるのであつた。

「ちよつと双六を持つて来て御覧なさいよ。あつしがとても面白い賽の振り方を教へてあげますからさ。」

 彼は台所の囲炉裡端で、茶を喫むやうな振りで酒をあふりながら、私に賽コロを持つて来さすと、器用な手つきでそれを振つては独りで考へ込んだ。そして人の気はひがすると慌てゝ私と双六の勝負を争つた。私も実は、彼とそんな勝負事を争ふよりも、温泉場へ来ると皆なが何となく呑気になつてゐて別段に早寝を強ひもしないので、智慧の輪や達磨落しなどを運んで、さも〳〵無邪気な遊びに屈托してゐる態にして夜を更したがつたのであるが、そんな遊びよりも、合間々々の岩吉の途方もない戯談の方が面白かつたのである。──私が未だに、母さんと一処に寝るさうだが、それはとても可笑しいことだとか……母さんが何んな夢を見るか当てゝ見ようか──とかと云つて私を気味悪がらせたり、憤らせたかとおもふと、

「もう、そろ〳〵蒲団部屋を覗きに行つても好い時分ですぜ。」

 と誘ふのであつた。爺さんが旅館の酒を好んで、つい滞留しがちなので山の家から岩吉が迎へに来てゐるのであつたが、私たちにしろ華やかな宿屋の方が珍らしいので容易に引上げたがらなかつた。私は、岩吉と遊ぶのはたしかに悪事だといふ気はしてゐたので、嫌ひだとでも云はなければ不首尾になりさうで悪口を云ふ傾きでもあつた。然し、面白くはあつたが、彼の人物を好いてゐないのは確かでもあつた。

「屹度もう居眠りがはぢまつてゐますよ。」

 と彼は私をそゝのかすのであつた。私は、空呆けてはゐたものゝ内心彼の、その勧誘を期待してゐるのであつた。そつと跫音を忍ばせて、土蔵寄りの蒲団部屋を窺ふと、大概は二人か三人の若い女中が居眠りどころか前後不覚に寝倒れて居た。激しい労働の疲れで、熟睡を盗んでゐる者の、仮の寝姿は、わずかに廊下のランプに明るんでゐる障子の内で蒲団の山々の合間に、恰度「波の戯れ」と題するベツクリンの作画に見るかのやうな怪奇美に溢れてゐた。否、単に戦慄すべき醜悪と云ふべきが至当であつたらう。私は絵草紙の中の惨憺たる殺人の光景を眼のあたりにする大そうな滑稽感で、声でもあげておどろかしてやらうとすると、岩吉の八ツ手のやうな掌が私の鼻と口をおさへた。


     二


 小田原を出発する私達は主に明方の一番車であつたが、停車場の前の入木亭といふ待合茶屋へ乗り込んで、天候の次第を待たなければならなかつた。一番の発車時刻が三時間も五時間も遅れて終ひに翌日延になることも珍らしくなかつた。わずかの雨でも線路が滑つて屡々人車は断崖から転落した。

 熱海まで無事に走つて四時間なのだが、大概爺様が途中で痔病が起り、真鶴で降りた。石倉八郎丸といふ海辺寄りの大きな漁家に立寄つて、息を衝いた。どういふわけか知らないが私は一歳から三歳までの間この家で育てられたといふことを聞いた。非常に肥つた女房が、何年か後私が一二年の小さな中学生になつた頃でも私を見出す毎に、まあ〳〵と云つて抱きあげようとした。私より一つ二つ齢上のトリといふ娘がゐて、私が学校の課題のための海藻採集に赴くとトリは烏帽子岩へ案内して呉れ、素裸になつて海中に飛び込んだ。飛び込む瞬間にはトリは、岩の先へ駆け出して着物を脱ぎ棄てると後ろも見ずに水の中へ姿を消したが、やがて両手に栄螺や藻をつかんで顔を現すと、にこ〳〵と笑ひながら獲物を投げ出し、

「こつちを向いてゐちや、いけネエよ。オラ、あがれやしないぢやないか。」

 と手を振つた。後にトリは、熱海のあの宿屋に奉公した。その頃はもう祖父も居らず私達は熱海へ赴いても滅多に宿屋へは泊らなかつたけれど、夜更けに岩吉が千鳥足か何かで戻つて来ると、私は不快な蒲団部屋と終ひにはトリを連想して、岩吉を憎んだ。岩吉は、どうやら独身者であつたと思ふが、その辺は何の覚えもない。トリは間もなく町でも評判の小町女中と噂され出し、或る有名な実業家の別荘へ小間使ひに抜擢された。

 人車が軽便鉄道に改良されたのは、たしか私が旧制度の高等一年(今の尋常五年生)の時で、その前年の冬祖父は亡くなつてゐたのだ。

「おぢいさんは、とう〳〵、この汽車を見ずにしまつた。御覧になつたら何んなに悦んだことだらうに……」

 と婆さんが述懐したのを私は厭にはつきりと覚えてゐる。婆さんと阿母と私は儀式張つた身装で入木亭の開通大祝賀会に招待された。街には軒並みに赤い幔幕が張られ、山車の花で飾つた底抜屋台が繰り出し、いつの間にか小田原へ戻つてゐた岩吉が芸妓連にまぢつて横笛を吹奏してゐた。会社の前には巨大な杉葉の緑のアーチが建つて、アーク灯といふ大ランプが煌めいた。あれをとうかぞへる間眼ばたきをしないで視詰めてゐると目が回つてしまふと人々は驚嘆した。一台の花電車が三日も前から町の上下を運転して、弁当持で便乗する見物客が満員だつた。入木亭の店先には熱海の早咲の梅花が生けられ、女学生の活人画が催された。私の母は、その舞台監督に徹夜で振付してゐた。

 夜に入つての余興には青年軍楽隊や少年剣舞が番組された。どうも私の挙動が日増に女々しく腺病質の傾向が萌してゐるといふわけで、婆さんに付添はれて大分前から剣舞道場に通つてゐたので、是非とも出演するように方々から指命されたが、私は終ひに泣いて拒んだ。どういふわけか、兼々私はあの如く誇張された武技の、勇壮な擬態振りを非常に嫌悪して居り、且つはまた凡そ身柄に添はぬ業と敬遠してゐたにも関はらず、日頃の道場では抜群の成績だといふ評判だつた。私は婆さんに見張られてさへ居なければ無論逃亡したのであるが、否応なく伴れ出されて、いざ舞台に立つて演技にとりかゝると、まるで人間が変つたように活溌至極と化し、今では婆さんでさへもが、陶然として見惚れずには居られなくなつたといふのであつた。私は之だけこそは大層な矛盾を感ずるだけで、決して得意になどなれなかつたのに、私の稽古が始まると近所の人はわざ〳〵見物に集つて、美しい悲憤の涙や、絶賞の大喝采を惜まなかつた。

「ねえ、今日こそおばあさんが折入つて頼むから、是非とも出てお呉れな。郡長さんまでが見度いと仰言つておいでなんだもの、度胸を決めて出てお呉れ、ねえ、ねえ……」

 婆さんはもうおろ〳〵としてゐたが、頑として私は動かなかつた。私は自分でもその頑迷さが解らなかつた。

 その代り私は、余興が幻灯会に移つた時にちよつとの間だけ映写技手をやらせて呉れと申出た。花輪車といふロクロ仕掛のウツシ絵が唯一の動く絵で、色絵具で塗つた二枚合せの硝子板が夫々逆に回転されると、恰度万華の花片がむく〳〵と涌きあがるかのやうに見え、手風琴や竹紙ちくしの横笛などが加はる青年バンドに調子を合せて、技手はたゞそれをぐる〳〵回すだけであるが、次第に急速に進む音楽と共に、いつまでも回つてゐると、見物は鬨の声を挙げて悦んだ。大概それが閉会の合図であつた。私は普段独りで工夫して、誰にも観せる筈でもなかつた手製のウツシ絵を取り寄せて、決心の胸を震はせながらその後で映写した。

「えゝ、こゝに番外として御紹介致しまするのは……」

 と専門の弁士が私の名前を口にして、この工夫画を吹聴するのを耳にすると、私の全身は火のやうに熱くなつた。その絵といふのは短冊形の長い硝子板に様々な行列やら軍艦の数々などを描き、一端から小刻みに繰り出して、回り灯籠のやうに多くのものゝ姿を順々に引き出すのであつた。その晩私は、軽便鉄道が今や濛々たる煙りを吐いて出発する一巻や、祝賀の行列が軍楽隊を先頭にして繰り出す光景などを映写した。普段は婆さんと阿母だけが見物人で、私は口笛を伴奏にするだけなのに、その晩は、ほんとうの楽隊が調子を合せて、汽車の歌や、祝賀の歌を奏したので、私は全く有頂天となり、指の先は思はずブル〳〵と無技巧的に震え、却つてそれが汽車の走り出すさまを写実した如き効果を呈した。スクリーンの向方側には何万とも数知れぬ見物人がゐるやうに思へた。事実この映画は、割れ返る程の人気を博して、同じものを二度も三度も上映させられた。素晴しい楽隊の伴奏があつたからこその面白味だつたのに、忽ち私ばかりが八方から感激の嵐を浴びた挙句とう〳〵町長さんに手をとられて見物人の前に立たされた。(映写機は幕の裏側にあつて、見物人は反対の表面から見るのがその頃の常例だつた。だから私は技手としての姿を人に見られる心配はないと安心してその役を申し出たのでもあつた。)

 半紙大ほどの土地の新聞は早速と「天晴れ牧野少年の発明幻画を讚ふ」といふ大見出しで、その「奇智に富める工夫」を絶賞し、諸名士の感激談までを併載した。それを読んだ婆さんと阿母は声をあげて、嬉し涙に掻きくれ、山高シヤツポを何故か稍あみだ風にかむり、厳然と構えて眼を据えてゐるが、軽く口腔をあけつ放しにしてゐるのが何だか折角の威厳をそいでゐるかのやうなお爺さんの、今はもう大型の額ぶちに収まつた写真となつて物をも言はぬ肖像の下に、三人は頭をならべて平伏し、誉れに富んだ報告祭を営んだ。

「おぢい様が御丈夫だつたら……」

 婆さんはそればかりを繰り返した。

「これぢや、登りでも下りでも歩く心配もなけれや、後おしも要らず安心だね。」

 私たちは打ちそろつて梅見へ出かけた。ところが真鶴を過ぎるころになると、激しい煤煙と振動のために婆さんも阿母も攪乱を起した。「軽便」の煙突は釜に不釣合に細長くて頂きに網をかむせた盥のやうな恰好のものが載つてゐるので、暴風などにあたつて激しく揺れ過ぎると、中途からポツキリと折れることがあつた。しかし私は、その機関車の姿を指差して、

「ねえ、母さん──スチブンソンがつくつた汽車の画に似てゐますね。」

 と好奇心の眼をそばだてた。

「岩吉は機関手になる試験を受けて、落第したんだつてさ。」

 と母はわらつた。

 やがて婆さんは、あれが出来たから今度こそは何時でも気軽に熱海に行けると悦んでゐたのに、あの煙突と笛の音を思ふと体がすくんでしまふ──と滾しはぢめた。車体の小さいのに比べて、走り出すと恰で馬力トラツクが駆け出したかのやうな地響きを挙げ、蒸汽の音は駄馬の吐息のやうに物凄かつた。この物音を聞くと沿道の人々は「それツ、軽便が来たツ」とばかりに駆け出して、物珍し気に見物した。すると運転手は益々得意になつて要もないのに激しい汽笛を鳴しつゞけた。さういふ物見高さに煽られて多くの運転手達は女道楽に身を持ち崩した。

 私が中学二年の春休みに、熱海から祖母を迎へ返すと、途中で三度も手をひいて降りなければならない程の状態となり、家に戻つてからは寝たきりになつた。私はその枕元で昼となく夜となく、アメリカの父から来る新聞や手紙を読み聞せた。私は六歳の時からカトリツク教会のイギリス人に伴いて読み書きを習つてゐたので、もうその頃は外国からの少年雑誌セントニコラスや新聞の日曜漫画など、即座に日本語に移しながら朗読が出来た。人気者のハツピー・フリガンのことを私は缶チヤンと称び換へて、聴手を笑はせた。その赤い筒型のシヤツポが恰度缶詰の缶のやうだつたからである。私は、その画を早速と例の硝子板に模写して、婆さんの枕元に写し出して、おどけた声色などをつかつた。

「えゝ、こゝに御覧にいれます今週の番組は(缶チヤンと狐)の巻であります。狐の襟巻がはやり出したときいた缶チヤンは、早速一儲けしようと膝を打つて、此処に養狐事業を計画いたしました。例に依つて缶チヤンが如何なる失敗をいたしますかは、次々の幻灯に随つてよろしく御笑覧のほどを……」

 他所の人がゐないと仲々能弁な私が、幕の後ろで斯んな説明をはぢめると、婆さんと阿母はもう腹を抱えて笑ひ出した。──或る晩祖母は、あはゝ、あはゝ──と笑つてゐるので、私は例の如く益々得意になつて次々なるウツシ絵を差し換えてゐると、不図阿母が異様な叫び声で私の名を呼んだ。

 祖母は、あゝ、あゝ、あゝ……と未だ笑つてゐるのに! と私は不思議がりながら、傍らの雪洞を燭して枕元に駆け寄つて見ると、あゝ──とわらつた表情のまゝ、息が絶えてゐた。

「あゝツ、お母さん!」

 と母が呼んだ。

「おばあちやん〳〵、どうしたのよう。」

 と私も精一杯の声で泣き、その胸にとり縋つた。

「わしや、もう一遍熱海へ行きたいんだが、あのケイベンの煙突をおもふと、直ぐにむか〳〵して来る。せめてお前の描いた絵でも見て慣れたら、しつかりするかも知れないから写してお呉れよ。」

 祖母は、幻灯会を終へようとすると屹度斯ういふので、その時も「フリガンと狐」の連続ものを終つた後で、傑作の汽関車を写し出さうとした途端だつた。電灯がついて明るくなつた襖の境に垂れさがつた白けたスクリーンの上には、走り出さうとした汽缶車の先端がぼんやりと写り放しになつてゐた。


     三


 熱海線が国府津駅から延長して真鶴まで達し、小田原は町を挙げて山車を繰り出し、連日の祝賀に酔ひ、また憐れなケイベンは風琴の蛇腹のやうに真鶴・熱海間と縮まつたのは大正十一年の暮であるが、いよ〳〵ホントウの汽車が敷けるといふ噂が立つて小田原や真鶴や熱海の土地の価格がにわかに高まつたのは、それより更に十年ちかくも前からであつた。祖母の訃を受けて帰国した私の父は、毎日退屈をかこつて、二年三年生の私ばかりを相手に鉄砲打に出かけたり、ポーカーを教へたりして、何となく成人おとなの友達扱ひであつた。私には父の態度が、祖父母や母の古風なミリタリズムの教育風とは全くその趣きを異にして、突ぴよう子もなく自由気なのが余程の驚きであつた。

「何ダイ、オ前ニハ女学生ノ友達ガヒトリモヰナイナンテ、随分気ガ利カネエハナシダナ。早速俺ノ友達ノ娘ヲ紹介シテヤロウ。素晴シイ別嬪ダゾ。」

 彼は斯んなことを云つて私の肩を叩いたりした。尤も彼と私の会話は、自家の中では英語ばかりだつた。私はあの如く余程成長してから始めて父親の姿に接し、元来はにかみやであつた所為か容易に日本語では即座に「お父サン」などゝ云つて親しめなかつた。それが父親に会つて以来は益々ペラペラと外国語を喋舌べれるようになると不思議と、何うしても日本語では云ひ憎い感情でも思ひのたけでも難なく滑り出すのが吾ながら異様だつた。

「ソレハ甚ダ有リガタウ、私ノ親愛ナル父サンヨ、私ハ従来、男女七歳ニシテ席ヲ同ジクスベカラズトイフ道徳的観念ノ中ニ育テラレ、ソレハソレトシテはんさむナ掟トシテ反抗心ナド抱キハシマセンガ、近頃特ニ思考シテ見レバ、ソレハ伸ビヨウトスル青年ノ心ニ稍トモスレバ Blue-Devilゆううつ ノ陰影ヲ宿ス源因ニモナルト思ツタ。私ノ中学ノ幾多ノ先輩ガ窮屈極マル──ソレハ日露戦争時代ノ軍事教育ヲ旨トシテヰル老曹長ナル学生監チユウタアノ圧迫ガ酷イノデアルタメ──学窓ヲ放タレルト同時ニ急ニ不思議ナ紳士おとなニナツテ数々ノすきやんだるヲ遺シテヰルノヲ見テモ実ニ寒心ニ堪ヘン次第デアリマス。」

「オヽ、頼モシキ思想ノ持主ヨ、新日本ノ後継者ハ立派ニ新シイ騎士道ヲ樹立セナケレバナランノダ、女学生ト附キ合ツテ Girl-shy(助平心)ヲ起スヨウナ習慣ハ少年ノウチカラ彼女等トノ交遊ニヨツテ振リ棄テルヨウニシナケレバナランノダ。」

「非常ニ私ハ女ノ友達ガ欲シイヨ。」

 こんなことを若しも日本語で喋舌つたならば、即座に阿母は薙刀でも持出して、そこへ直れとでも叫ぶだらう──などと私達は笑つた。大体私と彼が、そんな会話を用ひるのを阿母は眉をひそめたが、それは単に語学の練習だと云つて納得させた。私も折々自分の喋舌ることを秘かに自分の胸に和訳して見ると、気狂ひにでもならなければ到底口にすることも適はぬ気障つぽさだと首をすくめたが、そんな反省などは喋舌つてゐる限りは何も残らなかつた。間もなく横浜からナタリーの一家などが遊びに来るようになつたりして、弥々私はお喋舌りになり、自転車をそろへてピクニツクに赴いたり、老若入れ交つてテニスに耽つたりして、間もなく中学を終へようとする頃になると、枳殻の生垣にとり巻かれた屋敷の隅々に測量の杭などが打たれ出した。熱海線の敷設がいよ〳〵開始されたのである。土地の売買する周旋人見たいな人物が、日毎におし寄せて阿父をとらへて、

「大したもんですな……」

 と云つた。彼の卓子の上からは稍ともすればそれまで愛読してゐた旅行小説の叢書や鳥類剥製の道具やらが影をひそめて、測量図とか法律の本で一杯になつた。それと同時に彼の面上からは、今迄私を相手に冒険談などを聴かせて夜の更けるのも忘れた折の鷹揚な影も消え失せて、訪客ばかりを相手に厭に、深刻気グルウミイな眼を据えて、万円とか幾十万円とかといふ話題に熱を吹いてゐた。つまり昔は一銭五厘位ひで買つたものであり今迄は売るともなれば二円でも三円でも買手もなかつたといふ屋敷や、真鶴の田畑や、熱海の山林などが、一坪の価が百円、二百円と、日増しに暴騰するのであつた。

「僕は決して手離しませんよ。自分としてのいろ〳〵の計画があるんだから……」

 別の人からの注意で、それらの土地をこのまゝ十年も持ちつゞけて、やがて次々の駅に停車場が出来るとなれば、労なくして一躍大した富豪になるであらうとか、勧業銀行から金を借りて熱海海岸の埋立事業を起さうとか、其他枚挙にも遑もない計画が持ち込まれてゐるので、いろ〳〵な買手が現れても決してその手には乗らなかつた。

「いよ〳〵、停車場が出来るとなれば──」とか「小田原の家の竹藪の真ん中が、ステーシヨンの正面になると決つた。」とか「熱海まで延びて、更にトンネルが抜ける段になると……」とか、さういふ類ひの彼の興奮の声を私達は何百辺聞かされたことであらう。そして、書類でふくらんだ弁護士でもが持ちさうな手鞄を抱へて、何処へ行くのか知らないが俥ばかりを乗り廻した。往来で出遇つた時など、思はず私が以前のやうに手をあげて、ハロウ……と呼びかけても、今では彼はニコリともせず棒切れでも呑んでゐる見たいにしやちこ張つて、まん丸な眼玉を極めて真面目さうにぎよろりと輝やかせてゐるだけだつた。私は、決して故意に滑稽なる形容辞を弄するわけではない。余程真に迫つた矛盾の痛手を覚えさせられぬ限り、誰が親愛なる父の姿を漫画に喩える態の悲惨を敢て犯し得よう筈もないのである。けれど、嗚呼戯あゝ──と私は吐息を衝きながら、何と夥しい不孝を感じながらも、その単に飽くまでも生真面目さうに一方ばかりを睨んだまん丸い眼玉、陰影の無い武張つた大面、そして稍ともすれば頤をぐつと引いて大層らしい思案の腕組に陶然たる有様などに接するにつけ、私はその禿げあがつた頭の天辺に赤い缶型の帽子を想像せずには居られなかつた。

「先づから××まで私線鉄道を敷いて、山の赤土を埋立地へ運ぶとなれば……」

 と彼は虚空に眼を据えた。──彼への訪問者といふのが、どれもこれも、一見すると狸のやうに落着いて葉巻などを喫してゐるが、愛嬌笑ひの声も、真剣味を露はにした賛同の握手も、真面目気であればあるほど空々しく品が悪かつた。山林技師であるナタリーの父親だけが、おそらく級友でもあつたかのやうに、へだてのない容子が一見してあきらかであり、

「何ウモ君ノマハリニ集ル紳士連ハ、信用成シ難イネ。」

 などゝ云つても、彼は返つて何か魂胆あり気にかぶりを振つて一向とり合はなかつた。

 私たちにしろ、もう遥かの山のむかふからはトンネル工事の爆破の音なども響きはぢめたし、竹藪であつたり、沼地であつたりした場所が繁華なステーシヨンの広場になるといふからには、多くの彼の事業に関して、決して失敗などは予期しもしなかつたのであるが、年寄や婦子供のみの古めかしい屋根の下に行灯や雪洞の光りのまはりで寂しく蟋蟀のやうな日夕を送り迎へてゐた者共にとつては、急に夜更けまでも電話のベルが鳴つたり、乗つたこともなかつた自動車が出入したりする華々しさに、何か漠然として信じ難いばつの悪さを誘はれるのであつた。

「どうせ碌なことがある気遣ひはないさ。それあ停車場が出来るといふからには、賑やかにはなるだらうけれど、そんな先の事許り当にして前祝ひばかりしてゐたひには、屹度また後ではふさがなければならないやうな始末になるばかりさ。」

 阿母がそんなに云ふと、阿父は震えて口を尖らせた。

 熱を挙げてゐる傍から、冷言を浴せられては堪らぬだらうと寧ろ私は、阿父の心懐に加担した。──が、そんな当面のことには私などは要もなかつたし、家庭の雰囲気も何うやら息苦しくなつたので、大学生になつて多少の憂鬱も知り始めた私は、休暇で帰省しても故家には落つかず、大概熱海の山荘へ赴いて本を読んだり、小説体の如くに会話などを挿入する日記などを書いてゐた。ハネ釣籠の井戸があり梅や柿木の繁つてゐた草葺屋根の家が、アメリカ風の至極簡粗なカツテーヂに改装されて、阿父の外国友達の家族が料理人コツクなどを伴れて訪れた。阿父は、それらの友達と捕鯨船へ乗り込んで遠洋航海へ赴いたり、ボルネオ地方へ鰐狩りへ行つたりしたが、

「これ位ひの道楽は、余興のようなものさ。」

 などゝ云ひながら、三月か半年で引き返すと、相変らず折鞄を抱へて、不思議とあんな深刻グルウミイな眼を輝かせながら車を飛してゐた。おそらく獅子の遠吠えが聞えたといふジヤングルに天幕の夢を結んでも、大鯨を獲り逃して残恨の胸を叩きながら酒場に酔ひ潰れても、おゝ、あれらの故山の、あれらの山々がそうしてゐる間にも刻々と切り崩づされるに随つて金貨を積んだ橇の音が次第々々に近づいて来てゐるのだといふ素晴しい夢に誘はれてゐたのである。私などにしろ、何も知らぬ青少年であつたが、漠然とした幸福のようなものを感じないでもなかつたが、稍ともすると昔描き慣れて、今だつて筆を執りさへすれば大概の姿なら即座に描きこなせるフリガンの活動画が歴起として眼の前にチラつくのであつた。フリガンの表情は、歓喜に炎えた時でも、悲境のドン底に墜落した時でも、或ひは稀にいさゝかの成功に反身になつた場合でも、常住不断に変化を知らぬ丸い眼と稍突り気味の口吻と、そして缶型の赤い帽子だけは決して落とさぬ姿勢なので、模写の手際も別段六ヶしいわけではなかつたのだ。私は、思はずもそんな連想を劃てる自分を秘かにウソ寒く慨嘆しながら、幾組となくつくつた連続画の憶ひ出を、どうやら益々詳細に吾阿父の上に対照せずには居られなかつた。

「あはゝゝゝ、あはゝゝゝ、お前の画はほんとうに巧いよ、さて、これから缶ちやんがどうなるのか、あたしは来週が楽しみでならない。あはゝゝゝゝ。」

 と、私の幻灯を観ながら、そのまゝ醒めぬ眠りに陥入つてしまつた慈はしき婆さんの笑ひ声が、あらためて私の耳の底に蘇ると、何やら私はあれらの無稽至極と思つてゐた人生諷刺の微風そよかぜが眼のあたりに吹き出したとなど思ふのであつた。阿父も表情の乏しい貌だつた。何故か笑ひ声は思ひ出しても、笑ひ顔は想像成し難かつた。──私は、あれこれと対照すればするほど、あれらの滑稽なる諷刺画がそのまゝ吾が生活の眼前に展開するかの如き、云はゞ恐怖症に襲はれさうであつた。私は、次第に憂鬱であつた。私は、滑稽を認めて、笑ひを知らぬ悲惨に堕ちた。どうやら自分の表情も、頭の缶型を落さぬ程度の奇妙に生真面目気なる木石に化したかのやうな思ひである、単なる真面目気なる表情の奇怪至極さは、一種の壮厳なる、然して永遠に模糊たる滑稽美に満ちたるものと考へざるを得なかつた──私は、肉親に対する自己の観照眼に関して、余程不道徳的なる苦悩にさいなまれたと見えて、そんな風に、厭に勿体振つた感想を手帖に記してゐた。


     四


 土曜日の夕刻には、きまつて横浜からナタリーが訪れた。彼女は私に従つて、日本語の練習を念願としてゐた。

「ボクはもうヨコハマからなら、いつでもひとりで大丈夫になつた。」

 彼女は、そんな程度の日本語をつかつた。レデイの一人称は、アタシとかワタクシとかと云はなければならぬのだと、屡々私は訂正もしたのであつたが、彼女には一向その規約が腑におちず、また私もそれほど熱心な教師ではなく自分勝手な喋舌り方をする方が多かつたから、彼女はつい私を真似て「ボク」とか「オレ」とかと云つた。私は、やがて、眼の碧い、そして「夕映えを染めた如き」などゝ得意になつてお世辞を云つた飴色の豊満な巻髪をたくわへた十八の娘が、何も知らずに野卑な方言などを使ふのを、内心妙に悦んだ。私は間もなく一切の男女の差別を無視して、第二人称は「アナタ」などゝいふよりは寧ろ「オメエ」と呼んだ方がいきであり、どうせ日本語を学ぶ位ひならば標準語は何処でゞも習へるのだから、「ワガハイ」を選んだのを幸ひ得難き通俗語を知つた方が趣味深いに違ひあるまい──などゝ、実は標準語と来たら自分が怪しかつたので、ごまかしたのでもあつた。私は東京の大学生にはなつてゐたが、アクの強い方言の田舎青年だつた。

 彼女は父親のオフイスでタイプライターを叩いてゐたが、特に土曜日に限つて、日本語の練習といふ「お稽古」のために、十時に仕舞ひ、午前ひるまえの汽車に乗つた。旧東海道線であつたから国府津駅で箱根行の電車に乗り換へ、四十分も揺られた後に小田原で更に熱海行の「軽便」に移り、待合時間を別にして、これが三時間あまりかゝつた。それ故、熱海に着くのは、冬だと、もうとつぷりと暮れてゐた。──「軽便」の到着は三十分位ひのあとさきは珍らしくもないので、私は明るいうちに自転車用のアセチリン・ランプを用意して、咲見町の崖ふちにあつた終点に来るのであつた。どうやら阿父の悪影響らしく、Nに限つては〝Girl-shyはにかみ〟は覚えなかつた代り、いつの間にかその自由さが、単なる友情を超えたおもしろさに移つてゐるのを秘かに意識せずには居られなかつた。私は未だ宿屋の番頭なども繰り込まぬ人気のない待合所のベンチに腰を降して「新進作家叢書」とか「ウエルテル文庫」などゝいふ小型の和訳本を読んだ。やがて麦畑の向方から麦笛のやうな汽笛が響き、炭坑のトロツコの如くに汽缶車の向きをあべこべにつけた汽車がのろ〳〵と這入つて来ると、忽ち彼女は先頭を切つて車から飛び降りた。すると、出迎への旅館の連中が向方と私を見くらべて、わらふのであつた。──といふのは、私を見出した彼女は、忽ち飛び込むやうに駆け寄つて来て、鳥のやうに朗らかな感投詞を叫びながら両腕を私の肩に載せて、頬つぺたに接吻をおくるのであつた。その光景が間もなく彼等の好奇の眼を誘つたのである。それ故私は、彼女の姿を見出すと同時に合図の腕をあげて、素早く崖径を降つて、海辺へ向ふ松林へ逃れるのであつた。段畑と入れ交つた繁みのスロウプは滑らかな芝に覆はれてゐた。──そんな「劇的」な動作に私は到底人中では堪えられなかつたのである。

「バカヤロウ──ワガハイの靴のことも考へないで、そんなにはやくかくれては、ボクは転びさうではないか。」

 彼女はほんとうに怒つたような声を挙げながら、危ふ気な脚どりで石段を降りた。ランプの光りを投げると、未だ穿き慣れない踵の高い靴が臆劫さうに段々を注意深く踏み応えてゐた。(これらの、とるに足りない印象が時経れば経る程鮮かに残つてゐた。どうやら熱海線の長い思ひ出の中の、私にとつては得難きアルペンの花であつたような気がするのである。)

 もう梅も散つて、そろ〳〵山桜の花が開きさうな晩、私達は月あかりの芝生で土産の弁当籠をあけて家へ向ふのも忘れた。

「ミヤニニタウシロスガタ──といふのは何んな意味なの。」

 宮に似たうしろ姿や春の月

と私が記念碑の文字を訓むと、彼女は即座にノートをとり出して質問などした。

「スプリング・ムーンが、別れた恋人のかたちに似てゐるといふセンチメントをうたつたエレヂイである。」

「月が恋人のかたちに似てゐるといふのが、どうしてエレヂイなの?」

 彼女は神妙に首を傾げたり、噴き出したりした。

 伊豆山寄りの崖の上に西洋風のホテルが出来て物珍らしく、日曜にはダンス会が開かれるといふので、彼女は切りと私を誘ふのであつたが、二度も偶然に酔払つた阿父と出遇ひ、

「山小屋の、へつぽこハムレツトが来やがつた。俺には手前えの顰つ面の理由は解つてゐるんだぞ。」

 そんなことを凡そ屈托のない巻舌の英語で、大いに笑ひながら喋舌りかけたので、私は二の句も告げなかつた。すると狸腹の紳士や、狐憑きのやうな千三ツ屋が、声を合せてドツと笑つた。彼等は、酔つ払つた阿父を、見兼ねてゐる息子の照れ臭い様子が座興とでも見えたらしかつた。阿父は、俺の事業は悉く成功するに決つてゐるんだから、貴様も一そ「憂鬱学」(それはリテラチユアさと彼は註して)を分析するような学業などは放擲して、埋立会社長の秘書にでもならんか、二百円位ひのサラリイをやるぞなどゝ云つた。

「汽車が先づ小田原まで延び、真鶴に達するころになれば、丹那トンネルが完成して、熱海は一躍東洋の楽天地ルナパークになるのだ、勢ひ土地の狭隘に迫られて、海岸一帯の埋立工事を急がなければ漫遊客の収容に事足りぬわけだ。」

 阿父の一団が手に手に美しい歌妓を携へて附近の温泉場を会議場としながら株式の設立をいそぎ、祝盃に祝盃を重ねて素晴しい大夢に恍惚としてゐた有様は、さながら海賊の度胸にも似た豪胆さと奔放無碍なるお祭り気分であつた。私も、いつの間にかニワカ金持の分身の態にヤニさがつて、憂鬱な学業などは顧慮しなかつた。汽車は間もなく噂の大渦を横切つて小田原へ達し、大祭の提灯行列、更に真鶴に延びて大花火の万雷は空を覆ひ、沿線の春秋は三年、四年の年月を鬨の声を浴びて、興奮の竜巻の中を邁進した。

「お前だけは、まさかと思つてゐたのにとう〳〵ワイワイ連の手下になつたのかね。」

 阿母はひとり涙を滾して、私を引き据えようとしたが、今では滅多に吾家には戻らうともせず海岸寄りの上等地帯に新しい和風の粋な別荘などを建てゝ不安を知らぬ阿父の方の騒ぎが耳にこびりついて離れず、私は恰で遊蕩児のやうに阿母の言葉などは何処吹く風かとばかりにうけ流して、海賊連のお先走りであるかのやうに浮れた。

 ところが大トンネルの難工事が漸く不吉な噂を流すころになるに従つて、彼等の所謂「世界的不景気」なるものゝ暴風が次第に逞しく荒れ始めるに伴れて、地価などゝいふものは忽ちスロープを降下する橇のやうにもんどりを打つて滑り落ちた。

「これぢや、どうも取りつく島もないぞ。」

 連中の青息は穴のあいた風琴のやうに手応えもなくなり、狸腹や狐憑きの姿も消え失せて、阿父は道具立てばかりが依然として艶々しい独り舞台で腕組をしてゐるのが目立つた。所詮は抵当物件を悉く提供しても、辛うじて債務の域に達する程度で、わづかな蓄妾費の捻出にさへも事欠く状態らしかつた。多くの銀行は一斉に大扉を降すといふ騒ぎが起つたりした。

「何あに、もう少しの辛棒だ。ねえ君……」

 と阿父は思はず話相手にもならぬ私を、仲間とでも見違へて、そんな風に呼びかけたりした。「──あれまで進んだトンネルがこのまゝ中止になるなんてことがあるものか。僕はどんな恐慌が来ようと、政府は信じてゐるんだから……」

 大地震が勃発した。

 私は、両親にあいさつをするいとまもなく、甲斐々々しい背広服をまとつて、東京へ出ると即座に新聞記者の職を求め、実にも華々しい活躍に寝食を忘れた。そして休日毎に遥々と故郷の父母を見舞ふと、二人は仲違ひの状態で、阿母は米塩のもとでだけには事欠ぬと云つてゐたが阿父は西瓜畑の一隅の、漂流者の住みさうな小屋にもぐつて、

「俺ニハ一文ノ金モナクナツタヨ。はつどつぐデモ捏ネテ売リ出サウカシラ?」

 と、たしかにこれもフリガン君と見るより他はない茫然たる無表情の貌で目を丸くしてゐた。

「心細イコトヲ云ハナイデ欲イヨ、だつでい──僕トイフ息子ノアルコトヲ忘レタンデスカ?」

 私は胸を張り出して、大いに慰めた。阿父と英語の会話をとり交したのは全く暫くぶりだつたが、やはりこの方が具合が好かつた。──既にして私は再び明朗至純なる文学青年としての心懐をとり戻してゐた折からであつたから、人間の姿の本来なるものゝ純粋さこそは、寧ろその得意の場合よりも、失意の上にのみ釈然として認め得らるゝものであるといふ自信を持つてゐた。

「オ金モ、今日ダツテ、コレグラヒ持ツテ来マシタ、マタ来月モ持ツテ来ルデセウ、だつでいニ贈リタイノデアリマス。」

 私はポケツトから、あるだけの紙幣をつかみ出して五十円を並べたりした。すると彼は、心細気に横を向いて、

「俺あ、いらねえよ。折角お前えがとつたものなんだから服でもつくつたら好からう。」

 と今度は、明瞭な方言で唸つた。そして決して受取らうとしないのであるが、私だつて出したものを引つこめるわけにもゆかないので、不図、もう羽織も欲しい季節だといふのに浴衣の重ね着をして控えてゐた傍らの雛妓おしやくを見たので、慌ててその子に渡すと、その養母はゝと二人が非常に丁寧に頭をさげて、

「若旦那様、どうも有り難う──」

 とお辞儀をした。

     ──────────

 私は、或る事情のために本稿を此処で中断しなければならない。私は、これから急拠故郷の母の許へ赴くべき用件に迫られたのである。今では普通列車でも一時間三十分で達するのであるが、私は特に、超特急「ツバメ」の急行券を求めて、三十分だけでもの便乗時間を短縮せずには居られない。阿父は、あの漂流小屋で酒を飲み過ぎて斃れ、既に十数年の星霜が経つてゐる。丹那トンネルが開通したのはこの冒頭に誌した如く、去年の今頃であるが、従令阿父が健在であつたにしても、沿線のどこの一個所にも所有を保つた土地も無くなつたから、晩秋の大祭りの酒もうまくは飲めなかつたであらう。──十一月になると未だにナタリーは私の誕生日を祝して贈物を寄せるのが、あの「宮に似た」のエレヂイを私が説明した頃から、二十年以来の習慣である。夫々所持してゐたバースデイ・ブツクにサインを交したのは恰度あの頃であつたが、私はいつの間にか、それを紛失した。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房

   2003(平成15)年510日初版第1刷発行

初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社

   1935(昭和10)年121日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:小林繁雄

2006年53日作成

青空文庫作成ファイル:

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