いぼ
新美南吉
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一
にいさんの松吉と、弟の杉作と、年もひとつちがいでしたが、たいへんよくにていました。おでこの頭が顔のわりに大きく、わらうと、ひたいにさるのようにしわがよるところ、走るとき、両方の手をひらいてしまうところも同じでした。
「ふたり、ちっとも、ちがわないね。」
と、よく人がいいました。そうすると、にいさんの松吉が、口をとがらして、虫くい歯のかけたところからつばをふきとばしながら、いうのでした。
「ちがうよ。おれにはふたつもいぼがあるぞ。杉にゃひとつもなしだ。」
そういって、右手の骨ばったにぎりこぶしを出して見せました。見ると、なるほど、親指と人さし指のさかいのところに、一センチぐらいはなれて、小さいいぼがふたつありました。
この兄弟の家へ、町から、いとこの克巳が遊びにきたのは、きょ年の夏休みのことでした。克巳は、松吉と同い年の、小学校五年生でした。
克巳は五年生でも、からだは小さく、四年生の杉作とならんでも、まだ五センチぐらい低かったが、こせこせとよく動きまわる子で、松吉、杉作の家へくるとじき、はつかねずみというあだ名をつけられてしまいました。
松吉、杉作の家のうらてには、ふたかかえもあるニッケイの大木がありました。その木の皮を石でたたきつぶすと、いいにおいがしたので、おとなたちが、昼ねをしている昼さがりなど、三人で、まるできつつきのように、木のみきをコツコツとたたいていたりしました。
また、あるときは、おじいさんの耳の中に、毛がはえていることを克巳が見つけて、
「わはァ、おじいさんの耳、毛がはえている。」
とはやしたてたことがありました。松吉、杉作は、もうずっとまえから、そんなことは知っていました。が、あまり、克巳がおもしらそうにはやしたてるので、いっしょになってこれも、
「わはい、おじいさんの耳、毛がはえている。」
と、はやしたてたものでした。すると、おじいさんが、松吉、杉作をにらみつけて、
「なんだ、きさまたちゃ。おじいさんの耳に、毛のはえとることくれえ、毎日見て、よく知ってけつかるくせに。」
と、しかりとばしました。そんなこともありました。
克巳はからうすをめずらしがって、米をつかせてくれとせがみました。しかし、二十ばかり足をふむと、もういやになって、おりてしまいましたので、あとは、松吉と杉作がしなければなりませんでした。
あしたは克巳が、町へ帰るという日の昼さがりには、三人でたらいをかついで裏山の絹池にいきました。絹池は、大きいというほどの池ではありませんが、底知れず深いのと、水がすんでいてつめたいのと、村から遠いのとで、村の子どもたちも、遊びにいかない池でした。三人は、その池をたらいにすがって、南から北に横ぎろうというのでした。
三人は南の堤防にたどりついてみますと、東、北、西の三方を山でかこまれた池は、それらの山と、まっ白な雲をうかべているばかりで、あたりには、人のけはいがまるでありません。三人はもう、すこしぶきみに感じました。しかし、せっかくここまでたらいをかついできて、水にはいりもせず帰っては、あまり、いくじのない話ではありませんか。三人は勇気を出して、はだかになりました。そして、土手の下のよしの中へ、おそるおそる、たらいをおろしてやりました。
たらいが、バチャンといいました。その音が、あたりの山一面に聞こえたろうと思われるほど、大きな音に聞こえました。たらいのところから、波の輪がひろがっていきました。見ていると、池のいちばんむこうのはしまでひろがっていって、そこの小松のかげが、ゆらりゆらりとゆれました。三人はすこし、元気が出てきました。
「はいるぞ。」
と、松吉が、うしろを見ていいました。
「うん。」
と、克巳がうなずきました。
三人のはだかん坊は、ずぼりずぼりと水の中にすべりこみ、たらいのふちにつかまりました。そして、うふふふふ、と、おたがいに顔を見合わせてわらいました。おかしいのでわらったのか、あまりつめたかったのでわらったのか、じぶんたちにもよくわかりませんでした。
もう、こうなっては、じっとしているわけには、いきません。三人は足を動かしました。はじめのうちは、調子がそろわないので、ひとつところであばれているばかりでした。が、そのうちに、三人は同じ方へ水をけりました。たらいは、すこしずつ、池の中心にむかって、進みはじめました。
長い時間がたちました。
三人はへとへとになりました。もう足を動かすのがいやになりました。さて、三人は、どこまできたのでしょう。じぶんたちの位置を見て、三人はびっくりしました。いまちょうど、池のまん中にいるではありませんか。
まわりの山で、せみは鳴きたてています。気ばかりあせります。しかし、からだはもう動きません。
「もう、おれ、およげん。」
と弟の杉作が、なきだすまえのわらい顔でいいました。
松吉も、なきたい気持ちでした。だまって目をつむりました。
「ぼくも、もう、だめや。」
と、克巳もいいました。
松吉は目をひらくと、きっぱり、
「もどろう、そろそろいこう。」
と、いいました。
そして、たらいを、ぎゃくの方向に、ぐいとひとつおしました。
杉作も克巳も、だまっていました。しかし、松吉についていくより、しかたがありませんでした。つかれきったふたりの顔に、かすかにわきあがる力のいろが見えました。
たらいは、動いていくようには思えませんでした。いつまでたっても、もとの土手に帰りつくことは、できないように見えました。
三人は、ときどき、ちっとも近くならない土手の方に、ちらっちらっと、絶望したような目をなげました。
そのとき、松吉の口をついて、
「よいとまァけ。」
という、かけ声がとび出しました。
よいとまけ──それは、いなかの人たちが、家をたてるまえ、地がためをするとき、重い大きいつちを、上げおろしするのに力をあわせるため、声をあわせてとなえる音頭です。それはいなかのことばです。町の子どもである克巳に聞かれるのは、はずかしいことばです。しかし、いまは、松吉は、はずかしくもなんともありません。必死でした。
「よいとまァけ。」
と、水をけって、また松吉はいいました。
すると、弟の杉作がなき声で、
「よいとまァけ。」
と、応じました。杉作も必死でした。
「よいとまァけ。」
松吉は、声をはりあげました。
するとこんどは、杉作ばかりでなく、克巳までがいっしょに、
「よいとまァけ。」
と、応じました。
克巳もまた、必死だったのです。
三人とも必死でした。必死である人間の気持ちほど、しっくり結びあうものはありません。
松吉は、じぶんたち三人の気持ちが、ひとつのこぶしの形に、しっかり、にぎりかためられたように感じました。そうすると、いままでの百倍もの力が、ぐんぐんわいてきました。
「よいとまァけ。」
と、松吉。
「よいとまァけ。」
と、杉作と克巳。
きゅうに、たらいが、速くなったように思われました。もう土手は、すぐそこでした。そら、もう、よしの一本が、たらいにさわりました。
克巳は、いなかの松吉、杉作の家に十日ばかりいたのですが、最後のこの日ほど、三人がこころの中で、なかよしになったことはありませんでした。
池から家へ帰ってくると、三人はこころもからだも、くたくたにつかれてしまったので、ふじだなの下の縁台に、おなかをぺこんとへこませて、腰かけていました。
そのとき克巳は、松吉の右手をなでていましたが、
「いぼって、どうするとできる? ぼくもほしいな。」
と、わらいながらいいました。
「ひとつ、あげよか。」
と、松吉はいいました。
「くれる?」
と、克巳はびっくりして、目を大きくしました。
松吉は、家の中から、箸を一本持ってきました。
「どこへほしい。」
「ここや。」
克巳は信じないもののように、クックッわらいながら、左の二の腕を、うえぼうそうしてもらうときのように出しました。
松吉の右手の一つのいぼと、克巳の腕とに、箸がわたされました。
松吉は、大まじめな顔をしました。そして、天のほうを見ながら、
「いぼ、いぼ、わたれ。
いぼ、いぼ、わたれ。」
と、よく意味のわかるじゅもんをとなえました。
そのよく日、町の子の克巳は、なすや、きゅうりや、すいかを、どっさりおみやげにもらって、町の家に帰っていったのでした。
二
牛部屋のかげで、さざんかが白くさくころに、松吉、杉作のうちでは、あんころ餅をつくりました。農揚げといって、この秋のとり入れと、お米ごしらえがすっかり終わったお祝いに、どこの百姓家でもそうするのです。
松吉と杉作が、土曜の午後に、学校から帰ってくると、そのお餅を、町の克巳の家にくばっていくことになりました。これはもうきのう、お餅をつくっているときから、ふたりがおかあさんにたのんで、かたく約束しておいたことです。
なぜなら、このことには、ふたつのよいことがありました。ひとつは、夏休みになかよしになったいとこの克巳に会えるということ、もうひとつは、あまりはっきりいいたくないのですが、おだちんをもらえることです。そしてまた、町のおじさんおばさんは、いなかの人のように、お銭のことではケチケチしません。いつも五十銭ぐらい、おだちんをくれたのです。
おかあさんが、お餅のはいった重箱を、風呂敷につつんでいるとき、松吉は、
「ねえ、おっかさん、電車に乗ってっても、ええかん。」
と鼻にかかる声で、ねだりました。
「なんや? 電車や? あんな近いとこまで、歩いていけんようなもんなら、もうたのまんで、やめておいてくよや。おとっつぁんに自転車でひと走りいってきてもらや、すむことだで。」
「うふん。」
と、松吉は鼻をならしました。しかし、帰りはもらったおだちんで、電車に乗ることができると思って、わずかに心をなぐさめました。
松吉と杉作は、ぼうしをかむらないで家を出ました。ぼうしをかむって町へいくと、町の子どもが徽章を見て、松吉、杉作がいなかからきたことを、さとるにちがいありません。それが、ふたりはいやだったのです。
ふたりが八幡さまの石鳥居の前を通りかかると、そこで、こまを持って、ひとりでしょぼんとしていたけん坊が、
「杉、どこへいくで、遊ぼかよ。」
と、声をかけました。
杉作は、
「おれたち、町へいくんだもん。」
と、いいました。そしてふたりは、新しい幸福にむかって進んでいく人のように、わき目もふらないですぎていきました。
けん坊は、はねとばされた子ねこのような顔をして、ふたりを見送っていました。
村を出てしまったころに、松吉は、じぶんの右手がいたんでいることに、気がつきました。見ると、重箱が右手に持たれているのでした。
ちょうど、うまいぐあいに、一メートルぐらいの竹切れが、道ばたに落ちていました。ふたりはその竹を、風呂敷の結びめの下に通して、ふたりでさげていくことにしました。弟の杉作が先になり、兄の松吉があとになりました。こうしてふたりで持てば、重箱はたいそう軽いのでした。うまいぐあいでした。
ふたりはしばらく、だまっていきました。松吉はぼんやりと、考えはじめました──五十銭くれると。五十銭もくれるだろうか。でもおばさんは、きょ年もそのまえも五十銭くれたから、ことしだって、くれるだろう。五十銭くれると、それでなにを買おうか。模型飛行機の材料──あの米屋の東一君が持っているようなのは、いくらするだろう。五十銭では買えないかなア。それとも、雑誌を買おうかなァ。弟は、なにがいいというかしらん……。
松吉の、とりとめのない夢は、とつぜん、
「どかァん!」
という、とてつもない音で、ぶちやぶられました。松吉はきもをつぶして、あやうく、持っていた竹を、はなしてしまうところでした。
そんな声をだしたのは、すぐ前を歩いている弟の杉作でした。杉作であることがわかると、松吉ははらがたってきました。
「なんだァ、あんなばかみてな声をだして。」
すると杉作は、うしろも見ないで、こういうのでした。
「あっこの木のてっぺんに、とんびがとまったもんだん、大砲を一発うっただげや。」
それでは、しかたがありません。
また、しばらくふたりはだまっていきました。
また松吉は、考えはじめました──克巳はきょう、うちにいるだろうか。おれたちの顔を見たら、どんなに喜ぶだろう。いぼはうまく、腕についたろうか。おれのいぼは、ひとつ消えてしまったけど。
松吉は、じぶんの右手をそっと見ました。
三
町にはいると、ふたりは、じぶんたちが、きゅうにみすぼらしくなってしまったように思えました。
これでは、ぼうしの徽章を見なくても、山家から出てきたことがわかるでしょう。第一、町の人は、こんなふうに、魂をぬかれたように、きょろんきょろんとあたりを見ていたり、荷馬車にぶつかりそうになって、どなりつけられたりはしません。ところが、このきょろんきょろんがふたりともやめられないのでした。
ふたりは、こころの中では、ひとつの不安を感じていました。それは、町の子どもにつかまって、いじめられやしないか、ということでした。だから、ふたりはこころをはりつめ、びくびくし、なるべく、子どものいないようなところをえらんでいきました。
同盟書林という、大きい本屋の前を通りすぎて、すこしいってから、東へはいるせまい路地なかに、克巳の家はありました。そこで、同盟書林をすぎると、ふたりは、首をがちょうのようにのばして、どんな細い路地ものぞきこみました。道もない、ただ家と家のあいだになっているところまで、のぞきこみました。
そのうちに、杉作が、
「あっ、ここだ。」
と、落とした財布でも見つけたように、さけびました。なるほど、その小路のなかほどに、紅と白のねじ飴の形をした、床屋の看板が見えました。──克巳の家は床屋さんでした。
ふたりは、幸運のしっぽを、たしかにつかんだ人のように、あわてずに、進んでいきました。竹切れは、ぬいてすてました。重箱は松吉が持ちました。松吉は口の中で、むこうでいうように、おかあさんから教えられてきたことを、復習しました。
店の前までくると、入口のすりガラスの大戸の前には、冬の午後の、かじかんだ日ざしをうけて、ひとつひとつの葉の先に、とげのあるらんの小さい鉢がふたつおいてありました。らんの根もとには卵のからがふせてあって、それに道のほこりがつもって、うそ寒いように見えました。しかし、店の中は、すりガラスでよくは見えませんが、あたたかそうな湯気がたっています。そこには、やさしいおばさんおじさん、なつかしい克巳がいるのです。
重いガラス戸をあけて中へはいりますと、おじさんがひとり、たたみのしいてあるところに、あおむけにひっくり返って、新聞を読んでいました。こちらの方では、まるい銀の頭を、ぴかぴかにみがきあげられたタオルむしが、ひとりで、ジューン、ジューンと湯気をふいていました。
おじさんは新聞を読みながら、うとうとしていたらしく、しばらくそのままでいましたが、やがて、人のけはいにおどろいて、ガバッと新聞をはねのけ、起きあがりました。それを見て、ふたりはびっくりしました。おじさんではなかったのです。
それはふたりの村の、かじ屋の三男の小平さんでした。小平さんは、そのまえの年の春ごろ、学校を卒業しました。そういえばいつか小平さんが町の床屋さんへ、小僧にいったということを、聞いたような気もします。
ふたりは、つくづくと小平さんの顔とすがたを、うちながめました。
小平さんはなんとなく、おとなくさくなりました。色が白くなり、あごのあたりがこえてきたようでした。頭も床屋にきたからでしょうが、四角なかっこうに、きれいにかりこんでいます。もとから、あまり口をきかないで、目を細くして、にこにこしていました。そのくせ、人のうしろから、よくいたずらをしました。
いちど、松吉は、耳の中へあずきを入れられて、こまったことがありました。ああいうことを、小平さんは、今でもおぼえてるかしらん、忘れてしまったかしらん──ともかく、いまも小平さんは、白いうわっぱりのポケットに両手を入れて、ふたりを見ながら、にこにこしています。
小平さんは、きょうは親方もおかみさんも、金光教のなんとやらへいっていない、克巳ちゃんもまだ学校から帰ってこない、といいました。
ふたりは、ちょっと失望しました。
「だが、まだ三時だから、もうちょっと待っておれよ。そのうちに、おかみさんが帰っておいでるかもしれんに。」
と、小平さんがいいました。
そこでまた、希望がわきました。ふたりは、あがりはなに、目白おしにならんで、腰をかけました。
小平さんは、ともかく、お餅をいただいておこうといって、おくへはいっていき、カタンコトンと音をさせていましたが、やがて、からの重箱を、また風呂敷につつんで出てきました。松吉はそれをうけとって、ひざの横におきました。
あれから、五分たちました。まだ、おばさんは帰ってきません。おじさんも克巳も、帰ってきません。松吉、杉作はいっしょに、小さいためいきをつきました。
小平さんは、ふたりの頭を見ていましたが、
「だいぶ、のびとるな、ひとつ、だちんのかわりに、かってやろか。」
と、いいました。
ふたりは顔を見あわせて、クスリとわらいました。
松吉も杉作も、生まれてからまだ一ども、床屋でかみをかってもらったことはありませんでした。いつもふたりのかみをかったのは、おとうさんか、おかあさんの手ににぎられたバリカンでした。そのバリカンは、もう五、六年まえから、ひどく調子が悪く、ときどき、ぐわッと大きくかみついて、とることもどうすることもできなくなってしまうようなしまつでしたので、ふたりは、家でかみをかることを、あまり好んではいませんでした。
ふたりは、目の前にある、りっぱな腰かけを見ました。白いせともののひじかけがついています。おしりののるところは、黒い皮ではってあります。もたれるところも、黒い皮です。その上に、小さいまくらのようなものまで、ついています。下の方は、足をのせるかねの台があって、それにはすかしぼりの模様があります。このりっぱな腰かけに腰かけて、やってもらうのです。ふたりはまた、なんとなく顔を見あわせました。
小平さんにうながされて、松吉と杉作は、先をゆずりあって、おたがいにすみの方へひっこみあいをしましたが、とうとう、にいさんの松吉が、先にしてもらうことになりました。
松吉はこわごわ、りっぱな腰かけにのりました。ばかに高いところに、のぼったような気がしました。すぐ前の大きい鏡に、あまりにはっきり、じぶんのひょうたん顔がうつりましたので、はずかしくなりました。
小平さんは、まっ白な布で、松吉の首から下をつつんでしまいました。手も出ませんでした。
小平さんは、どこかからバリカンをとり出してきました。バリカンは、家のと同じもののように見えました。バリカンがさわったとき、松吉は思わず首をすくめました。このバリカンも、かみつくかと思ったのです。
ポロリと、白い布の上に落ちてきたものを見ると、かられた、黒い、じぶんのかみの毛でした。なァんだ、もうかられているのかと、思いました。ちっとも、いたくないではありませんか。そこで松吉は、やっと安心して、かたの力をぬきました。
かみがかられてしまうと、松吉は、これでおしまいだと思いました。家ではいつでも、それだけだったからです。ところが、おどろいたことには、腰かけがキーイとかすかな音をたてて、うしろへたおれていきました。
「あッ。」
と、松吉は、声をたてました。しかし、腰かけはたおれたのではありませんでした。もたれだけが、うしろにのびて、腰かけている人があおむけにねるようになっただけでした。
天じょうの白壁や、キャベツの玉のような形の大きい、すりガラスの電燈を見ていると、とつぜん、顔一面に、だッとなにかあついぬれたものをのせられて、目も見えなくなってしまいました。見ていた杉作が、おかしかったのか、ハハハハ、とわらっています。松吉もわらいたいのですが、顔がふさがっていて、わらうことができません。人間は、顔でわらうのだということが、よくわかりました。顔にのせられたのは、むしタオルでありました。
小平さんはタオルをのけると、太い筆のようなもので、せっけんのあわを松吉の顔にぬり、かみそりで、ひたいぎわからそりはじめました。
松吉はそのとき、小平さんがまだ子どもで村にいたころ、松吉たちによくいたずらをしたことを、また思い出しました。小平さんはよくうしろから、そっときて、人の背中へ手を入れたり、わきの下をくすぐったりしました。そして、小さい目を細くして、にやにやわらっていました。
いまも松吉は、小平さんが、そんないたずらを、はじめるのではないかと、おしりのおちつかぬ思いでした。ことに小平さんが、松吉の耳をつまんで、二どばかり、耳の毛をそったときには、松吉は、てっきり、小平さんが、むかしのいたずらをはじめたと、思いました。もうすこしで、クックッとわらいだすところでした。しかし、小平さんの顔を見ますと、まじめな顔をしていました。あそびをしているのではない、仕事をしているおとなの顔つきでありました。
松吉には、小平さんがおとなになったから、もうあそばないということがわかりました。おとなは仕事をするのです。たとえ、人の耳をつまんでそるというような、いたずらみたいなことでも、小平さんは仕事ですから、まじめにするのです。松吉には、おとなになるというのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束のように思われました。なんとなく、さみしい感じがしました。
すみの洗面所で頭をあらい、もう一ぺん腰かけにもどり、顔に、ぬるぬるしたものをぬってもらうと、松吉の番はすみました。こんどは、弟の杉作がかわって、腰かけにのぼりました。
時計を見ると三時四十分でした。さっきは、入口のガラス戸の下までさしていた日ざしが、いまは、上の方に忘れられたように、ほんのすこしのこっているだけです。
と、そのとき、入口の戸をガラガラと乱暴にあけて、茶色のジャケツをきた少年が手さげかばんを持ってはいってきました。
「ただいまァ。」
克巳でした。
松吉と杉作は、一ぺんに生きかえりました。「克巳ちゃん。」ということばが、松吉ののどのところまで出てきました。しかし、そこで、とまってしまいました。克巳のあまりに町ふうなようすに対して、じぶんたちのいなかくささが思い返されたのでした。
克巳は、最初に松吉と、それから杉作と顔をあわせました。しかし克巳の目は、知らない人を見るように冷淡でした。おれたちが、松吉、杉作なことが、まだ、わからないのかなと、松吉は思いました。歯がゆい感じでした。
克巳はながくは、そこにいませんでした。松吉のうしろの階段をのぼって、二階へ上がってしまいました。
でもまだ松吉は、望みをすてませんでした。克巳は、ちょっとした用事を二階ですまして、いまにおりてくるだろう。そしておれたちと遊んでくれるだろうと、松吉は考えていました。
だが、克巳はさっぱりおりてきませんでした。
やがて、克巳の友だちらしいのがふたり、
「克巳くゥん。」
といって、外から店にはいってきました。
克巳は二階からおりてきました。
松吉は、胸がわくわくしました。こんどこそ克巳が、松吉たちになにかいってくれると思ったのです。
しかし克巳は、松吉には目もくれませんでした。そして、ふたりの町の友だちを手まねきして、三人いっしょに、どやどやと二階へあがってしまいました。
松吉は、つき落とされたように感じました。じぶんの立っている大地が、白ちゃけたさびしいものにかわってしまいました。
松吉にはわかりました。克巳にとっては、いなかで十日ばかりいっしょに遊んだ松吉や杉作は、なんでもありゃしないんだと。町の克巳の生活には、いなかとちがって、いろんなことがあるので、それがあたりまえのことなんだと。
四
松吉と杉作は、町から村のほうへ、魂のぬけたような顔をして歩いていきました。
からの重箱は、ズボンとポケットにつっこんだ松吉の右手に、だらしなくぶらさがり、ひと足ごとにおしりにぶつかります。
いくときの、希望にみちた心持ちにひきかえ、帰りの、なんという、まのぬけた、はぐらかされたような心持ちでしょう。
考えてみると、きょうは、あほくさいことでした。第一、克巳に知らん顔をされました。第二に、だちんがもらえなかったので、帰りも電車に乗れませんでした。第三に、やはりだちんがもらえなかったので、雑誌や模型飛行機の材料を買う夢が、おじゃんになってしまいました。
こうしてじぶんたちは、すっぽかされて、青坊主にされて帰るのだと思うと、松吉は、日ぐれの風がきゅうに、かりたての頭やえり首に、しみこむように感じられました。
「どかァん。」
と、杉作がとつぜん、どなりました。
また、とびかと思って、松吉は見まわしましたが、それらしいものは、どこにも見あたりません。かれたクワ畑のむこうに、まっかな太陽が、今しずんでいくところでした。
「なにが、おるでえ。」
と、松吉は杉作にききました。
「なにも、おやしんけど、ただ大砲をうってみただけ。」
と、杉作はいいました。
松吉は、弟の気持ちが、手にとるようによくわかりました。弟も、じぶんのようにさびしいのです。
そこで松吉も、
「どかァん。」
と、一発、大砲をうちました。
すると松吉は、こんな気がしました──きょうのように、人にすっぽかされるというようなことは、これから先、いくらでもあるにちがいない。おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、平気な顔で通りこしていけばいいんだ。
「どかァん。」
と、また杉作がうちました。
「どかァん。」
と、松吉はそれに応じました。
ふたりは、どかんどかんと大砲をぶっぱなしながら、だんだん心を明るくして、家の方へ帰っていきました。
底本:「童話集 ごんぎつね最後の胡弓ひき ほか十四編」講談社文庫、講談社
1972(昭和47)年2月15日第1刷発行
1988(昭和63)年1月30日第30刷発行
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2005年6月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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