「風博士」
牧野信一
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厭世の偏奇境から発酵したとてつもないおしやべりです、これを読んで憤らうつたつて憤れる筈もありますまいし、笑ふには少々馬鹿〳〵し過ぎて、さて何としたものかと首をかしげさせられながら、だんだん読んで行くと重たい笑素に襲はれます。この笑素は化学読本で御存じのあの酸素中の一原素の謂です。決してペーソスなんていふしやれたものではなくて、それはとても悠長なトアパイロン見たいな、出来損ひのアミーバ見たいな奇怪なデタラメさ加減なのですが、さうかと思ふと洒落たアカデミアンで、読んでゆくうちに何だか得体の知れない信用を覚えさせられて来るのです。
そんな感じの小説を読みました。二三日前に、この頃読んだ小説のうちで傑れたものといふ質問をうけた時、私は何うしたことだつたか何時にも小説を読まなかつたことに気づき、慌てゝ傍らの一冊の雑誌をとりあげたところ、そんなやうな不思議な風みたいな作品を発見しました。風と云へばその中には斯んな個所があります。「諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え失せたではないか、姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である。風である風である。」
「諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。」
「かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであらうか? 否否否。万辺否。」
私は、フアウスタスの演説でも傍聴してゐる見たいな面白さを覚えました。奇体な飄逸味と溢るゝばかりの熱情を持つた化物のやうな弁士ではありませんか。
「風博士」といふ題の短篇です。作者の名は坂口安吾です。私にははぢめての、これ以外には未知の人ですが、この作者は今後も屹度愉快な──わかりにくい作品を発表して屡々私に首をかしげさせるだらうと思ひました。云ひおくれましたが、その、変な、傑れた小説といふのは『青い馬』と称ふ同人雑誌に載つてゐます。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第九巻第七号、巻末折込みの「別冊文壇ユウモア」」
1931(昭和6)年7月1日発行
初出:「文藝春秋 第九巻第七号、巻末折込みの「別冊文壇ユウモア」」
1931(昭和6)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2007年11月19日作成
2016年5月9日修正
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