子守つ子
アントン・チエーホフ Anton Chehov
鈴木三重吉訳



 夜、子守子のバルカは、きゝとれないくらゐの、ひくいこゑで、子守歌をうたひながら、赤ん坊のねてゐるゆり籠をゆすぶつてゐました。

「ねん〳〵よう。

ねん〳〵よう。」

 神だなの前には、ランプが緑いろにともつてゐます。壁から壁へ、細いひもがかけわたしてあつて、赤ん坊の着物や、大きなズボンなどが、うす黒くぶらさがつてゐます。ランプのつるしてあるま上の天井が、まるく、大きく、緑いろにかゞやいて、赤ん坊の着物やズボンの影を、長く、ゆり籠の上や、うづくまつてゐるバルカの肩の上に、おとしてゐます。

 火影がゆれると、天井のまるいあかるみやいろ〳〵なものゝ影が、まるで風にあふられたやうにゆらゆらします。部屋の中は息がつまるやうに静かで、スープと靴のにほひがしてゐます。

 赤ん坊がひい〳〵泣きます。あんまり泣きに泣いて、もう声もかれ〴〵になつてゐるのに、それでもまだ泣きやみません。いつになつたら泣きたりるのでせう。バルカはねむくて〳〵たまりません。

 頭はたれ下り、頸はつッぱつて苦しくなり、まぶたも唇も、動かなくなりました。顔はひからびて、石のやうにこはゞつてゐます。頭が、まるでピンの頭ぐらゐにちゞこまつてしまつたやうな気がします。

「ねん〳〵よう。

ねん〳〵よう。」

 バルカは、とぎれ〳〵にうたひました。そこいらでこほろぎがチル〳〵チル〳〵と鳴いてゐます。となりの部屋からは、親方とおかみさんのいびきがきこえます。

 ランプがゆらぎました。緑いろのあかるみと物の影とが、あちこちと動きまはつて、バルカの動かない目の中に、そつとすべりこみました。すると、ねむりかけてゐるバルカの頭の中には、さま〴〵なまぼろしがうかびました。──

 空を、雲が赤ん坊のやうに泣きながら、きれ〴〵になつてとんでいきます。と、風がふいて来て、雲がきえて、こんどは、どろ〳〵にぬかつた広い路がみえ出しました。路の両がはには、つめたいもやをとほして岡がみえます。不意に、だれだか、袋をしよつた、影のやうな人が、グシヤッとぬかるみでころびました。

「どうしたの?」とバルカがきくと、

「ねむるんだ。ねむるんだよ。」と答へます。と、電線にとまつてゐる烏が、赤ん坊のやうに泣きわめいて、ねむつたその人をおこさうとします。

「ねん〳〵よう。

ねん〳〵よう。」

 バルカはまたつぶやくやうにうたひます。すると、こんどは、じぶんが、まつ暗な、息のつまるやうな家の中にゐるのがみえて来ました。

 床の上にはお父つあんがねてゐます。お父つあんはとてもひどいぜんそくで、息をするのもやつとです。むろん口もきけません。たゞ息をはくたびに、車のやうなひゞきがのどからもれるばかりです。

「ぐる、るゝ。ぐるゝゝ。ぐるゝゝ。」

 お母さんは、お父つあんが死にかけてゐるのをしらせに、地主さまのところへいきました。さつき、もうずつと前にいつたのに、いつになつたらかへるのでせう。バルカは、はたにねころんで、お父つあんの「ぐるゝゝ」をきいてゐました。

 だれか、戸口に馬車をとめました。地主さまのおやしきからよこして下さつたお医者さまです。お医者さまは、家の中へはいつてきました。まつ暗なので姿はみえません。その人がせきをするのと、戸のきしるのだけがきこえます。

「あかりをつけろよ。」

 お医者さまがいひます。

「うゝ、ぐるゝゝ。ぐる〳〵。」とお父つあんが答へます。お母さんがかへつて、マッチをさがしはじめました。

「先生さま、ぢきでごぜえます。ぢきでごぜえます。」

 お母さんはかういひながら、ろうそくをともして、おもてへとび出して、先生と一しよにもどつて来ました。

「どんなぐあひだ。」お医者さまは、病人をのぞきこんで聞きました。

「おい、おかみさん、おまいたちは病人をほつぽり出しておいたんだな。」

「へえ、いや、先生さま、もうおむかへが来るんでさあ、どつちみちもう長いことはありません。」

「馬鹿。おれがなほしてやるよ。」

「お願えしやすだ。へえ、どうもありがとうごぜえますだ。でも、どうせ死ななきやあなんねえだら、やつぱり死ななけきやあなりません。」

「これあ病院にいれなけれやあだめだよ。」

 お医者さまは、診察をするといひました。

「今すぐいくといゝんだが、今夜はもうおそいな。病院ぢやみんなねてるかもしれない。まあいゝだらう。心配するな。おれが今手紙をかいてやるからな。」

「あのう、先生さま。」と、お母さんがこまつたやうにいひました。

「うちにや馬がないんで。」

「馬がない? うん、ぢやあ一頭かしてもらふやうに地主にはなしてやらう。」

 お医者さまはかへります。あかりはけされました。バルカは、又お父つあんの「ぐるゝゝ」をきくばかりです。半時間ほどもたつと戸口に馬車がつきました。こんどのは、お父つあんを病院につれていく馬車です。そしてお父つあんはいつてしまひました。

 夜があけて、はれ〴〵とした朝が来ました。お母さんはお父つあんのことがしんぱいなので、病院へいきました。

 と、赤ん坊が泣いてゐます。そのそばで、だれかゞ歌をうたつてゐます。

「ねん〳〵よう。

ねん〳〵よう。」

 お母さんがかへつて来ました。

「ゆんべはよかつたのに。」とお母さんは、すゝり泣きをしながらつぶやきます。

 バルカは胸が一ぱいになつて、森の中へいつて、ひとりでしく〳〵泣きました。

「お父つあんは死んでしまつた。おゝ、お父つあん。」

 ごつん、と頭をぶたれて、はつとバルカは目がさめました。目のまへには、親方が立つてゐます。

「やい、なにをしてやがるんだ。坊やが泣いてゐるぢやねえか。ねむるやつがあるか。」

 親方は、またぴしやんとバルカの頬をなぐりつけました。バルカは、またうと〳〵とゆり籠をゆすぶつて、子守歌をうたひ出します。部屋の中の影はぶる〳〵とふるへうごいて、バルカにまばたきをしてみせ、すぐに又バルカの頭の中にすべりこんで、まぼろしになりました。──

 またどろ〳〵の、ぬかるみがみえて来ました。袋をしよつた人が、グシヤッところがつて、ぐう〳〵ねこんでしまひます。あゝ、あんなふうにごろつとねころんだならば。おゝ、ねむい、ねむい、ねむい。

 だけど、お母さんがやつて来て、はやく〳〵とせかせます。バルカは、お母さんと、町へ仕事をさがしにいくのです。

「どうぞ一銭やつて下さい。」

 お母さんは、あふ人ごとに言葉をかけます。

「その子をおくれよ。」

 だれか知つてゐる人のやうな声がします。

「おい、その子をおくれつたら。」

 はッと、バルカはとびおきました。おかみさんがそばに立つてにらみつけてゐます。

「おまいはねてゐたんだね。ばか。」

 バルカはだまつてつッ立つてゐます。すると、部屋の中が、だん〳〵水いろにあかるんで来て、ズボンの影も、緑いろのランプの光も灰いろにうすれ、やがて、壁の中へすひこまれるやうに消えてしまひました。夜があけて来たのです。おかみさんは、赤ん坊をうけとつてお乳をのませると、胸のボタンをはめながらいひました。

「まだ泣いてるよ、この子は。魔がさしてるんだよ。」

 バルカは、赤ん坊をまたゆり籠に入れて、ゆすぶりはじめます。部屋の中には、もうなんの影もないので、まぼろしがのりうつゝてくることもありません.そのかはり、たゞ、ねむくてたまりません。バルカはねむ気をおひはらはうとして、籠のはしに頭をおしつけて頭で籠をゆすぶります。それでもすぐにまぶたがたるんで、頭がおもくなつて来ます。

「バルカ、ストーブをたきつけろい。」

 戸のむかうから、親方がどなりつけます。さあ、いよ〳〵バルカの仕事がはじまりました。バルカは、まきをとりに、物置へかけだします。それがうれしくてたまりません。かけたりあるいたりしてゐれば、じつとすわつてゐるときよりも、ねむくならないからです。まきをとつて来て火をおこしてゐると、こはばつてゐた顔があたゝかにほぐれ、目もはつきりとさめて来ました。

「バルカ、湯わかしをもつて来てよ。」

 おかみさんがどなります。こんなふうに、あとから〳〵、いろんな命令が出て来るのです。

「バルカ、親方の靴をおみがき。」

 バルカは床に膝をついて靴をみがきはじめます。この大きな靴の中に頭をつッこんでぐう〳〵ねむつたら、どんないゝ気持でせう。かう思ふと、急に親方の靴がふくれあがつて部屋一ぱいにひろがりだしました。はつとして、バルカは靴ブラシをおとしました。けれど、すぐまた頭をふると、きよろきよろとあたりをみまはしました。なんにも大きくなりはしないぢやないかといつた顔つきです。

「バルカ、おもてをおはきよ。」

 バルカは、おもてをはくと、もう一つ店のストーブに火をおこして、こんどは台所へかけていきました。台所には、いろんな仕事がバルカをまちかまへてゐます。なかでも、ジャガイモの皮むきがひと仕事です。バルカは目がちら〳〵して、ナイフをすべりおとしました。すると、両そでをたくしあげた、体のがんじようなおかみさんが、頭がわれるやうにどなりつけます。それがすむと朝ごはんのお給仕をして、縫物をして、それからお午になり、夕方になります。

 だん〳〵、くらくなつていく窓をみてゐると、バルカは、なぜだかじぶんでもわからないなりに、ひとりでにほゝえまれて来ます。今にぐつすりねむれるよと、かう、くらやみが言つてくれるやうに思はれるからでせうか。しかし、夕方は夕方で、またお客さまが大ぜい来ます。

「バルカ、お茶の支度をおし。」

 おかみさんがどなります。湯わかしが小さいので、お客さまに、のみたりるだけお茶をのませるには、水を五へんもさしかへなければなりません。

「バルカ、ビールをかつてこい。」

「バルカ、酒をとつてこい。」

「コロップぬきはどこだい、バルカ。」

「にしんを洗ふんだつてばよ。早くおしよ。」

 やつと、お客さまはかへりました。あかりはけされ、親方もおかみさんも、寝床へはいつてしまひました。

「バルカ、ゆり籠をゆすぶりな。」

 一ばんおしまひの命令です。

 こほろぎがチル〳〵〳〵と鳴いてゐます。天井でぶる〳〵ふるへてゐる緑いろのあかるみ。ズボンや赤ん坊の着物の影。バルカは、そのうちに、またまぼろしをみるのでした。

「ねん〳〵よう。

ねん〳〵よう。」

 バルカはつぶやくやうにうたひます。赤ん坊は泣いて泣いて、へと〳〵になつても泣きつゞけます。バルカの頭の中には、又ぬかるみがあらはれました。袋をしよつた人。お父つあん。お母さん。

 あゝ、ねむい。おゝ、ねむい。

底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版

   1978(昭和53)年1130日初刷発行

底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店

   1975(昭和50)年9

初出:「赤い鳥」赤い鳥社

   1932(昭和7)年7

入力:tatsuki

校正:浅原庸子

2005年819日作成

青空文庫作成ファイル:

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