かたつむり
鈴木三重吉
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一
トゥロットのお母ちやまは、朝、いろんな人たちと一しよに、馬車でそとへお出かけになりました。ド・ヴレーさんといふよそのをぢさまが、馬のたづなをとり、もう一人のをぢさまがラッパをならして、みんなでたのしさうに出ていきました。トゥロットは、ちひさくて、足手まとひになるので別荘にのこされました。
トゥロットは、女中のジャンヌと二人であそぶつもりでゐたのですのに、お母ちやまはトゥロットがたいくつするだらうとおもつて、先生のミスに、来てやつて下さいとおたのみになつたものです。トゥロットは、あゝあと、がつかりしました。お母ちやまは、トゥロットにさうだんもなさらないで、いやな人をおよびになるのですからたまりません。
ミスはお庭のおくのべンチにこしかけて、偉大なお鼻の上にめがねをのつけて、顔中のすぢ一つさへうごかさないで、自動器械のやうに、さく〳〵とご本をめくつてゐます。トゥロットは、ミスにしかられないやうに、何かわるくないことをして、時間をつぶさなければなりません。それでさん〴〵かんがへて、けふはお庭の中をくはしく見て歩いてみようとおもひつきました。
今は、庭もかなりあれてゐて、砂利だの、やせた芝のごみだの、木のきれはしなぞが、ちらかつたりしてゐますが、でもまん中どころにあるバラの木だけは、人の目を引きつけないではおきません。とてもすばらしい、いゝバラの木で、とき〴〵花がさきます。けふも、ちようど一つ、大きくさきひらいてゐます。トゥロットは、その花をうつとりと、いろんな方がくからながめました。それは何ともいへない、きれいな花です。
と、そのうちに、きふにトゥロットの目は、大きくまるくなつて、じつと一ところを見すゑました。ほう、こはいものがゐる。バラの葉の上にかたつむりがのそ〳〵うごいてゐます。おゝ、いやなやつ。うしろにきら〳〵したあとをひいて、頭を右にまはしたり左にまはしたり、つのを出したり、ひつこめたりしてゐます。ちつとも、ゑんりよなんかしてゐやしません。トゥロットは、しばらく、じつと見つめたのちに、するどい声をたてゝミスをよびました。
「ミス、来てごらんなさい。」
ミスは大きな鼻を上げ、ご本をかゝへて、四またぎでトゥロットのそばへ来ました。
「何です。」
トゥロットは、おゝこはい〳〵といふやうに、ゆびさしました。
「かたつむりぢやありませんか。」
それはわかつてゐます。トゥロットが見たつてかたつむりです。
「この軟体動物は植物に害を加へます。殺してもかまひません。」
トゥロットは、けつこうなおゆるしをいたゞきました。しかし、こいつをつかまへるのはたまりません。とてもいやなことです。
「とつて下さいな、ミス。」
ミスは、たちまち、けはしい目つきをしました。
「なぜわたしがそれをつかまへるのです。なぜあなたがつかまへないのです。それがバラを害する以上は、あなたがつかまへるつかまへないは、あなたの幸福にえいきようするのですよ。あなたの幸福を保護するのは、あなたでなければならないはずです。」
トゥロットはためいきをつきました。ミスが一ど言ひ出したら、いくら口ごたへをしたつてだめです。で、トゥロットは手をのべかけて、ひゝい、といふやうにその手をひつこめました。しかししまひには、とう〳〵かたつむりのからの上にゆびをつけました。かたつむりは、びつくりして、すつかり家の中へひつこんでしまひました。もう何も出ては来ません。トゥロットは、ずつと息がらくになりました。しかし、けつきよく同じことでした。いくら何にも出ないからつて、じたい、こんな動物は、とてもすきではないからです。
トゥロットは、つかみ上げはしたものゝ、さてどうしたらいゝかと、もじ〳〵しました。あゝ、いゝことがある。トゥロットは、それをそつと、へいごしにおとなりのお庭の中へなげこまうとおもつて、手をうしろへふり上げました。すると、ミスが、いきなりくびすぢをおさへつけて、こはい声で言ひました。
「トゥロット、ひとの不幸のなかにじぶんの幸をもとめることは禁じられてゐます。この動物をおとなりへなげれば、おとなりの植物を食べます。そんなことをするのは不正です。」
「ぢやァ、どうすればいゝの?」
「おつぶしなさい、足で。」
トゥロットは、こまつて、手の中のかたつむりを見つめました。足でつぶす……ふう、このからが、ぐしやりとなるのをかんがへるだけでも、こいつの肉が、くつの底でぐちや〳〵になるのをかんがへるだけでも、むねがわるくなつて来ます。あゝ、井戸の中へなげこまうかしら。さうだ。その方がよつぽどましだ。
二
トゥロットはさうしようときめかけました。しかし、それも何だか気がひけます。だつて、あはれなこのかたつむりは、何もわるいことをしたわけではありません。こいつは植物の葉なぞの上をうごいて、日光をあびて、ぐるりと一まはりして来て、お食事をするのがたのしみなのです。きつとさうです、でも、バラを食べる。バラに害をする。やつぱり、ばつしてやらなければいけない。
しかし、だれだつてものを食べます。このかたつむりだつて、バラの上をはひまはつてゐるのは悪気があつてではありません。おなかゞすいてゐるからです。からだをやしなはなければならないからです。それをばつしるといふのはひどいやうです。
でも人は、を牛や羊や小羊を殺します。あんなに、かなしい声でなく、かはいさうな小羊をも殺します。たのしいうたをうたふ森の鳥をでもころします。そんなものたちこそ、かたつむりなんかより、よつぽどおもしろい動物で、そして、わるぎなんてものはちつとももつてはゐません。それでも人はそれをみんな殺すのです。だから、このかたつむりだつて……
トゥロットはなげつけて足でふみつぶさうとして、手をふりあげました。でも、やつぱり手をおろしました。手の中にはからをにぎつてゐるのです。
さうだ、人はよくどんな動物でも殺すけれど、それは食べるために殺すのだ。人間のためにいるから殺すのだ。せんにお父さまは、よそのいたづらつ子が、ぱちんこで小鳥をうちおとしたときに、その子の耳をおひつぱりになつたことがある。お父さまは、たいそうおおこりになつた。でも小鳥はくだものをつッつきます。羊だつて牛だつて草をたべたり、きれいな花をむしつて食べたりします。いつかもめ牛が、一どにマーガレットの花を五十ばかりもひつこぬいたことがあります。しかし、そのくらゐのことでその牛を殺していゝかしら。
トゥロットは、あゝでもない、かうでもないと、こねくりかへしてかんがへたあげく、どうにも、とりとめがつかなくなつてきました。すこし泣きたくもなりました。そして、つまるところ、このかたつむりをふみつぶすといふことは、大きな罪ををかすやうな気がしてなりません。しかし、こいつを、このまゝにしておけば、バラの木がいためられるのです。あゝあ、どうしたらいゝだらうと、トゥロットは、ひどくこまつて頭がぼうとなりかけました。
でも、かういふことだけは、ぼんやりなりにも言へるやうです。羊を殺すのはわるい。しかし食べるためになら殺してもわるくはない。かたつむりをころすのはわるい。でも食べ……
トゥロットは、びつくりして、じつと手の中のかたつむりをながめました。おゝいやだ。そんなことは、とても出来つこはない。おゝ、いやだ〳〵。
ミスはとほくから、あざけるやうなようすをして見てゐます。トゥロットがどう結末をつけるかと、ひざの上にごほんをのせて、そり身になつて見てゐるのです。
三
そのミスが、ふいに、針にでもつきさゝれたやうに、とび上り、かなきりごゑをはり上げて、ご本をすつとばしてとんで来ました。
トゥロットは、かたつむりを手でぐいと、のどのおくにおしこんだのです。そして、目をつぶつてのみこんでしまつたのです。
「まあ、とんでもない。……ばかなことを。……どうしてそんなむちやをするのです。ほんとにあきれた。なんておそろしいことをするのです。」
ミスはひつくりかへるほどびつくりして、お部屋へかへつても、フランス語とイギリス語を、ごつちやに、くちびるの上でぶつけ合せました。トゥロットは平気で、にはか雨が来たのを、けろんとして見てゐました。
しかし、じつをいふと、胃ぶくろの中がどうなるか、それがすこし気がゝりでした。いやにグウグウと、へんな音がします。きつとかたつむりが、のそ〳〵歩いてゐるのにちがひありません。かうおもふとすこし胸がむかついて来ました。
でも、まあそれだけのことです。かたつむりはどうせ消化されてしまふでせう。
そこでトゥロットは、雨があがると、またお庭へ出ました。そして、まへよりももつとふかい愛情をもつてバラを見入りました。あはれなかたつむりを、むごたらしくふみつぶしもせず、そしてこのうつくしいバラをも、すつかり保護してやつたことが、トゥロットにはとても〳〵とくいでした。
底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第五巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1929(昭和4)年3月
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2007年2月19日作成
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