ざんげ
鈴木三重吉
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一
ロシアのウラディミイルといふ町に、イワン・アシオノフといふ商人がゐました。住居と、店を二つももつてゐるほどのはたらき人で、謡をうたふことの大好きな、おどけ上手の、正直ものでした。
そのイワンが或夏、ニズニイといふ町の市へ品物をさばきに出かけました。イワンが馬車をやとつて荷物をつみ入れさせ、子どもたちや、おかみさんに、いつてくるよとあいさつをしますと、おかみさんは心配さうな顔をして、
「今日立つのはおよしになつたらどうでせう。私はいやな夢を見たんですが。」と言ひました。
「ふゝん、もうけた金を使つてでも来るかと気になるのかな。」とイワンは笑ひました。
「そんなことならいゝんですけれど、私はそれはへんな夢を見たんです。あなたがニズニイからかへつていらしつて、帽子をおぬぎになると、おつむりの髪がすつかり白髪になつてる夢を見たんです。」
「はゝゝそれはけつこうな前兆だよ。まあ〳〵見てお出で。品物をすつかり売り上げて、土産を買つて来るから。」
イワンはかう言ひ〳〵馬車を走らせて出ていきました。そしてニズニイまでの道のりの半分まで来ますと、リアザンの町から来た、或知合の商人に出あひました。その晩二人は、或村の宿屋について、一しよにお茶を飲んだりしたのち、となり合つた部屋にはいつてやすみました。
イワンはいつも夜は早く寝るのが習慣でした。それであくる朝も、涼しい間に歩かうと思つて、まだ夜のあけないうちに馬車つかひをおこして、馬を引き出させました。宿屋の亭主たちは裏手の小さな建物に寝てゐました。イワンはその亭主をおこしてお金をはらつて立ちました。
そこから二十五マイルばかり来ますと、イワンは道ばたの宿屋へ馬車をとめて、馬にかひばをつけさせました。イワンはお茶の用意をたのんで、それが出来るまで戸口にすわつて、ギターをとり出してならしてゐました。すると、そこへ、三頭だての馬車が、リン〳〵と鈴を鳴らしながらとぶやうにかけて来て、ぴたりとイワンの目の前にとまりました。すると中から一人の巡査が兵たいを二人つれて下りて来て、いきなりイワンに向つて、おまいの名前は何といふか、どこから来たかと聞きます。イワンは、これ〳〵かう〳〵ですと答へて、
「今お茶が来ます。一しよにお飲み下さい。」と言ひますと、巡査は、そんなことには耳をもかさないで、おまいはゆうべどこへ泊つた、一人で泊つたか、それとも、だれかつれのものと一しよだつたか、今朝そのつれのものゝ顔を見たか、一たいどうして夜のあけないうちに立つて来たのだと、うるさく聞きしらべます。イワンは、何だつてそんなことを一々聞きほじるのだらうと、ふしんに思ひながら、すべてをありのまゝに話しました。
「何だか私が盗坊かおひはぎでもしたやうですね。私はじぶんの商用で出かけて来てゐるのです。そんなにくど〳〵おしらべになる必要はありません。」と、イワンはぷり〳〵してかう言ひました。
「ちよつとおまいの荷物を検査する。おい君たち、こつちへ来て下さい。」と、巡査は二人の兵たいをよんで、イワンの荷物をときはじめました。巡査は、イワンの持ものを一々さがしてゐるうちにふと、手さげ袋の中からナイフをとり出して、
「おい、このナイフはだれのものだ。」と、イワンに向つてどなりました。イワンは首をかしげながらそれを見ますと、刃にべつとり血がついてゐます。
「どうしてこのナイフに血がついてゐるのだ。」と巡査はたゝみかけてどなりました。イワンはびつくりしたあまり、返答をしようと思つても急には言葉が出ず、
「し、しりません。」と、どもりながら答へました。
「今朝見ると、おまいのつれの商人はのどを切られて死んでゐた。おまいがその犯人だらう。あの建物は中から錠がかゝつてゐた。そして、おまいと二人きりしかゐなかつたのぢやないか。そのあげくにおまいの袋の中から血のついたこのナイフが出た。おまいのその顔、そのきよ動だけ見ても事実はたしかだ。言へ。どういふふうにして殺したのか、いくら金を盗みとつたか、きつぱりと言へ。」
イワンは、それは私のしたことではありません、私はゆうべ一しよに茶を飲んでからあとは、ずつとあの人の顔を見なかつたのです、私はじぶんのお金を八千ルーブルもつてゐる以外に、人の金なぞはもつてゐません、と、ちかつてかう言ひました。しかしイワンのその声はきれ〴〵でした。恐怖のために顔はまつ青になつて、まるでその罪人かなぞのやうに、からだ中をがた〳〵ふるはせてゐました。
巡査は兵たいに言ひつけて、イワンへ綱をかけさせました。イワンは両足をしばりつけられて、巡査の馬車の中になげこまれると、手で十字を切つて、泣き出しました。
イワンは所持金と馬車につんでゐた商品をことごとく没収された上、そこから一ばん近くの町へはこばれて、牢屋へおしこめられてしまひました。
警察官はウラディミイルの町へ出かけて、イワンの人柄や、ふだんのおこなひなぞをとりしらべました。町の人たちは、イワンは、ずつと前にはよく酒も飲み、なまけもしてゐたが、近来はあまり酒も飲まない、根が正直ないゝ人間だと弁護しました。しかし裁判の結果、イワンは、あの、リアザンの商人を殺して二万ルーブルの金をとつた、実さいの犯人ときめられてしまひました。
二
イワンのおかみさんは、その宣告を聞いてびつくりしました。子ども二人はみんなまだ小さく、下の子なぞはお乳をはなれないくらゐです。おかみさんは、その二人の子どもをつれて、イワンが入れられてゐる牢屋へたづねていきました。はじめはどうしても面会を許されませんでしたが、さんざんにねだりたのんで、やうやく聞きとゞけてもらひ、役人につれられて、イワンのそばへいきました。
いつて見ると、イワンは囚人の服をきせられ、くさりでしばられて、盗人たちや、いろんな罪人たちと一しよに投げこまれてゐます。おかみさんは、イワンのそのありさまを見ると、その場へたふれて、目をまはしてしまひました。おかみさんは、人々にかいほうされて、やうやく正気にかへりました。そして、泣き〳〵子どもを引きよせて、一しよにイワンのそばへすわりました。そして家のことや、店のことなどを話したのち、イワンが町を出てからのことをくはしく聞きたゞしました。
「おや、まあ、さういふわけなのですか。……一たいどうしたらあなたのあかりが立つのでせう。」とおかみさんは涙をふき〳〵言ひました。
「かうなれば、最後に皇帝へ書面を出して、罪のないものに罰を加へて下さらないやうにおねがひするまでだ。」とイワンが答へました。
「私はすぐに皇帝へ願書を出したのですが、つッかへされてしまひました。」とおかみさんが言ひました。イワンはそれを聞くと、もう何を言ふ力もないやうに、だまつてうつぶしてしまひました。
「だから一ばんはじめ私がおとめしたでせう? あんなへんな夢を見たから、あの日は立つのをおよしなさいと言つたんですのに。ね、あなた、私にだけはほんとうのことを言つて下さい。あなたはじつさい何もしたんぢやないのですか。」と泣き〳〵問ひつめました。イワンは、両手を顔におしあてゝ、ぼろ〳〵涙を流しながら、
「あゝ、おまへまでも私をうたぐるのかい。」と言ひました。
さうしてるところへ一人の兵たいが来て、おかみさんや子どもたちに立てと命じました。イワンは家族たちに、最後の「さやうなら」を言ひました。
イワンは一人になると、今のさつき、おかみさんの言つたことを一々考へかへして見ました。
「あの女までが私をうたがはうとしてゐる。ほんとうのことは神さまが見てゐて下さるばかりだ。おすがりするのは神さまより外にはない。私はもう神さまのお慈愛をまつだけだ。」
イワンはかう決心して、この上皇帝へ嘆願書を出すのも思ひとまり、すべての望みもなげうつてしまひました。そしてたゞ神さまへお祈りを上げました。
イワンは笞刑を加へられた上、流罪にされることになりました。それでまづむちでもつて半死になるまでぶたれました。そしてその傷がなほるとすぐに、他の懲役人たちと一しよに、とほくシベリヤへおくられました。
イワンはそこで二十六年の間服役しました。今はイワンの髪の毛も、すつかりまつ白になり、ひげも長くのびて、まばらに、そして灰色になつてしまひました。腰もこゞんで、歩くのも、のそり〳〵としか歩けなくなりました。心もすつかりしをれつくして口をきくこともまれですし、笑ふことなぞは一どだつてありません。たゞ、とき〴〵だまつてお祈りを上げてゐるだけです。
イワンは、こゝへ来てから、靴をこしらへることを習ひました。そしてその仕事でわづかばかりのお金をもらふと、それでもつて「聖書」を買ひました。そして二十六年の間、毎日仕事がをはつてから日がくれるまでの間の、わづかなあかるみでもつて、一生けんめいにそれをよみつゞけました。それから日曜ごとには、獄中の教会堂へ行つて、祈祷書をよみ、合唱に加はつて讃美歌をうたひました。すつかり年をとつても、むかし謡をうたひなれてゐたので、声だけはきれいでした。
監獄の役人たちは、温順なイワンをあはれがつてゐました。一しよにはいつてゐる囚人の全部はイワンを尊敬して、みんなで「おぢいさま」とよび「聖徒」とよんでゐました。みんなは役人にたいして何か願ひ出たいことがあると、きまつてイワンから言つてもらひ、おたがひの間にあらそひがおきると、すぐにイワンのところへ来て、とりさばいてもらひました。
イワンの家からは二十六年の間、何のたよりも来ません。イワンにはじぶんの家内や子どもたちの生死さへもわかりませんでした。
三
ところが、或日、また一団の囚人がロシアからおくられて来ました。夕方になりますと、ふるい囚人たちは、それらの新来のものたちのぐるりにあつまつて、一々、おまいはどこの町、どこの村のものか、どうして処刑をうけたのかと聞きました。イワンもそれらの人々のそばにすわつて、くびをうなだれたまゝ、話を聞いてゐました。
新来の一人に、六十になるといふ、白ひげをみじかくかつた、背のたかい、がんぢような年よりがゐました。そのぢいさんが、みんなに向つて、じぶんが収監されたいきさつを話し出しました。
「実にばかげきつた話だよ。」とぢいさんは言ひ出しました。
「おれは、そりについてゐた馬を一ぴきはづして来たんだ。すると、たちまちつかまつて、窃盗罪に問はれたわけだ。おれは言つたよ。何もぬすんだわけぢやない、早くうちへかへらうと思つて借りたんだ。そのしようこには、家へ来ると、ちやんと馬をにがしてやつてるぢやないか。しかもその馬の御者つてのは、おれのともだちだよ。だから、何もかまやしないぢやないかと言つたんだ。だけど、やつらは、いけない、盗んだんだつて言やあがるんさ。ぢや、いつどこで、どんなふうにして盗んだかい、とつッこむと、それにはまるで返答が出来ないんだ。まつたくおれは、何のわるいこともしないのに、こんなところへ送りつけられたんだ。いや、じつをいへば、そのまへには一ど、ほんとうに悪いことをしたことがある。そいつをおさへられたら、りつぱにこゝへおくられても苦情は言へないんたが、めうなもので、そのときには、とう〳〵つかまらないですんだんだ。といふと、こゝへはじめて来たやうだが、何、前にも一ど来たことがあるよ。そのときには、永くゐないでかへれたのさ。」
「おまいはどこから来たんだい?」と或一人が聞きました。
「おれかい? おれはウラディミイルのものだ。おれんとこのかゝあも、やはりあの町の生れだ。おれはマカールといふ名まへなんだが、世間ぢやセミョニッチとも言つてゐた。」と、ぢいさんは答へました。
イワンはウラディミイルと聞くと、うなだれてゐた頭を上げて、
「ではおまいさんは、あの町のイワンといふ商人のことをしつてゐますか。あの一家のものはまだ生きてゐますかしら。」と、それとなく、じぶんの家内や子どもの安否を聞きさぐらうとしました。
「あゝ、イワンの家か。しつてるとも。あの家は金もちだ。もつとも、お父つあんは、シベリヤへ来てるとかいふがね。やつぱり、おれたち見たいな罪人らしい。ときにおまいはもういゝ年のやうだが、一たい何をしてこんなところへ送られたんだ。」
しかしイワンは、じぶんのいたましい不幸をうちあけて話す元気もありませんでした。イワンは聞かれてもたゞため息をして、
「わしは悪いことをしたので、もう二十六年もこゝにかうしてゐるのだよ。」と答へました。
「悪いことつて何をしたんだい。」とマカールは、かさねて聞きました。
「いや、かういふ目に合ふのがほんとうだらうよ。」とイワンは言ひました。すると、仲間の一人がイワンに代つて話しました。だれか悪いやつがゐて、或商人を殺して、血のついたナイフをこの人の荷物の中へ入れこんだのだ、そのために、罪もないこの人が犯人にされてしまつたのだと言ひますと、マカールは、
「はゝァん。」と、びつくりしたやうにイワンの顔を見つめながら、ぽんとひざをたゝいて、
「へゝえ、さうかなァ。ふうん。めうなこともあるものだね。だがおまいもひどくおぢいさんになつたな。」と、マカールは一人でかう言ひました。
はたのものたちが、マカールにどうしてそんなにびつくりしたやうに言ふのかと聞きますと、マカールは何にも答へずに、
「や、ともかく、この人にあふつていふのがふしぎなのさ。」と言ひました。
イワンは、それではこのぢいさんは、あの商人を殺した犯人をしつてゐるのかもしれないなと思ひながら、
「ぢやァおまいさんはあの殺人事件のことをしつてるんだね。それとも、まへにどこかでわしを見かけたことでもあるのかい。」と聞きました。
「はッは、あの事件をしらないでどうするんだ。世間中のうはさに上つた犯罪ぢやないか。だが、もう古いむかしのことだから、くはしい話はわすれたよ。」
「しかし、おまいさんは、あの事件のほんとうの犯人を知つてるんだらう?」とイワンはつッこみました。するとマカールは笑つて、
「それやおまい、ほんとうの犯人も何も、げんざい、血のついたナイフが荷物の中から出て来た以上は、その人間が殺したんだらうぢやないか。かりに、ほかのやつが、人の荷物の中へ入れこんだものとしても、その本人がつかまらなけやァだめぢやないか。だが考へて見てもわかることだ、人が頭の下においてゐる荷物の中へ、どうしてほかのやつがナイフなんぞをおしこめられるかい。そんなことをすれば、眠つてる当人はすぐに目をさますぢやないか。」
イワンはその言ひぐさを聞いて、ふゝん、あの商人を殺したのはこいつだなとかんづきました。
イワンはだまつて立ち上つて、あつちへいつてしまひました。
四
その晩イワンは何ともたとへやうもないほど悲しい、いやな気もちにおさへられて、眠らうとしても寝つかれません。これまでわすれようとしてゐた、いろ〳〵のことが、一晩中入りかはり目のまへに浮んで来ました。あのニズニイの市へ出かけるときに、門口へおくつて出た、そのときのおかみさんのすがたも目についてはなれません。おかみさんの目の色、笑ひ声、話し声までが、まざまざと目のまへに見えます。それから二人の子どもたちの顔もまざ〳〵と浮んで来ました。二人とも、あのときのまゝの小さな子で、一人はぐわいとうを着て立つてをり、一人は母親の胸の上にだかれてゐます。それからつゞいて、年もわかく、ゆかいにくらしてゐたじぶんのことも思ひかへされました。あのとき捕縛されるぢきまへに、あの村の宿屋の戸口に坐つてギターをひいてゐたすがたも目に見るやうです。それ以来、ずゐぶんながい間、世の中の苦労といふものからはなれてゐるといふことをも、つく〴〵考へました。と、こんどは、あのときむちでうたれつゞけたあの監獄の光景、執行官、まはりに立つてゐた人々、くさり、すべての罪人たち、こゝへ来てから二十六年の間のすつかりの出来ごとを考へかへし、それからじぶんが年のわりよりもずつと老いぼけてしまつたことも考へました。
イワンは、いら〳〵するほどかなしく苦しくて、いつそのこと、もう、ひと思ひに自殺してしまはうかとまで思ひつめました。
「あゝ、これもみんなあの悪いやつのおかげだ。」とイワンは心の中で言ひました。イワンはさう思ふと、もえ上るやうに腹立たしくなつて来ました。
「あいつを殺してやらうか。さかさに、こつちが殺されたつてかまはない、どうかして、ふくしうしてやらなければ虫がをさまらない。」
イワンは、かう思ひつゞけた後、とう〳〵夜があけるまで祈りつゞけにお祈りを上げました。しかしそれでも胸一ぱいのくやしみは取れませんでした。
昼の間は、イワンはわざとマカールのそばへは近づかず、マカールの方を見ることさへしませんでした。
こんなにして二週間といふものが過ぎました。イワンはその間、夜もちつとも眠れないし、のちには身のおき方もないくらゐにもだえなやみました。
或晩、イワンは牢屋の中をぐる〳〵歩いてゐました。囚人たちは、みんな、壁ぎはにつけてある棚の上に一人づゝ寝るのですが、ふと見ると、さういふ或一つのたなの下から、土のかたまりがころころところがり出ました。へんだなと思つて立ちどまつて見ると、れいのマカールが、そのたなの下からはひ出して来ました。イワンは、マカールだと知ると、見ないふりをしてとほりすぎようとしました。ところが、マカールは、いきなりイワンの手をつかんで、
「おい、おれは、この壁の下へ穴をほつてるんだよ。毎晩、長靴へ一ぱいづゝ土を入れて、昼間みんなが仕事に出たすきまに、外の往来へあけるんだ。おい、おぢいさん、だまつてゝくれ。穴さへあければおまいもにげられるんだから。おまいがしやべつてしまへばおれはなぐり殺されてしまふんだ。だが、さうなれや、そのまへに先づ第一ばんにおまいをころしてやるから、そのつもりでゐろ。」とおどかしました。イワンは、怒りにふるへながら、マカールの顔を見ました。
「わしはにげ出す気はないよ。また、おまいもおれを殺す必要はない。おまいはもう、とくのむかしにわしを殺してしまつたぢやないか。わしがその穴のことをしやべるか、しやべらないか、それは神さまのおさしづ一つだ。」
イワンはかう言つて、マカールの手をふりはなしてにげました。
そのあくる日、囚人たちが仕事につれ出されるときに、つき番の兵隊たちは、だれかゞ、部屋の中から長靴をつき出して、土をあけるところをひよいと見つけました。兵隊たちは、おや、と言ひ言ひはいつていつて、部屋中をすつかりしらべてまはりました。すると或寝だいだなの下のところに穴がほりかけてあるのが見つかりました。
だれがやつたのかと、典獄は、みんなを一々せめしらべましたが、だれもかれも私ではないと言ひはりました。中にはマカールのしわざだと知つてゐるものもゐましたが、うつかり口に出せば、たちまちマカールがなぐり殺されるので、だまつてゐました。
典獄は困つたあげく、イワンに向つて聞きました。
「お前は正直な老人だ。神さまのまへで、おれに言つてくれ。一たいだれがあの穴をほつたのか。」
マカールはそのときも何くはぬ顔をしてゐましたが、イワンが何と答へるかとその顔をじいつと見てゐました。イワンはくちびると両手をふるはせてゐるきりで、しばらくの間一ことも言葉を出すことが出来ませんでした。イワンは心の中で思ひました。
「わしを生き殺しにしたあいつだ。あいつをかばつてやる必要はさらにない。あいつも私を苦しめた代価をはらふのがあたりまへだ。……しかし私がしやべつてしまへばあいつはそくざになぐり殺されてしまふにきまつてゐる。わしはあいつを商人殺しの悪ものだときめてゐるものゝ、まん一それが私のかんちがひであつたとしたら、よけいな告げ口をして、あいつを殺させるのも罪なわけである。ともかくしやべつたところで、けつきよく、わしに何の得が来るわけもない。」
「おい、おぢいさん、どうだ。ほんとうのところを言へよ。あの穴をほつたのはだれだ。」
イワンはじろりとマカールの顔を見て答へました。
「それは私には言へません。私がそれをしやべるといふことは神さまがお許しになりません。私が申し上げないのが悪ければ、私をどうにでもなすつて下さい。私の生命はあなたにさし出します。」
典獄はそんなばかな話があるものかと言つて、しつッこく問ひつめましたが、イワンは、どうしてもうちあけませんでした。それでとう〳〵犯人もわからずじまひになつてしまひました。
五
その晩イワンがやうやく眠りかけようとしますと、だれだか、こつそりしのんで来て、イワンの寝だいだなにそつと腰をかけました。やみの中をすかして見ますとマカールです。
「おい、何しに来た。この上わしに何を要求しようといふのだ。」とイワンは、むつとして言ひました。
「いけ。いかないと守衛をよぶぞ。」
かう言ひますと、マカールは、イワンのからだの上へこゞまるやうにして、
「おい、どうぞゆるしてくれよ。」と小さな声で言ひました。
「おまいに何を許すのだ。」
「おれはほんとうに悪ものだ。あの商人を殺して、ナイフをおまいの袋の中へ入れこんだのは、このおれだよ。あのとき、おれはおまいをも殺さうとしたのだ。ところが外で物音がし出したので、ナイフをおまいの袋の中へつッこんで窓からにげ出したんだよ。」
イワンは頭をぐわんとなぐられでもしたやうに、ぼうとなつて言葉も出ませんでした。するとマカールはたなからすべり下りて、床板の下に両ひざをつきながら、
「このとほりあやまる。どうぞ許してくれ。神さまのためだと思つて、おれの罪を許してくれ。おれは、あの商人を殺したことを名乗つて出るつもりだよ。さうすればおまいも許されて故郷へかへれる。そのかはりどうか、これまでおまいを苦しめたことだけは許してくれ。おいイワン、ほんとうに許しておくれ。」
「ふゝん、口だけであやまるのはぞうさもないことだ。だけれど、まあ考へて見ろ。わしはおまいのおかげで、今日まで二十六年の間苦しい目を見て来たんだよ。今になつてかへると言つてどこへかへるのだ。わしのにようぼはもう死んでしまつた。小さいときに分れた子ども二人は、もうわしの顔もおぼえてはゐない。わしはかへらうつたつて、かへるところはないよ。」
イワンは、やつと気をおちつけてかう言ひました。マカールは、そのまゝひざをついたきり、いつまでも立ち上らうともしません。しまひには、とう〳〵床板へ頭をすりつけて、
「まつたくすまないことをした。許してくれ。おれは牢屋へはいつてびし〳〵ぶたれたときでもこれほど苦しくは思はなかつた。かうしておまいのまへにすわつたこの心もちは、むちでぶたれるよりもまだつらいのだ。おれはつく〴〵恥ぢ入つてゐる。おまいはおれをあはれんで、穴のことを言はないでくれた。イワンよ、おれはわるものだつた。どうぞ許してくれ。神さまのおためだと思つて許してくれ。」
マカールはかう言ひ〳〵、とう〳〵しやくり上げて泣き出しました。イワンは、マカールの泣く声を聞くと、じぶんもひとりでに、しく〳〵と泣けて来ました。
「マカールよ、もう神さまも許して下さるよ。神さまのまへへ出れば、わしだつて、おまいより何十倍罪がひどいかもわからない。」
イワンはかう言ふと同時に、これまでながい間おもたかつた心が、急にはれ〴〵して来たやうな気がしました。
その晩からイワンは、もう故郷へかへりたいといら〳〵する心もちもとれてしまひました。もう牢屋から出たいとも思ひません。たゞどうかして早く死にたいと思ふだけでした。
イワンは、マカールに、自首なぞをするにおよばないとかたくとめておいたのですが、マカールは聞かないで、とう〳〵自白してしまひました。しかし、ロシアの裁判所から、イワンを放免するといふ指令が来たときには、イワンはもう死んで、この世の中にはゐませんでした。
底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第六巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1924(大正13)年11月
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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