ぽつぽのお手帳
鈴木三重吉
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一
すゞ子のぽつぽは、二人とも小さな〳〵赤いお手帳をもつてゐます。この二人は、「黒」よりもにやァ〳〵よりも、「君」よりも、だれよりも一ばん早くから、すゞ子のおあひてをしてゐるのです。
一ばんはじめ、或冬の、氷のはつてゐる寒い日に、二だいの大きな荷馬車がお荷物をつんで、ぽつぽたちのながく住んでゐた村から、町の方へ、こと〳〵出ていきました。ぽつぽは、あのまゝかごにはいつて、その二ばんめの荷馬車の、一ばんうしろに乗せられてゐました。二人は、一たいどこへいくのだらうと言ふやうに、しきりにきよと〳〵くびをうごかしてゐました。お父さまはそのときぽつぽに言ひました。
「二人ともおとなしくして乗つてお出で。こんどは海の見えるお家へいくんですよ。」と言ひました。
「そして、そのお家へ、小ちやなすゞちやんが生れて来るのですよ。」と、小石川のお祖母ちやまがそつと二人におつしやいました。ぽつぽは、
「お祖母さま、お祖母さま、そのすゞちやんといふのはだれでございます。」と聞きました。
お母さまは、だまつて、たゞかるくわらひながら、みんなと一しよに車に乗りました。
ぽつぽは、それからこんどのお家へつきました。そのじぶんには、すゞ子の曾祖母は、まだ玉木の大叔母ちやんのところにいらつしやいました。あき子叔母ちやんもまだ来てゐませんでした。おうちには、千代といふ小さな女中がゐました。
ぽつぽは、せんとおなじやうに、お部屋のそとの、ガラス戸のところにおかれました。このお家は、おもてからはいつて来ると、たゞの平家でしたけれど、上へ上つて、がらす戸のところへいつて見ると、そのお部屋のま下が広いおだいどころで、そこからはお部屋はちようど二階のやうになつて、つき出てゐました。
そのお部屋のぢき目のまへは砂地でした。そして、そのすぐさきが海でした。ぽつぽはガラス戸の中から、どんよりした青黒い海を、びつくりして見てゐました。まつ正面の、ずつと向うの方には、小さな赤い浮標がかすかに見えてゐました。
その向うを、黄色いマストをした、黒い蒸汽船が、長い烟をはいて、横向きにとほつていきました。二人のぽつぽは、
「おや〳〵、あんな大きな船が来た。おゝ早い〳〵。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」とおほさわぎをしました。
お母さまはこのお部屋へおこたをこしらへて、小さなすゞちやんが生まれてくるのをまつてゐました。そして千代と二人ですゞちやんの赤いおべゝをぬひました。
暗い冬はそれからまだながくつゞきました。昼のうちは、おもてのじく〳〵した往来を、お馬や荷車やいろ〳〵の人がとほりました。それから、お向ひのうどんやで、機械をまはすのが、ごと〳〵ごと〳〵と聞えました。
しかし夜になると、あたりはすつかり穴の中のやうにひつそりとなつて、たゞ、海がぴた〳〵と鳴るよりほかには、何の音も聞えませんでした。
暗い海の中には、星のやうなあかりがたつた一つ、ちかり〳〵と消えたりとぼつたりしました。それは、昼に赤く見えてゐた、あの浮標の上にとぼるあかりでした。
ぽつぽは、そんな晩には、さびしさうに、夜でも、
「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」となきながら、
「すゞ子ちやんはまだおうまれにならないのですか。いつでせう、いつでせう。」と聞きました。
二
そのうちに、だん〳〵と五月が来ました。海の空もはれ〴〵とまつ青に光つて来ました。
お母さまは、ネルの着ものに、青いこうもりをさして、千代をつれて、そこいらへ買ひものにいきなぞしました。
往来には、もういつの間にか、つばめが、海の向うから来て、すい〳〵とかけちがつてゐました。電信の針金にもどつさりとまつてゐました。
お父さまは、すゞちやんはいつ生れるのでせうねと、よく、小石川のお祖母ちやまとも話し〳〵しました。
お家のちかくには、高井さんのおばあさまといふ、それは〳〵よいおばあちやまがいらつしやいました。そのおばあちやまが、とき〴〵おみやをもつていらしつて、小石川のお祖母ちやまとお二人で、早くすゞちやんが生まれるやうに、いのつて下さいました。
すると、六月の或晩でした。お母さまには、あすはすゞちやんが生れるといふことがわかりました。お父さまも、それはよろこんで、すぐに小石川のお祖母ちやまに来ていたゞきました。
でも、ぽつぽにだけは、みんなだまつてゐました。ぽつぽがよろこんで、あんまりおほさわぎをするとうるさいから、あとでそつと見せてやることにしたのでした。
その晩お母さまは、すゞちやんの寝る小さな赤いおふとんをちやんとしいて、そのそばへやすみました。
お父さまがあくる朝日をさまして見ますと、ちやんとすゞちやんが生まれてゐました。まつ赤なお顔をした、小さい赤ん坊のすゞちやんは、一人で赤いおふとんの中に、すや〳〵とねてゐました。お父さまは、よろこんで、
「お祖母さま、小さなすゞちやんが生れて来ましたよ。」と言つてよびました。お祖母ちやまは、かけていらしつて、
「あら〳〵かはいゝすゞちやんね。」と言つて、それは〳〵およろこびになりました。すゞちやんはそれからしばらくたつて、はじめてお母さまにお乳をもらひました。
すゞちやんは、とき〴〵「おぎァ〳〵」と泣きました。それから、「おふんにやい〳〵」と言ふやうにも泣きました。
ぽつぽは、はじめてすゞちやんの泣き声を聞くと、
「あれはだれでせう。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、しきりにお父さまに聞きました。お父さまは、
「あれはすゞちやんだよ。こんど生れた赤ちやんだよ。」と言ひました。すると、ぽつぽは、よろこんで、
「おやさうですか。」と、ぱた〳〵おほさわぎをしました。そして、
「早く見せて下さい。早く〳〵。」と二人でねだりました。
しかし、すゞちやんは、まだたうぶんは、そつとねかせておかなければならないので、ぽつぽのところへつれていくわけにはいきませんでした。
ぽつぽは、まいにち〳〵、
「どうぞすゞちやんを見せて下さい。早く見せて下さい。」と言つて、かはる〴〵ねだりました。それで或日お父さまは、すゞ子をそつと、おふとんにくるんで、ぽつぽのかごのまへにつれていきました。そして、
「すゞちやん〳〵、ごらんなさい。これがおまいのぽつぽだよ。」と言ひました。ぽつぽは、
「すゞ子ちやん〳〵こんちは。」
「すゞ子ちやん私もこんちは。」と、それは〳〵おほよろこびでかう言ひました。
でも、まだ小ちやなすゞちやんは、まぶしさうに目をつぶつて、おぎァ〳〵といふきりで、ぽつぽを見ようともしませんでした。すゞちやんは、たとへそのとき目をあけても、まだ、ぽつぽどころか、お父さまもお母さまも、なんにも見えなかつたのでした。だれでも小さなときは、目があつても見えないし、お手があつても、かたくちゞめて、ひつこめてゐるだけです。ちようど、足があつても、大きくなるまではあるけないのとおんなじです。
そのうちに、だん〳〵と暑い八月が来ました。海はぎら〳〵と、ブリキを張つたやうにまぶしく光つて来ました。すゞちやんは、昼でも、小さなおかやの中にねてゐました。
お母さまは、お部屋の鏡だんすのふちから、ねてゐるすゞちやんの目のま上へ横に麻糸をわたして、こちらの柱のくぎへくゝりつけました。そして、赤いちりめんのひもの両はしに、小さな銀の鈴をつけて、それをその糸へつるしました。
すゞちやんは、目がさめて、かやをどけてもらふと、黒い、きれいな目をあけて、その赤いひもをぢいつと見てゐました。お母さまはとき〴〵立つて、そのひもをこちらの方へ少しひいて見ました。
さうすると、すゞちやんの黒い目は、すぐに、はすかひにこちらの方を見ました。こんどは向うへやると、すゞちやんはまた黒目をうごかして、そちらの方を見ました。鈴はひもがうごくたんびにりん〳〵となりました。お母さまは、
「まあ、ちやんと見えるのですね。」と言つて、うれしさうに笑ひました。お父さまは、こちらのいすにかけて見てゐました。お部屋の三方には、まつ白な、うすいカーテンがかゝつてゐました。その中に、すゞちやんの着てゐる赤いおべゝと、つるした赤いひもとが、きわだつてまつ赤に見えました。
三
お父さまは、それからまた或日、すゞちやんを、ぽつぽのまへへだいていきました。ぽつぽはよろこんで、
「すゞ子ちやん、すゞ子ちやん、こんちは。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と言つて、おじぎをしました。
お父さまは、
「こつちよ〳〵、すゞちやん。こつちをごらんなさい。」と言ひながら、すゞちやんをかごのまへにすゑるやうにして、ぽつぽを見せようとしました。しかし、すゞちやんは、片手をかためてしやぶりながら、ちがつた方を向いたきり、いくらをしへても、ちつともぽつぽを見ようとはしませんでした。ぽつぽは、
「まあ、まだ〳〵お小さいんですね。いつになつたら、すゞちやんが、ぽつぽやとおつしやるでせうね。」と、さも、まちどほしさうにかう言ひました。お母さまは、
「ほんとにいつのことでせうね。」と言ひながら、お乳の時間が来たので、すゞ子をおひざにとりました。
「なに、ぢきですよ。今にすゞちやんが一人で、ぽつぽのところへ来るやうになりますよ。」
ちようどいらしつてゐたお祖母さまは、かうおつしやりながら、お乳をいたゞいてゐるすゞちやんの、黒い髪の毛をおなでになりました。
「あゝ、ぽつぽに、いゝものを上げてよ。」と、お母さまは、ふと思ひ出したやうに、帯の間から、小さな赤いお手帳を出してぽつぽにわたしました。
お父さまとお母さまとは、いつもすゞちやんが早く大きくなつてくれることばかりまつてゐました。ぽつぽも、そのことばかり言つてまつてゐました。
その十一月に、ぽつぽは、また、すゞちやんや、みんなと一しよに、ちがつた町の方へ遠く引つこしました。それは、ちか〴〵に玉木の大叔母ちやんが、はる〴〵曾祖母をつれて、すゞちやんを見に来て下さるからでした。そして、あき子叔母ちやんもお家の人になるので、すゞちやんの生れたお家ではせまくてこまるからでした。
すゞちやんは、とき〴〵あき子叔母ちやんのおひざにだかれて、ぽつぽのかごのところへいきました。ぽつぽはこちらのお家でもまたガラス戸の中へおかれてゐました。すゞちやんは、ぽつぽのかごのわきに立つちをさせてもらふと、ちようどお口がふちのところへ来ました。すると、すゞちやんはいつの間にか、ちゆッ〳〵と、ふちをしやぶつてゐました。それから、お手にもつてゐるがら〳〵をふりました。
「まァ、すゞ子ちやんは、先から見ると、ずゐぶんおほきくおなりになりましたね。」
ぽつぽはかう言つて、叔母ちやんとお話をしました。
それからまた寒い冬が来ました。その冬があけると、すゞちやんはそろ〳〵はひ〳〵をし出しました。それからまた青い八月がまはつて来ました。すゞちやんは、歩いてはたふれ、歩いてはたふれして、よち〳〵ともう十足ばかりあるけるやうになつてゐました。そのときには、すゞちやんを見たい〳〵と言つておほさわぎをしてゐられた曾祖母も、もうこちらへ来ていらつしやいました。
或日、すゞちやんは、よち〳〵とおすだれのそとへかけて出ました。あき子叔母ちやんは、
「あら、あぶない。」と言ひながら、あわてゝおつかけていきました。すゞちやんはもう少しでたふれるところを、ばたりと、ぽつぽのかごにつかまりました。
「すゞ子ちやん、こんちは、ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、ぽつぽがおじぎをしながら二人でかう言ひました。するとすゞちやんはかごにつかまつたまゝ、そのまねをして、
「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と言ひ〳〵おじぎをしました。あき子叔母ちやんは、それを聞いて、
「おや、今のはすゞちやんでせうか。」と、ふしぎさうな顔をして、ぽつぽに聞きました。ぽつぽはにこ〳〵笑ひながら、
「えゝ、おしまひのはすゞ子ちやんですよ。まァおじやうずですこと。さあ、もう一ど言つてごらんなさい。ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、言ひました。すゞちやんはまたまねをして、
「ぽッぽゥ、ぽッぽゥ。」と、おじぎをしました。あき子叔母ちやんはびつくりして、
「あら、まあ、ほゝゝ。ちよいと、すゞちやんがぽッぽゥ、ぽッぽゥつて言ひましたよ。」と、思はずおほきな声でお母さまをよびました。すゞちやんはその声にびつくりして、
「わァ。」と泣き出しました。
これは、すゞちやんが口を利いた一ばんのはじまりです。お父さまやお母さまはそれを聞いておほよろこびをしました。ぽつぽもそれはよろこんで、来る人ごとにその同じお話をしました。
すゞちやん、あの二人のぽつぽは、こんなときからのぽつぽですよ。
お母さまは、もう先のお家のときに、すゞちやんの生れてから今日までのことで、二人のぽつぽのしらないことは、すつかり話して聞かせました。ぽつぽは、それをみんな、お母さまにいたゞいた小さな赤いお手帳へつけておきました。二人が見てしつてゐることは、もとよりすつかりかきつけてゐます。
ですから、すゞちやんは、大きくなつて、ごじぶんの小さなときのことがわからないときには、いつでも、ぽつぽのお手帳を見せておもらひなさい。
にやァ〳〵や、黒が来たのは、ぽつぽにくらべればずつと後のことです。にやァ〳〵は、すゞちやんが、やつとはひ〳〵するころに、或をぢちやんがもつて来て下さつたのでした。黒は、たつたこなひだ、お家の犬になつたばかりで、もとは、そこいらののら犬だつたのです。そのつぎに、一ばんおしまひに、君がおもりに来たのです。
底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第五巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1918(大正7)年7月
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2006年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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