富岡先生
国木田独歩
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一
何公爵の旧領地とばかり、詳細い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機から雲梯をすべり落ちて、遂には男爵どころか県知事の椅子一にも有つき得ず、空しく故郷に引込んで老朽ちんとする人物も少くはない、こういう人物に限ぎって変物である、頑固である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失なわない。
富岡先生、と言えばその界隈で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴か」と直ぐ御承知の、そして眉をひそめらるる者も随分あるらしい程の知名な老人である。
さて然らば先生は故郷で何を為ていたかというに、親族が世話するというのも拒んで、広い田の中の一軒屋の、五間ばかりあるを、何々塾と名け、近郷の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子を対手に一人の老僕に家事を任かして。
この一人の末子は梅子という未だ六七の頃から珍らしい容貌佳しで、年頃になれば非常の美人になるだろうと衆人から噂されていた娘であるが、果してその通りで、年の行く毎に益々美しく成る、十七の春も空しく過ぎて十八の夏の末、東京ならば学校の新学期の初まるも遠くはないという時分のこと、法学士大津定二郎が帰省した。
富岡先生の何々塾から出て(無論小学校に通いながら漢学を学び)遂に大学まで卒業した者がその頃三名ある、この三人とも梅子嬢は乃公の者と自分で決定ていたらしいことは略世間でも嗅ぎつけていた事実で、これには誰も異議がなく、但し三人の中何人が遂に梅子嬢を連れて東京に帰り得るかと、他所ながら指を啣えて見物している青年も少くはなかった。
法学士大津定二郎が帰省した。彼は三人の一人である。何峠から以西、何川辺までの、何町、何村、字何の何という処々の家の、種々の雑談に一つ新しい興味ある問題が加わった。愈々大津の息子はお梅さんを貰いに帰ったのだろう、甘く行けば後の高山の文さんと長谷川の息子が失望するだろう、何に田舎でこそお梅さんは美人じゃが東京に行けばあの位の女は沢山にありますから後の二人だってお梅さんばかり狙うてもおらんよ、など厄鬼になりて討論する婦人連もあった。
或日の夕暮、一人の若い品の佳い洋服の紳士が富岡先生の家の前えに停止まって、頻りと内の様子を窺ってはもじもじしていたが遂に門を入って玄関先に突立って、
「お頼みします」という声さえ少し顫えていたらしい。
「誰か来たぞ!」と怒鳴ったのは確に先生の声である。
襖が静に開いて現われたのが梅子である。紳士の顔も梅子の顔も一時にさっと紅をさした。梅子はわずかに会釈して内に入った。
「何だ、大津の定さんが来た?、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。
大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔漢学の素読を授った室に通った。無論大学に居た時分、一夏帰省した時も訪うた事はある。
老漢学者と新法学士との談話の模様は大概次の如くであった。
「ヤア大津、帰省ったか」
「ともかく法学士に成りました」
「それが何だ、エ?」
「内務省に出る事に決定りました、江藤さんのお世話で」
「フンそうか、それで目出度いというのか。然し江藤さんとは全体誰の事じゃ」
「江藤侯のことで……直文さんのことで」
「ウーン三輔のことか、そうか、三輔なら三輔と早く言えば可えに。時に三輔は達者かナ」
「相変らず元気で御座います」
「フンそうか、それは結構じゃ、狂之助は?」
「御丈夫のようで御座います」
「そうか、今度逢ったら乃公が宜く言ったと言っとくれ!」
「承知致しました」
「ちっと手紙でもよこせと言え。エ、侯爵面して古い士族を忘れんなと言え。全体彼奴等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚しだぞ。乃公に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴かん理由にいかん」
先ずこんな調子。それで富岡先生は平気な顔して御座る。大津は間もなく辞して玄関に出ると、梅子が送って来た。大津は梅子の顔を横目で見て、「またその内」とばかり、すたこらと門を出て吻と息を吐いた。
「だめだ! まだあの高慢狂気が治らない。梅子さんこそ可い面の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道を辿りながら呟やいたが胸の中は余り穏でなかった。
五六日経つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首を傾けて意外という顔色をした。然し事実全くそうで、黒田という地主の娘玉子嬢、容貌は梅子と比べると余程落ちるが、県の女学校を卒業してちょうど帰郷ったばかりのところを、友人某の奔走で遂に大津と結婚することに決定たのである。妙なものでこう決定ると、サアこれからは長谷川と高山の競争だ、お梅さんは何方の物になるだろうと、大声で喋舌る馬面の若い連中も出て来た。
ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動は尋常でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於ける岩崎三井の祝事どころではない、大変な騒ぎである。両家は必死になって婚儀の準備に忙殺されている。
その愈々婚礼の晩という日の午後三時頃でもあろうか。村の小川、海に流れ出る最近の川柳繁れる小陰に釣を垂る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。
二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮やかな日景は遠村近郊小丘樹林を隈なく照らしている、二人の背はこの夕陽をあびてその傾いた麦藁帽子とその白い湯衣地とを真ともに照りつけられている。
二人とも余り多く話さないで何となく物思に沈んでいたようであったが、突然校長の細川は富岡老人の方を振向いて
「先生は今夜大津の婚礼に招かれましたか」
「ウン招ばれたが乃公は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。
「貴様はどうじゃ?」
「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招もしません」
「招んだって行くな。あんな軽薄な奴のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ! あれから見ると同じ大学を出ても高山や長谷川は人間が一等上だのう、その中でも高山は余程見込がある男だぞ」
細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視めている。富岡老人も黙って了った。
暫くすると川向の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭で姿は能く見えぬが、帽子と洋傘とが折り折り木間から隠見する。そして声音で明らかに一人は大津定二郎一人は友人某、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処に蹲居んでいることは無論気がつかない。
「だって貴様は富岡のお梅嬢に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。
「嘘サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐そうなものだ、あの高慢狂気のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。
三人は一度に「ハッハッハッ……」と笑った。富岡老人釣竿を投出してぬッくと起上がった。屹度三人の方を白眼で「大馬鹿者!」と大声に一喝した。この物凄い声が川面に鳴り響いた。
対岸の三人は喫驚したらしく、それと又気がついたかして忽ち声を潜め大急ぎで通り過ぎて了った。
富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠くの禿山に転じた、姫小松の生えた丘は静に日光を浴びている、その鮮やかな光の中にも自然の風物は何処ともなく秋の寂寥を帯びて人の哀情をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞ましい老人は凝然と眺めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて
「オイ貴公この道具を宅まで運こんでおくれ、乃公は帰るから」
言い捨てて去って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻りと考え込んでいたのである。暫時するとこれも力なげに糸を巻き籠を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程遠からぬ富岡の宅まで行った。庭先で
「老先生どうかしたのか喃」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。
「イヤどうもなさらん」
「でも様子が少し違うから私又どうかなされたかと思うて」
「先生今何をしておいでる?」
「寝ていなさるが枕頭に嬢様呼んで何か細い声で話をしておいでるようで……」
「そうか」
「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」
「晩にでも来る!」
細川は自分の竿を担ついで籠をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡いていた。
その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪うた。田甫道をちらちらする提燈の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途で逢った。逢う度毎に皆な知る人であるから二言三言の挨拶はしたが、可い心持はしなかった。
富岡の門まで行ってみると門は閉って、内は寂然としていた。校長は不審に思ったが門を叩く程の用事もないから、其処らを、物思に沈みながらぶらぶらしていると間もなく老僕倉蔵が田甫道を大急ぎで遣て来た。
「オイ倉蔵、先生は最早お寝みになったのかね?」
「オヤ! 細川先生、老先生は今東京へお出発になりました!」と呼吸をはずまして老僕は細川の前へ突立った。
「東京へ⁈」細川は声も喉に塞ったらしい。
「ハア東京へ!」
「マアどうしたのだろう! お梅さんは?」
「御一緒に」
「マアどうしたのだろう!」校長は喫驚すると共に、何とも言い難き苦悩が胸を圧して来た。心も空に、気が気ではない。倉蔵は門を開けながら
「マアお入りなされの」
校長は後について門を入り縁先に腰をかけたが、それも殆ど夢中であったらしい。
「マア先生は何にも知らないのかね?」
「乃公が何を知るものか、今日釣に行っていたが老先生は何にも言わんからの」
「そうかの?」と倉蔵は不審な顔色をして煙草を吸い初めた。
「貴公理由を知らんかね?」
「私唯だ倉蔵これを急いで村長の処へ持て行けと命令りましたからその手紙を村長さん処へ持て行って帰宅てみると最早仕度が出来ていて、私直ぐ停車場まで送って今帰った処じゃがの、何知るもんかヨ」
「フーン」と校長考えていたが「何日頃帰国ると言われた?」
「老先生は十日ばかりしたら帰る、それも能くは解らんちゅうて……」
「そうか……」と校長は嘆息をしていたが、
「また来る」と細川は突然富岡を出て、その足で直ぐ村長を訪うた。村長は四十何歳という分別盛りの男で村には非常な信用があり財産もあり、校長は何時もこの人を相談相手にしているのである。
「貴公富岡先生が東京へ行った事を知っているか」と校長細川は坐に着くや着かぬに問いかけた。
「知っているとも、先刻倉蔵が先生の手紙を持って来たが、不在中家の事を托むと書いてあった」と村長は夜具から頭ばかり出して話している。大津の婚礼に招ねかれたが風邪をひいて出ることが出来ず、寝ていたのである。
「どういう理由で急に上京したのだろう?」
「そんな理由は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破ていたのである。
「私には解せんなア」と校長は嘆息を吐いた。
「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当が外れたのサ、其処で宜しい此処にもその積があるとお梅嬢を連れて東京へ行って江藤侯や井下伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ」
「そうかしらん?」
「そうとも! それに先生は平常から高山々々と讃めちぎっていたから多分井下伯に言ってお梅嬢を高山に押付ける積りだろう、可いサ高山もお梅嬢なら兼て狙っていたのだから」
「そうかしらん?」と細川の声は慄えている。
「そうとも! それで大津の鼻をあかしてやろうと言うんだろう、可いサ、先生も最早あれで余程老衰て御坐るから早くお梅嬢のことを決定たら肩が安まって安心して死ねるだろうから」
村長は理の当然を平気で語った。一つには細川に早く思いあきらめさしたい積りで。
「全くそうだ、先生も如彼見えても長くはあるまい!」と力なさそうに言って校長は間もなく村長の宅を辞した。
憐むべし細川繁! 彼は全く失望して了って。その失望の中には一の苦悩が雑っておる。彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於て大津も高山も長谷川も凌いでいた、富岡の塾でも一番出来が可かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等二三子には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優った者のように思ってお梅嬢に熨斗を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑まなければならぬこととなった。
然し彼は資性篤実で又能く物に堪え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務を怠るようなことは為ない。平常のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処となく彼に伴うている。
二
富岡先生が突然上京してから一週間目のことであった、先生は梅子を伴うて帰国って来た。校長細川は「今帰国ったから今夜遊びに来い」との老先生の手紙を読んだ時には思わず四辺を見廻わした。
自分勝手な空想を描きながら急いで往ってみると、村長は最早座に居て酒が初まっていた。梅子は例の如く笑味を含んで老父の酌をしている。
「ヤ細川! 突如に出発ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪に触ることばかりだったから三日居て出立て了った。今も話しているところじゃが東京に居る故国の者は皆なだめだぞ、碌な奴は一匹も居らんぞ!」
校長は全然何のことだか、煙に捲かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富岡先生と村長の顔を見比べているばかりである。村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。
「エえまア聞いてくれこうだ、乃公は娘を連れて井下聞吉の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国からわざわざ乃公が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵顔や伯爵顔を遠慮なくさらけ出してその慠慢無礼な風たら無かった。乃公もグイと癪に触ったから半時も居らんでずんずん宿へ帰ってやった」と一杯一呼吸に飲み干して校長に差し、
「それも彼奴等の癖だからまア可えわ、辛棒出来んのは高山や長谷川の奴らの様子だ、オイ細川、彼等全然でだめだぞ、大津と同じことだぞ、生意気で猪小才で高慢な顔をして、小官吏になればああも増長されるものかと乃公も愛憎が尽きて了うた。業が煮えて堪らんから乃公は直ぐ帰国ろうと支度を為ているとちょうど高山がやって来て驚いた顔をしてこう言うのだ、折角連れて来たのだから娘だけは井下伯にでも托けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡が可憐そうだと言ッて、大変乃公を気の毒がっていたとこう言うじゃアないか、乃公は直然彼奴の頭をぽかり一本参ってやった、何だ貴様まで乃公を可憐そうだとか何とか思っているのか、そんな積りで娘を托けると言うのか、大馬鹿者! と怒鳴つけてくれた」
「そして高山はどうしました」と校長は僅かに一語を発した。
「どうするものか真赤な顔をして逃げて去って了うた、それから直ぐ東京を出発て何処へも寄らんでずんずん帰って来た」
「それは無益ませんでしたね、折角おいでになって」と校長はおずおずしながら言った。
先生の気焔は益々昂まって、例の昔日譚が出て、今の侯伯子男を片端から罵倒し初めたが、村長は折を見て辞し去った。校長は先生が喋舌り疲ぶれ酔い倒れるまで辛棒して気燄の的となっていた。帰える時梅子は玄関まで送って出たが校長何となくにこついていた。田甫道に出るや、彼はこの数日の重荷が急に軽くなったかのように、いそいそと路を歩いたが、我家に着くまで殆ど路をどう来たのか解らなんだ。
三
その翌々日の事であった、東京なる高山法学士から一通の書状が村長の許に届いた。その文意は次の如くである。
富岡先生が折角上京されたと思うと突然帰国された、それに就て自分は大に胸を痛めている、先生は相変らず偏執ておられる。我々は勿論先輩諸氏も決して先生を冷遇するのではないが先生の方で勝手にそう決定て怒っておられる、実に困った者で手の着けようがない。実は自分は梅子嬢を貰いたいと兼ねて思っていたのであるから、井下伯に頼んで梅子嬢だけ滞めて置いて後から交渉して貰う積りでいた、然るに先生の突然の帰国でその計画も画餅になったが残念でならぬ。自分は容貌の上のみで梅子嬢を思うているのでない、御存知の通り実に近頃の若い女子には稀に見るところの美しい性質を以ておられる、自分は随分東京で種々の令嬢方を見たが梅子嬢ほどの癖のない、すらりとした、すなおなる女を見たことはない。女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処までも優しいところを梅子嬢は十二分に有ておられる。これには貴所も御同感と信ずる。もし梅子嬢の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子嬢の如き寧ろ完全に近いと言って宜しい、或は剛の分子の少ないところが却て梅子嬢の品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。自分は決して浮きたる心でなく真面目にこの少女を敬慕しておる、何卒か貴所も自分のため一臂の力を借して、老先生の方を甘く説いて貰いたい、あの老人程舵の取り難い人はないから貴所が其所を巧にやってくれるなら此方は又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼します。
但し富岡老人に話されるには余程よき機会を見て貰いたい、無暗に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於て決して遺漏はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いところのある上に、維新の際妙な行きがかりから脇道へそれて遂に成るべき功名をも成し得ず、同輩は侯伯たり後進は子男たり、自分は田舎の老先生たるを見、かつ思う毎にその性情は益々荒れて来て、それが慣い性となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底には常に二個の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡氏、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗れた焦熬している富岡先生の御機嫌に少しでも触ろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されて了う。この辺のところは御存知でもあろうが能く御注意あって、十分機会を見定めて話して貰いたい。
という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込んで、何卒機会を見て甘くこの縁談を纏めたいものだと思った。
三日ばかり経って夜分村長は富岡老人を訪うた。機会を見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔頗る凄まじかったので長居を為ずに帰って了った。
その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で
「馬鹿者! 貴様まで大馬鹿になったか? 何が可笑しいのだ、大馬鹿者!」
と例の大声で罵るのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤られるのかとそのまま足を停めて聞耳を聳てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。
「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍に口をつけて、
「お嬢様が叱咤られているのだ」
「エッお梅嬢が⁈」と村長は眼を開瞳った。その筈で、梅子は殆ど富岡老人に従来一言たりとも叱咤れたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然子供のようで、その父子の間の如何にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。
「マアどうして?」村長は驚ろいて訊ねた。
「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢様にはあんなに優しかった老先生がこの二三日はちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、私も手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、
「あの様子では最早先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼を瞬たいた。この時老先生の声で
「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で
「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干か気嫌が宜えだが校長さんも感心に如何なんと言われても逆からわないで温和うしているもんだから何時か老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」
「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。
倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へ廻わった。村長は腕を組んで暫時く考えていたが歎息をして、自分の家の方へ引返した。
四
村長は高山の依頼を言い出す機会の無いのに引きかえて校長細川繁は殆ど毎夜の如く富岡先生を訪うて十時過ぎ頃まで談話ている、談話をすると言うよりか寧ろその愚痴やら悪口やら気焔やら自慢噺やらの的になっている。先生はこの頃になって酒を被ること益々甚だしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌が愈々難かしくなって来た。殊に変わったのは梅子に対する挙動で、時によると「馬鹿者! 死んで了え、貴様の在るお蔭で乃公は死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子は能くこれに堪えて愈々従順に介抱していた。其処で倉蔵が
「お嬢様、マア貴嬢のような人は御座りませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座りますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。
こんな風で何時しか秋の半となった。細川繁は風邪を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
家内が珍らしくも寂然としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭を上げないので、愈々訝かしく能く見ると蒼ざめた頬に涙が流れているのが洋燈の光にありありと解る。校長は喫驚りして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶しく訊ねた。梅子は猶も頭を垂れたまま運ばす針を凝視て黙っている。この時次の室で
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
「私で御座います。細川で御座います」
「此方へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
「唯今」と校長が起とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇うたが、一言も発し得ない、止まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄が身うちに漲ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許に薬罎が置いてある。
「オヤ何所かお悪う御座いますか」と細川は搾り出すような声で漸と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂としている、細川は呼吸も塞るべく感じた。暫くすると、
「細川! 貴公は乃公の所へ元来何をしに来るのだ、エ?」
寝たまま富岡先生は人を圧しつけるような調声、人を嘲けるような声音で言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来何をしに来るのだ? 乃公の見舞に来るのか。娘の御機嫌を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
校長は眼を閉り歯を喰しばったまま頭を垂れ両の拳を膝に乗せている。
「貴公は娘を狙っておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公は高が田舎の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
校長の顔は見る見る紅をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵る口から能くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝いて出ようとする一語を彼はじっと怺えている。この先生の言としては怪むに足らない、もし理窟を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入をしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
校長は一語を発しない。
「判然と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
細川はきっと頭をあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛を正視した。
「もし乃公が与らぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返して反対を向いて了った。
細川は直ちに起って室を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
「貴下何卒父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒先生を御大切に、貴嬢も御大事……」終まで言う能わず、急いで門を出て了った。
その夜細川が自宅に帰ったのは十二時過ぎであった。何処を徘徊いていたのか、真蒼な顔色をしてさも困憊している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息をした。
五
その翌日より校長細川は出勤して平常の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
もし富岡先生に罵しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶いたであろう、その煩悶も苦痛には相違ないが、これ戦である、彼の意力は克くこの悩に堪えたであろう。
然し今の彼の苦悩は自ら解く事の出来ない惑である、「何故梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向て自分の希望を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望を全く否む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈はない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋ていることを不快には思っていない」との一念が執念くも細川の心に盤居まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常何人に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝るが如かりしを想起す毎に細川はうっとりと夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱、夢にも現にもこの苦悩は彼より離れない。
或時は断然倉蔵に頼んで窃かに文を送り、我情のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了った。こういう風で十日ばかり経った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇った。倉蔵は手に薬罎を持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然お見えになりません?」倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。
「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊ねた。
「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処というて悪るい風にも見えねえだ。然し最早長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息をした。
「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。
「お出なされませ、関うもんかね、疳癪まぎれに何言うたて……」
「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。
「何だかこの頃は始終鬱屈でばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵は傍を向いて田甫の方を眺め最早眼をしばだたいている。
「困ったものだナ、先生は相変らず喧ましく言うかね?」
「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口を用かねえだ」
「妙だねえ」と細川は首をかしげた。
「これまで煩らったことが有ても今度のように元気のないことは無えが、矢張り長くない証であるらしい」
「そうかも知れん!」と細川は眉を顰めた。
「それに何だか我が折れて愚に還ったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、喧まし人は矢張喧しゅうしていてくれる方が可えと思いなされ」
「今夜見舞に行ってみようかしらん」
「是非来なさるが可え、関うもんか!」
「うん……」と細川は暫時く考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」
「かしこまりました、是非今夜来なさるが可え」
細川は軽く点頭き、二人は分れた。いろいろと考え、種々に悶いてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問ことが出来なかった。
それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目な顔をして校長の宅へ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚して目を円くして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶も為ないで帰って了った。
梅子からの手紙! 細川繁の手は慄るえた。無理もない、曾て例のないこと、又有り得べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年の何人も想像することの出来ないことである!
封を切て読み下すと、頗る短い文で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
細川は直ぐ飛んで往った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々この一言を胸に幾度か繰返した、そして一念端なくもその夜の先生の怒罵に触れると急に足が縮むよう思った。
然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後より推し忽ち彼を走らしめつ、彼は躊躇うことなく門を入った。
居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団に倚掛っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景が平常と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処かに悲哀の色が動いている。
校長は慇懃に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何で御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快せん」という声さえ衰えて沈んでいる。
「御大事になされませんと……」
「イヤ私も最早今度はお暇乞じゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑を含んだ。しかし老人は真面目で
「私も自分の死期の解らぬまでには老耄せん、とても長くはあるまいと思う、其処で実は少し折入って貴公と相談したいことがあるのじゃ」
かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々談声が聞え折々寂と静まり。又折々老人の咳払が聞えた。
その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士の許に送った、その文の意味は次ぎの如くである、──
御申越し以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会が無かったからである。
先日の御手紙には富岡先生と富岡氏との二個の人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂る富岡先生の暴力益々つのり、二六時中富岡氏の顔出する時は全く無かったと言って宜しい位、恐らく夢の中にも富岡先生は荒れ廻っていただろうと思われる。
これには理由があるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子嬢を貴所に貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他故郷の先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれ則ち不平、頑固、偏屈の源因であるから、忽ち青筋を立てて了って、的にしていた貴所の挙動すらも疳癪の種となり、遂に自分で立てた目的を自分で打壊して帰国って了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子嬢の為めに老人の描いていた希望は殆んど空になって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所で疳は益々起る、自暴にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
現に拙者が貴所の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子嬢を罵る大声が門の外まで聞えた位で、拙者は機会悪しと見、直に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子嬢をすら頭ごなしに叱飛していたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
然るに昨夕のこと富岡老人近頃病床にある由を聞いたから見舞に出かけた、もし機会が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時く会ぬ中に全然元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂る富岡氏、極く世間並の物の能く通暁た老人に為って了ったことである、更に意外なのは拙者の訪問をひどく喜こんで実は招びにやろうかと思っていたところだとのことである。それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托せられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙を呑んだ位であった、其処で貴所の一条を持出すに又とない機会と思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人の方から梅子嬢のことを言い出した。それはこうで、娘は細川繁に配する積りである、細川からも望まれている、私も初は進まなかったが考えてみると娘の為め細川の為め至極良縁だと思う、何卒か貴所その媒酌者になってくれまいかとの言葉。胸に例の一条が在る拙者は言句に塞って了った、然し直ぐ思い返してこの依頼を快く承諾した。
と云うのは、貴所に対して済ぬようだが、細川が先に申込み老人が既に承知した上は、最早貴所の希望は破れたのである、拙者とても致し方がない。更に深く考えてみると、この縁は貴所の申込が好し先であってもそれは成就せず矢張、細川繁の成功に終わるようになっていたのである、と拙者は信ずるその理由は一に貴所の推測に任かす、富岡先生を十分に知っている貴所には直ぐ解るであろう。
かつ拙者は貴所の希望の成就を欲する如く細川の熱望の達することを願う、これに就き少も偏頗な情を持ていない。貴所といえども既に細川の希望が達したと決定れば細川の為めに喜こばれるであろう。又梅子嬢の為にも、喜ばれるであろう。
そして拙者の見たところでは梅子嬢もまた細川に嫁することを喜こんでいるようである。
これが良縁でなくてどうしよう。
拙者が媒酌者を承諾するや直ぐ細川を呼びにやった、細川は直ぐ来た、其処で梅子嬢も一座し四人同席の上、老先生からあらためて細川に向い梅子嬢を許すことを語られ又梅子嬢の口から、父の処置に就いては少しも異議なく喜んで細川氏に嫁すべきを誓い、婚礼の日は老先生の言うがままに来十月二十日と定めた。鬮は遂に残者に落ちた。
貴所からも無論老先生及細川に向て祝詞を送らるることと信ずる。
六
婚礼も目出度く済んだ。田舎は秋晴拭うが如く、校長細川繁の庭では姉様冠の花嫁中腰になって張物をしている。
さて富岡先生は十一月の末終にこの世を辞して何国は名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚細川繁、友人野上子爵等の名がずらり並んだ。
同国の者はこの広告を見て「先生到頭死んだか」と直ぐ点頭いたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪むものもあり、全く気のつかぬ者もあり。
然しこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝で不平満腹の先生がせめてもの遣悶を知人に由って洩らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた。
底本:「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫、新潮社
1970(昭和45年)年5月30日初版発行
1983(昭和58年)年7月30日22刷
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
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