力餅
島崎藤村
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わたしが皆さんのようなかたとおなじみになったのは、以前に三冊の少年の読本を書いた時からでした。わたしも皆さんにお話しするのを楽しみに思うものですから、こんど新規に一冊の読本を用意しました。
もともとわたしの童話は遠い国の旅から生まれてきたのです。わたしはそんな旅にいて、外国の少年や少女を見るにつけても、日本のほうにるすいする自分の子供らのことをよく思い出しました。長いおるすいもさみしかろうと思いまして、何か外国のほうで見たり聞いたりしたお話を書いて、それを子供らに送りたいと思っていました。遠い旅の空ではそれも思うように果たせませんでしたが、ぶじに日本へ帰ってきまして、自分の子供らに話しかける父のものがたりとして、遠い国のみやげばなしを書きました。それがわたしの『幼きものに』です。
早いものですね。それから、あの『ふるさと』を書いたのはもはや二十二年前、『おさなものがたり』を出したのは十八年前にもなりますよ。皆さんの中には、わたしの『ふるさと』や、『おさなものがたり』を読んでみてくだすったかたもありましょうか。そしてわたしの子供らを覚えていてくださるかたもありましょうか。その子供らがもうみんなおとうさんになったり、おかあさんになったりしています。
ほんとに、月日のたつのは早いものですね。今に孫たちがわたしの童話を読んでみるような時もやって来ましょう。子に話しかけ、また孫に話しかけるということも、楽しいではありませんか。
それは、さておき、今お話ししたように、そもそもわたしが童話を書こうと思い立ったのは遠く国から離れ、自分の子供からも離れている時でありましたが、それから少年のために物書くことの楽しみを知り、書いてみれば自分にも書けてうれしく思いました。そんなわけで、ひとり自分の子供らに話しかけるばかりでなく、広く世の幼い人たちにも、またその親たちにも読んでみてもらおうという心を持つようになったのです。
わたしはまだ皆さんに聞かせるようなお話をいくらも書いていません。長いこの世の旅の間には、皆さんにお話ししたいと思うかずかずの思い出があります。わたしはそういうお話を皆さんにするつもりで、今度あらたに一冊の小さな本を作ろうと思い立ちました。それがこの『力餅』です。
力餅とはなんでしょう。
わたしがこんなことを言い出さなくても、皆さんは学校の先生に連れられながら修学旅行に行って、どこかで力餅を食べたことがありましょう。力餅というものは大福に製して売るところもありますが、多くはあんころに造って、峠なぞを越す人の助けとします。わたしの生まれたところは信州木曾のような深い山の中ですから、東京へ出るにはどうしても峠を越さねばなりません。そのわたしが兄たちに連れられて東京へ修業に出たのは十歳の少年のころでしたが、中仙道にはまだ汽車のない時分で、子供の足にも峠を三つも四つも越したことを覚えています。ばばがなくなりましたおりにも、葬式のため郷里へ帰りまして、その帰り道に和田峠というところを歩いて越し、下諏訪のほうへ出たこともありました。あの峠は五里もあって、遠く山と山との間にひらけた空のかなたには浅間のけむりのなびくのを望むようなところです。あの山坂を越すのはなかなかほねがおれますから、旅人はいずれも峠の上の休み茶屋に足を休めて行きます。それからずっと後になって、今度は自動車で和田峠を越したこともありましたが、あの峠の上まで行くと、西餅屋というのが一軒残って、そこで昔ながらの力餅を売っていました。
わたしたち一生の旅の間には、いくつかの峠も待っています。あんまりおなかがすいていては、けわしい道のよじのぼれるものでもありません。いささかの力餅が、そういう時のわたしたちを力づけてくれます。まあ、この小さな本は、わたしが皆さんのために用意した力餅で、ほんのこころざしばかりの贈り物なのです。
皆さん、おいでなさい。お話ししましょう。まず時計の言い草から始めましょう。
学校生徒が先生から、「スピード時代」ということを教わって来ました。なるほど、先生の言われるように、今は「つばめ」のような早い汽車もあります。以前には船で四日も五日もかかるところを、わずか二時間か三時間で飛ぶような飛行機もあります。これがスピード時代かと思いますと、学校生徒はおどろきまして、今にもっと早い汽車ができ、もっと早く飛ぶ飛行機のあるような時も来るのだろうかと、そう思いました。おうちに帰って柱の古い時計を見ますと、時計は昼も夜も休みなしに、いつでも同じように動いているではありませんか。
「そんなスピード時代が来てごらん、お前はそれで間に合うのかい。」
と学校生徒が問いました。すると、古い時計はあいかわらずカチカチ音をさせながら答えて言うことには、
「そうみんな同じように動いたら、何も動かないように見えますよ。時計までスピード時代だなんて急ぎだしてごらんなさい。静かに立っているものがあればこそ、ほかのものの速いかおそいかもはっきりわかりますよ。わたしはお前さんの生まれたころも、今も、同じように時をお知らせしています。わたしは急ぎもしなければ、休みもしません。わたしの針が急ぎすぎればあとへもどしますし、おそすぎれば前へ進めます。生徒さん、どんなスピード時代が来ても、時計はこれでいいと思いますよ。」
声を出すのは楽しいものであるのに、かわずなかまは土から出てきたばかりで、まだ歌一つうたえませんでした。みんなたんぼのわきや小川のほとりで低い小さな声で鳴いていました。
一ぴきのかわずがありまして、どうかしてもっと声を出したいと思いましたが、それが思うように出てきません。なかまのものは、と見回しますと、いずれも低い小さな声で鳴いていまして、中には穴を出たばかりのように、まだ土をしょったままのかわずもありました。もっとも、これはかわずなかまにかぎりません。鳥ですらやぶのかげなぞにかくれていて、どっちを向いて見ても、声を出すものは少なく、ただただ冷たい風がヒュウ、ヒュウ、空をうなって通るばかり。その吹き狂う北風の音をきくと、よけいにかわずはちいさくなって、出したいと思う声までがのどのところへひからびついたようになりました。
やがていい陽気になりました。そうしましたら、それまでどこかにかくれひそんでいたうぐいすがまっさきに飛び出します。つづいてひばりが舞いあがります。遠い国のほうからはつばめがたくさんやって来ます。そこいらに遊んでいるすずめの群れまでがにわかに元気づきました。
「いい声、いい声。」
かわずは鳥の鳴くのを聞いてみて、もうがまんしきれなくなりました。一雨ごとに水はぬるんでくるものですから、それまでちいさくなってふるえていたかわずも生き返ったようになったのです。
まず声を出せ。そこでかわずも考えました。これは鳥なかまのほうへ行って、声の出し方を覚えてくるにかぎる。そう思いつきましたから、いろいろな鳥のいるほうへ行って、いい声で鳴くのをよく聞いてみました。よくよくこのかわずもがまんがしきれなくなったからでしょう。それから水に帰ってきて、鳥から覚えてきたとおりに自分でもそれをやってみました。なるほど、声は出るには出るが、自分の声とも思われないような声でした。
「ホウ、ホケキョ──ケキョ。」
思わず、かわずは自分ながらふきだしたくなりました。それはかわずに似てもつかないうぐいすの口まねでしたから。でも、このかわずはどうかして声を出したいと思いまして、ひばりのように「チ、チ、チ」とやってみたり、すずめのように「チュウ、チュウ」とやってみたりすると、なおなお自分ながら腹をかかえてふきだしたくなります。遠い国から来たつばめが声の出し方はどうかと思って、今度はあの口ばしの黄色い鳥のようにやってみましたら、これはしたり──まるで異人のまねごとでした。
しかし、熱心というものはえらいものですね。その熱心が自分の声を出すことをこのかわずに教えました。かわずが鳥のまねをしていたのでは、どうしてもだめで、自分には自分の持って生まれた声がある、そこへかわずも気がついたのです。
「グッグッ、グッグッ。」
まずその声からはじめました。
「ギャア、ギャア、ギャア。」
そんな力のこもった声まで出せるようになりました。さあ、かわずはうれしくなりまして、これだ、これが自分の声だと思いますと、自分で自分の声にはげまされました。
「ヒョイ、ヒョイ、ヒョイ、ヒョイ。」
鳴けば鳴くほどかわずの声はすずしくなって行きました。そして、これまであの鳥なかまから声の出し方を見習おうとしたことも、自分にふにあいな物まねも、まんざらむだなほねおりでもなかったと思うようになりました。このかわずが雑木林のすそのまわりを流れている小川のところまで飛んで行ってみますと、そこに泣いている一ぴきの青がえるがありました。
「おや、お前さんはどうしましたか。どうしてそんなところに泣いてるんですか。」
とこちらからかわずが尋ねました。
聞いてみると、その青がえるは親の言うことを聞かないで、親が川へ埋めてくれろと言えば山と言うし、山へ葬けてくれろと言えば川と言ったそうな。そんな親不孝なやつですけれど、親が死んだ時は、親の言うとおり山へ葬けてやりました。それで、雨でも降りそうになると、親の墓が流れる流れるって泣いているんだそうです。
この青がえるの話に、尋ねたほうのかわずもかわいそうになりまして、いっしょに歌の一つもうたおうではないかと言いはげましました。それから二ひきのかわずがいっしょに声をそろえて鳴きだしましたら、それまで低い小さな声しか出せなかったかわずなかままでがわれもわれもと声を合わせます。あっちでも「グッ、グッ」こっちでも「グッ、グッ。」──その声は遠くまでだんだんひろがって行きまして、いつのまにか谷の中はかわずの声でいっぱいになりました。
くりの子供は三人の兄弟のように、同じ一つの青い「いが」の中に成長しました。この子供たちは、頭の先のちょんととがったところから、小がらでふとったところまで、おたがいによく似ていまして、どれが兄やら弟やらわからないほどでした。広い世の中にはふたごと言って、いっしょに生まれてくる子供たちもありますが、これはふたごでなくて三つ子でした。それに、めずらしいほどの仲よしで、一つの「いが」のふところに押し合って大きくなるうちに、まんなかに生まれた子供なぞは息も苦しいほど、ふたりの兄弟の間にはさまって育ちましたが、それでも「だれが押していけません」と言ったことはなく、おたがいにかたく抱き合って、親木の腕にぶらさがっていました。ちょうど、そろって成長するのを楽しみにする三人の仲のいい兄弟のように。
小屋に働いているおじいさんがこの子供たちを見に行くたびに、青い「いが」まで秋らしい色がついて、涼しい風にゆられていました。三人の子供も大きくなりました。おじいさんはよろこびまして、こう声をかけました。
「待て、待て。今におてんとうさまがお前たちをいいくりの子供にしてくださる。」
せみの送別会。
いよいよせみも暗い土の中から出て行くこととなり、古いからをぬぎすてる時が来ましたので、土のもの一同よりより相談して、このせみのために送別会をもよおすことになりました。
世話ずきなむぐらもちは幹事を引き受けましたが、土に住むものばかりで、そう思うようにしたくもできません。なんでもありあわせの品で間に合わせることにしました。ごちそうはありの引いて来たもので間に合わせ、食卓のさらはむぐらもちがさがしてきたどんぐりの実のおわんで間に合わせました。そのために、この世話ずきな幹事はわざわざかしの木の下まで土を持ち上げに行ってきました。
一同が集まりましたところで、みみずが立って、送別のあいさつを述べました。このみみずはからだをこごめたりのばしたりするくせがあるので、その席に集まったものはみな笑いましたが、しかし清い声で、言うこともはっきりとしていました。みみずに言わせると、せみは同じ穴の中にばかり眠っていたように見えたが、今日になってみるとそれが長い長いしたくであったことがわかりました。土に住むものは皆、古い穴にまんぞくしている中で、からを破って出て行こうと思い立ったせみの勇気には感心します。この若者を青空のほうへ送り出すというは、土のもの一同の新しいよろこびです。そうあいさつしました。
それから、余興に移りますと、水に住む音楽者たちがそこへ頼まれて来ていまして、なかまの合唱がありました。そのすずしい声にまじって、びっくりするほど太い、しかし低い音で、調子を合わせるものもありました。
「ブーッ、ブ、
ブーッ、ブ。」
そんな声を出すのは食用がえるというやつでした。この食用がえるは普通のかわずよりも大きく、知らないものにはお化けとまちがえられたくらいの大がえるで、太鼓のような腹から、あの太い声が出るものですから、なかまの合唱に今日ではなくてならない歌い手のひとりとなっているのです。
さて、送別会もすんでみると、せみに別れを告げた土なかまにはいろいろなことを言うものが出てきました。
「あんなことでせみが飛べるかしらん。」
と言うのはねずみでした。
「せみはすこし思いあがっているのじゃなかろうか。」
と言ってみるのはありでした。
「そんなら、わたしをごらんなさい、わたしは一度も古い着物などをぬいだことがない。陸にも、水にも、いっちょうらですぜ。」
こうかわずは言って、土の中から出て行くせみのうわさをしました。
たしかにねずみやありの言うように、せみの思い立っていることは冒険にそういありません。しかし、このせみはまだ若くて、光を求めずにはいられなかったのです。そろそろ穴からはいだして、思いきって古いからをぬぎすてた時は、まだ高い声で鳴くことも知らず、木と木の間を飛び回ることも知りません。にわかに明るいところへ出て見ると、目もくらむばかり。新しく生まれたばかりのせみは、青いすきとおるような羽もまだ弱くて、ただただ静かにそこいらをはい回りました。
朝に晩に、いい牛乳をお得意先のぼっちゃんやおじょうさんにごちそうするばかりでは、牛もつかれます。そこで小諸在の小原というところにかわれている牛は、ご主人の牛乳屋さんに連れられ、牛小屋を出て、烏帽子が岳のふもとにある牧場をさして骨休めに出かけました。
そこは信州小県郡の山奥にありまして、一回りすれば二里もあるほど広々とした大牧場です。西の入の沢ととなえる谷かげにおじいさんの牧夫が住んでいまして、牛をあずかってくれます。ちょうど小原の牛がご主人に連れられて行った時は、ほうぼうからその牧場へ骨休めに来ている牛なかまが五十頭もありました。
小原の牛乳屋さんは一冬ばかりも自分の牛をあずかってもらいたいと言ってよくよく牛の世話を牧夫に頼んでおいて、やがて山をおりて行きました。その広い牧場では牛が勝手に遊べるように放しがいにしてありまして、好きな塩でもなめ、やなぎの葉をこいて食って、谷川の水を飲みさえすれば、たいがいの病はなおるくらいの天然の保養場でした。しかしご主人に残された小原の牛はしきりに家を恋しがりまして、二日ばかりはほかの牛なかまと遊ぼうともしません。
「ほら、ごちそうだよ。」
と牧夫が言いまして、番小屋のほうから持ってきた塩を石の上に山もりに置いて行ってくれますが、小原の牛はわずかにそれをなめてみるばかり、ただただ住みなれた牛小屋のほうを恋しがっていました。そこいらには芝草がいっぱいはえています。飲むにいい水の流れもあります。小原の牛はアケビの実のむらさき色に熟した谷のほうへ行って、そこにかくれ、角のかゆい時には山のつつじの根なぞにこすりつけました。
二日ばかりするうちに、小原の牛もこの牧場に慣れてきました。そろそろほかの牛なかまのほうへ近づいて行くようになりました。向こうの山の傾斜のほうには、寝たり起きたりして遊んでいる牛の群れも見えます。おじいさんの牧夫がなたやかまの類を入れた「山ねこ」というものを背中にしょいながら、西の入の沢から登ってくる時は、きっと塩のごちそうをしてくれるものですから、黒い小牛がまずそれを見つけて耳をふりながらやってきます。額の広い目つきの愛らしい赤牛や、首の長いぶちなぞもそろそろやってきて、頭をふったりしっぽをふったりしながら、塩のほうへ近づいてきます。そこへおなじみの薄い小原の牛でしょう。ほかの牛なかまはみな、「うさんくさいやつが来た」と言わないばかりに、すぐにはいっしょにごちそうにありつこうともしません。いずれもそのまわりを遠巻きに巻いて、じりじり寄ってくるものばかりでした。
どうしてこんなにほかの牛なかまが用心ぶかくするかと言いますに、小原の牛は色も黒く、牝牛ながらにりっぱな体格で、どことなくやさしいうちにも威のある目つきをしていたからでした。
いったい、その牛なかまは、強い牛は強い牛と集まり、弱い牛は、弱い牛と組を立てているようですが、あらたに外からはいってきた牛は、どんなにこちらで仲よくしたいと思いましても、いきなりそのなかまには入れてくれません。それには「角押し」ということをしなければならないのです。そして、先が強ければ、どこまでもそのあとにしたがい、また、こちらが強ければ、向こうから付いてくるというのが、それが牛の性分に近いものなのですから。
そこで、小原の牛もこの牧場へ来てから、めっきりつかれを忘れ、進んでたくさんな牛の前へ出て行くほど元気づきました。その体格を見たばかりでも、多くの牛はしりごみしていました。
「さあ角押しだ。お前から先へ出て行け。」
「いや、お前が出ろ。」
そんなことを言い合うものばかりで、なかなかラチがあきません。中には、「さあ、来い」と言わないばかりに小原の牛のほうをめがけて突進してくるのもありましたが、やがてまた引き返して行きました。
この牛の群れの中に、一ぴきの赤牛があらわれました。その赤牛は強いものどうし集まっていた中から出てきたので、見るからにたくましい様子の牝牛でした。ゆっくりゆっくり小原の牛の前へやって来て角と角をがっちり組み合わせ、やがて全身の力をこめてたがいに押しつ押されつしはじめたのです。
勝負はありました。とうとう、角押しは赤牛の負けとなりました。でも、小原の牛は勝ちほこる様子もなく、あいかわらずやさしい目つきをしながら牧場の内を見回していました。ただ、汗がその黒い毛をつたって、とめどもなく流れ落ちていましたとさ。
牛なかまにも先達はありますね。
羊飼いは子供でも見に行くように、自分のかっている羊の群れを見に行きました。羊なかまから見れば、この羊飼いはみんなのおとうさんでした。
羊のたぐいにも、いろいろありますが、この羊飼いのかっているのは、綿羊というやつでして、厚い毛は綿のようにやわらかく、おまけにかわいらしい目つきをしています。その綿のような毛は織物に織られまして、学校生徒の洋服にもなります。近ごろは洋服ばやりなものですから、ほうぼうの牧場で羊を飼うことをはじめているのです。
その時、羊なかまは、小屋のまわりに遊んでばかりいてもおもしろくありませんから、どこかへ連れて行ってもらうように、羊飼いに頼みました。
「おとうさん、どうぞ。おとうさんどうぞ。」と言って、みんなでねだりました。
羊飼いは自分の子供のように思う羊の頼みでありますし、それにみんなよく言うことをきくものですから、そんならあすは遠足に連れて行きましょうと、羊に約束しました。
遠足と聞いては、羊もうれしかったのです。いずれもあすを楽しみにして、小屋のなかにはいって寝ました。
その翌日になりますと、羊飼いは約束どおり羊の群れを連れに来ました。
「さあ、きょうは遠足だよ。」その羊飼いの声を聞くと、羊なかまは大よろこびで、
「みんな、おいで。」
とてんでに呼び合いまして、そろって小屋を出かけました。中には、うれしそうに首をふって行く羊があります。連れにおくれまいとしてあとから急いで行く羊があります。勢ぞろいをすることのじょうずな羊は、はなればなれになりません。みんないっしょにかたまって、トットと羊飼いのあとについて行きました。
この羊飼いは背も高く、からだも大きく、なかなかりっぱな人でしたが、すこしばかり知恵が足りませんでした。それでも、ある学校にはいって、ほかの人が二年で卒業するところを三年も四年もかかって、羊や豚の世話をすることを見習いました。動物の飼い方から、病気の時の世話のしかたまで、その学校で覚えました。それから牧場へ雇われてきたのです。広い世の中には、もっと知恵があって、それでもぶらぶら遊んでいる人もたくさんありますのに、神さまはこの知恵の足りない羊飼いに働く仕事をあたえてくだすったのです。
「どうだ、いい遠足だろう。お前たちの好きな青い草もあるよ。広い野原もあるよ。」
と羊飼いは言いまして、にこにこした顔をしながら、羊の群れを連れて行きました。このおとうさんの行くほうへは、羊なかまはどこへでもついて行きました。畑があれば畑の間を通りました。谷があれば谷の間を越して行きました。
羊飼いは羊を喜ばせたいばかりに、さんざんいっしょに歩き回りました。そして、すこしくたぶれてきましたから、いいかげんに帰ろうとしますと、なかなか羊なかまが承知しません。
「おとうさん、もっと遠く、もっと遠く。」
羊がさいそくしました。めずらしい遠足で、羊は遠く遠く行きたがりました。行けば行くほど羊の好きなやわらかい草がありました。それを食い食い進んで行った時は、まるで遠足のおべんとうが行く先に羊を待っているようでした。
「おお、あそこにもおべんとう、ここにもおべんとう。」
と羊なかまは青々とした草のはえているところを見つけて、時のたつのを忘れていたのです。
そのうちに、日が暮れかかってきました。あんまり遠く来すぎてしまって羊飼いには方角もよくわかりません。せっかく楽しい遠足に出かけて来たものの、このおとうさんは来た道を忘れてしまいました。そこいらは、だんだんうすぐらくなってくるじゃありませんか。
「さて、これはこまったことになった。羊を連れて帰ることができない。」
と羊飼いは思いました。おてんとうさまは沈んで行くばかりです。道をたずねたいにも、通る人がありません。しまいには、羊飼いは石に腰をかけて、泣きだしたくなりました。
よくよくこのおとうさんもこまってしまったものですから、口笛を吹いてそこいらに遊んでいる羊の群れを呼び集めました。
「おい、わしたちは、どうしたらいいんだろう。」
羊飼いのほうから羊に言いました。ところが、羊の群れはいっこう平気なもので、わけもなしにおもしろがりました。
「もう日が暮れてきたよ。お前たちの行くほうへ、わたしはついて行ってみるから。」
とまた羊飼いが言いました。
見ると、羊の群れは首をそろえ、来た時と同じようにみんないっしょにかたまって、トットと道を帰って行きます。しかたなしに羊飼いもそのあとについて行ってみました。羊の群れの動いて行くほうへは、羊飼いはどこまでもついて行きました。それよりほかに、このおとうさんにはいい知恵が出なかったのです。
「おとうさん、おいで。早く、おいで。」
と羊の群れが呼ぶものですから、そのたびに羊飼いは力をつけられまして、畑があれば畑の間を通り、谷があれば谷の間を越して行きました。やれ、うれしや。羊はちゃんと道を知っていました。おかげで、羊飼いは牧場の小屋のところに帰り着き、その日の遠足を無事にすますこともできました。
その時、羊飼いはうれしさのあまりに、いっしょに帰ってきた羊の頭をなでてやりました。それから、こう言いました。
「お前たちはどうして道を知っていたのかい。わたしより、お前たちのほうが、よっぽど知恵がある。」
かかしぐらいしんぼうのいいものもありません。雨にぬれようが、風にさらされようが、そんなことはいっこう平気で、明けても暮れても同じように田畑の見張りをしながら立っていました。
いたずらで、おしゃべりの好きなすずめたちがそこへやってきました。最初のうちはすずめも用心して、異様な形をしている番人には近づきませんでした。いつ来てもかかしは同じようにポツンと立っているものですから、そのうちにはすずめも慣れて、からかいに来るようになりました。
一羽のすずめがこのかかしのかさの下をのぞきに行きました。それから、こうあいさつしました。
「はい、おとうさん、こんにちは。」
すずめはかかしをばかにしてかかったのです。しかし、かかしは返事もしません。そこへにわかに風が吹いてきましたら、かかしが今にも動きだしそうに見えるので、すずめたちはびっくりして、たがいにチュウ、チュウ呼びかわしながら、逃げるように飛んで行ってしまいました。もともとこのかかしはごくそまつな竹やわらでできたぶきようなものですが、人なみにみのを着、かさをかぶって、しんぼうよく見張りをしながら立っているおかげで、こんな田畑の番人の役がつとまりました。
たんぽぽはふまれるほど花を多くつけるといいます。いじらしい草ではありませんか。ひどい霜が来ますと、根が浮いてしまって、たんぽぽのような草でも、そうはつぼみを持てません。そこをふまれればふまれるほど、根がしまります。草には草の力がありますね。
三月三日の節句の祝いの日に、女の子のある家々のありさまは、ひなの家とでも言ってみたいようなものです。かんむりをつけたおそろいの内裏びな、お庭にはたき火でもしていそうな仕丁、古風な五人ばやし、すべて遠い昔のさまをあらわして、山の上に都を定めたころのおごそかでみやびた音楽も聞えてくるような気がします。白酒、ひしもち、桃の花の掛け物、それに紅白の豆いり──その日を祝うものは、多く山のものですね。
「ごめんください。きょうはおじょうさんのお節句で、おめでとうございます。わたしどもは山のものではありませんが、おなかまに入れていただこうと思いまして、お祝いにあがりました。」
こんなことを言って、さざえやはまぐりが海からわざわざそこへ祝いにやってきます。
それに比べると、五月五日の節句を祝うのが多く川や海のものであるのも、おもしろい。軒にふくしょうぶ、ちまきに巻くまこもの葉、さわやかな五月の風にしっぽを振って大空を泳いでいるようなのぼりのこい、あの長いひげをはやし、黒い衣装をつけて、魔よけの剣をふるっている鍾馗までが、どうも山の人ではなくて、唐国あたりから船で海を渡ってきた目の大きな人のように見えます。五月の節句に飾るものも三月とは大違いで、鎗、刀、甲、冑、弓、矢、それから人形でもなんでも黒い腹掛けをかけた力のある金時のたぐいです。
「ごめんください。きょうはぼっちゃんのお節句で、おめでとうございます。山のものもめずらしかろうと思いまして、わたしどももお祝いにあがりました。」
と言って、こんどは山からその日の祝いにやってきますが、それがおいしいおいしいかしわもちです。
こんなすっきりとした気象と力のこもったしょうぶの節句が、みやびということを忘れない桃の節句とともに、一年に一度はかならずほうぼうの家へたずねて来て、あらゆる女の子や男の子のところへみやげを持って来てくれますよ。
毎年のことと言いながら、どうかしてよい年を送りたいと思わないものはありませんから、いろいろな祭の日が順にやってきますと、こないだは建国祭、次にはなんの記念日というたびに、ほうぼうの家では日の丸の旗を出すやら仕事を休むやらして、そういう日をよろこび迎えます。その中でも、三月と五月の節句の祝いの日ほど、だれにも長いおなじみのものはありません。おとなですら、その日を迎えて一生に二度とは来ない少年の時をなつかしみます。女の子にとっては桃の花のつぼみのような年ごろから、男の子にとってはしょうぶの葉のような伸びゆくさかりの年ごろから、山のものを祝い、海のものを祝いして、新しいおべべに着かえながら、そういう節句にめぐりあうというのも楽しいではありますまいか。
あるところに、お寺の小僧さんがありました。小僧さんがまだ十歳ばかりの少年のころ、そのお寺の和尚さんから思いがけない問を出されて、めんくらいました。
和尚さんがたずねて言うには、
「お前はどうしたら、わたしのような住持になれると考えるか。」
住持とは、お寺を守り立てて行く坊さんのことをいうのです。和尚さんがそう言うものですから、小僧さんも子供心に考えまして、
「そりゃ、和尚さま、飯食って寝て、飯食って寝て、大きくなれば和尚さまのようになれます。」
と答えました。
その時、この答をきくと、和尚さんはいきなりむちを持ってきて小僧さんの頭をなぐりつけたそうです。
お寺は精舎というくらいのところですから、本堂でも庭でも位牌堂でも清潔にしておかねばなりません。それには住持の役をつとめるものがまずからだも心も清くないことには、つとまりません。そこでおシャカさまのような人をお手本にして、そのお手本に仕えるつもりで、毎朝早く起き、鐘もつけば、お経も読み、自分の修行を怠らないようにするのが、いい坊さんと言われる人たちです。どうして飯食って寝て、飯食って寝て、大きくなったぐらいで、りっぱな和尚さんになれるようなものではありません。この小僧さんも十歳ばかりの年ごろに、一生忘れられないような力餅を味わったおかげで、りっぱな人になったと言いますよ。よくよく和尚さんのむちはこの小僧さんの身にこたえたのでしょう。そして、和尚さんからもらった力でも、長い生涯の間には、それを自分のものに変えることもできたのでしょう。力はふしぎなものですね。
少年の日に両親のひざもとを離れて、東京に出てから九年ばかりの間、わたしは一度も郷里に帰りませんでした。
父が郷里のほうでなくなったのは、わたしの十五歳の時でしたが、その時ですら東京にとどまりました。今になって思えば、他人のなかに出て修業することも身を立てるためであったとは言いながら、母がわたしのような小さなものをよく手ばなしたと思います。
わたしも物心づく年ごろには、吉村さんの家のお世話になっていまして、何一つ不自由しなかったのも、まったく吉村のおじさんたちのおかげでしたが、一書生の身としては自分で自分のかじをとりながら進路をさだめるよりほかはなかったのでした。それおもかじだ、今度は取りかじだと、自分で自分に言ってみるようなものでした。それまでただの一度でも郷里へ帰ろうなぞと思ったことのないわたしでしたが、明治学院へはいって、諸国から学びに来ているほかの青年たちを見るにつけ、いろいろ思いあたることもあったのです。いつのまにか自分の性質が人にもまれて、ひねくれたほうにばかり向かうように思われ、もっと素直に自分を伸ばしたいと気がついたからです。一年ばかりも学校を休んで、郷里のほうにいる母のそばに暮らしてみたい、そんなことを吉村のおじさんの前に言い出したこともありました。その時、おじさんから、お前もばかなやつだ、今が勉強ざかりのたいせつな時ではないかと言って、笑われてしまいましたっけ。
いろいろのことを思い出したのも、その時でした。
わたしの郷里は木曾のような山里でしたから、毎年かぶのとれるころになりますと、わたしの家でも母やあによめがたすきがけに手ぬぐいをかぶり、じいやだの下女だのを相手に赤い色のかぶをつけました。そうして野菜をたくわえることがわが家での年中行事の一つのようになっていました。ふるさとのほうのことというと、家のものがつけ物小屋に集まっているありさまが胸に浮かんできました。わたしは、裏の井戸ばたのほうから洗いたてのかぶを運んでくる下女やじいやを思い出し、それを切り分けたりたるにいれて塩をふりかけたりする母たちを思い出しました。
少年の日のことも、それからそれとわたしの胸に浮かびました。
竹馬に、ネッキ(木曾ではショクノという)に、氷すべりに、手おけやたるのたがの古いのを応用した輪回しなぞに、山家の子供らしい遊戯にはわたしも事を欠きませんでした。
わたしの古い家の裏は、じいやの働く木小屋や竹やぶに続き、一方は稲荷のやしろに続いているようなところで、樹木も多く、近所の子供もよく遊びに来ました。そこに古池がありまして、こけむした石がきの間からは雪の下が毎年のように花をたれました。ある日、となりの家の子とともに、わたしはその池のまわりを遊び回って、いかにもかわいらしく咲いている雪の下が目についたものですから、石がきづたいに花をとろうとして、アッと思うまもなく古い池の中へすべり落ちました。その池はおとなの背がようやく立つほどの深さがありましたから、兄がそこへかけてきて、救い出してくれなかったら、わたしはどうなったか知れません。あぶないところでした。
これも幼い時分のことでした。わたしの母はわが家の庭にあるほおの木の葉をとって来まして、それに塩のおむすびを包んでよくわたしにくれました。これはなんでもないことのようですが、ほお葉は広く、おむすびが手につかなくて、子供心にもうれしかったのです。あのほお葉のにおいをかぎながら食べられる熱い塩のおむすびはわたしが好きなものの一つでした。
前にもお話ししたように、わたしの郷里は木曾のような山里でしたから、冬になると山家らしいいもやきもちをつくって、それを毎朝の常食としました。いもやきもちはおもにそば粉を用い、里いもの子をまぜ、大きくにぎりまして、炉の火で焼きました。いろりのまんなかには大きななべが掛かっています。そのまわりには鉄の渡しが置いてあります。うちじゅうのものはいろりばたに集まりまして、鉄の渡しの上に並べたのがこんがりといい色に焼けるのを待つのです。あの新そばのにおいのする焼きたてのいもやきもちに大根おろしを添えて食べるのもまた、わたしが好きなものの一つでした。
これらはみな、山家らしい暮し方から来ていることでした。そういうわたしの家では藍、塩、お砂糖、そのほか紙なぞのぜひとも入用な品をよそから買うだけで、たいがいの物は家で手造りにしました。お茶も家で造りましたし、糸も家で染めました。わたしの着る物は羽織でも帯でも母の織ってくれたもの、わたしのはくぞうりはじいやの造ってくれたものでした。そういう家にわたしも生まれたものですから、子供の時分から物を手造りにすることの楽しみを覚えました。
数衛という髪ゆい親子のことは、わたしの『ふるさと』の中にも書いておきましたが、わたしにとっては忘れられない人たちですから、重複をいとわずここにも書きつけてみたいと思います。
わたしの家に生まれたものには乳母を一人ずつつけて養うならわしになっていましたから、両親がわたしのために乳母として雇い入れてくれたのはお雛という女でした。わたしはお雛のせなかにいてその鼻歌をきいたり、眠くなればそのせなかに寝たりして、だんだん大きくなって行ったようなものです。このお雛の父親の名が数衛で、村でもきたないので評判な髪ゆいでした。昔は男でも髪をゆいましたから、わたしの少年のころにはまだ数衛のような髪ゆいがあったのです。数衛は油じみた髪ゆいの道具をさげてはよくわが家へかよってきまして、父がまだ散髪にならない時分はその髪をゆったり、そのヒゲをそったりしたことを覚えています。そんなきたない髪ゆいの子に育てられたと言って、わたしは村の人たちから、からかわれました。「やあ、数衛の子」なぞと言ってよくからかわれたものです。
このわたしが兄たちに連れられて郷里を出る時、ちいさい時分から自分を抱いたりおぶったりしてくれたお雛の家へも、もう遊びに行かれないかと思いまして、お別れを告げるつもりもなく遊びに行く気になりました。わたしはそっと家を抜け、お雛の家をさして歩いてまいりました。村の裏側づたいに、お墓参りに行く道のほうから、なるべく知った人に会わない竹やぶのわきのたんぼ中の細い道なぞを通りまして、こっそりとかくれるようにして出かけて行きました。というのは、お雛の家へ遊びに行くところをだれかに見つけられたら、また人にからかわれると思うからでした。
数衛の家は村の中でもずっと坂の下のほうで、水車小屋に近いところにありました。一すじの水の流れが音を立てて家の前の石がきの間に走ってきているようなところです。
ちょうど数衛は家にいる時で、わたしが遊びに行きましたら、よく来てくれたと言って、たいそうよろこびました。例の油じみた髪ゆいの道具なぞが置いてある炉ばたで、わたしのためになべで菜飯をたいてくれました。わたしがなすが好きだからと言って、皮のまま輪切りにしたやつをみそしるにしてくれました。その貧しい炉ばたで味わったそまつなお別れの食事は、わたしにとって一生忘れられないものです。
それからわたしは東京に出て、なすの季節というと数衛のつくってくれたみそしるをよく思い出しました。二度とわたしはあの味に比べられるものにはであいません。
およそ不似合いなもの、わたしの郷里の人、末木兵次郎さんのあだ名。うそが多くてずるく立ち回ることを、わたしの郷里のほうではごまをすると言いますが、だれのいたずらからか、この兵次郎さんには「ごま兵さん」というあだ名がついていました。そのくせ、兵次郎さんは村での正直者でした。おそらく、兵次郎さんは、そんないやなあだ名をつけられていても気にするような人ではなく、「ごま兵、ごま兵」と呼ばれれば呼ばれるほど、ますますうそのない人になって行ったのでしょう。
わたしの生まれた村はかきの木の里です。そろそろ梅の花のかおってくる節分の日に、わたしのいなかではかきの木を打つということをやります。二人の男がかきの木の下へ行きます。一人は手にした棒で木の幹をぶんなぐりながら、
「なると申すか、ならぬと申すか。」
と言って責めます。その時、もう一人のほうがかきの木にかわって、
「なります、なります。」
と答えるのです。強く打たれれば打たれるほど、その年のかきのみのりがいいとは、幼い時分に村の人から話しきかされたことでした。ふるさとなつかしいわたしの胸には、こんな古いならわしまでが浮かんできました。
長野県、西筑摩郡、神坂村──そこが母たちの住んでいたところです。村はずれの新茶屋に芭蕉翁の句塚がありまして、信濃と美濃の国境にあたることを旅人に教えるところです。道ばたの畑の間には赤みがかったむらさき色の桑の実が熟し、秋風の吹くころには山ぐりの落ちる木曾路の入口にあたるところです。
恵那山は村から近く望まれる山です。今でこそ、木曾も昔の木曾ではなく、中央線の鉄道が敷かれるころから谷あいも開けてずっと明るくなりましたが、わたしが子供の時分にはもっと樹木は深く、昼でも暗いくらいのところがありました。少年のわたしはわが家のじいやに連れられ、村から小一里ばかり山道を歩いて、そこに祭ってある山の神の小さなほこらの前へおもちをそなえに行ったことを覚えています。
まあそんな山里ですが、信濃の国の中でも一番西のはずれにあたる峠の上の位置にあるものですから、一方にながめがひらけていまして、美濃の平野の空を望むこともできるようなところです。お天気のいい日には遠くかすかに近江の伊吹山まで見えるといいます。わたしはあの恵那山のふもとの村に母を置いて考えることを何よりの心のよろこびとし、いつまでも母がたっしゃで、ふるさとの人たちを相手に働いてくれるようにと、それのみを願っていました。
ふるさとのお話につけ、木曾という地名の意味をここに書きつけましょう。曾とは麻のことです。麻の皮をはいだのを木曾、畑から切って来たのを生曾、日に乾したのを乾し曾、花ばかりなのを男曾、実のなるのを女曾、男曾の中でも長くて大きいのを重曾なぞと言います。これは里ことば──すなわち、地方のことばですが、木曾の木とは、生糸の生、生そばの生と同じで、生のままの麻のことを言った古いことばであろうということです。
木曾の麻衣とて、わたしの郷里では古くから麻を植え、布を織り、産業としましたから、やがてそれが土地の名ともなったのでしたろう。
恵那山の裏山つづきに御坂峠というところがあります。木曾の御坂とはその峠のことです。
山と山との連なりつづいた間に古い道の残っているところで、わたしの村の裏側からよく見えます。御坂越えといいまして、ずっと昔の旅人は尾根づたいにそんな高い峠を越したのです。
古い歴史の物語に、あの日本武尊が地方平定の重い任務を帯びたもうた時、ご一行は二隊にわかれまして、鑑察の役目をうけたまわりました吉備武彦は越後へむかい、尊は道を分けて信濃に進み入られたとしてあります。そのお帰り道に、尊のお通りになったのが木曾の御坂でした。
なんにしても、わたしたちの山国は谷多く、林も深く、がけにはくまざさおい茂り新しい道ができて樹木や岩石の切り開かれない時分には山ひる、ぶよ、そのほか無数のやぶ蚊なぞになやまされたくらいのところです。大昔の山越しはどんなでしたろう。人はつえにすがっても登りがたく、馬はくつわをかみしめても進みかねたということです。
古い言い伝えによりますと、尊は大きな山を越して峰まで行き着きたもうころには、ひもじくなられた。そこで山の中で食事をしたもうた。そこへ山の神が尊を苦しめようとして白いしかの姿となり、尊の前に立ちあらわれました。そうです、白いしかです。あやしく思われたものですから、尊はすぐにんにくの「つぶて」を投げつけられたところ、それが目にあたってあやしい鹿を殺しました。その時です、尊は道を見失いまして、出るところがおわかりになりません。さいわいにも、一匹の白い犬は道を知っていて、尊を導き顔に見えたものですから、そのあとについて行くうちにやっとのことで美濃の国のほうへ出られたということです。
後の世のものはこのお道すじを考えまして、おそらく尊は伊那の谷のほうから御坂峠にかかられ、それから霧が原の高原へと出られたことであったろうと申します。また、あの日本武尊のご一行が越後を出た吉備武彦に会いたもうたのは、今の湯舟沢から、中津川、あるいは大井あたりまでの間かとも申します。というのは、越後、越中、飛騨の国あたりから信濃の国へかけて、また西は木曾川のある美濃の国の苗木までの道すじはずっと大昔からの道というからであります。
三人あったわたしの兄弟は思い思いに郷里を離れるようになり、その中でも一番上の兄は東京へ来て吉村さんが家の近くに宿屋住まいをするようになったものですから、母もわたしたち兄弟のものを見に用事かたがたちょっと上京したことがありました。
女のひとり旅といいますが、めったに郷里を出たことのない母としては、めずらしくもありまた心配な旅でもあったのでしょう。
そのころは今とちがいまして、中央線の鉄道もまだできていませんし、名古屋回りで上京するにしても、木曾の西のはずれから東海道へ出るまでは人力車よりほかの乗り物もなかったからでした。母は峠のお頭に名古屋まで見送られ、それから汽車で上京しました。当時はまだ東京駅もなく、新橋の旧停車場が東海道線の入口でした。そこでわたしは兄とともにあの停車場へ迎えに行きましたが、母は九年もわたしを見ないものですから、自分で自分の目をうたがったくらいであったそうです。それに都会の停車場の夜の混雑に気を取られて、わたしといっしょに二人乗りの人力車に乗ってからも、これが子供の時分に別れたわが子かと、まだ母はそう思ったくらいであったそうです。
「おかあさん。」
とわたしが車の上で呼びかけた声を聞いて、今さらのように母は心におどろいたということでした。
久しぶりで会うことのできた母はだいぶ年とっては見えましたが、しかしまだまだ元気でした。寒い地方の人らしく黒いトンビなぞを着てきまして、国を出る朝はそこいらはもう霜でまっ白、そんな話がありました。つやつやとしてりんごのように赤いそのほっぺたも変らずにありました。
この母は、わたしが長いことお世話になった礼を言いに、吉村さんの家へもたずねて来まして、このご恩を忘れてはならないと言って、それをおじさんたちにも話し、わたしにも話しました。七八年前のわたしはまだはなをたらしていた少年であった、そんな話がおじさんの口から出たのも、その時でした。
吉村のおばさんもおもしろい人です。母が帰ったあとになって、こんなことをわたしに言いました。
「お前さんのように、そんなにえんりょしているやつがあるものかね。もっとおかあさんの首っ玉にかじりついてやればいいのに。」
少年期から青年期のころにかけて、わたしは「かみなり」とあだ名のついた人を二人ほど知るようになりました。
一つの雷さまはもういい年のおばあさんでした。このおばあさんは名をおしんといい、若いさかりのころに木曾福島の代官山村さまのお屋敷勤めに出て、その時についたあだ名が雷でありましたとか。「おしんさんの雷」と言えば、御殿勤めするほうばいの女中たちから恐れられもし、敬われもしたらしい。そんなあだ名を取るくらいの人ですから、後には東京に出て暮らすようになりましてからも、養子を助けてよく働いたけなげな気象の婦人でありました。この人が吉村のおばあさんです。
わたしが上京後、お世話になりましたのも、おもにこのおばあさんたちのもとでした。吉村のおじさんは書生を愛する心の深い人でしたし、それに郷里が同じだものですから、わたしのようなものまで家族同様に思って世話をしてくだすったのです。わたしはまだ京橋区数寄屋河岸の泰明小学校へ通うほどの少年でしたが、冬にでもなりますと、寒さのために手や足がはれまして、
「おばあさん、しもやけが痛い。」
そんなことを言って泣くたびに、夜中でも起きてふとんの上からわたしの痛む手足をたたいてくれたのも、このおばあさんでした。吉村さんの家では、その親類すじにあたる漢学者、武居用拙先生の総領むすこという人のうわさがよく出ました。その漢学者のむすこさんは年若でなくなったそうですが、惜しまれた人のようです。その人のうわさをわたしにして聞かせて、学問にはげむ心を起させたのも、またこのおばあさんでした。
なんと、皆さん、吉村のおばあさんの雷さまは、八十幾歳の老年になっても、まだ遠くのほうでゴロゴロ鳴っていましたよ。おばあさんがその年ごろには、養子にあたる吉村のおじさんもなくなり、実の娘のおばさんも先になくなりまして、おばあさんから言えば孫にあたる今の吉村さんの代になっていましたが、まだそれでもおばあさんだけはたっしゃでいました。吉村さんも心がけのいい人ですから、両親のためにいいお墓を造ってあげようと思いまして、長いことかかって思うとおりなものを建てました。ところが、それができあがってみると、おばあさんの言うことにはそのお墓があまり大きすぎるから自分には気に入らない、自分などはもっと小さなお墓へはいりたい、そう言っておこったそうです。吉村さんは近ごろになってそのことを思い出したと言って、手紙でわたしのところへ書いてよこしました。そんなところにも、なんとなくばばの人がらが現われていると思いますと、吉村さんの手紙にありました。おばあさんの雷さまは一生の最後まで光っていました。おばあさんはそういう人でした。
もう一つの雷さまはわたしが青年時代に知った同い年の学校友だちです。松浦和平君という青年です。松浦君も、わたしも、十六歳から二十歳へかけての年ごろを白金の明治学院に送ったなかまです。
「松浦の雷は、どこへ落ちるかもしれない。」
そんなことを学校の友だち仲間はよく言ったものでした。そんながらがらした気象の人でしたが、物に「きまり」のいいところがあって、わたしもひどく感心したことがあります。
わたしたちが学校の寄宿舎では、夜の自修時間がすむころから、話の合うものどうしたがいに集まりまして、おそくまで青年らしいむだばなしによくふけりました。どうかすると、寝部屋にまで話しこみに来るものがあります。そこへ体操の教師を兼ねていた舎監が見回りに来て、やがてその舎監のくつおとが寄宿舎の廊下に消えるころになっても、まだ話しこんでいるものがあります。あるものは寝台に腰かけ、あるものは窓ぎわによりかかって、というふうでした。そんなに皆がよもやまの話にむちゅうになっている時でも、松浦君ばかりは自分で眠ろうと思う時が来れば、さっさと寝台の上に横になりました。どんなおもしろそうな話や笑い声がまくらもとに起ろうとも、君はいっこう平気なもので、やがてひとり高いびきでした。これはちょっとほかのものにできないことでしたが、君にはそういう「きまり」のいいところがありました。君の雷さまは、いつでも自分でこうと信ずるところから鳴り出すようでした。声の太いことも学校じゅうで評判でしたこの松浦君、明治学院を卒業してから米国に留学して、かの地の大学で工科を修め、自らハンマーを手にして機械の扱い方をも実地に研究して帰りました。後には東京浅草の蔵前にあった高等工業学校の先生にまで進んだ人です。
この世の旅のはじめに、わたしはいくたりかの年とった人に会いました。
その中にはもう髪の白い翁のような人もありました。わたしはまだ一足踏み出したばかりで、年は若し、経験というものも少なかったのです。そんな年ごろに、思いがけなく会うことのできた人たちです。どれ、その中から二三の年とった人のことについて皆さんにお話ししましょう。もっとも、わたしの会った老人は、そう物を教えたがらないほうの人たちでしたが、それでいて教えられることはかずかずありました。
近江の刀鍛冶、堀井来助老人は、刀鍛冶のほうの名前を胤吉といいました。二十五歳の若さで近江の膳所藩のお抱えになったほどの腕ききでしたが、明治の世の中になりましてから一時刀の道もすたれたものですから、琵琶湖のほとりの鳥居川村というところにかくれて百姓のくわやかまなどを打っていました。
どうしてわたしがこんな刀鍛冶を知るようになりましたか、まずそのことからお話ししましょう。
まだ年若なころに、わたしも諸国の旅に出たことがあります。今のように乗り物もそう便利な時世ではなく、汽車で行かれないところはわらじがけで、毎日七里ぐらいの道を歩きました。そのうちに、だいぶくたぶれてきたものですから、しばらく石山の茶丈というところを借り旅の足を休めました。そのへんのことをすこしお話ししてみれば、近江の石山は古い歴史のあるところでして、国分山をうしろにし、湖水のながめも前にひらけていまして、大きな巌石の間に名高いお寺が建ててあるのです。茶丈とは、このお寺の門前にありまして、以前には参詣に集まって来る諸国の人たちのためお茶の接待をしたところだそうですが、わたしが行った時分はもうお茶の接待もすたれて、ただ大きな古い茶がまだけが残っていました。
茶丈の亭主は大津のほうへ通って働いている大工、そのむすこは大津のげた屋へ奉公している若者で、おかみさんと娘とがるすいかたがた古い茶がまのわきでほたるのかごを張るのを毎日の内職にしていました。石山はほたるの名所ですから、まだ人の出さからないうちから、おかみさんたちはそのみやげもののしたくをいそいでいたのでしょう。
まあ、わたしが借りて自炊をしたのは、そんな茶丈の奥の部屋でしたよ。そこにわたしは四月の末から、やがて梅の実のなるころまでいました。石山のお寺へあげるものだと言って、茶丈の亭主が庭に植えておく草花の咲きだすのもそこでしたし、村の子供が青梅を落としに来るのもそこでした。わたしは庭づたいに湖水のほとりに出て、向こうにかかるにじのような瀬多の長い橋を望むこともできました。時には茶丈のむすこが大津から帰って来ていますと、月のある晩などいっしょに湖水へ小舟を浮かべ、二人であちこちとこぎまわりました。そんな時に舟の上で笛を吹いてわたしに聞かせるのもこのむすこでした。
ふとしたことから、刀鍛冶来助老人のうわさがこの若者の口から出ました。というのは、来助老人はそのおじさんにあたるからでありました。わたしが初めてあの刀鍛冶を知るようになったのも、その時からです。聞いてみますと、来助老人はまことの刀鍛冶らしい人で、そんな人が湖水のほとりにかくれているのもゆかしく思われ、どうかしてわたしはその人に会ってみたいと思うようになりました。
当時は刀鍛冶で妻子を養うこともできないような時であったといいます。それで妻子を養おうとするには、どうしても古刀の「にせもの」を作るよりほかにその日の暮らしようがありません。当時、はぶりのいい刀鍛冶という刀鍛冶はみな、そういう「にせもの」を作って売っていたといいます。来助老人はそれほど刀の道のすたれたのを悲しみまして、草ぶかいいなかに引きこむ気にもなったのでしょう。刀鍛冶としてその道に一生をささげるためには、妻をも持つまい、子を持つまいという、そんな決心にも至ったのでしょう。百姓のくわやかまを打ちながら、三十年もじっとしんぼうしているようなこともそこからはじまってきたのでしょう。聞けば聞くほど、わたしもたずねて行ってみたくなったものですから、そのことを茶丈のむすこに話したところそんならいっしょに行ってあげましょうと言って、こころよく引き受けてくれたのです。
そこで出かけました。
石山から鳥居川村までは八町ほどです。たずねて行ってみますと、ささやかな店座敷にはうわさにきいた鎌の類がならべてあります。土間のところにはふいごなどの道具が置いてあります。暑い日ではありましたが、古びたじゅばん一枚で裏口の木戸のほうから出て来た六十歳あまりの隠居さんがありました。この人が来助老人でした。この世の雨や風にもまれて来たようなその額つきを見たばかりでも、ただの鍛冶屋の隠居さんでないことがわかります。
老人はわたしのような年のちがったものをもよろこんで迎えてくれ、いろいろな話をしてくれました。刀剣のことを書いた本などをも出して見せてくれました。その中には古刀と新刀の歴史が図でわかるように説き明かしてありましたが、それぞれの流儀のちがいと言いますか、図にあらわれた焼き刃の模様がちょうど海の岸に寄せてはかえる潮の花の紋のように見えました。焼き刃の模様ほど刀鍛冶の気質をよくあらわすものもありません。あるものはすなおに、あるものはするどく、あるものは花やかにというふうに。
その時、こんな話も出ました。刀というものは五百年も六百年もの間に名高い刀鍛冶が出て鍛え方をきわめつくしてありますから、いくら後の代のものが工夫をこらしたつもりでも、どこかで昔の人にぶつかります。まったく昔の人の考えておかない新しい意匠で、これが自分のものだと言えるような刀が、なかなか打てるものではありません、とさ。
それから、来助老人は自作の刀を取り出してきまして、
「まあ、自分の打った刀は、見たところはそうよくもありませんが、人は切れるつもりです。」
そんなことを半分ひとりごとのようにしながら、白鞘をぬいて見せました。においと言っていいか、ひびきと言っていいか、わたしにはその刀を形容することもできませんが、見ているうちにこちらの心が澄んでくるような作で、ことに力をこめて鍛えてあるその刀の重さにはおどろかされました。来助老人はその年になっても、物を学ぶ心の衰えない人とみえ、刀鍛冶とは言いながら『輿地志略』のような地理書をそばに置いて、世界のことを知ろうとしているところもありました。老年になってもこんな人もあるかと、そうわたしは思いました。
それから後の日に、まだ石山に逗留していたころ、一度茶丈のほうで来助老人を待ち受けたことがあります。老人がたずねて来てくれるというものですから、わたしはいっしょにそまつな食事をするつもりで、わざわざ瀬多のほうまで湖水名物のこいなどを買いに出かけ、それを自分で料理しました。ところが、こいの胆を取ることを忘れたのです。さて、老人をお客にして、いっしょにはしをつけてみると、わたしの煮たこいは苦くて、大笑いしたこともありました。
その時、老人は日ごろ書きためた自作の和歌や発句を持ってきてわたしに見せてくれました。じょうずとは言えないまでも、正直に思いをのべたものでした。おそらく、百姓を相手としての長い鳥居川村のいなか暮らしが、そんな和歌ともなり、発句ともなったのでしょう。わたしはまたこの来助老人が筆持つ腕に重い石をしばりつけるほどにして書道のほうにも工夫を積んだ人と聞いていましたから、何か記念に書いてほしいと頼みました。老人が言うには、自分は無学なものであるから、書いてあげるような文句も胸に浮かばないが、ことばさえ選んでくれるなら、よろこんで引き受けるとのことでした。そこでわたしは日ごろ暗誦するくらいに好きな古いシナ人の詩のことばを選んでおくりましたが、やがてそれができたといって届けてくれたのを見ると、じつにみごとな筆で、これにもわたしはおどろかされました。
人の一生はふしぎなものですね。来助老人のような刀鍛冶が近江の片いなかに埋もれぎりになってしまわないで、また東京に出る日を迎えようなぞとは、老人自身ですら夢にも思わなかったことでしょう。日清戦争が来てみると、来助老人のような人の腕の役に立つ時がもう一度来たのです。ちょうどわたしは、東京湯島のほうにいて、郷里から上京した母とともに小さな家を借りている時でした。ある日、来助老人がその湯島の家へたずねて来てくれまして、
「自分も、七十の年になって、また世に出ましたよ。」
こんな話が出ました。どんなにわたしもこの再会をよろこびましたろう。
その時、老人は名刺がわりにと言って、自分で打った小刀を持ってきてくれましたが、そんな小刀一本にも小さなことをおろそかにしない老人の気象があらわれていました。
上京後の来助老人が仕事場は芝の高輪にできましたから、今度はわたしのほうからたずねて行ったことがあります。一人のお弟子を養子にして、いい相槌ができましたとわたしに言ってみせるのも、そこでした。当時の刀鍛冶としても、老人は一番年長者だそうでしたが、いい刀を打つものがだんだんなくなりますから、今のうちに学校を造っておきたい、そして刀鍛冶を育てたいとの話があったのも、そこでした。老人はまた、一枚の厚い鉄板をわたしの前に取り出してきて見せました。それは日清戦争のかたみでした。敵弾を受けた軍艦の一部をあとで修繕するおりに切り取ったものでした。海戦の記念として、ある海軍将校から一ふりの短刀をその鉄板で作ってくれと頼まれたとの話もその時に出ました。おそらく来助老人のように、一生を刀の道にささげつくして、この世を歩めば歩むほど明るいところへ出て行った刀鍛冶もまれでしょう。
呉という家はいい学者を出しました。
同じ家に生まれた兄弟の人たちがそろいもそろって学問の道に達したということも、実にゆかしい話ではありませんか。
呉くみ子さんも、そういう家に生まれた人でした。この人は明治女学校という学校で習字を教えながら、舎監を兼ねていて、多くの生徒からおかあさんのように慕われた婦人でした。あの歴史のある学校もおしまいの時分には、先生方は一人去り、二人去りするようになったのです。その中で学校の盛んな時も、衰えた時も、すこしも変らずに、いつでも同じように人を教えて倦まなかったのは呉くみ子さんでした。ああいう人の生涯は目立たないものですから、わりかた、世間に知られませんし、その人の事跡も多く伝わりません。しかし、わたしは呉くみ子さんのような、男も及ばないほど守る力に長けた婦人のあったことを知っています。一番最後までふみとどまって、あの学校と運命をともにした人も呉くみ子さんでした。
物にさきがけするのと、しんがりをつとめるのとでは、どっちが勇気がいるでしょう。前のほうの人は進んでとげのあるいばらの道を切り開いて行くのですから勇気がなくてはかなわないことですが、あとのほうの人とて勇気がいることにかけてはそれに劣りません。
皆さんもごぞんじのように、この日本のお国が明治の御代となる前は、徳川の世の末でありました。もう徳川の世の中もこれまでと思うものは、たいがいの人が戸まどいして、仕事もろくに手につかなかった中で、よくあとしまつを怠らなかった三人の人があります。皆さんは、岩瀬肥後、小栗上野介の名を覚えておいていただきたい。ここにお話ししようとする栗本先生も、そういう三人の中の一人です。
栗本先生は若い時の名を哲三といい、年とってからの号を鋤雲といいました。先生は額も広く、鼻も厚く、耳や口も大きかったものですから、「おばけ栗本」の異名をとったくらいです。それほど並はずれた容貌の持主でした。もともと本草学という学問の家がらをついで薬草のことにくわしいところから、徳川幕府の製薬局につとめた医者の出でありましたが、事情があって北海道のほうへやられ、函館奉行組頭という役目につきました。先生が頭を持ち上げたのもそのころからです。
当時の函館あたりはまだ「蝦夷地」と言いまして、開けたばかりのさみしいところでしたが、先生は六年もそのさみしいところにしんぼうして、病院や医学所を建てたり、薬草園を開いたり、松杉その他の木の苗を内地から移し植えさせたりしました。その「蝦夷地」に緬羊や牛を飼い、養蚕の業につくものができたのも、先生の監督ではじめたことなのです。疏水の工事を起して久根別川というところから舟を函館へ通すようにしたのも先生でした。
まあ、何もかも新規に始める時というものは、ほねのおれるかわりにどんなにかはりあいのあるものでしょう。どっちを向いても開拓、開拓で、先生のような人の力を待っているものばかりでした。日本のお国もずっと北の果てのほうはロシアざかいですから、その時分からやかましかったところ。先生はカラフトの見まわりを命ぜられまして、北緯四十八度にあたるところをきわめ、一冬を極寒の地に送り、それから島々を見めぐって函館に帰ったこともあります。
栗本先生の長い生涯にとって、この函館時代の六年はいいしたくの時でありましたろう。わたしが皆さんにお話ししたいと思うのも、そこですよ。先生の函館時代はずいぶんさみしかったようですが、しかしその六年の間に先生がいろいろやってみたことは、それから江戸に出てもっと大きな舞台へ乗り出して行った時の役に立ちました。病院や医学所を建てたことでも、薬草園を開いたことでも、木の苗を移し植えたことでも、牧畜養蚕疏水工事の監督でも、何一つむだになるものはなくて、それがなにかしらほかの仕事をする時の役に立ちました。どうでしょう、先生は自分のしくじりまでも役に立てることを知っていましたよ。これこそほんとうの「経験」というものでしょう。
江戸に召しかえされてからの先生は昇平校という名高い学校の頭取を命ぜられ、上士の位に進み、さらに鑑察といってだれでもうらやむ重い役目をつとめることになりました。そればかりではありません、当時は諸外国の軍艦や商船がだんだんこの国の港に集まって来るようになりまして、日本国じゅう大さわぎの時でしたから、その談判にあたる外国奉行は勇気のある人でなければつとまりません。先生は一番最後にそのむずかしい外国奉行を引きうけ、徳川の大身代を引き回した人の一人でした。
さて、明治の御代となってみますと、栗本先生たちが新しい日本のためにいろいろしたくをしておいたことが、あとになってわかってきました。この国を開き、世界諸外国と条約をとり結ぶということも、先生たちのしたくしておいたことです。下ノ関償金の談判、横須賀造船所の建築、陸軍軍制の改革それらはみな先生があの小栗上野介らとともに力をあわせてしたくしておいたことなのです。今日横須賀に日本の船を造ったり修繕したりする所があって東洋に一つの名物のようなドックがあるのも、もとをただせば先生たちが徳川の世のあとしまつをしながら、よく「しんがり」をつとめて行ったそのおかたみではありますまいか。いったい、徳川の世の末にあったことは大きな黒幕のうしろにかくれてしまって、その舞台の上で働いた人たちの辛苦もほねおりも現われませんから、世の中にそれを知るものも少ないのです。しかし、先生は自分の手がらをじまんするような人ではなく、どこまでも徳川時代の「しんがり」として、本所の北二葉町というところに退き、髪の白くなるまで徳川の世の中を見送りました。
わたしは自分の心もやわらかく物にも感じやすい年ごろに、栗本先生のような人を知ったことをしあわせに思います。わたしが本所の北二葉町をおたずねしたころは、先生はもう七十を越していまして、いろいろな種類の芍薬を庭に植えその住まいをも「借紅居」と名づけて、長い生涯のおわりのほうの日を送っていました。先生から見れば、わたしは子供のようなものでしたが、おたずねするたびによろこんで迎えてくださいまして、
「うちのせがれも、学校から帰って来るころですから、会ってやってください。」
などと言われますから、どんな年ごろのむすこさんかと思いましたら、まだ小学校へかよっているほどの少年でした。そんなむすこさんが先生のような年老いた人にあることもめずらしく思いました。
先生もずいぶんトボケた人で、わたしのようなずっと年のちがったものをつかまえても、よくじょうだんを言われました。一番おしまいにわたしがおたずねしたころは、先生はもう七十五六に近く、寝床の上にいるような人でしたが、それでもまくらもとへわたしを呼んで会ってくださいました。わたしはもっと先生にいろいろなことを聞いておけばよかったとあとになってそう思います。でも、先生のような人に会えたというだけでもたくさんに思います。何かにつけてよく思い出すところをみると、やはり先生にはほかの人とちがったところがあったからでしょう。
わたしは一人の古着屋さんを知っていました。この古着屋さんは美濃の国から出てきた人ですが、明治学院にかよっているわたしの学生時代に、くつ屋をしていまして、編み上げのくつを一足造ってくれました。それからわたしも懇意になった人です。
わたしもこれまでいろいろな人に会いましたが、この古着屋さんほどいろいろなことをやった人を見たこともありません。絵の具屋の手代、紅製造業、紙すきなどから、朝鮮貿易と出かけ、帰って来て大阪で紀州炭を売り、東京へ引っ越して来てまずガラス屋に雇われ、その次がくつ屋となってこうもり屋を兼ねたと言います。
わたしがこの人を知ったのは、そのくつ屋さんの時代からですが、それからも岩代の国黒森というところの鉱山の監督になり、次に株式所の仲買番頭ともなりました。石蝋の製造職工ともなったし、針商ともなったしそれから横浜へ行きました。そのすこし前ですけれど、電池製造の助手ともなりました。ふたたびまた針の商人となって、店をやめてから、こんどは何になったかと言いますに、まあ、それも一つの何でした──煮染商となりました。
それから、小学校の事務員となって、それが最後かと思いましたら、いや活版職工となったのでした。活版職工となって、それからこんどは古着商となりました。
「荒物屋もやったことがあるしナア。」
そんなことも言い出すような人でした。
この古着屋さんのやったことは、いつでも新規まきなおしのようでした。前に皆さんにお話しした栗本先生なぞとは、まるきりあべこべで、「経験」というものがそう役に立つとはかぎらないことをそれとなく教えてみせてくれたのも、この古着屋さんでした。なぜかといいますに、栗本先生は自分のしくじりまでも役に立てようとしましたが、この人のほうはそれを役に立てようとはしませんでしたから。
お友だちはみんな若かったころのことを思いますと、わたしと、同い年のものもありませんでしたが、一番年上でも四つちがいぐらいで、あるものは三つ上、あるものは二つ上、中にはわたしよりも年下のものもありました。
そんなに年ごろも近かったものですから、おたがいに長い長い手紙を書きかわしたり、もらった手紙はたいせつにして何度もくりかえし読んでみたりいたしました。めずらしい本でも手に入れるものがあれば、それをみんなに回して、おたがいに読んで見、時には書き写しなぞしたばかりでなく、おじさんや兄たちに話せないようなことでも語り合うことのできるのはお友だちでした。寒い日でも、なんでも、たずねたりたずねられたりして、一枚のふとんを引き合いながら長い冬の夜を送ったことのあるのも、そういうお友だちなかまでした。
あるお友だちは年若ながら判断というものの力に富み、あるお友だちは思いやりに深く、また、あるお友だちは心の持ち方もよかったものですから、なにほどわたしは自分のまわりにある人たちから教えられたか知れません。
ドイツのハイネという人が先輩ゲーテをたずねた時のことは、まだわたしの若かったころにある書物の中に見つけておいたことなのですが、あの話は今だにわたしの胸に浮かんできます。若かった日のハイネはあの先輩をたずねる時のことを胸に描きまして、もしゲーテに会うことができたら、あのことを話そう、このことを話そうと、いろいろ思いもうけながら長い冬の夜を送ったこともあるそうです。さて、会ってみると、先輩はただサクソニーの梅のうまいことをハイネの前に言い出して、えみを浮かべて見せただけであったということです。
皆さんはこんな話を聞いたら、さぞ物足らなく思うでしょうか。しかしこれはこれでいい。若い時分に先輩に会うことができても、そういきなり、いろいろな話の引き出されるものでもありますまい。おそらく、その人を見たというだけにも満足して、若かった日のハイネはそう失望することもなく、自分は自分の道を進もうと考えたことでありましたろう。
皆さんはお友だちをなくした覚えがありますか。わたしには二十七の若さでなくなった一人のお友だちがありました。わたしがその人を知ったのはなくなる三年前ぐらいからで、そんな短い交際ではありましたが、不思議にもそのお友だちはなくなったあとになって、いろいろわたしに話しかけるようになりました。その人ののこした言葉が物を言うようになりました。ほんとに、そのお友だちは遠い草葉のかげからも深い声を送ってよこすような人でした。
行っても行っても遠くなるもの、木曾の園原の里というところのははき木。これはわたしの郷里のほうに残っている古い言い伝えです。
前にもお話ししたように、木曾の古道は深い山の中にありまして、道に迷う旅人もすくなくなかったところから、そんな言い伝えが生まれてきたのでしょう。ははき木とは「ほうきぐさ」のこと。高さ四五尺ぐらいの草。平地にあってそう遠くから望まれるものでもありません。これはやはり高いところから見おろした感じで、谷底に隠れている山里の草のことを言ったものでしょう。そのははき木が行っても行っても遠くなるというところに、けわしい山道を踏みなやんだ昔の人の旅の思いもあらわれていると思います。おもしろい言い伝えではありますまいか。この言い伝えにこと寄せて、あるかと思えばないものをははき木にたとえた古い歌もありますよ。
どうしてこんな言い伝えを皆さんの前に持ち出したかと言いますに、年若いころのわたしが目じるしとしたものも、ちょうどあのははき木に似ていたからです。行っても行ってもそれは遠くなるばかり。それほどわたしの踏み出したところは歩きにくい道でした。どうかして心を入れ替えたいと思いまして、上総の国、富津というところに保養に行っている知り人をたずねながら、小さな旅を思い立ったこともあります。
そのころ、横浜から上総行きの船が出ました。荷物を積んで横浜と富津の間を往復する便船でしたが、船頭に頼めばわずか十銭の船賃でだれでものせてくれました。
わたしは横浜のある橋のたもとからこの船に乗りましたが、ちょうどお天気都合はよし、沖に出てからは一ぱいに張った帆の力で近海を渡るのですから、まるで青畳の上をすべって行くようでした。おてんとうさまが高くなりますと、船では昼飯を出してくれます。それは船頭がたいたこわいごはんと、たくあんのおこうこぎりです。帆柱のわきで潮風に吹かれながら食べてみますと、そんな昼飯が実にうまいと思いました。
富津に滞在している知り人の安否を尋ねたあと、その漁村から歩いて行けば房州のほうへ出られる道のあることを知りました。鹿野山という山一つ越せば、日蓮の誕生寺で知られた小湊へ出られることをも知りました。かねてわたしは日蓮の『高祖遺文録』という本を読みまして、あの鎌倉時代に名高い坊さんの生まれた地方を見たいと思っていたのです。それにあの書物をわたしが手に入れたのは普通の本屋でもなくて、東京日本橋人形町の袋物屋でした。藤掛なにがしという日蓮宗の信者で、頭のはげた隠居さんが一そろい九冊ばかりの、あい色の表紙のついた、こころもち小形の和本を奥の戸だなからさがしだしてきて、それをわたしに売ってくれました。そんな思い出までが手伝って、わたしの足を小湊のほうに向けさせたのです。山越しはかなり寒い時だとも聞きまして、白い毛布にくるまりそれにきゃはん、わらじばきというおもしろいなりで出かけました。
高い峠にかかるまで、わたしは何ほどの道を歩いたとも、今ははっきり覚えていません。そのくせ、途中で自分の目に映ったものや、道を聞き聞き歩いて行ったそのこころもちなぞを、あとさきのつながりもなく、今だに覚えていることもあります。中には、きのうのことのように、実にあざやかに目に浮かんでくるものもあります。
そう、そう、ある川の流れに添うていかだを下す人があったのもその一つです。それが材木のいかだでなしに、竹のいかだであったのもめずらしく思われたことを覚えています。土地不案内なわたしも、その川について水上のほうへ進みさえすればいいと感づきました。だんだん歩いて行くうちに、川の水は谷底の下のほうに見えるようになって、がけづたいの道へ出ました。
その時です。わたしはがけのわきにおっこちている小石を拾いあげ、それを谷底のほうへ投げてみて、うらないごとを試みようとしました。まだわたしも若かったものですから、もしその小石が川の水にとどいたら、自分でこうときめておいた前途の目じるしを変えずに進もう、もしまたその小石がとどかなかったら、自分の畑にはないものと思って、好きな道もあきらめよう、そんなふうに思い迷ったのです。ところが、どうでしょう、わたしの投げてみた小石は、一つは川の手前に落ち、一つは川の中に落ちて、自分ながらどうしていいかわからなかったこともありましたよ。
鹿野山は上総と房州の両国にまたがっている山です。わたしの越した峠はその山つづきで、峠の上に一軒屋のあるようなところでした。通る人もまれでした。わたしはそれより以前に伊賀と近江のさみしい国境を歩いて越したこともありますが、鹿野山の峠道はもっとさみしいところでした。
房州の小湊に近い村に住む農家の若い主人が、このわたしを誕生寺のほうへ案内しようと言ってくれました。
その若い主人は、以前にわたしがお世話になった吉村さんの家へ奉公に来ていた娘のにいさんにあたる人です。いったい、その時分には、房州へんの農家の娘は東京へ出て奉公したものでなければ、およめにもらい手がないと言われたくらいで、一般にそういう気風でしたから、同じ村から来て吉村さんの家につとめた娘は二人もありました。そんなわずかな縁故をたどって、土地不案内なわたしが小湊のほうのことを尋ねに立ち寄りましたところ、つい引きとめられたのがその若い主人の家です。よく寄ってくれた、土地の案内もしようからまずわらじをぬげ、宿屋に泊まるくらいなら自分らの家に泊まれと言って、若い主人の母親までがしきりに引きとめてくれるなぞ、思いがけないもてなしぶりでした。だんだん聞いてみましたら、東京での主人すじからこんなにたずねてきてもらえることはめったにない、これというのも娘たちが奉公先での勤めぶりに怠りのなかった証拠であると言って、そのことが農家の人たちをよろこばせたのです。どうして農家とは言いましても、炉ばたは広く、蔵のあるような相応な暮らしの家で、こんな家庭からでも娘を東京へ修業に送るのか、とそうわたしは思いました。
あくる日は、その家の若い主人の案内で、誕生寺のかいわいに小半日の時を送りました。その海岸まで出て行けば網も干してありますし、なまぐさいおさかなのにおいもしてきますし、海からとりたてのひじきをゆでるところかとみえて、野天に大釜をかけた土竈からは青々とした煙の立ち上るのも目につきました。
その晩はまた若い主人の家のほうに帰って、みんなでいっしょに農家らしいいろりばたに集まりました。吉村さんにつとめていた娘たちも、親元へ帰ってからそれぞれ縁づいていましたが、わたしの出かけて行ったのを聞いて会いに来ました。いずれももはや若いおっかさんらしい人たちになっていました。あかあかと燃え上がる炉の火が一同の顔に映るようなところで、東京の吉村さんたちのうわさがいろいろ出ましたっけ。
この房州行きには、わたしも誕生寺を見るだけにまんぞくしました。日蓮が青年時代を送ったという清澄山までは行きませんでした。
恩人、吉村さんの家といえば、わたしが少年期から青年期にかけての日を送ったところです。お話のついでに、自分の書生時代のことをここにすこし書きつけてみましょう。
吉村のおじさんは交際の広い人でしたから、いろいろな客がおじさんの家へたずねてきましたが、その中でも玄関からはいってくる人と、勝手口からはいってくる人とありました。勝手口からたずねてくるのは、おもに内わの人か、前だれがけに角帯をしめた日本橋大伝馬町へんの大店の若者か、芝居の替り目ごとに新番付を配りに来る芝居茶屋の若い衆か、近くの河岸に住む町家のおかみさんや娘などの人たちでした。
「行徳」
と声をかけて、毎日行徳方面からおさかなをかついでくる男が荷をおろすのも、その勝手口でした。
玄関からたずねてくる客は表口の格子をあけてはいりまして、取り次ぎを頼むのですが、その応接がわたしのつとめでした。うやうやしく手をついておじぎをすること、客の名を奥へ通すこと、案内すること、茶を運ぶこと、客のはきものを直しておくこと、それから庭先をはききよめることなぞ、長い月日の間にはわたしも慣れまして、それを自分のつとめと思ったばかりでなく、玄関にすわることをいっそ楽しく思うようにもなりました。わたしはよくそのせまい小さなへやで好きな本を読みました。今になってみますと、わたしの勉強はほかのお友だちとも違いまして、こんな玄関番が土台になったかと思います。というのは、いろいろな用事でおじさんのところへたずねてくる男や女の客を迎えたり送ったりするうちに、いくらかずつでも、さまざまな世の中を見る目があいて行ったばかりでなく、わたしたちとはまったく教育の受け方の違った少年や青年、東京の下町あたりに年季づとめする町家の若者、それから地方出の奉公人などが気風ののみこめるようになったのも、こんな玄関番のおかげだからでした。
『小公子』の訳者として知られた若松賤子さんがなくなりまして、そのなきがらが墓地のほうに送られた日のことでした。
この人は本名をお嘉志さんといい、横浜フエリス女学校を早く卒業して、巌本さんにかたづいた人ですが、その学才と人がらとはむかしを知っているものに惜しまれたばかりでなく、お嘉志さんのだんなさんはまた当時明治女学校の校長でもあり女学雑誌社の社長でもありまして、『女学雑誌』と『評論』の二雑誌を出していましたから、学校や雑誌に関係のある男女の人たちまでが新しい墓じるしのまわりに集まりました。
あれはわたしなどのまだ青年のころのことでしたが、その日の葬式について、今だにわたしの胸に浮かんでくることが一つあります。それは『小公子』の訳者を記念するために、いろいろな書物や雑誌の類が数多くその墓のほとりにうずめられたことでした。まあ、堅い石の棺の中に置いてすらどうかと思われるようなものを、まして漆もはいっていない木の箱の中に納めたのですから、よくいく日もちこたえようとは掛念されましたが、しかし土の中に書物の類をしまいましたら、何がなしにその墓のほとりを立ち去りがたく思わせました。あれから、もうかなりの年月がたちます。しかし時を記念しようとする人々の心は長くその土に残りました。
なんと皆さん、世の学者がどこに昔の代をさがしだすかといいますに、多くはそれを土の中から見つけてきます。父、母、兄弟、親戚、お友だち、そのほかかつて親しかった人たちで、この世においとまごいをして行くものがうずめられたりほうむられたりするところは、みな土の中です。土ほどなくなった人を思い出させるものもないかわりに、またそれほどいろいろなものの生まれてくる場所もありません。
仙台に東北学院という学校があります。その学校へわたしは年若な一教師として行くことになりました。母もそのころは東京でしたが、その母を都に残し、お友だちにも別れまして、東京上野の停車場からひとり東北の空に向かいました。もっとも、その時はまったく初めての東北の旅でもありません。それより以前にも一度、汽車で白河を越し、秋草のさきみだれているのを車の窓からながめて、行って、仙台よりも先の一の関というところにある知り人をたずねたこともあります。しかし、こんどはただの旅でもなく、一教師として出かけて行って、めずらしい仙台の地を踏んだので、にわかに東京のほうの空も遠くなったように思われました。
仙台というところは城下町として発達したところです。ここには名高い城跡がありますし、古い士族屋敷の町がありますし、むかしは市が立ったろうかと思われるような辻があります。ここは東北のほうの教育の中心地です。ここにはいろいろな教育機関というものがあって、若い男女の学生たちが集まってきていました。ここは東北の都会といわれるくらいのところで、朝晩の空気からして東京あたりとはだいぶ違います。ここには静かな光線がさしていまして、学問でもしようというものには町全体が北向きの勉強部屋の窓のようなところです。ここは阿武隈川へもそう遠くなく、一里ばかり行けば太平洋の岸へも出られて、歩き回る場所に事を欠きません。まあ、仙台へ着いたその晩から、思わずわたしはホッとしましたよ。それまで歩きづめに歩いてほんとうの休息ということも知らなかったようなわたしは、ようやくのことで胸一ぱいによい空気を吸うことのできる宮城野のふところへ飛びこんだようなものでした。
仙台へ来た当座、しばらくわたしは同じ東北学院へ教えに通う図画の教師で布施さんという人の家に置いてもらいましたが、その家は広瀬川のほとりにありました。遠く光るよいの明星が川向こうの空によく見えました。母からも東京のお友だちからも離れて行って、旅の空にそんな一つの星のすがたを見つけたのもうれしく思いました。
「わしが国さで見せたいものは」という歌にもあるとおり、東北の人はなかなかお国じまんですから、何よりもまず松島を見せたいと布施さんが言いまして、学校のお休みの日にわたしを案内してくれました。
塩釜から船で出ました。清く澄んだ海水を通して、海の藻の浮かび流れるのが見えるほど、よく晴れ渡った秋の日でした。なるほど、あそこにも島、ここにも島。船で見て通りますと、指を折って数えつくすこともできません。その島影を人の姿にたとえて言ってみるなら、立っているもの、すわっているもの、しゃがんでいるもの、寝そべっているもの、その姿は千差万別ですが、いずれも松の緑の模様のついた着物を着ているのが目につきます。松島はそういうところです。ここには「ばばが鉦打つ念仏島」という名の島もあります。そんなおばあさんの着ているはんてんまでが、おそろいの松の模様でした。
「ハハキトク、スグコイ。」
こんな電報が東京からとどきました。
母の病気とは思いがけないことでしたが、わたしはすぐにしたくして、学校へも届を出し、大急ぎで仙台をたちました。東京の留守宅は本郷森川町というところにありましたから、急いで行って見ましたが、ざんねんなことにはもう間に合いませんでした。
その年の秋、東京にはごく激しいコレラがはやりまして、たくさんな人がそのためにたおれたと聞きます。母もそのひとりであったのです。留守宅には母よりもっとからだの弱いものもいましたが、一番きれい好きで、働くことも好きで、ふだんから食べ物にも気をつけるほうの母が、そんな病気にかかりました。行って見ますと、おまわりさんは門口に立っています。そこいらは消毒のお薬でぷんぷんにおっています。母は本所の病院のほうへ送られて、そこでなくなったあとでした。
よくよくわたしも両親には縁の薄かったほうです。幼少のころに親たちのひざもとを離れたきり、父の臨終にはそのまくらもとにもいませんでしたし、ずっと後になって母とは二年ほどいっしょに東京で暮らしてみる月日もありましたが、そのころのわたしにはまた母を養うだけの十分な力もありませんでした。せめて仙台へは母だけでも引き取り、小さな家でも借りて、二人で暮らそうと思いまして、その日の来るのを楽しみにしていたところへ、こんな病気の知らせです。とうとう、わたしは母の死に目にも会わずじまいでした。
本所の病院のほうへ行って母の遺骨を引き取るから、砂村というところにあった火葬場まで見送った暗い晩のことも忘れられません。なにしろ病気が病気で、留守宅に残るものは交通遮断の時ですから、砂村への見送りもわたし一人でした。翌朝、骨納め。わたしはその遺骨を抱いて、郷里にあるわが家の墓地へ葬るため、東京をたつことにしました。その時は名古屋まで汽車で、名古屋から先は人力車で郷里へ向かいましたが、途中の峠の上あたりにはもう何度となく霜の来たところもありました。
姉夫婦とその娘とは木曾福島から、おじたちはとなり村の吾妻村からというふうに、親戚や古い知り人は郷里の神坂村へと集まって来ていました。村の人たちは母の葬式のしたくをして、遺骨の着くのを待っていてくれたのです。わたしは暗くなってから村の入り口に着きました。
そこまで行きますと、ちょうちんをつけて出迎えてくれる人に会いました。声をかけてみると、以前にわが家へ出入りをしていた男の一人です。そして、わたしの荷物を持とうと言ってくれるのです。もともとわが家の先祖はこの地方のために働いた人たちで、村も先祖が開き、寺も先祖が建てたというくらいですから、そういう古くからの気風が伝わっていて、なんにも土地のために尽くしたことのない一書生までがこんな出迎えを受けることさえ自分には過ぎたことのように思いました。わたしは足をふるさとに踏み入れたばかりで、まだそんな父の時代というものが根深く残っていることをも思いました。
わが家の墓地は村の裏側にある古い丘の上で、永昌寺というお寺の境内につづいたところにあります。すぎの木立ちの間から、浅い谷の向こうに木曾らしい石をのせた人家の板屋根、色づいた柿のこずえなぞが見えるところです。大黒屋とか、八幡屋とか、その他いろいろな屋号のついた家々のこけむしたお墓が並んだわきを通って、すぎの枯れ葉の落ちているしめった土をふんで行くだけでも、なんとなく心の改まってくるようなところです。その墓地の突きあたりに、どまんじゅうのかたちに小高く土を盛りあげ、青々とした芝草の色もむかしを語り顔なのが、父の長く眠っている場所でした。永昌寺の本堂で母の葬儀をすませたあと、遺骨は父の墓のわきにうずめましたから、同じかたちのものが二つそこに並びました。
墓は死んだ者のためにあるのではなくて、生き残る者のためにあるのだと、ある人もそう申しましたっけ。
かし鳥があいさつに来ました。
この鳥はおばあさんのようなしゃがれた声で、わたしにあいさつして言うことには、
「お前さんは覚えていなさるだろうが、おれの好きなえのきの実を拾いにお前さまも子供の時分にはよくあの木の下へ遊びにおいでなすった。それから、おれが青いふのはいった小さな羽を落としてやると、お前さまはあの木の下でおれの羽を拾うのを楽しみにしておいでなすった。」
わたしの郷里では、ていねいに人のことを呼ぶには「お前さま」、自分のことはだれに向かっても「おれ」です。そこで、かしどりはことばをつづけて、次のように語りました。「ごらんのとおり、先年の大火で村も焼けました。お前さまの生まれた古い屋敷のあとも、今は桑畑です。あの桑畑からは、たった三つだけ焼け残った物が出てきました。一つは古い鏡、一つはお前さまがおとうさまの石の印、もう一つはおとうさまの部屋の前にあったぼたんの根から吹き出した芽。ほんとに──あの古い鏡も大やけどサ。そんなわけで、さっそく普請のできた家もあり、かりの住まいにがまんしているものもありますよ。なんにしてもあの大火のあとですからね。あれから村も変りました。まあ、今だにむかしを恋しがって、ふるさとのふところにすがりついている手あいもないではありませんが、しかしもうそんな時ではなくなりました。お乳の出もしないちぶさをしゃぶっているようなことはだめで、早く気のついた村の者は皆この焼け跡からたち上がろうとしています。そうです。この災難のどん底からです。神坂村も今は建て直るさいちゅうですよ。」
幼い時分からわたしの好きな恵那山は、もう一度自分を迎えてくれるように見えました。あの山のふもとにある村をよく見たら、何ほどのものが生き返ってきているか知れないとは思いましたが、わたしも仙台のほうに学校のつとめをひかえていて、古いなじみのある家々をたずねる時もそうありませんでした。乳母としてわたしを抱いたりおぶったりしてくれたお雛も、伊那のほうへ行って暮らしているとやらで、もはや村にもいませんでした。先年の村の大火にあったわが家の古い屋敷で惜しいと思われるのは、裏の土蔵の焼け落ちたことでした。あの土蔵の二階は全部が書物庫で、木曾谷の歴史を語る古文書や、じじののこした写本や、父が一生かかって集めておいた和書漢書の類はことごとく失われたのですから。
姉夫婦は木曾福島をさして帰って行く人たちです。そこでわたしもいっしょに神坂村を立ちました。お別れに寄った家々の人たちは、いずれも門口に出て、わたしたちを見送っていました。神坂村から次の吾妻村までの二里の間は男垂山などの迫ってきているところで、深い山林の中です。吾妻村まで行きますと、おじの家があります。そこがわたしの母の生まれたところです。
そのころの木曾路はまだ、わたしが初めて上京した時に歩いたままの道でした。行く先の谷のかげに休み茶屋などが隠れていて、石をのせたその板屋根からは青々とした煙の立ち登るのが見えました。皮のむなび、麻のはえはらいから、紋のついた腹掛けまで、昔のままの荷馬がいい鈴の音をさせながら行ったり来たりしているのもその道でした。
棧橋というところまで行きますと、わたしはおさるさんに会いました。そのおさるさんは休み茶屋に飼われていたのです。
「お前さんもたっしゃでしたか。」
とわたしが尋ねますと、おさるさんは小首をかしげまして、
「いえ、それはお前さまの覚えちがいでしょう。お前さまの言うのは、たぶん、おれの親ざるのことでしょう。おれもあの親ざると同じように、長いことこの棧橋に暮らしています。おれはちいさい時分からこの木曾川の音をきいていますが、いくら聞いてもあきないのは、水の声ですよ。」
「それはうらやましい。わたしは十の年に郷里を出たものですから、久しぶりにここを通ります。でも、山育ちは争われないものとみえて、わたしの顔を見ると、山ざる、山ざるという人がよくあります。」
「ハーン。してみると、お前さまもさるなかまか。」
こんなあいさつをかわした後、棧橋のおさるさんにも別れて、また奥深く進みました。秋も深いころでしたから、山という山、谷という谷は皆、紅葉にうずめつくされていました。この帰郷には、姉夫婦とともに木曾福島まで行き、それから東北の空をさして仙台の学校のほうへ引きかえして行きました。
仙台へ引き返してから、わたしは布施さんの家の人たちとも別れて、名掛町というところにあった宿のほうへ移りました。そこは三浦屋といって、旅人宿と下宿を兼ねていましたが、わたしの借りたのはその奥の二階の部屋でした。ほんとに、わたしの仙台時代はその二階で始まったと言ってもいい。窓の外にはとなりの石屋さんの石をならべた裏庭が目の下に見えます。わたしは石屋さんと競争で目をさまして、朝も早くから机にむかいました。
海が鳴ります。
荒浜のほうからその音が聞えてきます。荒浜というところは外海にむいた砂地の多い漁村です。仙台から一里ほどあります。そんな遠いほうで鳴る海の音が名掛町の宿までよく聞えます。
皆さんはどこかで海鳴りを聞いたことがありますか。古いことばに潮騒というのがありますが、海鳴りはその音でしょう。海の荒れる前か、あるいは海の荒れたあとかに、潮のさわぐ音でしょう。それは大きなほらの貝でも遠くのほうで吹き鳴らしているような音です。びっくりするような海の声です。わたしも東北の地方へ来て、初めてあんな音を耳にしました。
海といえば、わたしのような山国に生まれて深い森林の中に育ったものは、特別そちらのほうへ心を誘われます。そういうわたしは、相州鎌倉にも小田原にも、上総の富津にも時を送ったことがあり、西は四日市、神戸、須磨明石から土佐の高知まで行って見て、まんざら海を知らないでもありませんでした。しかし、布施さんといっしょに仙台から宮城野を通り、荒浜まで歩いて、見わたすかぎり砂浜の続いたところに出て行った時ほど、心を打たれたこともありません。
その時わたしは生まれて初めて大洋を望んだと言ってもいいほどに思いました。そればかりでなく、布施さんをそそのかしまして、その砂浜に着物をぬぎすて、二人して寄せくる波の間を泳いだこともあります。そのへんは海水を浴びに来るものがよく波にさらわれるところだと言われるくらいの岸でしたが、しかしわたしはただ大洋を望むだけにはまんぞくしませんでした。
仙台へ来て弱ったことは、ことばのなまりの多いことでした。何か土地の人から話しかけられても、世間に交際の広い男や女の話に通じないようなことはまずありませんでしたが、おばあさんどうしが語り合うことばなぞは、てんで聞き取れないくらいでした。わたしは東北学院へ来て学んでいる生徒の作文の中にも、何ほどその地方ことばのなまりを見つけたか知れません。
仙台のような都会ですらこのとおりですから、まして荒浜のあたりに住む人たちの言葉には土地のなまりも濃い。ある年、あの漁村に悪い病がはやって、それを調べるために内務省から役人や医者の出張したことがあるそうです。ところが、荒浜の漁師たちの言うことは、それらの役人や医者はおろか、仙台から付いて行った人にすらよく聞き取れなかったそうです。
ここに一人、耳のいい人がありました。
その人を仙台から連れて来て、はじめて用が足りたということでした。そんな漁師ことばの通弁をだれがつとめたかと言いますに、その耳のいい人はもはや三十年近くも仙台地方に住む外国の宣教師でした。ローマ旧教をひろめに日本へ渡って来た人で、ジャッキという名前のフランス人でした。このジャッキ先生、ギリシア語の知識もあって、学問のある坊さんでしたが、年百年じゅう、同じような黒いぼうしをかぶり、黒い服を着て、なりにもふりにもかまわずに荒浜のほうまで宗旨をひろめに行くうちに、そんな漁師ことばの通弁がつとまるほど、いい耳を持つようになったのです。
瑞巌寺は東北地方に名高い、松島にある古い大きな寺で、そこに安置してある伊達政宗の木像も世に知られています。ちょうどわたしの甥が東京から仙台の宿へたずねてきたものですから、二人で松島見物を兼ねて、木像拝見と出かけました。あいにく、その木像はるすだというのですが、しかし声はするのです。そこでわたしが尋ねてみましたら、こんな返事でした。
「いや、遠いところをよくたずねてきてくれました。木像はわたしですがきょうはだれにも会えません。わたしもこんなうすぐらいところにいるものですから、このお寺の小僧が見物人を案内して来ては、わたしの鼻の先へろうそくの火を突きつけるので、だいじな鼻を焦がしてしまった。あの小僧も気がきかない。もうすこしでわたしは大やけどをするところでしたよ。これでもわたしは人間らしいものの尊いところを持っているつもりです。見に来てくださるなら、そういうものを見ていただきたい。あんまり見世物扱いにされたくはありません。」
無言な木像にも、声はありますね。
この瑞巌寺の近くに雄島という小さな島がありまして、いくつかの洞穴が海にむいたところに隠れています。昔の坊さんたちが来て座禅をした跡だと聞きます。あそこにもここにもというふうに、その洞穴が続いています、中には、岩壁にむかい合って静かにすわるために、坊さん自身の手で造りかえたかと見えるほど、そまつながら岩屋の形をそなえたところもあります。あまり取りつくろわれた古跡なぞを見るよりも、かえって昔のことがしのばれるのも、そういうかくれた場所です。そんなところへ行って立ってみますと耳に入る松風よりほかに長く遠いひびきを伝えるものもありません。
昔の人がほんとうに物を考えた場所だという気のしてくるのも、その岩壁の前です。わたしは古い松の枝を通して海に映る夕日を望みながら、しばらくそこに立ちつくしていたこともありました。
長いもの、仙台地方に伝わってきた「さんさしぐれ」の古い歌の節。
布施さんはそれをよく覚えていて、ある日わたしに歌ってみせてくれました。どうして布施さんの口からそんな古い歌の節が出てきたかと言いますに、君の家がらはこの地方の郷士として代々仙台侯に仕えてきた歴史があるからでした。あの「さんさしぐれ」の歌は、甲高い女の声よりも、むしろ低いところを歌える男の声に適していて、ゆっくり歌うべきものだそうです。あれをわたしに歌って聞かせる間、しばらく布施さんは「時」というものも忘れているようでした。いかにもゆったりと迫らないでしかも深く聞える古風な歌に耳を傾けていますと、その抑揚のある節の一つ一つが実に長くつづいて行きました。切れたかと思うと、まだ続いているようなものでした。
それもそのはずです。あれはただの俗謡でもなくて、古い歴史のある朝鮮征伐のおりの凱旋の曲だと聞きます。おそらく、昔の仙台武士は軍の旅から帰って来て、たがいに祝いの酒をくみかわし、手拍子でも打ちながら、心ゆくばかりあの歌を合唱したものでありましたろう。陣中の着物も解き、重い刀もわきに置いて、ふたたび妻子に迎えられた時のよろこびは、いくら歌っても歌いつくせないようなものでありましたろう。
たいとさけがそろって出かけるところでした。さけは白っぽい腹掛けに身をかため、たいは赤いはち巻きをしていました。
さけが言うには、たいさん、わたしはこれで旅なれています。これからわたしは北へ伸して、大海を味わってきますよ。このとおりわたしは元気ですが、まだこんな油の乗りかたではまんぞくしません。わたしは行って、もっとからだを鍛えてきましょう。年の暮れまでには帰って来るつもりですが、来年はどんないいお正月が来るか。おそらくみんな春待つ思いで、かちぐり、ごまめ、こんぶなぞを用意し、いろいろと年越しのしたくをして、わたしの帰りを待っていてくれるでしょう。わたしがいなければ、仙台の人は年を取れませんからね。
たいが言うには、お前さんのその元気には驚きます。お前さんの鼻は少し曲がっているように見えますが、それでいて、みんなに好かれるには、これにも驚きます。わたしをごらんなさい、みんなで寄ってたかっていろいろなことを言って、金華山沖のたいは、目の下一尺もあって、値がただみたようで、いいおさかなですことの、なんのかんのと、えらいお世話です。しかし、わたしは何事もしんぼうしなければなりません。今にいい時節がめぐって来て、桜の春とでもなりましたら、どんな貧しい家へもたずねて行ってやりましょう。めったにわたしを迎えたことのない人たちをびっくりさしてやりましょう、そしてみんなにどっさりごちそうしてやりましょう。
仙台には、わたしは一年しかいませんでした。その一年はわたしにとって、一生のうちの最も楽しい時の一つでした。わたしの迎えた朝のような時でした。しかし、これはただの朝でもありません。そのことを皆さんにお話ししましょう。
わたしは皆さんの前に一つのたとえ話を持ち出しますよ。ここに一人の学校生徒があるとしますよ。春先というものはだれでも眠いものですが、その学校生徒もちょうど春先のような眠いさかりの年ごろで、朝早くにわとりが鳴き出しても、なかなか目がさめません。一番どりはもとよりのこと、三番どりの声がするころになっても、まだ生徒は眠がって、夢を見ていました。こんなににわとりの鳴くのも知らないでいるくらいですから、寝ぼけまなこに太陽を望みましても、ほとほとその笑顔を仰いだこともなくて月日を送っていたのです。ただ朝になれば東の空から出て晩には西の空に沈んで行くような、そんな赤いしょんぼりした日輪しか知りませんでした。太陽はその生徒から離れて行って、おもしろくもおかしくもない顔つきのものとしか目に映りませんでした。
どうでしょう、こんな朝寝坊にも早く目のさめる時が来ましたよ。気がついてみると、にわとりは暗いうちから起きて生徒を呼んでいました。
そのうちに、太陽が遠く東の空に登ってきました。それは地平線を離れて飛びあがるような勢いのものでした。毎晩沈んで行く日輪とも思えないほどの生き生きとした美しいものでした。生徒はびっくりして、生まれて初めてそんな太陽が自分の目に映ってきたことを知ったのです。にわとりはにわとりで、もう一つおまけにというふうに、新しい朝の誕生を告げていたのです。
わたしが仙台で送った一年は、ちょうどこの学校生徒がにわとりの鳴き声を聞きつけた時のようなものでした。朝になりますと、だんだん空が明けはなれて行くように、過ぎ去ったことはわたしから離れて行きました。そこいらは明るくなってきます。物は生き返ってきます。草木も新しい色を帯びてきます。何を見ても目がさめるようでした。
ほんとに、仙台の一年はよかった。わたしのようなものにも、そんな朝が来ました。その一年の間ほど本のよく読めた時もありません。どうしてこんなことをお話しするかと言いますに、自分のよろこびとしたことを皆さんにも分けたいと思うからです。それには待っていてくださることです。新しい太陽は、きっと皆さんのなかにも登ってくるでしょう。
姉ですか。姉は木曾福島のほうにある高瀬の家にかたづいていました。女のきょうだいといえば、わたしにはこの姉一人でしたが、だいぶ年が違いますし、それに遠く離れてばかり暮らしていまして、おたがいにいっしょになるおりもめったになかったのです。
皆さんにも前にお話ししたように、母がなくなりました時、わたしは郷里の神坂村のほうで、久しぶりの姉と落ち合い、その葬式を済まし、父の墓をもともどもとむらいまして、その帰りには木曾福島まで姉といっしょでした。神坂村から木曾福島の町まで十二里です。木曾路の深いところです。その時は、ほかに連れもありましたが、なにしろ山坂は多し、木曾川づたいの道を女の足ではそうはかどらないものですから、途中二晩も泊まりました。しかし、この道は楽しく、それまで遠いところにいた姉がにわかに近く思われてきました。そう申してはなんですが、わたしたちの母の死が、こんな姉弟のものを近く思わせるようにしたのです。
ある夏、保福寺峠や鳥居峠を越して木曾福島に姉の家をたずねました。その時はわたし一人でもなく、吉村のむすこさんを連れて行きました。今の吉村さんもそのころはまだ中学生であったのです。吉村一家の人たちは木曾福島の出ですから、この中学生にとっても初めて両親の郷里を見る時でした。
木曾福島は御岳への登山口につづいた町です。昔は名高いお関所のあったところです。そのお関所の跡に近く、町はずれの丘の地勢について折れ曲がった石段を登り、古風な門をはいりますと、玄関のところに置いてある衝立が目につきます。衝立は皆さんもごぞんじのように、ふすま障子に似て台がありますが、その家のは薬の看板を造り直したもので、奇応丸、高瀬謹製の文字が読まれます。そこが姉の家でした。姉夫婦も元気な時で天井の高い、広い炉ばたでわたしたちを迎えてくれました。
木曾川はこの町の中央を流れる川です。姉の家の門前からがけ下のほうに福島の町がよく見えまして、川の瀬の音までが手に取るように聞えています。対岸に並ぶ家々、お寺の屋根、古い屋敷の跡なぞから、深い原生林につつまれた山腹の地勢までが望まれます。こんなに用心よくまとまった町のながめのあるところもめずらしい。それを見ても、古いお関所を中心にして発達してきた町だということがわかりますね。
オヤ、さかんな鈴の音もしますよ。それがこの谷底へ活気をそそぎ入れるように聞えてきていますよ。
「チリンチリン、チリンチリン。」
夏のさかりのことで、白い着物に白いうしろはち巻き、檜木笠を肩にかけ、登山のつえをついた御岳参りの人たちが、腰の鈴を振り鳴らしながら、威勢よく町へくりこんでくるところでした。
わたしは姉の家の入口ばかり皆さんにお話しして、まだ奥のほうをお目にかけなかった。この高瀬の家では、先祖の中に橘翁さまという人がありまして、毎年の忌日にはかならずその人の画像の掛物を取り出し、それを奥の床の間の壁に掛け、その人の好物であったというくりめしを供えるとか。この橘翁さまが高瀬の家に伝わった薬を造りはじめた人です。
橘翁さまはかなり遠い先のことを考えておいた人とみえます。そのことをここにすこしお話ししてみれば、もともと高瀬の家の先祖は代々木曾福島のお関所番をつとめた武士であり、高瀬の兄(姉の夫)の父親の代には砲術のご指南番(指導の役)までしてお関所を固めたもので、したがって部下に使われる人たちもすくなくなかったのですが、そういう身分の低い士族は多く貧しかったのです。橘翁さまの製薬は、部下の人たちにも内職を与え、土地のうるおいにもなるように、との願いから始めたことらしい。高瀬で造り出した奇応丸は、木曾山でとれる熊の胆を土台にして、それにシナ朝鮮のほうから来る麝香やにんじんなぞを用い、形もごく小粒な飲みいい丸薬として金粉をかけたものですが、正直な材料が使ってあるものですから小児に飲ませるにいいと言われて、だんだん諸国にひろまったもののようです。
さて、高瀬の兄の代になってみますと、この人は若い時から早く名古屋に出て、新しい教育を受けたくらいですから、漢方で造った先祖伝来の薬などを守っている時世ではないと考え、家も飛び出してしまって、東京に出ていろいろやってみたということでした。どうでしょう、この兄のいろいろな試みよりも、先祖ののこした仕事のほうが根深かったのです。古い薬はいつまでも、売れて、子孫のものがよくやって行かれるばかりでなく、薬方の番頭さんや大ぜいの小僧さんたちまでりっぱに養えるのです。高瀬の兄はいろいろやってみた末、もう一度住み慣れた屋根の下に帰ってきて、黒光りのするほど時代のついた大黒柱のわきにすわってみて、先祖のおそるべきことを知ったそうです。なんと、くりめしの好きな橘翁さまはその画像の中に残って、子孫の末を見守っていてくださることでしょう。
木曾福島は馬市の立つ町としても昔から知られています。その馬市のことを木曾地方のものは「お毛附」とも言います。木曾は馬の産地で、馬を飼わない百姓はなかったくらいですから、福島に市の立った時は近在のものが木曾駒を持ち寄ります。それを買いに諸国から博労が入りこんできます。町もにぎわいの時です。
橘翁さまの始めた薬はそんな時の役にも立って、町へ集まって来た博労が帰りがけに、よく姉の家へ立ち寄り、いく袋となく高瀬の薬を求めて行くと言います。聞いてみれば、博労はひいている馬に高瀬の薬を添え、それを木曾駒の証拠として、ほかの買い手へ売り渡す時に用いるとか。一度ひろまった薬はどんなところで、どんなふうの木曾みやげになるものとも知れません。これには橘翁さまも草葉のかげで、にが笑いしていられることでしょうか。
しかし、橘翁さまの始めた薬がこんなにひろまるまでには、そのかげに何ほどの人のほねおりがかくれているとも知れません。
もとより、木曾山の熊の胆に目をつけて、それを土台に製薬の業を思い立ったのは、橘翁さまあってのことです。しかし、姉の家の薬をこれまでにひろめ、先祖伝来のしごとを築き上げたのは、何代もかかった行商の力によることが多いのです。
高瀬の薬方が、昔はその主人と主従の間がらで、部下の士族であったことは前にもお話ししたとおりですが、そういう人たちが番頭さんと呼ばれる時世になってからも、毎年手を分けて諸国へ行商に出ました。西は美濃、尾張、伊勢から、北は越後の方面へかけ、ふろしき包みにした薬の箱をしょい、日に焼け、雨にぬれることをもいとわずに、遠い道を往復し、去年の薬の残ったところへは引き替えに新規の薬の袋を置いてくるほどにして、高瀬の薬をひろめて歩いたのも、そういう人たちでした。わたしが姉の家をたずねたころはおいおい薬方も変り、あるものは年とって身を退き、あるものは若手に代をゆずったと聞きましたが、それでも一人のいい番頭さんが残って高瀬の兄を助けながら、製薬いっさいのことをきりまわしていました。
姉の家の店座敷から奥のほうへ通う中央の広いへやは薬方の仕事場にあててあって、静かな日の光が障子にさしてきているところです。そこには薬種を刻むもの、袋を造るもの、丸薬の数を量り入れるもの、それぞれの受け持ちがあり、中には薬の紙を折ることを内職にして古い士族屋敷の町のほうからかよってくる老人もありまして、みんな秋の行商のしたくにいそがしがっていました。
姉の家には、昔から伝わる漢籍、兵書、歌書、その他の書物もすくなくはありませんでした。裏庭にある土蔵の二階は本箱でいっぱいでした。高瀬の兄はわたしにむかって、それらの蔵書を勝手に探れと言ってくれ、姉はまた姉で、古い絵、古い手紙、香の道具、うるしぬりの器、陶器のたぐいなぞを取り出してきて見せてくれました。その中に、高瀬の兄の先代が愛用したという古い茶わんが出てきました。
そのおかたみはシナからでも渡って来た陶器らしく、厚手の焼きで、青みがかった色つやまでがいやみのないものでした。あまりよくできているものですから、わたしがほめましたら、姉はていねいに茶わんをふき、それをわたしの前において、ほしくばくれてもいいと言うのです。わたしもまだそんな古い茶わんをもらい受けてながめ楽しむ年でもありませんでしたから、せっかく姉がそう言ってくれても、それをもらって帰る気にはなりません。それに、その茶わんは茶器でもなくて古い食器です。いかによくできた陶器でも、むかしの人が飯を盛った茶わんで食う気にはなれない、やはり自分は自分の茶わんで食いたいと思いました。
八月も半ばになりますと、つばめは木曾谷の空を帰って行きます。姉の家の門口へもつばめはあいさつに来て、
「長々お世話さまになりました。」
と言うらしいのです。いくら遠い国のほうから渡ってきたものでも、春から軒先を借りていて、かわいいひなまでもうけるくらいなら、もっとことばが通じそうなものですが、つばめの言うことはペチャ、クチャ、ペチャ、クチャ──まるで異人のような早口です。
「どうぞ、また来年もよろしく。」
どこまでも南国弁のつばめは、わからないことばづかいでそのおいとまごいに来て、古巣に別れを告げて行きました。
木曾川の岸には、うるい、露菊のたぐいが咲きみだれ、山には石斛、岩千鳥、鷺草などの咲き出すのも、そのころです。かじかのなく声もまれになって行きまして、桑つみのひな歌がおもしろく聞えるころから、姉の家の裏庭には、草花のながめがことにうれしく、九月にはいってからは白い壁のかげにある秋海棠の花もさき出しました。
野菜や草花をそだてることの好きな姉はその裏庭つづきの畑にうりを植えたり、夕顔のたなを造らせておいたりして、毎朝の畑の見回りが何よりの楽しみであったようです。そのへんから裏山へかけては、なだらかな傾斜になっていましたから、わたしも細い道を楽しみにして、枝のたれさがった夏なしのかげ、ぶどうだなのもと、またゆり畑の間などを歩き回り、年とった百姓を相手に木曾福島の風俗、祭の夜のにぎやかさ、耕作の上のことなどを語りながらいなかのふぜいを味わいました。
旧暦七月十五夜には月がことに明るくこの谷間にさし入りました。姉の家のものは、甥や姪から、年不相応に額ぎわのはげた番頭さんまで奥座敷に集まりまして、あかりを遠く置き、縁側に出て、思い思いの夜ばなしを持ち寄りました。木曾福島もせまいところで、わたしが吉村のむすこさんを連れながら東京から来たと言えば、そんないささかな人の動きまでが、一晩じゅうに町へ知れ渡っているくらいのところです。ほんとにせきばらい一つうっかりできないところだ、そんな話の出るのもその縁側でした。姉のもとへかよってくる女の髪結いさんは唖ながらに、それはかしこいもので、姉はその人の身ぶり手まねを通して、町のできごとを手に取るように知ることができる、そんな話も出ましたっけ。
青い夕顔も長く大きく生りました。
あのつるから切りたての新しい色つやのを、どかりとそこへ置いた時は、だれでも子供のようにうれしい。新しい秋のみのりですからね。ほかの家と同じように、姉のところでも青い夕顔を輪切りにして、かんぴょうに造るしたくをしました。まずその輪切りにしたやつをまないたの上にのせます。薄くけずった二本の竹がまないたの上に平行に打ちつけてあります。額つきもまだ若々しい薬方の若者なぞが、細身のほうちょうを片手に、腕まくりで、そのまないたの前にすわったところは絵にしても見たいほどさわやかなものです。ほうちょうが順に動いて、輪切りにされた夕顔が二本の竹の間をすべって行きますと、そこから生のままのかんぴょうが生まれてきます。どうかすると五六尺あまりもあるような長い長いやつも生まれてきます。それを日にあて風にかわかしてかんぴょうに造りあげるのです。田園のふぜいはそんなところにも深いものがありました。
涼しそうなもの、方壺山人のはすの葉のかさ。
方壺山人は名字を渡辺といい、徳川の時代に木曾福島の名君とうたわれた山村良由公が詩文の師匠と頼んだ人で、「菁莪館」(良由公の建てた学校)の学問を興したことにもあずかって力のあったらしい人ですが、この人が大きなはすの葉を頭にかぶった図がわたしの見つけた書物の中に残っていました。青いはすの葉をかさのかわりとは、木曾川へつりに行く人でも、ちょっと思い付きそうもないものです。
吉村のむすこさんは秋の新学期のしたくもありまして、町での親類回りをすました上、東京のほうへ先に帰って行きましたが、わたしは自分の仕事を持ってきていたので、それのすむまで姉の家にとどまりました。
早いものですね、こんなふうにして一夏を送るうちに、わたしの借りている店座敷へはせみが舞いこみ、めっきり秋らしくなった風は座敷の中を通りぬけて行きました。皆さんにも聞かせたいのは、川上から大手橋のほうへ流れる木曾川の音ですが、あの水が岩を越すよりもっと早く、夏の暑さが流れて行ってしまいました。
この一夏の間、わたしは姉の口からなき父の話をよく聞かされました。父は熱心な子の教育者で、わたしも六つ七つのころから読書の道を父より授けられ、十の年に両親のひざもとを離れたのもやはり父の意見によってのことでしたが、そんな子供の時分の記憶しか自分にはないものですから、姉から聞く父の話には初めて知るようなこともすくなくなかったのです。わたしのきょうだいの中でも、姉は一番の父親思いでしたからね。父は神坂村のほうからこの木曾福島の町へもよく来たらしい。この町には父が歌の友だちという人もあったらしい。わたしは姉の家で、父を知っているという一人の老人にも会いました。
どれ、姉の家のことはこのくらいにとどめて、もっとほかのお話に移りましょう。姉も元気な時でしたから何よりわたしにはうれしかったのです。そういえば、わたしたちが広い炉ばたで食事するごとに、姉の家に使われている下女ははえを追い通しでした。それほど木曾ははえの多いところです。深い山の中で、しかも馬の産地であるくらいですから、はえばかりでなく、ぶよもいます。高瀬の兄はじめ、家の人たちに礼を述べて、わたしがこの町を辞した朝は秋風の身にしみるようなころでしたが、道ばたに隠れているはえが来て旅の着物にまで取りつきました。
木曾福島の姉の家から東京のほうへ帰って行く時のことでした。わたしはその途中で信州小諸に木村先生の住むことを思い出しました。木村先生はわたしの少年時代に、東京神田の共立学舎で語学を教わった古い教師でありますし、その後わたしが芝白金の明治学院へかよったころにも先生は近くの高輪に住んでいたものですから、よくおたずねしたことがありました。先生が信州のいなかに退かれてからはお目にかかるおりもなかったので、久しぶりで先生のお顔を見たいと思い、小諸の耳取というところにある先生の家をたずねました。わたしが小諸の土を踏んでみたのも、それが最初の時でした。
人の世はふしぎなものですね。その時わたしが木村先生をおたずねしなかったら、小諸義塾のあることも知らなかったでしょうし、先生の教育事業を助けるようにとのご相談も受けなかったでしょう。わたしはよく考えた上でとお答えして、いったん東京へ帰りました。ただ先生のような人が小諸あたりに退いて、学校を建て、地方の青年を相手に田園生活というものを楽しんでおられるのをゆかしく思ったことでした。
自分のことをここで少しお話ししてみれば、わたしも仙台から東京へ帰るようになってから、またまた自分の仕事をつづけましたが、まだまだ力の足りないことを思うにつけ、あの東北の菖蒲田の浜で海の空気を胸いっぱいに吸ったり、梨畑やぶどう畑の見られる仙台郊外を土樋というほうまで歩き回ったり、あるいは阿武隈川の流れるところまで行ってみたりしたような、そんな静かな心は持てなかったのです。そればかりでなく、自分らの切り開いて出て行こうとする道にはお手本というものも少なかったし、足もとも暗かったし、これから先、自分のなかから生まれてくるものを守り育てて行くには、かなりの勇気と忍耐とがいりました。
どうかして、もっと自分を新しくしたい。そう思っているところへ小諸義塾の話がありまして、いなか教師として出かけてきてはどうかとの木村先生からの手紙をも受け取ったのです。
小諸からは関君という人がわざわざ東京まで出て来てくれまして、木村先生はじめ町の人たちのすすめを伝えてくれました。関君は明治学院の出身で、わたしとは古いなじみの間がらでした。当時、京都のほうにも教師の口はありましたが、わたしはいなかに退いてもっと勉強したいと心を決めましたから、報酬もすくなく骨もおれる小諸のほうの学校を選びました。そんなわけで、翌年の四月には浅間のふもとをさして、いなか教師として出かけました。
新規、新規、見るもの聞くものわたしには新規なことばかり。第一、自分のつとめに通う小諸義塾までが、まだようやく形の整いかけたばかりのような新規な学校でした。しかし、その義塾の二階の教室から、遠く蓼科の山つづきの見える窓のところへ行って、そこから信州南佐久の奥のほうの高原地なぞを望むたびに、わたしはようやくのことで静かに勉強のできるいなかに、もう一度自分の身を置いたように思いました。その窓の近くには、小諸の士族屋敷の一部の草屋根も見え、ところどころには柳のこずえの薄く青みがかったのもあり、ちょうどわたしが出かけて行ったころはおそい春がようやく浅間のふもとに近づいてきた時分でした。たとえ学舎は小さくとも、わたしはほかの先生がたとともに働くことを楽しく考えました。
小諸本町の裏手に馬場裏というところがあります。そこにある古い士族屋敷で草屋根の家がわたしの借りうけた住まいです。わたしの小諸時代は七年もその草屋根の下で続いたのです。
でも、わたしは小諸に来て山を望んだ朝から、あの白い雪の残った遠い山々、浅間、牙歯のような山つづき、影の多い谷々、高いがけくずれのあと、それから淡い煙のような山のいただきの雲の群れ、すべてそれらのものが朝の光を帯びてわたしの目に映った時から、なんとなくわたしのなかにはまったく新規なものが始まったように思ったのです。
小諸の荒町には、髪を昔風のチョンまげに結んだ鍛冶屋さんが、たった一人残っていました。明治の御代となってから、そういう風俗はすたれ、みんな簡易で軽便な散髪に移りましたから、これは小諸へんに見られる最後のチョンまげでありましたろう。もっとも、手ぬぐいでうしろはち巻きにしただけでも、からだが引きしまるように、昔の人がかたく髪を束ね、その根を細く強い元結で引きしめて、頭に力を入れたろうかと思いますと、いちがいにそれをはやりおくれの古くさい風俗として笑えません。おそらく荒町の鍛冶屋さんも、鉄の槌を握る時の助けとして、一生そんなチョンまげで通したのでしょう。この鍛冶屋さんは、わたしたちの学校の体操教師で大井さんという人のおとうさんでした。わたしは大井さんを通して、この鍛冶屋のおとうさんにくわを一丁頼みました。さあ、これです、これがおやじの打ったくわですと言って、大井さんがさげてきてくれたのを見ましたら、なるほどチョンまげで通すほどの人の気象がそのがっしりとした柄のついた一丁のくわにもあらわれていました。
どうしてこんなくわなぞを造ってもらったかと言いますに、わたしもいなかへ来たからには学校へ通うかたわらくわでも握って、自分のこころを鍛えるばかりでなく、からだをも鍛えようとしたからでした。
おもしろい風体のお百姓ができあがりました。わたしはほおかむり、しりはしょりで、ももひきもはいていません。それに素足ですよ。馬場裏の家の裏には、もと桑畑であったところが空地になっていましたから、そこを借りることにしましたが、さくの外を行く人は慣れないわたしが働くのを見てクスクス笑って通りました。それにもかまわず、わたしは古い桑の根を掘りおこしたり、石ころを運び捨てたりしました。掘り起した土の中からはどうかするとかわいらしい貝割葉が見つかりましたが、それはすもものたねについて出てくるやつでした。わたしたちの学校には辰さんという小使いがいます。この男の家では小作をやっています。その辰さんが見回りに来て、くわの持ち方からわたしに教えてくれました。野菜を植えるなら、まずじゃがいもやねぎのような作りやすいものから始めて、それから大根、なす、さやえんどう、きうりなどに及ぼすがいいと教えてくれるのも辰さんです。わたしは、こんな読書の余暇にするいささかの業からも、大地からじかにからだへ伝わってくるよろこびを覚えて、なまなましいにおいのする土の中を素足で歩き回りました。時には畑の土を取って、それを自分の足の弱い皮膚にこすりつけました。
その畑の横手には、家の勝手口から通うことのできる細い流れもあります。遠く山のすそのほうから引いてきてある水です。毎朝わたしはその細い流れへ顔を洗いに行きます。そこはせんたくすることを禁じられているような場所ですが、どうかするとこまかい砂が水にまじって流れてきていて、手にもすくえないことがあります。清水と言いたいが、飲用水には使いがたい。そんな水ではありましたが、都会から行ったわたしは餓えかわいた旅人のようにして、その荒く冷たい水の中へ自分の両手をひたし、そこからわきあがる新しいよろこびを覚えました。
浅間のふもとでは、石ころの多い土地にふさわしい野菜がとれます。その一つに、土地の人たちが地大根と呼んでいるのがあります。あの練馬あたりの大根を見た目には、これでも大根かと思われるほど、ずっと形もちいさく、色もそれほど白くなく、葉を切り落とした根元のところはかぶのような赤みがかった色のものです。
長い冬のために野菜をたくわえるころが来ますと、その大根を洗ってたくあんにつけるしたくをするのが、小諸へんでの年中行事の一つになっています。わたしが東京から出かけて行った初めのころには、よくそう思いました。この土地には、こんなあわれな大根しかできないのかと。一年暮らし、二年暮らしするうちに、ふしぎにもその堅い大根でつけたたくあんには、かみしめればかみしめるほど、なんとも言われない味が出てきました。上州あたりの大根なぞはそれに比べると、いっそ水くさいと思うようになりました。
ひどいものですね。はげしい風と、砂と、やけ石の間のような火山のすそにも、住めば住まわれるようになりますね。まあ、その地大根の味をかみあてたころから、わたしの小諸時代がほんとうに始まったと言ってもいいのですよ。
なんという長い冬が山の上へ来ると皆さんもお考えでしょう。
小諸の四季は四月、五月を春とし、六月、七月、八月を夏とし、九月、十月を秋として、十一月から翌三月の末までは冬が続きます。冬は五か月もの長さにわたるのです。春は東京あたりより一月もおくれまして、梅の花がようやく四月に開き、秋は都より一月早く来て、霜にぬれた葉は十月にはすでに赤くなります。十月の二十三日ごろといいますと野べに初霜を見、十一月の七日ごろには初雪が浅間へ来ました。
こうして長い冬が山の上へやってきます。なにしろ海抜三千尺、浅間一帯の山腹にある小諸の位置はほとんど筑波の嶺と同じ高さと言いますからね。十二月の中旬からはもう天寒く、日の光も薄く、千曲川の流れも氷に閉ざされて、浅間のけぶりも隠れて見えなくなります。それから年を越して二月の終りまで、暗く寂しい雪空には日を見ることすらまれになって行き、庭に降る雪は消えないで積もった上に積もるものですから、しまいには家の縁側より高く、夜ごとに柱のしみ割れる音がして、硯の海も凍り果てました。
わたしはうずらのように小さくなって、雪のふりうずめる山里の家の窓でよく本を開きました。軒ばのつららは剣のようだとも言ってみたく、その長さは二尺にも三尺にも及びます。最初の一冬はわたしもこごえ死ぬかと思うほど、おおげさに言えばそんなに寒く思いましたが、でも一年暮らし、二年暮らしするうちに、ずっとわたしのからだには「抵抗力」というものが出てきました。わたしはきびしい寒さを恐れないで、塩のような雪が飛んでくる中を走り回り、山国の冬の楽しさを知るようになりました。わたしの教える学生たちは町に住むものばかりでなく、かなり遠くの村から学びに来る農家の子弟もありましたが、それらの青年は一里も二里もある雪道を毎日平気でかよっていました。
「わかめはようござんすかねえ。」
そう言って呼んでくる声を聞くようになりますと、さすがに山家もいい陽気に向かいます。越後路からの女のわかめ売りの声です。紺がすりの着物に、手甲をはめ、荷物をしょった行商姿の風俗の女がいく組も来て、遠く越後のほうでとれた海草を信濃の山の上まで売りに来ます。五か月もの長い冬を通り越したあと、ふるい野菜はすでに尽き、新しい野菜にはまだ早いという四月のころには、わたしたちはこのわかめ売りの来るのを待ち暮らしているようなものです。さんしょの芽の青くもえ出す時分になって、においのいい田楽なぞをかいでみる心持は、山の上の冬ごもりをしたものでなければわかりません。
そういえば、木の芽が田楽になり、竹の子がすしになり、よもぎがもちになるころは、そこいらはもう桃やすももの花でいっぱいです。
小諸の竹の子は、鴇窪という近在のほうからくるわらびを見て笑いだしました。小諸にはこんもりとした竹の林と言えるほどのものはほとんど見当たりません。真竹、孟宗の類は、この地方には十分に成長しません。でも、細い竹のやぶがありまして、春先にはそこから細い竹の子が頭を持ち上げます。
竹の子がわらびに言うには、どうしてお前さんたちはそんなに皆、首をかしげながら出てくるのか。わたしをごらん、このとおりわたしはひと息に延びて行きます。なるべくまっすぐに、それがわたしたちの親竹から教えられたことです。
わらびはこの話を聞いていましたが、やがてこう答えました。それは草木と生まれまして、新しい生命を願わないものはありません。ただお前さんには土を割って出て行く剣先のような親ゆずりの力がある。わたしにはそんな親ゆずりのとがったものがない。ですから、背を曲げたあかごのようにして出て行かないことには、土を持ち上げることができません。あるものはすくすくとひと息に延び、あるものは頭をたれながらゆっくりと延びます。しかし、それは同じことですよ、と。
佐久あたりでは、ほかの地方ともちがって、夕方のあいさつに「こんばんは」とは言いません。「おつかれ」と言います。日暮れがたの道で行き会う人ごとに聞くものはそのあいさつです。町で働いた人はそれを言ってたがいに一日のつかれをねぎらい、野で働いたものはそれを言ってたがいに鍬を肩にしながら帰って行きます。冬が長ければ長いだけ、春から秋へかけては活動の時期ですから、そこから「おつかれ」のような佐久ことばも生まれてきたのでしょう。こうした土地に住み慣れてみれば、黄ばんだほおずきちょうちんを空に掛けたような名月までが、「おつかれ」と言って、遠い森の上へ登って行くように見えますよ。
桃について、かつてわたしは次のようなことばを書きつけてみたことがあります。
五月の菖蒲が男の子にふさわしいように、桃の花はおのずから少女にふさわしい。長い花ぶさをうなだれ、花べんの胸をひろげて、物思いに沈んだような海棠のすがたは、とうてい少女のものではありません。茶色で、やや赤みを帯びた枝の素生に堅くつけたあの桃のつぼみこそ少女のものです。二尺にも三尺にも及ぶほど勢いこんで延びてきているようなその素生を見たばかりでも、おい先こもる少女の命を思わせるものがあります。素朴にふくらんだところはかわやなぎの趣に似て、もっと恥を含み、しかもおとめらしい誇りをみせているものは桃のつぼみです。
これはおもに花のことを言ったのですが、桃は実になってからもいい。皆さんは桃の生っている木のまわりを歩いたことがありますか。枝からもぎたてのしずくのしたたるばかりのようなくだものを味わったことがありますか。
守山というところの桃畑は、わたしたちの義塾の木村先生がお百姓にすすめて、桃の苗木を移し植えさせたことからはじまったと聞きます。
先生は佐久地方の地味が水蜜桃に適すると気づいた最初の人でしたろう。その守山のお百姓から桃を食べにこいと言われて、わたしも小諸から出かけて行ったことがあります。桃畑の小屋の中で味わった青い桃のうまさは忘れられません。あれは大きなおかあさんのような土のふところに育ち、豊かな種の持ち主で、どっさりわたしたちにごちそうしてくれるようなやつでした。
千曲川の川下を見てきたかわずと、川上を見てきたかわずとが小諸で落ち合いました。そしてたがいに見てきた地方のことで言い争いました。
一方のかわずに言わせると、千曲川は犀川といっしょになってからがいい、つまり川中島から下のほうがいいと言いますし、一方のかわずはまた、臼田あたりから上のほうがいいと言いまして、たがいにそのことを争ったのです。どうあっても千曲川は川下がいいと一方が言えば、いや、川上がいいと一方が言い張りました。
そんなら、自分の見てきた地方のことを一つ聞いてもらおうと、川上へ行ってきたかわずが言い出しました。信濃の一部だけ見て、これが山国全体の姿だと思われてもこまる。それには、どうしても千曲川の上流について、南佐久の地方へはいってみないとわからないというのが、このかわずでした。
川上を見てきたかわずはまず岩村田あたりから始めました。あの町の大字金の手というところのかどに石があります。その石が、これより南、甲州街道と旅人に教えています。
その道について南へさして行くと、臼田の町へ出る。臼田に稲荷山公園というところがあって、公園前の橋のたもとあたりから望んだ千曲川のながめは実にいい。あれから八つが岳山脈のふもとへかけて、南佐久の谷が目の前にひらけています。千曲川はその谷を流れる大河で、岸に住む人たちの風俗やことばのなまりも川下とはいくらか違うようです。岸をさかのぼるにつれて、馬流あたりからは、さすがの大河も谿流の勢いに変るのですが、川の中心が右岸のほうへひどくかしいでいるために、左岸には川底があらわれ、砂は盛り上がり、川上から押し流された大石が埋まって、ところどころにかわやなぎ、あしのくさむらなどが茂っています。右岸に見られるのは、かえで、かば、なら、うるしの類です。甲州街道はそのかげにあるのです。しんぼうのいい越後の商人は昔からそこを往復したと聞きます。直江津から来る塩ざかなの荷がそんな山地まで深入りしたのも、もっぱらその街道を千曲川について、さかのぼったものだそうです。
両岸には、南牧、北牧、相木などの村々がちらばっていまして、金峯山、国師が岳、甲武信が岳、三国山の高くそびえたかたちを望むこともでき、また、甲州にまたがった八つが岳の山つづきには、赤々とした大くずれの跡をながめることもできます。その谷の突き当たったところが海の口村で、千曲川の岸もそのへんまで行くと、いかにも川上らしい。高い山々の間をめぐりにめぐって流れる水の声には、思わず、耳をそばだてます。山の空気というものが、そんなにあたりを深く思わせるのです。
海の口村は、もと川岸にありましたのが、川水のあふれたために、村の人たちは高原のすそへよって移り住んだとのこと。風や雪を防ぐために石をのせた板屋根を見ると、深山ずまいも思いやられます。そのへんに住んでいる人たちの仕事には、飼馬、耕作、杣、炭焼きなどありますが、わけても飼馬には熱心で、女ですら馬の性質をよく暗記しているほどです。そんな土地がらですから、娘ざかりのものが馬に乗って、暗い夜道を通るなぞは平気でしょう。その人たちが男を助けて外でかいがいしく働く時の風俗は、ももひき、きゃはんで、めくらじまの手甲をはめています。かぶりものは編みがさです。まあ、かわずふぜいがそんなことを言ってはなんですが、これも見学のためと思って見てきたところでは、娘も美しいと言いたいけれど、さて強いと言ったほうが至当で、すこやかな生き生きとしたおもざしのものが多いようです。
川上を見てきたかわずは、いろいろと土地の馬の話をも聞いてきてそのことを相手のかわずに語り聞かせました。
あのシナのほうで清仏戦争があった後、フランス兵の用いた軍馬は日本陸軍省に買い取られて、海を越して渡って来たとのこと。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象のいさましい「アルゼリー」種の馬が南佐久の奥へはいったのは、その時のことで。今日ひと口に雑種ととなえているのは、その「アルゼリー」種をさしたものと聞きます。その後、米国産の「浅間号」という名高い種馬もはいりこんだそうです。それから次第に馬の改良ということが始まる、馬市は一年増しに盛んになる、そのうわさがなにがしの宮殿下のお耳にまでとどくようになったとか。殿下は当時陸軍騎兵づき大佐で、かくれもない馬好きでいらせられるのですから、御寵愛の「ファラリース」というアラビヤ産を種馬として南佐久へお貸し付けになりますと、人気が立ったの立たないのじゃありません。「ファラリース」の血を分けた馬が三十四頭という呼び声になりました。殿下はお喜びのあまり、ある年の秋、野辺山が原へと仰せいだされたという話が残っています。その時は四千人あまりの男や女があの牧場に集まったと聞きます。馬も三百頭ではきかなかったそうです。海の口村はじまって以来のにぎわいであったとのこと。
川上を見てきたかわずはさらに話をつづけて、その牧場のある野辺山が原へも行ってきたことを語りました。そこは八つが岳の山腹にあたり、海の口村からすぐで、四里四方もある高原です。
晴れて行く高原の霧のながめも、千曲川の川下しか知らないかわずに見せたかったと言いました。すこしすその見えた八つが岳が次第にけわしい山の骨をあらわしてきて、しまいに朝の光を帯びたいただきまでが見られるころは影が山から山へさしてきています。甲州にまたがる山脈の色もいくたびか変って見えます。急に日があたってきたかと思うと、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮かんで、いつのまにか青空が見られます。そうなると、男山、金峯山、女山、甲武信が岳などの山々が残りなくあらわれて、遠くその間を流れるのが千曲川の源なのです。かすかに見えるのが、それが山里の中の山里ともいうべき川上の村落です。
このかわずが見てきたのは高原の秋でした。そこいらには木立ちもところどころ。枝という枝はいずれも南向きに延びて、冬季に吹く風のはげしさも思いやられたとか。白かばは多く落葉して高く空に突っ立ち、細葉のやなぎはうずくまるように低くかくれています。秋の光を送る風がさわがしく吹きわたると、草は黄な波を打って、かしわの葉もうらがえって見えます。ここかしこに日のあたった大石は、秋のさびしさを語っているのです。
「ありしおで」の葉をたれ、弘法菜の花をもつのもそこです。「かしばみ」の実の道に落ちこぼれているのもそこです。
そこにはまた、野の鳥も住みかくれています。ささの葉のかげに巣を造るひばりは、老いて春先ほどの勢いがありません。うずらは物音に驚いたように、ときどき草の中から飛び立つやつですが、「ヒュヒュ、ヒュヒュ」と鳴くその声からして野の鳥らしい。見れば、ぶかっこうな羽をひろげて、舞いあがろうとして、やがてぱったり落ちるように草の中へ引きかくれます。
ほかの樹木が黄に枯れがれとした中に、まだ緑のかげをとどめたところも、あるにはあります。それは水の流れを旅人に教えるので、そこには雑木がおい茂って、泉に添うて枝をたれて、深く根を浸しているのです。村々の農夫も秋の労働に追われるかして、その高原に馬を放すものはすくない時でもありました。八つが岳山脈の南のすそに住む山梨の農夫ばかりは、冬季のまぐさに乏しいので、遠くそこまで馬を引いて来て草を刈り集めているのでした。
さすがに野辺山が原へ行って遠く千曲川の源まで望んできたかわずの言うことはくわしい。一方のかわずはしきりに耳を傾けて、川上の話を聞いていましたが、やがてこう言い出しました。
「なるほど、お前さんの話を聞いてみると、自分の見学のせまかったことがわかりました。わたしは川下のことしか知らなかった。これがそもそも争いのもとでした。これからわたしもひとつ川上を心がけます。そのかわり、お前さんも川下へ来て見てください。どうして川下も、なかなかようござんすぜ。」
最初わたしは三年ほどの約束で、いなか教師として出かけてきたものですが、小諸は仙台のような土地がらともちがい、教育の機関というものがそうそろっていませんし、語るに友もすくないようなところですから、何かしら東京のほうにいるお友だちにおくれるような気ばかりしていました。第一、いなか教師の身では、読みたい書物もそうたやすくは手にはいりません。わたしは義塾の試験休みとか、養蚕休みとかにわずかの暇を見つけ、書物をさがしによく東京へ出かけて、持ち帰ったもので貧しい自分の書だなをかざりました。それとてかぎりのあることでした。そこでわたしは都にあるお友だちばかりうらやまずに、もっと正しく物を見ることを学びたいと思い立ち、それにはまず手近なところから始めようと思い立ちました。よく見れば、馬場裏から学校へ通う道ばたの雑草までが、石がきの間なぞのかくれたところにいい本をひろげて、このわたしを待っていてくれたのです。
そんなわけで、三年ほどの約束で来たわたしの前には、別の世界がひらけて行きました。ほんとに読もうとさえ思えば書物はわたしの行く先にありました。野にも川原にもありました。とうとう、七年も小諸にしんぼうして、となりのおばさんからも、生徒の父兄からも、学校の小使からも、麦畑に出て働いているお百姓からも物を学びました。わたしは教師として行き、生徒として帰りました。
ある日、東京本郷の西片町へんを歩いていますと、ふとある家からへい越しにもれてくる読書の声がわたしの耳にはいりました。思うさま声を出して本を読んでいる人の声です。それが往来まで聞えてきているのです。声を出して本を読むことはわたしも好きですから、しばらくそのへいの外に立ち聞きしていました。
はて、どういう人が住むのかと思いまして、その家の門口に出ている表札をのぞきましたら、少年のころに神田の共立学舎で物を教わった長沢先生の名が出ておりました。どうも聞いたことのある声だとは思いながら、その表札を見るまでは思い出せなかったのですが、やはり声の主人は自分の古い教師でした。ゆかしく思いました。
ある日、わたしは斎藤さんとむかいあってすわっていました。斎藤さんは号を緑雨といい、別に正直正太夫ともいって、筆とり物を書く上ではわたしたちの先輩にあたりました。正直正太夫と名のるくらいですから、ひととちがったところがありまして、どうもあの斎藤さんの目つきはよくないと、世間には毛ぎらいするものもなくはありませんでしたが、しかしうわついたところなぞは少しもなく、わたしのお友だちはみな感心していました。この斎藤さん、記憶のいいことも評判で、たいがいのものが忘れてしまうようなことまでよく覚えている人でしたが、わたしと話している間に何か思いついたことがあると見え、小さな紙のきれをくれと言うのです。どうするのかと思って見ていますと、斎藤さんは細い指でそれを折りたたんで、羽織のひもの乳のあたりに結びつけておきました。あとになって羽織のひもをとく時に、覚えておきたいことを思い出そうとするらしい。その時、わたしは斎藤さんが日ごろの心づかいというものを見つけたように思いました。
記憶のいい人はやはり違いますね。
ある日、頼みたい用事があって本郷湯島から谷町をへだてたところに住む中村不折さんの以前の住まいをたずねたことがありました。当時、中村さんは新進な画家で、独立の気象に富んだ美術家でしたが、さすがに大成するくらいの人は若い時からちがったところがありました。自分の子供にくれるおもちゃなぞも手造りにし、厚手な白木の板の上に線を引いて、子供のよろこびそうな金魚でも、うさぎでも、みな自分でかいたものでした。画家のお手のものとはいいながら、あの中村さんが幼いものに与えているいいおもちゃには、わたしも心を動かされたことを覚えています。中村さんはすべてにそういう心がけを持っていまして、細い絵筆の力一つでしっかりと立っているような人でした。
信濃の山の上に咲く石楠の花の純粋にもたとえたいような、その美しい性質は、おのずから多くの人の敬慕するところとなり、世にもまれに見る家庭をつくり、夫房全氏との間に四人の愛児をもうけ、母としてのいつくしみ、妻としての思いを親しき人々の胸に残しおきて、大正十二年九月の震災のために、三十七歳の惜しい年ごろでこの世をさった小山喜代野夫人の記念に。これはなき人のおもかげ、愛と徳とのなごり、かぐわしい魂のかたみである。
右、小山家から頼まれて、喜代野さんのために書いた碑銘です。震災記念というところから、小山家では茅が崎にある製糸工場内の庭に喜代野さんの胸像を置き、その台石にこのことばを刻みつけて、いささかなき人をしのぶたよりとしたものです。
喜代野さんは画家の小山敬三さんのねえさんにあたる人で、わたしも小諸時代に二年ほど教えたことがあり、その娘のころを知っているところから、そんな縁故で小山家から碑銘を頼まれたのでした。あれは、学習舎といいまして、木村先生の奥さんが小諸へんの女子のため自宅に私塾を開いた時、本町の大塚さん、鴇窪の井出さん、その他の娘たちとともに、荒町からかよっていたのが小山喜代野さんでした。ささやかな家庭風の学舎のことであり、教室用の机を片づけたり、部屋をそうじしたりする雑用は、すべて当番の生徒が受け持ちとなっていました。その中でも喜代野さんのは自分の好きなことをあとまわしにし、みんないやがる用事をよろこんで引き受け、かげへ回ってはよく働いていました。これは喜代野さんの性格をよくあらわしていると思いました。喜代野さんは娘の時分から、そういう人でした。言うのはぞうさないようでも、なかなかできないことです。
子供のお友だちであったような昔の人たちのことを、すこしここに書きつけましょう。
おとなも、「怒り」というものを忘れないうちは、子供のお友だちにはなれないものですが、そういう中にもいろいろおもしろい人たちがありました。そういう人たちが昔にあったことを思いますと、そこまで「怒り」を忘れることができたからでしょう。
良寛上人のような子供のお友だちもめずらしい。上人はずっと年とるまで幼い心を忘れないで、七十になっても子供を相手にかくれんぼをしたり、まりをついたり「オハジキ」をしたりしたといいます。上人はずいぶん思い切ったところまで出て行った人で、時には死んだもののまねをして道ばたに横になっていることもありました。それを見ると子供らは大よろこびで、その上から草をかける、木の葉をかける、しまいには木の葉や草で上人をうずめてしまって、笑い楽しんだこともありました。そんないたずらをする子供らが木の葉や草を集めて運んでくる間でも、上人は死んだふりをして、静かに道ばたに横になりながら、子供らのすることを楽しんでいたというからおどろきますね。
こんな句が芭蕉翁の書いたものの中にあります。芭蕉翁は、「朝を思いまた夕を思うべし」と教えた人です。
鳴くねこに赤ン目をして手まりかな
柳からももんぐああと出る子かな
初瓜を引きとらまえて寝た子かな
露の玉つまんで見たるわらべかな
ゆで栗やあぐら上手な小さい子
人来たらかえるになれよ冷やし瓜
あんよあんよあんよや母を日傘持
秋風や壁のへマムシヨ入道
われと来て遊べや親のないすずめ
おらが世やそこらの草ももちになる
初袷にくまれざかりに早くなれ
これは一茶という俳諧師の書いておいた句です。
一茶は少年のころからまま母の手に育てられ、ひがみというものも多かった人のようですが、だんだんこの世の旅をして、いろいろな人にも交わってみるうちに、こんなに幼いものにあたたかい心を寄せるようになりました。なんと、ここに引いた句はいずれも好ましいものばかりではありませんか。この世に生まれて熱い思いをいだき、冷たくなった人の心を暖めようとするところから、こんな句も生まれてきたのでしょう。昔にはこんな子供のお友だちもありました。
どれ、海の神さまのお話をしましょう。海を愛する神さまは、どんなところに祭ってあると、皆さんもお考えでしょう。やはり、それは海のよく見えるところに祭ってありますよ。がんじょうな大きな岩の上に立つ見晴らしのいい山の上に。いかにも海の神さまのお住まいらしいところに。
そういう古いお住まいの一つが、山陰道の城崎温泉からそんなに遠くない瀬戸の日和山の上にもあります。瀬戸神社がそれです。そのあたりのことをすこしお話ししてみれば、山のふもとから、木かげの多い坂道を登りますと、夏なぞ息がくるしいくらいで、道ばたに青いにおいのする草までが暑い暑いと言ってるように見えますが、さて、その坂道を登りきってごらんなさい。すずしい海の風は皆さんのふところにまで吹き入りますよ。うっかりすると軽い夏ぼうしなぞは風に飛ばされるくらいのところですよ。そこまで行けばだれでも途中の暑苦しさを忘れます。古い墓地が山の上にありまして、そこから瀬戸神社への道もつづいています。墓地の近くには、古い言い伝えの残った一株の松の木もあります。後醍醐天皇さまの第二の皇子がむかし旅をしていらしって、遠く父の帝をおしたい申したのも、その松の木かげからだと言われております。
青いあい色で美しい日本海のながめはこの山の上にひらけているのです。何百万貫からのいわしの漁のあったことなぞをラジオでよく放送するのもこの海です。近くに後の島、かなたに鏡が崎も望まれて、いさましい漁師たちの船が青い潮に乗って行くのも、その島や崎の間でしょう。瀬戸の漁師たちは毎朝このへんまで潮を見に来て、かならず瀬戸神社へもお参りし、海の幸をお祈りして行きます。海の幸とは古いことばのようですが、漁に獲物のあることを海の幸とも言いますし、海には海のさいわいがあることをもそう言うのです。おそらく、漁師たちは、どうか海の荒れませんように、どっさりおさかなのとれますように、いい海のみやげを船に積んでおうちに帰れますように、と言ってお祈りするのでしょう。
「おまえたちはそうしてわたしを見に来るのか、それとも海を見に来るのか。」
と言って、海の神さまは漁師たちの耳にささやきますとか。おそらく、海の神さまはこの漁師たちを自分の子供のように思ってくださるでしょう。大きな海のような広い心でもって、漁師たちの言うことをも聞いてくださるでしょう。そして、海の愛ということを教えてくださるでしょう。
たけくらべの里とは近江と美濃の国境にありまして、両国の山々がたけくらべするように見えるところから、その名があります。この国境では、国と国とが寝ながらお話のできるくらいですから、両国の山々も背くらべをしては楽しむほど仲がいいところです。
そこへいたずらな雲が山々の上を通りかかりました。この雲は近江と美濃の国境の空を通るたびに、山と山とが仲よく見えるので、持ち前のいたずらすることの好きなくせを出したくなりました。ところが、雲だけでは、どんなに低くたれさがって行っても、そうはふざけられません。そこで雨と霧を連れてきて、みんなで遊ぼうとしたのです。さあ、雨はザアザア降る、霧は山のすそのほうまで幕を張り回す。雲は雲でおもしろがって駆け回る。これには両国の山々もへいこうして、いたずらな雲が通りすぎるまで、すっかりかくれひそんでしまいました。
この里は、山と山との仲がいいばかりではありません。両国の境は壁一重と言ってもいいくらいのところで、住んでいる人たちまでが仲よしです。一方に両国屋という休み茶屋があり、一方には境屋という宿屋もあります。美濃からはおむこさんにも行きますし、近江からはお嫁さんにも来ます。それほど仲よしの村里へにわかに雨が来ました時は、おたがいにとなりの国の家へ飛びこむものもあれば、からかさもすぼめて国境を駆けて通るものもありました。
朝になってみると、雨は晴れ、霧はおさまり、まるでそこいらは洗ったようになりました。気まぐれな雲のいたずらにかくれひそんでいた両国の山々は、またかたちをあらわして、いつものようにむかいあいました。そこへ日輪が天を駆ける羽車のなかから顔をお見せになりましたら、山と山とは負けず劣らずの色の濃さ、あざやかさで、ちょうどあいでも流したように雨降りあげくの空にかがやきました。
「こんにちは。」
「はい、こんにちは。」
「どうも、きのうはひどい降りでした。」
「さよう、ひどい降りでございました。」
美濃と近江の村里の人たちはこんなあいさつをして、おたがいに国の違いも忘れ、ことばのなまりの違いをも忘れながら、あいかわらず行ったり来たりしました。おそらく、山と山とのたけくらべ、国と国との寝物語がまた続いて行ったことでしょう。
新しい建築ができて、屋根のかわらもふき終ったので、建築家がそこへ見回りに来ましたら、あっちでもこっちでもブツブツ言いさわぐ声が高く丸太を組んだ足場の中から起っていました。
「何をお前さんたちはそんなにさわいでいるのかね。」
と建築家が尋ねました。すると、足場が言うには、
「まあ、聞いてください。わたしたちはもういらないものだから、取りくずせという人があるんです。そんなことを言われた日には、だれだって腹が立ちます。もともとこんな建築のできたのも、わたしたちあってのことではありませんか。それをいきなり取りくずせなんて、足場一同承知しません。」
この話を聞いて、建築家は笑い出しました。それからものやわらかな調子で、こう言いました。
「はて、お前さんたちまで建築のつもりでいるのかね。そんなに自分を忘れてしまってはこまる。ようやく無事にこの建築もできて、お前さんたちの役目もこれですみました。長々みんなご苦労でした。お前さんたちは元の材木にかえってください。」
甲
お前も旅か。
乙
そうです。わたしも旅です。
甲
お前はその若さで、どうしてわたしのような年よりのあとばかり追いかけてくるのか。
乙
さあ、わたしには師匠と頼む人もないものですから、あなたがたのさがしたものを自分でもさがしたいと思いまして、それで、こんなにあなたがたのあとばかり追いかけるようなしまつとなったのです。
甲
お前も知恵がなさすぎる。わたしたちのあとについて来たところで、それがどうなるものか。ごらん、わたしはもう歩きすぎるくらい歩いてしまった。旅も卒業だと思うころには、おいおい連れもなくなった。今は道を通る人もない。お前はここから引き返したら、よかろう。
乙
そこです。わたしはお別れを告げるつもりでいます。ごらんのとおり、わたしはまだ旅人の卵で、経験というものも乏しいものですから、あなたがたの深い足あとをたどって行ってみたら、どうかして自分でもさがしあてられるものがあろうかと思ったのです。これがそもそもわたしのあやまりでした。いつのまにかわたしはひどく年よりくさい人間になっていました。
甲
お前がその年にも似合わないで、わたしたちの好きな茶色や灰色のような色の目に映ることをわたしはよく知っている。
乙
いえ、あなたがたの旅は、すっかりできあがった人の旅です。この世の末まで見つくしてきた人の旅です。そのあなたがたが、自分らと同じ年ごろにはどんなところを歩いておられたものか、そこへわたしも気がつきました。
甲
それはいいところへ気がついた。わたしとしたところで、最初からこんな一すじにつながるものではなかった。ずいぶん手放しでさまよったものだ。まあ、この年まで旅をつづけてみると、夕日はかぎりなくいい、ただたそがれが近いと思うばかりだ。しかし、わたしはまだ行けるところまで行こうとしている。毎日のように歩いている。毎日のように進んでいる。
乙
ですから、あなたがたのあとが追いかけられるものではないと思ってきました。わたしは、もっと自分の持って生まれた若さを取りもどさねばなりません。あなたがたが今つける旅の手帳をしまっておいて、若い時にあなたがたのつけておいた手帳をあけて見なければなりません。
甲
そうだ、そうだ、お前の言うとおりだ。だれしも若いうちはしくじりなぞを恐れないで、思いきってさまよってみるくらいがいい。そう遠いところへばかり目をつけないで、自分の足もとをよく見るがいい。お前のさがそうと思うものは、きっと手近なところにかくれている。お前はお前で踏み出してみるがいい。
「かあさん。」と小娘がその母親のところへ告げに行きました。「このほおずきを鳴るようにしてください。」
ほおずきも、お盆の来るころにはまだ青くていましたが、いい色がつくようになりました。この娘が母親のところへ持って行って見せたのは、実をつつんださやも赤く黄ばんだ色に染まり、その中からかわいらしい実が顔を出していました。母親はその実をとって、よくもみ、すっかり種を掘り出しましたら、丸い玉のようにだんだんふくらんだやつが生まれてきました。母親はそれを自分の口に入れて、娘のよろこぶ顔を見ながら鳴らしてみせました。
「鳴るようになった、鳴るようになった。」
娘はうれしさのあまり、そこいらを踊って歩きました。音の出るものでありさえすれば、幼いものにはうれしかったのです。
その時、娘は母親からいい音のするおもちゃをいただいたばかりでなく、いっぱいに種のつまったほおずきはかえって鳴らないで、穴をあけ、種を取り去り、中味をむなしくさえすれば、そんなによく鳴ることを教わりました。
長々とわたしも話しつづけました。この本は作者の年若いころからいろいろな人に会って見たお話を中心にして、その前後に十と十二とのお話を添えてあります。それを八章に分け、つごう八十五のお話がこの本の中に入れてあります。
そう言ってはすこし自分流儀に過ぎるかもしれませんが、本というものはその中に書いてあることがすっかりわからなくても、わからないことはわからないなりにとどめて、読んでみていただくのがいいかと思われます。これを皆さんの着物のことにたとえてみますと、この八十五のお話の中には、すこしゆるやかに仕立てておいた物も入れてあります。今すぐそれが皆さんの背丈に合わないまでも、すこしたって、また取り出してみてくださるなら、きっと「うん、ちょうど、いい」と言ってくださる時もまいりましょう。皆さんは、ずんずん大きくなるさかりですから。
この本の中には、第二章第十一話の『白い犬の話』のように古い言い伝えをもとにして書いたものもあり、第八章第十話の『新しい建築の話』のようにドイツの詩人ゲーテのことばから思いついて書いたものもあります。
峠のじいさんばあさんがおもちをついて小屋に休んで行く人を待つように、わたしが皆さんにあげようと思う『力餅』もできました。これが一冊の本になって、皆さんに開いて見ていただける日のくるのも、近いうちのことでしょう。
①『力餅』(研究社、昭和一五年一一月)
②『島崎藤村全集19巻』(筑摩書房、昭和三二年三月)
底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「島崎藤村全集19巻」筑摩書房
1957(昭和32)年3月
初出:「力餅」研究社
1940(昭和15)年11月
※表題は底本では、「力餅」となっています。
※底本巻末の註は省略しました。
入力:菅野朋子
校正:杉浦鳥見
2020年1月24日作成
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