夏秋表
立原道造
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その一
私はふたつのさびしい虫のいのちと交感を持った。
信濃路に夏の訪れのあわただしい日、私は先生の山荘の庭に先生とならんで季節の会話のひまにその虫の声を聞いたのである。春蝉と言った。七月なかば、五日か七日をかぎって、林のなかに啼いて、あとは行方も知らない。その日々の高原の空にはほととぎす、やぶうぐいす、閑古鳥などの唄がひびいていた。そのなかに、春蝉は彼のかなしい感傷の小曲をうたいあげたのである。
夏のあいだ、私は忘れるとなしに彼のことを忘れていた。幾たびも物がなしい夕ぐれに出会い、そのようなおりに私は彼のことを思い出さねばならなかった筈である。しかし私はすっかり忘れ果てていた。
やがて夏も逝き、秋も定まった一日、私はふたたび先生の庭に客となった。そのとき先生は虫籠を示され、その虫を草ひばりと教えられ、その姿に「仄か」という言葉で註せられることを怠られなかった。座には高名な抒情の小説をものされる人が居あわせ、先生のその紹介も実はその小説家に向いてであったのだが、私はそれを盗んだ。夜に入って、それがその年の夏のおわりの一夜となったのだが、私は先生の書斎じゅうにせいいっぱいの魂を傾けつくしてうたい上げる草ひばりの唄を聞いた。私のもっとも潤沢のこの一刻に、私は、忘れていた春蝉のことを思い出し、この虫とあれと考え比べた。比べずともよい啼き声だったのである。草ひばりの声は、純粋な白金で造られた精巧な楽器を稚拙な幼童がもてあそんでいるような、ぎりぎりのイロニイであった。これをイロニイと聞いたのは私の歪みであったとおもうゆえ、私はそのことにひとつも触れず、そっと耳ばかりで彼の透明なうたい口を噛みしめていたのである。
次の朝、草ひばりは籠を逃れ去った。私はこの叛いた虫を叢に追う愚行を敢てした。私だけのみれんである。叢では、昨夜の冴えと張りを忘れた虫らが、しらべのみはおなじ唄を繰りかえしていた。私は索然とした嫌悪を覚えた。しかし手は徒らに草の葉の向うをさぐりつづけた。
夏のはじめと夏のおわりと──。
私はこの虫らのいのちに交感を持った記憶をきょう忘れつくすことをねがっている。
その二
私はひとつの花を誹謗しよう。
信濃路の村でその花を私は田中一三にたいへんたのしく教えた。淡いかなしい黄の花びらを五つ、山百合のように、しかしあのように力強くなく寧ろ諦めきったすがすがしさで、夕ぐれ近い高原の叢に、夏のはじめから夏のなかばまで日ごとのつとめとしてひらく花である。ゆうすげという名を或るひとから習った。そのあと植物学ぶ人から萱草、わすれぐさ、きすげと習い、また時経てその花びらを食用にすることまでも習った。私は習いおぼえたかぎりを田中一三に教えた。
きょう私は最初にその花を教えてくれたひとに向って愚痴を繰返すことを情ない慰さめとして持っている。この誹謗もまたその輪のほかを出られない。恥を知るまえに、ただ私はさびしい。私はいまもあんなにありありと心に帰るあの高原のイメージのために頬を濡らした。
夏の逝くころ、私はゆえもなく紀の国の外側の輪廓を海岸や浪の上を辿りいちばん慌しくめぐった。信濃路ではすでにそのころ秋雨のようなものが降っていたのに、私のめぐった線は明るく白じらしく晴れていた。帰るさ、私は伊良湖岬に杉浦明平を訪ねた。すると、杉浦明平が僕にゆうすげの花を岩かげに教えるような運命になっていた。信濃路を別れて十日あまり、明るい海光に曝されつづけた私の眼に、おなじ名の花とおもえない、みすぼらしいみじめな花の姿が強いられた。田中一三に私が教えたようには杉浦明平が私に教えるわけはなかった。その花は橙色に近い黄の花びらを一枚一枚ずうずうしい位に厚ぼったくふくらませ、一茎に幾花もむらがっていた。
私の持つふたつのゆうすげの絵は一体どうなることだろうか。互にあらがうであろう。そして、どちらかは跡方なく消えるであろう。
底本:「日本の名随筆18 夏」作品社
1984(昭和59)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「立原道造全集 第三巻」角川書店
1971(昭和46)年8月
入力:砂場清隆
校正:菅野朋子
2000年7月28日公開
2006年1月2日修正
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