かぶと虫
新美南吉
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お花畑から、大きな虫がいつぴき、ぶうんと空にのぼりはじめました。
からだが重いのか、ゆつくりのぼりはじめました。
地面から一メートルぐらゐのぼると、横にとびはじめました。
やはり、からだが重いので、ゆつくりいきます。うまやの角の方へのろのろいきます。
見てゐた小さい太郎は、縁側からとびおりました。そしてはだしのまゝ、篩をもつて追つかけていきました。
うまやの角をすぎて、お花畑から、麦畑へあがる、草の土堤の上で、虫をふせました。
とつて見るとかぶと虫でした。
「ああ、かぶと虫だ。かぶと虫とつた。」
と小さい太郎はいひました。けれど誰も何ともこたへませんでした。小さい太郎は兄弟がなくて一人ぼつちだつたからです。一人ぼつちといふことはこんなときたいへんつまらないと思ひます。
小さい太郎は縁側にもどつて来ました。そしてお婆さんに、
「お婆さん、かぶと虫をとつた。」
と見せました。
縁側に坐つて居眠りしてゐたお婆さんは、眼をあいてかぶと虫をみると、
「なんだ、がにかや。」
といつて、また眼をとぢてしまひました。
「違ふ、かぶと虫だ。」
と小さい太郎は、口をとがらしていひましたが、お婆さんには、かぶと虫だらうが蟹だらうが、かまはないらしく、ふんふん、むにやむにやといつて、ふたゝび眼をひらかうとしませんでした。
小さい太郎は、お婆さんの膝から糸切れをとつて、かぶと虫のうしろの足をしばりました。そして縁板の上を歩かせました。
かぶと虫は牛のやうによちよちと歩きました。小さい太郎が糸のはしを押へると、まへへ進めなくて、カリカリと縁板を掻きました。
しばらくそんなことをしてゐましたが、小さい太郎はつまらなくなつて来ました。きつと、かぶと虫には面白い遊び方があるのです。誰か、きつとそれを知つてゐるのです。
そこで小さい太郎は、大頭に麦稈帽子をかむり、かぶと虫を糸のはしにぶらさげて、かどぐちを出ていきました。
昼は、たいそう静かで、どこかでむしろをはたく音がしてゐるだけでした。
小さい太郎は、いちばんはじめに、いちばん近くの、桑畑の中の金平ちやんの家へ行きました。金平ちやんの家には七面鳥を二羽飼つてゐて、どうかすると、庭に出してあることがありました。小さい太郎はそれがこはいので、庭まではいつていかないで、いけがきのこちらからなかをのぞきながら、
「金平ちやん、金平ちやん。」
と小さい声で呼びました。金平ちやんにだけ聞えればよかつたからです。七面鳥にまで聞えなくてもよかつたからです。
なかなか金平ちやんに聞えないので、小さい太郎は、なんどもくりかへして呼ばねばなりませんでした。
そのうちに、とうとううちの中から、
「金平はのオ。」
と返事がして来ました。金平ちやんのお父さんの眠さうな声でした。「金平はよんべから腹が痛うてのオ、寝てをるだで、今日はいつしよに遊べんぜェ。」
「ふゥん。」
と聞えないくらゐかすかに鼻の中でいつて、小さい太郎はいけがきをはなれました。
ちよつとがつかりしました。
でも、またあしたになつて、金平ちやんのお腹がなほれば、いつしよに遊べるからいいと思ひました。
こんどは小さい太郎は、一つ年上の恭一君の家にいくことにしました。
恭一君の家は小さい百姓家でしたが、まはりに、松や椿や柿や橡などいろんな木がいつぱいありました。恭一君は木登りが上手でよくその木にのぼつてゐて、うかうかと知らずに下を通つたりすると、椿の実を頭の上に落してよこしておどろかすことがありました。
また木にのぼつてゐないときでも恭一君はよく、もののかげや、うしろから、わつといつてびつくりさせるのでした。ですから小さい太郎は、恭一君の家の近くに来ると、もう油断ができないのです。上下左右、うしろにまで気をつけながら、そろりそろりとすゝんでいきます。
ところがけふは、どの木にも恭一君はのぼつてゐません。どこからも、わつといつてあらはれて来ません。
「恭一はな。」と、鶏に餌をやりに出て来た小母さんが聞かしてくれました。
「ちよつとわけがあつてな、三河の親類へ昨日、あづけただがな。」
「ふウん。」
と小さい太郎は聞えるか聞えないくらゐに鼻の中でいひました。何といふことでせう。なかのよかつた恭一君が、海の向かふの三河の或る村にもらはれてしまつたといふのです。
「そいで、もう、もどつて来やしん?」
と、せきこんで小さい太郎は聞きました。
「そや、また、いつか来るだらあずに。」
「いつ?」
「盆や正月にや来るだらあずにな。」
「ほんとだね小母さん、盆と正月にやもどつて来るね。」
小さい太郎は、のぞみを失ひませんでした。盆にはまた恭一君と遊べるのです。正月にも。
かぶと虫を持つた小さい太郎は、こんどは細い坂道をのぼつて大きい通りの方へ出ていきました。
車大工さんの家は大きい通りにそつてありました。そこの家の安雄さんは、もう青年学校にいつてゐるやうな大きい人です。けれどいつも小さい太郎たちのよい友達でした。陣取りをするときでも、かくれんぼをするときでも、いつしよに遊ぶのです。安雄さんは小さい友達からとくべつにそんけいされてゐました。それは、どんな木の葉、草の葉でも、安雄さんの手でくるくるとまかれ、安雄さんのくちびるにあてると、ぴいと鳴ることができたからです。また安雄さんはどんなつまらないものでも、ちよつと細工をして、面白いおもちやにすることができたからです。
車大工さんの家に近づくにつれて、小さい太郎の胸は、わくわくして来ました。安雄さんがかぶと虫で、どんな面白いことを考へ出してくれるか、と思つたからです。
ちやうど、小さい太郎のあごのところまである格子に、くびだけのせて、仕事場の中をのぞくと、安雄さんはをりました。をぢさんと二人で、仕事場の隅の砥石でかんなの刃を研いでゐました。よく見るとけふは、ちやんと仕事着をきて、黒い前垂れをかけてゐます。
「さういふふうに力を入れるんぢやねえといつたら、わからん奴だな。」
と小父さんがふつくさいひました。安雄さんは刃の研ぎ方ををぢさんに教はつてゐるらしいのです。顔をまつかにして一生けんめいにやつてゐます。それで、小さい太郎の方をいつまで待つても見てくれません。
とうとう、小さい太郎はしびれを切らして、
「安さん、安さん。」
と小さい声で呼びました。安雄さんにだけ聞えればよかつたのです。
しかし、こんなせまいところではさういふわけにはいきません。をぢさんが聞きとがめました。をぢさんは、いつもは子供にむだ口なんかきいてくれるいい人ですが、けふは、何かほかのことで腹を立ててゐたと見えて、太い眉根をぴくぴくと動かしながら、
「うちの安雄はな、もう今日から、一人前の大人になつたでな、子供とは遊ばんでな、子供は子供と遊ぶがえゝぞや。」
と、つつぱなすやうにいひました。
すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたないやうに、かすかに笑ひました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な眼をむけました。
虫が枝から落ちるやうに、力なく小さい太郎は格子からはなれました。
そして、ぶらぶらと歩いていきました。
小さい太郎の胸に、ふかい悲しみがわきあがりました。
安雄さんはもう小さい太郎のそばに帰つては来ないのです。もういつしよに遊ぶことはないのです。お腹が痛いなら明日になればなほるでせう。三河にもらはれていつたつて、いつかまた帰つて来ることもあるでせう。しかし大人の世界にはいつた人がもう子供の世界に帰つて来ることはないのです。
安雄さんは遠くに行きはしません。同じ村の、ぢき近くにゐます。しかし、けふから、安雄さんと小さい太郎はべつの世界にゐるのです。いつしよに遊ぶことはないのです。
小さい太郎の胸には、悲しみが空のやうにひろくふかくうつろにひろがりました。
或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。
しかし或る悲しみは泣くことができません。泣いたつて、どうしたつて消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがつた悲しみは、泣くことのできない悲しみでした。
そこで小さい太郎は、西の山の上に一つきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るやうに、眉を少ししかめながら、長い間みてゐるだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、逃げてしまつたのにも気づかないで──。
底本:「日本児童文学大系 第二八巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「牛をつないだ椿の木」大和書店
1943(昭和18)年9月
※執筆時の表題は「小さい太郎の悲しみ」です。
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年3月28日作成
2017年9月8日修正
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