太一の靴は世界一
豊島与志雄



 大きな工場のかたすみに、倉庫があります。倉庫の裏口には、鉄の戸がしまつてをり、その上に長いひさしが出てゐます。

 そのひさしの下に、十六七さいの少年が、靴直しの店を出しました。店といつても、名ばかりです。靴直しのだうぐと、革のきれはしと、こしかけになる木の箱だけです。

 そのへんには、工場や、会社が並んでゐて、靴をはいた人たちがたくさんゐます。でも、この少年に靴直しをたのむ者は、一人もありませんでした。夕方になると、少年はだうぐをしまつて、すご〳〵とかへつて行きました。

 あくる日、少年は、また、朝からやつて来ました。やはり、お客は一人もありません。少年は、べんたうをたべただけで、一日じつとしてゐて、かへつて行きました。

 その、あくる日も、おなじことでした。

 四日目の朝、工場の倉庫がゝりの人がやつて来て、少年に話しかけました。

「君は、毎日こゝに来てゐるやうだね。」

「えゝ、こゝが気にいつたのです。長いひさしが出てゐますから、雨が降つても、こゝなら仕事が出来ます。」

 倉庫がゝりの人は笑ひました。

「雨が降つても来るつもりかい。だつて、お客は、一人もないではないか。」

「あるまで待つてゐます。もう、けつしんしてゐるのです。」

「ほう、どんなけつしんだい。」

 それは、大へんなけつしんでした。

 この少年は、ある靴屋に、二年ばかりほうこうしてゐたのです。うでまへは、めき〳〵とよくなつて行きましたが、仕事がおそくて、気がきかないといふので、ことわられてしまひました。そこで、しかたなく、ぼんやりしてゐますと、おかあさんから、いろ〳〵いつて聞かされました。

「気を落してはいけません。世の中のことは、何ごとも、けつしんしだいです。お前は、どうせ、靴屋になるつもりだつたのだし、それに、仕事こそおそいが、りつぱなうでまへを持つてゐるのだから、あくまでも、靴屋で身を立てるけつしんをなさい。いゝかげんの気持で、なまけるのが、一ばんいけません。

 これから、世界一の靴屋になるつもりで、一生けんめいにやつてごらんなさい。」

 さういはれても、少年は、まだ、けつしんがつきませんでした。

ぼくのやうな者でも、りつぱな靴屋になれるか知ら。」

といひますと、おかあさんは、じつと少年を見つめました。

「なれないでどうします。わたしは、お前を、そんなばか者にそだててはゐません。」

 そこで、少年も心をきめました。

「ぐづ〳〵してゐたのでは、自分をそだてて下さつたおかあさんにすまない、申しわけがない。けつしんだ、けつしんだ。」

 そして、靴直しのだうぐを買つてもらつて、この道ばたに、店を出したのでした。

 その話に、倉庫がゝりの人は感心して、古靴を一そく持つて来てくれました。

「よし、僕がお客さんになつてやらう。これを、ていねいに直してくれよ。」

「しようちしました。私の名前は、太一といふのです。今に、太一の靴は世界一と、人にいはれるやうになつてみせます。その太一の、一ばんはじめのお客様ですから、あなたは、しあはせですよ。」

「はゝゝ、さう、ゐばるなよ。」

 太一は、うれしさうに、仕事を始めました。


 倉庫がゝりの人が、太一のうはさをしたとみえて、それから、ぽつぽつと古靴を持つて来る人がありました。

 太一は喜んで、どんな仕事でも引受けました。

「私は、今に、太一の靴は世界一と、人にいはれるやうになつてみせます。その太一から仕事をしてもらふのですから、あなたは、しあはせですよ。」

 さういつて、太一がにこ〳〵してゐるので、お客の方でも笑ひました。けれど、太一は、心の中では、一生けんめいです。ほんたうに世界一の靴屋になるつもりなのです。

 仕事にはじふぶんねんを入れ、ねだんもうんと安くしました。

 きたない古靴を持つて来る職工もありました。

「おい、世界一の靴屋さん、これを直しておくれ。気のどくだが、どうもぼろ〳〵の靴でね、雨の日には、じく〳〵水がしみこんで、困つてゐるのだ。」

「しようちしました。太一の靴は世界一です。もうこれから、ぜつたいに、水がしみこまないやうにしてみせます。」

 そして、その職工が、あくる日やつて来ますと、太一の前に、水を一ぱい入れた靴がおいてあります。その職工の靴なのです。職工は、あきれかへりました。

「この通りです。世界一の太一が直したからには、水ももりません。中の水がもらないからには、外から水がしみこむこともありませんよ。」

 さういつて、太一は、にこ〳〵してゐます。

「だが、ひどいことをするね。水を入れたら、靴が、だめになるではないか。」

「大ぢやうぶですよ。油をよくぬつておいたのです。それに、もともとぼろ靴なのでせう。」

「何をいつてゐるのだい。しやうのないやつだね。」

 職工は、おこることも出来ず、にが笑ひしました。

 そんなことが、ひやうばんになつて、世界一の太一とか、水のもらない靴屋とか、うはさがひろまりました。

 それと共に、お客も多くなりました。工場の職工や、会社の人などが、いろ〳〵な靴を持つて来ました。近くの町の人もやつて来ました。

 それでも、太一は、けつして仕事をぞんざいにしません。どんなぼろ靴をつくろふのにも、ねんにねんを入れるのです。

「太一の靴は世界一だ、水ももらないのだ。」

と、つぶやきながら、古靴の底をたゝきつゞけました。そして、いくらせいを出しても、仕事は、たまるばかりです。

 ある日、職工が二十人ばかり連立つて、古靴を持ちこんで来ました。

 前からたのまれてゐる古靴のそばに、それらの古靴をつみかさねて、太一は、ためいきをつきました。

 もう、日も暮れかゝつて、仕事もおしまひです。でも、あづかつてゐる古靴をどうしたらよいでせう。家まで持つて行くのは大へんです。そこにおいて行けば、人にぬすまれる心配があります。

 太一が困つてゐますと、そこへ、倉庫がゝりの人が出て来ました。

「ほう、はんじやうして、けつこうだね。」

「いゝえ、こんな困つたことはありません。」

「どうしてだい。」

 そこで、太一は、また、ためいきをついて、あづかつてゐる古靴のしまつに、困つてゐることを話しました。

「それは、けつこうなことだ。」

 倉庫がゝりの人は、ゆくわいさうに笑ひました。そして、倉庫のすみつこをかしてやらうといつて、その戸をあけてくれました。

 倉庫の中には、工場のいろ〳〵な古いだうぐがはいつてゐました。そのかたわきに、太一の店の古靴はつまれました。


 太一の店は、大へんなはんじやうです。しうぜんをたのまれた古靴が、倉庫の中にだん〳〵たまつて行きます。いくらせいを出して仕事をしても、たうてい間に合ひません。それでも、お客はふえるばかりで、倉庫の中は、古靴で一ぱいになりさうです。そこへ、また、新しい仕事が持ちこまれました。

 工場の主人が、太一のひやうばんを聞いて、新しい靴をこしらへてくれとたのんだのです。お金はいくらでも出すから、急いで、すぐに、新しい靴をこしらへてくれといふのです。

 今度の仕事は、新しい靴です。太一は、心をひかれました。これまで、古靴のしうぜんばかりで、まだ一度も、新しい靴をつくつたことがありません。太一の靴は世界一、その世界一の新しいのをこしらへたら、どんなにうれしいでせう。

 でも、太一は、倉庫の中につみかさなつてゐる古靴をながめて、そして答へました。

「あの靴を、みんな直してしまつてからなら、お引受けいたしませう。」

「それより前に、今すぐに、こしらへることは、どうしても出来ないのか。」

「はい、どうも、いたしかたありません。」

「どうしても出来ないのか。」

「はい、私に取りましては、みんな大事なお客様です。仕事は、じゆんじゆんにしなければなりませんので」

「ようし、おぼえておけ。」

 そして、工場の主人は、立去つて行きました。

 太一は、また、古靴の底をたゝき始めました。

 ところが、しばらくすると、工場の主人が、荒くれた人夫を四五人連れて来て、倉庫の中の古靴を、そとにはふり出させました。

「おれは、この工場の主人だ。お前が、おれのいふことをきかないからには、おれの方でも、お前に、この倉庫をかすことは出来ない。明日から、こゝで仕事をしてもいけないぞ。どこへでも行つてしまへ。」

 太一は、あつけに取られて、立ちすくみました。倉庫の中の古靴は、みんな外にはふり出されてゐます。そして、明日から、こゝで仕事も出来ないのです。それかといつて、ほかのお客様をぞんざいにして、一人の人のいふまゝになることも出来ません。

 太一は、古靴を拾ひ集めました。そして、山のやうな古靴のそばに、じつとかゞみこみました。

 いくら考へても、どうにもしやうはありません。でも、太一は、そこにかゞみこんで、じつとしてゐます。

 ながい間たちました。何人かの見物人も、行つてしまひました。

 ふいに、太一の肩をたゝく者があります。顔を上げて見ると、工場の主人でした。主人は、やさしく笑つてゐました。

「お前は、りつぱな心の持主だ。感心した。さつきのことは、たゞ、お前の心をためすためにしたことだ。これからも、お客様を大事にするのだよ。これからは、わしが、いろ〳〵せわをしてやらう。ほんたうの店も一けん出さして上げよう。太一の靴は世界一といふ店をな。泣くのではないよ。」

 太一は、びつくりして、そして次に、うれし涙を流しました。

 それから、やがて、工場の主人のせわで、太一は、りつぱな店を持ち、太一の靴は世界一、といふひやうばんで、大へんさかえました。そして、おかあさんと一しよに、しあはせに暮しました。

底本:「日本児童文学大系 第一六巻」ほるぷ出版

   1977(昭和52)年1120日初刷発行

底本の親本:「ふしぎな池」新潮社

   1940(昭和15)年12

初出:「幼年倶楽部」講談社

   1938(昭和13)年5

入力:菅野朋子

校正:門田裕志

2012年13日作成

2012年1219日修正

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