エミリアンの旅
豊島与志雄
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ヨーロッパから西アジヤにかけて、方々にちらばつてる一つの民族があります。何かの職業について、一つ処に住居を定めてる者もありますが、多くは、各地をわたり歩いてる流浪の者です。それで、数は少いけれど、到るところに見かけられます。彼等は自分でロマ人だとかコラ人だとかいつてゐますが、フランスではボヘミアンと呼ばれ、イタリヤではツンガリーと呼ばれ、イギリスではジプシーと呼ばれてゐます。──日本には、イギリス語のジプシーといふのが一番よく知られてゐます。
そのジプシーのうちに、エミリアンといふ少年がありました。両親に死に別れて、たつた一人で、方々をわたり歩いてゐました。どこか気に入つたところに住居を定めるつもりでしたが、その気に入つたところがなかなか見当りませんので、のんきな旅をつづけてるのでした。荷物といつては、美しい縞リスのはいつた小さな籠と、バイオリンだけでした。時には旅芸人の仲間にはいつたり、時には何か臨時の仕事にやとはれたりして、そして大抵は一人で、リスに芸をさしたりバイオリンをひいたりしてお金をもらひ、あてもなく旅をしてゐました。りこうで、のんきで、朗かな少年でした。
この少年エミリアンの旅の話を少し致しませう──
フランスの東部の山の中の小さな町に、市がたつて、近在から農夫たちがたくさん集り、賑かな一日が暮れた、その晩のことです。エミリアンは広場で、縞リスに車廻しの芸をさしたり、バイオリンをひいたりして、だいぶお金をまうけて、町はづれの宿屋にとまりました。宿屋にはおほぜい客がありましたし、彼は少年でしたから、二階の隅の物置みたいな室に入れられました。
夜なかすぎになると、市の賑ひにみんな疲れて、農夫たちは帰つていき、町人たちは寝こみました。エミリアンもぐつすり眠りました。
そのしいんとしたなかで、夜明近い頃、三人の盗賊が宿屋をおそひました。市の後ですから、宿屋にはたくさんお金がたまつてゐますし、お金をもつた客もとまつてゐますので、それをめざしたのです。
三人の盗賊は、めいめい大きなピストルをもつて、裏口の戸をこじあけて中にはいり、先づ雇人たちを縛りあげ、次に主人夫婦を縛りあげて、お金をすつかり取上げました。大きなピストルをさしつけておどかされたので、誰も手向ひができず、声を立てる者さへありませんでした。それから盗賊は、合鍵をださせて、泊り客の室を順々におそひ、みんな縛りあげて、お金を奪ひ取りました。
一番終が、エミリアンの室でした。
ぐつすり眠つてゐたエミリアンが、ゆりおこされて、眼をあけると、龕燈の光をぱつとさしつけられてゐました。びつくりして、起き上つてみますと、あらくれた強さうな大きな男が三人、大きなピストルをさしむけてゐます。
「なんだ、子供か」と一人の男がいひました。「だが、金を持つてるだらう。出してしまへ」
エミリアンはじろじろ三人の様子を眺めました。そして盗賊だとわかつてしまふと、却つて落付きました。
「君たちは、何だい」とエミリアンは尋ねてみました。
「盗賊さまだ」と一人の男が答へました。「ぐづぐづいはずに、金を出せ」
「ほう、泥坊か」とエミリアンはいひました。「泥坊にしちやあ、へたくそのしんまいだな」
「何だと! 俺たちは、この山奥に住んでる狼団といふ、えらい盗賊だぞ」
「それだつて、ピストルなんかでおどかすのは、へたくそのしんまいだ。僕は、世界中で一番上手だといふ泥坊を知つてるよ。その話をきかしてあげようか。やはり君たちみたいに、三人組の泥坊だよ」
三人の盗賊は顔を見合せました。エミリアンはかまはずに話しだしました。
「その、とてもずるい三人の泥坊が、ある日、一人の百姓に出あつたんだよ。百姓は立派な服をきて、立派な驢馬にのつて、首に鈴をつけた立派な山羊をひいて、町に出かけるところだつた。その立派な服と立派な驢馬と立派な山羊とを見て、三人の泥坊は、それをみんな盗んでしまはうと思つた。だが、君たちみたいに、ピストルでおどかして取つたんぢやないよ。世界で一番上手な泥坊だもの、向うに気付かれないやうにして、こつそり盗んでしまつたんだ。どうして盗んだか、君たちにはわかるまい。……おう寒い。服をきてから話してあげよう」
そしてエミリアンは、すつかり服をきてしまひました。三人の盗賊は寝台のふちに腰をかけて、ピストルを膝において、話のつゞきを待つてゐました。エミリアンは笑ひながら話しました。
「先づ、一人の泥坊が、百姓のあとをつけていつたよ。百姓は驢馬にのつかつて、鼻歌なんかうたつてゐる。で泥坊は、そつと山羊の頭をなでながら、その綱を切つて、首の鈴を驢馬の尻尾にゆはひつけて、山羊だけを盗んでいつてしまつた。驢馬の尻尾で鈴がなつてるものだから、百姓は何にも気がつかなかつたんだよ。
そのうちに、百姓はふと振向いて、山羊がゐないのに気がついた。びつくりして、驢馬からとびおりて、驢馬をそこにつないで、山羊をさがしに、後にひつかへしていつた。ところが、山羊はどこにも見つからない。がつかりして、戻つてくると、驢馬はもう第二の泥坊から盗まれたあとなんだ。百姓は泣きだしてしまつたよ。
そこへ、第三の泥坊が通りかゝつた。何を泣いてるんですかと尋ねると、立派な山羊と立派な驢馬とがゐなくなつた、といふんだらう。で泥坊はかういつてやつた。──それぢやあ、私はさつき、井戸のなかに驢馬がおつこちるところを見たが、きつとあなたの驢馬でせう。山羊がおつこつたから、それを助けようとして、驢馬もおつこつたのかも知れません。早くいつてごらんなさい。
百姓はひどく喜んで、井戸のところへ連れていかれた。泥坊は井戸の中をのぞきこんで、おーい、おーい、と呼ぶと、底の方から、はーん、はーん、とこだまする。あゝ私の驢馬だ、と百姓は叫んで、すぐにはいつていかうとするから、泥坊はそれをとめたよ。そして、服をぬがなくちや濡れるでせう、誰も見てる者はないから……といふと、百姓もなるほどとうなづいて、立派な服をぬいで、井戸のなかにはいつていつた。で泥坊は、その立派な服を盗んでいつてしまつた」
その話を、盗賊どもは面白がつてきいてゐました。エミリアンはにこにこしていひました。
「どうだい、すてきな泥坊だらう。ところで、その三人のうち、誰が一番ずるいと思ふ?」
「俺は第一の泥坊だと思ふ」と一人の盗賊がいひました。
「俺は第二の奴だと思ふ」とも一人の盗賊がいひました。
「いや、俺は第三のだと思ふ」と三人目の盗賊がいひました。
そして三人で、議論をはじめました。
「なるほど、君たちにはわからないだらう」とエミリアンはいひました。「まだへたくそのしんまいだからなあ。その三人のうちで誰が一番ずるいか、それがわかるのには、さうだなあ、この二階の窓から、少しも音を立てないで、そつと下におりられるやうにならなくちやだめだ」
「この窓からか」
「さうだよ。飛びおりれば音がするし、壁をすべりおりても音がする。それを、音がしないやうに、そつとおりるんだよ」
盗賊たちは窓をあけて、外を見ました。真暗な夜で、窓の下に何があるかさへ見分けがつきません。
「どうだい、出来ないだらう」とエミリアンはいひました。
「それぢやあ、お前に出来るか」と盗賊の一人がいひました。
「出来るとも」
「ぢやあやつてみろ」
「よし、やつてみせよう。だが、身体一つぢやあ、つまらないなあ」
エミリアンは室の中を見まはしました。
「いゝものがある。このバイオリンを持つておりよう。すぐに音がするだらう。それを、音のしないやうにするんだ」
そして彼はバイオリンを取りあげました。
「あゝ、こゝにリスの籠がある。すぐに騒ぎだすかも知れないが、それを、音のしないやうにするんだ」
そして彼はリスの籠をとりあげました。
「こんどは、何か重いものはないかなあ」
「これをかしてやらう」と一人の盗賊が、面白がつて、大きなピストルを差出しました。
「これは重いぞ」とエミリアンは受取つていひました。
「弾がはいつてるから、用心しろ」
「大丈夫だい」
エミリアンは、自分のバイオリンと縞リスの籠とを片手にさげ、盗賊のピストルを腰にさして、そつと窓からはひ出しました。盗賊どもは、そんな荷物を持つて音がしないやうにおりられるかしらと、不思議に思つて、じつと見てゐました。
室は二階のはしで、窓のそばに、大きな雨樋が地面までつゞいてゐました。エミリアンはその樋の留金に片手でつかまり、樋に両足をかけると、そのまゝ、するすると滑りおりました。バイオリンがびーんと響きました。縞リスがかさかさ動きだしました。樋がからから鳴りました。
「音がしたぞ、音がしたぞ」と盗賊どもは窓から叫びました。
けれどエミリアンは、もう音がしようがどうしようがかまひませんでした。返事もしませんでした。盗賊どもをだまして、自分の荷物をもちだし、おまけにピストルまで一つ奪つたのです。樋から滑りおりると、そのまゝ身をかくして、建物にそつて逃げだしました。
エミリアンは町の中に出ました。どの家も戸締りをしてねてゐます。それに所所街燈がついてゐます。これはいけないと思つて、野原の方へ逃げました。真暗な野原の中を、むちゆうに駆けていきました。藪のなかにかくれました。
真暗な、しいんとした夜です。どこにも人の足音も、物の動くけはひもしません。空には星がいつぱい出てゐます。茂みの間からその星を眺めてゐると、エミリアンはやうやく落付きました。それからうつらうつらしてゐるうちに、やがて夜が明けました。
エミリアンは珍しさうに、盗賊のピストルをひねくりまはしました。六連発の大きなものでした。その六つの弾をぬいてポケットにをさめ、ピストルを腰にさしました。そして、縞リスの籠をさげ、バイオリンをかゝへて、朝日をあふぎながら口笛をふいて、ほかの町の方へやつていきました。
それから幾日かの後、エミリアンがフランスの南部のある村を通りかゝりますと、村中の人が集つて、大騒ぎをしてゐました。村で一番の金持らしい大きな家の庭に、幕を張りまはして、祭壇をこさへて、そして村人たちはみな晴着をきて、忙しさうに往つたり来たりしてゐます。
──何事が始つたのかしら。
エミリアンは立ちどまつて、首をかしげました。
その道ばたに、白い髯のあるお爺さんが一人屈みこんで、パイプの煙草をふかしてゐました。エミリアンは近よつていつて、尋ねました。
「何事かあるんですか」
お爺さんは顔をあげて、エミリアンの様子をじろじろ眺めました。そして答へました。
「お前さんは旅の者だな。それぢやあ知らないわけだ。……まつたく、不思議なことが起つたものさ」
「どんなことですか」
お爺さんはパイプの灰をはたいて、話してきかせました。それによると──
三日前のことです。夜なかに、この村一番の金持の家の鵞鳥が、ふいに、けたゝましく鳴きだしました。それからつゞいて、隣の家の鵞鳥が鳴きだす。また次の家の鵞鳥が鳴きだす。しまひには、村中の鵞鳥が鳴きだしました。一体この村は鵞鳥の多いところで、その金持の家だけでも幾十羽もをり、大抵どの家にも幾羽か飼つてゐます。それがみんながあがあ鳴きだしたものですから、騒々しいつたらありません。村人たちもみな眼をさまして、朝まで眠れませんでした。
それから、次の夜にも、また同じことが起りました。
あまり不思議なので、何か悪者が村のなかをうろついてるのではないか、といふことになつて、三日目の夜には、村の若者たちが、棍棒を持つて夜警をしました。ところが、夜なかになると、また金持の家の鵞鳥がふいに鳴きだし、それにつれて村中の鵞鳥が鳴きだしました。村中の人が起上りました。けれども、悪者や怪しい者の姿は更に見えませんでした。
不思議なことだ、とみな考へました。すると、これは悪魔が来たんぢやないか、といひだす者がありました。黒い羽のはえた蝙蝠みたいなものが空を飛んでゐた、といひだす者がありました。角のはえた黒いものが藪の中にゐたやうだ、といひだす者がありました。
そこで、まあとにかく、神父さまにお祷りをして頂かうといふことになつて、遠い町から名高い神父さまを呼んで、丁度そのお祷りが始まるところなんです。
「珍しいことだ」とお爺さんは話しをはつていひました。「わたしはもう七十になるが、この節では、悪魔なんてものは話にもきいたことがない。それが、ひよつこりこの村に出てきたとなると、まつたく珍しいことだ」
「僕にも、そのお祷りを見せて下さいませんか」とエミリアンはいひました。
「あゝいゝとも。名高いありがたい神父さまだ。よく拝んでおきなさい」
もうそのお祷りが始まるときでした。エミリアンはお爺さんにつれられて、張幕のなかにはいつていきました。
張幕のなかには、着飾つた村人たちがいつぱい立並んでゐました。正面に祭壇があつて、蝋燭の火がともり、花やお菓子や、そのほかいろんな供物が並んでゐまして、主キリストの像の前に、香の煙が立昇つてゐます。
やがて、金持の家の主人に導かれて、神父さまが出てきました。金線にかざられた黒い四角な帽子をかぶり、真白な服の上に、赤と金との模様のついた上衣をつけて、太い長い珠数を手にしてゐました。
香の煙が幕のなかにいつぱいひろがり、蝋燭の火がゆらめいて、お祷りが始まりました。しいんとしたなかに、神父さまの声だけが厳かに響きました。それがすむと聖歌になつて、村人たちは声をそろへて歌ひました。そして……アーメン。
お祷りが終りますと、村人たちはみなほつとして、それぞれ家へ帰つていきました。
エミリアンはお爺さんの家へついていきました。
「あれで、もう大丈夫でせうか」
「え、鵞鳥のことかね。悪魔のしわざだつたとしたら、もう大丈夫さ」
それでも、お爺さんはまだ何だか気がかりらしい様子でした。
その晩、エミリアンはお爺さんの家に泊めてもらひました。ところがどうでせう、その夜なかに、やはり鵞鳥が鳴きだしました。金持の家から始まつて、村中のが、があがあ鳴きたてました。村人たちはみな起上りました。朝まで眠れませんでした。
四日もつゞいたことですから、鵞鳥ばかりでなく、村人たちも眠りがたりなくて、頭がぼんやりしてきました。神父さまのお祷りも効目がなかつたとすると、悪魔のせゐではなかつたかも知れません。それなら、一体何のせゐだらう。やはり何か悪者でもうろついてるんぢやないかしら……。
五日目の夜には、村の若者たちはまた夜警を始めました。エミリアンもお爺さんの許しで、その夜警に加はりました。
エミリアンは、あの盗賊から奪つた大きなピストルを持つて、怪しい奴が出たら打ち殺してやらうと思つて、金持の家の庭の隅に、じつとひそんでゐました。
夜はだんだんふけていきます。村の中を夜警の人たちが見廻つてるだけで、風もない暗い夜です。すると、ふいに、鳥屋のなかで、一羽の鵞鳥がけたゝましく鳴いたかと思ふと、たくさんの鵞鳥がいちどに、があがあ鳴きだしました。と同時に、エミリアンは闇のなかをすかして見ましたが、何にも怪しい影さへ見えません。いまいましくなつて、いきなり、ピストルを空に向つて打ち放しました。
どーんと、大きな音が響きわたりました。と不思議にも、鵞鳥の鳴声がぱつたりやみました。
夜警の人たちがかけつけてきました。エミリアンはたゞ笑つてゐました。いまいましいからピストルを打つてみたんだと、すましてゐました。けれど不思議にも、鵞鳥はもう鳴きやんで、夜が明けるまで一声もたてませんでした。
それを聞いて、お爺さんはうなづきました。
「さうだ、お前さんはなかなか利口だ。ピストルの音をきいて、鵞鳥はびつくりして、それで鳴きやめたに違ひない。今夜もその通りやつてみるんだな」
それで、次の夜も、エミリアンはピストルを持つて、金持の家の庭にひそみました。夜なかに、鵞鳥はまた鳴きだしました。エミリアンはどーんとピストルを打ちました。鵞鳥はぴたりと鳴きやみました。
その次の夜も、同じでした。
ところで、どうして夜なかに鵞鳥が鳴きだすか、それが誰にも分りませんでした。もうはじまつてから七日になります。夜警をするのが四晩です。エミリアンは三度もピストルを打ちました。でも、怪しい者なんか、影も形も見えません。村中の鵞鳥も、一羽もなくなつたのはありません。
エミリアンは眠りがたりなくて、ぼんやりしながら、日向の野原に出て、考へこんでゐました。野原の中には、金持の家の鵞鳥どもが群をなして、餌をあさつて遊んでゐました。
エミリアンがほつと溜息をついて、頭をあげて見ると、鵞鳥どもはまだ楽しさうに遊んでゐます。そのなかで、一羽、痩せほそつたのが、群をはなれて、じつと一つところにすくんでゐます。
──おや、あいつ病気かな。
エミリアンは何の気もなく立上つていきました。すくんでる一羽の鵞鳥は、エミリアンが近づいても逃げようともしません。エミリアンはそつとその背中をなでてやりました。鵞鳥はじつとしてゐます。あんまり痩せてすくんでるので、よく見ますと、胸のところが、大きくはれ上つてゐます。調べてみると、そこに、朽木の刺がさゝつて、まはりがぶよぶよにうんでゐます。
エミリアンはびつくりしました。刺をひきぬいてやりました。膿がどろどろと流れでました。ぷーんとくさい臭ひです。それをがまんして、膿をすつかり押し出してやつて、傷口に怪我の薬をつけてやりました。──エミリアンは旅をしてるものですから、いろんな薬をいつも持つてゐました。
それまでじつとしてゐた鵞鳥は、手当がすむと、エミリアンの顔を見上げて、お礼をでもいふやうに一声高く鳴いて、それから大きく羽ばたきをして、急に元気に、仲間の群の方へかけていきました。
エミリアンも何だか嬉しくなつて、にこにこしながら、手を洗ひに家へ帰りました。
ところがどうでせう、その夜は、鵞鳥がちつとも鳴きません。
村人たちは、さつぱり訳が分りませんでした。けれどとにかく鵞鳥が鳴きやんだので、ほつと安心しました。
エミリアンは一人で笑ひました。お爺さんに、鵞鳥の疵の手当をしてやつたことを話しますと、お爺さんも手を叩いて笑ひました。
「なるほどね。その鵞鳥が、夜なかに身体があつたまつてくると、疵がいたみだすので、鳴きたてたんだな。村中で、ばかな騒ぎをしたものさ。神父さまを呼ぶやら、夜警をするやら……いやどうも……」
「おかげで僕も、ピストルを三度打ちましたよ」
「はゝゝ……」と二人は声をそろへて笑ひました。
そして、もう鵞鳥も鳴きやみましたので、エミリアンはお爺さんに別れ、疵のなほつた鵞鳥にも別れて、旅をつゞけました。金持の家からたくさんお礼をもらひ、ピストルは泊めてもらつたお礼にお爺さんにあげました。そして、縞リスの籠とバイオリンとをかかへて、口笛をふきながら立去つてゆく彼の姿を、多くの村人たちが名残をしさうに見送りました。
イタリヤの或る町にお祭があつて、たいへんな賑ひだといふことを、エミリアンは聞いて、例のバイオリンと縞リスの籠とを持つて、その方へやつて行きました。
気持よく晴れたよい天気でした。エミリアンは籠のリスをあやしながら、口笛をふいて歩いてゐました。すると、彼のそののんきな様子を耳にとめたのでせう、同じ道を歩いてた三人の盲人が、彼の前に立止つて、施しを求めました。
「どうかお恵みを……。わたくし共はごく貧乏で、その上みんな眼が見えませんので、こんな難儀なことはございません」
なるほど、三人ともほんたうの盲人で、みすぼらしい服装をしてゐました。
エミリアンはその時、あまりお金を持つてゐませんでしたから、施しを乞はれてをかしくなりました。そしていたづら気が起りました。重々しい声をしていひました。
「よろしい。こゝに金貨が一枚あるから、これを君たち三人にあげよう」
「おう神さま!」と三人の盲人は叫びました。「有難うございます」
三人とも一度に手を差出しましたが、やがて、誰かが金貨を受取つたものと思つて、みんな手を引つこめ、低くお辞儀をしました。
エミリアンは、三人の盲人がそれからどうするかと思つて、そつと後をつけました。
盲人たちは元気な様子で、お祭のある町の方へ歩いていきました。
「有難いめにあふものだ」と一人がいひました。「金貨が一枚あれば、これから町へ行つて、すぐに物乞ひをしなくてもいゝ。先づ、宿屋へはいつて、久しぶりにうまい御馳走をたべて、やはらかいベッドに寝て、ぐつすり眠らうぢやないか」
「なるほど、それがいゝ」と他の二人も賛成しました。「金貨一枚あれば、たいしたものだ」
彼等は町について、宿屋をたづねあてました。そして主人にいひました。
「御主人、わたしたちはみすぼらしいなりはしてるが、決して心配はいりませんよ。金は持つてゐます。そこで、室を一つかりて、そこで食事をして、泊りたいんですが、どうでせう」
かういふみすぼらしい服装の盲人で、金をたくさん持つてゐることがよくありますので、主人は彼等を信用して、大勢いつしよの広間でなく、別な室に案内しました。
「こゝなら落付けるでせう。ゆつくり召上つて下さい」
盲人たちは食卓につきました。パンや肉や魚が出されました。うまい葡萄酒も出されました。彼等は大騒ぎをして、飲んだり食べたりしました。夜中まで興がつきませんでした。それから、やはらかい寝床が用意されて、彼等はぐつすり眠りました。
エミリアンは、盲人たちのあとをつけて、同じ宿屋にはいり、そこに泊りました。そして朝早く眼をさまして、盲人たちが起上るのを待つてゐました。
盲人たちはおそくまで眠つて、晴々とした顔で、帳場へおりてきました。そして主人にいひました。
「昨晩はいゝ気持でした。ところで、勘定ですが、金貨ですから、おつりを下さい」
「はい、承知しました」
「さあ、金貨を出せよ」と一人の盲人がいひました。
「誰が持つてるんだい」
「俺ぢやない」
「ぢやあ、お前だらう」
「いゝや。お前が持つてるだらう」
「とんでもない。お前だらう」
「俺は持つてないよ」
「誰が持つてるんだ」
「お前だ」
「いや、お前だ」
三人でそんな風にいひ争つてるものですから、主人は怒りだしました。
「早く出せよ。ぐづ〳〵してると、なぐつちまふぞ」
「まあ待つて下さい。ぢきに払ひますから」
そして三人のいひ争ひがまた始まりました。
「お前だらう、金貨を貰つたのは。一番先にゐたんだから……」
「いやお前だらう、一番後にゐたんだから……。早く出せよ」
「俺は知らないよ。ぢやあお前だらう、真中にゐたんだから……」
「いやお前だ」
きりがないので、主人はなほ怒りました。
「お前たちはひとをばかにしてるんだな。ごまかさうたつて、さうはいかないぞ。おーい、誰か棒を持つてこい」
さういふ有様を、エミリアンはわきから眺めてゐて、腹をかゝへて笑ひました。そして、主人が太い棒を手にとつて、ほんとに盲人たちをなぐらうとしましたので、エミリアンはびつくりして、とびだしました。
「まあお待ちなさい。さう怒るものではありません。この人たちの勘定は僕が払ひませう。憐れな人には親切にしてやらなければいけません」
そして彼は盲人たちにいひました。
「昨日、あの道の真中で、金貨をあげようといつたのは、僕なんだよ。だが、あげるまねをしただけだ。君たちも随分そゝつかしいね。だけど、御馳走をたべて、ゆつくり眠つたんだから、それでいゝだらう。勘定は僕が引受けるから、もう行つたがいゝよ」
盲人たちは、見えない眼をぱちくりさして、それからお礼をいつて、出て行きました。
エミリアンは、昨日からのことを主人に話しました。主人もをかしがつて笑ひだしました。
「ところが、困つたなあ……」とエミリアンは頭をかきました。「あの人たちの分まで払ふほど、僕はお金を持つてゐないんです。これから、町の広場にいつて、このバイオリンと縞リスとでかせいできますから、それまで待つて下さいませんか」
主人はじろ〳〵エミリアンの様子を眺めました。
「町の広場で……さうかせげるものぢやないよ。一体お前さんは、どんな芸が出来るんだい」
「どんな芸でも出来ますよ」
「ふーむ……。そんなら、一つやつてみないかね。うまくいつたら、賞金が貰へることがあるんだが……」
「どんなことですか」
そこで主人は、話してきかせました。──このお祭の賑ひのために、町一番の金持がたくさんの金を寄附して、公園に大きな舞台をこさへ、面白い芸当の競技会をもよほして、珍しい新しい芸をやつてみせた者に、金貨十枚の賞金を出すといふのです。今日が丁度その日でした。
エミリアンは暫らく考へてからいひました。
「とにかく、様子をみにいつてきませう」
そして彼は、時間をはかつて、その公園へ出かけていきました。
公園の広場には大きな舞台が出来てゐて、たくさんの人がつめかけてゐました。いろんな芸人が集つて、賞金を得ようと、一生懸命に競技をやつてゐました。
皿廻しをする者がありました。輪投げをする者がありました。ナイフの曲芸をする者がありました。しやちほこ立ちをして、足で芸当をする者がありました。カルタの手品をつかふ者がありました。風琴をならす者がありました。をかしな踊りをする者がありました。百面相をする者がありました。そのほか、あらゆる芸当がなされました。けれども、どれもこれも見馴れた芸当ばかりで、珍しい新しい芸は、いつかう出てきません。
そのうちに、一人の道化者が舞台に立ちました。そして首を打振りながらいひました。
「さて、わたくしは、ほんたうに珍しい、新しい、をかしい芸を、御覧にいれまする。種々さま〴〵な芸当のあとで、一向にはえないものかも存じませぬが、そこは、珍しい新しい、をかしいといふところに、御注意を願ひあげまする」
ところで彼は、たゞ一人きりで、何の道具も持たず、介添人もゐませんでした。そして舞台の真中につつ立つて、黒いだぶ〳〵の大きなマントを着てゐました。見物人たちは、何が始まるかと思つて、しいんと静まりかへりました。
道化者は一つ咳払ひをして、マントの中に頭まですつぽりもぐりこんで、そこにうづくまりました。すると、そのマントの中から、子豚の鳴き声がきこえてきました。ブウー、ブウー、ブウー……。その声があまりをかしくてよく似てるので、見物人たちは笑ひながら喝采しました。
道化者はマントから顔を出しました。それを見ると、見物人たちは、少しあやしいと思ひました。四五人舞台にかけ上つて、彼のマントを調べました。彼の身体中を調べました。がどこにも、子豚は隠れてゐません。まつたく彼が子豚の鳴き声をまねたのでした。
さうだと分ると、喝采はなほはげしくなりました。舞台の上で子豚の鳴き声をまねるなんて、これまで話に聞いたことさへありません。そしてそれがまた、いろんなこつた芸当のあとなので、とてもをかしかつたのです。
賞金が彼に渡されることになりさうでした。
その時、見物人の中にまじつてゐたエミリアンが、大きな声でいひました。
「へたくそだ。僕ならもつとよくやつてみせる」
人々は驚いてエミリアンの方を眺めました。それから、二人で競争をすることになりました。エミリアンは翌日にしたいといひました。道化者は承知しました。翌日、時間をきめて、子豚の鳴きまねの競争をすることにきまりました。
その晩エミリアンは、宿屋の主人に頼んで、黒い大きなマントを拵へてもらひ、なほ、よく馴れた子豚を一匹かりてきてもらひました。
主人はエミリアンに勝たせたいと思つて、気をもんでゐました。
「一晩くらゐ鳴き声を練習したつて……それで大丈夫かね」
エミリアンはたゞ笑つてゐて、練習もなんにもせずに、ぐつすり眠りました。
翌日になると、エミリアンは、バイオリンと縞リスの籠とを主人に持つていつてもらひ、自分はそのあとから、マントの下に子豚を隠して出かけました。
公園の舞台の前には、前日よりもなほたくさんの人が集まつてゐました。子豚の鳴きまねの競争といふのが、をかしくて面白かつたのです。
時間になると、道化者とエミリアンとは、黒い大きなマントを着て、並んで舞台に立ちました。そして道化者から先に始めました。マントを頭からかぶつて、ブウー、ブウー、ブウー……と、子豚の鳴き声をまねました。嵐のやうな喝采が起りました。
こんどはエミリアンの番です。エミリアンは頭からマントをかぶりました。そしてマントの下に隠してゐた子豚の耳を、急にひつぱりました。子豚はびつくりして鳴きました。が誰も喝采してくれません。エミリアンはなほ子豚の耳をひつぱりました。子豚は鳴きました。が誰も喝采してくれません。
「道化者の方が上手だ」と人々は叫びました。
彼等は、エミリアンが子豚を隠してることを知らないで、やはり鳴きまねをしてるんだと思つてたものですから、その少年よりも道化者の方が上手だときめてかゝつてゐたのです。
「道化者の方が上手だ。その少年を追ひ出してしまへ」
するとエミリアンは、マントをぬぎすてゝ、子豚を出してみせました。
「皆さんは、本物の子豚の鳴き声よりも、その鳴きまねの方が上手だと、さう思つてゐらつしやるのですか」
人々はあつけにとられて、何と返事をしてよいか分らないで、ぼんやりエミリアンと子豚とを眺めてゐました。
「えこひいきな判断をなすつてはいけません」とエミリアンはいひました。「けれど、わたくしが嘘をいつて、鳴きまねのかはりに本物の子豚を鳴かせたのも、悪うございました。そのおわびに、これから面白い芸当を御覧にいれませう」
そして彼は、子豚の腹から背中に大きな布をゆはへつけ、腹の下の袋になつたところに縞リスを入れて、子豚を舞台の上にはなしました。リスは袋の中で動きまはります。それが腹をなでて、子豚はくすぐつたくてたまりません。鳴いたり笑つたりして、くすぐつたいをかしな恰好で、舞台の上を歩きまはります。その鳴き声や笑ひ声や歩きつきが、とても奇妙でをかしくて、見物人たちは笑ひだしました。
それと同時に、エミリアンはバイオリンをとつて、子豚の鳴き声と笑ひ声と歩きつぷりとに合せて、更に奇妙な音楽をひきだしました。見物人たちはもうたまらなくなりました。腹をかゝへたりころげたりして笑ひながら、涙をだしたり息をつまらしたり、叫び声をあげたり、たいへんな騒ぎでした。
エミリアンがバイオリンをひきやめ、リスを籠に入れ、子豚をひきとめても、まだ笑ひ声や喝采はやみませんでした。子豚の鳴き声をまねた道化者も、降参してしまひました。そして金貨十枚の賞金がエミリアンに渡されました。
エミリアンが帰つてゆくと、大勢の人がはやしたてながらついてきました。宿屋の主人は大喜びで、みんなに葡萄酒をだしました。後から後から人がおしかけてきました。
あまりもてはやされるので、エミリアンは閉口しました。そして逃げるやうに立去りました。主人から引止められるのを断つて、三人の盲人と自分との勘定に金貨を二枚おいて、名残りををしみながらお礼をいつて、こつそり出かけました。
バイオリンとリスの籠とを持つて、裏通りをぬけて、町外れにさしかゝりますと、あの三人の盲人が、道ばたにかゞんで、帽子を差出して、通りかゝる人々に物乞ひをしてゐました。
エミリアンはその前に立止つていひました。
「僕がだれだか、分りますか」
盲人たちは眼をしよぼしよぼさして、うなづきあひました。
「旦那さま……宿屋でわたくし共をすくつて下さつた旦那さま……」
旦那さまといはれて、エミリアンは笑ひました。
「宿屋のことなんか、どうだつていいよ。それよりも、金貨をあげるといつてだましたのは、僕が悪かつた。僕ね、少し金まうけをしたんだよ。だからこんどは、ほんとに、金貨を一枚づつあげよう。手を出してごらんよ」
盲人たちは信じかねて、躊躇しながら、それでもそつと手を差出しました。その掌へ、エミリアンは金貨を一枚づつのせてやりました。
盲人たちは、手を引つこめて、暫らく金貨をいぢつてゐましたが、ふいに叫びだしました。
「あゝ、ほんたうの金貨だ。神様、有難うございます。旦那さま、有難うございます」
道の埃の中に額をおしつけて、三人とも見えない眼から、ぼろ〳〵涙を流しました。
がその時には、エミリアンはもう、愉快さうに口笛をふきながら、歩き去つてゐました。
その姿が、日の照つた明るい道の上を、向うへだん〳〵小さくなつていきました。
イタリヤのある小さな港町に、ふしぎな噂がたつてゐました。どこからやつてきたのか、アフリカからでも海を越えてきたのか、悪魔が一つ現れて、夜、海岸の淋しいところなんかを歩いてる人たちに、いろんな悪戯をしました。日が暮れると、もう誰も海岸の方へ出てゆく者がありませんでした。
ところが、ある旅の坊さんが通りあはせて、その悪魔を洞穴のなかに封じこんでしまひました。悪魔は洞穴のおくにひそんだきり、姿を見せませんでした。町の人たちは安心しました。ばかりでなく、その坊さんにお祈りをして貰へば、どんな病気でもなほるとのことです……。
丁度イタリヤを旅してゐたエミリアンは、その噂をきいて、今時ふしぎなこともあるものだなと思ひ、そのお坊さんに逢つてみたくなり、悪魔が封じこまれた洞穴も見たくなりました。そして、別にどこといつてあてのある旅でもありませんので、その港町の方へやつていきました。
地中海にのぞんだ小さな町でした。悪魔を洞穴に封じこんだお坊さんのことを尋ねると、すぐに分りました。
「あゝ、ポリモス上人さまかね。えらいお方だ。お祈りばかりしてゐらつしやるから、めつたにお目にかゝれないよ。……どうだか、まあいつてみなさい」
町を出はづれたところに、海につきでた岩山があつて、その裾に小さな庵がありました。ポリモス上人の住居です。岩山の崖によせかけるやうにしてたてられた粗末な庵で、表の戸はしまつてゐて、海の方に小さな窓が一つ開いてゐて、中はひつそりとしてゐます。
エミリアンはしばらくためらつてから、開いてる窓の方へいつて、バイオリンをひきはじめました。波の音に調子を合せて、美しい海の曲をひきました。
一曲ひきをはつて、窓の方を見ますと、そこに、人が立つてゐました。五十歳くらゐな男で、赤い髪を長くのばし、髭のないやせた顔に、なんだか淋しさうな微笑をうかべてゐます。エミリアンはへんな気がしました。ポリモス上人といふのは、頭がはげて、白い髭をはやして、かたぶとりにふとつた老人だらうと、そんなふうに想像してゐたのでした。
「あの、ポリモス上人さまに、お目にかゝりたいんですが……」とエミリアンはいひました。
「ポリモスといふのはわたしだが……お前さんは?」
「エミリアンといふ者です」
「エミリアン?」
「旅をしてあるいてるんです」
「ほう、なるほど……」
エミリアンの身の上がもうすつかり分つたかのやうに、その人ははれやかな微笑をうかべました。そして表の戸を開いて、エミリアンをなかに通しました。
庵のなかはさつぱりと片附いてゐました。まんなかに木の卓子があつて、椅子が四つ並んでゐました。片隅にベッドがありました。一方の棚には、マリアの像が祭つてあつて、いろんなものが供へてありました。
ポリモス上人は、エミリアンに向ひあつて椅子に腰をかけて、うれしさうにその顔をながめました。
「そして、お前さんは、わざ〳〵わたしに逢ひに来たんだね」
「さうです。それから、悪魔が封じこめられてる洞穴も見たいんです」
「あゝ、その悪魔のことだがね……」
いひかけて、ポリモス上人はしばらく何やら考へこみました。
「お前さんは、方々旅してあるいてるから、ずゐぶん、面白いことにもであつただらうね。そして智恵も多さうだね」
エミリアンはなんと答へていゝか分らないで、黙つてゐました。
「ところで、わたしが一つ、面白い話をきかせてあげよう。秘密な話だよ。それから、お前さんも少し智恵をしぼつて、わたしがこゝから逃げだせるやうな方法を、いつしよに考へてくれないかね」
エミリアンはびつくりして目をみはりました。
「実は、わたしは一人でどうしたらいゝか、まつたく困つてゐたところだ」
そしてポリモス上人は、その面白い秘密な話といふのを、はなしてきかせました。それは──
ポリモス上人といふのは、実は、えらいお坊さんではなく、たゞの旅の人です。いろんなことをしつくしたあとで、世の中がつまらなくなつて、旅に出て、なにか珍しいもの、ふしぎなもの、びつくりするやうなものを、探しまはつてゐました。だが、そんなものはどこにもなく、旅もつまらなくなつてきました。ところが、ふと、イタリヤで、小さな港町の悪魔の噂をきいて、面白はんぶんにやつてきてみました。
町の宿屋でたづねてみますと、じつさい、いろ〳〵なことが起つてゐました。──暗いところを通つてゐると、ふいに、帽子をはねとばされた……。なにものからとも知れず、鋭い爪で顔をひつかゝれた……。岩の上に、まつ黒いものが立つてゐた……。空をおほふやうな大きな黒いものが、すーつと飛んでいつた……。何かに食ひあらされたらしい血みどろな鼠の胴体が、方々に散らばつてゐた……。夜なかに、犬がやたらに吠えてかけまはつた……。そのほか、いろ〳〵へんなことが次から次に起つて、どうしても悪魔がやつてきたとしか思はれませんでした。
「ほんたうに悪魔だつたら、面白いんだが……」
ポリモスはさうつぶやいて、ふしぎなことが起るといふ淋しい海岸の方へ、夜なかに、一人でやつていきました。
悪魔といふものは、いろんなふしぎな術を知つてゐます。それを教はつたら、すてきなことになります。たゞ、悪魔はその術を教へるかはりに、人の魂をほしがります。──それでも構ふものかと、ポリモスは考へました。どうせもう世のなかがつまらないんだ。悪魔に魂をうりわたして、そのかはりに、ふしぎな術を教はらう……。
月のない暗い夜でした。波の音がざー、ざーつとひゞいてゐます。遠くにもやつた船の灯が、ぽつりと光つてゐます。その暗い淋しいなかを、ポリモスは悪魔をもとめて、あちらこちら歩きまはりました。疲れてくると、岩かどに腰をおろして休みました。けれど、いくら歩いても、いくら待つても、悪魔は出てきませんでした。暗い夜と、寒い夜風と、波の音ばかりです。
ポリモスはあてがはづれて、がつかりしました。海につきでた岩山の崖に、大きな洞穴がありましたので、そのなかにはいつてかゞみこんでゐると、ついうと〳〵とゐねむりをしました。
そしてポリモスが、なんだかへんな気持で、夢ともうつゝともなく、ぼんやり目をあけた時のことです。ぼーつと白んだうす闇のなかに、大きなまつ黒いものがすーつと飛んで、洞穴の天井とすれ〳〵に、奥の方へきえていきました。ぞつとさむけがして、ポリモスはほんとに目をさましました。海の上から陸地へかけて、ほんのりと夜があけかゝつてゐました。ポリモスはあたりを見まはしましたが、さつきの大きな黒いものはどこにも見えません。洞穴の奥はせまく深く、まつ暗で分りません。
「悪魔だつたかしら……。さうかも知れない」
さう呟いてから、ポリモスはほんとに決心をしました。洞穴の入口につつ立つて、大きな声でいひました。
「悪魔よ悪魔よ、おれの魂をあげるから、ふしぎな術を教へてくれ!」
洞穴のなかはしーんとしてゐます。ポリモスはも一度くりかへしました。が、なんのこともありません。ポリモスは三度くりかへしました。
「悪魔よ悪魔よ、おれの魂をあげるから、ふしぎな術を教へてくれ!」
けれど、なんの返事もなく、なんにも出てきません。いくら待つてもだめでした。もう夜があけて、東の空には赤い雲がたなびいてゐます。
ポリモスは腹がたつてきました。もしあれが悪魔だつたとしたら……。大好きな魂をやるといふのに、出てこないとは、よほど卑怯な悪魔にちがひない。もし悪魔でなかつたとしたら……。
「どちらにしても、この洞穴のなかにはいつていつたことは確かだ。昼間はこゝにひそんでるのだ。一つ捕へてやらう」
ポリモスはそこで、朝日の光がさすまで見張つてゐて、それから町へいつて、金網をたくさん買ひこみ、大きな釘や金槌まで買つてきて、洞穴の口をすつかり金網でふさいでしまひました。
ポリモスが岩山の洞穴を金網でふさいで、そこに番をしてゐるのを見て、町の人たちはふしぎに思ひました。何をしてるのかとたづねました。
「悪魔をとぢこめたのです」とポリモスはじようだんに答へました。
町の人たちはをかしく思ひました。悪魔は金網を通りぬけることができないのかとたづねました。
「お祈りをして、悪魔の術をきかなくしたのです」とポリモスは笑ひながら答へました。
町の人たちはびつくりしました。ところが、実際、ポリモスのいつた通りでした。その夜は、海岸の淋しいところにも、なんの怪しいことも起りませんでした。次の夜も、その次の夜も、さうでした。
午後から夜にかけて、洞穴のところに番をしてるポリモスは、ポリモス上人さまとなりました。ポリモス上人さまが、お祈りの力で、悪魔を洞穴のなかに封じこんでおしまひなすつたと、たいへんな評判になりました。
片手のきかない病人が、ポリモス上人さまのところへやつてきました。そしてお祈りをしてもらつて、ほどなくなほりますといはれて、家にかへつてきますと、今までしびれてゐた手が、自由に動くやうになりました。
さうなつてきますと、町の人たちはさわぎだしました。──あんな有難い上人さまを、町の宿屋なんかにおいとくのはもつたいない。第一、もし上人さまがよそへ行つてしまはれたら、悪魔がまた洞穴からとびだして、どんな害をするか分らない。上人さまをにがしてはいけない……。
そこで、町の人たちは、洞穴のそばに、大急ぎで庵を一つこさへて、そこにポリモス上人をむりに住まはせました。いろんな御馳走をはこんできました。お金をもつてくる人もありました。そしてしじゆう誰かやつてきて、いろいろ用をたしてくれました。病人までも時々やつてきて、お祈りをしてもらひました。なかには、ほんたうに信じてるせゐか、病気がなほる者もありました。それがなほ評判になりました。
困つたのはポリモスです。じようだんにいつたのがほんたうとなつて、悪魔は彼の祈りのために洞穴に封じこまれたことになり、彼はえらい上人さまになつてしまひました。それはよいけれど、洞穴のなかにゐるのが、果して悪魔かどうかも分りません。町の人たちが持つてきてくれる魚などを、そつと金網のなかに差入れておくと、いつしか食ひあらされてるので、何かがなかにゐることは確かですが、それがなんだか分りません。
それよりもなほ困るのは、庵のなかのきゆうくつな生活です。上人さまらしい振舞をしなければなりませんし、時々は病人にお祈りもしてやらなければなりません。人がおほぜいくるので、めつたに外へも出られません。
ポリモスは、できるだけ庵のなかにとぢこもつて、なるべく人にも逢はないやうにしました。そして、どうしたらそこから逃げだせるかと、そんなことばかり考へてゐました。
そこへエミリアンがやつて来たのです。
「どうかして逃げだせる工夫はあるまいかね」
ポリモスは頼むやうにしてエミリアンへさういひました。
ポリモスの話をきいて、エミリアンは面白さうに笑ひました。そしていひました。
「逃げだすことなんか、わけはありません。わたしに任して下さい。その代りに、洞穴のなかにゐるものを、悪魔でもなんでも、わたしに下さいますか」
「あげるとも。そんなものに用はないんだ。もうこりこりした」
そこでエミリアンは、さつそく町の方へいつて、大きな鳥籠と、それをつゝむ黒い布と、黄楊の青葉をたくさん、買ひこんできました。
その夜、おそくなつてからのことです。もう町の方もみな寝しづまつて、あたりがしいんとしてる頃、エミリアンは起きあがつて、洞穴の口の金網をすこしめくり、なかへはひつていきました。そして黄楊の青葉をつみかさね、火をつけて、穴の中をいぶしはじめました。黄楊の青葉は悪魔がいやがるので、用心のためにそれを使つたのでした。
洞穴のなかは、ぼーつと明るくなつて、それから煙でいつぱいになつてきました。今にきつと、悪魔か何かが、くしやみをしながら出てくるにちがひないと、エミリアンは待ちかまへました。
ところが、なんにも出てきません。そしてエミリアンの方がくしやみをはじめました。煙にまかれて、けむたくてむせつぽくて、とてもたまらなくなりました。エミリアンは外に逃げだしました。
ポリモスが、洞穴の外で笑つてゐました。
「なあに、今に出てきます。出てこなかつたら、なんにもゐないんだ」とエミリアンはいひました。
そしてしばらくすると、ゐました。出てきました。大きなまつ黒いものがいきなりとびだしてきて、金網にぶつかつて、はねかへつて、またばた〳〵やつてゐます。それと見ると、エミリアンは中にとびこんで、その上から鳥籠をおつかぶせて、まんまと捕へてしまひました。
それが、よく見ると、大きな蝙蝠でした。
「なあーんだ」
「あゝ、蝙蝠か」
二人は顔を見合せました。エミリアンはいひました。
「明日の朝、エジプトの方へ出る船があります。それに乗つて逃げ出すことにしませう」
「町の人たちが、引きとめはしないかしら……。なにしろ、ポリモス上人さまだからね」
「なに、もう大丈夫ですよ」
そして二人は、夜のうちにすつかり仕度をしました。
夜があけると、エミリアンは町中にふれてあるきました。──ポリモス上人さまがたうとう悪魔を生捕になさつた。けれど、悪魔は殺さうたつて死なないものだから、それをアフリカの方へ捨てるために、今朝の船でお出かけなさることになつた。いづれまた戻つていらつしやるだらうけれど、しばらくかゝるから、今のうちに拝んでおきなさい……。
その噂は、たちまち町中にひろがりました。たいへんなさわぎになりました。町中の人たちが、上人さまの庵の方へおしかけてきました。
洞穴の金網はすつかりとりはらはれてゐました。黄楊の青葉の灰もはきすてられてゐました。庵のなかはきれいにさうぢしてあつて、上人さまの旅の仕度もできてゐました。そして、黒い布につゝんだ鳥籠が人目をひきました。その中に悪魔が──じつは蝙蝠が──はひつてゐるのです。それらのことはみな、エミリアンが夜のうちにしておいたのです。
やがて、ポリモスは悪魔の籠を持ち、エミリアンは例の縞リスの籠とバイオリンとを持つて、庵からたちいでました。ポリモスの荷物を持つた者が後につゞき、そのあとから、町の人たちがつゞいて、船までたいへんな行列でした。
町の人たちは、悪魔の籠をこはがつて、遠くからながめてる者もあれば、上人さまをしたつて、おしよせてくる者もありました。そしていよ〳〵ポリモスが船に乗る時になると、みんな別れををしみました。
エミリアンは船の甲板に立つて、バイオリンで別れの曲をひきました。
エミリアンはしばらく船の旅をつゞけました。その船は地中海の沿岸をまはるごく旧式の小さなもので、おもに貨物や家畜をのせ、乗客は僅かしかありませんでした。さうした粗末な船が、エミリアンにはかへつてのんきでよかつたのです。
僅かな乗客のなかに、まるまると樽のやうに肥つた男がありました。二十頭ばかりの立派な羊をつれてゐました。そして彼は、自分が羊のやうによく肥つてるのがじまんでしたし、またその羊たちが彼のやうによく肥つてるのがじまんでした。
乗客のなかには、ごくやせた人が幾人もありました。さういふ人たちの一人に顔を合はせると、彼はすぐに肥つてるのをじまんしました。朝ですと、かういひました。
「あなたはやせてゐますね、いけませんよ。わたしとわたしの羊たちとをごらんなさい。よく肥つてゐるでせう。今日の日をありがたいと思ひますよ」
食堂では、かういひました。
「あなたはやせてゐますね、いけませんよ。わたしとわたしの羊たちとをごらんなさい。よく肥つてゐるでせう。ごちそうを食べるのを嬉しいと思ひますよ」
夜になると、かういひました。
「あなたはやせてゐますね、いけませんよ。わたしとわたしの羊たちとをごらんなさい。よく肥つてゐるでせう。神さまのお恵が深いのだと思ひますよ」
面とむかつてさういはれると、やせた人たちはふんがいしました。──やせてるのは、何も自分たちが悪いからではない。ただぶくぶく肥つてるのが、何がじまんになるものか。それを、あてつけがましくいろんなことをいふのは、失礼せんばんだ。
そして彼等は相談しあつて、仕返しをすることにしました。食堂で、古いこはれかけた椅子を探しだして、肥つた男がいつも坐る席においておきました。
肥つた男はそりかへつて、ゆつたりと食堂にはいつてきて、何も知らずにいつもの席につきました。そしてその重い身体でのしかゝつたからたまりません。古い椅子はいちどにつぶれて、彼は下にころげおちました。やせた人たちはどつと笑ひました。
肥つた男は、真赤になつて立上りました。そしてボーイをどなりつけました。ボーイはひらにあやまりました。が彼はなかなか許しませんでした。
「不都合きはまる。俺のやうな肥つた者がゐることを忘れたのか。許してもらひたいなら、二人前のごちそうをだせ。それもたゞでだすんだ。金は払はん。たゞで二人前のごちそうをだせ」
ボーイは仕方なしに、二人前の食事をだしました。彼はそれをうまさうにたべてしまつて、そばのやせた人にいひました。
「いかがです、肥つてるのはよいことでせう。たゞで二人前のごちそうが食べられます」
やせた人たちは、それでなほふんがいしました。そしてこんどは、甲板に小麦の袋をぐらぐらにつみかさねて、そのそばにすまして立つてゐました。
肥つた男がゆつたりとやつて来ました。そして立止つて、煙草に火をつけながら、つみ重ねた小麦の袋によりかゝりましたので、たゞでさへぐらぐらしてゐるのが、いちどにくづれおちて、そのはずみに彼もそこにころがりました。やせた人たちはどつと笑ひました。
肥つた男は真赤になつて立上りました。そして船員をどなりつけました。
「俺のやうな肥つた者がゐるのを忘れたのか。許してもらひたいなら、この小麦を一袋さしだして、俺の羊たちにごちそうしてこい」
船員は仕方なしに、小麦を一袋かついで、彼の羊たちに食べさせにいきました。彼はやせた人たちにいひました。
「いかゞです、肥つてるのはよいことでせう。たゞで羊たちにもごちそうが出来ます」
やせた人たちは、なほふんがいしました。肥つた男はたゞころげるだけで、怪我もしないで、得ばかりしてゐるんです。こんどは何かよい工夫はないものかと、いろいろ相談しました。がどうも、うまい考がうかびません。
すると、そのうちの一人が、エミリアンのことを思ひつきました。大人よりもかへつてああいふ少年の方が、うまいことを考へつくかも知れないし、ことにエミリアンは、イタリヤで何かえらいことをしたといふやうなうはさが、船のなかにつたはつてゐました。そこでみんな、エミリアンの智恵をかりることにしました。
エミリアンはやせた人たちの話をきいて、しばらく考へてから答へました。
「わたしはあの肥つた人に、恩も怨もありませんけれど、あの人があまりじまんをしたり、かつてなことをしたりするのは、よくないことだと思つてゐます。承知しました。あの人が困るやうなことを、考へてみませう」
肥つた男が甲板に立つてゐる時、エミリアンは近づいていつて、話しかけました。
「あなたは、たいへん立派な羊をたくさん連れていらつしやるさうですが、その羊を見せて下さいませんか」
肥つた男は、喜んでエミリアンの方をふりむきました。今まで、いくらじまんをしても、その羊を見せてくれなどといはれたことがなかつたのです。
「あゝいゝとも、見せてあげますとも。こつちへいらつしやい」
そして彼は先にたつて、エミリアンを案内しました。中甲板におりて、少しいくと、そのかたすみの広い仕切のなかに、羊が二十頭ばかりゐました。うす暗いなかで、退屈しきつて、ぼんやりつつ立つたり、ねそべつたりしてゐましたが、なるほど立派な羊ばかりでした。
「どうです、立派なものでせう。わたしも羊のやうに肥つてるが、羊もわたしのやうに肥つてゐます」
「ほんとに、立派な羊ですね」
エミリアンはさう答へて、しばらく羊を見てゐましたが、やがていひました。
「立派ですが、世の中は広いから、ほかにもこんなのがゐないとも限りません。そこにいくと、わたしは、蝙蝠を一匹持つてゐますが、それが、世の中に二匹とゐないものなんです」
「え、世の中に二匹とゐない蝙蝠だつて……」
「さうです。見せてあげませう」
そしてエミリアンは、肥つた男を自分の船室に案内しました。その室のすみに、ポリモスから貰つたまゝになつてる蝙蝠が、籠にはいつてゐました。肥つた男はその籠のなかをのぞきこみました。
「なるほど、大きな蝙蝠だな……」
「大きいうへに、のんきで、そしてまたとても智恵があります。むかし、鳥と獣との戦争の時、うらぎりをして、どちらからも仲間はづれにされたといふ、あんな卑怯なのぢやありません」
エミリアンはもつたいらしく咳ばらひをして、話しつゞけました。
「この蝙蝠が、ある時、うつかりして、鼬の巣のなかにとびこんで、休んでゐました。すると、運のわるいことには、その鼬がちやうど、鼠にたいして腹をたててた時ですから、たまりません。鼬はいきなりかけつけてきて、鼠のくせにまた俺の巣をあらすのかと、どなりたてながら、蝙蝠を一呑にしようとしました。蝙蝠はびつくりして、鼬をなだめながら、いひました。──わたしが鼠ですつて、とんでもないことです。わたしはこのとほり、りつぱに翼をもつてゐますし、自由に空をとぶことが出来ます。わたしは鳥ですよ。まちがへてはいけません。──なるほど、よく見ると鳥のやうです。鼬は許してやりました。
「それから二三日の後、のんきな蝙蝠は、またうつかりして、ほかの鼬の巣にとびこみました。ところが、こんどの鼬は、鳥にたいして腹をたててゐました。いきなりかけつけてきて、鳥のくせになまいきだといつて、蝙蝠を一呑にしようとしました。蝙蝠はびつくりして、べんかいしました。──わたしを鳥だなんて、まちがへてはいけません。鳥には羽がはえてるはずです。わたしはこの通り、鼠です。よく見て下さい。──そして蝙蝠は、うまく逃げ出すことが出来ました」
そんな話をきいて、肥つた男は笑ひだしました。が急に笑ひやめて、いひました。
「その蝙蝠が、これだといふんですか。だが、君はいつたい誰からその話をききましたか」
「その話を……蝙蝠が梟に話して、梟が河獺に話して、河獺が猫に話して、猫が猿に話して、猿が……そしてしまひに、わたしの耳にはいりましたから、わたしがその蝙蝠をつかまへたんです」
そして二人はいつしよに笑ひだしました。それからエミリアンは、ちよつとまじめになつて、いひだしました。
「とにかく、大きなりつぱな蝙蝠です。そこで、いかがでせう、この蝙蝠とあなたの羊のどれか一匹と、とりかへて下さいませんか」
「さうだな、それも面白いかも知れない」
そこで、話がまとまりまして、エミリアンは蝙蝠を肥つた男に与へ、そのかはりに、肥つた男の羊を、どれでも好きなのを一頭、貰ひうけることにしました。
やせた人たちは、これからが面白いんだといふエミリアンの言葉を信じて、たのしみに待ちかまへてゐました。
船がギリシヤのある港につきますと、そこで肥つた男はおりることになつてゐましたので、約束のとほり、エミリアンは彼に蝙蝠をわたしました。彼は船の甲板に羊をならばせて、好きな一頭をエミリアンにえらばせました。
二十頭ばかりの、みごとな羊でした。それが、うす暗いところからひきだされて、上甲板のひろびろとしたところにならんで、うれしさうに動きまはつてるので、なほさらきれいでした。
エミリアンはしばらく羊の群をながめてゐました。すると、そのなかに一頭、ほかのより年もとつてゐるらしく、力も強さうで、いつも先頭にたつて歩いてゐて、一群の指導者らしいのが、眼につきました。
「これにしますよ」とエミリアンはいひました。
「よろしい」と肥つた男は答へました。
エミリアンはその一頭の羊を、甲板のふちまでつれだしました。するとほかの羊たちも、あとからぞろぞろついてきました。それを見すましてエミリアンは、自分の羊を海の方へむけて、尻をつよくつねりながら押しやりました。羊はびつくりして、かけだしたはずみに甲板をのりこして、声高くなきながら、海の中にとびこみました。ほかの羊たちも、そのあとを追つて、メー、メー……となきたて騒ぎたてながら、次々に海へとびこんでいきました。
それを見ると、肥つた男はきちがひのやうになりました。かけまはつて羊たちをひきとめようとしました。それから叫びたてました。
「誰か、助けて下さい。羊が海へとびこんでいきます。救つて下さい。早く救つて下さい。羊一匹について、銀貨一枚あげます。救つて下さい」
叫びたてながらも彼は、をかしなことには、蝙蝠の籠を手からはなさないで、そして羊のあとを追つて、自分もたうとう海へとびこんでしまひました。
さうなると、面白がつて見てゐたエミリアンも、やせた人たちも、船員たちも、すてておけませんでした。急いで小舟をおろして、肥つた男とその羊たちを、救ひあげはじめました。
肥つた男は、頭から水をかぶつて、ずぶぬれになつたまゝ、やはり蝙蝠の籠をぶらさげてゐました。羊たちもずぶぬれになつてゐました。けれど、溺れたものは一頭もありませんでした。
羊一頭について、銀貨を一枚づつわたされました。
エミリアンはいひました。
「あなたも救つてもらつたんだから、自分のぶんとして、銀貨を一枚おだしなさい。羊とおなじに、あなたの生命も、銀貨一枚のねだんにしておいてあげませう」
肥つた男はまだぼんやりしてゐて、自分の生命の代として、さいごの銀貨を一枚さしだしました。エミリアンはそれを受取つて、空中にたかくはふりあげました。日の光にそれがきらきら光りました。
エミリアンはシリアに上陸して、パレスチナの方へ、のんきな旅をつゞけました。
ある日の夕方、山と海とのあひだの、淋しい街道を通つてゐますと、小さな村からちよつとはなれて、古い家が一軒ありまして、その入口の石段のところに、お婆さんが一人坐つてゐました。エミリアンは一日歩きつかれて、喉がかわいてゐましたので、水を飲まして下さいと頼みました。
「えゝ、どうぞ、自由に飲んで下さい」とお婆さんは答へました。
教はつたとほりに、家のよこてにまはりますと、ほりぬき井戸の石の枠から、つめたい清らかな水がわきこぼれてゐました。エミリアンは十分に飲んで、すがすがしい気持になつて、お婆さんのところへ戻つてきて、お礼をいひました。
お婆さんはたゞうなづいただけで、膝に両手をくんだまゝ、いつまでもじつとしてゐました。白い髪の毛、ながい眉毛、ふくらんだまぶた、ひふのたれさがつた頬、あつい唇、そして小さなすみきつた眼……それを、ちやうど、赤い夕日がてらしてゐました。エミリアンはなんだか、自分のおばあさんのまたおばあさんの、とほい昔の人にあつたやうな気がして、立去りかねてたゝずみました。
やがて、お婆さんはやさしくほゝゑみました。エミリアンはたづねました。
「あなたは、何かたいへん悲しいことがあるんでせう」
「いゝえ」とお婆さんはほゝゑみながら答へました。
「それでは、何か一心に考へてることがあるんでせう」
「いゝえ」とお婆さんはほゝゑみながら答へました。
エミリアンは困りました。それから、きまりわるさうにいひました。
「でも……水を飲ましてもらつたんですから、お礼に、バイオリンをひいてあげませうか」
お婆さんはうれしさうな顔でうなづきました。
エミリアンはバイオリンをとりだして、いろんな音楽をひいてきかせました。鳥の声や風の音や波の響などをまねた音楽、それから、ロシヤの川船の船頭の歌、スイスの山のなかの樵夫の歌、アルプスのふもとの羊飼の歌、フランスの田舎の葡萄つみの歌、スペインのお祭の踊の歌、アフリカの沙漠の隊商の歌……。
夕日がしづんで、うすぐらくなりかけるまで、エミリアンはひきつゞけました。
お婆さんは一心にきいてゐてくれました。そんなに注意ぶかくきいてくれる者は、これまでにありませんでした。エミリアンがひきやめると、お婆さんはその両手をとつて、やさしく握りしめてくれました。
「ほんとにありがたう。うれしくきゝましたよ」
エミリアンは顔を赤らめました。
「ほんとにうれしくきゝました。こんどは、わたしの方からお礼に、ご飯をあげませう。そして、よろしかつたら、泊つておいでなさい」
エミリアンはよろこんで承知しました。お婆さんについて家のなかにはいると、せまい家ですが、きれいに片付いてゐました。
お婆さんはうれしさうに食事の仕度をしました。そまつな食事でしたが、とてもおいしい葡萄酒がついてゐました。エミリアンは一口飲んで、びつくりしました。そんなおいしいのはまだ飲んだことがありませんでした。
「これはずゐぶん古いんですよ」とお婆さんはいひました。「二百年くらゐはたつてゐるでせう。これを飲ましてあげたいと思ふやうな人を、わたしは今まで待つてゐました。お前さんは親切で、利口で、はれやかで、ちやうどその人です。お前さんに飲んでもらつたので、わたしはもう死ぬことにしませう」
エミリアンはとびあがりました。
「え、死ぬんですつて……」
「さうびつくりすることはありません。おちついておきゝなさい。話してあげませう」
そしてお婆さんは、その話をはじめました。
もう昔のことですが、わたしは相当に財産ももつてゐて、不仕合せな人たちをたすけてやるのが、なによりのたのしみでした。たづねてくる人にはみな、いくらかのお金かパンかを恵んでやりました。それで、人に物を乞ふやうな人たちは、かならずわたしの家に寄つていきました。
さういふ人たちのうちに、一人の聖者がありまして、幾度もわたしのところに、食事をしにきました。聖者はふつうの人とどこかちがつてゐるので、一目でわかるものです。その聖者が、ある日わたしにいひました。
「なんでもあなたの願ひごとを一つ、かなへさしてあげるだけの力を、わたしは神さまから授かりました。よく考へて、願ひごとを一ついつてごらんなさい」
わたしは長いあひだ考へました。そしてかういひました。
「うちの庭に、大きな巴旦杏の木が一本あります。その実をつまうと思つて木にのぼつた人を、どんな人でも、わたしの思ふとほりに、そこから動けないやうにすることが出来たらと、それが願です」
「それはまた、へんな願ひごとですね。でも、あなたがそれを望まれるからには、きつとかなへさしてあげませう」
そして聖者は行つてしまひました。もうそれきりきませんでしたから、きつと、天国に戻つていかれたのでせう。
それから幾年もたつて後、死神がわたしの家のそばを通りかゝりました。──この女はもう八十になつてゐる。十分生きたといふものだ。今日は、あの世へつれていつてやらう。──さう呟いて、家のなかにはいつてきました。
その姿をみて、わたしはいひました。
「おや、死神ですね。長い前から待つてゐましたよ。わたしはもうこの世を去つても、少しもをしいとは思ひません。たゞひとつ、その前に、巴旦杏の実がたべたいんですが……」
「それだけのことなら、わけはない。ちよつと待つておいで」
そして死神は、庭にかけていつて、巴旦杏の木にのぼり、その実を少しつんで、おりようとしました。わたしはそれを待ちうけてゐて、命令しました。
「死神は、わたしの許しがなければ、木からおりてはいけない」
すると、命令どほりになりました。死神は、たのんだり、おどかしたり、叫んだり、騒いだりしましたが、巴旦杏の木からおりることが出来ませんでした。
それからといふものは、もう誰も死ぬ者がなくなりました。ところが、不具の人や、怪我した人や、病気になつた人や、生きてゐても何ののぞみもないやうな人たちが、ひどく苦しみまして、死神をよぶ声が、あちらにもこちらにも起りました。死にたがつてる人がどんなに多いかを知つて、わたしは驚きました。四方からわたしのところへやつてきて、死神をときはなしてくれと頼みました。
わたしは当惑しました。死神をときはなしたら、死にたがつてる人ばかりでなく、生きたいと思つてる人までも、さらつてゆくにちがひありません。それでわたしは、死神のところへ行つて、約束をさせました。わたしが三度よぶまでは、決してわたしをさらひにきてはいけないこと、そしてわたしが巴旦杏の実を持つていつてやる人を、死にたくないのにむりにさらつていつてはいけないこと、それを誓はせました。そして死神を巴旦杏の木からおろしてやりました。
そこでまた、方々に死ぬ人が出てきました。どんなに病気で苦しんでゐても、死にたくないといふ人のことをきくと、わたしが巴旦杏の実をもつていつてやりました。するとその人は助かりました。
ところが、わたしがそんなことをしてるのをみて、いつのまにか、わたしを魔法使だといひふらす者が出てきました。わたしがあまり長く生きてるので、なほさら、魔法使だといふ噂がほんたうらしくなりました。それにわたしも、あまり年をとつて、方々へうちの巴旦杏の実を持つていつてやることが、出来にくくなりました。
もうわたしは、あまり生きすぎたのでせう。魔法使だといつて、人もあまりよりつかなくなりました。わたしは死神をよばうと思つてゐます。
そこへ、お前さんがきて、いろんな音楽をきかしてくれましたから、こんなうれしいことはありません。その葡萄酒は、むかし、わたしが聖者にだしてゐたのの、たゞ一本の残りです。たくさん飲んで下さい。
エミリアンは、そのおいしい葡萄酒によつてきて、夢のやうな気持になりました。二百年も生きてるといふ白髪のお婆さん、魔法使の噂、死神、巴旦杏の実……何もかも夢のやうです。
「いゝえ、死んではいけません。死神をよんではいけません」
夢中にそんなことをエミリアンは叫びました。それからまた、お婆さんを喜ばせるために、バイオリンをひいたり、縞リスに芸をさせたりしました。
お婆さんはやさしくほゝゑんでゐました。その顔をみてゐると、エミリアンは眠くなりました。
夜中に、エミリアンは何度も眼をさまして、叫びました。
「死んではいけません。死神をよんではいけません」
すると、お婆さんのやさしい笑顔が、彼の方をのぞきこんでくれました。
朝早く、エミリアンが眼をさますと、お婆さんの姿が見えませんでした。エミリアンはびつくりしてとび起きました。家のなかを探しまはりましたが、お婆さんはゐませんでした。
外に出てみますと……庭の大きな巴旦杏の木の下に、椅子に腰かけて、お婆さんは死んでゐました。
エミリアンはその膝にすがりついて、泣きだしました。涙がとめどなく流れました。
朝日の光がさしてくると、エミリアンは涙をふいて立上りました。一人ではどうすることも出来ませんから、少しはなれてる村の人たちをよびにいきました。村の人たちは、お婆さんを天の使だといつてた者も、魔法使だといつてた者も、みな驚いて、かけつけてきました。死なれてみると、お婆さんがどんなに親切なよい人だつたかが、しみ〴〵と分りました。
その晩、大ぜいの人でお通夜をして、翌日、葬式をすることになりました。
その葬式の朝、ふしぎなことには、庭の巴旦杏の木がいつぱい花をひらきました。それが一日のうちに実をむすんで、葬式がすんだ夕方には、もうあまく熟してゐました。
エミリアンはその実をつんできて、みんなにたべさせました。
そしてエミリアンは、お婆さんがなくなつたあとの家に、しばらく住んでゐました。庭の大きな巴旦杏の木には、いつもあまい実がたくさんなつてゐました。
底本:「日本児童文学大系 第十六巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「エミリアンの旅」春陽堂
1933(昭和8)年1月
初出:「少年倶楽部」講談社
1932(昭和7)年7月~12月
入力:菅野朋子
校正:門田裕志
2013年1月29日作成
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