松の操美人の生埋
侠骨今に馨く賊胆猶お腥し
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂




 一席申し上げます。お耳慣れました西洋人情話の外題げだいを、まつみさお美人びじん生埋いきうめとあらためまして…これはいけはた福地ふくち先生が口うつしに教えて下すったお話で、仏蘭西フランス侠客おとこだて節婦せっぷを助けるという趣向、原書は Buriedベリッド a lifeライフ という書名だそうで、酔った時はちと云いにくい外題でございますが、生きながら女を土中どちゅううずめ、生埋めに致しましたを土中から掘出しまする仏蘭西の話を、日本になおして、地名も人名も、日本の事に致しましただけで、ぜん以てお断りを申さんでは解りませんから、申し上げまするが、アレキサンドルを石井山いしいさんろうという侠客おとこだてにして、此の石井山三郎は、相州そうしゅう浦賀郡うらがごおり東浦賀の新井町あらいまち𢌞船問屋かいせんどんやで名主役を勤めた人で、事実有りました人で、明和の頃名高い人で、此の人の身の上にく似て居りますから、此の人になぞらえ、又カウランという美人をおらんと名づけ、ヴリウという賊がございますが、是は粥河圖書かゆかわずしょという宝暦八年に改易かいえきに成りました金森兵部小輔かなもりひょうぶしょうゆう様の重役で千二百石を取った立派なお方だが、身持が悪くて、悪事を働きました事を聞きましたから、これを圖書の身の上にいたし、又マクスにチャーレという、彼方あちらに悪人がござりますからマクスを眞葛周玄まくずしゅうげんという医者にして、チャーレを千島禮三ちしまれいぞうという金森家の御納戸役おなんどやくにいたし、巴里パリーの都が江戸の世界、カライの港が相州浦賀で、倫敦ロンドン上総かずさ天神山てんじんやま、鉄道は朝船あさふね夕船ゆうふねに成っておりますだけで、お話はすべて原書あちらまゝにしてお聞きに入れますから、宜しく其方そちらでお聞分けを願います。金森家の瓦解に成りましてから、多く家来も有りましたが皆散り〳〵ばら〴〵になりまして、嫡子出雲守いずものかみ、末の子まで、南部大膳大夫なんぶだいぜんだいふ様へお預けに成りました。粥河圖書は年齢としごろ二十六七で、色の白い人品じんぴんひとで、尤も大禄を取った方は自然品格が違います。大分だいぶ貯えも有りまして、白金台町しろかねだいまちへ地面をちまして、庭なども結構にして、有福ゆうふくに暮して居りました。眞葛周玄と云う医者を連れて、丁度十月十二日池上のおこもりで、唯今以て盛りまするが、昔から実に大した講中こうじゅうがありまして、法華宗は講中の気が揃いまして、首に珠数じゅずをかけ団扇太鼓うちわだいこを持って出なければなりません様に成って居ります。粥河はもとより遊山半分信心はつけたりですから、眞葛の外に長治ちょうじという下男を連れて、それに芳町よしちょうやっこ小兼こかねという芸者、この奴というのは男らしいという綽名あだなで、この小兼は厭味いやみの無い誠にさっぱりとした女で、芸がくって器量もうございます。それに客愛想もいから当時の流行妓はやりっこうちには少しの貯えも有るという位、もう一人はその頃の狂歌師談洲樓焉馬だんしゅうろうえんばの弟子で馬作うまさくという男、しかし狂歌は猿丸太夫さるまるだいふのおいどというあか下手ぺただが一中節いっちゅうぶしを少しうなるので、それで客の幇間たいこを持って世を渡るという男、唯此の男の顔を見ると何となく面白くなるという可愛らしい男で、皆様が贔屓にして供に連れて歩くという、此の五人連でいゝ天気でぶら〳〵と出掛けました。

馬「わたくしは初めて来たので、尤もお宗旨しゅうしで無いからだが何うも素敵で」

 ときょろ〳〵する。両側は一面に枝柿えだがきを売るいえが並んで、其の並びには飴菓子屋汁粉屋飯屋などが居て、常には左のみ賑かではございませんが、一年の活計くらしを二日で取るという位なひどい商いだが、実に盛んな事で、お参りの衆は皆首に珠数を掛けて太鼓を叩きまする。

馬「斯う何だか珠数と太鼓が無いと極りが悪いようで、もし珠数と太鼓を買おうじゃアありませんか、珠数というのを」

圖「馬鹿ア云え、此の連中にそんな物がるもんか、らんぜ」

馬「それでも何だか無いとなりが極りませんから、兼ちゃんお待ちよ珠数を買うから…おい婆さん」

婆「はい〳〵」

馬「あの珠数は幾らだ」

婆「はい〳〵其方そちらはなんで三分二朱でございます」

馬「高いね、もうっと安直なのは無いかね、安いので宜しい、今日一日の掛流しだから、安いのがい、安いのは無いかい、其方そっちの方のは幾らだ」

婆「此方こちらのは白檀ですから一両二分で」

馬「ひゃア篦棒べらぼうに高い〳〵、もっと安いのは無いか、此方こっちのは」

婆「これは紫檀したんですから二分で宜うございます」

馬「まだ高い〳〵、おいほんの間に合せにするのだから」

婆「そんなら梅と桜に遊ばせ」

馬「それは安いかい」

婆「六百文でございます」

馬「妙々梅と桜で六百出しゃ気儘か、宜しい…皆様みなさん先へ入らっしゃい…じゃア婆さん此金これで」

婆「生憎あいにくお釣がございません、お気の毒様で、何うかお端銭はしたがございますなら」

馬「じゃア斯うしよう、お参りをして来るからそれ迄に取替えて置いてお呉れ」

婆「はいかしこまりました」

 とばゞあは金を受取り珠数を渡します。馬作は珠数を首に掛け、

馬「そんなら婆さん屹度きっと頼んだぜ、さア此奴こいつが有りゃア大威張だ、時に兼ちゃん何うです大変な賑いですねえ、今日のお賽銭はのくらい上りましょう、うらやましいね私もお祖師様そしさまに成りてえ、もしあんな別嬪なぞに拝まれてね」

兼「馬鹿アお云いな勿体ない」

馬「さア来た〳〵」

 と本堂に上り柏手をポン〳〵。

馬「いや柏手じゃア無かった粗忽そゝっかしくッてい、南無妙法蓮華経〳〵〳〵無妙んめウ法蓮華経もし一寸ちょっと様子がいじゃアありませんか別嬪ばかりずうっとさ、色気の有る物にゃア仏様でもかないませんね、女がお参りに来なくっちゃアいけません、何うも鼻筋の通った口元の締ったとこ左團次さだんじに似て、あごの斯う…髪際はえぎわや眼のとこは故人高助たかすけにその儘で、おもざしは團十郎にすっぱりで、あゝありゃア先刻さっきった」

兼「何を云ってるのだえ騒々しいねえ」

馬「何さお祖師様のお顔の事さ」

兼「お祖師様のお顔に先刻さっき遇ったかえ」

馬「いえ何さ…さて忠二ちゅうじもお蔭様で一度にふッ切りまして漸く歩けるように成りましたから、お礼に一寸ちょっと是非上らなくッちゃアならんと申しましたが、生憎あいにく今日はお約束がございまして、それでわたくし言伝ことづてを頼まれて参りました宜しく申し上げて呉れと申しました」

圖「これ〳〵馬作何を云うのだ」

馬「いえさ、わたくしの友達がお祖師様の御利益ごりやくで横根を吹っ切りましたから、其のお礼のことづかりを云ってる処で」

皆々「アハヽヽヽ」



 これから元名村もとなむらの所へ来ると丹波屋たんばやという茶漬屋がありますが、も客が一杯でれから右へ切れて、川崎へ掛る石橋の所、妻恋村つまごいむらへ出ようとする角に葭簀張よしずっぱりが有って、其の頃は流行はやりました麦藁細工で角兵衛獅子をこしらえ、又竹にさした柿などが弁慶にしてあります。床几しょうぎには一寸ちょっと煙草盆があって、店の方には粔籹おこし捻鉄ねじかね松風まつかぜたぬきくそなどという駄菓子が並べてございます。唯今茶を汲んで居る娘は年が十八九で、眼元が締り、色くっきりと白くして豊頬しもぶくれの愛敬のある、少しも白粉気おしろいけの無い実に透通すきとおる様な、是が本当の美人と申すので、此の娘が今襷掛たすきがけで働いて居ります、あんまり美しいから人が立停って見て居る様子。

馬「もし旦那一寸ちょっと御覧なさい、素晴しい別嬪で、御覧なさいあの何うも前掛などが垢染みて居るが何うも別嬪で」

圖「成程是は美人だ」

馬「木地きじで化粧なしで綺麗だから、何うも得て何処か悪いとこの有るもんだが、こりゃア疵気きずけなしのえらい玉で」

 周玄は中々の助平だから先刻から途々みち〳〵女を見て悦んで居る所へ、

馬「先生何うですの娘は見事じゃアありませんか」

周「はゝアなアる〳〵いやこれは美人、こりゃア恐入った代物しろものだ、もしの床几に腰を掛けてる客ね、茶は呑みたく無いが、あの娘を見たい計りで腰を掛けて居ますわ、実に古今無類の嬋妍窈窕せんけんようちょうたる物、正に是れ沈魚落雁ちんぎょらくがん閉月羞花へいげつしゅうかよそおいだ」

馬「はゝ当帰とうき大黄だいおう芍薬しゃくやく桂枝けいしかね、薬の名のようなめ方だからおかしい、何しろ一寸ちょっと休んで近くで拝見などは何うでげしょう」

皆々「それがよかろう」

馬「はい御免」

娘「入らっしゃいまし」

先から
居る客
「こりゃア大きにお邪魔を致しやした、どれ出掛けましょう」

娘「まア御緩ごゆっくりと遊ばしまし左様なら有難う」

馬「旦那御覧ごろうじろ今の三人づれは顔附でも知れるがみんな助平れんで、の娘を見たばっかりでもう煙草入を忘れてきましたぜ」

圖「そりゃア困るだろう、返して遣んな」

馬「返せたッて此の人込の中で知れやアしません、へゝゝゝこりゃアお祖師様からわたくしへの授かり物で、有難い、いえさ、むこうでもこの人込の中だから気が附きゃア仕ません、忘れて居ますわ」

 と懐の中へ入れる。

圖「止せといえばよ、手前お祖師様のばちが当るぜ、止しなよ」

 と云う所へ前の客はきょろ〳〵まなこで遣って来まして、

客「只今此処こゝへ煙草入を忘れましたがあとで気が附きましたので、もし此処にゃア落ちていませんでしたか」

 馬作は不性無承ふしょうぶしょうに懐から煙草入を出しまして、

馬「はい今追懸おっかけて返して上げようと思って居たが、是ですか」

客「へいこれでございます、有難うございました、いえも詰らん煙草入ですが途中で煙草が無いと困りますから、左様なら有難うございます」

 とずいと往ってしまう。馬作はあとで口を明いてむこうを眺めて、

馬「あゝあれだ、取りにようがあんまり早い取りに来ようだ」

圖「ずるい事をするとつまり損をするぜ」

馬「損をするってえ旦那是迄わたくしは何にでも損をした事はございません、そりゃアもう、からッきし酔ってお座敷を勤めてもね、物を忘れた事はありません、そりゃアもう其処そこらに有る物を何でも拾って袂へ入れてね、お肴でも何でも構やア仕ません、それだからうちへ帰るとね何時いつでも手拭の八本位袂から出るので、そりゃア実にたしかなもので…いや待てよ…あゝ珠数じゅずつりを取るのを忘れた」

圖「はゝゝゝそれ見ろ、すぐばちが当った」

馬「いやいめえましい、時にかねちゃんは何うしたろう、まだ来ねえ、だが旦那あのぐれえ買喰かいぐいの好きな妓はありませんぜ、先刻さっきも大きな樽柿とふかし芋を両方の手に持って、歩きながらこう両方の喰競くいくらべをながら…あゝ来た〳〵…兼ちゃあん此処だ〳〵、あんまり遅いから待って居たので」

兼「おや左様そう、今頼まれた物を買ってるうち遅くなったの」

馬「頼まれ物だと、なんだ串柿かね、おいねえさんお茶をおくれ」

 茶碗も沢山たんとはございませんから、お客の帰る傍から其の茶碗を洗ってしとやかに茶を汲んで出す。

娘「貴方お茶をお上り遊ばせ」

 と出すのを見ると元小兼の主方しゅうかたの娘で、本多長門守様の御家来岩瀬なにがしと申し、二百石を頂戴した立派な所のお嬢様で何う零落おちぶれてこんな葭簀張よしずっぱりに渋茶を売って居るかと、小兼はじっと娘の顔を見詰めた切り、暫くは口もきけません。

兼「お嬢様まア何うなすった」

娘「兼や誠に面目次第も無い、お母様っかさまと私と一昨年からこんなわざをして」

兼「ほんにまアねえ、わたくしも御存じの母が亡くなりまして其の亡くなる前にも、何うぞして入らっしゃる所が知れ無いかと申して、何うか尋ねて御恩に成ったお礼を申してと、もう此方こなたに斯うやって入らっしゃる事が知れゝば、及ばずながらうにお力にも成って上げましたものを、もう此方こなたに入らっしゃるとは知りませんもんですから…本当にまアく……馬作さん何だって勿体ない、お嬢様にお茶など戴いてい気になって、彼方あっちへお出でよう」

馬「だって茶店の姉さんに此方こっちから茶を汲んで出す奴が有るものか」

兼「こりゃア私の御主人様だよう」

娘「お母様っかさま兼が参りましたよ、一寸ちょっとお逢い遊ばせ」

 破れた二枚屏風の中に年齢五十五六の老母、三年越し喘息に悩みこん〳〵咳をしながら、

母「兼や誠に暫く」



兼「御新造様誠に御無沙汰致しました」

母「まだお前が十五六の時分に逢った切りで、それから三年振で今日逢うと、一寸ちょっと見ては話も出来ない位見忘れる様に大きく成ったのう、人の噂に大層働きのい芸者になったとは聞いたが、お前は一体親孝行で母を大事にしたが、旦那様もお前は感心だ、あゝいう芸者などには似合わぬ者とおめなすったが、是も孝行の徳だ、私は又んな姿になるまで零落おちぶれました」

兼「もう唯今お嬢様にも左様そう申すので、うかして何処どこに入らっしゃるか知れ無い訳もあるまいと尋ねましても何うしても知れませんので、たし何時いつぞや三田みたに入らっしゃる様子を聞きましたが」

母「三田の三角のとこの詰らないところ引込ひっこんで、それから此方こっち便たよって来て、誠に私も三年越し喘息で、今にも死ぬかと思うが死なれもし無いで、早く死んだらあれにもかえって楽をさせる様に成ると思って居るばかりで、此の節此方こっちへ来て麦藁細工を夜なべに内職して、夜寝る眼も寝ずにあれが大事にしてくれるから、それ故私もうやって命を繋いで居るばかりで、お前にっても何一つ遣る事も出来ないで」

兼「何う致しまして飛んだ事を、わたくしももう何です、有難い事に皆様が贔屓ひいきにして下すって、明日あしたももうお約束でいけませんが、明後日あさって屹度きっと此方こちらへお尋ね申します、お力に成るという訳にも参りますまいが、母の遺言もございますし、何うぞ気を落さずに気をしっかりとなすって居て下さいまし、これは誠に少しばかりですが」

 と合切袋がっさいぶくろから小粒を二つばかり出しまして、

兼「これはほんのわたくしの心ばかり何うか何ぞ召上物めしあがりものでも」

母「そんな心配しないでもい、私はお前に何ぞ上げようと思って居るにかえって貰っては」

兼「いゝえほんの心ばかりで、生憎あいにく今日は持合せがなんですから又出直して参ります、本当にくねえ斯んなとこにお住いで」

馬「兼ちゃんお出掛に成りましたよ、くよ」

兼「先へお出でよ、すぐくから」

 名残り惜しいから何かぐず〳〵して「いずれ又」と小兼は出掛けます。娘も見送りながら葭簀張よしずっぱりを出ようとすると、川崎道から参りましたのは相州東浦賀の名主役石井山三郎で、連れて参った男は西浦賀の江戸屋半治えどやはんじ、ちょっと競肌いなせな男で、これは芳町よしちょうの小兼とうより深い中で、今は其の叔父の銚子屋へ預けの身の上、互に逢いたいと一心に思って居るところ、

兼「おや半ちゃん、おや旦那誠にお久し振、何うしなすったか一寸ちょっと御機嫌伺に上りたいと思っても船が嫌いなもんですから、此処こゝでまアお目に懸るとは本当に思い掛けない訳で」

山「実に此処であおうとはなア、兼公、半公もおめえに逢いてえだろうが出られねえ首尾で、今日は漸く暇を貰って出て来たが、直ぐおめえとこへもけねえというのは何分世間をはばかる訳で」

兼「まア何でもい、嬉しいねえ、此処で旦那にお目に懸るとは本当に馬作さん御利益ごりやくで」

馬「さて旦那誠に暫く、もし早速だが聞いてお呉んなせえ、兼ちゃんはお宗旨では無かったのを此の節半ちゃんに逢わして下さいッて、それからの信心でね、今日もお参りにくから一緒にこうとッて兼ちゃんのお供で」

山「そりゃアいがお客が先へ往った様子だ、早くきねえ」

馬「なアにれは二三度遇った客で、なにさ一向訳の分らん奴で、途中で落合ってはッすぐさまお供という様な訳ですから、此処で旦那にお目に懸ればすぐに馬の乗替のりけえお客の乗替のりけえてえ奴で、実に此処でお目に懸るたア有難ありがてえね、もし今もね兼ちゃんがお祖師様を拝むのを傍で聞いてましたが、あの混雑する中で半ちゃんに〳〵半ちゃんに〳〵というのがく聞えるのでこれは何うしても是非ぜっぴ両方からお賽銭を取るので、旦那今日はずうっと川崎泊りでしょう、今夜は藤屋へ泊って半ちゃんに逢わして遣って下さい」

 と馬作はのべつに喋って居ります。山三郎は其の話を聞きながし、心ともなく今小兼の出て来た葮簀張よしずッぱりの中を見ますると十八九の綺麗な娘、思わず驚きまして、

山「美しい娘だのう」

兼「旦那あれは私のもとの御主人様ですから、お願いで、何うぞ休んで沢山たんとお茶代を置いてッて下さい」

 と半治と二人を家の中へ突込む様にして、馬作を連れて出て往って仕舞いました。

山「く慣れない事が出来ますね」

娘「はい誠に慣れませんで、お客様へ前後して間違っていけません」

 といううち屏風の内でこん〳〵こん〳〵咳入りまして、今にも死ぬかと思う程に苦しく見える喘息で、娘はお客にも構わず飛んできまして、撫でたり胸を押えたり介抱する様子を、山三郎は見て居りましたが、孝心おもてに現われてなか〳〵浮気や外見みえでする介抱でございません。

山「成程此の介抱は容易に出来ない介抱だ、感心な娘だのう半治、客にも構わず夢中になって母親を一生懸命に看病するが、あれはなか〳〵出来るもので無い」

 としきりに感心して見て居りまする。



 山三郎は娘の老母を看病するていを感心して見て居りましたが、咳も少し止った様子。

山「姉さんおさまったかえ」

娘「はい有難うございます、もう少し立ちますとおさまります、もうびっくり致しました」

山「さぞおっかさんはせつのうございましょう」

母「誠に失礼でございますが、お客様を置きまして介抱いたしますが、もう咳込んで参りますと今にも息が止るかと思いますくらいでございます、寒くなりますと昼夜に四五たびぐらい咳込みますから」

山「さぞお困りで有ろう、しかし感心な娘御で、お前さんはい子を持ってお仕合せで」

母「はい、もう此のの手一つ計りでございます、是から又寒くなりますと、夜分寝ずに咳きますので誠にこらえかねます、いっト思いに死んだら此のも助かると思いますけれども、死ぬにも死なれませんしねえ貴方あなた

山「そんな弱い気を出してはいけません、何かほかに別段親類も何も無いのかね」

母「はい」

山「唯お前さんと此のおさんきりかね、私は田舎者で相州東浦賀の者で、小兼に聞けばく分りますが、入らざる奴と思し召すかは知りませんが、年もかん娘御がの介抱をなさる様子、実に孝心で、私は始めてお目に懸ったが、中々親孝行という事は出来ないもので、心底しんそこから感心しました、真実の処を申すが、女ばかりで別に親類もなく相談する処も無くってお困りの節は、見継みついで上げますから、小兼に話して手紙の一本もよこしなさればすぐに出て来て話相手にも成りましょうから、お心置なく小兼にまで一寸ちょっと言伝ことづてをなさるよう」

母「有難うございます、御親切様に、あれの母は私共わたくしどもへ勤めて実銘じつめいな者で、それも亡なりましたそうですが、それでも彼が芸者とか何とかで母を養いまして、商売柄に似合わない親切者で、何うか贔屓ひいきにしており遊ばして」

山「誠に少ないがおっかさんに此金これで何ぞあったかい物でも買って上げて」

 と紙入を出して萠黄金襴もえぎきんらんの金入から取出しました、其の頃はガクで入って居りますから、何十両だか勘定の分らん程ざくりと掴出つかみだして小菊こぎくの紙に包み、

山「少許すこしばかりですが、もう行きますからお茶代に」

 と出して出掛けまする。

娘「これはまア沢山に有難うございます、もしおっかさん兼がお茶代を心附けて呉れましたから、の方が沢山置いてって下さいました、大変掴んで」

母「左様そうかえ、お前が私を孝行にするから御祖師様の御利益ごりやくで此のおあしも」

 と開けて見ると中はきんで十両ばかり、其の頃の十両ですからびっくりして

母「おやまアお金だよ」

娘「ほんとにまアこんなに沢山、御親切な方ですねえ、彼様あんなに仰しゃって、浦賀の者だから手紙をよこせとまで仰しゃって有難い事ですねえ、まアおっかさん少し落着いたらお粥でもお上り遊ばせ、どれお夕飯ゆうはんの支度をましょう」

 と娘は右の金を神棚へ上げ、そのうち暗くなるから彼方此方あちらこちら片付けるうちぽつーり〳〵と降出して来ました。日癖ひぐせ所為せえか、今晴れたかと思うとどうと烈しく降出して来て、込合います往来もばったりと止りました。娘はあたりを片附けようと思うと縁台の上に萠黄金襴もえぎきんらんの結構な金入が乗って有るから、

娘「おやおっかさん大変な事を為すった、あの先刻さっき沢山お心附を下すった旦那様が、お金入を忘れて入らっしゃいましたよ、中には余程よっぽどお金が有りますがさぞお困りでございましょう、の方の事ですから外にもお貯えはありましょうが、兎に角わたくしがお宿迄お届け申しましょう」

母「それでもお前、お宿は浦賀だと仰しゃったが」

娘「いえあの今夜は川崎の本藤もとふじへ泊るからとのお話を聞きましたから、小兼もたしかそこへく様子ですし、ひょっとお差支さしつかえでも有るとお気の毒ですから、ちょっくり川崎まで行って参ります、それに雨は降るし日はくれるし、もうお客も有りますまいから心配しないで留守をして居て下さい、少しの間に往って来ますから」

 と母の枕元に手当をして、両褄りょうづま取って、小風呂敷に萠黄金襴の金入を包み、帯の間へはさんで戸を開けて出ようとすると、軒下に立って居る武士さむらい、雨具が無いから素跣すはだしで其の頃は雪駄でありますから、それを腰に揷んで戸にり掛って居る。

武「これはお邪魔で、なに拙者雨具を持たんで少し軒下を拝借して」

娘「それはお困りさまで、中へ入ってお休み遊ばせ」

武「ねえさん此の降るのに何処どこへお出でだ」

娘「わたくしはあの六郷の方まで参るので」

武「六郷の方へくのなら幸いだ、拙者もこれから参るのだから一緒にこう」

娘「わたくしは急ぎますから」

 と不気味だからそこ〳〵に挨拶してき過ぎますと、武士さむらいはピシャ〳〵供の仲間ちゅうげんと一緒に跡を追って来る。此方こちら弥々いよ〳〵変だと思いますから早足にして、あれから堤方つゝみかたを離れて道塚みちづかへ出て、徳持村とくもちむら霊巌寺れいがんじを横に見て西塚村にしづかむらへ出る畑中の小高い処、此方こなた藪畳やぶだゝみの屏風の様になって居る草原の処を通り掛ると、「ねえさん待ちな」と突然いきなり武士さむらいうしろから襟上えりがみつかむから「あれー」と云ううちに足首を取って無理に藪蔭やぶかげかつぎ込み「ひッひッ」というをひっ□し、仲間ちゅうげんは此のに帯の間にはさんで有りました金入かねいれ引奪ひったくり「是をられてはわたくしが」といううち武士さむらいは□□ってしからん振舞をしようとする処へ通り掛った一人いちにん粥河圖書かゆかわずしょで、はたから見兼て飛んでり、突然いきなり武士さむらいの襟上取って引倒し、又仲間ちゅうげんをやッと云って放り出した。仲間ちゅうげん仰向あおむけになって見ると驚きました。かたわらに一本揷ぽんさしの品格のい男がたゝずんで居るから少しおくれて居ました。

圖「何だ手前てまえは、何をする、斯様なるけしからん事をして何と心得て居る、何だ此の女をはずかしめんとするのか、捨置き難い奴だが今日こんにちは信心参りの事だから許す、け〳〵」

仲「なんだ、けとはなんだ、人をいきなり投げやアがッて、此の野郎叩ッくじくぞ」

 と云ううち今一人の武士さむらいは引抜いて切って掛る、無慙むざんに切られるような圖書でない。処へ眞葛周玄が駈けて来るという、一寸ちょっと一息してあとを申上げます。



 西塚村で孝女お蘭が災難にいます処へ、通り掛った粥河圖書が、悪武士わるざむらいを取って投げまする、片方かた〳〵はなか〳〵きかん奴で、大胆不敵の奴で長い刀を引抜いて切って掛る、切られるようなる人で無いから、粥河圖書は短かな二尺三寸ばかりの刀をもって、胸打むねうちにしてどーんと打込むと、の者は切られたと思い、腕前に恐れてばら〳〵〳〵下男諸共転がるように、田甫たんぼ畦道あぜみちの嫌いなく逃延びる。所へ、少しおくれた眞葛周玄は駈付けて、

周「ういう訳か分りませんが、まア塩梅あんばいに此のきずが付かないで、おや此の先刻さっき茶店に出て居たあの石橋のきわの、何うしてまアこんな処へ」

娘「はい有難うございます、思い掛なく旦那様がい所へお通り掛りで、厭な人があとから附いて来て川崎まで道連になると申しますから、わたくしはぎょっとして逃げようと思いますと、出しぬけにうしろから抱付かれ、殺されようとする処をお助け下すって誠に有難うございます」

周「まア〳〵怪我が無くってかったしかし何か取られはせんかえ」

娘「はい誠に済まない事を致しました、わたくしの店へお休みなすったお方が忘れ物をなすって、それをお届け申しましょうと川崎の藤屋まで参ります途中で、お金の入って有る物を只今の悪者が帯の間から持って逃げました」

周「金入には多分に入って居たのかえ」

娘「はい」

周「そのくらいなものはまアい、金ずくには替えられないお前の身に怪我さえ無ければよろしい、それは先方へ話して金高が分りさえすれば何うにでも成る此処こゝを通り掛ってお助け申した以上は…何さそれは多分でも有るまいから、此処においでになる大夫たいふ如何様いかようとも致して進ぜられる、何しろおうちまで送ってからの事、それからお話はうちへ往って内訳話に致しましょう、ねえ大夫それがいじゃア有りませんか」

圖「それも左様そうだ、それじゃアよろしき様に」

周「それは僕の胸中に心得て居りますから」

 と両人が娘の後先あとさきに附添って茶店へ帰って来ました。

娘「おっかさん飛んだ災難に逢って帰りました」

母「なに災難に逢ったと、どんな災難に、だから云わない事じゃア無い」

娘「悪武士わるざむらいつかまってわたくしはもう殺される処を、通り掛りの旦那様に助けられて、そして其の方は先刻せんこくお休みなすったお方で」

母「おやまア飛んだ事、貴方あなた何うも何ともお礼の申し様もございません、見苦しゅうございますが何卒どうぞ此方こちらへ」

周「はい〳〵さア大夫此方こちらへ、さて私は先刻此処へ休んだ者で、処が此方こなたのお嬢様がごう□に遇おうという処をうやって計らずもこうお助け申すというも何ぞの縁で、おっかさん私は眞葛周玄という無骨者で、此の何卒なにとぞ別懇に、扨実は先刻此方こなたへお寄り申して、小兼とのお話を段々承ったが、あの小兼は大夫が長らくの間の御贔屓ごひいきで、それから様子を聞きましたが、どうか前は本多長門殿の御家来だそうで」

母「はい、申すも面目ございませんが、元は岩瀬と申し、少々はお高も戴きました者でございますが、金森様の事に付いてお屋敷は不首尾となり、殿様へ種々しゅ〴〵御意見を申し上げ、諫言かんげんとかをいたしたので重役の憎みを受け、御暇おいとまになりましたが、なんの此の屋敷ばかり日は照らぬという気性で浪人致し、其ののち浪宅ろうたくにおいて切腹いたし、わたくしもそれから続いての心配が病気になって」

周「へゝえそれははやお気の毒な訳で、ついては嬢さんをお助けなすった大夫は、身柄は小兼にお聞きになれば分りますが、前々ぜん〳〵は今お話しの金森家の重臣で、千石あまりをお取り遊ばしたお方で、主家しゅうかの通りの大変で、余儀なく只今は白金台町にお浪宅ではありますが、お貯えが有って、何一つ御不足の無いお身の上で、お庭なぞも手広く取ってごくお気楽のおくらしですが、以前と違いお手少てずくなで、只今もっ御新造ごしんぞが無いので何うか一人ほしいと仰しゃるので、僕も種々いろ〳〵お世話を申して、いのをと思うが、さて何うも長し短しで丁度好いと云うのが無いもので、今の身の上は町人と交際つきあいもする身の上だがまさか町人と縁組をするもいやだし、何か手捌てさばきも出来るような柔和な屋敷者で、遊ばせ言葉で無ければと仰しゃる、そうかと云って不器量ふきりょうでもいかんし、誠に僕もほとんど閉口いたす、処が先刻此の店へ腰を掛けて御息女を見られた処が、ことほか御意ぎょいって何うかあれをと仰しゃる、もっともおっかさんぐるみお引取申しても宜しい訳で、実は小兼に一寸ちょっと其の橋渡しを頼もうと思っているうち、他に客でも出来たか逃げたので、甚だ失敬だが僕がぶっつけにと立戻って来る途中で、前の始末で助けて上げたは、是も全く御縁だから、何卒どうかお母さん得心してすみやかに承諾して下さい、僕が媒介なこうどする、お聞済きゝずみなれば誠に満足で、何うかひらに御承知を願いたい」



母「はい、思召おぼしめしの段は誠に有難うございますが、うも只今の身の上では、貴方方の様な立派な処へ参られもしませんし、それに身丈みなりこそ大きゅうございますが、誠に子供の様でございますから、世間知らずで中々もう立派なおうち御新造ごしんぞになるなどは出来ませんので」

周「あれさ、そんな事を仰しゃっても其れはいかん、貴方のお目から左様そうでもあろうが、其処そこがさ、それ、御相談で段々習おうよりは慣れろで、下世話でもく云う事で習って出来ない事はない、何でもれば出来ますから」

母「有難うございますが、此の事ばかりは当人が得心しませんでは親の一存にもゆきませんから、とくと考えて娘とも相談の上御挨拶致しますから、四五日何うかお待ちなすって」

周「四五日などと云って、承われば置忘れた人の金入とかを届けようとて、みちで災難にって、それをむこうへ掛合って上げようと心配して居るくらいな所」

母「お前何かえ、れを盗まれたのかえ」

娘「はい、飛んだ事を致しました、かつがれてく時、帯の間にはさんで居りましたのを、仲間体ちゅうげんていの者が手を入れて抜出して持ってきました、何うしたらうございましょう」

母「えゝ其れをられては」

周「それも大夫が其の金をむこうまとって、さのみ大した事でも有りますまいから、それを此方こちら整然ちゃんとして、いえさ誠に失敬だが、それは大夫の方でようにも致されようから、そんな事は心配なしに、相談は早いがよろしい、何でも命を助けた恩人が頼む事だから、貴方の方でもいやとは仰しゃれまい、ことに結構な事で、此の上も無く目出度めでたい事で、何うか早々そう〳〵結納を取交とりかわして、いえも善は急げで早い方がい、早いがよろしい、妙だ、先刻菓子を包もうと糊入を買おうと思ったら、中奉書ちゅうぼうしょを出したから買っといたが、こゝに五枚残って居る、妙だ、硯箱すゞりばこがある、早速書きましょう、えゝ目録はなんで、帯代が三十両、宜しい、昆布こんぶ白髪しらが、扇、するめ柳樽やなぎだる宜しい」

 と無闇に書立て、粥河圖書の眼の前で名前を書いて彼方あちら此方こちらへと遣取やりとりをさせました。母親は恩人だから厭とも云われず、娘は唯もじ〳〵して居る。周玄は結納を取替とりかわし無理無体に約定をめて、

周「兎も角明朝僕が又上ります」

 と独りで承知して帰りました。てお話は二つになりまして、川崎の本藤にては山三郎半治小かね馬作の四人が一つの座敷で、

馬「何うも今日ほど不思議で、何だか嬉しくって成らねえこたえね、もし旦那忘れもしない六年あとのお祭で、兼ちゃんが思い切ってずうっと手古舞てこまいになって出た姿が大評判おおひょうばんで、半ちゃんがその時の姿を見て岡惚おかぼれをして、とうとううなったが、兄さんが固くっておうち不首尾かぶって居るうち、兼ちゃんが独りで見継みついで居るなあんて、本当に女の子に可愛がられて遊んで居るなどは世の中に余り類が有りませんぜ、え、鰻、これは結構、有難く頂戴」

山「師匠相替らず延続のべつゞけだのう、どうもサ師匠の顔を見ると自然ひとりでに可笑しくなるよ」

馬「わたくしも貴方のお顔を見るとせい〳〵しますよ、何うか何時いつまでもお顔を見て居てえ」

山「時に先刻さっき休んだ茶店のむすめの、あれだのう」

兼「だって貴方あれは二百石も取った岩瀬主水様と云うわたくしのおふくろが勤めたお屋敷のお嬢様で、お運が悪いので、殿様のお屋敷に騒動が出来て、旦那様は…半元服したような名はなんてえのですかねえ…そら意見する事は」

山「諫言かんげんか」

兼「腹切はなんてえの」

山「切腹か」

兼「そう〳〵旦那様が、その半元服をなすったもんだから、到頭あんなに零落おちぶれてしまったんですが、それでもお嬢様があゝって彼様あんなに親孝行をなさるんですよ、だがあんな扮装なりをして入らしっても透通すきとおるようない御器量で」

山「己もまだの位い女を見たことがねえ」

馬「新井町の旦那が見た事が無いと云うが、本当にのくらいのむすめは少ねえ、しかし彼の娘の方でも旦那に気のあった筈で、十両ばかり少ねえよとざっくり置いたというから、定めし気がありましたろう」

山「師匠じゃアあるめえし金を見て気のある奴が有るものか、おゝそれで気が付いた、へ祝儀を遣らなくっちゃアいかん、おい半治包んで」

 と金入を出そうと思って、ふと懐中をさぐりますと無いから、

山「オヤ金入を落したか、こーと、あ先刻さっきの娘の所へ心附けた時紙入から出したが、包んで遣ったまゝ忘れて来た」

馬「そりゃアおいねえ事をしました、余程よっぽど有りましたろう」

山「なにちっばかりさ、二十両も有ったろう」

馬「そりゃア大変だ、わたくしが取って来ましょう」

山「いわ、なくなる時にゃア失るから大騒ぎやって行かなくっても宜い、ア云う親孝行のだから有りゃア取って置いて呉れる」

馬「そりゃア左様そうですが、親孝行でも兼ちゃんの前じゃア云いにくいが人間の心は変りやすいから」

山「お前とは違うよ」

馬「それでも知慧附ける奴が有りますからねえ」

山「いよ、まだ掛守かけまもりの中に金が有るから遣って呉れ」

 と総花そうばなでずらりとき渡ります。

山「さア今夜は早寝にして、兼公は久し振だから半治の脇へ寝かして、師匠、お前と己は此方こっちへ寝よう」

 と是からふすまって障子を締め、夜具とこを二つずつ並べて敷く。

山「おい其方そっちの床は離さねえでもい、師匠何をして居るのだ」

馬「へい、からかみ閉切たてきっていきれるからう枕元に立って立番をしているので、これから縁側へ整然ちゃんとお湯を持ってくんだ、何うです今夜はやくずつと極めましょう」

山「そんな慾張を云わねえで早く来て寝て仕舞いねえ」

馬「何うせ今夜はられねえね」

 とぴしゃりとからかみ閉切たてきります。



 此方こちらは三年振で逢って、

兼「本当にまア、何うしてまア、く来てお呉れだねえ」

半「己も茫然ぼんやりして銚子屋に預けられて居るが、もう半年も辛抱すれば新井町の旦那が兄さんに話をして遣るから、少しの間辛抱しろというから、それをたのしみに世間に見られねえ様にして居るのよ」

兼「私の方からは、必ず手紙で何時いつ幾日いくかに何うすると、ちゃんと極めて上げるのに、たまに手紙の返辞の一本ぐらいよこしてもいじゃア無いか」

半「銚子屋のは頑固かたいからそう〳〵出歩く訳にもゆかず、そりゃア己だっても心配はして居るけれども、左様そうはいかねえ」

兼「本当に男と云うものはじょうのない者と思って居るが、情のある人てえものはおよそ無いもので」

半「そりゃアおめえの厄介になって悉皆まるで小遣まで貰って遊んで居るんだから、ちっとは己だって義理も人情も知って居るから、己が世に出るようになればおめえにも芸者はめさしてえと思って居る」

兼「私も年は取るし、彼是あれこれと考えると蝋燭のしんのたつ様で、しまいにゃア桂庵婆けいあんばゞあ追遣おいつかわれるように成るだろうと大抵てえ〳〵心配さ、愚痴をいうようだがおまえの身がさだまらないではときまりを付けようと思っても、船でなければ行かれないし、案じてばっかり、本当にお前義理が悪いよ」

馬「旦那、こりゃア寝られませんぜ」

山「大変なとこへ来たなア」

馬「御尤ごもっともで、実に恐れ入った」

山「黙って寝た振をして居ねえ」

馬「どうも寝られませんな、ういう事には時々出合いますが一番寿命の毒だ、まア旦那おやすみなさい」

 と一際ひときわ蕭然ひっそりとする。時に隣座敷は武士体さむらいていのお客、降込められて遅くなって藤屋へ着き、是から湯にでも入ろうとする処を、廊下では二人でそっのぞいて居る。

男「貴方そう仰しゃるが、これが間違になるといけませんぜ」

田舎者「宿屋の番頭さんは物の間違にならん様にするが当然あたりまえで、わしが目で見て証拠が有るので、なに間違えばえ、わし脊負しょって立つ」

番「そんなら屹度きっとうございますか」

田「えゝもえちゅうに」

番「御免下さい」

 と宿屋の番頭は障子をさらりと開けて、

番「お草臥様くたびれさまで」

武士「大きに厄介で」

番「先程は沢山お茶代を有難うございます、主人あるじ宿内しゅくないに少し寄合がござりまして只今帰りましたので碌々お礼も申し上げませんで、えー少々旦那様にうかゞいますが、此所こゝに入らっしゃるお方はお相宿のお方ですが、お荷物が紛失ふんじつ致しまして、何ういう間違か貴方の床の間に有ります其のお荷物がわしのだと仰しゃるので、判然はっきりとは分りませんが念の為に改めて見たいとこう被仰おっしゃるので、誠に失礼ではございますがお荷物の処を」

田舎「へい御免なせえ、お前様だ」

武士「何だと」

田「お前様まえさまア丹波屋でまんまアたべて居たが、雨たんと降らねえうち段々人が出て来たが、まだ沢山客がえうちうらと此の鹿はちはすけえに並んで飯たべて居ると、お前様ア斯う並んで酒え呑んで、お前様ア先い出るときゆるりと食べろとって会釈して、お前様ア忘れもしねえ、なんとお武士様さむらいさまでも身柄のある人ア違ったもんだ、うらのような百姓にそべへ参ってゆっくりてえ挨拶して行くたアえらいねえと噂アして、おめえさま帰って仕舞ったあとで見ると置いたつゝみえから後を追掛おっかけておまえさまア尋ねたが、混雑中こむなかだから知れましねえ、漸くあとを追ってめえりまして、此家こゝへ来るとお前様めえさま足い洗ってあがるところだ、他人ひとの荷物を自分の荷物のように知らぬ顔をして呆れた人だア」

武「しからん奴だ、あわてゝ詰らん事をいうな、これ、手前てまえの荷物を失ったと云うのか、これ、く似た物も有る物だから気をつけて口をきけ、ほかのことゝは違うぞ」

田「ほかの事とは違うと、とぼけたっていけねえ、あんでも丹波屋の横の座敷ではすになってまんまア食って居たとき、おめえゆっくりとって出て往ったから、叮嚀てえねえなお武士さむれえだと思ってっけが、あとに包みがえからあとを追っかけて境内やまじゅうたずねたが知れえから、まア此家こゝへ来るとおめえさま足いよごれたてゝ洗ってあがる所、荷物に木札が附いてるから見れば知れる、相州そうしゅう三浦郡みうらごおり高沢町たかざわまち井桁屋米藏いげたやよねぞうたしかに四布風呂敷よのぶろしきに白いきれで女房が縫って、高沢井桁米たかざわいげたよねと書いてあるが証拠だ中結なかゆわえもある、どうも御人体ごにんていにも似合わねえ、他人ひとの荷物を持って其処そこへ置いてなんだ」

武「これ如何いかに其の方の荷物が紛失ふんじつしたとてみだりに他人たにんを賊といっては済まんぞ、いやしくも武士ぶしたる者が他人ひとの荷物を持っておのれの物とし賊なぞを働く様なる者と思うか、手前は拙者を賊に落すか、他人ひとの荷物を盗んだというのか」

田「盗まねえものが此所こゝに有るものか、おらまんまア喰って魂消たまげめて居たそばに置いた荷物がえ、何より中の品物が証拠だ、麦藁細工の香箱が七つに御守がある、そりゃア村の多治郎たじろう勘太郎かんたろう新藏しんぞう文吉ぶんきち藤治郎とうじろう多藏たぞう彌五右衞門やごえもんの七人に買って来て呉れてえ頼まれて、御守が七つ御供物おくもつが七つある、それはえが金が二十両脇から預かって、小さい風呂敷に包んで金がある」



武「たわけた事をいうな、麦藁細工が七つ有ろうが、金が有ろうがそれが盗んだという証拠に成るものか、これ、番頭、これへ出ろ」

番「わたくしは分りませんが証拠のない詰らん事をいってお武家様ぶけさまに御立腹おさせ申して甚だ迷惑致します」

田「迷惑するたって現在げんぜえ此処こゝに」

武「じゃア手前てまえ荷物をあらためさしてるまいものでもないが、つゝみほどいて中の荷物が相違致すと余儀なく手前の首を切らなければならん、武士の荷物を撿め、賊名ぞくみょうを負わして間違った恐れ入ったでは済まんぞ、今までの失礼も勘弁し難い処だが、田舎者で分らん奴だから此の儘くなれば許して遣るが、って撿めるとなれば、若し荷物相違致せば首を切るぞ」

田「切られべえ、命より大事な他人に預った物があるから、是えなくなしちゃアわしきてる事が出来ねえ」

武「左様さようなれば撿めろ、相違致せば番頭も許さんぞ、さア撿めろ」

 と広桟ひろざんの風呂敷木綿、真田の中結なかゆい引解ひきほどいて広げると違って居る。麦藁細工も入ってはあるが違ってある。玩具おもちゃが二つばかりに本が二三冊、紙入の中入なかいれ見たような物や何かゞ有るが皆違って居るから、

田「はアこれアはア飛んだ事を」

 と百姓は真青まっさおになってふるえて居る。

武「さアうだ、拙者を賊に落して申訳があるか、もう許さんぞ、しか此所こゝ旅人宿はたごやで、当家には相客もあって迷惑になろうから、此の近辺の田甫たんぼに参って成敗致そう、淋しい処までけ」

田「誠に、へい何時いつの間に大事な他人に預かった金もある包を盗まれましたか、何うも風呂敷の縞柄しまがらといい木札が附いて似て居るもんなで、何卒どうぞ御勘弁をはアねげえます。

武「勘弁相成らん、それだから前に其の方のとは違うと云うのだ、しかるをしいて強情を申し張り、ことに命より荷物が大切だ、切られても構わんというから撿めさしたのだ、さアもう許さんからけ武士に二言は無い、番頭手前もしからん奴だ」

番「だから、わたくしも申すので」

武「これ米藏と一緒に参ったもの、逃支度にげじたくをするな、これへ出ろ」

男「どうぞ御免なすって」

 と手を突いて詫入わびいるを、武士さむらいは無理無体に引張出ひっぱりだして廊下へ出る。田舎者は、

田「御免下さい〳〵、御免さないほーい〳〵ほーい〳〵」

 と泣く。こゝへ見兼ねて出ましたのが新井町の石井山三郎、

山「お武家様ぶけさままアしばらく」

武「なんだ」

山「わたくしはお隣座敷に相宿に成りました者で、只今彼所あすこにて承われば重々貴方様の御尤もで、実に此の者共はしからん奴で、先刻より様々の不礼ぶれいを申し上げ何とも申し様もございませんが、何を申すも田舎者で、預り物が紛失ふんじつ致して少々逆上とりのぼせて居る様にも見受けますれば、お荷物に手を附けました段は重々恐れ入りますが何うか何も心得ません者と思召おぼしめ只管ひたすら御勘弁を、此の儀当人に成り替りまして、わたくしがおわびを致します、当家も迷惑致す事ですから何分とも御了簡を」

武「いや其のもとは隣の座敷にお居でのか、そして此の者の連衆つれしゅうか」

山「いえつれではございません、手前は相州東浦賀で、高沢までは遠くも離れませんから其等それらの訳をもちまして願いますので、何うか幾重にも御勘弁を」

武「お前は分りそうな人だが、今も聞いたろうが、拙者は始め許して置いたので、根が百姓の分らん奴の云う事だから黙って居たので、しかるに段々附け上って拙者が手荷物をあらためさせて呉れと申すが、もし荷物を検めて違えば許さんぞと申した所が、其れは構わん、何でも二十両の金子きんすを拙者が盗んだに相違ないと疑われて見れば棄ておかれんで、荷物を検めさしたから斯様かように成ったので、何卒どうぞ手を引いて下さい」

山「何うかそう仰しゃらずに御勘弁を」

武「なりません」

山「これ程申しても御勘弁なりませんか」

武「まかり成らん」

山「これお百姓、高沢町の人、お聞きの通り種々いろ〳〵とお詫を申してもお聞入れがないから、お前ももう何うも詮方しかたがない手打に成りなさい」

田「それでも何うか御勘弁を願います、情ない訳で、何分にも」

武「相成らん、さア早く出ろ」

山「しお聞済きゝずみがなければ止むを得ず申すが、此の荷物は貴方のお荷物ですか」

武「左様」

山「この荷物の中に萠黄金襴の金入が有るが、これは貴方の所持の品でありますか」

武「左様、手前の所持で」

山「結構な品で、この金入は世にもまれなるきれで、いずれでお求めになりましたか」

武「これはなんで、芝口しばぐち三丁目の紀国屋きのくにやと申すが何時も出入であつらえるのだが、其所そこへ誂えずに、本町ほんちょうの、なにアノ照降町てりふりちょう宮川みやがわで買おうと思ったら、彼店あすこは高いから止めて、浅草茅町あさくさかやちょう松屋まつやへ誂えて」

山「へゝえ、裏の切も大したもので」

武「なにくも無い、ほんの廉物やすもので」

山「へゝえ、これは太閤殿下が常に召された物を日光様が拝領になって、神君しんくん御帰依ごきえ摩利支尊天まりしそんてん御影みえいをお仕立になる時、此のきれもってお仕立になり、それを拝領した旗下はたもとが有って、其の切を私方わたくしかたで得てこしらえた萠黄金襴の守袋で、此れを金入にしては済まん訳だが、拙者親共より形見に貰った品物だが、何うして貴方これを所持なさる」

武「それは」

山「いやさ何を以て堤方村で失った金入を、何うして貴方が所持するかさア何ういう訳が承りたい」

 と山三郎に問詰められて、むゝと武士さむらいは押詰って、急に顔色を変えまする。これから掛合になりまするお話、一寸ちょっと一息つきまして申し上げます。



 引続きまして、何処どこの国でも悪人という者はありますもので、今悪武士わるざむらいなりこしらえなどは上品にして、誠になさけのありそうな、黒の羽織に蝋色ろいろの大小で、よもや此の人が悪事をするなどとは思いも寄らぬていで、其の上最初の掛合はごく柔かでございますから、田舎者はたけり立って荷物をあらためる様になりました。山三郎も始めはおとなしく掛合ったが聞きません。元より隣座敷でのぞいて居りましたからつゝみの中から出た物をよく視ると、親の形見に貰った萠黄金襴もえぎきんらんの守袋、それが出たからうしてこれが貴方の手に有ると云われ、よもやそれ程の金入とも存じませんから好加減いゝかげん胡麻化ごまかし掛けたを問詰められ、流石さすがの悪人も顔色がんしょくが変って返答に差詰りました。田舎者はこれを見ると喜びました。

田「誠に有難うございます、なんてえふてえ奴で、其の荷物がおらが荷物でなくっても、此の人の金入其の中へ突込つッこんで置くからはおらが泥棒と云ってもあやまりはえ、それにおらを斬るてえおどかしやアがって何とも呆れけえった野郎だ、さア出る処へ出てしれくれえを分けてやろう」

山「まアいわ…さて貴方は何ういう訳でわたくしの金入を其の包の中へ入れて、是は他所わき購求かいもとめたなどと、武士さむらいが人を欺きじつもっしからん事だ、さア何ういう訳で貴方の物になすったか、何処どこから買入れたかとくと調べなければ成りません、又此の事は此宿ところの名主か代官へでもお届をしなければ成りません」

武「誠に重々恐入った、実は池上へ参詣して帰り掛け、堤方村の往来なかで拾ったので、見れば誠に結構な金入なり、其の遺失主おとしぬしへ知らせようと存じても、の通りの混雑で何分分らん、遺失主の無い事ゆえ只今其の返答に差詰ったので、実は拾ったので、何うか遺失主を調べて返したいと思って居た処、お持主が其のもとであればすみやかにお返し申すのみで、何も其の儘で壱銭も中の金銭かねは遣い捨てません、それがたしかなる証拠で、何うか何分なにぶんにも此の事は御内分におはからい下さるれば千万せんばん有難うございます、何分にも内済ないさいに願います」

山「全く拾ったと仰しゃるか、拾ったなら拾ったにましょうが、それじゃア此の者が包を間違えてもよしんば又お前さんの懐を捜しても、他人ひとの物はおれの物と思って他人たにんを欺くような人だから此の者を切るの突くのと仰しゃる気遣きづかいは有るまいが、なお念のため申す、愈々いよ〳〵此の者をお許しなさるか」

武「尤も左様で、其のもとの仰しゃる事においてはいさゝかも申分もうしぶんはございません」

田「それ御覧なせえ、何だっても此の野郎が申分ねえなんて先刻さっき権幕けんまくはなんだ、今にも打斬ぶっきるべえとしやがって、何うもはアわしア勘弁したくってもつれの鹿の八どんに済まねえから、矢張やっぱり出る処へ出ますべえ」

山「それでも悪いから此処こゝず此の儘にしなさい、此家こゝ旅人宿はたごやで迷惑をするし、お前も向うの包と取違えたのは粗忽そこつ詮方しかたがないから、先ず此処は控えて居なさい、それを彼是かれこれ荒立って見ると事柄が面倒になるから、わたしも許すから、しかしお前も預り物を紛失ふんじつしてさぞ心配であろうが、幸い此の紙入に二十両のこって有るから、お前にこれを進上するから、遺失おとさん積りで向へ持ってきさえすれば事が済むから、此処は此の儘おだやかにしないと、此のうちも迷惑するから」

田「お前様めえさまにゃア何うして、なに其の金ア此の野郎からもれえますわ」

山「まア私に何事も任して置きなせえ」

 と山三郎は種々いろ〳〵なだめて、此の場は漸く穏かに納まりましたが、武士さむらいこそっぱゆくなったと見えまして、夜中にこそ〳〵と立って仕舞った。山三郎は惜気おしげもなく二十両の金を井桁屋米藏に遣りましたが、人は助けて置きたいもので。山三郎、江戸屋半治は相州浦賀へ帰り、小兼馬作は芳町へ、の田舎者二人は共々連立って高沢町へ帰りました。



 てお話は二岐ふたみちに分れ、白金台町に間口はれ二十けんばかりで、生垣いけがきに成って居ります、門もちょっと屋根のある雅致がちこしらえで、うしろの方へまわると格子造りで、此方こちらは勝手口で、格子の方をガラ〳〵と開けて這入って見ると、中見世なかみせ玩具屋おもちゃやにありそうな家作やづくりであります。此の日芸者小兼は早く起きて白金の清正公様せいしょうこうさまへおまいりきました。一体芸者しゅは朝寝ですが、其の日は心がけて早く起き、まだ下女が焚付たきつけて居て御飯ごぜんも出来ないくらいの所へ、

兼「御免なさい〳〵」

下女「はい、いらっしゃいまし、何所どちらから」

兼「あの粥河様のおやしき此方こちらさまで」

下女「はい、手前で、何方どちらから」

兼「芳町のかねが参ったと御新造様にそう仰しゃって、誠につまらん物でありますがお土産のしるしに是を何卒どうか上げて下さい」

下女「左様で」

 と下女が案内して奥へ通し、八畳敷ばかりの茶の間で、片方かた〳〵に一間の床の間があって脇の所が戸棚になって、唐木の棚があります。長手の火鉢の向うに坐って居るのが粥河の女房おらん、年はとって二十一、只今申す西洋元服で、丸髷に結って金無垢の櫛かんざしで黒縮緬の羽織を引掛ひっかけている様子は、自然と備わる愛敬、思わず見惚みとれるようない御新造で、

蘭「こちらへお這入り」

兼「誠にまア御無沙汰をいたしまして、そして結構なお住居すまいでどうかして上りたいと思って今日こんにちは一生懸命に早く起きて、白金の清正公様へお参りをして、ついでと申しては済みませんがそれから上りました、本当に貴方が此方こちらに入らっしゃることは今まで少しも存じませんでして」

蘭「私も一寸ちょっと知らせたいと思ったけれども種々いろ〳〵其所そこには訳があって……よくまア訪ねて来てお呉れだ、何うかして私も訪ねたいと思っても勝手に出る事も出来ないで」

兼「まア元服なすって、よくお似合で、そして本当によいお住居すまいでまアお広くって綺麗で、桜時分はさぞうございましょう、そして高台で、のんびりとなさいましょうねえ、私などのうちは狭くって隣もむこうもくっついて居ります、其の替り便利には、お彼岸や何かで珍らしい物が出来たり、おめでたい事で時々向う前でったり貰ったりする時は坐って居て手を出せば届きますが、う云う所に入らっしってはうございますねえ、これは貴方詰らん物ですがちっとばかり取って参りました、ほんに貴方お目に懸ったのは丁度三年あとの池上様のおこもりの日で、の時私が彼所あすこを通り掛り麦藁細工の有ったのが目に付いて居ります、葮簀張よしずっぱりでねえ、それも彼所にあゝ遣って入らっしゃる事も存じませんで…あの御新造がおくなりで…それから此方こちらへ入らっしったので」

蘭「此方こちらへ来てから一年半ばかりして旦那様がねんごろに御介抱して下すって、葬式も立派に出て、何も云置く事もなく私の身の上も安心して母もくなったから誠に仕合しあわせだよ」

兼「あらまアちっとも存じません、其の旦那様にお目に懸っても左様そうとも何とも仰しゃらずに、あんまり憎らしいじゃア有りませんか、そしてお寺は」

蘭「谷中やなか瑞林寺ずいりんじで」

兼「知らない事とておとむらいにも出ませんで、さぞまア御愁傷で、あなたが此方こちらへ入らっしって御安心になっておかくれで、本当にまア旦那様は毎度御贔屓にしてんで下すっても、貴方の事は今申す通り少しも仰しゃらず、漸くわきで聞いて参りましたが本当にあんまりだと存じて居りました、もしの時相州浦賀の石井山三郎様と仰しゃるお方がお寄りになりましたろう」

蘭「あゝ」


十一


兼「の方は浦賀で大した人で、さっぱりした気象きッぷのよい男達おとこだてで、女などをめたことのない方ですが、あなたをまア親孝行のお嬢様だって独りで誉めて居て、大概な者は気に入りませんが、貴方なら貰いたいと云って、江戸屋の半治さんという人を掛合におんなすったら、もう此方こなたへ御縁組になってお引越ひっこしになったと聞き、仕方がないと云ってそれりになって」

蘭「かねや本当にの方は情深なさけぶかい方で、私も彼方あちらへ縁付かれるようなればいと思って居たが、是には種々いろ〳〵義理があって、の方が私に沢山心付を下すって、其の時金入をお忘れで、それを私が持って藤屋まで参る途中で災難にって、道で助けられた其のお方が私の旦那で、今では何不足なく何んでもでもほしいものは買って遣るからと仰しゃるから安心して居るわ」

兼「それはまア結構で、本当にまア旦那様はあなたを可愛がって、左様そうして御辛抱で、ちゃんとお宅へお帰りでしょう」

蘭「それについて私も種々いろ〳〵心配して居る事があるので私の様な不束者ふつゝかもの御意ぎょいらぬか知れないけれども、去年の十一月からさっぱりお宅へお帰りがないの」

兼「お宅へお帰りがないと云って何処どこへ入らっしゃいました」

蘭「私には鎌倉道に竹ヶ崎と云う所があって、山の半途なかごろで前が入海いりうみい所が有ったから、うせ毎年まいねん湯治にく位なら、景色も空気もいから、其処そこへ普請をして遣ろうと云って、其の普請に掛って入らっしゃると云うけれども、去年の暮からさっぱり手紙もよこして下さらず、此方こちらから手紙を出したくも女ばかりで左様そうもならず、何かほかに出来でもして私がいやになって万一見捨られた時は親類も身寄も何もないからく所もなく、兼や何うかお前を力に思うよ、私はお前に逢いたいと始終思っていたわ」

兼「呆れますよ、本当にまア貴方の様な美くしい結構な御新造様がお一人いらっしゃれば御辛抱なさりそうなものを、去年の十一月からお帰りにならないてえのは何てえ事でございましょう……其のお宅というのへ入らっしゃいましたか」

蘭「まだ往っては悪い」

兼「入らっしゃいまし悪い事がありますものか」

蘭「だって知れないものを」

兼「構わずに入らっしゃいまし、屹度きっと極りが付いてう云う者と斯うと云う訳じゃありません、詰らん者を集めてうかれているのでしょうから、出し抜けに往って玩弄箱おもちゃばこをひっくりかえしたような芸者を揚げている所へ、おたのしみと云ってひきずり出しておやりなさい、貴方は人がいからいけません」

蘭「大層遠いそうで」

兼「私はお祭の時往って知っております、竹ヶ崎と云うのは法華寺ほっけでらのある所で、舟でくとじきです。入らっしゃい」

蘭「そう、舟は恐かないかね」

兼「なに今時分は北風が吹くと船頭に聞いておりますからじきかれます、そして追風おいかぜうございます、高輪たかなわから乗ると造作はございません、入らっしゃいましよ〳〵」

蘭「いが道も知れないから」

兼「入らっしゃいよ私が御一緒にお付き申しますから」

蘭「かねが往って呉れゝば」

兼「入らっしゃいまし」

 と無理に勧めるのは、小兼は江戸屋半治に逢いたいからで、お蘭もそんならこうと、下女へ話して急に着物を着替え小紋縮緬の変り裏に黒朱子くろじゅす繻珍しゅっちんの帯をしめて、丸髷のおくれ髪をなであげ、白金を出まして、高輪の湊屋みなとやと云う船宿から真帆まほを上げて参りますと、船は走りますから横須賀へ着きましたのは丁度只今の二時少々廻った頃、それから多度村たどむらへ出てなだれを下りてくと鎌倉へ出る、此方こっちへ参れば倉富くらとみへ出る、鎌倉道の曲り角に井桁屋米藏と云う饅頭屋があって蒸籠せいろうを積み上げて店へ邪魔になる程置き並べて、亭主はしきりに土竈へっつい焚付たきつけて居る、女房は襷掛たすきがけで、粉だらけの手をして頻りに饅頭をこねて居る。

兼「一寸ちょっともし少々物をお聞き申します」

男「お掛けなさえまし、此方こちらへおかけなさえ」

兼「あの竹ヶ崎へ参りますには」

男「竹ヶ崎は此方こっちイずいと往って突当って左へきれて、構わず南西みなみにしへきれて這入ると宮がある、其の宮のまい新浄寺しんじょうじと云う寺がある、其処そこ突切つっきってくと信行寺しんぎょうじと云うお寺様アある、それを横切ってくと地蔵寺じぞうじの前へ出る、其処を右へくと諏訪様すわさまの鎮守様がある、そこを突当って登ると竹ヶ崎へ出ます」

兼「有難うございます、そうして其処に此の頃新規に立派な別荘の様な物が出来ましてすか」

男「其処の別当は諏訪様の御支配だ」

兼「いえ、なんです、新規にお屋敷見たいなうちが出来ましたろうか」

男「お屋敷か、あゝ此の間兼吉かねきちが往ったっけのう、おなお、それ竹ヶ崎の南山みなみやまでなア」

女房「此方こっちへおかけなさい、おや小兼さんかえ」


十二


兼「まアどうも不思議じゃアないか、お直さんかえ」

女房「お掛けよう、まア懐かしかったよまア、何時いつもお変りなく、まア久振で丁度六年振で、何時でも同じ様だねえ、兼ちゃん此の通りで本当にお辞儀したくも手を突く事が出来ない、粉だらけで、うせ仕様が無いからんな者でも堅くさえあればいと思ってこんないけ好かない男を持って」

米「何だ、いけ好かねえなんて」

直「おや堪忍おしよ、本当に半ちゃんもとうっから銚子屋に居るって、此の間来てお前に遇わして呉れって頼むのだよ、私も江戸屋のお直とって江戸あっちに居た時分から半ちゃんとは古い馴染だし、何でも隠さずに話をするが、半ちゃんもお前にゃア種々いろ〳〵世話になって済まないって、そりゃアほんに銚子屋に預けられて居ても女郎買じょうろかい一つしないで堅くして居るんだよ、ほんに感心さ、それもお前にほれてるのだから何うかして夫婦にしたいねえ」

兼「あたしも御新造様を竹ヶ崎までお送り申して、帰りにゃア是非半ちゃんに逢いいからあたしの来た事を知らしてお呉れな」

直「あゝ帰りにお寄りよ、屹度きっと半ちゃんを呼んで置くから、あらお茶代は入らないに、あゝそれじゃアお気の毒だねえ、そんなら此所こゝをこうずいと往って構わず突当って聞くとき知れるよ」

兼「あゝ有難う、分りました、左様ならば」

 と小兼はお蘭を連れてみちを聞き〳〵竹ヶ崎の山へ来て見ると、芝を積んで枳殻きこくを植え、大きな丸太を二本立て、表門があり、梅林うめばやしが有りまして、此方こちらには葡萄棚もあり其の他種々いろ〳〵菓物くだものも作ってありまして、彼是一町ばかり入ると、屋根は瓦葺かわらぶきだが至って風流な家作やづくりがあります。ずいと入ろうとは思ったが、また彼是手間取れると半治に逢うのが遅くなるから、

兼「あの恐入りますが私はこれからりますよ」

蘭「もう少し往っておくれ、何だか私ア間が悪いよ」

兼「なにお間の悪い事がありますものか、これア貴方あなたのおうちですものを、わたくしはまた上りますから御免なさい」

 と気がせくからはら〳〵と外へかけて出ました。

蘭「あれまア兼が」

 と暫く其方そっちを見送って居ましたが、何時まで立ってもられませんから、徐々そろ〳〵と門の中へ入りました。だが矢張やっぱきまりが悪くし間違やアしないか、たれか居るかと見ると、長治ちょうじという下男が掃除をして居る。

長「おや、御新造様」

蘭「長治お前まで来たっ切りで」

長「これはどうも思い掛けない、何うして、へゝえ何ですか芳町の小兼が、そうで」

蘭「お前までが嫌って帰って呉れないから、うちア女ばかりで心細くっていけないから、ようやく来たのだよ、すこしも便たよりをしないのはあんまりで」

長「わたくし此方こちらへお供をして参りましたが、何分御普請が此の通りでらちが明きませんし、建前たてまえが済んで造作ぞうさくになってから長くって、折角片付いてもまた御意に入りませんで、又打毀ぶちこわして新規に仕直すなどいう仕儀で、誠にわたしもじれッたくって、漸くまア此の位出来ましたが、又材木などが差支さしつかえて…まア彼方あちらへお出で遊ばせ、此処こゝが這入り口で」

蘭「ほんに旦那様はのお選みがむずかしくっておやかましいからねえ」

長「しかしまア十分に出来ました、広くはございませんが、此処がお座敷で、此処が貴方のお居間になる様にとって別段綺麗に出来ました」

蘭「どうも床柱でも天井でも立派なこと、何うも広い庭だねえ、の大きな松は」

長「あれは植えたのではない元からあるので、灯籠だけは此方こっちへお持ちなすったので」

蘭「どうも広いお泉水せんすいで」

長「あれは海です、あんな大きな泉水が有るもんですか」

蘭「そうかえ、ほんにい景色で誠に心持がせい〳〵するよ」

長「もう少し早く入らっしゃると牡丹ぼたんが盛りでございました」

蘭「旦那様は今日はおうちにかえ」

長「あのんで、なんとか申した変な名でございました其所そこへ材木を買出しながら行くって、帰りに何で周玄さんというお医者が御一緒で、事に依ると金沢へ廻るかも知れんと被仰おっしゃいました、しかし今晩はお帰りになりましょうか、それとも明日みょうにちに成るかも知れません」

蘭「女中は幾人いくたり居るえ」

長「一人も居りません」

蘭「この広いうちに女中が居ないなんて虚言うそをおつきよ」

長「いえ居たのですがいけません、此処らの女は相模女さがみおんなで尻ばかり撫でて、実にどうも行儀も作法も知りません旦那様の前でも何でも構わず大きな足を踏跨ふんばたげて歩いたり、旦那様がおあつらえなすってお拵え遊ばした桐の胴丸の火鉢へ、寒いって胼胝あかぎれだらけな足を上げて、たって居てかゝとをあぶるので、旦那はすっかり怒って仕舞って早々そう〳〵いとまになりました、実に女だけは江戸に限ります」

蘭「おほゝゝゝそうかえしからない」

長「今御膳を上げますから、さぞ草臥くたびれでしょう、まアゆっくりと」

 といって烟草盆や茶菓子などを運びますに皆長治一人でする様子、お蘭は縁側へ出て見て居りましたが、用場ようばへ参ろうと思って縁側をずいと行って突当ると、三尺ばかりの喜連格子きつれごうしがあるから、用場かと思いずーっと開けると、用場では有りませんで、其処そこは書物棚になって居ります、本箱などが幾つも積重なって居りますから、疎相そそうな事をした、用場かと思って大切な書物のある処を無闇に明けて済まないと、そっと閉めようとすると、昔の屋敷女やしきもので足袋を穿いて居るのに、縁側が出来立できたてで新らしい足袋ですからツル〳〵とすべって書物棚へ思わず倒れ掛って手を突くと、其の棚がギーと芝居でする田楽道具の様に𢌞るからびっくりしてあとへ下って覗くと、下に階梯はしごの降り口がありますから、はて此様こんな処に階梯のある訳はないが、穴蔵の様になって居るが何だか知らん、兎に角こんな所を開けて見ては済まないともとの様に書棚を直して出て来ると、長治は膳部を持って出る。の辺は三月頃は初鰹の刺身が出来まして、それに海苔の付合せを沢山にして、其のほかキスだの鎌倉海老などと魚が出るが、どうも近所に料理屋はない様子、何処から魚を取寄せるか、自分料理で斯う早く出来る訳もないし、何うした事かと女の廻り気で種々いろ〳〵と考えて居りまする、其のうち灯火あかりがつきますと、長治が屏風を立廻し、山風で寒いからと小掻巻こがいまき夜着よぎを持運び、其処そこへ置いて台所へさがりました。


十三


 お蘭は自分でとこべて寝ましたが、寝ても寝られませんから、旦那様は今日もお帰りはないか、何時迄待ってもお帰りがなくっては、淋しい処に居るのもいやだし、何しに来たとお叱りを受けはしないかと種々いろ〳〵と心配して居ると、六枚折の屏風を開いて這入って来たのが粥河圖書で、ずーっと前へ立ったから、お蘭はびっくりして起ると、

圖「お蘭か」

蘭「おやお帰りでござりましたか」

圖「く来たな、今帰った、く出て来た、一寸ちょっと便りをしいと思ったが誠に普請も長く掛るし、それに今日は浦賀へくの、金沢へくのと誘われて、暇を欠くので、つい〳〵便りも致さなんだが、く来たのう」

蘭「貴方が来いとも被仰おっしゃらないに参ってはお叱りを受けようかと思いまして参りかねて居りましたが、兼が何んでもけと勧めますから参りまして、く遅くもお帰りで」

圖「左様か、今夜はさみしかろうが、これから余儀なく一寸ちょっとかなければならんが、明日あした正午前ひるまえに帰って来ようから、まアゆっくり寝るがい」

蘭「それじゃアお帰り遊ばしてぐに是から又夜おいで遊ばしますか、このおさみしい道を…誠に悪い事を致しました、折角お帰り遊ばしてもわたくしが参って居りますから又すぐほかへ入らっしゃるのはわたくしがお邪魔になって…それでお腹立なれば、明朝帰りますから御勘弁遊ばして、何卒どうぞ御寝げしなって」

圖「決して左様そう云う訳ではない、余儀ない義理で誘われて居るので、一寸ちょっと大津辺までかなければならん、銚子屋と云う料理屋に集会して居るから、一寸顔を出して、是非が更けるだろうが、事によると浦賀へ誘われると帰られないが明日あしたの朝は屹度帰るよ」

 と慌てゝ煙管筒を仕舞って出てきました。お蘭が送り出そうと思って居るうち、ぱったり襖を閉切たてきって、出たかと思って考えるに表の門の開いた様子もないし、夫のそとへ出たのも怪しく、夜深よぶかに私の顔を見て直ぐに出てお仕舞い遊ばしたのは、何か他に増花ますはなでも出来て居て、他の座敷へ隠してあるのではないか、左様そうして見ると先刻さっき見た書棚の廻り階梯ばしごの降り口のあったも怪しいが、はてな」

 と悋気と云う訳ではなけれど、自分が身寄頼りもなく、圖書に捨てられては行処ゆきどころのない心細い処から、手灯てとぼしけてそうっと抜足して縁側へ出て、昼のうち見て置いた三尺の開きを明けて、書棚の両方に手をかけて押すと、ギーと廻る。下に階梯はしご降口おりくちがあるのを見ると、灯火あかりが障子へさして座敷がありそうに思いましたから、手灯てともしを吹消して階梯段を降りて参りまして、降り切ると一間ばかりの廊下のようなものがうねって付いてあります。の辺は皆垣が石のような処で、其処そこ切穿きりほりまして穴蔵ような物が山の半腹はんぷくにありまして、まる倉庫くらの様になって居りますから、縁側を伝わって段々手索てさぐりでくと、六畳ばかりの座敷がありまして、一間の床の間がありまして巻物や手箱などが乗ってあります。杉戸が二重になって居て両隅の障子へ灯火あかりがさしまして人声ひとごえがする様ですが、唯今なれば硝子障子でく分りますが、其の頃は唯の障子でございますからすこしも分りません。かたわらにある机を持って来て、其の上に乗って、欄間の障子の穴から覗こうと思ったが、障子に破れた穴もないので覗けないから、して居た銀脚ぎんあし簪揷かんざしで、障子の建合たてあわせを音もせずにっと簪揷をさしてねじると、障子が細く明きましたから、お蘭が内を差覗くと驚きました。


十四


 穴の中に斯様なる座敷をこしらえ、広間は彼是二十二三畳もあろうと思われ、棚には植木鉢その外種々いろ〳〵結構な物が並べてあり、置物は青磁の香炉古代蒔絵の本台などが置並べて前に緞子どんすしとねを置いてかたわらの刀かけに大小を置き、綿入羽織を着て、前の盃盤はいばんには結構なる肴があって、かたわらに居るのが千島禮三とて金森家の御小納戸役おこなんどやくを勤めた人物、這入口に居るのが眞葛周玄、黄八丈に黒縮緬の羽織を着て頻りに支配きりもりをして居り、それからずっと次に居並んで居ります者が彼是百五六十人ばかり、商人ていの者もれば、あるい旅僧体たびそうていの者や武士体の者、種々いろ〳〵なる男がずっと居並んで居て、面部に斫疵きずなどのあるこわらしい男が居る。其の次の間に、年齢十六七の娘が縛られ、猿轡さるぐつわをかけられて声も出す事が出来ませんで、唯涙をはら〳〵こぼして、島田髷を振りみだし、殊にあわれな姿でおります。かたわらに居る千島禮三が、つか〳〵粥河圖書のそばへ来て、

禮「大夫たいふ、何処へ行ってもどうも別にこれぞと云うまぶな仕事もなく、東海道金谷かなやの寺で大妙寺だいみょうじと申すは法華宗の大寺で、これへ這入って金八百両取ったが、の寺にしては存外有りましたが、それから西浦賀の上成寺じょうせいじ平生へいぜい有りそうに思って其の夜忍び込み、此の寺で二百両で、金は随分あるにもせよ肴がなくてはお淋しかろうと存じて、これは西浦賀の江戸屋と云ううちへ縁付く話がきまったと云う、名主吉崎惣右衞門よしざきそうえもんの娘おみわと云う評判もの、大夫の寝酒のお肴に連れて来たが、お蘭さんがおいでになったと申すことだが、お蘭さんがお出になればんな者をお目にかけてもとてかんから、この美人は禮三が□□□□るからお譲りを願います」

圖「それは勝手に致せ」

周「こう〳〵千島氏貴公は誠にうまいことを考えるが、東浦賀の吉崎の娘は君が知って居たのではなかろう、此の眞葛周玄が知って居て、道程みちのりからして、斯々こう〳〵いう所を通ってくと大寺があって、此処に斯ういう豪農がある、陣屋は斯ういう山を越さなければならんという事まで貴公に道を教えたからこそ、首尾く連れて来られたのだというものだ、それを君が□□□□るてえ訳にはいかん、大夫是はどうか周玄へ此の娘を頂戴したい、自分年を取りまして斯様な若い美人を□□□□た事がないから、どうか」

圖「何うでも勝手に致せ」

禮「これ〳〵何だ、われは旅稼ぎの按摩で、枕探しで旅を稼いで居たのが、処を離れて頭髪つむりはやして黒の羽織を着て、藪医者然たる扮装なりして素人をおどかし、大寺などへ入込いりこんで勝手は少し心得て居るだろうが、八州にでも取構とりこまれ、さアと云う時は此の千島禮三と大夫が居らん時はぶる〳〵して先へ逃げ出す役に立たず、畢竟己が骨を折ったから己が抱いて寝るのだ」

周「それはいかんよ足下そっかなどは悪事に掛けてはまだ青いからね」

禮「黙れ、青いとはんだ、青かろうが若かろうが多寡がわれは旅かせぎの按摩上り、己は千島禮三と云う小納戸役を勤め、大夫とも同席する身分だ控え居れ」

周「これさ、仮令たとえ然るべき武士で何役を勤めたにもせよ、斯うやって悪事を共にすれば、なわに就いて処刑しおきになる時は同じ事だ、今日きょうに及んで無用の格式論、小納戸役がどう致した、馬鹿なつらを」

禮「なに何がどうしたと」

長「待ちねえ〳〵騒々しいじゃねえか、今日はお蘭さんがおいでなすったを独りで寝かして、斯うやって大夫が各々おの〳〵と一所にうまい酒を呑もうと云うのに何の事だ、周玄さんお前なんざア是迄さんざ新造を瞞着して来たのだから、いゝや、斯うよう、周玄さんが□□□□ても、禮三さんが□□□□ても議論の種だから中をって此の長治が今夜□□□□よう」

圖「何だ、千島は鯉口を切って周玄を斬る積りか、よい〳〵此の婦人は己が貰った」

 とかたわらにある刀の小柄を抜く手も見せず打った手裏剣は、の女の乳の上へプツリと立ちましたから、女はひーと身を震わして倒れる。この有様を見ると、お蘭は「あゝなさけない」と机を下りにかゝると、踏み外ずすとたんに脾腹ひばらを打ちまして、お蘭は気絶致しましたが、是から何うなりますか、次のくだりに申し上げます。


十五


 引続きまして、粥河圖書の女房お蘭の身の上は、かねて申し上げます通り西洋の話でございまして、アレキサンドルという侠客おとこだてがコウランという貞節なる婦人を助けるという、アレキサンドルにせました人が相州東浦賀新井町の石井山三郎という廻船問屋で、名主役を勤めました人で、此の人は旗下はたもと落胤らくいんということを浦賀で聞きましたが、其の頃は浦賀に御番所がございまして、浦賀奉行を立ておかれました。一体浦賀は漁猟場所で御承知の通り海浜の土地でありますが、町屋も多く、女郎屋じょうろやなどもございまして誠に盛んな所で、それにつれては種々いろ〳〵公事訴訟等もありまして、御奉行様も中々お骨の折れる事でございます。又御奉行に仰付けられます時は、お上から寒かろうと黒縮緬にあおいの御紋付の羽織を拝領いたしますもので、此のお話のずっと前方まえかた一色宮内いっしきくないと申す二千五百石のお旗下が奉行を仰付けられて参って居るうち、石井の家の娘すみという者が小間使の奉公に往っておりました。するとこれにお手が付きまして、すみが懐姙致しました。海とか山とか話の解る迄すみを下げまして、十分に手当を致し其ののちとうとう縁切えんきりとの事になりましたが、あた十月とつきにすみの産落しましたのが山三郎、それから致して此のおすみには、これも同じく浦賀の大ヶ谷町おおがやまちで廻船問屋で名主役を勤めていた吉崎宗右衞門の弟惣之助そうのすけが養子に来て、おすみの腹に次に出来ましたのが女の子で、これをお藤と申しました。山三郎は十一二の頃物心を知ってから己は二千五百石の一色宮内のたね、世が世なれば鎗一筋の立派な武士、運悪くして町家ちょうか生立おいたったが生涯町家の家は継がん、此の家は父親てゝおやの違う妹のお藤に譲って、己は後見になって、弱きを助け強きをくじき、不当者のある時は仲へ入って弱い者を助けて遣りいとの志を立てまして、幼い時から剣術を習いましたが、お武家の胤だけに素性が宜しく忽ちに免許を取りました。剣術は真影流の名人、力は十八人力あったと申します。嘘か真実まことかは解りませんが、此の事はわたくしの土地へ参ったとき承りました。明和四年に山三郎は年三十歳でございまして、品格のい立派な男で、旦那様〳〵と人が重んじまするのは、憫然かわいそうなものがあると惜気もなく金でも米でも恵みまするので、それにその頃は浦賀に陣屋がありまして、組屋敷の役人が威張りまして町人百姓などをとらえて只今申す圧制とか何とか云うので、少し気に入らんことがあると無闇に横面よこつらを張飛ばしたり、やゝもすれば柄に手を掛けてビンタ打切うちきるなどというがある、其の時山三郎は仲へ入って武士さむらいなだめ、それでも聞かんと直々じき〳〵奉行に面談致すなどというので、上の者も恐れて山三郎には自然頭を下げる様になり、又弱い者は山三郎を見まして旦那様〳〵と遠くから腰をかゞめて尊敬いたします。殊に落語家はなしかなどを極く可愛がりました人だそうで、丁度四月十一日のこと、山三郎は釣が好きでございますから徳田屋という船宿へ一ぱい言付けて置いて、遊んで居るなら一所にけと幇間たいこもち馬作うまさくを連れて鴨居沖へ釣に出ました。一体此辺こゝらは四月時分には随分大きなものもかゝります。

山「いつもお前は船はきれえだというが、どうだい釣は、こわえ事はあるめえ」

馬「恐れ入りましたな、わたくしはね一体船は嫌いですがね、こうどうも畳を敷いたような平らな海に出たのア初めてゞ、旦那わたくしゃア急に船が好きになりましたぜ、何うして馬作のうちから見ると余程よっぽど平らで、わたくしうちなんざアね此方こっちむと彼方あっちが上り、彼方あっちを蹈むと此方こっちが上りね、どうして海の方が余程よっぽど平らさ、あゝい心持ちだ、どうもい景色だ、もし向うに見える大山おおやま見たよなニューッと此方こっちへ出て居るのは何ですな」

山「あれは上総かずさの天神山で」

馬「へゝえれが、近く見えますねえ、旦那に此の間伺いましたがれがたしか鋸山のこぎりやまですね、成程鋸見たようで」

山「師匠どうだ釣は」

馬「わたしは釣はどうもいけません」

山「なぜ」

馬「釣はどうも、およわたくしの釣れたためしが無いというんだからいけません、私達わたくしたちのアただぽん〳〵放り込んでうきの動くのを見て居るだけですから面白くも何とも有りません、折節ね旦那のお供でね沖釣などに出来でかける事もありますがね、馬作は竿も餌も魚任むこうまかせにして只御酒ごしゅを頂くばかりいえも何うせいけません」

山「そんな事をいわずに釣って見な、此辺こゝらの魚はまた違うから」

馬「それに蚯蚓みゝずなどをいじるのが何うも厭で」

山「なに海の釣は餌が違うよ、えびで鯛を釣るという事があるが其の通り海の餌はいきた魚よ、此の小鰺こあじを切って餌にするのだ」

馬「へゝえ鰺の餌で、それで何が釣れますか」

山「鰺で鰺が釣れるよ」

馬「へゝえ魚は不人情なもんで、共食ともぐいですね、へえ、鰺で鰺が釣れますか」

山「何でもさ、目張めばるでもさばでも、鯖なぞは造作もなく釣れるよ」

馬「へえ鯖なぞが釣れますか、わたくしなんざア鯖ア読んだ事は毎度ありますけれど」

山「まアそんな事はいにして其の糸へ此の餌を刺して放り込んで見ねえ」


十六


馬「へゝえ此の糸を斯うやるのですか、是はどうも余程よっぽど深いな、何うも何処まで深いか知れませんぜ、旦那貴方ア両方の手に糸を持って、やはゝゝゝ両方に大きな魚を、それは何で」

山「こりゃア鯖さ」

長「恐入りましたな、わたくしア只糸を斯うやってればいので、何うもわたくしのア魚の方で馬鹿にして居りますからねえちっとも来ません、旦那の方にゃア矢張やっぱり魚も面白いと見えて貴方の方へばかりきますぜ、何でも馬作の方へは魚が𢌞状を廻して彼奴あいつの所へはくななぞって話合はなしあいをつけて来ないとみえます……やはゝゝゝゝ釣れた〳〵旦那釣れましたぜ、これは不思議釣れましたからどうも妙で、是は大事にして置きたい、生れて始めて釣ったというので跡で料理りょうって、有難い、どうも面白い、どうも海は広いから魚の数があって馬鹿な魚もあって馬作の針に引掛ひっかゝるやつが有るから妙だな、どうも数が多いからおとゝゝゝそれは何で」

山「これは目張めばるだ」

馬「有難い、めばる、どうも旨い魚で、何だって旦那有難い、もし旦那わたくしア急に釣が好きになりました、や、はゝゝゝ又釣れた〳〵、旦那又釣れましたぜ」

山「これさ師匠のように騒いじゃアいけねえ、これさ、びしゃ〳〵はねるから活船いけふねへ早く放り込んで置きねえ」

馬「有難い、こりゃア旦那何うぞ大事にして、あはゝゝゝ旦那まア両方の手に釣りあげて、あれまたれました、これは不思議、容易わけなしに釣れるので、あゝ〳〵〳〵」

山「どうした」

馬「魚が其処まで来て彼方あっちへ又ずうっと行きました」

山「釣り落したか」

馬「へえ釣り落しました、あゝ又来た、あれは来たがわたくしの顔を見て左様ならって」

山「なに、左様ならと云うものか」

 と山三郎も馬作も面白いから日のくれるのも知らずに釣って居りますと、今朝からあんまり晴過ぎて日並ひなみすぎたせいか、ぴらりっと南の方に小さな雲が出ました。すると見る間に忽ち広がってぽつーりぽつりと雨が顔に当って来ました。

山「あゝ悪いな、師匠早く釣を揚げて仕舞いねえ」

馬「旦那何だって其様そんなに急ぐんで」

山「急ぐって急がねえって、あゝ悪い時に連れて来たな、あんまり日並がすぎたから怪しいとは思ったが、何うも天気を見損みそくなった、仕方がねえ、気を大丈夫に持って呉れ、師匠颶風はやてだよ」

馬「はやて、えーそれは大変、旦那どうか早く上げてお呉んなさい」

山「馬鹿アいいねえ、此所は海の真中まんなかだ、何うして上る事が出来るものか」

馬「でもお願いだから上げて下さい、わたくしは困りますから、それだからわたくしは釣は嫌いだと云うのに貴方が大丈夫だ〳〵と仰しゃるから来たので」

山「憫然かわいそうに、己も颶風はやてと知って居れば来やアしない、騒いではいかんよ、二里も沖へ出て居るから足掻あがいてもいかんよ、騒いでも仕方がない、まア気をしっかり船につかまって居な」

 と山三郎はすぐに裾を端折はしょって、腕まくりをして、力があるから浦賀の方へ行こうとすると、雲足の早いこと、見る間に空一杯に広がりまして忽ち波足が高くなって来ると思うと、ざアー〳〵どうと雨は車軸を流すように降り出し、風は烈しく吹掛ふっかけてどう〳〵〳〵と浪を打ち揚げます。山三郎の乗って居るのは小鰺送こあじおくりと云う小さな船だからたまりません、船は打揚げ打下うちおろされまして、揚る時には二三間ずつも空中へ飛揚るようで、又おりる時には今にも奈落の底へ墜入おちいりますかと思う程の有様で、実に山三郎もとてももういかんと心得ましたから、只船舷ふなべりつかまって、船の沈んではならんとあか掻出かいだすのみで、実にう身体も疲れ果てゝ仕舞いましたが、馬作が転がり出すといかんから、笘枕とまくらの所へ帯を取ってくる〳〵と縛り附けて自分も共に笘枕の柱に掴って、唯船の流れ着くのを待ちますばかり。馬作は尾籠びろうなお話だがげろ〳〵吐きまして、腹はしまいには何もないので、物も出ませんで、皺枯しゃがれっ声になりまして南無金比羅大権現、南無水天宮、南無不動様と三つを掛合にして三つの内どっちか一つはくだろうと思って無闇に神をいのって居ります。山三郎も身体は疲れてもうどうも致す事は出来ませんで、只船がずしーんがら〳〵どしーんと打揚げられ打落されて居るが、実にあやういことでありまして、其のうちに幾百里吹流されましたか、山三郎にもとんと分りません、やや暫くたって一つの大浪にどゝどゝどーんと打揚げられまして、じゝゝゝじーと波の中へ船の舳先へさきを突込みまして動かなくなりました。山三郎ははて船が流れ着いたなと、やっと起上ってよく〳〵見ますと、松の根方の草のはえて居る砂原へ船は打上げられました。


十七


山「師匠、おい馬作、しっかりしねえよ、気をたしかに持ちなよ」

馬「へえ、あゝ旦那貴方助かって居ますか」

山「うん、船は着いたがういゝと思うと落胆がっかりして死ぬものだから、何処の島へ着いても気をしっかり持っていねえよ」

馬「へえ、しっかり持ちたくも此の塩梅あんばいでは持てそうもございません、旦那忘れても釣はおしなさいよ、生涯孫子まごこの代まで釣ばかりはさせるものじゃアありません、驚きましたねえ、あゝ〳〵、此処は何処でしょう」

山「何処だかどうも分らん、いずれ何処かの島へ着いたのだろう」

馬「うちも何もなければ昔から話に聞いた無人島とか云って人間が居なくって、恐ろしいそれ虎だの獅子や何かが出て来て人間を頭からもり〳〵喰って仕舞うてえのじゃ有りませんか」

山「そんな話も聞いたが、そうかも知れねえ」

馬「これはどうも情ない、日本へ帰れそうもない、だからわたくしゃア釣は嫌いだというに、無理に来い〳〵と仰しゃって、何うかして日本へ帰れるようにして下さい」

山「今更そんな愚痴をいっても仕方がねえ、一体まア此の土地が何処の国だか分らんから、だがたんと流されやアしめえと思うが、上総房州の内なればいが事によったら伊豆の島あたりかも知れねえ、まだ〳〵それなればうめえが」

馬「旨くも何ともありません、流されたのも長い間で、実にわたくしはどうも何ともともいい様のない、生体しょうたいも何もございません、残らず食ったものは吐いたからう腹の中はからっぽうでひょろ抜けがして」

山「まア此処へあがんなよ」

馬「上れません、動けません」

山「ちげえねえ、縛ってあるから」

 と山三郎は馬作を縛り附けた帯を解きまして、

山「さア立ちねえ」

馬「足もなにもきゝません」

山「しっかりしねえ、う波も風もありやアしねえ」

 と山三郎はひらりっと陸地おかあがったが、此の土地は何国どこかは知らずし人家もなくば、少し浪がしずかになったから帰ろうという時に船がなければならんから、命の綱は此の船だ、大切だいじと心付いたから、疲れて居るが十八人力もある山三郎、力に任して船のみよしを取りまして、ずる〳〵と砂原の処へ引揚げて、松の根形ねがたへすっぱりと繋綱もやいを取りまして、

山「さア是じゃアい、師匠い」

馬「何時まで船に居ても仕様がございませんねえ」

山「なに師匠もう陸地おかへ揚っていらアな」

馬「だが、どうだかわたくしゃア矢張やっぱり船に居るような心持で、ふら〳〵して、此処がもし外国だと、貴方と両人ふたり私共わたくしどもは日本人で助けてと云ってもむこうにゃア知れますまいねえ、こんな事と知ったら通弁の一人も雇って来ればかったっけが、貴方お金がありますか」

山「金は釣に来たのだから沢山たんとは持って来ない」

馬「それでも幾干いくらばかりあります」

山「掛守かけまもりの中に十両ぐらいあるよ」

馬「えらいねえ何うも、わたくしは西浦賀の大崎の旦那に貰った御祝儀を、後生大事に紙入へ入れて置きましたが、船からみんな転がり出てほんに仕様がねえ、しかんな国でも王様がございましょうねえ」

山「そりゃア有るだろうさ」

馬「有難い、王様がありゃア其の王様に頼んで日本へ帰れる様にして貰えましょうねえ、それに食物くいものも何も喰いませんから腹の減った事を打明けて頼んでねえ、どうも斯う腹が減っては狼が来ても逃げる事が出来ませんから、ず其の前に握飯むすびでも何でも喰いたいあゝ喰いたい」

山「これさ、まア待ちなよ、まア何しろ人家のある所へ出よう」

 と山三郎は無理に馬作の手を引いてだん〳〵くと、山手へ出ましたが、道もなく、松柏しょうはく生繁おいしげり、掩冠おいかぶさったる熊笹を蹈分ふみわけて参りますと、元より素足の儘ですから熊笹の根に足を引掛けて爪を引っぱがし、向脛むこうずねをもり〳〵摺破すりこわし血だらけになりながら七八町も登りますと、くらくって分りませんが山の上は平らで、に掴まってく見ると、こんもりとした森があるから、森を見当みあてに彼是れ二十町ばかりもき、又斜崖なだれくだると、森の林の内にちら〳〵灯火あかりが見える。

山「師匠うちがあると見えて灯火あかりが見えるよ」

馬「うちでせえありゃア化物屋敷でもなんでもい、有難い、何かべられましょうか、腹が減って居るから何でもい早く喰いたい」

 と云いながら参ると、こう小さな流れがありまして、丸木橋が掛っている、これを漸くに渡ると卵塔場らんとうばがあって、もと此処にはうちでもありましたか只石礎いしずえばかり残ってあるが、其のうしろは森で、卵塔場について参ると喜連格子きつれごうしの庵室ようのものがありまして、今の灯火あかりは此の庵室の内からさすのでありました。


十八


山「師匠これは古寺だぜ」

馬「いやはやどうも心細うございますな、折角尋ねて来れば古寺とは情ない、何だかわたくしは死んだような気になりました」

山「待ちなよ、此処に土台石のある処を見れば、元なんでもうちがあって、こわされて引いたのだろう…御庵主様ごあんしゅさま御庵主々々」

馬「何が御安心です、少しも安心しないじゃア有りませんか」

山「庵主をうのだよ…、手前どもは相州東浦賀の者でございますが、今日こんにち漂流致しまして、漸々よう〳〵此所迄こゝまで参ったので、決して胡散うさんな者ではないから一泊願いとうございますが、えーもしお留守でございますか、おい〳〵師匠少しもこたえがねえから誰も居ねえのだろう」

馬「心細うございますねえ、誰もいない処へ来て、あがるとにゅーと何か出でもすると驚きますねえ」

山「御免」

 と云いながら喜連格子きつれごうしへ手をかけて左右へ明けて見ると、正面に本尊が飾ってある。銅灯籠あかゞねどうろうがあって、雪洞様ぼんぼりようの物に灯火あかりいてあるけれども、誠に暗くって分らん。

山「師匠まア板畳の処まで上んなよ」

馬「へえ上りましょう、船でざぶ〳〵やられるよりやアお寺でも家根があって、まゝまアい心持の様だ」

 と持仏じぶつに向いまして、

馬「暗くって分りませんが、如来様か観音様かどなた様かは存じませんが、手前は日本にっぽん大坂町おおさかちょうの者で烏亭うてい馬作と申す者で、釣に出まして此の国へ流された者で、御利益ごりやくを持ちまして日本にっぽんへお帰しを願います…おや旦那彼処あすこ高坏たかつきのような物の上に今坂だか何だか乗って居ります、なんでも宜しいお供物くもつを頂かして」

山「よしなよ、おもりものだよ」

馬「おもり物でもなんでも少しの間願います、返せば宜うございましょう、今お供物を頂きます、其の替り日本にほんへ帰れば一つをとおにしてお返し申しますから、頂戴」

山「よしなよ」

馬「おもり物をとっては済みませんが、日本にほんだか西洋だか食物くいものの味で支那か印度かゞ分るような訳で」

 とむしゃ〳〵喰いまして、「腹が減るとうまい物で、旦那これは日本にっぽんに違いない、日本にっぽんらしい味がする」

山「よしなよ、取る物じゃアない」

 と馬作をさとして居りますと、其の内に足音がしますから、山三郎は格子のすきから見ると、先へ麻衣あさごろもを着た坊主が一人に、紺看板に真鍮巻の木刀を差した仲間体ちゅうげんていの男が、四尺四方もある大きな早桶はやおけかついで、跡から龕灯がんどうを照しました武士さむらいが一人附きまして、頭巾面深まぶかにして眼ばかり出して、様子は分りませんがごた〳〵這入って来ました。山三郎は飛んだ事をしたと思って、

山「師匠此処へ下りな、いけねえことをしたな、何所どこかの葬式とむらいがあっておもり物を整然ちゃんと備えてあったに、おめえが喰って仕舞って咎められては申訳がえ」

馬「葬式とむらいが来たら旦那強飯こわめしか饅頭だろう、なんぞお手伝をしましょうか」

山「意地のきたない事を云いなさんな、彼方あっちへ行っていよう」

 と二人は片隅の所へ隠れていると、どか〳〵上って来て武士さむらいは被った頭巾を取り龕灯提灯をかざして、

武士「大きに御苦労〳〵」

 何か和尚と囁きながら烟草たばこを出してぱくり〳〵と呑んでいますのを、山三郎が片蔭に隠れていて目を付けると、何所でか見た様な武士さむらいだと思い出すと、三年あとの十月十二日の夜川崎の本藤の二階で、此の武士さむらいが百姓をおどして…殊におのれの金入を盗んだ武士さむらいで…の儘助けて返したが、彼奴あいつは此処等にうろ〳〵しているか、何処の者か知れんが甚だ妙だ、とくと様子を見ようと、尚お姿を隠しておりますと、又仲間共とこそ〳〵囁きまして、ぽんと畳を二畳揚げて、根太板ねだいたがして仲間体の者が飛下りて、石蓋を払って其の中への大いなる棺桶をずっと入れて、元の様に石蓋をまだらに置いて、根太を並べて畳を敷いて、さアこれでいと坊主もお経を上げずに、四人もずうっと出かけました。


十九


 山三郎は暫く考えていましたが、

山「師匠」

馬「へい、なんですか」

山「お前がしゃべるかと思って心配したが、い塩梅だった」

馬「だが、旦那坊主も付いていたが経も上げず、ひどい貧乏な葬式とむらいで、んな裏店うらだなでも小さい袋に煎餅ぐらいはあるに、何か食物たべものがあろうと思ったにひどい事で」

山「怪しいな」

馬「ヘエなんです」

山「いぶかしいな」

馬「二分かして呉れ」

山「何でも此奴こいつはあやしい、これから葬式とむらいのあとを見えがくれに追ってくから、お前喋っちゃアいかんよ、喋ると向うへ知れるから黙っていな」

馬「へい、だが旦那黙って歩くぐらい草臥くたびれるものは有りません」

 と段々遠見に追って参りますと、五六町もくと山道で、これから七八町のなだれで、海辺かいへんへ接しまして、風も大きになぎました様子、しかし海岸だからどう〳〵ざば〳〵と浪を打つ音絶えず、片方かた〳〵は山手になって右と左に切れる道があって、こゝに石が建てゝある。

山「おい待ちな、此処に道知るべが書いてある」

馬「何が書いてありますか」

山「此処に何処の何村と書いてゞもあれば、いず国尽くにづくしにある国だろうから何とか分ろう、心配をしなさんな」

馬「日本にっぽんは広いけれども鹿児島熊本ならまだしも、支那朝鮮などと来ては困りますねえ」

山「黙っていなよ、多分日本にほんの内だから大丈夫だ、えー南走清水観音みなみはしみずかんのん西北大津道横須賀道せいほくおおつみちよこすかみちと、なんだ何処の国かと思った」

馬「鹿児島ですか」

山「どうも師匠篦棒べらぼうだな」

馬「篦棒と云われちゃ心持が悪いねえ」

山「風の吹𢌞しで元の処へ帰って来たのだ、始めは鴨居から西北とりで一里半も沖へ出たろう、あの通り烈しい風であったが風が東南風いなさに変って元の所へ来たのだ、鴨居よりはと寄っているが、師匠此所こゝ真堀村まほりむらちげえねえ、左様そうして見れば彼所あすこ焼失やけうせた真堀の定蓮寺じょうれんじちげえねえ、あゝ有難ありがてえ」

馬「何所どこの国で」

山「ひとつ国さ、此のヤンツウ坂を越せばすぐ己のうちまで六町しかないとこだ、おいなにを泣くのだ」

馬「嬉し涙が出ました、わたくしは百里も先かと心配したがい塩梅で、うちまで六町の所まで来ていて気をもんだ馬鹿気さてえなございませんねえ、有難うございます、ありがてえ、大津の銚子屋はきだ、一町ばかりきゃアねえから銚子屋へ行っておまんまをたべましょう」

山「めしのことばかり云っているなア」

 と段々跡を慕ってくと彼等は竹ヶ崎の南山へ這入るから付いてくと、柱が二本建っている外門そともんの処へ四人とも這入りました。

山「師匠々々、此処へ這入ったが、こんな立派なうちから出る葬式とむらい差担さしにないとはへんだなア」

馬「へんは宜うございますから銚子屋へきましょう」

山「今くよ」

 ともとの道へ帰ろうとする山のきわの、信行寺しんぎょうじと云う寺から出て来る百姓ていの男が、すきくわを持って泥だらけの手で、一人は草鞋一人は素足でさきへ立って、「誠に貴方あなたどうも思掛おもいがけねえ所でお目にかゝりました、貴方あんたは石井の旦那様、東浦賀の新井町の旦那様で、とんだ所で誠に、三年跡に川崎の本藤で侍に切られる所を助けて頂きましたわしは高沢町の米藏で…これはどうも誠に思いがけなくお目にかゝって」

山「そののちは私の所へ来られて種々しゅ〴〵頂戴もので…私も会所へばかり出ていてお目にかゝらんが何時いつも御無事で」

米「こう遣ってはア命を助かりまして達者で居りますも旦那様のお蔭で、一日でも旦那様のお噂ばかりして…鹿はちおい、の時お目にかゝった旦那様」

鹿「どうもの時は有難うございました」

山「まア〳〵大層早くから稼ぐの、農業か」

米「なアに葬式とむらいがありましてねえ、何う云う訳か此の山へ立派なうちが建ちましたが、何だか元お大名の御家老様でえらい高をとった人だそうで、それが田地でんじ山林やまを買って何不足はねえが、欠けと云うのは奥様がおッんだそうで、急だから内葬ないそうにしようと云うので、うちを建ったばかりで葬式とむらいを出したくねえてえ、早く穴を掘れって云付いいつかったで急に寺へ手伝いに参りますので、鹿の八と二人で今穴を漸く明けたので、是から葬式とむらいがあるので」

山「彼処あすこの山の上の柱が二本ある枳殻きこくうわってあるれか」

米「はい」

山「馬作お前は此の人を知っているか」

馬「いゝえ」

山「そら三年あと池上のお籠りの日で、の人だ」

馬「おゝこれは妙だ、誠に暫くどうも、お前さんも此の近処で」

米「の時よく冗談口をきいて…誠に久し振りで…お前さんも此の近所で」

馬「旦那お願いで…飯が食いいからおつけでもいから早く行って食べたい」

山「騒々しいよ」

米「どうぞまア此方こちらへ」

山「ありがとうございます」


二十


 井桁屋米藏のいえかどへ来ると、ぷッ〳〵と饅頭屋で煙が出て居ります。

米「おなおやお目にかゝったよ、ソラいつぞやわしを助けて下すった旦那様にお目にかゝったよ」

直「おやまア馬作さん暫く」

山「師匠あれは何だ」

馬「あれは西の江戸屋に勤めをしていたお直というので、祭の時分から知って居ります」

馬「直ちゃん、どうも誠に暫く」

直「馬作さん本当に暫く、何うも内の人はねお前さん旦那に助かって、お礼に上っても半間な時分くもんですからお目にも懸りませんでねえ、どうも」

馬「直ちゃんのうちとは知らなんだ、饅頭屋の女房かみさんになっているとは、人間は了簡の付けようですねえ」

直「馬作さん、お前さんも知っておいでのあの粥河圖書と云う人が、田地や山を買って鎌倉道へ別荘とかを拵える話をお聞きかえ、それに奥様が死んだてえが其の奥様てえな、それ三年あと堤方村つゝみかたむら葭簀張よしずっぱりに茶の給仕していた岩瀬と云う元は立派な侍の娘が、粥河様と一緒になったと云う事だが、その奥様が死んだと云うと、あのおらんさんと云うが死んだのだねえ」

馬「成程可哀そうな事をしましたねえ、二十歳はたちぐらいでしょうかもうちっと出ましたか、のくれえな別嬪は沢山たんとはありませんよ、れが死ぬような事じゃア馬作なんどは船で死んだってもいのですが、惜しいことをしましたねえ」

山「おい〳〵お前は是から其の穴を掘った処へ棺をうめる手伝いをするのか」

米「へいわしうずめるので」

山「湯灌ゆかんは誰がするのか知らねえが、おめえの働きで仏の顔を見られようか」

米「湯灌は大体たいてい家柄のうちではうちでするが、殊によるとお香剃こうぞりの時ふたを取ると剃刀かみそりを当てる時何うかすると顔を見ます事がござります」

山「有難い、それじゃア己に鹿の八の扮装なりを貸して呉れないか、穴掘に成ってお香剃の時仏様の顔を見度みたいのだが、馬鹿気ては居るが、友達の積りで連れて行っては呉れまいか」

鹿「勿体ねえ訳で、旦那様が穴掘になって」

馬「およしなさいな、貴方はあのに未練があるので…旦那は一度半治さんを掛合にお遣んなすったら縁付いたと聞いて、諦めても矢張やっぱり惚れて居るので……貴方が穴掘の形は團十郎が狸の角兵衞をするようで、あんまり旨くは出来ませんぜ」

山「黙っていねえ、お前はまアうちへ帰りなよ」

馬「だって腹が減ってどうも」

山「飯はべてよ…お母様っかさんには釣に出て颶風はやてをくったなどと云うとおっかさんが案じるから云うなよ、西浦賀の江戸屋で御馳走になって泊っているが、明日あしたは早く帰ります、他に用がある積りでお前先へ帰んな、帰ってもお母さんに詰らんことを云いなさんな」

馬「宜しゅうございます、それじゃアお先へ帰ります」

 これから着物を借りて山三郎は穴掘の扮装なりになりまして、手拭はスットコ被りにして、井桁屋と二人でうめるときの手伝となって行って様子を見ていると、向うも急ぐとみえて、の明けんうちと云うので、漸く人は五人ばかり付いて来て、仰願寺様こうがんじような蝋燭をけて和尚は一人でお経をあげて、棺桶を取って葢をけ和尚が髪をすりかけて居るを、山三郎は米藏のうしろからそうっと葢を押えながら差覗さしのぞくと、少々がしらんで明るくなりましたから、見ると仏は十七八の娘で、合掌は組んで居るが、変死と見えて上歯うわばで下唇を噛みまして、上眼うわめをつかってあおのけになって居るから、はてなこれは変死だなとく見ると、自分の縁類なる東浦賀の大ヶ谷町おおがやまちの吉崎宗右衞門と云う名主役の娘おみわで、浦賀で評判の美人だから、はてな奥様が死んだと云って吉崎の娘を葬るは、はて訳の分らん事だが是は怪しいと思いまして、山三郎は米藏よりは先きへ逃げ出して来まして、お直の処へ来て着物を着換え、是から急いで真堀の定蓮寺へ参りましたが、はシラ〳〵明けまして、定蓮寺のの本堂へ来まして、喜連格子きつれごうしを明けて這入りまして、和尚に見咎められてはならんから、彼方此方あちこち抜足ぬきあしをして様子を見ると、人も居らん様子で、是から上って畳二畳を明けて根太板ねだいたを払って、っと抜足をして蓋を取って内を覗くと、穴の下は薄暗く、ちら〳〵灯火あかりが差しますから山三郎はいぶかしく思い、棺の中からあかりのさす道理はなし、何んでも怪しいと考え、棺桶のふたを力にまかせて取りますと、此の棺の中に何物がおりますか、次席に申し上ます。


二十一


 新井町の山三郎は真堀の定蓮寺の本堂の床下にうずめてある棺桶の蓋を取ると、この中に灯火あかりが点いておりまして、手燭てしょくに蝋燭が点いて、ぼうっと燃えております。中に居ります婦人は年が二十一二で、色白の品のい世にも稀なる美人でございます。扮装なりは黒縮緬に変り裏の附きましたのに帯はございませんで、薄紅色ときいろのしごきを幾重にも巻附けまして、丸髷は根が抜けてがっくりと横になって、びんの髪も乱れて櫛簪揷かんざしも抜けて居てありませんで、何う云う訳か女の前に文売ふみがらのような物があって、山三郎が覗くとくだんの女は驚きまして山三郎の顔を見るとすぐそばにありました合口あいくちを取って今咽喉笛のどぶえを突きに掛りますから、山三郎は驚き飛掛ってもぎ取ると、見られてはならんと思いまして前の文売ふみがらを取り、急いで懐中ふところへ入れて隠しまする様子故、まア此方こちらへおでなさいと云うのでの女を本堂の上へ抱上げまして、の手燭に点いております蝋燭の灯火あかりを女の前へ置きまして、婦人が顔を上げまするを山三郎が見ますると、三年あと池上のおこもりの日堤方村の茶見世に出て居りました岩瀬主水の娘のお蘭で、見覚えがあるから、

山「まア思い掛けない事で、お前さんは三年あとに池上の田甫たんぼへ出口の石橋の処の茶見世に出ておいでのお蘭さんとか云う娘さんだねえ」

蘭「はい」

山「何う云う訳でお前まア此様こんな棺桶へ入れられてうめられたのか知らんけれども死んだ人なれば穴を掘って墓場へ埋めなければならんが、本堂の石室せきしつの中へ入れて、殊に棺桶の中に灯火あかりの点いて居るのが誠に私には何うも実に怪しく思わるゝが、一体何う云う訳でお前さんにゃ合口を持って死のうとするのか、是には何か深い訳のある事だろうが、何卒どうぞ私に聴かして下さい、早まった事をしてはなりません、何うぞ訳を聞かして下さい」

蘭「はい、誠に御親切に有難うございます、わたくしきておりましては夫に済みませんことで、みさおが立ちません、どうぞお見遁みのがし遊ばして、この儘死なして下さるのがかえっておなさけでござります、思いがけなく貴方様にお目に懸り、面目次第もないことで、深くお聴き遊ばすとわたくしは辛うございますから、此の儘どうぞお殺し遊ばして、何卒どうぞ合口をお返し下さい」

 と云いかけまして、わアーっと其処そこへ泣倒れますから、

山「まア〳〵死ぬのは何時いつでも死なれるから、わたしも斯うやってお前を助けるからはいざおしになさいと刄物を渡す訳には人情として出来ん、何うでも死なんければならん死なんければ操が立たんと云う訳ならって止める訳にもいかんが、わたしが一通り聴いて成程と思えば決して止めはしません、何しろ此処で話をして居ると死人を掘返したとでも云われては飛んだ罪をせられ、人の眼に懸ると面倒だからわしが連れてく処へ厭でも往って下さい、何卒どうぞわしの云うことを聞いて下さいよ」

 とこれから元の如く棺桶の蓋をして、石室も元のようにして蝋燭のあかりを消して其処等そこいらをも片付けて、厭がるお蘭の手をとって、連れ立ち、鴨居の横を西に切れて東浦賀へ出まして、徳田屋と申す舟宿がありまして、これは旧来馴染の一番舟のでるいえでござりますが、其処そこへ参ると、

舟宿「これは旦那お早く何方どちらへ、昨日つりにおいでなすったてえ」

山「あい、釣に往ったが訳があって脇へ廻ったのだが、大急ぎで舟を一ぱい仕立て、天神山までって呉んな」

舟宿「へいぐに、貴方が一人で」

山「急の用で一人連れがある…もし其処そこに立って居ては人の目に懸るから此方こっちへ這入って」

蘭「はい、御免なさい」

 と眼も何も泣きはらして、無類むるいの別嬪がしごきの扮装なりうちへ這入りました。


二十二


 平常ふだん堅い山三郎が、別嬪を引張ひっぱって来たから、徳田屋の亭主は早呑込みに思い違えて、

亭主「旦那久しいお馴染様じゃアございませんか、何も天神山迄入らっしゃらないでも、おっかさんに知れて悪くば知れないように何うでも出来ます、奥の六畳は狭いけれども、へだって宜うございます、彼所あすこなれば知れませんから、お泊りなすっても宜うございます」

山「そう云う訳じゃアない、少し仔細があって此処にゃアいられないから、舟を早く仕立って、親方達者そうなのを遣って呉んな」

亭「へいかしこまりました、貴方此方こちらへお這入りなさい、そうして旦那、あの御婦人は御番所の前は手形が入りますぜ」

山「手形はない」

亭「じゃア斯うしましょう、知れないように頭巾でもぶらせ、扮装なりを変え、浜町の灯台のところへあの御婦人は待たして置いて、貴方はお一人で御番所を通って、それから岩の処で御婦人をお連れになったら宜うございましょう」

山「其様そんなことをしてはいられない、罪は己が負うからい、人の命に係わる事だから、急いで、布団を三つも入れて板子の下へ隠してけばい、食物たべものは何も入らん、彼方あっちへ行って食うから、早くしろ」

亭「かしこまりました」

 と山三郎の云うことだから大丈夫だと、亭主も急がせまして、前艫まえろが二人、脇艫が二人、船頭一人都合五人飛乗りまして、板子の下に四布布団よのぶとんを敷いておらんを入れ、

山「窮屈でも少しの間の我慢で…おかへ着けば何でも有りますから…おい早くしな」

 と是から舟を漕出しまして番所の前へ出ますと、其の頃番所の見張は正しいが、会所へ日々出まして役人衆とは心易いから山三郎は一人出まして、

山「山三郎私用あって上総かずさの天神山まで参ります」

 と云うと板子の下に別嬪がおります事は存じませんから、役人衆も宜しいと許します。それからこうくと丁度朔風ならいと申して四月時分も北風が吹く事がありまして、舟は益々早く、忽ち只今なれば四時間ばかりで天神山の松屋と云う馴染の所へ参りました。

松「これは旦那、さア此方こちらへ」

 山三郎は離れた所がいと云うので奥の離れ座敷の二階へ連れて参りましたが、お蘭は心配のせいかきや〳〵しゃくが起って来る様子、薬を取寄せなまじい医者をんで顔を見られてはならんと、眼の悪い針医を呼んで種々しゅ〴〵介抱致して、徐々そろ〳〵お蘭に聞いたが、何うあっても訳を申しません、操が立ちませんからどうぞ私を殺して自害をさして下さいと云うのみ。或る朝二番船も出まして、もう一人も客はおりませんで寂然しんとしております。

山「お蘭さん、少しは今日はお気分は宜うございますか」

蘭「はい」

山「なる程少しはおちついた御様子だ…改って云うまでもないが、お前さんを彼処あすこから連れて参って、今日は十四で丁度四になります、私は無沙汰にうちを明けたことは、いまだにございませんから、定めし母が老体ではありさぞ案じていましょう、お前さんが自害をしようと云うのをたって助け、斯うやって連れて来ても、矢張やっぱり海へ飛込むの咽喉のどを突くのと云って見れば、それを見捨てゝ帰る訳にもいきません、お前様まえさんが仔細を話して下さらんうちは私は何時いつまでもうちへは帰りません生涯でもお前さんのそばにいなければなりません、左様そうじゃアありませんか、お前さんが何時いつまでも云って下さらんと私に不孝をさせるようなもの、私はいやしい船頭を扱う𢌞船問屋の詰らん身の上だから、蓮っ葉にべら〳〵喋るだろうとお思いだろうが、私も男で、人に云って害になることは決して私は云わん、言って呉れるなとお云いなら、口が腐っても骨がくだけても云わん」


二十三


 その時山三郎は、お蘭に向って「武士に二言なしと云うが、わたしも少し武士の方に縁のある身の上で、ゆっくり話をしましょうが、お前さんも、元は本多長門守の御家来で立派な武士の嬢さんが、あの堤方村へ茶見世を出し、失礼だが僅かな商いをくまアなさる、感心な、母親おやの為にんな真似をなすった、わたしも通りかゝって見世へ休んだとき、おっかさんの看病にはびっくりした、孝心なことで、ア云う娘をとかげでお前さんを実にめていたので一層の心配をします、それを恩にせる訳でもなんでもないが、何うぞお前さんの力になって上げたいと江戸屋の半治という者を頼んで、お前さんがお独身ひとりみでおいでならおっかさんぐるみ引取って女房に貰いたいと話をしにあげた所が、もう粥河圖書と云う人へ縁組が出来たと聞きましたから、それは結構な事だ、何処でもい身柄の処へ縁付けば結構だとわしもお前様まえさんの事は陰ながら噂をしていたので、処が計らず釣に出て真堀の岸へ吹き上げられ、定蓮寺の床の下へ棺桶をうずめるのを見て、怪しいと思って跡を付けて出て往って見ると、道でまた葬式とむらいって、それを段々調べて見るとわしの縁類の吉崎のおみわと云う娘で、其の娘を奥様の積りでじゃぬまの信行寺へ葬むるというのは訳が分らず、奥様と云えばお蘭さんに違いないと、わたしは取って帰して定蓮寺へ来て見ると、棺桶の中に灯火あかりが点いてありますからいぶかしいと思ってわたしが出したので、実に訳の分らん始末、それに今お前様まえさんがどうしても操を立てなければならん圖書に済まんと云うばかりでは、何故なぜ死なゝければならんか理由わけが分らん、わしも斯うして何所どこまでもお助け申したからは訳を聞かんうちは、わたしも男だ、一生涯でもお前さんの傍にいなければなりません、わしにそれ程不孝をさせて呉れては困るじゃないか、くどくもいう通り決して口外はしないから訳を話して下さらんか、頼むから何卒どうぞお蘭さん」

 と山三郎は手を突いて頼む様にして、やさしゅう云われますから、お蘭は親切なお方と顔を上げて山三郎の顔をじいっと見詰めておりましたが、眼に一杯涙をうかめまして、

蘭「誠に三年跡にお恵みを頂き、蔭ながら貴方のお噂をしておりまして、侠気おとこぎの御気性でよもや世間へ云っては下さりますまいから、段々との御親切ゆえ申しますが、私がきていては夫に済まないと申す訳を一通りお話を致した上からは、何うでもきてはおられませんから、お聞きの上は合口をお返しなすって、ぐに此の場で自害をさして下さるならば身の上をお話し致しましょう」

山「それは困ります、しかし何う云う訳か話の様子に依って死なずともい事なら殺してせんがない、まア兎も角もお話しなさい」

蘭「はい、実はわたくしは三年跡粥河圖書方へ余儀ない縁合えんあい嫁付かたづきまして何不足ない身の上で、昨年九月あたりから、夫は鎌倉道の竹ヶ崎の南山と申す所へ田地と山を買い、其所そこへ別荘をたてると申して出ました切り手紙を一通送ってよこさず、まるで音信おとづれがございませんから、悋気ではございませんが、万一ひょっとほか増花ますはながあってわたくしあきが来て見捨てられやしないかと、心細い身の上から種々いろ〳〵心配しております所へ、小兼と申す御存知の芳町の芸者が来て、勝手を知っているから船に乗って一緒にけと、小兼に連れられて南山と申す別荘へ参りました所が、圖書は出ておりませんで、長治と申す下男ばかりで、どうして此の山の中で、酒肴さけさかなを拵えますにも大抵の事ではございませんのに、長治一人で早く出来ます訳もなし、どうもそんな事も不思議に存じまして、用場へ参ろうと思って、三尺ばかりの開戸ひらきどがありますから其処そこけますと、用場ではなく、其処は書物棚になっておりまして本箱や何かゞ数々ありましたから、粗忽をしましたとわたくしが締めようとして其処でつい足がすべりまして、書棚の書台へひじが当りますと、劇場しばいでいたす廻り舞台のようにぎゅーとひらきまして、不思議のことゝあとへ下りますと書棚の下に階梯はしご降口おりくちがありまして、あゝこんな所に階梯の降口はない筈だが、事に依ったら此処から他の座敷へ抜ける道でも附いてって、其所そこに婦人でも隠してありはしないかと、まア悋気ではございませんがわたくしは案じられますから、その階梯を降りまして漸々よう〳〵手さぐりで参りますと、暫くの間廊下のようになって、先に広い斯う座敷の様な所で、廻りが杉戸のような物が二重に建って居りまして、中に人は居りますが、申すことはちっとも分りませんから、欄間から灯火あかりのさすのを見て、はてなと欄間から覗いたら少しは事も分ろうと、机を台にして欄間から覗きまして、実に驚きましたが、どうか世間へは何卒どうぞ此の事ばかりは貴方だから申しますが、お話しは御無用に願います」


二十四


山「へーえ、其の縁の下へ階梯はしごが掛って、床の下が通れるようになって、成程、で其処そこを覗くとどうなって居りました」

蘭「その床下へどうして彼様あんな広い座敷を建てましたか、二間ふたま程の大広間がございまして、夫圖書もおりますし、千島禮三と申す以前下役の者もおりまして、宅へも参りまする周玄と申す医者も傍におりまして、其の外百人余りも其所そこにおりましたが、其の者どもは皆夫の同類で、主人つれあいは其の百人余りの盗賊の頭分かしらぶんになっておりますから、それを見ましてわたくしは実に驚きました」

山「成程、浦賀辺へ此の頃は大分盗賊が徘徊して、寺や何かへも強盗おしこみに這入ると聞きましたが、き鼻の先の竹ヶ崎へ百人から盗賊が隠れていようとは、ふうんーそれから何うしました」

蘭「はい、その傍の柱の所に年の頃十六七になります器量のい娘が縛られておりました、あゝ荒々しいなさけない事をする、何処から勾引かどわかして来たか憫然かわいそうにと存じまして、其の娘を見ていると多勢おおぜい寄って其の娘を今晩は□いて□□の□かしめるのといい、しまいに仲間同志の争いになりましたが、夫が見兼て此の娘はわしが貰ったと傍に有りました刀掛の脇差の小柄を取りまして投げ附けますと、其の娘の乳の辺へさゝりました、きゃっと云いましたからびっくりして机から落ちたとまでは覚えておりましたが、其の折何処か脾腹ひばらでも打ちましたか、それから先は夢のようでとんと解りません、暫く経ってわたくしが気が附きまして眼をひらいて見ますと、四辺あたりくろうございますから、出ようと存じても出る事も立つことも出来ませんで、わたくしは死んで埋められたのではないかと手をなでて見ると、わたくしの手に火打袋が掛っております、これは圖書が野掛に出ます時常に持ちます火打袋で、中には火道具や懐中附木もありますから火道具を出して火を移しますと、傍に燭台も蝋燭もありますから、取敢えずあかりを附けて見ますると、わたくしは白木の箱に這入って居りますから、前を見ますと夫圖書がわたくしへ贈りました手紙が一通と傍に懐剣が添えてあります、はて不思議な事とぐにその手紙を開きまして、読んで見まして、実にわたくしは棺桶の中に泣倒れて居ります処へ貴方がおで遊ばしてわたくしをお救い下すって、斯ういう処までおれ遊ばして、おっかさんまでに御苦労を掛けますのもわたくし故で、何とも御親切のお礼の申し様もございませんが、何分わたくし存命ながらえておりますと、他から夫の悪事が露見してもわたくしが申したとしか思われません、左様そうなりますとわたくしはどうも、仮令たとえ悪人でも一旦連添いました圖書に操が立ちませんから何卒どうぞ自害をさして下さい、左様そうすれば女の道も立ちます事で、おなさけにどうぞ懐剣を返して下さい」

 と涙ながらに申しました。山三郎はお蘭の話を熟々つく〴〵聞いておりましたが、

山「成程妙にたくんだもので……お蘭さん其のまアお前の亭主から贈ったという手紙をお見せなさい、まあサ見なくては解らんから」

 と強いて云うゆえおらんも此の場になってはもう是非がない、

蘭「はい、皺だらけに成ってはいますが」

 と圖書より贈った手紙を出しましたから山三郎は開けて見ますと、文章は至って巧みに、亭主が女房に手を突いてあやまるように書いて有ります。

手紙の文意「我等儀主家しゅか滅亡の後八ヶ年の間同類を集め、豪家又は大寺へ強盗に押入り、数多あまたの金銀を奪い、実に悪いという悪い事はすべて我等が指揮さしずして是迄悪行をかさねしが、三年跡其許そのもとを妻女に持ってから後は其許の孝行と貞節にじて、何卒なにとぞ悪事をくと心掛けるものゝ、同類も追々に殖え何分にも足を洗う事叶わず、然るに此のたび其許に我等の悪事を見顕みあらわされ誠に慚愧の至り、さりながら同類の手前何分捨て置きがたく、是非なく真堀の定蓮寺へ気絶の儘埋葬いたすなり、されども気絶の事なれば棺桶の中にて蘇生するようなる事あるも測り難し、されど此の事が其許の口より露顕致せば大勢の難儀になる事なれば誠に非道の夫とも思わんが、何卒なにとぞ此の懐剣あいくちにて是非も無き事と諦め得心の上自害して呉れられよ、尤も我等も遠からずかみのお手にい死刑に臨む時、冥途にて其許に遇い詫言を申すべし、呉れ〴〵も因果の縁合と諦め自害をおん急ぎ下され度くそろ云々」

 と云う様なる塩梅に旨く書続けてあります。悪人でも連添う夫婦のじょうで死のうという心になるお蘭の志を考えると、山三郎はあわれさに堪えられず、暫くの間文殻ふみがらを繰返し〳〵読んで考えて居りました。


二十五


山「お蘭さん、誠にどうも御尤ごもっともで、お前さんは感心な方で、お前さんの御亭主をわたしが悪くいっては済まんが、此の文面の様子では、三年あとお前さんを女房に持ってから、志を見抜いて、其の孝行と貞節に感じて今迄の悪事を止めようと思い込んだと書いてあるが、其の位見抜いて、頼もしく思って居る可愛い女房が、悪事を見たからと云って気絶した儘うめるとはなさけない、死んだかきたか分らんなら何故薬を飲まして手当をして、気が付いての上、さて斯う云う訳だからどうかお前を助けたいが助ける訳にかんから自害して呉れと云えば、それお前さん、はいといって自害もする人だ、其の心底を圖書が知っていながらお前さんを生埋いきうめにしたので、お前さんだから蘇生いきかえった後も自害をしようとしなすったので殊にわたし此程これほどまでに様々云っても事実を明さないで、是は勿論死をきわめておいでなさるから云わないので、これが普通なみの女であったらわア〳〵騒いで屹度きっと人を呼びましょう、それでも助ける人がなければ可愛や食物くいものはなし棺の中で飢死うえじにに死んで仕舞うだけ、実にどうも非道の致し方で、お前さんはまア其の非道をも思わず、圖書を思うこゝろざし、誠に夫を思う貞節、お前さんの志に免じて何うか圖書が改心するようにして遣りたい、わしが是から浦賀へ帰って役所へ訴えれば直ぐ番所の手を以て竹ヶ崎南山へ手当になる訳だが、なれども左様そうすればお前さんの志をむなしくすると云う誠に其れも気の毒な訳だから、圖書に人知れず会って、とくと異見をして、圖書が改心の上は元通りお前さんと添わしたく思います、其れゆえわたしは是から帰って圖書に逢って、当人に熟々つく〴〵意見をしますから、圖書が改心の実証を見抜くまでお前さんは死をとゞまって、わしに命を預けて…いやさそんな事を云っては困るお前さんを殺す訳にはいかん、尤も云うまでもないが、愈々いよ〳〵改心せぬといえば仕方がない其の時はお前さんの望に任かして自害をさせましょう、ず其れまでは」

 と事を分けて諭しましたので、お蘭は唯はい〳〵と泣きながら返辞をして居りました。山三郎は又お蘭の心を想いやり頻りになだめて居りますと、うしろをがらりと開けまして、

男「御免なさい」

山「おい、其所そこ無暗むやみに開けては困ります、飛んでもえ」

男「御免なすって、もしお宅からお手紙が届きました」

山「どうしてうちの奴が知って居たか」

男「へい徳田屋の船頭がうっかり喋っておっかさんのお耳に這入ったと見えまして」

 と持って来た手紙を出すを、山三郎はいぶかしげに受取って開いて読下よみくだすと、驚きました。其の母の手紙には「お前の留守中いもとのお藤をたって貰いたいという其の人は、もと金森家の重役粥河圖書という人で、近頃竹ヶ崎へ田地や山を買い、有福ゆうふくの人で、奥様が此の間お死去かくれで、何卒どうか跡に嫁を欲しいと思うが、お前の妹お藤が相当な縁だというので真堀の定蓮寺の海禪和尚かいぜんおしょうが橋渡しをして媒妁人なこうどを立てて貰い度いという、向うは急ぐからお前に相談しようと思うが、何分留守で仕様がなし、先方さきからは急ぐ、何うもうも断りようが無いから、今日大津の銚子屋で見合をして、お藤が得心の上は粥河様方へ縁附けるから一寸ちょっと知らせる、なれども用がなければ帰って来て、用があるなれば別段帰らんでもい、結納を取替とりかわせる、此の段松屋に居るとのことが知れたから知らせる」たった一人のいもうとお藤を盗賊の所へ縁附ける、結納を取替せるとあるから驚いた山三郎、思わず手紙をぱったり落して腕を組み、考えれば考える程可哀想にも、眼の前に居る此のお蘭を女房に持ち、悪事を見たといって生埋いきうめにして、間もなく己が妹を貰おうと云うは如何にも人情にはずれた悪人、しかし此の事はお蘭には云えず、心一つにいきどおって居る。んな事とは夢にも知らぬおらん「誠に何から何まで御心配下さいまして、貴方のお志は死んでも忘れません、何うぞ此の上何分い様に」

山「あの、大急ぎで船を一ぱい仕立って呉れんか、一寸ちょっと浦賀へ帰るから大急ぎで、風が悪いから其の積りで、食物くいものや何かはどうでもいから…時にお蘭さん、あの母から手紙が来まして、黙って四日も明けたもんだから大分心配して居る様子、一寸ちょっと行って来なければ成りませんが、今晩は何うせ来られませんが明朝あすのあさ来られなければ明日あした遅くも夕景までには屹度来ます、それまでの間は何卒どうぞ自害するの海へ飛込むのなどということは予々かね〴〵申す通りとゞまって、こりゃアわたくしがお願いです、もないとわたくしが是まで尽した事はみんな水の泡になるから、決して悪くは計らわんから、同じ人間だから悪い心にもなり又善い心にもなるものだから、貴方の思う圖書の心が直る様に何処までも他人ひとを払って異見するから其の積りで、御亭主が善人になれば貴方の思った心も貫き、其の上何卒どうぞもと〳〵にしたい心底、其れゆえどうか行って来るまで待って居て」

蘭「はい、実に有難うございます、おっかさまはさぞお案じで、どうか早くお帰り遊ばして下さい、明日あした夕方までにおいでになるをお待ち申します」

山「お蘭さん、貴方小遣がりますから沢山は無いが少しばかり手許へ置いてきますから、何ぞ好きなものを買って遠慮なしにお上んなさい、気のひどふさぐ時は、此の頃は旅稼たびかせぎの芸人が居るから其れを呼んで気晴しでもして」

男「船が出来ました、ぐに」

山「船が出来た、じゃくよ」


二十六


 山三郎は階梯段はしごだんを降ります、残り惜しいから、お蘭は山三郎を船の処まで見送ります。山三郎も船に這入って気の毒な女だとお蘭の顔を見る、これが思えば思わるゝと申すのでござりましょう。船頭は山三郎が大急ぎと申すので腕一杯に漕ぎますが、何分風が向い風で船足はらち明きません。山三郎はじり〳〵して居りますが、何うも仕方がない、朝の内は西風ならいが吹き、昼少々前から東風こちから南風みなみかぜに変って、彼是れ今の四時頃に漸く浦賀へ這入りました。山三郎は早くも船よりあがりまして新井町へ駈けつけて、うち馳上かけあがって見るとおふくろも妹も居りません、其処そこに留守居をして居るのが馬作一人。

山「おい師匠」

馬「へい、お帰りなさい、どうも実に驚きましたぜ、何処どこへ入らっしゃいました」

山「わきへ廻って遠方へ行った」

馬「どうもおふくろさんがお前と一緒に往ったのだから何処どこかへ行って捜して来いと仰しゃって、それからわたしは江戸屋に入らっしゃったが、はて何うなすったかと云う様な事をいっておうちを出ましたが、何処へ往ったっておいでなさらぬのは知って居るから、ぶら〳〵大𢌞りや何かして、程って帰って見ても未だお帰りなさらない、はてなと又出掛けて、今度は徳田屋さんで聞いて見ると、貴方は舟の中へ女の子を入れて松屋へおいでなさったと云うが、あなたひどいじゃアありませんか、わたくしを捲くなんざア感心しましたぜ」

山「なにそう云う訳じゃアねえ」

馬「旦那まア板子の下へ女の子を入れてくなんざア凄い寸法で、しかし旦那よくまアの八釜しい御番所の前をねえ」

山「それ処じゃアねえ、おっかさんは何処へ」

馬「お母様ふくろさんはね、いや実に妙不思議な事で、それ例のの粥河様のおらん様が死んだので、不自由だから、他から貰うよりは貴方の妹御をと云うので、寺の坊さんか何か頼んで其れが橋渡で漸く話が極って、それからお嬢さんに話をすると、何かそれ貴方が後見になって妹に聟を取って此のいえを相続させると仰しゃったのだが、其れじゃア私が済まない、矢張やっぱにいさんを此のうちの旦那にして私はわきへ縁付きたいと云うので、処がね嬢さんが粥河様を見ると一寸ちょっとい男だもんだから岡惚をして、藤ちゃんはずうっと行きたいという念があるので、おふくろさんも遣りたいと云うので、詰り極って、今日大津の銚子屋で結納を取換とりかわせ」

山「もうお出掛けになったか、あゝ残念だ」

馬「旦那何も残念な事はありません、お蔭でわたくしも一軒旦那場が殖えたので」

山「のべつに喋るなよ、着物を着替えるから早く出せ」

馬「着物おめしをお着替なさい、だが箪笥は錠が下りて居ます、鍵はおふくろさんの巾着きんちゃくの中へ入れてありましたがの儘帯へはさんで一緒にずうとお出かけで」

山「困ったな、じゃア出刄庖丁を出せ」

馬「なんです」

山「なんでも、喋らずに出せ」

馬「だってきずだらけになりますぜ」

山「構わんから出せ」

 と山三郎は癇癪紛れにガチ〳〵とやって着物や羽織を引出して、さっ〳〵と着換えて脇差をさしたが、見相けんそうが変って居りますから馬作は何だか解らん。

馬「旦那わたくしは今日お結納のお取替とりかわせ、お目出度いので御祝儀頂戴と内々悦んで居たので」

山「うちえれ」

馬「へい、女郎買からお帰りで昨夜ゆうべから持越しの癇癪などは恐れ入りますな」

山「斯う云うとき師匠洒落などいうと聞かんぞ、何も云うな、黙って供をしろ」

 と山三郎はきますから、うちを駈出してどん〳〵谷通坂やんつうざかを駈下りまして、突然いきなり大津の銚子屋へ飛込んだが、丁度今結納を取替せをようとする所、是れを山三郎が反古ほごにしようと、是から掛合になりまする所、一と息つきまして次を申し上ます。


二十七


 引続きまして、山三郎は母といもうとが先に大津の銚子屋に参って居て、これから見合に相成るという事を聞いて、驚きまして、たくを出て大津の銚子屋へ参ったが、もう間に合いません広間の方には粥河圖書を始めとして居並んで居ります者は、前に金森家の同藩のように見せかけましたが、此れは皆同類で、圖書のそばに居りまするのが眞葛周玄という医者、立派な扮装いでたち短刀みじかいのをば側に引附けて、尤もらしい顔附をして居ります。其の側面かたわらには真堀の定蓮寺の留守居坊主海禪という、此れは破戒僧でございますが、是も外出よそゆきの袈裟法衣ころもでございますが、何か有難ありがたそうな顔附をして控えて居ります。此方こちらの方には母といもとの前に膳部を据えて大勢で何か頻りに勧めるのを両人ふたりは返答に困って居ります。

母「どうも御尤も様でございますが、生憎あいにく山三郎も居りませんことで、もう程無く帰りましょうかと存じて居りますが、参って居ります処も漸くに分ったような訳で、もう是も得心致しましてわたくしもまア有難い事と存じて居る処ではございますが、何を申すも山三郎は留守の事で、あれも名前人なまえにんの事でございますから一寸ちょっと一言申し聞かせまして、得心の上でございませんければ、それはなんで如何様いかようともお話も致しましょうが、今が今どうも御挨拶も出来かねますことで」

海「いやおっかさん、それは至極御尤もじゃが、此処にまア眞葛周玄先生という斯ういう立派な先生の媒妁なこうどがあって事をなさるし、わしも坊主の身の上だからの事は知らんが、不思議の事で、斯ういう御縁合になれば、わしも誠にお馴染甲斐もあるような訳、どうかお帰りがあって、それは成らんいやそれは斯うしてと仰しゃれば、それは何うでも内々うち〳〵お話合もつく事で、貴方が御得心になりさえすれば山三郎殿は孝心の方で、おっかさんの云う事をそむくようなことはない、それはわしも心得てるが、どうか善は急げで、結納の所だけは一寸ちょっと此処で取替とりかわせをなすって、左も無いとわしもまた仲に這入った甲斐もないと云うもので」

母「実に海禪さんの仰しゃる通り御尤もでございますが、もう程無ほどのう帰りましょうと存じて居りますから、どうかもう少々お待遊ばして」

 という所へ、

男「へい只今旦那が入らっしゃいました」

母「はい、ぐに何うか此の席へ参るように仰しゃって」

 と云ううち案内をも待たずつか〳〵と山三郎は母の傍に参りまして、

山「誠に恐れ入りました、大きに御心配を掛けまして相済みません」

母「本当にまア私はどんなに案じたか知れないよ、何所どこに何うして居るかと思ったうち漸々ようよう天神山に居ることが知れてねえ、手紙を出したが知れましたろう」

山「拝見致して取敢とりあえず立帰りましたが、未だ結納は取替とりかわせますまいな」

母「はい結納の事はお前を待って居たので」

山「どうかぐにお帰り遊ばして」

母「直ぐにと云ったってそう帰る訳にはきませんよ、まずお前それにおでなさるお方は粥河様と仰しゃる、元はお大名の御家老役をもお勤めなすった立派なお方で、此の頃竹ヶ崎へおいでになって結構な御普請を遊ばして、田地やお山をもお購求かいもとめで、何不足なくお暮しで、処が先頃奥様が卒去おかくれになって、早くどうか嫁をと云うので、処が浄善寺へ私がお藤を連れて御法談を聞きに参った其の折に御覧なすって、たって貰いたいと仰しゃるので、他の者では厭だがお前の妹だからと云うので尚お彼方あなたで欲しいと仰しゃるので」

山「左様でもございましょうが、まだ結納の取替せを致さんのは幸いどうか直ぐにお帰りなすって、実にわたくしは驚きました」

母「直ぐに帰れといっても、お前の来るのを待って居て、お前の坐る所へ整然ちゃんとお膳もおあにいさんのと仰しゃって心配をなすって」

山「いゝえ見ず知らずの者に馳走になるべきものでは有りませんから、お母様っかさんわたくしと藤の料理代だけは当家こゝへ別に払いをして参ればそれで宜しい」

母「そんな事は出来ませんよ、そんな失礼な事をお云いでない、それよりはお近附になって」

山「いゝえお近附どころではありません、直ぐにお帰りを願います」

 と何かごた〳〵致して居りますから、海禪坊主が見兼て山三郎の側へ参りまして、

海「誠に暫く、番場の地蔵堂に居りました海禪で、お見忘れでしょうが今は真堀の定蓮寺の留守居で、雁田がんだに居りました時分は毎度お目に懸りました事もありましたが、あれに御座るは粥河様でござりまして、此の頃近辺に御寮が出来まして、浦賀へおいでのときお藤さんを御覧で、どうか貰い度いということ、それに土地に名高いお家柄なり、旁々かた〴〵山三郎殿の御妹御おいもとごなれば是非申し受けたいといってわたくしへお頼みで、坊主の身の上でなんだけれども実はおっかさんも御得心又お妹御も納得のことで、結納の取替せまでに至りまして、間際になって肝心の貴方がおいでがないので大きに心配致しておりました、早速お帰宅で、どうかこれへお席を取って置きましたから、何うかこれへお坐り遊ばして、実にお目出度いことで恐悦な訳で」

山「いやお目出度いこともなんにもない、久しくお目に懸らんでしたが、海禪さん、折角の思召おぼしめしではございますが、妹藤は差上げる訳には参りませんと先方へお断りを願います」

海「へえーそれは又何ういう訳ですな、今貴方が御不承知では先方へわたくしが何とも云いようがございません」

山「云いようが有ろうが無かろうが手前は上げる事は出来ません、母や妹が得心でございましょうが、何と申したか知りませんが、未だ結納の取替せも致さんのは幸いでありますから、此の事はどうか先方へどうも妹は上げられないと云ってお断りを願います、母と妹を連れて直ぐに帰ります、おまえさんも御出家の身で縁談の事なぞには口をお出しなさらんでも宜しかろうとわたくしも失礼ながら存じます」

海「それは左様そうじゃけれども、今になって其んなに仰しゃって下すっては言訳がない、何うかもし折角の御縁でこれまでに成りましたから」

山「折角でも何でもいけませんと先方へお断りを願います」

 と此の問答を見兼ねて眞葛周玄が側へ来て、

周「へい、初めまして、愚老は眞葛周玄と申す至って不骨物ぶこつもので、此のとも幾久しゅう御別懇に願います此のたびは不思議な御縁で粥河氏よりの頼みで、届かんながら僕が媒妁役なこうどやくを仰せ付けられて、かねてこの浦賀に於ても雷名轟く処の石井氏の妹御いもとご、願っても是れは出来ん処をおっかさまもお妹御も御得心で誠に有難いことで、大夫も殊無ことのうお喜びでございます、どうか結納の取交とりかわせを致そうとして、既に只今これへ墨を添え紙をも用意致して、是から書こうという処で、御得心の上はすみやかにしたゝめます心得で」

山「いや何うか此の事は先方へお断りを願います、母が得心でも妹が参りたいと申しましても、此の山三郎一にん不服でございますから、左様さよう粥河様とやらへ何うか仰しゃって下さるように願います、貴老あなた媒妁役なこうどやくで御迷惑でございましょうが、直ぐに引取りますから左様思召おぼしめして下さい」


二十八


周「これは当惑致しますな、折角此れまでになって、何うも親御も妹御も御得心であるのに、遅うおいでになって今になってわたくしは不服じゃなどとおっしゃっては媒妁なこうど立端たちばがござらんからねえ、斯うやって皆朋友の方も目出度いといって祝いに来て下すって、事がきまろうと申す所で、今になって厭と仰しゃっては誠に困りますねえ」

山「困っても何でも上げられんから上げられんと申すので」

周「それじゃア何処迄も是れを破縁なさる思召おぼしめしかえ」

山「いや破縁と申すが結んだ縁なら知らん事まだ結ばんに破縁という事はありません」

周「貴方がおいでというので斯う遣って詰らん魚でも多分に取寄せて、ずお膳まで据えてお待受け申すのでござるからねえ、何うか媒妁なこうどの届かん所は幾重にもお指図を受けまして致しますから是は何うかず御承引を願いたい」

山「いゝや御馳走にはなりません、知らん方に仮令たとえ酒一杯でも戴いては済みませんから、当家へは三人分だけの料理代を別に払って参りますから左様思召おぼしめして下さい」

周「これはしからん事を仰しゃる、貴方は此の浦賀中で男達おとこだてとか侠客とか人がお前様まえさんを尊敬する所の現在名主役をも勤めて立派なお方、物のたばねをもなさる方で礼儀作法もお心得であろうのに、何とも何うもしからん事で、此のほうの馳走の代を払うなどゝは以ての外な事、よし其れは兎も角も今になり妹御を遣るの遣らんのとの事を仰しゃっては僕は退かれん、君も名高いお方に似合にあわん事で」

圖「これ〳〵控えておれ」

 と粥河圖書は横着者でございますから末席ばっせきに下って手をつかえ、

圖「初めてお目に懸ります、自分は粥河圖書でございます、此のたびは又不思議な御縁で、以来は幾久しく何分にも御別懇に願います、此の者は眞葛周玄と申すが、只今喰酔たべよっておりまして失礼の事のみ申上げ甚だ相済まんが、何卒なにとぞお気にえられぬよう、当人に成り代り圖書がお詫を申上げます、殊に自分も尊兄のおいでをお待受け申すうち大きに酩酊致して失敬の事ばかり、其の辺は幾重にもお詫を申上げますが、何うか只今申しあぐる通りゆえ、届かぬ所はのようにもお指図に従い、斯うしろと仰せがあれば其の仰せに従いまするので、手前も親も兄弟もなし、殊には貴方のお妹御を申し受ければ、貴方のような兄様にいさまを設けるので、此の上の事はありませんし、誠に当地へ参っても心丈夫なりかつ何事もお兄様あにいさまのお言葉は背かん心底でござるから、何うか御不服ごふふくでもございましょうが、何が斯うすれば御意に入るとか、あゝすればいとか御腹蔵なく仰せ聞けられて、何うか結納取交とりかわせの所を何分にも御承引下されたい訳で」

山「何うも御丁寧なる御挨拶で痛み入ります、何卒どうぞお手を上げられて、折角の御所望ではございますが、仔細あっていもうとを差上げる訳にはゆきません、と申すはいもうとには別に婿を取ってわたくしが後見になって石井のいえを相続させまするので、是には種々しゅ〴〵深い訳のある事で、何うも此のいもとは上げる訳には参りません、直ぐこれで引取りますから左様思召おぼしめして下さい」

圖「それでは何うも当惑致します、是までに相成って今不承知じゃと仰しゃっては圖書は立端たちばがございません、此処これに参っておる朋友の者は皆前々ぜん〳〵同屋敷におりました同役の者ばかりで、これにお聞き遊ばせば知れまするが、浪人してもいさゝか田地や山を購求かいもとめて、お妹御に不自由をさせるような事は致さん積りで、事によれば母公ぼこうまで共々お引取り申しい心得でおる程でござるから、左様仰せられずに何卒どうか此の事はお聞済相成るように願います」

山「いや上げられません、いもとが参りたいと申しても母が遣りたいと申しても、此の山三郎だけは差上げることは出来ません」

圖「何うあっても御承引はございませんか」

山「はい、何うあっても差上げる事は出来ません」

圖「何が御意に入りませんか、是までになって遣られないと仰しゃる其の思召おぼしめしを承わりたい」

山「山三郎は男でございますからなさけと云うことを存じておりまして、斯様な満座の中で申すことは出来ませんが、貴方がお宅へお帰りになってとくとお考え下さい」

圖「どう考えますか、どのように考えまするのか」

山「貴方は御浪人なすっても以前は立派なお武士様さむらいさまで、わたくしのような船頭を相手にする廻船問屋如き者の妹娘を貰いたいと仰しゃれば、はいと二ツ返辞で差上げんければ成らん処だが、それが上げられんと云うのは何ういう訳だか貴方の心にとくとお聞きなすったら解りましょう」

圖「心に問えと仰しゃるのか」

山「はい貴方のお心に聞けばきに分るで有りましょう」

圖「心に問いましても分りませんが、何うか仰せ聞けを願います」

山「いゝえ此所こゝでは申されません、今は分りませんがあとで分ります…さアきましょう」

 と山三郎は母の手を取って表へ引出すと、母もいもとも何だか訳が分りませんから、うろ〳〵して居るうちに、山三郎は帳場に参って三人ぶりの酒料理代を払って外へ出ました。いもうとなんぞはちと腹を立ちまして、粥河さまは男もし人柄もよし、金はあるし、立派な人だから、此家こゝ縁附かたづけば仕合せと思って腹のうちに喜んで居たのに、にいさんはそれだのに遣って呉れないのだよ、あんまりだ、と腹のなかでは思って居るが、まさかに口には出し得ないでたゞしお〳〵としてあとに附いてうちへ帰って参りました。


二十九


 うちへ帰ると、供に立ちました馬作はそこへ飛出して「わたくしもあの前お座敷へ出ようと思いましたが一向様子が分りませんで、旦那今日のはまア一体何うしたんです」

藤「本当に馬作さん私は冷汗が出たよ」

馬「旦那はついしか荒い事を仰しゃった事は無いが、それもいが三人前の料理代を払うなんどは本当に愛敬のない仕方で、れはどうもひどい、何でも理由わけがあるに違いない、理由わけがなくって彼様あんなになさる気遣きづかいはねえ、何うも理由わけがありそうだ」

山「あゝうちへ帰ってまア安心した、さア〳〵おっかさん此方こちらへ、妹も此方こっちへ来な、お前が折角きたいという処をにいさんが止めて定めておつに思ったろうが、そこには種々いろ〳〵深い理由わけのある事で、又兄さんが粥河よりもそっと立派なまさった者を見立てゝ遣る、心配しなさんな大きに何うも癇癪にさわって手荒い事を云って心配させたが、勘忍して呉んな」

馬「何ういう訳でございますかひどくおおこりで、今いう通り何か是にゃア訳があるのでしょうが、是は何うも藤ちゃん仕方がありません、御縁のないのです、その代り今度おあにいさんのお見立になるお聟さんはね、是は大した者がありましょう、あれよりはいと云うんだからんなにいか知れません、粥河さんはね、あれでい様に見えても一寸ちょっといけすかない処がありますからねえ、いやにこう色は白いようだが何だか煉瓦の裏通りと云うような処がありますからねえ」

山「まアい、何ぞで一盃遣りましょう」

 と酒を取寄せ話をして居るうち灯火あかりを点けます時分になると、大津の銚子屋から手紙で、小さな文箱ふばこの中に石井山三郎様粥河圖書という手紙が届きました。

馬「旦那お手紙で」

山「何処から」

馬「銚子屋からで、粥河様でしょう」

山「使つかいの者は待って居るのか」

馬「へい待って居ります」

山「なんだ」

馬「何だって粥河さんは余程よっぽど藤ちゃんに惚れてるんで、先刻さっきの位に云われて見れば、大概の者は腹ア立って、なにあればかりが女じゃアねえ、他から貰うと云うのだが、それを又謝り口状を云ってよこすなんざア惚れてるてえものは妙なもんでねえ」

 此方こなたの山三郎は封押切って手紙を読みかけると、

馬「旦那、なんと書いてありますか心配で、どうか一寸ちょっと

山「なんでもいよ」

馬「何ういう訳か一寸ちょっとお見せなさい」

山「さア」

馬「此奴こいつちっとも分りませんねえ、残らず字ばかりで書いてありますから」

 山三郎は読みかけたあとをだん〳〵見ますと、其の文面に

以手紙申上てがみをもってもうしあげしかれば先刻大津銚子屋に於て御面会の折柄おりから何等の遺恨候てか満座の中にて存外の御過言ごかごん其の儘には捨置難く依之これによって明晩いぬ中刻ちゅうこく小原山に於て再応さいおう承わりたく候間く〳〵御覚悟候て右時刻無遅滞ちたいなく御出おい有之度これありたく此段申進もうししんじ候御返答可有之これあるべく候也

    四月十四日

粥河圖書
石井山三郎様

という書面で是れが決闘状はたしじょうで、山三郎はにっこりと笑ってぐに返事をしたゝめました、その文面には

先刻大津の銚子屋にて御面談の儀に付御書状の趣き逐一承知つかまつり候御申越の時刻無相違そういなく御出合申可おであいもうすべく貴殿にも御覚悟にて御出張可有之これあるべく此段及御答こたえにおよび候也

    四月十四日

石井山三郎
粥河圖書様

という是れが決闘状はたしじょう取遣とりやりでございますが、むこうは盗賊の同類が多人数たにんず居りますから、其等それらが取巻いて飛道具でも向けられゝば其れり、左もない所が相手も粥河圖書だからおめ〳〵とも討たれまい、必ず此の方も切死きりじにをしなければならんが、其の時は松屋に残したお蘭が斯うと聞かば必らず自害して相果あいはてるに相違ない、如何にもそれが不便ふびんなこと、何うかお蘭を助けたいものだがと、母や妹を寝かしたあとで、細々こま〴〵したゝめました遺書かきおき二通、一本はお蘭のもとへ、一本は母へ宛て、封目ふうじめを固く致した山三郎、其の翌晩小原山と申す山の原中に出まして粥河圖書と決闘はたしあいを致しまするお話、一寸ちょっと一息きまして申上げます。


三十


 山三郎がしたゝめました遺書かきおき二通、その一通は母に贈りますので、其の文には粥河圖書は大賊に致して、手下の二百人からある強盗、其の女房お蘭なる者が我身の大事を知ったと云い、同類が許さんからとて生埋いきうめにしたるを山三郎が掘出したるが、今は上総の天神山の松屋に隠匿かくまってある、此の事について過日より自分も心配致して、粥河圖書が改心ののちは如何にも貞節なるお蘭の心を察し、故々もと〳〵の通り添わして遣りたいと思って居る処、大胆にもお藤を嫁に呉れという故に銚子屋に於ての如くはじしめました、それを遺恨に思って決闘状はたしじょうを附けたから、已むを得ず明晩小原山に於て同人と果し合を致す、また山三郎の申す事を聞入れて改心致せば宜しいが、左もなければ刺違えて死ぬ、吾がい時はお蘭が自害致すに相違ないから、不便ふびんの者と思召おぼしめしてお蘭に意見を加えてお引取り遊ばして、お藤の姉とも思召しお手元にお置き下さらば、わたくしよりはるかに優る孝行を致すに相違なし、先立つ不孝は重々相済まんが此の場に及んでは致方いたしかたがない、圖書と刺違えて死果しにはつる覚悟、と細々と書きまして、又一通はお蘭の方へも右の如く細々としたゝめて、封じ目を固くして店の硯箱の上の引出ひきだし半切はんきれや状袋を入れる間へはさんで、母が時々半切や状袋を出すから、此処へ入れて置けば屹度目に入ろうと斯様に致し、其のは休んで翌日朝船に乗りまして上総の天神山へ参りました。お蘭は山三郎の参るを待って居る所へ、

山「存外早く帰りました」

蘭「おやお帰り遊ばしましたか」

山「はい、暫く自宅うちを明けましたので、母も心配致して手紙をよこし、それ故一寸ちょっと立帰って参りましたが、お前さんの事が気になって、何うもわたくしうちにも居られないひょっとしてわたくしが遅く来まして、お前さんに万一もしもの事があった日には、わたくしが丹誠した事は水の泡になるから取急いで参りましたが、就ては又直ぐわたしは帰ります、帰るが明日あすの夕景までには又わたくしが来られゝばし、来られん時は此の中に細かに書いた物がありますが、此れはわたくしの親から譲られた大事の、今は金入れにしたが、先祖から伝わって居る守袋まもりぶくろで、此の中に封じた物が入って居るから、みょう夕景までにわたくしが来なかったら此の封を切って読んで下さい、左様そうすれば細かに事柄が分ります、其のうち又お前さんを迎いに参る者が有るまいものでもない、多分夕景迄には屹度来ますが、それ迄は此の書いた物の封を切って読んで下すっては困ります、其処そこを何うかしかとお蘭さん承知して下すって、必らず明日みょうにちの晩までたしかに待って、何卒どうかお前さんお自害の処はとゞまって下さらんければならん、それだけは山三郎手を突いて頼む、何卒どうぞ聞済きゝずんで下さい、お聞済みかえ、え、お聞済みかえ」

蘭「はい〳〵有難う存じます、まア何ういう御縁か存じませんが厚く思召おぼしめして下さいますお志は決して反故ほごには致しません、明日みょうにちいでまではたしかに其の品はお預り申して居ります、何うか成るたけ明日みょうにちはお早くおいでになりますよう」

山「はい、直ぐに来まする心得、これに少々ばかり金子がありますが是に添えて置きますから何うかお前さん是で万事いように為すって」

 と立ちますから、

蘭「はい、もうお帰りでございますか、左様なれば」

 と階子はしごの段まで見送ります。下へ下りる事は出来ない隠れて居る身の上。此方こちらは船へ乗り移ります、虫が知らせるかたがいに振り返る、其の内に船は岸を離れて帆を揚げる、風は悪いけれども忽ちに船は走りまして浦賀へちゃく致しまして、自宅うちへ帰って引出ひきだしを開けて見ると、まだ遺書かきおきは母の手にはいらんようだからいと心得、また元のように手紙を引出の間へ入れて、一寸ちょいと其処そこまでく振りをしてうちを出て、西浦賀の陣屋へと急ぎました。其の頃西浦賀の陣屋には山三郎の実の兄が居ります。おたかは二千五百石で一色宮内様と仰しゃる、血筋でございますけれども、此方こちら町家ちょうかに育ちましたから𢌞船問屋で名主役も勤めて居り、目通りは出来ますが、お兄様あにいさまという事も出来ず、むこうでも弟と声を掛ける事も出来ん、なれども血筋と云うものは仕方が無いもので、今晩もし死すれば兄の顔はこれが見納め、余所よそながら暇乞いとまごいと心得、西浦賀の蛇畠町じゃばたけまちの先浜町はまちょうの処をくと陣屋のある処、やがて案内を以て目通りを願いたいと云うと、其の頃のお奉行は容易に目通りは出来んが、むこうも血筋だからして、「苦しゅうないこれへと申せ」と云う。取次は心得まして山三郎をそれへ連れて参ると、今お役済で袴は着けて居りますが座蒲団の上にくつろいで居て、其の頃の遠国えんごくの奉行は、黒縮緬に葵の紋の羽織を上から二枚ずつ下すったもので、今宮内様は御紋附の羽織にこい御納戸色おなんどいろ面取めんとりの袴をつけて、前には煙草盆や何かを置き、此方こっちには煎茶の道具があり、側に家来が二人ばかり居ります。山三郎は遥か末席に控えてかしらを下げまして、

山「今日こんにちはお目通りを仰せ付けられまして有難い事でございます」

宮「はい、さア此方こちらへ這入るがい、あゝ遠慮なしに此方こっちへ許すから這入れ、何時いつもまア無事で、母も変りはないか、なにかいもと大分だいぶ成人して美しくなったという噂は聞くがいもとはいまだ見んが、今日きょうは来たな、丁度用もなし徒然とぜんで居るから幸いで、酒は少しは飲むか、一さん取らせよう、これ由次よしじ、奥へ行ってあの菓子が有ったから、あれを多分に母といもとに土産になる様にして遣れ、それから酒の支度をしろ、さアっと近く、たばこも許す、さア〳〵」

山「へい〳〵有難うござります、今日こんにちは山三郎折入ってお目通りを願いたいことがござりましてまかでまして、お聞済きゝずみがあれば千万有難く存じます」


三十一


宮「何か頼みたい事が、そうか、何うも其方そち予々かね〴〵人の噂に聞くに、山三郎という男はあれは妙な男で、幼年の頃から剣術をつかって大分だいぶ武芸を学んで、殊に力が十八人力あるなどという事が己の耳にもちら〳〵入るが、何うだえ本当かえ、ふゝーそれで学問が出来るか不思議だな、しかかねて心得てもろうが、力に任せて荒い事をないように、此の間組屋敷の若武士わかざむらい源七の腕を折ったというが、あんな事はないがよい」

山「相済みませんが、れは三浦三崎の百姓を斬ると申すので、わたくしも仲へ這入って事柄を聞きますると、斬る程のことでもないゆえ、お色々と扱いますると、しまいにはわたくしをも斬ると申すので、致し方なく手を取ってねじりますると、ついがっくり抜けまして」

宮「そんな事をてはいかんよ、身の為にならんから、妙に強いな、不思議だな、さア此の菓子を食べるがい」

山「有難うございます」

宮「何か頼みか」

山「少々他聞を憚りますから、御近習ごきんじゅの衆をお遠ざけ下さいますれば有難う存じます」

宮「左様か、金吾、由次、少々山三郎が内々頼む事があって他聞を憚ると云うから、其方そちらへ出て往って居れ、用があれば手をならすから、そして酒の支度をしろ」

金「へい」

 と両人ふたりは立ちまする。

宮「さア何ういう密談か」

山「山三郎仔細あって遠方へ参りますが、三日でも旅と申しますから、人間は老少不定ろうしょうふじょうためし明日あすにも知れんが人の身の上、殿様のお顔もこれが見納みおさめになるかと、今日こんにちは御暇乞にまかり出ましてござります」

宮「大分だいぶ何か弱い事を云うのう、常の気性にも似合わんようだが、して其の遠くと云うのは何処へくのか、余程遠いかえ」

山「と遠方へ参りますることで」

宮「はゝア先は何処だえ、上方かえ」

山「もそっと遠方へ」

宮「ハア何か、九州筋長崎へでも参るか」

山「もそっと遠方へ」

宮「はてね、それでは何処へ、じゃが余り遠方へかんがい、母も老体ではあるし、何処へくか」

山「しかし是非参らなければならん用で、尤もじきに帰ります心得で、事に依れば明日みょうにち帰ります」

宮「なにを云うのだ、そんな事を云っては分らん、気になって成らんが、何ぞ餞別はなむけを遣ろうかの」

山「お餞別はなむけを実は頂戴に出ましたので、その餞別はなむけは申すも恐入りますが、たれも居りませんから申しますが、わたくしは運がければ殿様のお側に居りまして、へ養子に参りましても鞍置馬くらおきうままたがり、槍を立って歩ける身の上、不幸にして腹にあるうち、母が石井の家へ帰りまして、わたくし町家ちょうかで生立ちまして、それゆえ貴方がお役で御出張になりましても、つい向う前に居りながら、お兄様あにいさまと日々御機嫌を伺うことも出来ず、弟とお言葉を戴くことも出来んくらいになって居る、これも縁切になって居りますから致し方もございませんが、此のたび遠方へおもむきますゆえ、お餞別はなむけに「弟、無事で行ってまいれ」という御一言を承われば、山三郎心のこさず勇ましく出立致します、どうか此の儀恐れ入りますがお聞済み下されますよう」

宮「成る程、それはよいが、それは其の方が云わんからっても此方こちらで存じてる、の時はお母様っかさまが嫉妬深くって、其の方の母がうちへ帰らんでもかったのを、縁切で帰るという訳に成ったのだが、此の方もほかに兄弟というものも無いからのう、誠に貴様の行いの正しいのを聞くに附けても頼もしく、蔭ながら喜んで居るので、仮令たとい身分は違おうとも血筋は知れて居るからい」

山「有難い事で、それでおとと無事で行って来いと云うお言葉を頂戴致しますればわたくしは勇んで往って参ります」

宮「それを云うのかえ」

山「どうか大きな声で一言ひとこと頂戴致しとうございます」

宮「そんな事を改まって云わんでもいが」

山「でございますが、どうか」

宮「困りますねえ何うも、じゃア判然はっきりと云うよ、えへん、おとうと無事で行って参れ」

山「はゝア有難う存じます」

 と席をさがりまして、日頃はたけき山三郎暫くの間かしらを上げません。

宮「落涙するか、何か気になる事だな、そう云う事を云われると何だか遣りとうもないが、止さんか、何う云う事柄を頼まれたか知らんが、かねて其の方は頼まれては退かんとは聞いたが、大抵の事柄は…う〳〵人の為ばかりしても身でも痛めるとくない、母の居るうちは慎めよ」

山「左様な訳ではございません、つきましては何うか今一つお餞別はなむけを」

宮「あゝ何なりとも遣りましょう、まア品物で持って参ってもいかんが、金子を遣ろう」

山「いえ金子は入りません、ねがわくはお乗替のりかえの馬を一頭頂戴致したい」

宮「妙なものをねだりますねえ、馬をねえ、えゝ、なにを存じてろうが、お父様とっさまがお逝去かくれ前からある大白月毛おおしろつきげの馬、れは歳をっては居るが、癖のないい馬で、あれを遣ろう、荒くらずに歳をとって居るからいたわって乗るよう」

宮「はい、道が遠うござりますからり潰すかも知れません」

宮「り潰してはいかんよ、別になにも云う事はないか…これ〳〵金吾」

金「へい」

宮「別当に申し付けて月毛に蒔絵の鞍を置いて、支度して陣小屋へ繋ぐよう、山三郎が乗って参るからな、それから酒を早く出せ」

 其のうちお膳が出まして種々いろ〳〵の御馳走がある。山三郎は心がいて居りますから、言葉すくなにいとまを告げて立出たちいでますと、其の頃の御奉行様が玄関まで出て町人を送ると云うことはないが、何か気になると見えまして、

宮「万端気を付けて参れ、早く帰れよ」

山「御機嫌宜しゅう」

 と出ますると真白まっしろな馬が繋いで有ります。


三十二


 山三郎は此の馬を見まするとい白馬だ、白馬と申しても濁酒にごりざけとは違います、実に十寸ときもある大馬で、これに金梨地きんなしじの蒔絵の鞍を置き、白と浅黄あさぎの段々の手綱たづなで、講釈などでしますと大してほめる白馬で、同じ白馬でも浅草の寺内じないにある白馬は、あれは鮫と申して不具かたわだから神仏へ納めものになったので、本当の白馬は青爪でなければならんと申します、臠肉しゝむら厚く、うなじとりに似て鬣髪たてがみ膝を過ぎ、さながら竜に異ならず、四十二の旋毛つむじは巻いて脊に連なり、毛の色は白藤の白きが如しと講釈の修羅場では読むという結構な馬に、乗人のりてが乗人ですから、一角いっかく入れてスタ〳〵スタ〳〵タヽヽヽヽヽとよく云いまするが嘘だそうです、聞きまするに馬は乗りたてからかけうと、馬がれていかんそうで、山三郎は馬も上手でございますから鞍へひらりとまたがりまして、最初は心静かにポカ〳〵とだくを乗りまして、陣屋前から大ヶおおがや町を過ぎて、鴨居の浦を乗切のっきりまして、此処らは難所なんじょですが、馬は良し乗人のりては上手でぽん〳〵乗切のっきってやがて小原山の中央なかほどへ参りますと、湯殿山ゆどのさん深彫ふかぼりのした供養塔が有ります、大先達だいせんだつ喜樂院きらくいんの建てました物で、風が強く吹く折には倒れそうな見上げる様な石塔でございまして、此処は一里四方平原へいげんで人家もなければ樹木もない処でございます。見下みおろすとずうっと上総房州も一ト眼に見える。尤も四月十五日で青空は一点の雲もなく、月は皎々こう〳〵冴渡さえわたり、月の光が波に映る景色というものは実に凄いもので、かすかに猿島烏帽子島金沢なども見えまする。此方こちらは小松の並木で一本も外のはありません。真堀の岩上いわがみの方から粥河圖書は来るに相違ないと、山三郎は馬を乗り据え、むこうに眼をけて居ると、遥かにひづめの音がいたします。来たなと思うと粥河は其方そちらへ現われ出ました。元来圖書は山三郎をおどす気だから、栗毛の馬に鞍を置き、脊割羽織せわりばおり紺緞子こんどんす天鵞絨びろうど深縁ふかべりを取った野袴のばかまに、旧金森の殿様から拝領の備前盛景びぜんもりかげ国俊くにとしの短刀を指添さしぞえにしてとっ〳〵と駈けて来る。山三郎は石塔の際へ馬をとゞめて居る。圖書は山三郎はまだきたらんと心得てぱっ〳〵と土煙を立って参りますと、わきから声を掛けまして、

山「粥河氏かお早うござる」

 と云うと、圖書ははっと驚きましたが、例の曲者くせもの落着き済して、

圖「大分だいぶお早いな」

山「先程よりお待ち申して、大分お遅うございますな」

圖「はい、く御出張あった」

山「はい、あなたもくおいでになりました、覚悟を致して来いとの仰せですが、わたくしは別に覚悟の仕様はありません、唯御出張を待って貴方のお話を承わろうと存じて居りました」

圖「うん、お前を呼んで問おうと思うは別の事ではない、銚子屋に於て満座の中で存分の事を云われたが、わしも粥河圖書で、金森家の大禄を取った身の上、今は浪人しても町人のお前に板の間へ手を突いて、何うかお前の妹だから呉れろと、わしれ程まで頼むに、心に問え、やることは出来んとお前が云ったが、心に問えとは一向分らん、何ういう訳で呉れられんか其の事を聞かんうちは粥河圖書此の場は去らん、刀の手前捨置き難いから、さア訳を聞かして下さい、次第によれば其の儘には捨置かれん」

 とぷつりッと母指おやゆびで備前盛景の鯉口を切って馬足ばそくを詰めました。山三郎は驚く気色もなく、

山「山三郎も男でなさけを知っているから銚子屋では云いませんが、たって聞かせろと仰しゃれば云います、お前さんにいもと藤をやられんと云う訳は、たった一人のいもうとだからお前さんの女房にあげて、又生埋いきうめにされるが憫然かわいそうだから」

圖「むう」

 と驚きました粥河圖書、思うに此奴こやつは我が悪事を知るばかりでなく、女房お蘭を生埋にした事まで知っている上は助けて置かれんとつかに手を掛け、すらりと抜きました。元より覚悟の山三郎は同じく關兼元せきかねもと無銘の一尺七寸の長脇差を引抜いて双方馬足を進めました。山三郎はぜん申す剣術の名人で、身構えに少しも隙がありませんから圖書はこれはとてかなわんと心得て、卑怯にも鞍の前輪まえわに付けて参った種が島の短筒に火縄を附けたのを取出して指向さしむけました。山三郎もく有らんと存じてかねて用意したる種が島の筒を同じく取出し、「どっこい此方こっちにも」と鉄砲を附けました、すると粥河は面色めんしょくを変えまして、これから果し合いをまするお話、一寸ちょっと一息きまして申し上げます。


三十三


 引続きまして、山三郎が圖書と小原山に於て出会であいのお話で、彼方かなたには同類が沢山ありますから大勢に取囲とりまかれるかと思ってくと、案外粥河圖書一にんで参って掛合になりましたが山三郎はお前が盗賊だから遣らんとは申しません、わしいもとをお前の女房にやって又生埋いきうめにされると憫然かわいそうだからと申しました。その一言で、山三郎は何もも知り抜いて居ると心得たから、圖書は備前盛景を引抜いて斬ろうと思ったが、相手の身構みがまえに驚きまして、鉄砲を取って直ぐに山三郎を打殺そうと致したが、山三郎もかねて用意に鉄砲を鞍の前輪まえわに着けて来ましたから、互に鉄砲同士となってぴったり身構をしましたが、此の時に粥河圖書はとてもかなわんと心得たと見え、鉄砲をからりっと投げ出し、馬より飛下りて草原くさはらの中へはゝアと平伏してしまった。山三郎は気抜のしたようで、

山「さア馬にお乗んなさい、それでは果し合う事が出来ん、しかし此の決闘はたしあいは私の方で望んだわけではござらんから、其方そちら退くなら退きもようが、早く否応いやおうの返答を承わりたい」

圖「いや実に何とも申そうようも無い事で、わたくしが身の上を残らず御存じでありながら、銚子屋に於て男じゃからなさけを知って居るから云わん、心に問えと仰しゃったは誠に厚き思召おぼしめしとも一向存ぜず、此の小原山へお招き申して掛合い、実に圖書の為には、貴公様は神とも仏とも申そう様もない有難いお方であるを、全くわたくしの心得違から、刄物を扱い、あまつさえ飛道具を向けましたる段は、重々恐入った次第で何分にもおゆるしを願います、主家しゅか改易の後、心得違いを致して賊のかしらとなり、二百人からの同類を集めて豪家ごうか大寺おおでらへ押入り、数多あまたの金を奪い、あるい追剥おいはぎを致し、又は人の娘を勾引かどわかし、実に此の上もない悪事を致したが、最早圖書も天命のがれ難く、貴公様に於て残らず御存じの上からは、遠からずお縄にかゝって家名をけがしまする所の大罪人願わくは貴公様のようなるお方の手に掛って相果つれば、手前がこれまでの罪も消え、成仏得脱致すでござろう、お手に掛けて只今此の所に於て切って下さるか、又は手前の様な者は切るはお腰の物の穢れと思召おぼしめして、縄に掛けて御陣屋へお引き下さるか、それは貴公様御所存に任せる、唯々たゞ〳〵これまでの無礼の段は幾重にもおわびを致しまする、御高免ごこうめん下さるよう」

山「ふん、それじゃアお前さんが重々悪いと云う事をば、それは人間たる以上は御存じであろう、だが、粥河氏、何ともどうもお心得違いの事ではありませんか、元は金森家の重役として大禄をも取った御身分でありながら、昨今此の辺に大分だいぶ押込が這入ったり追剥が出たりして、土地ところの者が一方ならぬ迷惑致すを、貴殿等の御所業とは知らんで有ったが実に驚いた大悪無道だいあくぶどうわたくし素町人すちょうにんの身の上、馬の上に乗って斯う応対致すに、立派なお身柄でも草原くさはらへ下りて、大地へ頭を摺附けて其の如くお詫なさるが、そこが善と悪とのへだてで、貴方が今にも御改心なされば山三郎土下座を致して、重々無礼を致したとお詫を申さなければならん身の上、是よりぷッつり悪事をめて、お前さん元の粥河様になって下さい、左様そうなさる時は不束ふつゝかの妹どころでは無い立派な嫁を届かんながら山三郎が媒妁なこうどして差上げたく、末永う御懇意に致しますから、何うかすっぱり魂を洗い清めて其の証拠をわたくしに見せて下さい、わたくしは貴方を斬る役でもなければ縛って連れてく役でも無い、唯山三郎の云う事を聞いて改心して下さればわたくしに於ても此の上なくかたじけないことで、ともに喜ばしい訳で、何うか改心して下さい」

圖「はゝア、我ながらかる悪人を憎いとも思召おぼしめさず、改心の上は媒人なこうどになって、良い嫁を世話して遣ろうとまで仰しゃるは、何ともどうもおなさけの深いお方、東浦賀で侠客のきこえを取った山三郎殿のお妹御いもとごを女房に申受けたいなどと大それたことを申される手前身の上で無いを御存じは無かろうと、実は欺いて貴兄を兄弟に致せば竹ヶ崎に居っても力になると思い、悪事にお引入れ申そうと云う手前の存念でござった、誠に恐入った事でございます、然るに貴公の親切な仰せを聞いて、我ながら魂を洗い清めたように、只今は手前夢の覚めたようなる心持で、此の上は頭髪あたま剃毀そりこぼち、墨の法衣ころもに身をやつし、立退たちのきます、手前はこれから立帰り、同類の者へも貴公の思召おぼしめしを申し聞け、親ある者は親許へ、しゅうある者は主方しゅうかたへ立退かせて、盗み取った金銀其の他の諸道具は、近村の貧乏なる百姓へつかわし、すみやかに竹ヶ崎を立去りまする、これが手前の改心の証拠、何うか恐入りまするが、明日みょうにち夕景、手前隠家かくれがまで御尊来下さりますれば有難いことで、申すまでもなく頭髪あたまそりこぼち、墨の法衣ころもを着て、みすぼらしい姿で隠家を出ます所をどうか御覧遊ばして下さい、また其の折貴公様にお盃を戴いて、心を洗いかえて立退きとうござりますから、くれ〴〵も右の時刻に御尊来下されたし、此の儀をひとえに願い上げます」


三十四


山「成程、来いと仰しゃればきもしましょうが、頭髪あたまを剃らんでも改心さえすれば宜しい頭ばかりまるくっても心を改めんではなんにもなりません、お前さんがそうしなければ気が済まんとなれば出家にでも何にでもお成りなさい、折角のお頼みだから明日みょうにち夕景までに、お前さんの隠家かくれがは知りませんが、尋ねてきましょう、同類の者はすみやかに立去らして下さるように」

圖「おで下さるか、承知致しました、実に有難い事で、呉れ〴〵もお間違いはありますまいな」

山「いやくと云ったら屹度きます、さア馬にお乗りなさい」

圖「恐入ります御免を蒙り仰せに随い…然らば明日みょうにち夕景にお目通りを致しましょう、必ずお待ち申す」

 と馬の口を取りまして、悄々しお〳〵として粥河圖書は真堀口を降りまして立去りました。山三郎は何事か知らんが頼まれたからまア〳〵行ってやろうと、直ぐ馬の首を立直して鴨居山を下りましてたくへ帰ろうと思ったが、ふと胸に何か浮んで急に西浦賀の方へ馬の首を向けました。やがて参りましたは前々ぜん〳〵から申し上げました西浦賀の女郎屋の弟息子、芸者小兼の情夫おもいおとこ江戸屋半治が兄の半五郎という、同所では親分筋、至って侠気おとこぎのある男ですから、山三郎も平生から何事も打明けて談合をする男、此のうちの門口で馬よりひらりっとり、門の脇へ繋ぎました。女郎屋から馬を引張って参る者はありますが、馬を繋ぐのは珍しい事で、やがて案内を云い入れますと主人あるじの半五郎は直ぐ様それへ出て参り、

半「うこそ入らっしゃいました、ずこちらへ、此の程は誠に御無沙汰を致しました…よう今日こんにちはお野掛かね、遠乗で、大層白い馬に乗っておでなすったな」

山「はい、少し内々ない〳〵の話があって参ったが、此処で話しも出来んが、何処か離坐敷はなれはないか」

半五「へい、これ〳〵ばあやア、の六畳へ火鉢を持って、茶はいのをれて、菓子は羊羹があった、あれを切って持って来い、さア此方こちらへ、此処からかれます」

 と庭下駄を穿いて飛石伝いに庭の離座敷はなれへ行って差向さしむかいになりました。

半五「何か御用でございますか」

山「外の用でもないが、少しお前に内々話したい事があるが、此処はたれ聞人きゝては居めえのう」

半五「たれ聞人きゝては居りません、さて段々貴方にも御心配を掛けましたうちの半治も、一体女郎屋の弟で廻船問屋のお嬢様じょうさんを女房にするなどは出来ない事で、あなたのお口入であったればこそ見合までさして下すったので、有難い事と実にわたくしも喜んで居たのに、六年あとの浦賀の祭に小兼と内約が出来たってとう〳〵彼方あちらをお断り、それに小兼も半治もあゝいう負けない気の奴だから、何と勧めても一つになると騒ぐので、わたくしも吉崎様へ済まねえからの野郎はこらしましたが、外に悪い事もなし、又小兼も足掛二年の野郎をたてすごしにしたというは、芸者に似合わねえ感心な親切者と思って居ると、とう〳〵女は江戸のうち打棄うっちゃって、態々わざ〳〵んな田舎まで尋ねて来て、是非半治の女房にさして呉れろとまでも云い、其のうち吉崎様のお嬢さんは何所どこへ行ったか行方が知れず、多分死んだろうと云う事になって、本当の葬式をなさらぬばかり、出た日を命日としておいでなさるくらいだから、済まん事とは知ってるが、奥に二人を隠して置くので、半治も小兼も嬉しがって仲好なかよくして居りますが、貴方には済まねえけれども、こりゃア一寸ちょっと御内談だけをして置きます、それに附けても吉崎様のお嬢さんは何うなすったか分りませんかね」

山「いや、それに就いても種々いろ〳〵話があるが、此の浦賀中で私の相談相手というはお前ばかりで、侠気おとこぎを見込んでお頼み申してえ事があるが、尤も決してに漏れんように、口外してくれちゃア困るが、又それを聞いて旦那どうも其れはくねえ、斯うしたらかろう、それは止すがいと云って止めても困るが、何うだえ止めやアしめえのう」

半五「どんな事だか旦那まア仰しゃって、止めるも止めねえもない、何ですか」

山「その返辞を聞かねえうちは話されねえ、何うだ決して止めやアしめえな」

半五「とめるってとめねえとってわたくしも男だから云うなといえば口が腐っても云やアしねえ」

山「それは有難い、実は半五郎、斯ういう訳さ」

 とこれから山三郎が圖書が悪事の一条から、其の女房お蘭を助けて上総の天神山の松屋にかくまって置く事から、外見みえの場所でこれ〳〵はじしめた事から、掛合いに参って果し状を附けて、今晩粥河と出合であいをして、それから圖書が降参して、遂に改心して、隠家かくれがを退散するというまでになり、また圖書が頼みに依って明晩竹ヶ崎の南山へ乗込んで同類を追払おっぱらって、この土地を洗い清めようという我が了簡から一部始終を詳しく話して、

山「という次第で右の通り約束したから明晩は是非とも参るが、何うもいぶかしいは粥河圖書、事に依ったら又己を欺いて多人数たにんずの同類で取巻いて、飛道具で撃取うちとろうとたくむかもしれんが、さある時は止むを得ず圖書を一刀のもとに斬って捨て、同類の奴輩やつばら追払おいはらう積りだが、そこは運命で又身にきずを受け切死きりじにをするやも分らんが、そこで貴様に頼みというは、し己が切死をした事を聞いたら、早速上総の天神山へ駈付けてお蘭にい、とくと私の志を述べて、暫く命をながらえて、己になり代ってうちのおっかアに孝行をして呉れるようにくれ〴〵も後々あと〳〵の事を頼む」

 と委細の訳を話しました。


三十五


 半五郎は委細を聞いて驚きました。

半五「どうも飛んだ事で、旦那道理で近辺に盗賊が殖えたと思ったが、こりゃア一通りの騒ぎじゃアない、そんな奴がこの近辺にられては叶わん、だが旦那こりゃアどうもわしの考えでは何うも怪しいねえ、おめえさん明日あすの晩竹ヶ崎へくのはそりゃアお止しなさい、先方さきにはんな謀計はかりごとがあるかも知れねえ」

山「それ〳〵、それを云うのだ、止めるといかんよと云ったを、止めませんというから打明けて話したのだ、なぜ止める」

半五「へい成程、あゝ悪いことを云った、そんな事とは知らず迂濶うっかりといったが、旦那おめえさんけば見す〳〵穽穴おとしあなちるので」

山「ちてもい、止めるなと云ったら止めませんと云うから話したのだ」

半五「左様、悪い事を云ったねえ…何うもこりゃア…あゝ悪い事を云った、悪い事を云いましたねえ、何うも飛んだ事を云った、これ程じゃアねえと思ってうっかり云ったが、何卒どうぞ旦那これだけはわたしの云う事を聞いて、今迄貴方のいう事はそむかねえが、わしう五十一になって、貴方より外に力に思う者はないに、万一もしもの事が貴方の身にあった日にゃア此の浦賀に相談する者は一人もえ、何事があっても旦那の処へ駈けつけてくのに、此の浦賀におまえさんが居ないと闇だよ、毎日役所のものが威張り廻って、やゝもすると素破抜すっぱぬきをしてそりゃア騒ぎだよ、何うぞ此の事は思いまっておくんなせえ、こりゃア本当ほんとに人助けだから」

山「それはいかんよ、向うから来てくれと云い、おうこうと男が口外したものを反故ほごには出来ん、一足も退く事は出来ん、仮令たとい謀計はかりごとがあっても虎の穴へ這入へえらなければ虎の子はられぬからくよ、貴様も男らしくもえ、決して止めませんと口外して今になって止めるとは何だ、貴様も西浦賀の半五郎だ、男らしくもえ、止めませんと云ったからにゃア止めるな、う一度止れば絶交する、貴様の顔は再び見ないからう思え」

半五「こりゃアどうも飛んだ事を云ったが、何うも旦那、じゃア止めえから斯うして下さい、野郎共が今二百四五十人も遊んで居るから彼奴等あいつらを連れて供をさして遣って下さい」

山「馬鹿ア云え、そんな尻腰しっこしの弱い事を云って仕様があるもんか、己も石井山三郎だ、むこうに大勢るを怖がって、供を連れて来たなぞと云われちゃア死んでも恥だ、殊にちゃん〳〵切合きりあいでも始めれば近村を騒がして、それこそお上へ対して恐れ多い事で、左様そうじゃアえか、是から行って圖書と刺違えて多分死ぬが、うすれば今云ったお蘭の身の上は何分頼むぜ、己はもうけえる」

半五「旦那々々まアお待ちなせえ〳〵、おやもうお帰りですか」

 と云ううち山三郎はことば少なにずうと帰って仕舞いました。半五郎は頻りに心配して、

半五「こりゃア飛んだことが出来た、何うも弱ったな、何うしよう、縁切と云うと屹度縁切だからなア、子分に内証ないしょこうか知らん、何うしよう、困った事だな、口外するなと云うから此んな事とは知らねえから」

 と独語ひとりごとを云ってる処へ、ばた〳〵と廊下を駈けて来てがたーり障子を開けて入る者が有るから、見ると小兼ゆえびっくりして、

半五「なんだ」

小「親分、半治さんの胸を聞いてお呉んなさいよ、何うぞいとか悪いとか聞いて下さい、唯手前てめえは厭になったらけえれって、何でもいから出て行けって、亀屋のお龜という芸者揚句あげくの、妙齢としごろの、今は娼妓つとめをして居るのを二三度買って、それを近いうち請出うけだして女房にするからけえれと云うから、何うしてもかえる事は出来ません、何うも江戸のねえさん達やお内儀かみさん達にも沢山意見されて、田舎へ行っては半治さんに見捨られる、男と云うものは心の変るものだから其の時は何うすると云われたから、私はそんな事は無いと云い切って来たのだから、私は今更帰られませんと云うと、煙管でもってったり叩いたりして辛くって堪らないから、何卒どうぞ親方半治さんの胸を聞いて、たって半治さんがいやと云うなら私は海へでも飛込んで死にますから」

半五「困るなアそんなことを云って、己が今心配しんぺえして居る処へ泣込んで来て、ほんとに困るなア、なに半治が手込てごめにすると、なに酔って居るんだろう」

 処へ半治が遣って来ました。

半五「冗談にも止せよ、手前てめえそんな事をいうな憫然かわいそうにの」

半治「云ったってい、厭だから厭と云うのだ、初めはいと思ったから女房にしようと思ったが六年から経って見るとく無くなったねえ、どうもわけえ女を女房に持ちたい、亀屋のお龜は真実者ほんものだからねえ」

半五「止せえ詰らん事を云うな、同じ土地の女郎屋じょうろやへ遊びに往って、女郎じょろうにはまって馬鹿〳〵しい、詰らねえ、止せよ」

半治「止せッたって気に入ったから女房にするのだ」

半五「気に入ったってういくものか、見っともねえ、世間へ済まねえ、了簡しろ」

半治「だって厭なものは仕方がねえ、厭なものを女房に持てとってんな無理な話はねえ、左様そうじゃアねえか」

半五「此の野郎大概てえげえにしろ、今更小兼をけえすなんぞという事が出来るものか、馬鹿ア云うな、間抜め」

半治「間抜たアんだ、ふざけた事を云うな、今江戸屋の半五郎と云われるのア誰のお蔭だ、父親ちゃん母親おっかアがこしらえて是だけの屋台骨が出来たから、江戸屋の半五郎とも云われるのだ、同じうちへ生れたからは己が所帯の半分を貰ってもいんだ、兄貴だと立てゝへえ〳〵云ってりゃア増長しやアがって、生意気な事ばかりいうな此の野郎」

半五「おや、此の野郎とはなんだ、呆れた奴だ」

小兼「どうも私はにいさんに済まないから私が出てきますよ、もう兄弟喧嘩はめて下さいよ」

半五「なにけえらなくってもい、んな事があっても己がけえさねえ、気でも違やアがったか、馬鹿野郎、女郎でも何でも勝手な者を女房にしろ、小兼には己がな立派な処へな、半治にまさった亭主を持たせらア、呆れた奴だ、兼公心配するな」

半治「何をぐず〳〵して居やアがる、さっさと出てきアがれ、何だ兄貴が厭に小兼の肩を持ちやアがる、はゝア分った、こりゃアなんだな、兄貴おめえは女房が死んで六年にもなるから、内々ない〳〵小兼とくッついて居るんだな」

半五「おや此の野郎、ふざけた事を、い加減にしやアがれ」

 とちました。

半治「おやったな」

半五「ったが何うした、此の野郎、呆れた事を云う、これ外の事とは違うぞ、己はな弟の女房に貰った女に手を附けるような半五郎と思うか、これ大それたことを云やアがる、これわれはな三歳みッつの時死んだおふくろが己を枕許へ呼んで、兄いやお前はもう立派な人になったが、半治はまだ歳がいかねえから、はゝが死んだあとに二度添どぞえでも這入って憎まれ口をきいていじめられると憫然かわいそうだから、大事にしておれに成り代って丹誠して呉れと云うから、なにおっかあ心配しなさんな、己が受合ったから、ちゃんだって歳はとってるし又女房を持ちもしめえと云ったら安心しておふくろは死んだが、てめえが独り歩きの出来るまでは己は女房も持たずに丹誠して、弟でも小さいうちから育ったから子を見たような心持がして、やれこれ云えば増長しやアがって、世間へ顔向けの出来んような事を云やアがって、腹一ぺえくらい酔やアがって」

半治「なんだ、聞きたくも世迷言よめえごとを、ざまア見やアがれ」

半五「おや、ざまア見ろとはなんだ」

半治「もう兄貴の顔を見るのも厭だ、兄弟の縁を切って書附をよこせ」

半五「なに此の野郎、書附をよこせと、書附も何もるものか」

半治「じゃア己が書いてやろう」

 と硯箱を持って来て仮名まじりで縁切状を書いた。

半五「此の野郎書きやアがったか、呆れた奴だ、其の気ならうちにゃア置けねえ、出てけ」

半治「出て行かなくッてよ」

 畳を蹴立けたてゝ挨拶もせず出てき掛ると、見兼て其所そこへ出ましたのはお八重という女郎、其の時分だから検査と云うことがないから梅毒かさで鼻の障子がなくなって、店へも出られないので流し元を働いておりましたが子供の時分から此のうちにおりますので、馴染なじんでは居るし、人情ですから駈出して来て、

八重「半治はん誠にほめえはりいよう、ほれじゃアまねえよ、ふァたい此家ほゝているに、ほめえがほんなほとをひてや親分ほやぶんまねえよ、小兼ほはねはんにひまになってへえれってえ、ほれじゃア可愛ははひほうだアへえ」

半治「うるせえや、書附せえ遣りゃア、兄弟きょうでえじゃアえ、さアくのだ」

 とずうと立ってきますから、

小兼「半治さん、お前それじゃア」

 と小兼は跣足はだしで駈出しながら、半治さアん〳〵〳〵待ってお呉れようー。と山坂を駈下りて追懸おっかけます。これから小兼が半治に追附おっついて一つのお話に相成りますが、一寸ちょっと一と息つきまして又申し上げます。


三十六


 引続きまして追々お話も末に相成りました。申し掛けました江戸屋の半治は兄に愛想づかしをいい掛けまして、無理に兄弟の縁を切って西浦賀の江戸屋を立出たちいでますと、小兼が跣足はだし谷通坂やんつうざかまで追懸おっかけて参った処までお聞に入れましたが、こゝに真堀の定蓮寺と申すぜん申し上げた、お蘭を生埋いきうめに致した寺がございまして、此処の留守居坊主は雁田がんだの地蔵堂に居りました破戒僧でございますが、只今此の寺が焼けて留守居の無いので、頼まれて此の寺に居って、尤もらしい顔色がんしょくをして居りますが、りますと山寺で人が来ませんから、箱膳の引出から鰺の塩焼や鰹の刺身が皿に載って其処そこへ出掛けて、その傍の所に軍鶏しゃもの切身があって、小鍋立こなべだてで手酌でくびり〳〵と酒を呑んで居ります。処へ台所口から、

半治「御免なせえ、えゝ真平まっぴら御免なせえ、海禪さんおうちですかえ」

海「はい、何方どなたえ、何方でげす」

半「西浦賀の江戸屋の半治ですがちょっと明けておくんなさい」

海「困ったもんだな、何じゃしらんが愚僧わしは今寝たがねえ、何うか用があるなら明日あす来て貰いたいものじゃがねえ」

半「どうかそんな事を云わずに一寸ちょっと明けておくんなせえ、おねげえだが」

海「よう寝附いたがねえ」

半「寝附いた者が口をきく奴があるものか、起きて居るじゃアねえか」

海「それは眠りに附いたじゃないが床の中へもぐり込んでるので、寒うて起きられんがねえ」

半「寒い時分でもえじゃアねえか、冗談じゃアねえ胡坐あぐらア掻いて居るじゃアねえか」

海「覗いて居やアがらア、困ったねえ、マア待ちな〳〵今明けるから」

 とそばにある鰺の塩焼や軍鶏などを経机の引出の中へお仕舞と致しまして、香物鉢こう〳〵ばちと茶碗を載せて前の膳をわきへ片寄せて、

海「さア其処そこくから土間の方から上りなさい」

半「はい御免なせえ」

 と戸を開けて這入ると、上り口は広い板の間で、炉が切ってあって、自在鈎じざいくすぶった薬鑵が懸ってある。

海「さア此方こちらへ這入んなさい」

半「誠にどうも御無沙汰をしました、何時いつもお達者で結構で」

海「あいお前も相変らずお達者じゃが、尤も若いからねえ、時におあにさんが大分だいぶお前の事では苦労する様じゃが辛抱さっしゃるか」

半「へゝえどうも火の用心と違ってな、さっしゃいますとはかねえので、ちっとおめえさんに折入っておねげえがあって来たのだが、おめえさんも知って居るそれ六年あとの祭の時、金棒引になった芸者の小兼ね」

海「あゝ、うん、あの小兼かえ、知って居るとも、れはたしかお前のなんで、あゝあれい女だ」

半「彼奴あいつをおめえさんが何うかして取持って貰いてえと、いうような事を、西浦賀のわけえ者に頼んだ事が有るだろう」

海「しからん事を、出家の身の上で其の様な事を、たれがそんなことを云うたか愚僧わしは一向覚えはないで」

半「そんな事を云ってもいきません、実はあれは不思議な訳でわっちの女房にするような訳になった処が、兄貴はの通り物堅いので、吉崎様へ義理が立たねえの、新井町の石井様に済まねえのといって、わっちはとう〳〵勘当となって、仕方がえから江戸へ往って小兼の処に足掛二年もくすぶって居たが、彼奴あいつわっちにゃア大分だいぶじつをつくして呉れたので、兄貴もあんまり義理が悪いから女房にしろという事になって、今小兼は出て来てうちに居るのだがね、妙なもんで六年あと彼奴あいつい女だったが、此の頃はこう小皺が寄ってきて、年をった新造しんぞの顔はおっかねえもので、何だか見るのも厭になったが、それとは違って亀屋の暖簾附のれんつきのお龜はね、此奴こいつ一寸ちょっと婀娜あだっぽい女で、此奴こいつわっちは約束してねんの明けるもちけえから此奴こいつを女房にしようとした処が、それをねたみやアがって小兼めがぎゃア〳〵云って面倒臭くって成らねえのに、兄貴も彼奴あいつおつに贔屓して、あゝのこうのと云って実に七面倒臭めんどうくせえから兄貴と二ツ三ツ云合った所が、兄貴め腹ア立ちやアがって、見てお呉んなせえわっち月代さかいきの処を撲切ぶっきりやアがって此の通り疵がある、なん兄弟きょうでえでもあんまりな事をやアがるから、う兄貴でも何でもねえ、縁切だとって書附を放りつけて出て来たら、小兼め、あとから追掛おっかけて来やアがって仕方がねえ、よんどころなく大津の銚子屋へ遁込にげこんで見ると、まだ二三人も客が居るに彼奴あいつがぎゃア〳〵狂人きちげえのようになって、わっちの胸倉ア取って騒ぐから、何でもだますより外アねえと、此処じゃア話が出来ねえ、真堀の定蓮寺に海禪さんが留守居をして独りで居るから彼所あすこへ行って炉のはたに己が寝て居るから知れねえように中へ這入へえれ、左様そうすればとっくり寝物語にしてやろうと漸々ようようだましてわっちは一足先へ来たが、もう今に彼奴あいつめ来るにちげえねえ、処で頼みというのアおめえさん何うぞわっちの積りで手拭を被って頬冠りをして坊主頭を隠して、床をとって寝て居て、来たらおめえさんが床の中から一寸ちょっとこう手か何か握って、首っ玉へ手を掛けておくんなせえ、処へがらりっと唐紙を明けてわっちが飛出す、さアふてえ奴だ、只置くものか、外に男もあろうに法衣ころもを着た出家とんな事をやアがってふてえ婀魔だ、さア何うするか見ろ」

海「それは可愛そうだ」

半「可愛そうも糞もあるものか、さア友達に顔向けが出来ねえ、覚悟しろ、だが命は助ける、其の代り手前てめえを横須賀へ女郎にめて、己もそれだけ友達に顔向けの出来るようにしなければならねえ、覚悟しろ此の坊主ふてえ奴と、まア斯ういう訳になるのだ」

海「えらい事を云うなア、呆れて物が云われん、ようまア考えて見なされ愚僧わしなんじゃと思って、愚僧わしは袈裟法衣ころもを着る出家ではないか、仮令たとい留守居でも真堀の定蓮寺で、今は破れてももとは大寺じゃ、此の寺の留守居をする出家をつかまえてそれに邪淫の戒を犯せと云う、そないな事があろうかい、頼むに事を欠いてまア呆れた、そして罪な事じゃないかい、其様そんなに迄惚れて女房になりたいという、お前も得心の上で田舎の此の浦賀くだりへ呼寄せながら、今更きた、うちへ帰すに手がないとって、まア云わば相対間男あいたいまおとこして罪をせて、女郎に横須賀へ売るなぞと、其の様な事を云われた義理かい、呆れ返ってもう物が云われん、さア〳〵さっさと帰って下さい、愚僧わし其様そないな事は聞くのもいやじゃ」


三十七


半治「そんな事は云わずとってくんねえな」

海「出来んと云ったら、んで下さい、阿呆あほうな事を、人情じゃから愚僧わしは許すが表面おもてむきになれば只は許さんぜ、何処までも届け出ますじゃ、出家という者はな、お前なぞは分らんから云って聞かすが、誰も知って居る五戒をたもつと云うじゃ、これは俗には出来悪でけにくいものじゃ、其のうち偸盗戒ちゅうとうかいといって仮にも盗みをする事は許さん、塵一つでも盗めないじゃ、殊に又邪淫の一戒というて此れを破れば魔界へ落るというくらいの大事なものじゃ、それに酒を飲むことが出来でけん、飲酒おんじゅの戒は文珠経にも出てあるじゃ、えか、それに妄語戒といって嘘をつくことは出来でけん、えゝか、それに虫けら一ツでも命を取ることは出来でけん、殺生戒といってな、それは〳〵出来でけにくいには違いない、喰いいものもう喰わず、飲み度い酒も能う飲まず、愛すべき女子おなごも愛さんで慎しんでいるからこそ、方丈様とかお出家様とか云われる身の上となるじゃ、それに向ってどうも馴合間男せいなどゝ、なんぼう物の分らんでも程がありますわ、んで下さい」

半治「成程、こいつア何うも済まなかったね、したがね、おめえさんなんぞはそんな事はえがね、中には道楽な坊主があるねえ、此間こねえだも亀屋へ往って浮かれていると、彼楼あすこのおすみという二十四五の、一寸ちょっと小意気な女があるが、大層粋な声がするから、其の座敷をそっと覗いて見ると、客の坊主がおすみの部屋着を着て、坊主頭に鉢巻をして柱に倚掛よっかゝって大胡坐おおあぐらをかいて、前にあるのアみんなまぐさ物、鯛の浜焼なぞを取寄せて、それに軍鶏しゃもなんぞくらって、おすみに自堕落じだらけやアがって、爪弾つめびき端唄はうたか何かアお経声でうなっていたが、海禪さん其の坊主はおめえによく似ていたぜ」

海「あゝれを見たか」

半「見たかもえもんだ」

海「えらい事を知っているな、困ったな、いわ知られた上は是非がないが、あれは一寸ちょっとその只ほんの気晴しに女子おなごを愛すので、楽しんで淫せずでな」

半「旨い事を云ってるぜ、飲酒戒なんぞといっても此所こゝに酒があるじゃアえか」

海「それは仕方がない、好きじゃから」

半「おや〳〵此処に魚の骨が、おめえの前にある竹の皮包かわづゝみは軍鶏かい、それは旨いね、煮なせえな」

海「あゝ斯う目付めつかってはもう仕方がねえ、他人ひとには云うなえ」

半「云やアしねえ、其の代り打明けていった今の話は聞いて呉んなせえ」

海「実はなア六年あとの祭のとき、小兼が若衆頭わかしゅあたま裁附たっつけとやらいうものを穿いて、金棒曳かなぼうひきになって、肌を脱いで、襦袢の袖が幾つも重なって、其の美しいこと何ともかんともいえなかった、愚僧わしは其の時ぞっこん惚込んだが、何をいうにも坊主の身の上、又お前という色男があるから諦めて居たが、けれども実にのような女ア無いなア、あんなえ女をお前何んで厭になったのじゃ」

半「何だって外にわけえのが出来たからさ、おねげえだ己がいう事を聞いてくれ」

海「お前本当に女郎に売る気かえ」

半「そうよ」

海「女郎に売る気なら愚僧わしにくれんかい」

半「おめえが貰ってくれゝば実に有がたい、それに一と晩でも抱寝だきねをした女だから実は女郎に売りたくもえのよ、おめえ彼奴あいつを留守居にしてくれりゃア重畳ちょうじょうだ」

海「そりゃア愚僧わしも願ったり叶ったりじゃ、これから衣の洗濯でもして貰ったり、ほころびでも縫うてくれゝば実に有難い、これまでは何をするにもみんわきへ出すものじゃから銭が入ってどうも叶わんが、左様そうなれば万事につけ都合がえじゃ、お前、ほんまに世話して呉れようか」

半「くれるよ、狂言の筋がわっちが殺して仕舞うというのを、おめえが仲へ入ってそんな事を云わずと助けてくれ、愚僧おれの様にもしようから女を愚僧わしにくれないかと、斯うおめえがいうのよ、其の代り多分のことは出来んが、金を出すからといって二十両金を出すのだ」

海「それはと困るね、金はないが」

半「そりゃア金は己が出すよ」

海「それじゃアい、うん、それから」

半「それから其の代り初めはおどして縛るよ」

海「縛るうー」

半「そうよ、縛らなけりゃア成らねえ、おめえを縛って」

海「小兼は」

半「彼奴あいつも縛るのよそれから台所に出刄庖丁か何か有るだろう、其奴そいつを持ってさアやっつにするぞと云って」

海「寺の出刄は光らん、真赤まっかに錆びてるぜ」

半「只振𢌞すばかりでいや、驚くだろう畳へ突っすから」

海「畳へは通らんぜ」

半「じゃア畳のへりの間へでも揷すからい」

海「危ない狂言じゃな、うんそれから」

半「殺すといったら小兼が助けてくれというにちげえねえ、するとおめえが命ばかりは助けて、のようにも致して江戸へ帰す様にするからというのよ、そこで金を出す、わっちが受取る、書附を書く、それに縁切にしてわっちは出て行って仕舞うのよ、其のあとで小兼がおめえに抱かれて、おめえの大黒様になるのだよ」

海「はゝアそれは有難い、思い掛けない、何だかもうぞく〳〵して来た」

半「じゃア筆だの墨だのいか、じゃア坊主頭に手拭を被って斯うして居るのよ、いか」

海「えわ」

半「竹ヶ崎南山の粥河さんがお蘭さんを生埋いきうめにしたろう」

海「うんにゃ知らん」

半「いかんよとぼけちゃアいかんよ、知っているよ」

海「知って居るったっておらア知らんよ」

半「知らねえで、じゃア、何ういう訳で石井の妹を粥河へ縁付ける橋渡しをしたか」

海「あれは西浦賀の浄善寺へ、粥河様が法談を聞きに行って、お藤さんを、見て貰いいというからで」

半「やっぱり世話アしたので、時々偸盗戒ちゅうとうかいの提灯持をするね」

海「なんじゃ」

半「いけないよ、種が上って居るからいけないよ、れだけの山や田地を買い金を持って居るのもみんな盗んだのに気の附かねえ奴がある者か、手下が二百人も有るからね」

海「何じゃか愚僧わしは知らんがなア」

半「そんな事を云ってもいかんよ、悪事を平気な泥坊とはいいながら、目をまわしたなりお蘭さんを此の本堂の下の石室いしむろの中へ生埋いきうめにしたね」

海「これ〳〵馬鹿な事をいうな」

半「いうなったって種が上って居るからね」

海「どうしてそれを知って居る」


三十八


半治「どうしたってじゃが沼でへびるまで知って居るのだ、すっかり種が上っているのだわっちも今ア兄貴をかぶって、長い浮世にみじけえ命、うめえものを沢山喰って、てい放題をてえわさ、左様そうじゃアねえか、おめえさん後生だ手紙を一本書いて粥河様へ紹介ひきつけてお呉んなせえ、西浦賀の江戸屋半治という女郎屋の弟だが、餓鬼の時分から身性みじょうが悪くって随分お役に立つものだと云って手紙をおめえさんが書いてくれゝばい、その手紙を書いてお呉んなせえ」

海「しなよ、好んで悪事の仲間へ這入る奴があるものか」

半「そんな事をいわねえで、おめえさんがくのじゃアなしいじゃアねえか、いう事をかねえと種をるよ」

海「全くか」

半「全くとって悪事に共に荷担すれば素首そっくびの飛ぶ仕事じゃアねえか」

海「うん、左様そう了簡を極めたらあとで書いて遣ろう」

半「先に書いてくんねえな」

海「あとでもかろう」

半「そんな事をいわずに、気が変るといけねえから書いてくんねえ、その代り小兼を女房に持たせるのだ」

海「そんなら書いて」

 と海禪は硯箱をとって半治の身性みじょうを書いて、これ〳〵と紹介状ひきつけじょうしたゝめ、表書うわがきをいたしまして、

海「さア」

半「有難ありがてえ、成程これを持ってけば大丈夫だ、時に彼処あすこへ夜這入へえるには何処から這入へえるか隠れて出這入でへえりする処は何処だえ」

海「彼処あすこの諏訪様の鎮守の社の裏に一段高い土手がある、其の下に石でこさえた水門口のような処がある、彼処あすこの下へずうと手を入れてぐうーとこう当てると、人差指の当る程の石のくぼみがある、其所そこへ中指と人差指で下へ押すとばちんとはじけて中へ這入る所があるわい」

半「ちげえねえ、そう〳〵彼処あすこどぶか何かで水でも流れる所と思って居た、おや足音が聞えるぜ、さア〳〵頬被ほゝかぶりをしねえ、頭が出るといけねえから」

 と半治は懐中から手拭を出してかぶせる、其のうち床を出して其の上へごろりっと海禪坊主横になりました。半治は納戸へ這入ってぴったり襖をて切りますと真闇まっくらになりました。暫く経つとばた〴〵と草履でも穿いて来ましたか足音が致します。土間口の戸に手を掛けて、

小兼「半治さん此所こゝを開けてもいのかえ」

 と漸々よう〳〵上総戸かずさどを明けて忍び足で中へ這入りまして、板の間から小兼は上りまして、手探りで探り寄ると、敷布団に手が障りましたから、ぴったり枕元へ坐りまして、

小兼「一寸ちょっと半治さん、お前は本当に愛想もこそも尽きた人だよ、お前のような不人情な人と知らず私はだまされて斯んな知らない土地へ来て耻ッかきな、今更江戸へも帰られず、お前に見捨られるよりは海へでも飛込んで死ぬ覚悟で居ますから、私が命を捨る代りにおめ〳〵とのお龜という女と夫婦にして置かないよ」

 海禪は小さい声で「いから此方こっち這入へえれよ」

小兼「何をぐず〳〵いうのだえ、すっぱりお前の性根のすわった挨拶しておくれな、挨拶次第で私は只は置かないよ」

 と懐中からすうと取出しまするは剃刀かみそり二挺で、これを合して手拭でまいて手に持って、

兼「さア挨拶をお聞かせよ」

 海禪は又小さい声で「挨拶するから此方こっち這入へえれよ」んな声で云ってもなまりが違いますから露顕しそうなものだが、そこは夢中で小兼が問掛けると、半治は一間ひとまから飛出しまして、

半「さア此奴こいつらアふてえ奴だ」

兼「お前は其処そこに居たんだね」

半「斯ういう事も有ろうかと思って居た、さア坊主ふてえ奴だ、手前てめえは衣を着る身で斯んな事をしやアがってふてえ奴だ」

海「愚僧わしは何も覚えはない」

半「えも糞もあるものか、己の女房を引摺込んだはうぬ了簡があろう、さア小兼覚悟しろ」

兼「私はお前と思って」

半「この畜生めら、ふてえ奴だ」

 と云いながらそばにあった丸絎まるぐけを取って海禪坊主をぐる〳〵巻に縛るから、

海「いてえな、本当に縛るのか、えらいな、どうも」

半「じたばたしやアがるな、覚悟しろ」

海「縛らんでもえが」

半「なんでえ覚えて居やアがれ」

海「どうしても縛るか」

半「小兼、手前てめえも縛るがちっと了簡がある、さア蝋燭があるから手燭をとって本堂へあかりを持って来い、やい坊主、さア来い」

海「これ〳〵何をする」

半「何もたこもあるものか、さア一緒にけ」

 とずうと本堂の方へ引摺ってきまして、居間から直ぐわきの本堂の前の畳を二畳上げて、揚板あげいたを払って明けるから海禪驚きまして、

海「其処そこを明けてはならん」

半「此の中へお蘭さんを生埋いきうめにしやアがって」

 ともとより一旦明けてありますからき明きました。

海「其処そこを明けてはならんと云うに」

半「成らんも成るもあるものか、くもお蘭さんを生埋いきうめにしやアがったな、此の坊主、ふてえ奴だ、お蘭さんの代りに此の中へ這入へえれ、間抜めが」

 とずる〳〵引摺るが、海禪は縛られて居るから動くことも何も出来ない。

海「これ〳〵何を」

 というばかり、小兼も手伝って中へ入れる。

兼「此の海禪坊主め、太い奴だ、お嬢さんを生埋いきうめにして」

海「そんな事をいっても此処にはお蘭さんは居ねえ」

半「居るもんかい、天神山に居るわい、さア小兼来い」

 と海禪を穴の中へ押込んで、上から石蓋いしぶた整然ちゃんとして、ずうと出てきました。海禪坊主はい面の皮だ、天罰とは云いながらとう〳〵穴の中へ封じ殺されるように相成りました。


三十九


 此方こちらはお話二派ふたはになりまして、竹ヶ崎南山の粥河が賊寨ぞくさいでは、かの(山三郎と果し合の夜)同類の者一同は寄集り、ずうっと居並んで居ります。前の方にもわきの方にも一杯でございます。床の間の処に縁取袴へりとりばかまを穿き、打割羽織ぶっさきばおりを着て腕を組んで頻りに考えて居るのが粥河圖書で、そばに居る千島禮三が、

禮「大夫たいふ如何いかゞ成されました、お帰りになったのち種々いろ〳〵御様子を伺っても一言のお答えもなく、只考えてばかり入らっしゃるが、今晩既に小原山へおでの折お供して参ろうと申したを、いや供は入らんと仰しゃるから、心配しながら皆々ひかえて居ったが、お帰り有ってもとんとお話がないが、何ういう訳ですか、甚だ心配で、山三郎は我々の悪事でも存じて居りますかな」

圖「何もも彼は残らず存じてる、女房お蘭を真堀の定蓮寺へ生埋いきうめに致した事も彼は存じてる」

禮「へゝえ一体彼はなんではございませんか、浦賀奉行に縁故ちなみがあるとちらりっと聞きましたが、探索方でも致して居りますかな」

圖「いや〳〵彼はなか〳〵上へへつらって名を売って男になろうという卑劣な奴でない何うも彼奴あいつの魂には驚いた」

禮「彼は小原山へ参りましたか」

圖「参ったとも、先へ参って居った」

禮「ふーん度胸のい奴で、一人、ふーんしかし貴方が乗馬じょうばで彼は驚きましたろう」

圖「ところが先方むこう乗馬うまで」

禮「へえー、馬の乗り様を心得て居りましたかな」

圖「馬はわしよりは余程上手に乗る、蒔絵の鞍に月毛のたくましい馬にまたがって、馬足ばそくとゞめて小原山の中央に立って居た時は、実にどうも敵ながらも、天晴あっぱれの武者振で中々おもての向け様も無かった」

禮「ふーん、はてな、そこで貴方が銚子屋に於ての無礼の次第をお問いなすって」

圖「わしも其の無礼を問掛けて、何故なにゆえ妹をくれられんかと云うと、そこは彼奴きゃつ男で、盗賊どろぼうだから遣らんとは云わず、可愛いゝ妹だから貴公の女房に遣って又生埋いきうめにされるが不憫じゃからといって、悪事を云わず、実にどうも感服致した」

禮「それを知った上からは助けては置かれませんな」

圖「尤も助けて置かれんから太刀の柄に手を掛けて馬を進めると、山三郎もつかに手をかけじり〳〵と寄ったが中々隙はない」

禮「成る程、彼奴きゃつは剣術も余程出来まするか」

圖「いやわしよりは余程剣道は上だな」

禮「ふーん、残念ですな、なれども貴方は飛道具を持って入らっしゃったから」

圖「馬の鞍へ種が島を附けて行ったから、打落そうと思ったら、先方むこうもどっこい此方こっちにもと小筒を出した時は実にどうも驚いたよ」

禮「成程々々、ふうーん」

圖「仕方がないから馬から飛下りて、これまでの悪事の段々何もも知られた上からは貴公の手に掛って死ぬか、左もなくば縄打って八州に引渡せと云ったら、わしは縄を取る役人でないから縛ることは出来ん、改心すればわしが妹よりはまさった女房を持たせよう、わし媒人なこうどになって生涯親しく交際つきあおうじゃないかと、実になさけことばで中々感心致したな、わしもそこで真実改心する気になって、これより頭髪あたまを剃りこぼち、麻の衣を着て鼠色の頭陀ずだを掛け、行脚の僧になって飛騨の高山へ立越えると誓ったが、此処に居る銘々も何卒なにとぞ心を改めて山三郎の其の厚い心を無にしない様に、しゅうあるものは主方しゅうかたへ、親あるものは親のほうへ帰参して、これから正しい道を歩いて真人間になってください、あゝどうも実に弱った」

禮「ふむーん、それじゃア貴方愈々いよ〳〵出家をなさるのか」

圖「はい、みょう夕景に何卒なにとぞ吾が隠れ家へ御出で下さればお別れの酒盃さかずきを頂いて、臓腑を洗い清めて山をくだりたい、坊主になった姿を見て貴方喜んで下さい、我等もお顔を見てちたいと云ったら、侠客おとこじゃなア、明日あす夕景から必ず参ると斯う云った、明日夕景山三郎が参るから其れ迄に剃髪して法衣ころもを着る心底じゃ」

禮「ふむー」

圖「さアみんなは何うかな、改心して堅気な者になるか」

禮「みんなも聞いたか、大夫たいふはお覚悟の御心底だが、どうだい」

手下「大夫が御改心なら仕方がねえ、山を下りようか」「いや己は今更盗人ぬすっとやめるのは厭だ」

 と大勢ごた〳〵相談して居りますと、千島は、

禮「大夫、わたくしは此の山は動かねえ、わたくしも千島禮三で、仮令たとい相手が強いと云っても多寡たかの知れた素町人すちょうにん、此処へ来るというが幸い、どうせ細ったわしが首だ、山三郎と刺違えて死ぬ分の事、又首尾く山三郎を仕止めれば此の山は同類を集めて、毒をくらわば皿までねぶれで、飽くまでも遣り通します、貴方それでは余り尻腰しっこしえというもんだ、わたしいやだ、貴方その御了簡なら何処へくとも勝手になさい」

圖「てめえは何うあっても改心は致さんか」

禮「改心してもう身動きも出来ん程悪事をして、の道おかみの手に掛って素首そっくびはねられる身の上、よしんば大夫が今坊主になっても、粥河圖書が在俗の時分是々の悪事があるといえば、法衣ころもの上から縄に掛るは極って居る、今改心しても駄目ですぜ、やいみんなはどうだい、山三郎と刺違えて死ぬ心底か、みんなは何うだい」

同類「こりゃア千島さんの云うのが尤もだ、わしらもお前さまと同意で、遣るなれば共々飽く迄も遣りましょう」

圖「ふん左様さようか、そう度胸がすわったらい、そうなら話すが実は己も衣を着て飛騨の高山へくと云ったは嘘だ、明日あす山三郎を欺きおおせて此の山へ引摺込んで、なぶごろしにして遣ろうという謀計ぼうけいが胸に浮んだから、今夜空泣そらなきして改心のていを見せたのだが流石さすがは町人、智慧は足りねえ、そんなら行って見届けてやろうと高慢振ってぬかしたが、弥々いよ〳〵明日の夕来た時は寄ってたかって腕足を踏縛ふんじばって、素っ裸にして頭の毛を一本々々引抜いて、其の上で五分だめしにしなければ腹が癒えねえ」

禮「そいつア面白れえ、大夫が其の了簡なら私等わしらは十分に働きます」

 と猶種々いろ〳〵明日の手筈をしめし合せて居りますと、忍び足で来た江戸屋半治が縁側から、

半治「御免なせえ」

禮「誰か」

半「へえわっちで西浦賀の半治という者で、粥河様のお宅は此方こちらで」

禮「きもを潰した、何処から這入った」

半「縁側の戸が開いて居たから其処そこから這入へえって、大層てえそう大勢様で、おにぎやかで」

禮「しからん奴だ、何処から這入りやアがった、しまりある場所を這入りやアがって、門でも乗越えて這入ったか、他に這入れる訳はねえが、此奴こいつ手前てめえ賊だな、いや賊だ、手前てめえ盗賊に違いあるめえ」


四十


半治「冗談いっちゃアいけねえ、賊はおめえさんたちだ、わっちは西浦賀の女郎屋の半治という者で、孩児がきの時分から身性が悪くって、たび〳〵諸方ほうぼうくすぶって居て、野天博奕のでんばくち引攫ひっさらい又ちょっくらもち見た様な事も度々たび〳〵遣って、随分悪い事の方にゃアお役に立つ人間だから真堀の海禪さんに此方こなた紹介ひきつけてくれといって手紙を書いて貰ったから、是を読んで見ておくんなせえ」

禮「妙な奴だな、大夫たいふこれは海禪の書面で、むゝなに〳〵」

 と千島は海禪の手紙を読下して居りますと、圖書はじろりっと半治をめ付けて、

圖「これ手前は江戸屋半治というか、手前は東浦賀の石井山三郎には恩分おんぶんを受けて居る身の上だな、手前これへ山三郎の犬になって来たな」

半「冗談いっちゃアいけねえ犬なんてえ」

圖「いや犬になって来た此の書面は海禪坊主の書いた書面でも有ろうけれど、どうも手前はいぶかしい、これ〳〵此奴こいつを縛ってなたゞして見ろ」

半「これ〳〵冗談いっちゃアいけねえ、糺しても何にもねえ、詰らねえ事をいっちゃアいけねえ、一体海禪さんが此の手紙をわっちに書いてくれたにゃア訳があるので、海禪さんが此の手紙を書いたのア、なんです、わっちは一体小兼という旦那も御存じの江戸の芳町の芸者ね、れと夫婦約束して女房にしようと思ったが、此の頃変に厭になって何うかして江戸へけえそうと思って手段てだてをしたが、小兼めぎゃア〳〵狂人きちげえの様になってわっちを殺すって追掛おっかけるのさ、わっちおっかねえから真堀の定蓮寺へ逃込んで漸々ようようの事で助かったがうちを出る時ア兄貴と喧嘩アして兄弟きょうでえの縁を切る、二年越も世話になった女と一緒になるも厭になって、まごつき出した日にゃア、何うせ此の世にゃア望みはえ、うめえものでも沢山たんとくらって、面白い思いをして太く短かく生涯しょうげえを楽に暮して、縛られゝば百年目、此の粗末な素首そっくびを飛ばして帳消ちょうけしをして貰うばかり、お役に立つか立たねえか知らねえが、まアつかって見ておくんなせえ、おねげえだから」

圖「手前の申す事は採上とりあげん、手前は山三郎の犬に相違ない」

半「縁側で聞けばお前さん方、山三郎を生擒いけどりにするなどというが、それは駄目ですぜ、何故なりゃア彼奴あいつは滅法力がある、十八人力あると云いまさア、浦賀中で聞いて御覧なさい、剣術も随分上手で三十人位は一緒に掛ってもポン〳〵遣られて、とても寄附く事は出来んが、そこはわっち孩児がきの時分から気性を知抜いて居るから、彼奴あいつだまかす事ア訳はねえ、今迄も其ので無闇に金銭ぜにを遣わせたが、彼奴あいつには一寸ちょっとした呼吸のおいやり方があるので只でもいかん、妙においやり方がある、早く云やア多勢おおぜいたてまつって一杯飲ませる、酒の中へ麻酔薬しびれぐすりを入れて飲ませるので、これを飲ませれば身体が利かん、此処にはお医者もおいででしょうから毒酒を調合してお片附けなさえ、それも初めからでは何うして中々取附とッつけねえ、ぽん〳〵遣られる、彼奴あいつだます事は半治は上手で」

圖「左様なことを云っても己は用いん、成程小兼は存じてるが手前とは一方ならぬ馴染の中で、それで今更捨てるなどとは何うして〳〵真に受けられん」

半「いゝえ本当で、なんのつけに嘘などをきますものか、そりゃア海禪さんも証拠人で」

 と云い争って居る所へ、縁側から駈上って来た小兼は、帯もずる〳〵髪振り乱して片手には剃刀かみそりを持って、顔色を変え、

兼「さア半治さん此処へ出なさい、呆れ返って物が云えない、お前のお蔭で海禪さんにまでだまされて、さアもう許さない、お前を殺して私も死ぬから此方こっちへお出で」

半「やア〳〵来やアがったな、何処から這入へえった、此奴こいつめが」

兼「何処から来てもい、さア女の一念だ、誰れでも止めりゃア叩ッ切ってしまう、さア悪性男あくしょうおとこ此方こっちへ来い」

半「これさい加減にふざけろえ、まア危ねえ、そんな刄物を持って、これ人様の前だ、まア此方こっちへ来ねえ」

 と半治は立廻りながら小兼の油断を見済まして剃刀を叩き落し、手早く掻取かいとりて、

半「さア、もう大丈夫だ、此の阿魔女あまっちょめが」

 といきなりたぶさを手に引攫ひッつかんで二つ三つなぐりつけ、それから其処そこらを引摺り廻して、ひい〳〵泣く奴をったり蹴ったりして、帯を取ってぐる〳〵巻にし、縄を持って来て、垣根のわきえのきの大木に縛り附けて、其処にある棒を拾ってぴし〳〵ちますと、

兼「さア殺せ〳〵、殺せばおのれ幽霊になって喰殺すぞ」

 と金切声を挙げて泣き叫ぶのを、

半「なアんのうぬ、殺せも何もあるものか、幽霊にでも何んでも勝手になれ」

 とぴしゃり〳〵とちますから、

圖「まア〳〵静かにいたせ、どうもひどい奴だ、手前ほんとうに殺す気か」

半「へい」

圖「成程手前は酷い奴だ、全く手前は同類になりたいか」

半「へい、なりてえから願うんです」

圖「本心か」

半「本心の何のとってお前さんも疑ぐりぶけえ、わっちが本心の証拠には、山三郎が来たら手初めの奉公に、一番山三郎をだまかして見せましょう」

圖「むゝ本当なら耳をかせ」

半「へい、うむ成程承知しやした、一番すっかりと遣って見せましょう」

圖「その通りにしろ、山三郎をだますことは其の方に申し付ける、奉公初めに欺きおおせて毒酒を飲ませろ」

 と多勢おおぜい寄集り、明日あす手配てくばりをして居るうちに夜が明けると、眞葛周玄の調合で毒酒をこしらえ、これと良い酒とを用意して、粥河を始め千島禮三、眞葛周玄までも、実に青菜に塩というような、みんなが折れて改心というような顔色がんしょくをして、山三郎の来るのを待って居りますと、此方こなたの石井山三郎は実に強い男で、たった一人で南山の粥河の賊寨ぞくさいへ其の日の夕景に乗込んで参るというお話、一寸ちょっと一息つきまして、又申上げます。


四十一


 引続きましてお聞きに入れまする、竹ヶ崎の南山へ山三郎一人で乗込んで参るというお話、一体山三郎は釣のごく好きな人でございますから、此の日もたくを出まするとき、釣にくような風を致して、一寸ちょっとした結城のあわせに献上博多の帯をしめて、弁当箱はかごに出来て居ります。竹の編物で極凝った弁当でございます、これをげまして、關兼元の無銘摺上げ一尺七寸ばかりの脇差をしまして、日和下駄を穿いて竹ヶ崎へ掛って参ると、とっぷり日が暮れまして、月の出ようという前で、やがて粥河が屋敷の大門を這入って、二重門の所へ立ちまして、

山「お頼み申す〳〵」

 というと奥では待構えて居た一同が、此の声を聞附けまして、

圖「これ〳〵千島、表に声がするが山三郎が参ったようで」

禮「宜しゅうございます」

圖「半治支度はいか」

半「へえ、すっかり出来て居ります鉄砲へも玉込をして置きました」

圖「それまでには及ばん、酒の中へ毒は這入ってるか」

半「へえ、入れて置きました」

圖「これ〳〵千島、手前腰の物を差してかん方がい、無刀の方がかえって気を許すからなそれに一人ではくない、長治と二人で出ろ、重々しくな、粥河圖書がお出迎でむかいにまかり出ますのだが、只今剃髪致しまする支度をして居りますからお出迎には出ませんが、すみやかにお通り下さい、手前どもは粥河が同類でござる、貴方の思召おぼしめしを粥河から逐一承り、とんと改心致しましたと、いか神妙らしくいえ」

禮「心得ました」

 とつか〳〵と二人で参って門の開戸ひらきどをギイと左右へ開けまする。

禮「はゝアうこそ御来駕で、東浦賀の石井氏でらせられますか」

山「はい、山三郎で、昨夜ゆうべ小原山に於てお約束致したからまかいでました、何うか粥河様へお取次を願います」

禮「はゝア、昨夜さくや粥河圖書御面会後立帰りまして承わりました、実に貴公さまのような義侠のお心掛のお方はない、実に何うもかたじけない御教訓であったと粥河圖書感涙を流してな、今日こんにち頭髪あたまそりこぼち、麻の法衣ころもに鼠の頭陀ずだ行脚あんぎゃの支度を取揃えまして、唯今山をくだりまする、その改心の様子を御覧に供えましたら石井氏はさぞかしお悦びであろうと其れのみ申して居りまする、手前は千島禮三と申しもと金森家に居りまして小納戸役をも勤めました者で、今日こんにちより貴公様の御教訓に依り、改心致して真人間に相成ろうと悦び居りまする仕儀、これ皆尊君様そんくんさまの御説諭にもとづきますことゝ、実に何ともはや恐れ入りましたことで、粥河が先刻よりお待兼申し居りまする、さアすみやかにお通りあらせらるゝ様に、おや何だ、何処かへ行って居ねえわ、山三郎殿は来たのかと思ったら何の事だ」

長「居ねえっておめえが頭を土間へくッつけて、ぐず〳〵云ってるうち、頭をまたいでつう〳〵先へ行って仕舞ったのよ」

禮「なんだ、そんなら左様そうと早くいうがい、馬鹿〳〵しい」

 と千島はぶつ〳〵云って居ります。此方こなたの山三郎は中々待ってなどは居りません、ずん〳〵玄関口から案内もなくずうっと奥へ通り、粥河圖書の居ります二けん大床おおどこ檳榔樹びんろうじゅの大きな柱の前の処へぴったり坐って、たいを据えました。これはし乱暴でも仕掛けたときは柱を楯に取って多勢おおぜいを相手に切捲きりまくろうという、そこで床柱のきわへ坐りました。前へ釣の弁当箱を置きまして座を占めました坐相ざそうの見事なこと実に山をゆり出した様な塩梅あんばいで、粥河はず驚きまして、

圖「これ〳〵千島、これへおいでになるに御案内もせんで何ういうものだ」

禮「御案内致そうと心得まして、れへ参って挨拶をして居るうち、頭の上を跨いで奥へおいでで、驚きましたので」

圖「しからん、届かん事ではないか、これは〳〵うこその御尊来で、粥河圖書身に取りまして実に大悦至極にござります、昨夜の御意見に附きまして、同類の者へもそれ〴〵尊公様の思召おぼしめしの通りを申し聞けました処が、皆々感涙を流して有難がりまして、実に賊を働きますは耻入ったる事である、必らず改心の上親ある者は親方へ、しゅうある者は主方しゅうかたへ帰って元の職業を致すと、二百人も居りますなか一人いちにんも不服の者なく改心致しましたは、ひとえにあなた様の義侠の御親切なるお心が銘々に感通かんつう致しました訳でござりましょう、実に此の上もない有難い事で、現に御覧の通り同類の者は昼程一に出ますると目立ちますから、皆それ〳〵の五つ時までに下山させまして、只今残り居ります者は千島禮三、眞葛周玄に、長治と申す旧来居りまする者と、其の外十四五人居りますばかり、かくの通り畳建具なども皆積上げまして、皆近辺の貧なる百姓に分け与える心得で、金銀などもこと〴〵く遣わしましたが、まだ〳〵残り居ります訳で、御安心下すって何卒どうかあなた様の御盃おさかずきを頂戴致して、けがれたる臓腑を洗い清めましてすみやかに立退たちのきまする心底で」

山「いやそれは何うもかたじけのうございます、お前さんが改心して下されば、私も誠に申した甲斐あると申すもの、さア速かにお立退きなさい、下山げさんの処を山三郎これに於てとくと見ましょう、さアお立退きなさい」

圖「はゝアかしこまりました、就きましては甚だ差上げる物もござらんが、いさゝ酒肴しゅこうを取寄せお待受まちうけを致して居りましたから、何うぞ一さんお傾け下され、さ周玄これへ」

 というと、眞葛周玄は恭しく足附の高膳たかぜんを山三郎の前へ据えまして銚子を持って参りました。其のうち一つは毒薬の仕込んである酒、一方かた〳〵ほかの者が飲むように銚子を替えて持出しました。実に山三郎の命のあやういこと、風前の灯火ともしびのようでござります。


四十二


 粥河圖書は丁寧に手を突きまして、

圖「そのお盃を何卒どうぞ石井氏一つ召上ってわたくしへ頂戴いたしとう存じます、何うか御盃ぎょはいを頂きたいもので」

山「御盃などと大形おおぎょうなことを云っては困ります、わたくしは一体酒は飲まんたちで」

圖「でもございましょうが、めて一杯召上ってわたくしへ頂戴致しう」

山「いや、わたしもまるっきり飲まんのではないが、お前さんとこの酒は飲みません、お前さんがほかから盗んだけがれた金銭で買った物を、正道しょうどう潔白な山三郎の口へ入れてはわたしの臓腑を穢す様な訳で、わしは厭だ、盗賊の物を飲んだり食ったりするのは厭だ、かっしても盗泉とうせんの水を飲まず、其のくらいの事は山三郎存じて居ります、其方そちらで勝手にお飲みなさい、わしは釣にきますとき、何時いつでも母親おふくろが旨いものを拵えてくれて、肴は沢山たんとはないが、此方こちらはこちらで勝手に遣ります、其方そちらはそちらで勝手におあがりなさい」

 と山三郎は持参の酒を盃に出してぐびり〳〵飲んで居る。

圖「いやこれは〳〵どうも、それではどうも折角の心入こゝろいれも無になります、御意には入りますまいが、元より尊君の様なる正道潔白なるお方に差上げまするには、盗取ぬすみとりました穢れた金銀をもって求めました酒肴さけさかなではございません、是は主家しゅか金森家改易の折、皆々一家中の者が引取ります節に分配しました金子で、それを持ちまして手前共が求めました酒肴でございます」

山「矢張それが穢れて居ります、主家改易で皆々主家を引取るとき金子を分けるなぞというは、うそれが穢れて居るので、主家改易に際し金なぞを持って出る心が一体穢れて居るのだ、其の分けた金をもって買った物はわしはどうも食いにくいから、わしは矢張持参の物を此方こちらで勝手に用います」

圖「ではござましょうが、せめて麁酒そしゅを一さんだけでも召上って」

山「いや〳〵、わしは勝手に、どれわしがお前さんに酌をしましょう」

 と毒酒の方の銚子をさしますから、

圖「それでは恐れ入ります、いえこれは」

山「でも折角だからわしがお酌を」

 というから粥河はこれを飲んでは大変と顔色がんしょくが変りまする。其のうち海の方に月は追々昇って来ますると、庭のえのきに縛られて居る小兼が、

兼「旦那アーその酒を飲むと毒が這入って居ますよー、お前さんを殺そうといってみんなたくんで居ますよー、旦那アー油断してはいけませんよー」

 という声が泣きしゃがれまして、実に声は立ちませんが、ひッ〳〵とわめきまする声が山三郎の耳に這入るから、と向うを見ると垣根のわきにある榎の大木に縛り附けられている女が有るから、

山「あの女はなんです」

圖「へえあれはなんでござるかとんと心得ません」

山「お黙んなさい、お前はなんだ、此のいえの主人で此の庭はお前の庭じゃアないか、自分の庭内ていないに、婦人がの通り縛付けられて、ひい〳〵泣いて居るのに、主人あるじが知らんで済みますか」

圖「いやれは江戸屋半治と申す者と約束のあるとか申す芸者で、何か半治が不実を致したと申し、刄物を持っておっかけて参ったを、半治が立腹して刄物をもぎ取り、あれが縛りましての様に致して置くので、手前に於てはいさゝか心得ません」

山「黙れ、貴公は何と申した」

圖「へえ」

山「いやさ改心して頭髪あたまを剃こぼち、麻の法衣ころもに身をやつし、仏心ぶっしんになると云ったではござらぬか、その仏に仕える者が繊弱かよわい婦人をの如く縛って置くをなぜ止めん、なぜ助けん、其のもとの心底のいぶかしき事はくより存じて居る」

 と云いながら、側に置いた関の兼元を取ってひらりと抜いて、

山「さア一緒に往って見なさい」

 とぐっと抱上げましたから、圖書は手込になるまいと手足を働かして見たがとてかなわん。例の拾八人力あると云う山三郎の腕に力を籠めて締附けられたのだからたまりません、うんと云ったばかりの有様を見て、そばの者も驚きまして呆気に取られて見て居りますと、山三郎は圖書を小脇に掻い込んだまゝ大胯おおまたに歩いて庭に下りようと致します。千島禮三は此のていに驚いて立上るのを山三郎は振返りながら関の兼元を突附けて、

山「さア、じたばたすると片端かたッぱしから踏殺すから左様心得ろ、手前らは己を此処へおびいて、俘虜とりこにして命を取ろうとしたたくみわなへ、故意わざと知って来たを気が附かんか、大篦棒おおべらぼうめ、ぐず〳〵すれば素首そっくびを打落すぞ」

 という其のけんまくの怖ろしいのに盗賊共は只きもひしがれましてきょと〳〵して居りましたが、其の中に千島禮三流石さすがに度胸もすわって居りますから、

禮「それ鉄砲を」

 と云ったけれども二拾一挺ある鉄砲へ玉込をして置いたを、江戸屋半治が残らず縄にからげて谷へほうり込んで仕舞って、鉄砲は一挺も無いからどたばたして居りましたが、粥河の手箱の蓋を開けると火縄の附いたかねて用意の鉄砲があるから、これを取って千島禮三が山三郎にねらいを附けると、山三郎は振向いて身構えをする、所へ江戸屋半治は飛来とびきたって、かしの三尺ばかりの棒をもって、ずんと力に任して千島の腕を打ちましたからたまらない、千島はからりっと鉄砲を落す、其の途端に引鉄ひきがねりましたから弾はどんと発して庭石へ当りました。千島は同類と思った江戸屋半治はひっくりかえったので猶更驚きまして、周玄長治とも〴〵うろたえまわる、同類の奴らは取る物をも取らずばた〳〵逃げ出して南山を下りると、かねて江戸屋半五郎が八州へ御届おとゞけに及び陣屋へ知れましたから、それと云って浜町に居ります組屋敷の与力同心衆が出張致して、山の下に整然ちゃんと詰めて居るから、どか〳〵下りる奴らは忽ちに御用〳〵と造作もなく縛られましたが、多勢おおぜいですから一人ずつは縛られない、五六人ぐらいずつ首っ玉をくゝして、まるで酒屋の御用が空徳利あきどくりを縛るようで、ばた〳〵同類の者はからめられました。


四十三


 所へ半治は山三郎の側へ駈け出して来て、

半「旦那お怪我がなくってお目出とう、実に先刻さっきからお怪我をなされはしまいかと心配しんぺいしました」

山「半治か、手前てめえは何故此所こゝへ来た」

半「へい、誠に何うも、貴方のお言葉を背きますようですが、実にお案じ申して参りました」

山「これ半治、聞けば手前てめえは粥河の同類になって小兼を縛付けたというが、何うしたのだ」

半「へい、実は旦那をお助け申そうとして小兼と相談づくでした事で、昨夜ゆうべ兄貴の処へあなたがおいでで、明日あした竹ヶ崎の南山へくが、一人でも子分や縁者の者をよこすな、よこすと向後きょうご足踏あしぶみはしない絶交だ、と斯う旦那が仰しゃって、兄貴も心配して、旦那にお怪我があってはならんと一通りならねえ苦労してる様子を見ましたから、わっちは猶驚いて、旦那に御恩になった恩返しは此の時だ、命を捨てても旦那にお怪我のねえようにと考えましたが、お前さんは云った事を反故ほごにしないたちだから、一人でもけば以来江戸屋の土台は跨がねえと仰しゃるにちげえねえ、兄貴も五十一にもなって旦那より他に力に思う者はねえ、わっちはやくざな人間だから、兄貴と縁切になって出て仕舞った所が兄貴も困りゃアしめえ、こりゃア一番縁を切ってお味方をしようという考えでしたが、そこが一人の兄弟きょうでえでございますから、わっちの様な斯んな人間でも、容易に勘当するの縁切にするなどという事もあるめえと、小兼と言い合せて、済まねえ事だがわっちが縁切と云ったら、泣いた事のねえ兄貴も涙ぐんで兄弟きょうでえの縁を切り兼ねて居るのを、わっちが縁切状を書いて飛出した訳ですから、わっちとは生涯付合って下さらねえでも仕方がねえ、唯兄貴の処へは何卒どうぞ相変らず来て下すって力になって遣って下さい、うすれば誠に有難い事でございます、この山へ入込いりこむのも容易にゃア出来ませんが、定蓮寺の海禪坊主がうから小兼に惚れて居ることを知ってるから、小兼と馴合い、二人ですっかりだまかして彼奴あいつ紹介ひきつけの手紙を書かせ、それから踏縛ふんじばって、お蘭さんを埋めた棺桶の中へほうり込んで、石蓋をして畳を敷いて来ましたが、此所こゝへ来て見ると、粥河の畜生中々本当にする奴じゃアねえ、何でも山三郎の間諜まわしものだ〳〵と云ってたが、そのうち小兼が剃刀を持って暴れ込んで、切るの突くのと騒いだのでに受けて、何うして〳〵其れまでにするにゃア容易じゃア有りません、憫然ふびんだが小兼を縛り附けて、加減して居ちゃアあらわれるから本当にぴしゃ〳〵思い切って殴ったが、小兼は定めし苦しかったろう、まア夫婦のものが斯う遣って心配しんぺいして、旦那にお怪我をさせめえとおもってねえ、お腹立かは知らねえが、二人のものが言葉に背いて此処へ来たから、これからはもう構わねえと仰しゃっても仕方はねえが、あなた何卒どうか兄貴の処は何にも知らねえのだから何分にもお頼み申します」

山「左様そうかい、まア二人の者が己を助けようとそれ程に思って此の山へ乗込のっこんで、まア小兼、手前は昨夜ゆうべから縛られたか」

兼「はい、旦那此の粥河はわたくし母親おふくろの勤めた岩瀬様のお嬢様の仇敵かたきだから、わたしは死んでもいから、半治さんどうか旦那にお怪我のないようにお役に立って働いておくれと話し合いで来ましたから、縛られるももと〳〵覚悟だし、引撲ひっぱたかれて骨がくじけてもいと思って、蚊にさゝれるも毒虫に喰われるも我慢しましたが、蛇が出やアしないかと本当にそればかり心配しましたが、まア旦那にお怪我がなくって半治さんお前も嬉しかろう」

山「早く縄を解いて遣れ、まア手前等は己がどれ程のこともしねえに、恩人とか旦那とか云って命に掛けてくまア斯うしてかばってくれて、それに附けても、これ粥河、此女こりゃア芸者だ、一人はな侠客肌いさみはだの女郎屋の弟で、斯ういう身分の者でさえも恩義を知って命をすてても己を救うというに、手前は何うだ、人を殺し金をぶったくり、あるいは追剥ぎ或は他人の娘を誘拐かどわかして又は辱しめると云う、その悪行というものは、帯刀をする身の上で有りながら、この半治や小兼に比ぶればわれは虫よりも悪い奴だ、殊には己が助けて上総の天神山の松屋にかくまって置く手前の女房お蘭は、棺の中で蘇生して手前の手紙を見て自害をさしてくれというを、わし種々いろ〳〵に止めて彼女あれいきて居るが、夫の悪事がより露顕しても、わたしの口から漏れたとしか粥河は思いますまいから、何うも生きて居ては操が立たんから自害をさしてくれと云った、な、これ仮令たとい悪事を知ったとて人を生埋いきうめにするような人非人にんぴにんの其の方でも、夫と思えばこそ命を捨てゝも夫の悪事を隠そうとするお蘭の貞節に引替え、よくも己を欺いて多勢おおぜい寄ってたかって己を殺そうとたくんで、空々しくも小原山において恥を捨て、草原くさっぱらの中へ土下座をしたが、あのざまは何うか、実に憎むべき所業である、さア手前のような奴を助け置かば衆人の害になる、なれども、己は盗賊を斬る役でもなし、又穢れたる者の素首そっくびはねるような腰の物は持たん、縄にかけて役所へ引くから左様そう心得ろ、嗚呼立派な武士でありながら、如何に慾に迷えばとてかる行いをいたして不届至極な奴である、お蘭にじろよ、これで恥を知らんといえば実に犬畜生である、虫よりも劣る奴で憎むべき奴である」

 と山三郎力にまかして、前足にかけて二つつ顔をつけました。


四十四


 粥河圖書は山三郎に耻しめられて、顔を土足で蹴附けつけられた時、あゝ悪い事をしたと始めて夢の覚めたる如く心付きまして、段々前々ぜん〳〵の悪事を思えば思う程、吾身わがみながら如何なればこそかる非道の行いを致したか、かゝる非道の夫をあだとも心得ず、お蘭が自害致そうとまでに思いしか、あゝお蘭は蘇生して松屋にるか、お蘭に何とも面目次第もない事である。と鬼の眼に涙で潜然はら〳〵草原くさはらへ涙を落しますので、

山「何うだ、われが改心致せばい女房を世話して遣ろうと云ったは松屋にかくまってあるお蘭の事だ、手前全く改心致せば、れ程までに思うお蘭の心を憫然ふびんに思い、山三郎媒介なこうどいたして連添わせようと申したのだ、なんと山三郎の申した事を忘れやアしまい」

圖「はゝゝゝはア山三郎殿、拙者がこれまでの悪業、貴公が義侠の言葉に責められると何とも面目次第もござらん、唯今ふッつと改心いたした、その証拠をお目に掛けん」

 と圖書は切腹しようと思ったが、無刀で居りますから、突然いきなり山三郎の提げておりました所の關の兼元のの方へ両手を掛けて自らぐっと首筋をさし附けて、咽喉元のどもとをがっくり、あっと云って前へのめるから、

山「あゝ粥河われは自害致すか」

圖「あゝ何も申さん、とても死はのがれん所の粥河で、お蘭を助けて松屋におかくまい下された事は只今始めて知りました、お蘭の心に耻入りまして、自害致して相果てます、これ皆天命で、もとより死刑は逃れぬ粥河、どうぞ縄に掛って死にたいから、お蘭にはく貴公様よりわびをいって下され」

 と血に染った手を合して山三郎に向って合掌して、真実の仏心ほとけごゝろになりましたから、山三郎も江戸屋半治もを折って、粥河圖書の様子をみている所へ、ばた〳〵と高張提灯を先に立てまして駈けて参ったのが江戸屋半五郎、お蘭の手を引いてつか〳〵と来まして、

半五「旦那にお怪我はございませんか」

山「半五郎、手前も来たのか」

半五「へい、お前さんに愛想をつかされてもと存じ、私は参りました、今蔭で様子を聞くと半治が昨夜ゆうべの愛想づかしもお前さんの身の上にお怪我のないようにと思い詰めて、縁切に参ったのだと申すので、私は此の垣根の蔭で聞いて泣いておりました、これ半治、手前てめえはまアく己に愛想づかしをいって、来てくれたなア、小兼のも本当ほんとと思った、くまア悪党の粥河をだまかして手前てめえも旦那にお怪我のえようにして呉れた、有難ありがてえ、今日上総の天神山の松屋へ行って此のお嬢さんにお目に懸りお連れ申しました」

山「お蘭さんかえ」

蘭「はい」

 と云いながら粥河の自害のていを見て自分も直ぐ自害しようと、半五郎が差して居る刀に手をかけますから、

山「お蘭さん、早まってはいかん、今自害する場合でない、まアお待ちなさい」

 と止めて居る。粥河圖書はお蘭を見ると両手を合して、

圖「お蘭か、許して呉れ」

 と云ったのが此の世の別れ、前へかっぱとのめる。所へ八州の衆が来て死骸に縄をかけて引いてきました。お蘭が此のていを見まして、猶自害しようと致すを多勢おおぜいに押止められ、詮方なくて頭髪あたまをふっつり切り棄てまして、其の身は宮谷山くうこくざん信行寺しんぎょうじ海念和尚かいねんおしょうの弟子となり、名を妙貞みょうていと改めて、今に其の墓は西浦賀にのこってあります。是にて悪人たいらぎまして、浦賀の町々が白浪の騒ぎも無く栄えましたも、皆山三郎が稀なる義侠の致す処で、又半治小兼は目出度く夫婦に相成りまして、二代目江戸屋を相続致して、只今もって江戸屋半五郎のいえはございます。又石井家は妹お藤に養子をして石井三郎兵衞と云い、今に旧家として富栄えて居ります。

(拠小相英太郎速記)

底本:「圓朝全集 巻の五」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫

   1963(昭和38)年810日発行

   1975(昭和50)年115日再版

底本の親本:「圓朝全集 巻の五」春陽堂

   1926(大正15)年発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。

また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。

底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。

また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2011年331日作成

青空文庫作成ファイル:

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