「浅間山」の序に代へて
岸田國士



 私は、嘗て雑誌に発表した作品を、更に単行本に纏める場合、大概、一度は躊躇するのである。これは私に限らず、多くの作家はさうであらうが、時を経て読み返すと、自分の書いたものぐらゐつまらぬものはないからだ。

 だがしかし、兎に角、本にしておきたい欲望もあるにはあつて、ひと通り、手を入れたり目次を考へたりする。私は、これで何冊目の戯曲集を出すことになるか、恐らく、今度くらゐ内容の取捨に迷つたことはない。

 なぜかと云へば、私は、最近、いろいろな「試み」をやつてみて、それが「試み」としては相当の役目を果したと考へられるが、出来上つたものとしては、かなり純粋さを欠き、殊に自分のものになりきらない一種の「ぎごちなさ」が目立つて、誠に気恥かしいのだ。それでもそれを入れないと、私の近業といふ名目は立たないことになる。思ひ切つて、その二三を加へる決心をした。

「浅間山」は、当時あるところでも言つた通り、私が劇場側の希望により、「現在の職業俳優」に充てはめて書いたものである。しかし現在の職業俳優に充てはめて書くといふことは、その役柄を頭において人物を作り出すといふことだけでなく、現在の観客層に愬へるべく内容並びに形式の撰択にある程度の制限を加へることであり、且つ直接は、それらの俳優がもつ「演技の伝統」を考慮に入れ、人物の心理、性格の型、白の用語等についても、なるだけ、無理を避けたいと思つたのである、その結果はどうかといふと、果して、脚本そのものに、新味が乏しく、在来の舞台的臭味が生じ、それを蔽ふために却つて生硬な「文学調」が混入してしまつた。作者未熟の故であることは云ふまでもないが、畑違ひの悲しさである。但し、この試みは無意義に終らなかつた。私に、これを再びすることを断念させたからである。

「序文」は、これも発表当時「あとがき」で断つた通り、「戯曲の形を藉りた楽屋噺」であり、云はゞ一席の座談として読んで貰へばいゝのだ。

「かんしやく玉」及び「音の世界」の二作は、何れも、戯曲でなければ現せない感覚の領土に触れてみたつもりである。作のモチーヴは、共に微々たる思ひつきに過ぎぬが、これも、一つの「練習曲」として記憶の隅に残しておきたいのだ。

「牛山ホテル」は、既に、この前の集に入れたものに、ところどころ訂正を加へ、別稿としてこゝに再録した。訂正を加へたといつても、主として方言を読み易く、解り易くしたに過ぎぬが、この作品は、天草の方言をそのまゝ使つたゝめに、それを善しとする人と、それを悪しとする人とが相半ばし、悪しとする人の中には、結局、しまひまで読んでくれなかつた人もあるらしいから、その方言の効果を保ち得る範囲で、少しく手心を加へてみたのである。耳で聞けば、なんでもなく解る程度の方言でも、文字で読むとさつぱり見当がつかぬといふ場合もある。上演する場合はなるべく前のテキストを使つて欲しいと思つてゐる。

「犬は鎖に繋ぐべからず」は、これも、去年出した上演喜劇集中に加へたものだが、近作の喜劇として、やゝ代表的なものと信じるから、近作撰集たる今度の本にも載せておくことにした。この喜劇は、早速、職業俳優の手にかゝつたが、これでもまだ、今日の商業劇場には不向きだといふことを見せつけられた。

「運を主義に委す男」──これは、本来、通俗雑誌の読み物として書いたもので、戯曲としての野心的な試みなど少しもなく、テーマも常識的だし、調子も誠にひくい。たゞわりにすらすらと駄洒落が飛び出して、自分ながら唖然としたやうな代物だ。これなら、どんな俳優がやつても見物が笑ふだらうと思ふ。まづ現代落語の一見本として、読むなら、余興のつもりで読んでほしい。

「ママ先生とその夫」は、決して満足とは云へないが、いくぶん私の新しく踏み出さうとする方向を示したものだ。

  昭和七年三月

著者

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「浅間山」白水社

   1932(昭和7)年420日発行

初出:「劇作 第一巻第一号」

   1932(昭和7)年31日発行

※初出時の題は「戯曲集「浅間山」自序草案」。

入力:門田裕志

校正:Juki

2011年827日作成

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