笑について
岸田國士




 笑うことのできるのは人間だけであります。勿論、「花笑い、鳥歌う」という言葉もありますけれども、これは形容であります。ときどき、例えば、馬が笑うというようなことを言うこともありますけれども、これは人間が笑うときとよく似た表情をするからそう言うだけのことで、人を笑わせ、又は人に笑われるのは人間に限られているということをまず申上げておきたい。そうでない場合は、人間が手を加えたもの、又は人間の真似をするもの、例えば猿のようなものに限られています。下手なおかしな音楽、滑稽な話などというものがその笑いの対象になります。「笑う門には福来る」と昔から日本ではよく言われておりますが、これは笑いというものが人生に取つて何か徳になるもの、人間の幸福と関係があることを証明しています。それは一体何故でしようか。極く常識的に考えて見ても、笑いのない人生は暗く冷たい。そして不健康であるように思われます。笑いは少くとも人生の窓であり、それは又希望と光明に向つて開かれた一つの扉とも言えるものです。併し、又笑いは軽蔑するという意味になることがあります。笑われると言えば馬鹿にされるということにもなります。併し笑いは時とすると勝利の合図でもあります。「最後に笑うのはどつちだ」ということを西欧では申しますが、その意味は結局こつちの方が正しいにきまつている、正しい方が正しくない方を笑うことになるから今に見ていろという意味であります。この場合笑うというのは勝利者として相手をちよつと軽蔑するという意味でありますけれども、こういう笑いは、成程得意満面には違いありませんけれども、余り感心したものとは言えません。同じ笑いにもこういうふうにいろ〳〵な笑いがあつて、なかにはどちらかと言えば明るいとは言い切れないものがあります。苦しみ、或いは悲しみと裏表になつているような笑いもなくありません。が、それは又それとしてここでは主に普通我々が求め探し、それによつて人生の光明に触れることができるような純粋な笑いについてまずお話をしようと思います。

 何故、人間は笑うのかという問題、これは、なか〳〵むつかしい問題であります。古来たくさんの哲学者がいろ〳〵な分析や解説を試みていますけれども、どうもあまりはつきりしません。その中でさすがにフランス近代の大哲学者ベルグソンがなか〳〵面白い説明をしています。これからの私の話もその説をところ〴〵借りようと思います。ベルグソンはその笑いの研究で、まずこう前置きをしております。「そも〳〵笑いの正体というものは理窟では容易に掴まえることができない。掴まえたと思うとぬらりくらりと逃げてしまう。実に始末に負えぬ代物だ。」と言つております。ベルグソンにさえそういう悲鳴をあげさせるのですから、私などの手には到底負えないにきまつております。が併し、それだけに相手にすればするほど、面白いわけであります。

 まず、私は、私流に笑いの種類について、ここでどう区別しているかを吟味して見ましよう。分類の基準は雑然としておりますが、思いつくままに挙げて見ます。「微笑」即ち「微笑み」、「苦笑」「苦笑い」、「薄笑い」「冷笑」「憫笑」というのがあります。それから「嘲笑い」「嘲笑」、「大笑い」「哄笑」「爆笑」などという新語もあります。「微苦笑」という造語も言えば一般に通用すると思います。「馬鹿笑い」「含み笑い」「しのび笑い」「追従笑い」などがあります。

 笑い声にもいろ〳〵あります。「はつはつは」「えつへつへ」「うつふつふ」。又、「からから」「げらげら」「きやツきやツ」など、これはいずれも、「擬音」であります。ざつと、こんなところかと思います。

 話を前に戻して、人間はなぜ笑うかという問題にかえりますが、普通おかしいからにきまつております。それに違いありませんけれども、心理学では、これを逆に、笑うというのは顔面神経の硬直によつて筋肉が痙攣を起すからだ。つまりおかしいから笑うのではなく笑うからおかしいのだという説明が成立つらしいのです。こうなると問題がちよつとややこしくなります。もつと常識的に考えると、人間はなぜ笑うかと言えば、無論、おかしいからと言えるでしよう。併し偶に恥しいからという場合もあります。それからくすぐつたいから、これも一つの理由でしよう。我々日本人は照れくさいから笑う。この笑いは一番曲者でありまして、日本人独特の薄笑い、外国人に言わせると「不可解な微笑」であります。尤も私の考えでは例の豪傑笑いなどというのは一種の照れ隠しで、世界の何処を探してもない笑いだと思います。極く普通の意味の笑いは、おかしさ、即ち滑稽に通ずる笑いでありますが、この笑いこそ人生を楽しく明るくし、又社会はこれあるがために緊張を弛め、険しさがほぐれるのであります。ベルグソンの説によりますと、「笑いは決して感動とは相容れないものだ」と言うのです。やたらに感動してしまつては笑えないものです。感動するというのは感情が特別に高まつた状態を言うのでありまして、平たく言うと、胸がぐつと詰まる、胸がわく〳〵する、こういう状態です。こういう状態では何を見てもおかしくはない。それはそうかも知れない。嬉しいときに笑うのは、その嬉しさが一瞬登場したはずみに平静にかえつて、その平静になつた意識の上に或る滑稽なものが落ちて来る。初めて笑いが込上げて来るのです。これは是非とも皆さんも一ツお試しになつて下さい。



 ベルグソンは又こうも申します。「笑いは、共同生活の或る要求に応じているもので、社会的意味を持つものである」と。つまり不調和なものに対する社会の反応を示す身振りであります。笑いを誘うもの、つまり滑稽の著しい特徴をあげますと、大体次の二つです。

 第一は硬ばり、即ちしなやかさに欠けているということ、

 第二は中心はずれ、これはエクセントリックなものといつてもいい。つまり丁度いいものの反対です。多くの喜劇はこの要素の上に成立つています。笑いが一種の社会的反応を示す身振りだというのはつまりこれであります。喜劇が人々に喜ばれ、文明国でそれがしば〳〵劇場で演ぜられるという理由もそこにあります。喜劇が成立つのは、社会がそれを要求し、それによつて社会が反社会的なものに対して微妙な反応を示したいからであります。その反応がつまり笑いです。それは笑いは、つまり喜劇は社会生活における硬ばりと中心はずれとを矯正し、抑えようとする人類の意思の現れであるからであります。健全な社会とは喜劇を喜劇として笑うことを知り、それが大ぴらにできる社会であります。又文明人とは優れた喜劇を感知する力を持ち、必要に応じて演劇として、つまり芝居に仕組んで、皆で見て楽しむことを知つている人間のことであります。喜劇は舞台の上で見るものばかりとは言えません。我々の実生活の中で、この活きた社会の中に幾らも喜劇が転がつているのであります。その喜劇のおかしさを感じる力をお互いに身につけることが必要であります。その力は主として理智の力であります。別の言葉を使えば一種の批評精神であります。前に申しました硬ばりと中心はずれ、これをちよつとしたものの中に素早く見つけ出すということは、何と言つても柔軟な鋭い批評精神による以外には方法はないでしよう。但しそれは往々にしてあら探しになることがあります。ですから常にその笑いが絶対に正しいとは言えないということも、ベルグソンがちやんと指摘しております。その笑いは時としては幾らか意地悪な笑いであることもあり、罪のないものを押え、本当の罪人を見逃し、自分一人得意そうにいい気持でいることがないとは言えないのです。笑いは社会の身振りだというのは実にそのためでありまして、一般的なものだけを目ざしていて個々のそれ〴〵の場合を厳しく禁止するような慎重さを欠くことがあるのです。自然は善のために悪を利用するとさえ思われることがある。この人生の中に笑いの種を探すことは成程楽しいこともありますが、その反面にはそれほど楽しくないこともある。往々にして苦痛を伴い悲しみに堪えないということもあるんです。それにしてもそういう苦しみや悲しみの中に、更にほんの一瞬間笑つて笑えないことのない事実を昔からたくさんの喜劇作家が教えています。有名な「フィガロの結婚」の作者ボーマルシェはフィガロの口を借りて、「私は泣かないために笑うんだ」と言わせているではありませんか。

 人を笑うときはいつでも大方優越感が土台になつています。自分の方が絶対えらいと信ずるか、或いは信じたいときであります。他人の滑稽な姿の中に自分自身の姿を発見したとき、我々はどうしますか。これは複雑な気持です。実際こんなときに込上げて来る笑いほど尊い笑いはないと私は信じます。この笑いきれぬ笑いを笑い得るものこそ、本当の強い、正しい、人間ではないかと考えます。優れた喜劇はいつでも人間が人間自身を笑うものであります。

 そこで、人を笑わせるということは一体どういうことか。これには普通それ相応の才能と技術が要ると考えられております。いずれにしろその目的は次の三つに尽きると私は思います。

 第一は、純粋に人を楽しませる目的、即ち、社交的な精神がそれを生み出します。

 第二は、人を楽しませることは同じですけれども職業的な必要から人を楽しませて、そして自分が何か利益を得ようとする。そういう職業的な必要から出て来たもの。

 第三は、芸術的な要求であります。この第三の場合こそ我々が喜劇精神と呼ぶものであります。

 笑いは前にも申し上げましたように極く軽い意味での優越感の表示です。そこで笑うものは幾分自分のこの優越感というものをそこに意識したことになりますが、併し、それとは全く違つた意味で、この劣等感のカムフラージュ、自分の劣等意識をかくすために笑うことがあるということを先程ちよつと申し上げましたが、この種の笑いはいわば不自然な笑いで、なるべくなら社会からなくしてしまいたい笑いであります。こういう笑いは人に不愉快を与え、更に誤解を招き、往々にしてほかのいろ〳〵な悪徳と同じように人生を味気ないものにします。人を笑うのに反省のないものは人から笑われることを極度に恐れますが、人から笑われる場合は本当に恥ずべき理由がある場合を除いてそんなに心配する必要はないと私は思います。大ぴらにお互いに笑い合うということは、これは軽微な相手の欠点や間違いを笑うので、決して相手を傷つけることにはならないという、そういう習慣を我々は身につけたいと思うんです。我々が笑いを催すのは相手の欠点なり間違いなりが極く軽微なもの、軽いものだということを知つたその場合に限られております。顔を赤らめるということも人間としてそんなに恥ずべき道徳的欠点や、間違いに対してではないのですから、我々はもつと率直に笑い、そして笑われることを、それほど恐れないというような習慣をつける必要があると思います。



 私はこれまでいろ〳〵な優れた喜劇を読んだり、見たりしましたが、人間の最も喜劇的な性格とは一体どんなものだろうか。こういうことを考えて見ましたが、それはどうもやつぱり虚栄心のように思われます。それについてベルグソンはこう言つています。

「虚栄心は、それ自身悪徳ではないが、あらゆる悪徳がその周囲に集まる」

と。うまいことを言つたものです。確かに、虚栄心のない人間はありません。虚栄心があるからと言つて誰もその人を責めることはできません。だだ、虚栄心から来るいろんな錯覚、それに附随する馬鹿らしさとがいつでも、どんな人間をもおかしい、笑うべき存在にするのであります。どんな人物でも虚栄心の虜になつた瞬間を見ますと、実に滑稽なものです。全くのところ、虚栄心の特効薬は笑い以外にないと思います。「本質的に笑うべき人間の欠点は虚栄心だ」と、ベルグソンははつきり言い切つておりますが、これは、見事に滑稽な人間像の最も代表的な人間の姿を言い当てていると私は思います。試みに、もう少しそれを虚栄心のふくらんだ、漫画化した形には、勿体振りと、強がりがあります。どんなにたくさんの面白い喜劇が、この勿体ぶりと、強がりを主題にしているかを考えて見れば分りましよう。そうして、世間には、どれだけたくさんの人間が、ちよつと勿体ぶつたり、うつかり強がりを言つたり、強がつて見せるために人に笑いを起させる。つまりおかしくなることが度々あるのであります。

 喜劇の一つの材料となるものに職業的滑稽とも言うべきものがあります。例えば、教師が余り教師くさいとか、坊さんが坊さん以外の何物でもないとか、裁判官がこち〳〵の裁判官とかいうような場合、それが、何となく滑稽に感じられるのは何故でしようか。この滑稽の要素の中には次のようなものがあると思います。

 第一は、勿論、職業的習癖であります。知らず知らず、職業のくせが身についている。その中には、又、職業的虚栄心というものが含まつています。つまり、自分の職業に対する一種の自尊心であります。その習癖は、実に、関節不随のような症状を呈します。そして時によると、この症状は一種の冷酷さになります。この職業的習癖が、実に、職業的滑稽の本体であります。それをもう少し別の言葉で申しますと、或る職業のものは、ほかのみんなのように考えられなくなつている頭を持つている。みんなのように話し合えなくなつている立場を持つています。尚もう一歩進めて言うと、職業が公衆のためにあるのではなくて、公衆が職業のためにあるかのような姿を示すことがあります。これは確かにおかしい現象です。

 一つ例を挙げて見ます。これは、実話でありますが、或る婦人がお産のために評判のいい産科医院に入院しました。無事、男の子を産み落して一同はほつとしました。ところが産後の経過も大体いいということでありましたが、二週間ばかり経つて微熱が出た。なか〳〵微熱がとれません。そこで、その婦人の家族は心配して内科の専門医の診察を受けるように取計らいました。その専門医が来たときに婦人の夫と産科医も同席しました。その内科の先生は即座に肋膜と診断したのです。そして当分、絶対安静を命じました。すると産科の主治医は「産婦は三週間以上横になつたままでいるとちよつと困るのだ。その理由は、即ち、子宮後屈という病気が起る。ですから、どうしても三週間経てば起さなくちやいかん。」内科の先生はそれに対して頑として自説を固守して「いや〳〵、それは内科の医者としては絶対に起すことには反対だ。そうすると自分は、この婦人の病気に対して責任は持たん。」と言う。そこで、二人のお医者が互いに相譲らないで、論争をおつぱじめました。「内科医としては」「いや、産科医としては」ということになつて、両方とも自説を固守しているので、そこで婦人の夫は、「ちよつと待つて下さい。」とたまりかねて口を出しました。「いや〳〵、産科医としては」、「いや〳〵、誰が何と言おうと内科的見地から」というような議論になつた。最後には、産婦はとう〳〵横腹に手を当てて恐る〳〵ふき出したのであります。これは一つの喜劇的な場面であります。何がおかしいのかというと、つまり、この二人のお医者さんは、この職業的な意識がさきに出て、自分が一人の病人を治すために診察する責任のある医者だということを忘れているという、実に大きな矛盾が、ここに暴露されているからです。そして、そのことに自分が気が付いていないことが、実に滑稽なのであります。こういう例を挙げますと、幾らでもありますけれども、我々は、この場合に、この産婦の主人のように、この二人の医者に対して怒つてしまつては、これは話がそれまでであります。この二人のお医者さんの姿を見て、幾分は心の中でおかしみを感じながら、而も、この場合、最も適切な措置を講ずるのが、これが人間として一番聡明な道と思うのであります。では、これで、私の話を終ります。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「人生読本3」春陽堂書店

   1954(昭和29)年625日発行

初出:「人生読本3」春陽堂書店

   1954(昭和29)年625日発行

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2011年219日作成

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