映画のダイアローグについて
岸田國士




 ある映画のダイアローグが、面白いか、面白くないかといふことを特に取りたてて論じてみたところで、それはあまり意味のないことである。なぜなら、面白いダイアローグは、面白いテーマや面白い人物の面白い組合せから生れるものだから、作品全体のなかに、作者の思想や才能の質として、既にその根がおろされてゐるわけであつて、ある作品の「ダイアローグが特に面白い」といふ場合はおほむね、その作品のダイアローグが、専門の劇作家の手に成り、その劇作家がまた、機智に富んだ喜劇作者である場合に限られてゐるやうに思ふ。

 フランス映画に例をとるとよくそのことがわかる。

 しかし、一般に、発声映画の魅力の大きな要素の一つとして、ダイアローグを計算に入れることは今日常識となつてゐる筈である。それゆえに、欧米のトーキーは、あらまし、ダイアローグを誰が書いたかがわかるやうになつてゐて、その責任を監督のみに負はせない仕組になつてゐる。

 いはゆる文芸映画と称せられる小説の映画化でも、原作の「会話」のある部分をそのまま使ふやうなことはしない。なぜなら、小説の会話はなんとしても映画の会話にはならないからである。その意味では、戯曲の会話も、そのままでは「映画的」とは言へない。

 ただ、戯曲作家ではないまでも、戯曲的な対話の書ける作家のダイアローグに対するセンスは、映画のシナリオ製作に当つて、大いに利用すべきだと思ふ。

 もし、それがうまくいけば、専門のシナリオライタアと、専門の劇作家との協力によつて、日本映画のダイアローグは、ある程度、現在の水準を高めることができるのではないか。



 私の知つてゐる限り、嘗て、PCL(たしか東宝の前身)が、劇作家田中千禾夫君を、ダイアローグの書き手として招聘したことがあつた。私は、その着眼は甚だ面白いと思つたが、会社は、田中君にどんな仕事をさせたか。ある映画のシナリオを見せて、ダイアローグの部分に手を入れて、もつと面白いものにしてくれと言はれても、私なら、それはできないと断る。

 つまり、さういふ仕事をさせるなら、シナリオの出来上る前にシナリオライタアと、もつと直接に相談をさせて、人物の構成やプロットの細部にまで立ち入つて、多少とも自由にある場面を設定させるやうにしなければ効果はあまりないのである。



 だいたい、文学形式としての「対話」は、日本では、非常に立ちおくれてゐる。その原因は、作家の側にだけあるのではなく、むしろ、わが国の社会生活の畸型性にある。言ひかへれば、日常の会話のなかに、徒らにゆがめられた対人意識がのさばつてゐて、豊かな人間性を織り込む努力を、それほど尊重しない風習がいつの間にかできてしまつてゐるのである。

 この風習と闘ふものは、常に庶民でなければならなかつた。そしてその庶民の表現に生彩を与へることのできたのは、わづかに、「世話物」なる一部分の演劇と、講談落語の類しかなかつたのだと私は思ふ。

 明治以後の文学を通じて、知識層の対話語の生硬さをみるがいい。

 現代生活の著しい貧しさの一つに、「対話」の紋切型と月並とを挙げなければならない理由がここにある。

 そこへもつて来て、外国文学、ことに、外国劇の翻訳移入があつた。

 現代の演劇は、まだ庶民の間から生れて来てゐない。



 最近いくつかの日本映画を観る機会があり、私は、それらの映画のダイアローグについて、共通の欠点と思はれる二三の問題について考へた。

 第一は、シナリオとして、ダイアローグが非常に粗末に扱はれてゐるといふこと、つまり、対話の生命ともいふべき「応酬の呼吸」がほとんど無視されてゐるばかりでなく、それぞれの人物がすべて、そして常に、作者の意志によつてのみ、ものを言はされてゐるのである。

「せりふ」といふものの初歩的な観念がまだ十分に、トーキーではできてゐないやうな気がする。

 その点、新劇出の俳優はいくぶんましなやうだが、映画のダイアローグが、芝居におけるそれと根本的に違ふところは、いふまでもなく、芝居では、「聞かせる」のが主であるが、映画では、「聞える」やうに言ふのが原則なのだから、この二つの演技の使ひ分けがもつとできたらと思ふことがよくある。

 それと、もうひとつは、舞台より一層スクリーンでは、俳優の声が耳障りであつては困る。

 日本人の声の質は、よほど訓練を得ないと、ひとに快感を与へるやうな声にならないのだ、と、私は思ふ。

 ダイアローグの魅力の半分は、その人物のそれらしい声の調子である。俳優が自分の声をまづマスタアできなければ、思ふやうな声の色合はだせない。

 声の単調さは、一種の表情の貧しさであつて、トーキーにおけるダイアローグの致命的な欠陥である。



 映画のダイアローグで、ふと想ひ出すのは、フランス映画「アルルの女」である。終戦直後輸入された時、私はその試写を見る機会を得た。

 別に珍しいことではないが、この映画のタイトルに、マルセル・アシャール脚色及びダイアローグと出てゐた。

 なるほど、原作を大胆に解きほぐして、一篇の劇的な映画シナリオにしたアシャールの手腕は別として、この物語に登場する人物の「対話」は、ほとんど原作にはないやうな、軽妙なアシャール式対話になつてゐるのを面白く思つた。そのくせ、原作の人物はちやんと、それらしく描き出されてゐて、その上、あの原作の風味となつてゐる南仏プロヴァンスの地方色を、可なり忠実に印象的に現はしてゐるのに感心した。

 私は、この例をすぐにそのまま当てはめようとは思はないが、近く堀辰雄君の作品が木下恵介監督の手で映画化される話がきまつたについて、考へやうによつてはむづかしい堀文学の映画化も、思ひきつて、ああいふ風に脚色すれば、原作の香気を失はず案外一般受けのするものが出来上るのではないかと、楽しみにしてゐる。



 序ながら、私がつねづね新劇の現状について考へてゐることと、だいたい一致する問題がここにある。

 それは、トーキーのダイアローグも、いつまでも、写実一点張りでは能がないといふことである。

 時代劇をみるとわかるが、実に無神経な写実主義が、物語を平板にし、またダイアローグを滑稽な時代錯誤に陥らせてゐる。時代劇だからといつて、常に歌舞伎の「せりふ廻し」をしなくてもよいが、せめて悪写実を離れた様式化がダイアローグのなかにもほしい。

 映画にいきなりそれを求めることは無理で、新劇あたりが先づそれを試み、ある程度の成功をみせたうへで、映画がそれをとり入れるのが順序かも知れぬが、また、ある観方からすれば、さういふ新工夫は、むしろ、映画のやうな自由な形式のとれるものから手をつける方が容易だとも考へられるのである。

 外国映画の場合でも、ジャン・コクトオなどの作品にみられる様々な創意は、一方確乎たるフランス古典劇と近代劇との地盤があるにせよ、映画ならでは試みられぬジャンルの飛躍ではないかと思ふ。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「文芸 第十巻第六号」

   1953(昭和28)年61日発行

初出:「文芸 第十巻第六号」

   1953(昭和28)年61日発行

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2011年219日作成

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