「速水女塾」について
──演出覚え書──
岸田國士
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「速水女塾」は昭和二十三年の作である。私として戦後はじめての戯曲だけれども、それ以前約十年一日、いろいろな事情で、つい戯曲から遠ざかつてゐた。
そのせゐか、中央公論へ原稿を渡してしまつたら、あすこもここもと急に手を入れたくなり、いろいろ書き足したもので発表したい気持だつたが、発行日の都合でその希望は達せられず、やむなく旧稿のまま公表してしまひ、幸ひ追つかけて出版された単刊本を決定稿とすることになつた。
この戯曲の長さは、雑誌で発表した時は百三十枚だつた。雑誌が戯曲をよろこばないのは現在も昔とあまり変らないが、すべての雑誌がいつでも枚数をかれこれ云ふわけではないのに、どうも百枚以上といふことになると月刊雑誌には不向きといふ気が自分からしてゐた。そこへ当時の編集者Y君が、今度は十分に枚数をとるやうにと気前よく云つてくれた結果が百三十枚になつたのであるが、それでも私は相当遠慮がましい気持で原稿を渡したのである。
戯曲は直すと切りのないものであることを知りながら、必らず書き足りない不満がいつもあとへのこり、そしていざ上演となつて大事な点だけをあわてて直すといふのが普通だつたが、「速水女塾」は、文学座の出しものとして書くといふ意図が最初からあつたため、その稽古がはじまるまで、出来るだけ手を入れる必要と暇はあつた。原稿を活字にしてしまふと現金なもので、私はやつと「活字の舞台」から解放されたやうな、ほつとした新しい気分になつた。そこではじめて、俳優が演じ、観衆を前にした舞台のイメージが私の感興をあらためて刺激し、約四十枚ほどの書き込みをしたわけであるが、それが、いくぶん作品の肉付けに役立つたと自分では思つてゐる。執筆当時の事情は右のやうなものであつたが、演出のおぼえ書きといつても、いまことさらに註文したいこともない。
特に文学座のため、この作品を書くについて私の考へたことは
一、なるべく文学座の俳優全員に配役が行きわたるやうにしたい。
一、俳優の持ち味とか、柄とかにあまりとらはれず、むしろ個々の俳優の表現能力に対する私の予想に応じ、その素質のなかに考へられる新しい領域を開拓できるやうな人物を作りあげたい。
一、役の軽重といふことについての公平は特に無視しても、場面場面の効果をあげられるやうにしたい。
といふやうな事柄であつた。
当時演出を担当された久保田万太郎氏の言葉をここに引用させていただく。
「人それぞれの姿、人それぞれの生きてゐる姿、かれらはかれらのその生き方を肯定してゐる。……いいえ無理にもそれを肯定しようとしてゐる。そのをかしさ、おもしろさ、わたくしはそれを舞台に描きだしたいと思つてゐる。となつたときわたくしは、相馬と登志子との生き方にのみ重点を置いてはいけないのである。」
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「新選現代戯曲第一巻」河出書房
1953(昭和28)年4月10日発行
初出:「新選現代戯曲第一巻」河出書房
1953(昭和28)年4月10日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2011年7月30日作成
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