ラジオ・ドラマ私見
岸田國士
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ラジオ文学という新しい様式について、私は常に興味をもち、なにか、原理的なものを発見しようと心掛けているのだが、放送局との関係も、別にそのために特殊な便宜を与えられているわけではないから、なかなか思うように研究もできないでいる。
今日まで、ラジオ・ドラマと称せられている一種の形式も、自分だけの頭では、いろいろな空想と結びつけているが、それを実際に試みてみる機会さえ容易に得られないのである。
ラジオ文学とは、言うまでもなくラジオという特別な機械的設備によつて、専ら聴覚にうつたえる文学を意味するのであるから、小説、劇、詩、雄弁というような文学のすべての種目がラジオ的に表現され、ラジオの機能を十分に発揮するように仕組まれていればよいわけである。そこで問題となるのは、やはり、われわれの「聴覚」がどこまで、いろいろなものを受けいれる力があり、それがまた、どこまでわれわれの感覚と精神とを動かす源泉、契機となり得るかということであろう。
ラジオ・ドラマだけについていえば、「耳で聴く芝居」という制限がそのまゝ、特色となり、強味となるような、一種の劇文学をまず前提としなければなるまい。という意味は、「耳で聴く」という観念が先に立つのはよいが、そのために「耳を通して他のあらゆる感覚及び精神に愬える」という最も本質的なラジオ文学の要素を閑却してはならぬということである。例えば、対話による描写を主とすることは、一見ラジオ・ドラマの本質らしく考えられるが、しかし、その対話が、俳優の直接表情によつて生かされるような種類のものは、真にラジオ的とはいえないのであつて、寧ろ対話そのものが、おのずから明確な表情を連想させ、同時に人物及び生活の雰囲気を髣髴と浮び出せるように書かれていなくてはならぬのである。
もう一つ大切なことは、ラジオ・ドラマに於いては、舞台劇や映画などと同様、「誘導的」なリズムを生命とするのだから、眼に見えないためにもどかしさを感じさせたり、そのために、幻想を運ぶ心理的「音色」の効果を鈍らせてはならぬのである。語調語勢の波動が、緩急抑揚の技術を滞りなく生かして行かねばならぬ。
さて、こういうラジオ・ドラマの特殊技巧以外に、私は、内容的な精神美と作家的な「表現力」を要求する。勿論放送用として、あくまでも正しい意味の普遍性は望ましいけれども、そうかといつて、大衆向きを口実にする卑俗な趣味はなんとしても排斥したい。人情を取扱うのはよろしいが、安価なセンチメンタリズムでは困るし、社会諷刺結構であるが、ヒステリツクな独りよがりは禁物である。取材の範囲は自由であるが、感覚と思想には何処か新鮮なところがあつてほしい。何れにせよ、聴取者の大部を「退屈させない」なにものかを有し、その上、彼等の(即ちわれわれの)健康な魂に呼びかける若干の文化的意義を要求したい。
ラジオ・ドラマはあくまでも「ラジオ的」であるべきであるが、形式だけがいくら「ラジオ的」であつても、内容がつまらなくては、すぐれたラジオ・ドラマとはいえない。当り前の話だが、ラジオ・ドラマの場合には、往々、技巧を弄ぶ傾向が強く、文学としての肝腎な「物の見方、感じ方、考え方」がお粗末になり易い。
技術的な工夫や思いつきもよいが、それにあまり囚われすぎては、却つて、聴いている者の胸にひびく真実の声が薄れてしまう。
舞台脚本の場合もそうであるが、作者があまり演出家の領域にまで足を踏み込み、時とすると、俳優の頭や神経まで使つて書いたものは、脚本としてなかなか特色はあるけれども、一方、しばしば、大切な作品の生命が稀薄になり、底からにじみ出るような美しさに欠けることがある。
ラジオ・ドラマも、それとほゞ同じことが言えそうに思う。作者は常に演出家ではないのであるから、演出は演出家にまかせて、充分にドラマの本質に徹した、文学的な創造を目的とした作品を提供するように心掛くべきである。
作家としては、先ず第一に、主題の選択、第二に、構成の工夫、第三に、文体の洗錬、これだけに全力を注げばよい。
ラジオ・ドラマの主題は、特別に「ラジオ」に適した主題と、一般的なドラマの主題とがあるにはあるが、一般的なドラマの主題を「ラジオ的」に処理することは、構成のしかたで例外なくできると、私は思う。
そこで、ラジオ・ドラマの構成であるが、これも、別に窮屈な原則などはある筈がなく、「聴覚を通して」聴取者のあらゆる想像力にうつたえ得る場面の設定、場面場面の自然なつながりを作つていけばよい。時間と空間の制限をある程度超えることのできる「ラジオ」の特性を活かしつゝ、全体の流動感を快いリズムに乗せて物語を運ぶように、発端から結末までを、変化のある情景の線で結ぶ。
さて、最後に、登場人物のそれぞれの役割を十分に活かすような対話と、各人物の生活や心理や境遇を暗示する補助的な説明が必要となる。
対話以外にそういう説明がいるときは、解説者を使うこともあるが、さまざまな音響効果、音楽、または、ギリシヤ劇風の合唱団を使つてもよい。独白という形式も時には面白かろう。
要するに、そういう補助的な説明を含めて、人物の対話は、一般のドラマと同じくらい、ラジオ・ドラマに於いても、作品の本質的な生命を左右するものである。
対話が活きていないということで、対話に生彩がないということ、対話が月並で、単調で、粗雑で、間のびがしているというようなことは、ラジオ・ドラマの致命的欠陥になる。
普通の舞台劇の場合よりも、ラジオ・ドラマの場合は、いつそう俳優の声の質がドラマの魅力を支配する。このことはドラマの作者の与り知らぬことではあるが、私が最近痛切に感じた点で、これをなんとかしなければ、せつかくのラジオ・ドラマの発達があるところで行きづまるのではないかと思う。
声の質がラジオに適しているか、どうか、という問題もあるけれども、それよりも、なによりも、男であれ女であれ、声によつて、その人物を想像する時、なんとなくその人物に必要な「厚み」が足りないことを感じるのである。これは声量が足りないというだけではなく、声に「生活」がないという感じなのである。「生活」がないということは、つまり、「精神」のはたらきが鈍く、幼稚で、型にはまつているということである。
ドラマの人物がどんな愚劣な人物であつても、そのセリフには、作者の批判と鋭い選択が加えられていなければならぬように、そのセリフを言う俳優も、その人物になりきるという意味は、そのセリフの言い方に、ちやんとした批判と、鋭いニユアンスの捉え方が伴つていなければ、それはまともなセリフとはいえないのである。俳優の声は、音楽的な美声を必ずしも必要としない。しかし、俳優として、さまざまな人物の性格を表現する声の幅を自然に身につけていることが、その俳優の声の質を豊かなものとするのである。
無表情な声とは、怠惰な精神から発せられる声のことである。
いろいろな心理を反映している筈の声が、いつも、きまつた音色であるというのは、ラジオの場合には、特に、甚だ困るので、そういう声は、たゞ高低強弱の調子をつけたり、どんなに顔の表情を変えたりしても、それは、無表情な声ということになるのである。
最後に、ラジオ・ドラマは、微妙な一点で、ドラマとして聴くに堪えないものとなる。
それは、稽古不足である。
稽古不足ほど「間」の感覚の失われ易いものはない。「間」の感覚は、時間芸術の生命の鍵である。
出演者が公衆の眼に見えないという油断から生じる安易な態度は、ラジオ・ドラマの作者、俳優、演出家、いずれも警戒しなければならぬと思う。
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「ラジオ・ドラマ講座第二巻」山根書店
1952(昭和27)年4月30日発行
初出:「ラジオ・ドラマ講座第二巻」山根書店
1952(昭和27)年4月30日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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