選後に
──芥川賞(第二十五回)選後評──
岸田國士
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毎回おなじ疑問をくり返すことになるが、この芥川賞の性格を、もつとはつきりさせなければ、選そのものも徒らにむつかしくなるし、賞の意味もそのために、稀薄になりはせぬかと思ふ。これは、選者の一人として外部に発表すべき意見ではないかも知れぬが、やはり、責任上、銓衡の結果について、もう少し割りきれたところを世間に公にした方がよいと思ふので、例へば、宇野浩二氏などの反対にも拘はらず、やはり、委員の投票といふ制度を明かにきめてかかるのが当然だと主張したい。文学の評価を数字で示すことの不合理、不見識をおそれる必要は、この場合、ない。多人数できめることは、それ以外の方法によると、きまつて、それ以上の弊害を伴ひ易いやうである。
今度の場合がとくにどうであつたと言ふのではない。私は、他の委員の意見を聴く機会を逸したため、単独の判断で、予選を通過した九篇の作品のうち、「ガラスの靴」を推すことにした。
他のどれよりもとび抜けて優れた作品だとは思はなかつたが、まづこれが比較的新鮮味もあり、特異な才能の芽も感じられ、ことに、その才能が過不足なく作品の調子を整へてゐるスマートさに敬意を表したくなつた。難を言へば、すこしお坊ちやん臭い甘つたれ気分もみえるにはみえるが、これはこれで、青春のひとつの生き方として私は私なりにゆるせるのである。
当選ときまつた二つの作品並びに作家については、いづれも、力作であり、かつ、有望な才能の持主であることはわかる。それゆゑ、ちよつと見方をかへれば、授賞の順番が先きに来ても、私にはちつとも異議はない。
ただ、「春の草」は足取りはなかなか確かだが、やや先人の道を歩いてゐるやうな気がしたし、「壁」は、注目すべき野心作にはちがひないが、もうちよつと彫琢されてあることが望ましいものであつた。序に言へば、この作家の言葉遣ひには、腑におちぬ日本語の誤りが眼についた。例へば、「はさんで」といふところを「はさめて」といふが如き。
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「文芸春秋 第二十九巻第十三号」
1951(昭和26)年10月1日発行
初出:「文芸春秋 第二十九巻第十三号」
1951(昭和26)年10月1日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2010年8月17日作成
2011年5月31日修正
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