北海道の性格
岸田國士
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私が最初に北海道の土を踏んだのは、今から四十いく年か前のことで、たしか十六か十七の時であった。
父が九州小倉の師団から旭川へ転任になり、一家を挙げて新任地へ移って行ったので、当時東京中央幼年学校に在学中であった私は、夏休みに、まったく見知らぬ土地へ帰省することになったわけである。従って、父の在任中、ふた夏を北海道で過す機会を得たので、いくぶん土地との親しみもついてゐる。
その上、現在小樽高商出の佐竹佐武郎の許に嫁した末の妹は、旭川で生れたといふので、父が朝子と命名した由来も知ってゐるし、先年物故した次弟は、函館商船学校に学んだ経歴があったし、もっと遡れば、慶応で長く教鞭をとってゐた叔父は、札幌農学校の初期の学生であったと聞いてゐる。
こんな因縁話は誰にでもありさうなことだけれど、私の場合は、少年時代から今日までに捉へ得た北海道のすがたは、断片的な印象としてではなく、土地全体の概念として、一種奇怪な迫力をもって、常に記憶と想像の中に蘇って来るのである。
これは私の貧しい地理学の中で、まったく他に例のないことである。事実、内外を通じて、私の歩いた土地はかなり広いつもりであるが、いかなる驚異も感動も、時がたつにつれて、それは単なる回顧の霧のなかに包まれるか、せいぜい、郷愁の如きものの募るにまかせ、再遊の願望が燃えるくらゐのものである。
ところが、北海道となると、特にこれといって懐しい思ひ出があるわけでなく、とり立てて礼讃したいやうな場所を挙げることもできないのに、たゞ、なんとなく、その名が私の胸を強く打つ所以は、いったいどこから来るのであらう?
それは、異境にあって帰国を想ふ情ともむろん同じではない。第一、北海道は、私の郷里でもなんでもないのである。
では、私の知ってゐる限りで最も好ましい土地といへるか? 必ずしも、さうとは言へないやうだ。
いろいろと考へてみて、私はまだ、はっきり、その理由を指摘することができないのである。
もうかれこれ十四、五年前のこと、ある雑誌社主催の講演会で、たまたま、久しぶりに北海道へ渡ったことがある。今でもはっきり覚えてゐるが、たゞの講演旅行とはおよそ違った興味と期待とで、私は、その勧誘に応じたのである。さう言へば、その時、私が一番楽しみにしてゐたのは、北海道がどんなに変ったらうか、といふことであった。
そのつぎに北海道を訪れたのは、昭和十七年の二月であった。真冬の北海道が一番北海道らしいにちがひないと思ったので、わざわざ用事をつくって出掛けたのである。この時も、北海道がどんな土地になってゐるかを、できるだけ自分の眼でたしかめたかった。
さて、さういふわけで、今年の六月、かねがね娘たちも北海道を見たいと言ってゐるので、私は、彼女らの希望をかなへるかたはら、自分でも多少調べたいことがあって、一週間といふ限られた日程の旅行を思ひ立った。
娘たちに、それとなく見せておきたかったのは、北海道といふ土地が、日本の一地方でありながら、どれくらゐ、ほかの土地と違ってゐるか、その違ひ方はどんな性質のものであるか、といふことである。もしそれを、自分の眼で発見し、自分の心で感じとるのでなければ、なまじっかな説明は無益であると、私は信じた。
かういふ風に述べて来れば、私の北海道といふ土地に寄せてゐる関心が、どういふたぐひのものであるかを、ほゞ限定できると思ふ。
私は、現実の諸条件を十分考慮に入れ、ことに日本人の智能の水準をまづ信用したうへで、北海道建設の歴史に、言ひ得るならば、新しい夢を托してゐる一人である。
狭くして、老いた国土の一隅に、なほ、北海道なる若く、力強い土地を残してゐることは、われわれ日本人にとって、なんたる幸であらう。過去の日本を腐蝕させ、ゆがめさせたものは、なにひとつ、この新しい土地に持ち運んではならぬ。津軽海峡に近頃時として浮流するといはれる機雷などは、かゝる侵入物を悉く沈める役にだけ立ってほしい、と思ふくらゐである。
三度の北海道旅行で、私のなし得た観察の範囲は、まことにお話にならぬほど局限されたものではあるが、それにしても、私は、ぢかに見るだけのものは見たつもりである。現代の日本人が、北海道といふ素材から、何を創り出しつゝあるかを知るのが、当面の問題なのではないか。私は悲観もしなければ楽観もしてゐない。その代り、註文は山ほどあり、予想のわりに実現の遅々たることにやゝしびれを切らしてゐる。
北海道の自然について、人はよく語るやうである。なるほど、地理的に日本の北端を占めるこの島が、満洲やシベリア大陸に似てゐてもちっとも不思議はない。まして、降雪量や原始林の広さなどは、いくらあっても、それほど自慢にはなるまい。たゞ、その自然に如何なる方法をもつて挑み、それをどの程度に生活内容と調和させてゐるかが、土地の繁栄と品位とを計る尺度である。
一旅行者である私たちは、到るところで、いわゆる観光施設なるものにお目にかゝるのであるが、観光とは、山や湖水や温泉を観覧せしめることではなく、それを取巻く人間の営みを含めて、一瞬でも異った空の下での生活の快適さを味はせることに外ならぬのを想へば、わが国の観光事業は根本から出直す必要がある。北海道は、その点、これからといふ部分が多いのは頼もしい限りである。
ある有名な湖のほとりにある温泉町に宿をとった時のこと、バスがその町にさしかゝると、すぐ眼についたのは、観光客歓迎の宣伝塔である。例によって、甚だ不体裁な形と色とを臆面もなく曝したものである。やがて、宿に着いて、偶然の話から、土地の小学校に油絵の上手な校長がゐて、町の子供たちがみな熱心に絵を習ふやうになったといふ噂が出た。宿にも、その先生の描いた静物が一点壁にかゝってゐる。
私は、ふと、疑問が湧いた。ほかの土地なら決して起らぬ疑問である。しかもその疑問は、一種の淋しさ、或は焦慮とでもいふやうな感情を伴って、私の気持を妙に暗くさへした。かゝる感情もまた、ほかの土地ではおそらく湧かぬであらう。北海道なるが故にである。それはなにかといへば、たった一人の絵心のある小学校の先生が、なぜ、この小さな町の美観を左右するやうな装飾塔の製作に協力を求められなかったのか、といふ不審と不満とである。
社会生活のやゝ健全なすがたを、せめて、北海道だけにでも、早く作りあげてほしいと、私はつねづね念じてゐるからである。
私たちの案内役を最後まで引受けてくれた北海道新聞のS君は、私の嘗つての教へ子であるが、私の「北海道らしいものを見せろ」といふ厄介な註文にさぞかし神経を疲らせたであらう。横暴な旧師は、今日、何々部長とかの椅子にある有能なジャアナリストをつかまへて、しばしば北海道の北海道らしからざる点を難詰した。彼の苦笑が私の眼にまだはっきり残ってゐる。
親愛なるS君よ、君は、私の欲する典型的北海道人の一人であるやうに思はれる。
私の比較的よく識ってゐる北海道産の二人の作家は、島木健作と久生十蘭である。文学の領域では、この両者は、ある意味でまったく相反する傾向を代表してゐるが、またある意味では、いづれも、北海道人特有の気質と、北海道人の二つの型をそれぞれに分ちもってゐると、私には信じられる節がある。
特有の気質とは、一途なところと、粘り強さであり、二つの型とは、計算型と空想型である。そして、この二つの型がまた、つねに清教徒的な(失敬! ピュウリタンにもピンからキリまであります)厳しさによって彩られてゐるのではなからうか。
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「婦人公論 第三十七巻第八号」
1951(昭和26)年8月1日発行
初出:「婦人公論 第三十七巻第八号」
1951(昭和26)年8月1日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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