外遊熱
岸田國士
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外国へ行つて勉強したいといふ青年が、近頃非常に多い。ちよつと流行心理のやうな一面もなくはないが、しかし、それ以上に、なにか止み難い要求が必然的に湧きあがつてゐるやうにみえる。
曾つての時代にも、いはゆる洋行熱と称せられたもの、猫も杓子も西洋を廻つて来さへすれば、いつぱし大きな顔ができさうに思はれた風潮があつた。それと比べて、今日の外遊熱は、いくぶん、性質のちがつたもので、ことに私の周囲にみられる熱烈な外国行きの願望は、たしかに、それによつて、若い人たちが真に生きる道を見出さうとする唯一無二の手段とさへ思はれるものが多い。
ところが、現在は、いろいろな事情で、その希望を実現させることが最も困難な時代である。出国手続の問題がその一つ、経済的な問題がその一つである。
しかし、手続の問題は、講和条約が締結され、国際関係が正常な形に復せば、これはさう面倒なことはないと思ふし、経済的な問題は、これこそ程度によりけりで、いつの時代でも、普通の外国旅行はなかなか金のかゝるものである。従来でも、金の心配をせずに海を渡るなどといふことは、官公費留学か、家に財産があるか、特志家のパトロンでもついてゐなければ、容易にできるわけのものでなかつたのである。が、それにも拘はらず、その何れにも該当しない境遇で、ともかくも、日本を離れ、幸運にも目的の土地を踏んだ若干の例外はある。
私もその例外の一人である。そして、そんなことは自慢にもなにもならぬが、たまたま外遊熱が盛んな今日、資力の点でその念願の叶はぬことを嘆く一部の青年たちに、私の場合を一例として挙げ、そんな方法もあるのかといふことを知らせるのは、まんざら無駄でもあるまいと考へた。断つておくけれども、気紛れな日本脱出の手引きをしようなどとは毛頭考へてゐない。
私がフランスに渡ることを思ひたつたのは、東大フランス文学科選科に在学中である。軍隊生活といふ廻り道をしたので、当時、私は二十六歳であつた。今日でいふアルバイト学生で、家庭教師などしながら生活費と学費とを稼いでゐたのだが、外国行の費用はもちろんどこからも出るあてはなく、そこで私は二年計画で、片道の旅費だけを作る算段をした。それにはちやうど、当時の白水社が新しいフランス語辞典の出版を企画し、先輩諸先生がその編纂に従事することになつたので、私はその下仕事をさせてもらふことにした。
前途に希望がみえたので、私は一所懸命に、それこそ昼夜兼行で、原稿を書いた。しかし、念を入れれば入れるほど、仕事が捗らぬのは当然で、予定の収入に達することはまづなかつた。二年目の夏が来た時は、一文の蓄へもなく、やゝ失望しかけたが、幸ひなことに、その夏、先輩諸先生と共に開いたフランス語講習会が思はぬ成功ををさめ、私は、金一封の餞別をもらつた。実は、金ができなくつても、その夏は是が非でも日本を離れる決心をし、白水社々長Fさんに形式的な身元保証をしてもらひ、パス・ポートだけは取つておいたのである。
どうするつもりだつたかといふと、私は、横浜か神戸で、欧洲通ひの貨物船をさがし、船長に頼んで、手頃な雑用をあてがつてもらふといふことであつた。虫のいい話だが、事情を述べて懇望すれば、或は、それならといつてくれる船長があるかも知れぬと思つたのである。
横浜で二隻、神戸で三艘の貨物船を訪れ、相手の顔色に頓着なく、私は、自分の希望をまくしたてた。今、思ひ出しても可笑しいのだが、ハシケが船腹に着いて、船長に会ひたいと申込む瞬間に、一種の予感があつて、船長の態度があらまし予想できた。ケンもホロロに突つぱねるもの、冷然と聞き流して、皮肉な断り方をするもの、真面目に耳を傾けた揚句、なんとかしてやりたいが、会社の規則で、絶対に直接交渉で人を乗せることは禁ぜられてゐるからと、残念さうに言つてくれるもの、至極あつさり、普段ならわけはないが、ちやうどこの頃上海にコレラがはやつてゐて、どんな名目でも定員外の人を乗せてゐるとあとがうるさいからと、事務的に言ひ渡すもの、など、まちまちであつたが、私は、もう、この手は利かぬと諦め、神戸から台湾航路の三等切符を買つた。細かく計算してみると、香港まで一番金をかけずに行き着けるのはこのコース、即ち、基隆から汽車でタカオに下り、そこから、船で香港に渡るコースだつたし、香港に渡りさへすれば、あとは大陸続きだから、歩いてでも行けると肚をきめたのである。
それでも、タカオから半貨物船の船底の三等室に入れられると、私は悪寒を催し、熱をはかると四十度である。しかたがなく、部屋をかへてもらふと、忽ちいい気分になつた。タカオから香港まで十円ですまさうとしたのが、この結果を生んだのである。
香港に着いた時は、懐中、五十円足らずで、安閑としてゐられないから、早速当座の仕事を探さうと思ひ、とりあへず紹介をもらつてゐた友人I君のお父さんを、その勤め先である日本人経営のHホテルに訪ねた。
幸運が私を待つてゐた。I君のお父さんからも口添があり、私も自分で出向いて就職の申込をした甲斐あつて、三井支店の現地傭なる名義で、仏領印度支那ハイフォンの出張所詰を命ぜられ、即刻新任出張所長の仏語通訳として現地に赴任といふことになつた。
やがて、仏国船の一等船客として、香港を出帆、意気揚々ハイフォンに上陸した。
現地傭といふのは正式社員より数等格が落ちるとみえて、月給は極めて少い。同年配の外語出の社員の三分の一ぐらゐ、即ち、八十ピアストルといふわけで、対等のつきあひはもちろん出来ない。しかし、生活費をうんと切りつめれば、その半分ぐらゐでやつていけるから、半分を蓄めておくとして、一年半かゝれば、マルセイユまでの船の三等切符が買へるわけである。楽しみでなくはない。
計算はその通りだが、実際は、生活費に月給はまるまる飛んでしまふのである。この調子では何年先にこの土地を離れられるかわからなくなつて来た。大陸横断の無銭徒歩旅行が最後の手段として残されてゐるけれども、いくぶんでも易きにつかうとする誘惑はなかなか強い。
さあ、こゝまで話して来ると、いくら人聞きがわるくても、事実を事実として語らないわけにいかなくなつた。
誰でも知つてゐるやうに、植民地の日夜はカルタ遊びと切り離しては考へられないくらゐである。私は、薄給にして大望を抱く身であるから、決してその仲間入りはしない覚悟であつた。ところが、ある晩のこと、同僚の一人が、一度だけ試しにやつてみろと勧めるので、つい乏しい懐中を気にしながら、カルタを手にとつた。最初のうちは敗け続けであつた。マイナス札が山と積り、どうなることかと思つたが、そのうちに、勝つ番が廻つて来た。そして、最後に、九百いくらといふ勝越しで、私はホッとした。
朝になると、私は、その金をもつて、船会社へ駈けつけた。ラミラル・ポンチ号二等室のベットを予約した。それから、事務所へ顔を出して、所長に辞職を申し出た。
その夜、同僚いくたりかを土地の料理店に招いて別宴を張り、生れてはじめて、羽化登仙の夢を見た。
航海中の小遣を節約すればパリまでの汽車賃が残る筈であつた。私は大胆になつてゐた。マルセイユに上陸しさへしたら、あとはどうにでもなると考へた。パリまでの汽車賃が意外に安いので助かつた。一九一九年一月十日、私は、ガール・ド・リヨンといふパリの停車場に着いた。日本を離れたのが前の年の七月末日であるから、約半年かゝつて目的地に足を踏み入れたわけだが、その時、懐中わづかに十六フランしか残つてゐなかつたことを覚えてゐる。十六フランといへば、当時、安ホテルへ一泊して朝食を食へばおしまひになるほどの金額である。
こゝでもまた、私は、幸運に恵まれてゐた。一足先にパリに来てゐる先輩のT・Hさんを訪ね、今後のことを相談した。T・Hさんはいやな顔もみせず、私の無謀を笑ひながら、何か考へておかうと言ひ、早速知合ひの日本人を通じて、当時、日本大使館内におかれてゐた講和条約実施委員会のオフィスに勤め口を見つけてくれた。月給六百フラン、まづ、パリに於ける地味な学生生活の標準がそんなものだといふことが後でわかつた。
普通の部屋代は百五十乃至三百フランといふ相場であつたが、私は、ソルボンヌ大学のそばで、六十フランといふ屋根裏の部屋を探しあてた。それで芝居を観る費用が若干浮くと思つた。
外で食事をすると、どんなに安くあげようとしても三フラン以上かゝる。半年後に、ある特別な学生食堂のやうなものをみつけ、そこでなら、腹いつぱい食つて二フラン七十五サンチームであがることを発見した。二十五サンチームの違ひはバカにならない。一ヶ月でコメディイ・フランセエズへ一回余計通へる勘定である。
それからいろいろのことがあつた。浮沈といふのもをかしいが、失業同然で明日のパンが口へはいるかどうかわからぬやうなこともあり、突然、ある国際会議へ通訳として傭はれ、日本貨にして千円、フランにして八千近くといふ柄にもない収入で、半年あまり、ちよつと贅沢の真似をしてみたこともある。
ほんとを言ふと、なにひとつとして、はつきりした目あてがあつたわけではない。常に行きあたりばつたりで、屡々先輩友人の好意に甘え、時としてまつたく偶然に運を拾ひ、困難な道がおのづから開けたといつていいのである。
海外に、渡るといふことだけを目的と考へれば、かういふ方法もないことはないのである。誰でもこの通りのことができると保証はできないし、運がわるければ道中野垂れ死にの憂き目に逢ふかも知れないが、この種の行動は、決して、二つのものを秤にかけたら実践にうつすことはできない。飽くまでも、一つのものを目指して突進する衝動の如きものが必要なのである。
たゞ、私がこの話と思ひ合せて、かへすがへすも遺憾に思ふことは、せんだつて、ある一人の美術学生が、かねてフランス行きを希望してゐたらしいのだが、その学生の死体がある日、某海岸に打ちあげられてゐたといふ、悲しむべき事実を耳にしたことである。それは、調べによると、その学生は、多分横浜からであらう、アルヂェンチンから来た船で彼地へ密航を企て、途中で発見されたといふことまでわかつた。発見された後、或はその瞬間、彼は、神妙に法の裁きを受ける代りに、海中へ身を投じたらしいのである。多分泳いで安全な場所へ身を寄せるつもりだつたかも知れぬが、大洋の真つただ中で、それは、不可能だつたにちがひない。空しく死体となつて、一度離れ去つた故国の岸に流れ着いたのである。
こんなバカ気た、しかし、あはれきはまる話があらうか。
どんな動機からであらうと、これは無茶といふものである。苟くも生涯を賭けるべき仕事を目指して、修業の途につかうとするもののとるべき手段ではない。これに比べれば、私の方がずつと図太く、かつ、計画的だつたと言へる。
私の経験から言へば、外国に渡り、彼地でなんとか生活し得るためには、なにはともあれ、その国の言葉をある程度身につけておきさへすればいいのではないかと思ふ。言葉が通じ、からださへ丈夫なら、何処へ行つても決して食ひはぐれることはない。そんなら、どこの国にも失業者はゐない筈だといふかも知れぬが、それはちよつと問題がちがふ。君は二つの言葉を話す特別技能者なのである。
もう一つ言つておきたいことは、外国生活は平均して日本の生活よりは金がかゝるやうに思はれてゐるが、為替相場の関係で円が非常に安い時は別として、国際経済のバランスがある程度平常に復したら、日本で暮すのと殆ど大差ない金額で、少くとも、ヨーロッパ大陸では、生活ができるといふことを、まだ一般の人が知らずにゐるやうに思ふ。遠からず、さういふ時機が来るにちがひない。東京なり京都なりで、仮に家から金を送つてもらつて勉強してゐる学生は、それだけの金で、或は、多少の増額の程度で、パリに行けるやうになると思ふ。その代り、往復は貨物船に便乗することにすれば、旅費も少額ですむ。フランスへ出掛けることなぞ、さう大袈裟に考へる必要はない。一応は無理をしないで行く方法を考へ、さういふ機会を間違ひなく捉へる努力をすべきであるが、それもダメだとわかつたら、最悪の場合の用意と覚悟とをもつて、冷静に一歩一歩、可能な範囲で目的に近づくための最後手段を撰べばいいのである。
アメリカやイギリスのことは私は知らない。フランスだからとて、公然と、裸一貫の外国人に入国を許すやうなことはしない筈であるが、そこは、人間がいくぶんでも持つてゐる信用を利用して差支ないと思ふ。白水社々長F氏が、私の保証人になつてくれたやうなものである。私はさういふ人に絶対迷惑をかけないつもりであつた。いくぶんの援助を求めたことはあるが、実際は無一物の私にパス・ポートがとれたのはF氏のおかげだから、私はF氏の信頼に応へなければならなかつた。
外国で貧乏してゐると、とかく同胞のだれかれに金銭上の負担をかけることになるやうだが、その結果、さういふ人物は、同胞間の評判が常にわるい。しかし、同じ貧乏でも、故青山熊治の如き超然たる赤貧ぶりに出会ふと、たいがいのものは度胆を抜かれずにゐられまい。彼は、多くの日本の美術家のうちで、パリに於ける凡そ最低の生活に甘んじた記録の保持者であらう。自ら可なり貧乏なりと信じてゐた私の遠く及ばざるどん底の暮しを、至極呑気らしく送つてゐた。私はたびたび彼に会ひ、彼の仕事に尊敬を払つてゐたばかりでなく、その人間にも非常な親しみを感じてゐた。絵具代がないといつて困つてゐる。私は自分の非力を悔んだ。彼は、その後、いい土産をもつて日本に帰つて来たが、間もなく世を去つた。
青山熊治ほどではなくても、これに近い貧乏暮しをしながら絵筆を捨てずにゐる多くの画家がパリにはゐる。私の知つてゐる範囲では、イタリア人モヂリアニがその一人であつた。貧乏といへば、新劇団ピトエフ一座の面々である。ピトエフ夫妻も生活は質素であつたが、その下にゐる俳優は、誰一人として冬のオーヴァーを持つてゐるものはなく、芝居がはねてから、一杯のカフェーが飲めるか飲めないかであつた。特に、記憶に残つてゐるのは、私とよく一緒にカフェーを飲んだミシェル・シモンであるが、彼は、今日映画でみるあの通りの調子で、「おれはもうダメだ。芝居ではとても食つて行けん」とこぼしてゐた。
なぜこんな話をするかといふと、日本人の多くは、その目的はなんであれ、パリで案外楽な生活をしてゐたといふことである。もちろんそれだけの資格があるのだから別にそのことを云々するのではないが、さういふ標準の生活をしなくつても、もつといくらでも生活のしかたがあり、外国人といふハンディ・キャップを早く取り去れば、おそらく今日の為替相場と物価標準で、月一万円乃至七、八千円の予算なら結構やつて行けるのではないかと思ふ。
私は、今ことさら、外遊熱を唆る気はなく、まして、猫も杓子もその必要があるとは思はぬし、自分のことを語るのはなかなかむづかしくて躊躇もしたが、ほんとに外国で勉強したらいいと思ふ青年諸君に、若し私の述懐がなんらかの参考になれば幸せだと思ひ、編集者の勧めに従つてこの一文を筆したまでである。
底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「世界 第六十四号」
1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「世界 第六十四号」
1951(昭和26)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2011年9月25日作成
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