述懐
岸田國士


 真夜なかにふと眼が覚めた。パリの下宿の一室である。どうして眼が覚めたのか、と、その瞬間、自分にもわからなかつた。夢を見てゐたやうな気もするが、どんな夢か覚えてゐない。たゞ妙に口の中がなまぐさく、さう気がつくと、顔に冷たいものが触れ、夜具の襟をそつと撫でてみる。べつとり濡れてゐる。傍らの台ランプに火を点ける。すると、私の上半身が、正面の戸棚の鏡に映つてゐる。私は愕然とした。

 なんの予告もなく、前日まではぴんぴん飛びまはつてゐた私に、喀血、しかも、眼をおほひたくなるやうな大喀血が見舞つたのである。

 私は着物を着かへ、寝床の始末をし、静かに、再び横になつた。

「やつぱり直つてゐなかつたのか」と、その時、私は、自分の病歴を想ひ出した。

 十六の時、幼年学校在学中、軍医から肺尖カタルの宣告を受けて三月ばかり入院したことがあり、十八歳の時、士官候補生として九州の連隊で勤務中、同じ病名で二月あまり別府の療養所へ送られたことがある。そして、任官後、その病歴が役に立つて、軍籍を離れることができたのである。

 それから、三十三になるまで、胸の病気などといふことは考へたこともなかつた。

 専門医の診察を受けると、さう心配するほどの容態ではないから、しばらく転地でもして、からだを休めろといふので、私は、無理をしてピレネエ山麓にある避寒地ポオといふ街へ出かけた。が、その後別にからだの調子もわるくないので、すぐにパリへ舞ひ戻つて、芝居見物を毎晩つゞけた。

 日本へ帰つたのは、それから半年後であるが、学校の教師をはじめると間もなく、血痰をみるやうになり、医者のすゝめで、私は学校をやめて辻堂海岸に移つた。ぼつぼつ書きものをしてどうやら生活の資を得られるやうになつてゐたからである。

 ところが、ある夏、房州館山へ所用があつて出掛けると、旅先で風邪をこじらせて肺炎になり、肺炎がやつとおさまつたと思ふと、またまた相当量の喀血で、医者から絶対安静を命ぜられ、私の闘病生活がはじまつた。しかし、最初のうちは、精神的な落ちつきを得ることができず、一度は危篤状態に陥つて、周囲を騒がせた。私がほんとに希望と信念とを与へられ、文字どほり、神妙に医者の言葉を守りはじめたのは、先輩友人の激励と院長保坂博士の指導よろしきを得た結果である。

 数ヶ月後に、私は、忠実な看護婦に附添はれて辻堂の宿に帰ることができ、保坂博士の紹介で、新しい主治医溝淵博士の献身的ともいふべき治療を受ける幸運に恵まれたのである。

 多少の一進一退はあつたけれども、翌年の春からは、もう、執筆の自由が与へられ、それ以来、かなり無理な仕事をしても、別段障りもなくなつた。

 そして、去年、還暦といふわれながら不思議な生き方をしてしまつたのである。


 この病気は、私の経験からいつても、またひとの場合をみてゐても、常に、二重苦、三重苦によつて、その不幸が倍加されてゐるやうに思ふ。即ち、病気そのものが与へる不快、不安、不自由と、更に、自分が病気であるために直接間接に生じる不快、不安、不自由との複雑な悩みである。

 誰でもいふことであるが、身体の安静はまづ保つことができても、精神の安静を保つことはなかなかむつかしい。

 私の例をいふと、パリで喀血した時は、生命への執着がわりに薄かつたためか、さほど病気を苦にしなかつた。しかし、日本へ帰つて自分の仕事を始めてみると、このまゝ死ぬのはやりきれぬといふ未練が、病気の形相を必要以上におそろしいものにした。その時、私の精神に与へられた最も有効な鎮静剤は、保坂博士が私の病床へ置いて行つてくれた二冊の書物であつた。一つは茂野吉之助氏の「肺病に直面して」であり、もう一つはアメリカの医師、たしかにランドルウとかいつた人の「結核征服」である。

 これを読みながら、私の暗黒な前途に忽然として点された光明を今も忘れることができない。

 私の敵は、その時から、たゞひとつ結核菌であるといふことを発見した。この敵に打ち克つために、何が必要であり、この敵の力を増大せしめるものが何であるかを、はつきり自覚した。

 家人の顔色はしばしば敵の利用するところとなるし、見舞客の長座は最も味方の兵力を磨り減らす。戦闘の勝敗のために、一切が賭けられてゐることを、患者自身はもとより、周囲の者がみな心得てゐなくてはなるまい。

 しかしながら、すべては思ふやうにならぬものである。病気は永びき、再起の日はいつのことかわからぬ、といふ状態のなかで、なほかつ、生きるための手段をあれこれと考へなければならないやうな時、私は、病身をひつさげて、仕事をつづけてゐる人々のあることを心強く想ひ浮べる。倒れては起き倒れては起き、そして、例へば癌研究といふやうな大事業に生涯を捧げた山極博士のやうな人の存在は、なんといふ慰めであり、励ましであらう。山極博士に限らない。現在、私の、知る限りでも、病を養ひつゝ或る程度の仕事に身を入れてゐる人たちがいくたりもゐる。それもひとつの立派な生き方である。

 健康そのものではあるが、生涯、なにひとつ目星しい仕事はできなかつたといふ人々が数限りなくゐるのである。病気は、直せるものなら直した方がいゝが、そればかりに気をとられて、なにもしないでゐる生活は、決してほめた生活ではない。自分の体力の限界を知り、それに応じて、エネルギイを蓄積しながら、徐々に自分が向はうとする方向に進んでいくことが、人間として望ましい生き方ではないかと思ふ。

 一番愚劣なことは、肺結核といふ病名におびえ、絶望的となり、わざわざ無軌道な生活を営むことによつて、徒らに生命を短くすることである。もとより、これは、医学的知識の無いところから来る。

 そこで、私が今、なによりも大切だと思ふことは、医師の患者に対する態度である。療養といふことの意味を、具体的に説き示す手間を惜しんでは、医師の責任は半分果されてゐないも同然である。

 開業医にそんな暇はない、といふ声を聞く。さうかも知れない。それなら、彼等に代る社会施設なり、専門の指導者なりを作つたらよい。結核患者にとつて、如何にして病気を直すかよりも、如何にして毎日を暮すか、の方が実際的な立場から先決問題だと思ふ。この点を見逃がして、肺病の治療を云々するのは可笑しな話である。


 はじめて戸外の散歩を許された時、私は主治医の溝淵博士から、事細かに、散歩の方法についての指導をうけた。最初の数日は何分間、しかも、坂道を絶対に避け、出来るだけ緩慢な速度で歩くこと。次の数日は、いく分時間を増し、更に次の数日は、緩斜面の登り降りを加へ、散歩を終る前は平地をしばらく歩くこと。常に杖と時計を携へ、脈搏の数が平常数より多くなつたら、直ちに停止、休息をとること、など、厳重に守ることを命ぜられた。

 かういふ注意を与へてくれる医者もさう多くあるまいと思ふが、それを正直に守る患者も珍しいに違ひない。私は、実は、面白半分にそれを守つた。ところが、かなり長い時間の散歩を許されるやうになり、ちよつと油断をして、歩く速度を早めた。雨が降りさうになつたからである。家へ帰ると、果して、微熱が出た。そして、その夜、血痰を吐いた。原因が明瞭なので、私は、ガッカリした半面、安心した。もう一度やり直す勇気が出た。

 私の結核は、私と結核との抱合せからできてゐるのだから、誰の結核とも違ふのが当り前で、私がかうして直つたから、誰でもさうすれば直るときまつたわけでもあるまい。まして、結核そのものの症状にもいろいろあるといふことになれば話はいよいよ複雑だ。

 しかし、私はたゞ、自分で結核の味方になり、無益に自分を苦しめる愚かさを敢てしてゐることに、多くの人々が気づいてゐないやうに思はれてしかたがない。


 日本に結核が多いことは周知の事実だが、その原因がまだはつきり突きとめられてゐないやうな気がする。

 なるほど予防医学なるものも近来発達し、わが国でもそれに注意が向けられて来た様子だが、予防医学の応用だけで、その原因を除けるものと、私は思はない。

 それは第一に、日本人の体質に関係があり、第二に、日本人の体質を現在のやうなものにした生活自体に、その原因の最大な要素が含まれてゐると思ふ。

 体質から言へば、結核に対する抵抗力が弱いといふこと、生活から言へば、結核に犯され易く、しかも、その暴威を振ふまゝにさせるやうな形式的、精神的の条件がそろつてゐるといふことである。

 体質については、あまり専門的なことは言へないが、ともかく、先天的にも後天的にも、一般に恵まれた体質のものは少く、どこかに欠陥があることは想像に難くない。しかし、生活の面からみると、私の観察によれば、日本人は、生れ落ちるから、常に、非常な無理を重ねるやうな生活を強ひられ、健康の上から避けた方がよいことを平気で繰り返し、精神的にも、なにかしらに絶えず脅かされ、自由闊達の気質に乏しく、神経が異常に尖り、なにごとにも焦ら立ち易く、人が集れば楽しいことより不愉快な目に遭ふことが多く、なにによらず、手数と手間がかゝりすぎ、遠慮、我慢、泣き寝入、味気なさが、生活の隅々を覆つてゐる。これをひと口に言へば、不必要に「疲れる」要素が生活のなかに満ち満ちてゐるのである。そして、その上、われわれは、「休む」といふことをほんたうに実行しない。「休む」時間に休まうとしない、或は休む方法を知らない同胞のすがたを、なんとみるかである。

 日本人は、たしかに、いつでも多少疲れたまゝで、それが普通の状態だと思つてゐるようにみえる。乗り物のなかで、真昼間から居眠りをしてゐる人々の数がどんなに目につくか、これは決して当り前の風景ではない。

 日本人の、この生活のしかたの「不味さ」は、単に健康の問題として取りあげらるべきではない。もつと広い文化全体の問題であるけれども、少くとも、結核撲滅を叫ぶ以上、先づ、われわれの貧しい生活技術の上に反省を加へなければ、それは百年の計とは言へないと思ふ。健康的な生活とは、今のところ、われわれにとつて、先づ、不必要に疲れない生活、十分の休息がとれる生活である。自分のためにも、人のためにも、これだけは常に考へてゐていゝことだと思ふ。

 これは、私の愚痴でもなんでもない。かういふところにも、まだまだ、どうにかなる希望が残されてゐるといふ意味である。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店

   1992(平成4)年617日発行

底本の親本:「続眠られぬ夜のために」四季社

   1951(昭和26)年320日発行

初出:「続眠られぬ夜のために」四季社

   1951(昭和26)年320日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:noriko saito

2011年219日作成

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